ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

ヒッチコックの映画「サイコ」を見て、人々を魅了するコンテンツの質イコール「リズム感」だと気づかされた

f:id:kiku9:20170505081950j:plain

 

 

「どうやったら怖くなるか?」

私はその時、ゾンビ映画を作っていた。

 

大学時代には自主映画作りにはまっていた私であるが、どうしても自由が効く大学3年生のうちに作りたかった映画があったのだ。

それは子供の頃から好きで仕方がなかったパニックものの映画だった。

 

ジュラシックパーク」や「ジョーズ」が死ぬほど好きで、子供の頃にはほぼ毎日見て、セリフも全てもシーンも頭に入っているくらい見まくっていた。

 

ラストシーンに向けて、緊張感が高まるサスペンスがいい感じに効いていて、今見ても楽しめる映画だと思う。

あの緊張感高まるサスペンスを自分でも作ってみたい。

そう思って、学生時代にはサスペンスの巨匠ヒッチコックのほぼすべての映画を見て、人を惹きつけるサスペンスというものを研究していった。

 

厚さが親指ほどもあり、総重量2キロぐらいのクソ重たい「定本ヒッチコック映画術」を読み、ヒッチコックが作り上げたサスペンスというものを考えていた。

大学の授業中などは、教授の話をスルーして、ずっとこの本を読んでいたのだ。

 

何度も何度もヒッチコックや、彼の影響を受けたスピルバーグの映画を見ているうちに、自分でもハラハラドキドキする展開があるサスペンス映画を作ってみたい思ったのだ。

 

殺人事件を題材にしたミステリーなら多くの学生映画で作られていた。

自分にしかできないものはないか?

そう考えているうちに

「そうだ! ゾンビ映画を作ろう」と思い立ったのだ。

 

学生映画でホラーを作るのは難しいと言われている。

まず、血糊をばら撒ける環境がない。

それに雰囲気を出すために、暗いシーンを撮らないといけないが、暗闇でも耐えられるレンズとなるとどうしても単焦点が必要になってくる。

お金がない学生にとっては、5万もする単焦点レンズを買うのはだいぶ厳しいことだった。

 

それでも私はなんとかして、ゾンビ映画を作りたいと思い、暗闇でも捉えることができるカメラを探して行った。

私が持っていたカメラはGH2という古いモデルのカメラだった。

普通の状態では、どうしても暗闇で撮ろうと思っても、画質が荒くなり、人間の動きを追うことができない。

 

しかし、とあるサイトからGH2をハッキングして、ピットレートを上げる方法があることを知った。

このピットレートなら暗闇でも高画質で撮ることができるかもしれない。

そう思い、私は早速、理系の友達に頼み込み、自分のGH2をハッキングしもらい、アップグレードを施してもらった。

 

約1時間ののち、アップグレードしたGH2を手にし、私は衝撃が走った。

めちゃくちゃ高画質になっていたのだ。

 

これなら暗闇でも映画を撮ることができる。

そう思った私は早速、ゾンビ映画の制作に着手することにした。

ハロウィーンのゾンビメイク特集のサイトを読み漁り、素人でもできるゾンビメイクの仕方を研究していった。

 

家の風呂場に一人で閉じこもり、100均一で買ったアイシャドウと、はちみつと食紅で作った血糊を使った、自分の頬に傷メイクを作っていった。

 

意外と傷メイクは500円ほどでできるものだ。

血糊とアイシャドウと二重のり、はちみつを使えば、案外簡単にゾンビメイクができあがった。

 

今見ても相当グロいと思う。

 

家の風呂場に夜な夜な閉じこもって、グロテスクなゾンビメイクのことを研究していると、母親からは「あんた一体何をしているの?」と何度も怒られてしまった。

 

このゾンビメイクならいける!

私はそう感じた。

 

このゾンビメイクなら学生映画とは呼ばせない質のゾンビ映画が作れるのでは?

と思ったのだ。

 

約40人以上の人に集まって、映画に携わってもらった。

夜な夜な大学に忍び込み、大量のゾンビを出現され、撮影をしていると

「夜に教室で、怪しい格好の男たちが変なことをやっている」

と噂が立ち、3回ほど事務室に呼び出されてしまったこともあった。

 

血糊をばら撒きながら、突貫工事のように怒涛の撮影を進めていると、サスペンスの難しさを身にしみて感じるようになっていた。

 

これって編集でつながるのか?

そうずっと疑問に思ってしまい、怖くなってきたのだ。

何10人という人を巻き込んでいるので、「できませんでした」ということはできない。

私は撮影をしていないときでも片っ端からサスペンスやホラー映画を見まくっては研究し、どうしたら怖くなるのか? ということを考えていった。

 

 

怒涛の撮影も中盤になり、後半戦に入る前に、これまでに溜まっていた映像データを集め、編集していくことにした。

 

編集作業でカットの撮り忘れなどがわかれば、後半の撮影で補うことができるので、私はいつも撮影が半ばまで終わると同時に、編集作業もはじめて行っていた。

 

編集をしていくうちに、私は途方に暮れていた。

全く怖くないのだ。

 

壁のきしむ音が響き渡ると、主人公が恐怖を感じ、身動きが取れなくなるというシーンがあったが、全くサスペンス感がなく、平凡なシーンになっていたのだ。

 

こんなに恐怖演出が難しいなんて……

 

なんだかんだ小説もアニメも同じだと思うが、

見る人に恐怖やサスペンスなどを植え付けるのは途方もなく難しいことなのだ。

恋愛映画や青春ドラマに比べても、圧倒的にホラー演出が難しいと思う。

 

実際に作ってみて、ホラー映画の難しさを嫌という程痛感した。

東野圭吾さんのあのサスペンス小説の凄さ……

読者の好奇心をくすぐる展開……全て計算尽くしていないとできない職人技だと思う。

 

私は編集をするたびにどうしたら怖くなるかということを必死に考えていった。

どうしたらスリルあるサスペンスを作れるのか?

 

私が一番悩んでいた場面は、登場人物がゾンビに喰われる場面だった。

ゾンビの効果音をつけても、平凡な男が登場人物にのしかかっているようにしか見えず、全く恐怖を感じさせないのだ。

 

 

こうなったら先人たちに聞くしかない。

 

 

そう思った私はもう一度、サスペンスの巨匠ヒッチコックの映画を見直して、人をハラハラドキドキさせるサスペンスというものを考えていった。

ヒッチコックの映画で一番好きだったのは「サイコ」だった。

あの有名なシャワーシーンは映画史に残る名場面になっていると思う。

 

私は何度も「サイコ」を見て、どうしたらサスペンスを生み出せるのかを研究していった。

何度も「キャー」と女性が泣き叫び、シャワーで虐殺されてしまうあの有名な場面をDVDで再生させ、サスペンスを考えていったのだ。

そんな私の姿を見かけた母親は「この子はついに気が狂ってしまった」と思ったらしい……

 

 

私は何度もヒッチコック映画のDVDをレンタルし、見直していった。

すると特典映像の中に、頭にこびりつくコメントがあったのだ。

 

古典的映画として有名なヒッチコックは、サスペンスの元祖として多くの映画でオマージュされている。

かの有名なスピルバーグ監督も相当ヒッチコックの影響を受けているようで、「ジュラシックパーク」などを見ると、どこかしらヒッチコックの「鳥」と似たような場面が散らばっていた。

 

特典映像の中でもスピルバーグやらブライアン・デパルマやら、いろんな人がヒッチコック映画への思いをインタビューでまとめられてあったが、妙に頭にこびりついたのは、マーティン・スコセッシ監督のコメントだった。

 

マーティン・スコセッシ監督は日本では「沈黙」が公開されて知った人も多いかもしれない。

タクシードライバー」など人間ドラマを扱う映画を得意とする監督だ。

 

マーティン・スコセッシ監督の作風ならヒッチコックのサスペンスの影響受けてる気がしないけどな……

 

私は人間ドラマを描く彼の作品に、殺人事件のサスペンスを扱うヒッチコックの影響を見ることができなかったのだ。

 

一体何に影響を受けたのだ。

 

特典映像の中でマーティン・スコセッシ監督は映画「サイコ」への思いを熱く語っていた。映画的な技法で相当参考にしていった映画らしい。

 

彼は何度もあの有名なサワーシーンを見直したと語っていた。

そして、彼の有名な映画であのシャワーシーンを再現したらしいのだ。

その映画とは「レイジングブル」だ。

 

え? 「レイジングブル」でサイコ」のシャワーシーンを彷彿されるような場面あったけ?

 

私はそう思った。

レイジングブル」とは伝説的なボクサーの半生を描いたボクシング映画である。

「サイコ」のような殺陣シーンはどこにも描かれていない。

 

一体、どこにヒッチコックの「サイコ」の影響を受けたんだ?

そう思った私は映像特典を最後の方まで見ていった。

 

マーティン・スコセッシ監督はこう言っていた。

「血に染められたボクシングシーンはサイコのシャワーシーンを参考にして撮ったんだ。グローブを、ナイフに見立てて、シャワーで虐殺される時と同じリズムで、主人公が相手にボコボコにされていくリズムを作ったんだ。なぜかはわからないが、ヒッチコックが生み出したリズムを使うと、画面に緊張感が伝わり、強烈なシーンになるんだ」

 

 

ボクシングのファイトシーンは、実は「サイコ」のシャワーシーンを参考にして、編集されたものだったのだ。

「サイコ」ではモーテルにたどり着いた主人公は、ある人物にナイフで刻み込まれ、虐殺されてしまう。その時に、あの有名なテーマソングが流れてくる。

 

その時に、ナイフで切り刻まれるリズムが「トントン ッタ トン」と独特な三拍子のリズムになっていて、緊張感が煽られるのだ。

 

どうやらそのリズムをマーティン・スコセッシ監督は自身のボクシング映画「レイジングブル」で、緊迫したファイトシーンを捉えるために編集で使ったらしいのだ。

 

まさかナイフをボクシンググローブに置き換えて考えているとは……

 

私はこのヒッチコックが編み出した独特なリズムを自分が作っていたゾンビ映画でも使ってみることにした。

 

「トントン ッタ トン」

という独特なリズムを編集で細かく加工し、実際に怖くなるのか試したのだ。

すると、面白いことに怖くなるのだ。

不思議なことに強烈なシーンに変わるのだ。

 

ゾンビが主人公に襲いかかる普通のシーンだったが、ヒッチコックのリズムを取り入れることで怖くなったのだ。

 

なんだこのリズムは……

 

なぜか体の中にまでそのリズムが叩き込まれるように、そのリズムを聞くと緊張感が倍増するのだ。

ヒッチコック凄すぎる……

 

 

私はそのヒッチコックのリズムを随所にゾンビ映画の中に取り入れていき、なんとか映画を完成させることができた。

出来上がった映画を妹に見せて、一度反応をうかがってみることにした。

すると、「キャー」

私が意図していた場面で怖がってくれたのだ。

ヒッチコックのリズムを使った場面で最高に怖がっていたのだ。

 

やはり、サスペンスはリズムなんだ……

私はそう感じた。

 

あらゆる芸術的な表現は、根底にリズムがあるんだ。

 

 

 

小説家も文章を書く上でリズム感というものをとても大切にしているという。

村上春樹は自身が大好きなジャズの音楽を参考にしながら小説を書いているらしいのだ。

 

去年メガヒットした「君の名は。」の新海誠監督も相当リズム感を大切にする人だ。

インタビューで神木隆之介くんが何度も答えていたことなのだが、監督のリズムに合わせて声を取り直したらしい。

 

「あの日、星が降った日。それはまるで、夢の景色のように、ただひたすらに美しい眺めだった」

 

とオープニングで古今和歌集を彷彿させる独特なリズム感で登場人物の滝くんと三葉のセリフが読み上げられるが、それも監督が体の中に持っているリズム感が画面に現れているのだと思う。

 

独特なリズム感があるので、あの美しい世界感が生まれているのだ。

よく考えたら何千年も長く伝わる物語には、物語自体のどこかしら独特なリズム感があると思う。

新海誠監督に影響を与えた、古今和歌集など、小野小町が作り上げた鮮やかで独特な文体やリズム感があるからこそ、1000年以上多くの人に語り継がれる物語になっているのだと思う。

 

 

キリスト教の聖書も、文体から滲み出ている独特なリズム感があるからこそ、世界中の人に今も読み継がれているのだと思う。

 

 

総合芸術と言われる映画でも、人を引き付けるのは監督自身が奏でる独特なリズムなのだと思う。

シーンとシーンをつなぐ、カットから滲み出ているリズム感が人の意識に入り込み、脳内に刺激を与えるのかもしれない。

 

 

映画を見ていても、所詮セリフなどは見終わったらすぐに忘れてしまう。

しかし、監督が奏でる独特なカット割りのリズム感はずっと頭の中にこびりつく。

まるで、交響曲を奏でるモーツァルトのように、優秀な映画監督ほど、独特なリズム感が体の中に備わっていて、そのリズムが映画本編にも滲み出ているのだ。

 

 

 

 

人を魅了するコンテンツの根底にあるのは、その人自身が奏でられるリズム感を持っているか持っていないかの違いなのかもしれない。

 

人を魅了する物語の根底にあるのは、究極のところ音楽なのだと思う。

その独特なリズム感を見極められるかどうかが、人を惹きつけるクリエイターになれるかどうかの境目なような気がするのだ。

 

サスペンスの巨匠ヒッチコックはその独特なリズム感に気づき、映画を撮っていたのだと思う。

だからこそ、今でも彼が作り上げたサスペンスという定義は、ありとあらゆるクリエイターたちに影響を与え続けているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苔寺で写経しているうちに、私はワタミ社長、渡邉美樹さんの言葉を思い出していた

f:id:kiku9:20170504100810j:plain

 

 

何度もこのブログでも書いてきたことなのですが、株式会社ワタミの渡邉美樹さんが書かれた「強く、生きる。」という本が今年に入っての私のベスト本の一つになってます。

 

ページを読んでいくとともに、20代から経営の世界で戦い続けた渡邉美樹さんの人柄がこれでもかと滲み出てきているのです。

読んでいるうちに、気がついたらページの端を折り曲げ、いつでもどこでも読み直せるように持ち歩いているほど、私はこの本に刺激されてしまいました。

 

コミュニケーションに悩んでいた私はこの本から人脈というものを学びました。

人脈というものの正体 - ライティング・ハイ

 

仕事はお金を稼ぐためにあるもの。

だから、お給料以上のことは特にしなくていいと思っていましたが、この本を読んでから私の中の仕事観が変わっていきました。

お金のために仕方なく仕事をしていたけども…… - ライティング・ハイ

 

普段、自己啓発本の類はあまり好きではなく、読まない方なのですが、私はこの本だけは何度も何度も読み直してしまうのです。

仕事をする上で、自分が置かれている立場が変わるにつれ、この本に書かれてきた内容が違った角度から心に染み渡ってくるのです。

 

そんな私に影響を与えたこの「強く、生きる。」ですが、ある一節だけが、どうやら私の心にしっくりときませんでした。

200ページ近くあり、何度も読み応えがある内容ですが、ある一節だけは今の私にはピンとこなかったのです。

 

それは……

「よい気を発せれば自然と人が集まってくる」

という言葉でした。

この一節を読んだ時、私はどうしても苦痛でしかなかった就活を思い出してしまうのです。

 

「なんで自分は落ちるのか……」

私は就活の時、だいぶ苦労していました。

30社以上にエントリーシートを出しても、すべて弾かれ、行き場もなく東京という名のコンクリートジャングルをさまよい歩いていたのです。

 

就活を一度経験されたことのある人なら少し共感されるところがあるかもしれませんが、就活はほとんど運で決まってしまいます。

 

100パーセントではないですが、努力でなんとなるものというよりかは、ほぼ運と縁と言ってしまってもいいかもしれません。

 

私はコミュニケーションに苦手意識を持っているため、面接対策をしなきゃと思い、滑舌の本などを読んで対策をしていきました。

しかし、いざ面接となると、なんだか腑に落ちない気分になるのです。

 

就活で受かる人は、なんとなく社風にあっているから内定……

なんとなく仕事できそうだから内定……

など、ほぼなんとなくで決まっていきます。

 

 

努力していい大学に入れれば、大手企業に入れると信じ込まされ、必死に受験勉強をしてきた私たちの世代にとっては、とても大きなカルチャーショックだったと思います。

面接で一緒になった某有名私立W大学の人は

「あれだけ必死に受験戦争を勝ち上がってきたのに、面接官の気分で自分たちの収入が変わってくるのか」

と投げやりな言葉を言っていました。

 

 

こんだけ努力しているんだから、内定を出してくれ!

と私は悲鳴をあげながら、就活をしていたと思います。

今思い返すと、相当おこちゃまですね。

 

しかし、いまだにどうしても就活に納得できないでいる自分がいるのです。

あの無意味にしか思えなかった、30分のグループ面接は何のためにあったのだろう……

 

ほとんどその人から発せられる雰囲気と印象から、受かる人と受からない人が決まっていく。

だから就活生はみんな嘘をついたら、話を盛ったりして、何としても面接官に好かれようとするのです。

この人生最大の嘘つき大会に一体何の意味があるのか?

 

体から発せられる雰囲気やなんとなくで決まっていく就活に憤りがあったのです。

 

だから、こんなに私に影響を与えた「強く、生きる。」の中でも、

「よい気を発せれば自然と人が集まってくる」という部分だけ認めたくない自分がいたのです。

 

そのことを認めてしまうと、憤りを感じていた就活を肯定してしまう気がしていました。

 

しかし、その一節の意味がとてもよくわかった経験を最近しました。

京都を旅して巡った時です。

ゴールデンウィークは、ありがたいことに結構多めの連休をいただけ、私はずっと、きちんと巡ってみたいと思っていた京都を旅することにしました。

大型連休となると、飛行機の燃料チャージ代は普段の3倍以上になります。

海外に行こうとなると、とてもじゃないですが金銭的に余裕がありません。

それならきちんと日本を巡ってみようと思い、私は京都を訪れることにしました。

 

苔寺っているお寺が面白いらしいよ」と会社の上司から聞いていたので、一週間前に往復ハガキを送り、ハガキを持って苔寺を訪れました。

 

境内の中は外国人観光客であふれかえっていました。

一眼カメラを手に持っている人がちらほら見えます。

 

どうやら庭園に生えている苔を写真に捉えようと、カメラファンが集まってきているようなのです。

私は寺の住職さんに導かれるかのようにして本堂に案内されました。

そこで渡されたのが、一本の筆です。

苔寺は不思議なもので、1時間半の見学時間のうち、はじめの1時間で写経をして心をきれいに洗わないと庭園の苔を見せてはくれないのです。

 

この写経がまた苔寺の人気の一つなのかもしれません。

日本に興味を持つ外国人の方々は、きれいに筆を持って写経の練習をしていました。

私はというと、写経なんてしないで、早く庭園を見せてくれ! 

と思ってしまいました。

 

「それでは写経を始めてください」

住職さんの掛け声で一斉に写経が始まりました。

私も筆を持って写経を始めていきました。

 

 

写経を始めて20分が経つと、周囲からどこかため息が聞こえてきました。

「やってられない……」

そんなことを嘆くおじさんが現れたのです。

ふと、そのおじさんを見ていると、なんだかその人の周りだけ空気が淀んでいるように見えました。

 

10分も正座をして写経をするとなると、慣れていない人にとって苦痛でしかありません。

そのおじさんは金を払ったんだから早く庭園を見せろと心の中で思っていたのでしょう。

 

写経をしているうちに、文字にその人の心が表れるという住職さんの言葉の意味もわかってきました。

よく見てみると自分が写経している字はどこかふにゃふにゃで、自信がない字のように見えました。ささっと終わらせればいいという気持ちが文字にも表れていたのです。

 

これではいかん!

と思って私は必死にしっかりと写経をしていきました。

心を無にして、写経をしているうちに、私は渡邉美樹社長が言っていた言葉の意味がようやく理解できました。

 

自分の体から発せられる気は周囲に伝染するものなんだ。

気がつかないうちに発している自分の雰囲気が、周囲にも伝染して行っている様子が、愚痴を吐きながら写経をしているおじさんを見ているうちに手に取るようにわかったのです。

 

なんだか論理的なものではないかもしれませんが、後ろの方から写経をしている人たちの後ろ姿を見ていると、その人たちの人間性や人柄がわかるものです。

 

 

なんだか就活の面接官になったような気持ちになりました。

 

大手企業の面接となると1日に何百人という学生を見ることになります。

その学生と見て、パッと合否を決める分かれ道はほとんど第一印象だと言われています。

パッとその人を見て、その人から発せられる雰囲気で合否が決まっていくのです。

 

見た目だけでその人が仕事できるかどうかなんて判断できるはずがない。

そう就活をしていた時の自分は思っていました。

しかし、社会人になり、いろんな挫折を味わっていくうちに、その人から発せられる雰囲気をみれば、仕事ができるかできないか判断できるんだなということに気がつき始めました。

 

やはり、きちんと真面目にコツコツ仕事をする人は、顔にもそれが滲み出てくるものです。

上のいいなりになって、言われたことだけをやっている人はやはり汚い気を発している気がします。

 

写経をしている時、チラッと周囲を見回しているとそのことがものすごくわかりました。

その人が発している気を見れば、人柄がわかるのです。

 

 

「人は論理的なものよりも、空気に惹かれるもの。

だから、いい気を発している人には自然と人が集まってくる」

 

そう言っていた渡邉美樹さんの言葉がようやくわかりました。

 

あ、就活の時、私は邪悪な気を発していたんだな……

そりゃ、落ちるわ。

そんなことを思ったのです。

 

 

多少、論理的でない話になって申し訳ありませんが、その人から発せられる雰囲気というか気が、人を惹きつけるかどうか決めているのは事実だと思います。

 

所詮、人間は人に流される生き物です。

いい気が流れている場所に、人は自然と集まってくるのだと思います。

 

 

目の前のにがむしゃらにしがみついて、努力を怠らない人は、自然と人を惹きつける気を体から発せられるようになるのでしょう。

 

渡邉美樹さんが言っていたように、

下手にパーティーなどに出席して、名刺を配り歩いて人脈を広げようとするよりも、自分自身を磨くこと……目の前のことにがむしゃらに努力することが人を惹きつける秘訣なのだと思います。

 

 

 

 

 

kiku9.hatenablog.com

 

 

 

kiku9.hatenablog.com

 

 

世の中の矛盾ばかり気になって、生きづらさを抱えている人がいたら……

f:id:kiku9:20170503080158j:plain

 

 

「人間関係のストライクゾーンが狭すぎるよ」

大学時代に友人からそう言われたことがある。

 

確かに……その通りだ。

 

私は一言も反論できなかった。

きっと、友人は私のことを思ってそういってくれていたのだろう。

 

私はとにかく人付き合いが苦手だった。

飲み会の席や人が多い場所に行くと、しゃべっているトークの内容についていけなくなり、精神的にぐったりきてしまうのだ。

昔から、人とのコミュニケーションが苦手で、いつも隅っこにいるような子供だったと思う。

小学生だった頃の私は、もっと人とうまく人と話さなきゃと思って、無我夢中になり空回りしていた。

 

今ならわかる。

私が人とのコミュニケーションに後ろめたさを感じていた理由が……

 

大学時代に友人から言われた通り、ストライクゾーンが狭すぎるのだ。

 

人は誰だって、人間関係のストライクゾーンを持っていると思う。

 

初対面の人と出会い、話をしていくうちに、この人の価値観は自分と合っているな……

この人の考え方は自分と違うな……

など、自分の価値観と相手の価値観を見極めて、相手に合わせてコミュニケーションをとっていくのだ。

 

この価値観のすり合わせがどうしても全く合わない人がいると、

ちょっとこの人とは仲良くするの厳しいな……

と思い、離れていくものだと思う。

 

どうしても一人一人、生まれ育った環境も違えば、考え方も違う。

相手の価値観に合わせて、コミュニケーションを取っていかなきゃいけないのもわかる。

 

しかし、私はこの人間関係のストライクゾーンが極端に狭かったのだと思う。

何を話しても、その人が考えている裏の部分まで気になってしまい、身動きが取れなくなってしまうのだ。

 

「この人、表ではこう言っているけど、きっと裏ではこう思っているはずだ」

「いいこと言っているけど、見返りを求めて言っているだけだ」

 

相手が考えている裏側まで気になってしまい、自分が傷つくのを恐れて、いつも他者と一歩距離を取っていた。

どうしても飲み会の席などは、人との会話に行き詰まってしまい、精神的にぐったりしてしまうのだ。

 

物事を考えすぎてしまう性格からか、人の心の裏側や世の中の矛盾点ばかり気になって身動きが取れなかったのだと思う。

 

どうしたらこの生きづらさはなくなるのだろうか?

そんなことをずっと思っていた。

 

世の中に純粋な善意というものはあるのだろうか……

 

電車の中で、お年寄りの方に席を譲るのも、自分はいいことをやったという自己満足のためな気がして、躊躇してしまう自分がいた。

優先席を見ても、なんだかモヤモヤした気分になってしまうのだ。

 

みんな、純粋な心を持っていたら、優先席なんて必要ないのに……

世の中は欺瞞だらけな気がしていたのだ。

 

私は一度、このモヤモヤが限界にきて、日本を離れてみたことがあった。

「海外をバックパッカーで旅してみた」などと言ったら、聞こえがいいが、

ただ単に日本から逃げてきただけだ。

 

海外には自分の生きがいを見つめる、私と同じような境遇の人がいっぱいいた。

バンコクの安宿などに行くと、30歳手前で脱サラし、世界一周している人……

自分のやりたいことを見つけるために海外を放浪している大学生……

 

みんなこれまでの刺激に満ちた旅を意気揚々と語っていた。

夜中までギターを弾いて、酒を飲んで騒ぎあっていた。

「この街でこんな人と出会ったんだ!」

これまでの旅を語る旅人は皆、とても楽しそうだった。

 

しかし、私はそんな旅人を前にしても、汚い心を持った自分がいた。

 

「この人たち、結局、日本の社会から逃げてきただけじゃん!」

 

どうしてもそう思ってしまう自分がいたのだ。

 

そんな自分も日本の社会から逃げてきた一人だった。

旅人を傍観的に見ている自分が一番カッコ悪かった。

結局、旅を終えて日本に帰ってきても、どこか生きづらさを抱えながら生きている気がしていた。

 

常に浮足立って、生きている実感が持てなかったのだ。

 

そんな時、この本と出会った。

「幽霊人命救助隊」

 

タイトルを見た瞬間、なんじゃこりゃと思った。

結構分厚い本だが、手にとってあらすじを見てみた。

 

「この物語の中に100人の人が出てきますが、絶対一人は自分と似た境遇の人がいます」

どうやら自殺した幽霊たちが、自殺志願者100名を救う物語らしいのだ。

 

なんだこの本。

私はタイトルがとても気になったのと、有名な文化人である養老孟司先生があとがきを書いているのもあり、本を手にとって読んでみることにした。

 

 

読み始めてみると驚いた。

自殺を考え、人生が行き詰まってしまった人たちが100名出てくるのだが、どの人も自分の心の奥底で持っているものと似た悩みを抱えていたのだ。

 

会社で家庭でも居場所がないサラリーマン。

常に生きている実感を持てないOL。

借金地獄の中、自殺を考えてしまった人。

 

みんな未来に希望が持てず、社会の中を彷徨い歩いている人達だったのだ。

どうしても私はそんな人達の物語を見ていると、他人事のように思えない自分がいたのだ。

 

結構分厚い本だが、あっという間にスラスラ読めてしまった。

私はとある一節の言葉がとても頭にこびりついた。

それは、他者からくる承認でしか生きている実感を持てないOLを救助するときに投げかけられた言葉だった。

 

「他人が薄っぺらく見えてしまうのは、表か裏か、二つの面しか見えていないからよ。他人の中の悪い面を見たら、それが全てになってしまう。自分が傷つくのを恐れて、攻撃してしまう。でも、人間は白でも黒でもない、灰色の多面体よ。すべての物事には中間があるの。不安定で嫌かもしれないけど見つめなさい。いい人でもあり、悪い人でもあるあなたの友達を。優しく意地悪なあなた自身を……」

 

私はこの一節を読んでとても心に響いてしまった。

 

私は子供の頃から人とのコミュニケーションに後ろめたさを感じていたのだと思う。

いつも相手の裏側の考えまで読み取ってしまい、身動きが取れなくなってしまっていた。

世の中の矛盾した点ばかり気になって、生きづらさを抱えていたのだ。

 

純粋な世界だけを見ていたい。

そう思って、自分の世界に引きこもって、傷つくのを恐れていたのだと思う。

 

だけど、世の中には完璧な白なんて存在しないのだ。

 

矛盾だらけの灰色の世界なのかもしれない。

しかし、それでもそんな社会をちゃんと見つめていかなきゃいけないのだ。

 

 

「あとは慣れるだけよ。中途半端な安心に、中途半端な善意に、中途半端な悪意に。人の社会とはそういうものよ」

最後に自殺しそうなOLを前にして、とある人はこう投げかけていた。

 

確かに世の中は矛盾したことだらけだと思う。

しかし、その矛盾した社会の中で、どう生きていくかは自分次第なのだと思う。

社会は残酷で生きづらいと思う人には、社会はそう見えているだけなのだ。

 

「中途半端な安心に、中途半端な善意に、中途半端な悪意に……」

 

いつも矛盾した社会に生きづらさを抱えていた私にとって、それは救いになる言葉だった。

 

中途半端でいい。

そう思えばきっと、この矛盾だらけの社会も愛せるようになるのだと思う。

 

 

 

 

 

紹介したい本

「幽霊人命救助隊」 文春文庫 高野和明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都の庭園に座っていると、世界を変えていったiPhoneのことをどうしても思い出してしまう

f:id:kiku9:20170502084315j:plain

 

 

14歳だった頃、東京のほとんどの中学生がそうであるように、私は京都に修学旅行にいった。

 

 

修学旅行と言っても、中学生同士が友達とじゃれ合うための旅行みたいなものだ。私は他のクラスメイトたちとギャーギャー騒ぎながら新幹線に乗って京都に向かっていたのだろう。

 

京都に言っても何か面白いものあるのかな?

 

その頃の私にとって、京都と言ったら寺のイメージしかなかったのだ。

中学の頃は、歴史があまり好きでなく、寺やら神社を見て何が面白いのかさっぱりわからなかった。

 

京都よりもディズニーランドの方が楽しいのにな……

そんな低レベルなことを考える中学生だったのだ。

 

京都について、私の班は、中学校の教員が用意してくれたタクシー券を使い、京都の町並みを走り回っていた。

 

学問の神様で有名な太宰府天満宮に行った記憶がある。

そこで私は牛の頭を触り、「学問の神様……私の頭を良くしてください!!!!」

と祈ったりしていた。

 

「君たち、京都の日本庭園に興味がないかい?」

私たちの班を引率してくれているタクシーのおっちゃんが突然、こんなことを言った。

 

日本庭園? どんなものだっけ?

私は日本史の授業でその言葉を聞いた記憶があった。

確か、金閣寺やらなんとか寺にある庭のことを指すのだろう。

 

歴史嫌いだった私は、正直、日本庭園なんて見てどうするんだ? と思っていたのだ。

 

「この近くに龍安寺という日本庭園で有名な寺があるから行ってみよう」

そうタクシーのおっちゃんに言われるがままに、私は龍安寺と呼ばれるお寺に向かうことにした。

多分、おっちゃんは東京から来た中学生に京都の良さを必死に説明してくれていたのだろう。

生意気だった中学生の頃の私は、今日の昼ごはんなんだろう? と関係のないことを夢想していた気がする。

 

タクシーは数分後、龍安寺にたどり着いた。

さすが世界観光都市の京都である。

今でも世界から旅行客が京都を訪れるが、10年以上前から外国人が京都中にある寺院を訪れていた。

 

人でごった返す境内を歩いていると、その庭園はあった。

白い壁で覆われ、外からは見えないが、入り口から中に入ると白い砂で覆われた庭園が目の前に広がっていた。

 

私はその庭園を見たとき、なんだか妙な胸騒ぎをしたのを覚えている。

どういうことだ? と思ったのだ。

 

パンフレットの説明では庭園にある石は15個のはずである。

しかし、どの角度から見ても14個にしか見えないのだ。

 

左端から庭園を見ていた私は、右端に行ってみた。

すると、また不思議なことに今度は、左端から見えなかった石が見えるようになると、

今まで見えていた石が見えなくなるのだ。

 

絶妙な視覚的な構造で作られていたのだ。

 

私は入り口にあった庭園の縮小模型を見てみることにした。

確かに頭上から見ると、15個石がある。

しかし、庭園を右から左に向かってみていくと、どうしても15個全部見れない作りになっているのだ。

 

中学生だった私には衝撃的なことだった。

なんでこんな作りをしたのだろうと不思議に思ったのだ。

 

「なんか適当に石を並べているだけじゃない?」

同級生はそう語っていた。

確かにそうかもしれない。

だけど、これだけの観光客が毎年のように龍安寺に押しかけてので、この庭園には何かしらの特別な魅力がある気がしたのだ。

 

言葉では説明しきれない、何かの魅力が。

中学生だった頃の私には、日本庭園の魅力がよくわからなかった。

しかし、何か人を惹きつけるものがあるのだろうと思っていたのだ。

 

中学の修学旅行から10年ほど経った今、なぜか私は日本庭園に妙に惹きつけられていた。

ライティングを始めて、ものを作るというものに興味を持ったせいか、日本古来からある日本庭園というものに改めて興味を持ったのだ。

よく考えたら私は海外にぶらっとバックパック一つで旅行をしたことがあるが、日本をちゃんと見たことがなかった。

 

 

タイ、ベトナムラオスの山奥まで行っても「ジャパニーズだ」と言えば、

「日本の桜の写真を見せてくれ!」

「京都に昔行った頃があるんだよ」

「日本の車は世界一だ」

など、やたらと日本のことになると熱く話す外国人が多かった。

日本ってこんなにも世界から興味を持たれている国なんだ。

そう感じ、カルチャーショックを受けたのだ。

 

せっかく日本に生まれておきながら、きちんと日本文化を学んでこなかった自分に後悔し、私は一度きちんと日本の伝統的なものを見ていこうと思ったのだ。

 

 

ゴールデンウィークは飛行機代がやたらと高い。

しかし、京都行きの新幹線の往復代なら金の工面はなんとかなる。

そう思った私は久々に新幹線に飛び乗り、京都に向かうことにした。

 

特に行き先は決めてなかったが、なぜか龍安寺に行こうと思っていた。

中学生の頃、妙な衝撃を受け、あれ以来、何か心の中にもやもやがあったのだ。

 

あの庭園は一体何だったのだろうか?

それに龍安寺の近くには、妙心寺仁和寺もある。

のんびりと京都の日本庭園を巡ってみようと思ったのだ。

 

中学生ぶりに訪れる龍安寺は相変わらず、観光客でごった返していた。

自分が中学生の頃よりも、どこか外国人観光客が多い気がする。

 

 

私は庭園に入り、過去の記憶をたどって龍安寺の日本庭園に向かうことにした。

10年ぶりに見る日本庭園はやはり美しかった。

一面、真っ白い砂で覆われ、画角的な構造を徹底的に考えつくされた日本庭園がそこにはあった。

 

その庭園は、禅の境地を表しているという。

見る人の心の有り様によって、姿形が変わって見えるのだ。

私は他の観光客と一緒に縁側に座っていると、どこか落ち着いた気分になってきた。

そして、やはりこの庭園を見ているうちに、なんで幅10メートルくらいしかないこの空間に人が引き寄せられるのか不思議に思えてきた。

 

よく考えたら砂の上に石が置いてある幅10メートル足らずの空間に世界中から人が押し寄せてくるのは不思議な現象だ。

何か人を惹きつけるものがあるのだろう。

 

私はここでも心の中にもやもやを抱えていた。

何だろう、このもやもやは。

何かあるはずなのに、答えがうまく出てこないのだ。

 

私は龍安寺を出てから、隣にある仁和寺にも行ってみることにした。

龍安寺から仁和寺に抜ける道は、竹に覆われていて、心地よい気持ちになった。

他の観光客も同じ道を歩いていたからこの道は有名なのだろう。

 

歩き始めて数分後、仁和寺にたどり着いた。

境内は広大だった。

壁に囲まれ、奥の方には五重塔が見えた。

 

中央にある御殿は、庭園が寺院の中に内包されている作りになっていることは知っていた。

外から見たら壁に囲まれているが、内側から見ると、木で壁が覆われ、無限の奥行きのある空間に見える作りになっているのだ。

 

仁和寺の構造は知っていたが、やはり実際に目で見てみると衝撃が走るものだ。

境内は壁で覆われているはずなのに、無限の奥行きがある空間がそこにはあったのだ。

私は仁和寺の縁側に座りながら、昼寝をしていると、ふとなんでこんなシンプルな構造の庭園を作れたのか不思議に思った。

 

龍安寺の庭園もそうだが、とてもシンプルで洗練されている空間に見えて、物事の本質を捉え、徹底的に考えつくされた構造になっている。

よく考えたらどの角度から見ても石が14個にしか見えないような配置を考えるのは、並大抵の職人には無理な話だ。

 

徹底的に物事の本質を考え尽くし、シンプルに洗練された空間を作り上げていったのだ。

 

私はiPhoneのことを思い出していた。

アップル社を作り上げたスティーブ・ジョブズは生前、日本の禅文化に相当傾倒していたらしく、度々京都を訪れていたという。

 

表参道にあるアップルストアなどに行ったことがある人もいるかもしれない。

アップルストアの洗練とされたシンプルな空間は、日本庭園をイメージして作られているのだ。

物事の本質を見抜き、徹底的に洗練された空間を作り上げていたのだ。

 

また、アップルの製品のほとんどが日本文化の影響を受けているという。

物事の本質を見抜き、不要なものを徹底的に排除し、洗練とされた日本の陶磁器をイメージしてできたのがiPhoneだった。

 

世界に影響を与えていくクリエイティブな製品は、実は京都の文化から着想を得たものだった。

 

京都の日本庭園を作り上げた大昔の日本人はしっかりとわかっていたのかもしれない。

徹底的にシンプルに洗練とされ、物事の本質を見抜いて造られた空間は、何百年と歳月を得ても人々の心を惹きつけるのだと。

 

現代でそのことに気づいたのは、日本人でなく、シリコンバレーで活躍するアメリカ人だったのだ。

物事の本質を見抜き、洗練とされた日本の伝統文化を、そのままアメリカに持ち帰り、世界を変えていくような製品にしていったのだ。

 

 

今の時代、日本のベンチャー企業はやたらとアメリカや中国、イスラエル、インドとIT革命が起こっている国に進出しようとするらしい。

 

アメリカのシリコンバレーに留学して、技術を持ち帰ろうとするのだ。

しかし、わざわざ外国に行かなくても、もっと自分たちの国には凄いものが眠っているのだと思う。

海外にクリエイティブなものを求めるのではなく、もっと日本の伝統文化を見直してもいいのではないか?

 

京都の当たり前な日常の中には、世界を変えていくような気づきが眠っているのかもしれない。

そんなことを京都の庭園で座っている時にふと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

睡眠に悩む人には、この本が特効薬になるかもしれない

f:id:kiku9:20170501073202j:plain

 

 

 

「寝れない……」

それは、子供の頃からの悩みだった。

布団の中に入ってもなかなか寝付けない日々が続くと日中も頭が朦朧としてくるものだ。

 

今でもたまにあるのだが、私は寝付くのに1時間はかかる子供だったのだ。

布団の中に入って、目をつむっても1日の出来事が脳内でリピート再生されてしまい、全く寝れなくなるのだ。

 

それに加え、ちょっとした物音ですぐ起きてしまう体質だったのだ。

「あなた、本当に眠りが浅いわね」

よく母親にこう言われた。

 

どうしたら眠りが深くなるだろう。

そんな悩みをずっと抱えていた。

 

 

 

小学生だった頃、クラスメイトに平均睡眠時間が約3時間の子がいた。

彼はパソコンをいじりながら、明け方4時まで毎日起きているという。

(小学生でその睡眠は大丈夫なのか……と今なら思う)

 

私はそんなクラスメイトを見て、「寝なくても平気なの?」と声をかけたことがあった。

 

「うん。なんか早く寝るほうが体調悪くなるんだよね。3時間ぐらいがちょうどいいんだ」

そうクラスメイトは言っていた。

 

睡眠に悩まされていた私には衝撃的だった。

6時間以上は寝なきゃ、目がボ〜としてしまい、日中から偏頭痛がしてくる私には、約3時間睡眠でバリバリの人が羨ましくて仕方がなかった。

 

なんで3時間で睡眠が満足できるんだろう。

小学生ながらそのことを必死に考えていた。

 

よく考えたら人生の約3分の1を睡眠に使っているのだ。

約3時間睡眠を手に入れたら、残り21時間を自分の好きなことに使えるではないか!

 

そのクラスメイトの話を聞いてから、小学生だった私は3時間睡眠を目指したことにしたのだった。

 

小学生ながら、夜中2時過ぎまで起き、明け方5時に起きてみることにした。

しょっぱなから死人のように目が真っ黒な状態で学校に通うことになった。

 

先生は「あなた大丈夫?」と声をかけてきた。

 

3時間睡眠を手にいれるには、3日は耐えなきゃならない。

なぜか、私はそう思い、3日間3時間睡眠をすることにしたのだ。

 

3日目の翌朝、私はぶっ倒れた。

めまいが止まらなくなり、二度寝しないと学校に行けなくなったのだ。

 

「あなた何バカなことやってんの!」

と母親に叱られた。

 

その日は、確か学校を休み、3日分の睡眠不足を取り戻すかのように私は一日中眠りについた。

何で3時間睡眠で平気な人もいれば、6時間は睡眠を取らなきゃいけない人がいるのか?

不公平ではないか!

そんなことを思った。

 

 

大人になってからも、私は3時間睡眠の人に憧れを抱いていた。

明石家さんまはテレビの中でも、プライベートでもハイテンションのままをキープしているという。

どこに行っても喋りまくるのだ。

しゃべるに喋りまくる性格のせいか、夜中までテンションが高く、睡眠時間も2時間ほどだという。

 

人よりも圧倒的に寝る時間が短いので、深夜一人で録画しておいたバラエティ番組を見直し、自分の喋りを反省したり、他の番組をチェックすることに費やしているのだ。

 

睡眠時間が短いと、人よりも倍の時間、何かに費やせるのだ。

 

どうやったら3時間睡眠を手に入れられるのか?

そして、どうしたら質のいい睡眠を手に入れられるのか?

 

社会人になってからもずっとそんなことを思っていた。

忙しい毎日を送っていると、どうしても終電近くまで会社に残り、朝早くから仕事に行かなきゃならない日も出てくる。

そんな時、きちんとした睡眠を取るにはどうしたらいいのか?

 

レム睡眠とノンレム睡眠の周期の関係から90分の倍数で寝ると人間は睡眠の質が上がるという話を聞いたことがある人も多いかもしれない。

 

しかし、実際に90分の倍数を寝たら、質のいい睡眠が取れるかといったら、違う気がする。

5時間眠るより、4時間半眠ったほうがノンレム睡眠の時に起きれるので、目覚めがいいという神話を私はどうしても信じられなかったのだ。

 

どうすればい質の高い睡眠を手に入れられるか?

それが社会人をやるようになった私の最大の悩みだった。

 

そんな時、この本と出会った。

いつも通っている本屋さんの棚にこの本が置いてあった。

 

スタンフォード式 最高の睡眠」

 

私はこれまで、睡眠についての本を何冊か読んだことがあった。

ショートスリープの本も読んだし、「90分の倍数の時間を寝るように!」と書かれた本もあった。

しかし、どれも納得のいく内容の本ではなかったのだ。

質の高い睡眠について書かれた本と私はこれまで出会うことがなかった。

 

この本も私の睡眠についての悩みを解決してくれそうにないな……

そんなことを思いながらも、私はプロローグを読んでみることにした。

 

「90分間の倍数で寝ても、目覚めが悪いケースがいくらでもある」

私はその一行を読んだ時、衝撃が走った。

 

自分が感じていたことが最先端の睡眠研究のもとに証明されていたのだ。

 

なんだこの本……

今まで私が悩んでいたことがすべて書かれているではないか!

 

そう直感的に思い、私はその場で本を買い、読んでみることにした。

私が長年、憧れていたショートスリープ(短時間睡眠)についても書かれていた。

 

やはりな……やっぱりそうだったんだ。

睡眠時間が短い人はやはりそうなのか……

 

その項目にはショートスリープが遺伝的な要素で決まることが最新の科学研究をもとに証明されていると書かれてあった。

 

ショートスリープを手に入れようとしても、世の中の9割以上の人には無理な話なのだ。

ほぼ遺伝的な要素で決まってしまうため、ショートスリープを手に入れようとしても無理が生じるが、それでも平均的な人が、短時間睡眠でも日中のパフォーマンスを下げない睡眠方法がその本の中には書かれてあった。

 

なるほど。

そうすればよかったのか。

 

私には目からウロコの内容が満載だった。

 

「90分間周期の睡眠を意識するのではなく、最初の90分間をいかに質のいい眠りにできるかが勝負」

 

本全体を通して、最初の90分間という睡眠のゴールデンタイムを、良質の睡眠にする方法が書かれてあるのだ。

 

私はこれまで、睡眠にずっと悩まされていた。

ショートスリープを手に入れようとして、失敗もした。

質のいい睡眠が取れなく、仕事のパフォーマンスが下がることもあったと思う。

 

しかし、この本を読んでから、私の睡眠についての悩みは少し緩和されたような気がする。

何時間寝れたかよりも、最初の90分間の睡眠の質をいかに高めるか?

それが、睡眠に悩む人たちが解決すべきポイントだったのだ。

 

私は、この本に書かれてあったことを寝る直前に実践してみた。

すると、徐々にだが、眠りの質も向上してきたような気がする。

昼食後、眠くなることが減ってきたのだ。

 

やはり、最初の90分間の睡眠をいかに質の高いものにできるかが勝負なのだと思う。

睡眠に悩む人には一度は読んでみてもいい本だ。

 

 

 

 

 

 

紹介したい本

スタンフォード式 最高の睡眠」  サンマーク出版 西野精治著

 

 

才能がない自分が、毎日書き続けるなんて無意味だと思っていたけども……

 

f:id:kiku9:20170430073606j:plain

 

ビビッ!

朝5時になり始める目覚まし時計の音に目を覚まし、私は毎朝飛び起きる。

夜はなるべく23時には寝るようにしているが、どうしても仕事をしていると6時間の睡眠を確保することは難しい。

 

それでもなるたけ早めに布団に入り、朝5時には私は飛び起きるようにしている。

 

熱いコーヒーを飲み、カフェインで無理やり、頭と働かせ、寝ぼけた脳みそのスイッチを切り替える。

 

PCの前に座り、昨日の晩に書いたネタ帳を開き、会社に出社するまでの時間までに一気に記事を書き上げる。

 

 

「2017年は毎日、記事を書く」

そのように去年の大晦日の晩に決意して、早5ヶ月。

なんとかこうして毎日渾身の記事を書き続けているが、ずっと心の中で抱えていたモヤモヤがあった。

それは……

 

 

才能がない自分が書き続ける意味なんてあるのか?

というものだった。

 

何かものを作るクリエイターになりたいという思いがあり、毎朝ライティングをするようになったのだが、書いては書き続けるうちに、だんだん自分の才能のなさを嫌でも痛感するようになったのだ。

 

自分より書く量が少ない人でも、あっという間に1万pvを超えて、大量のバズを発生させる人なんか何人もいる。

そういうライターさんを見るたびに、私は自分の才能のなさを感じ、劣等感に包まれる。

努力する意味なんてあるのか?

書く意味なんてあるのか?

そんなことを思うのだった。

 

私はどんなに渾身の記事を書いても1000pvがやっとである。

しかし、自分より3歳ぐらい年下の人でも、あっという間にあれよあれよと何万pvを突破するような人もいるのだ。

 

 

私はそんな人を見るたびに強烈な劣等感を感じていた。

 

 

自分でも嫌という程わかっている。

自分には才能というものがないということが……

 

しかし、才能がなくても努力で補えると思っていた。

NARUTO」で登場するガイ先生とロック・リーが忍術が使えないなら体術一本に絞り、自分ルールを設けてがむしゃらに努力していくように、才能のなさを努力で補うことができると思っていたのだ。

 

しかし、現実は厳しいものだ。

どんなに努力しても才能の塊のような人には勝てないのだ。

私はほぼ同い年で、いつも大量のバズを発生させるライターさんを見ているうちに、どうしても自分の才能のなさを憂いてしまう自分がいた。

 

こんな風に毎日、記事を書いても意味があるのか?

努力する価値があるのか?

そんなことを思ってしまうのだった。

よく考えれば、私はこれまでいつも努力するということで逃げていたと思う。

大学受験の時も、自分の頭の悪さもわきまえず「努力すればなんとかなる」という予備校講師の言葉を信じて、早稲田やら国立ばかりを受けていた。

 

何もしないよりもマシだと思い、いつも朝早くから予備校に通い、意味もなく英単語を書きまくっていた。

「そんなに書いても頭に入らないでしょ……」

予備校で出会った友人にそう言われたが、私は「自分は頭が悪いから努力で補わなければならない」と思って、勉強効率なんて無視して、英単語を書きまくっていた。

 

 

結果的に私の大学受験は失敗に終わった。

今思うと私は努力することで現実から逃げていたのだと思う。

「がむしゃらに努力しているんだから、自分でも早稲田に受かるはずだ」

という意味もない根拠が、私を過信させていたのだ。

 

受かる連中は効率的な勉強法を考えていくものだ。

しかし、私は努力という防波堤みたいなものに苛まれ、自分の実力を過信していたのだと思う。

 

努力というものは本当に難しい。

努力することはもちろん大切だが、努力自体がその人の防衛手段のようになってしまうことがある。

 

自分はこれだけ努力してきたから、大丈夫でしょ。

努力してない人に比べたら、自分は実力が上に決まっている。

 

 

「自分は努力してきた」という自信が、自分の実力を過信させてしまうのだ。

私は努力の仕方を間違えた結果、大学受験には失敗した。

努力さえしていれば、東大に合格するようなレベルの秀才にも勝てる!

そんなことを思っていたが、生まれ持った才能にはやはり勝てないものだ。

 

私は毎日、ライティングを続けていると、どうしても努力に逃げていた自分の大学受験を思い出してしまう。

自分の努力は合っているのか?

そう思い、自分の才能のなさをごまかしている自分がいるのだ。

 

そんな時だった。

私はこの記事と出会ったのは。

尊敬してやまないとあるライターさんが書いた記事が私の目にこびりついていた。

 

その方は無内定のまま大学を卒業し、いろいろと社会をさまよった挙句、ようやくライターという仕事に出会えたという。

私はその人が書く文章を目にした時、どこか他人事に思えない自分がいたのだ。

 

就活に惨敗し、世の中をさまよっていたのも私だった。

いつも肩書きに縛られ、身動きが取れなくなってしまうのも私だった。

 

このライターさんのような記事を書いたいと思い、私は毎日文章を書くようになったという面もあった。

 

私はフェイスブックに上がった記事を見て、タイトルから一気に引きこまれてしまった。

自分が抱えていたモヤモヤの正体がそこにあったのだ。

 

「自分の才能のある無しは考えるだけ時間の無駄」

 

才能がある無しについてどうしても気になってしまうと、ある人に聞かれた時、

そのライターさんは

「才能なんてないわけないじゃん」ととっさに答えたのだという。

 

「才能のある無しなんて考えるだけ時間の無駄……そんな時間があるなら今ある自分の才能を伸ばすことに使え」というようなことが書かれてあった。

 

確かにその通りだと思う。

才能のある無しなんて気にしているだけ、時間の無駄である。

その時間があったら、目の前のことに真剣に取り組んだ方がいい。

 

私はどこかで自分の才能のなさを感じ、毎日努力を続けている意味なんてないと思っていた。

しかし、自分の才能なんて気にしているだけ時間の無駄なのだ。

今、自分ができる限りの渾身の記事を書き続けることが大切な気がするのだ。

 

「好きなことがあるのに、死に物狂いになれない人が信じられない」

とある人もそう言っていた。

 

毎日、こうして記事を書き続けられるから私はきっと書くということが好きなのだろう。

才能のある無しを考えている暇があったら、死に物狂いになって書き続ける。

それが答えなような気がするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実を言うと私はミスチルの桜井和寿から、書くということを学んだ

f:id:kiku9:20170429080810j:plain

 

 

書く気が出ない……

こうして毎朝、何かしらの記事を書くようになって5ヶ月が経つが、時々、4日に一回に割合で「やる気スイッチ」が入らず、何を書けばいいかわからなくなる時がある。

 

それはブログなどを書いている人には身にしみて感じていることかもしれない。

書くネタがなくなり、書くスイッチが入らなくなる現象。

 

毎日、ネタを吐き出し続けるとどうしてもネタが枯渇してくるものだ。

読書や映画館に駆け込んで、インプットを補おうにも、平日は仕事で忙しく、電車の中でしか本を読んでいられないので、学生時代に比べたら圧倒的にインプット量が足りなくなる。

 

インプットがないと、どうしても書くネタが思いつかず、書くこと自体が鬱陶しく思えてくる時もあった。

 

あ! 今日書くスイッチ入らないわ。

 

PCの前に向かって直感的にそう思った時、私はいつもある音楽を聴くことにしている。

その音楽とはMr.Childlenの「sign」だ。

 

正直言うと、私はそんなにミスチルのファンというわけではない。

しかし、書くことに悩むとなぜか無性に「sign」が聴きたくなるのだ。

 

ひと昔に妻夫木聡柴咲コウ主演で話題になったドラマの主題歌だが、私はそのドラマも見たこともなければ、それほどミスチルに思い出があるわけではない。

それなのに「sign」だけはよく聴いているのだ。

 

ネタがないと悩んでいる時、「sign」のメロディーを聴いていると、ふと脳の回路がリラックスしてきて、今まで脳の中で眠っていたアイデアが湧き出てくる感触があるのだ。

 

何なんだこのメロディーは。

ありふれた日常の中から湧き出すメロディーに乗って、奏でられる桜井和寿の歌声を聴いているとなぜかアイデアが浮かんでくるのだ。

 

「自分の中にあるジャズの音から小説の書き方を学んだ」

そう村上春樹はインタビューで語っていた記事を読んだことがある。

書くということはリズムが伴うため、日本の小説をほとんど読んだことのなかった村上春樹は自身が大好きなジャズのメロディーからヒントを得て、小説を書いていったというのだ。

 

私のような凡人がこういうことを言うのもはばかれるが、この村上春樹が言っていることがものすごく理解できるのだ。

 

私は学生時代に自主映画を作っていたのだが、脚本を書いては人に見せている時、やたらと評判がいい脚本が数個あった。

 

その評判がいい脚本は、決まってリズム良くスラスラ書けたものだった。

セリフの行間やリズミカルに続くテンポを大切にして書いた脚本はやたらと評判が良かったのだ。

 

「文章も所詮はリズム。音楽がキーなんだ」

そのことを自主映画を作っている時に身にしみて感じたのだ。

 

こうして毎朝、ブログを書くようになっても自分の中にもつリズムというものを大切にやっている。

桜井和寿が奏でる「sign」のメロディーに合わせてイメージしていると、なぜかす〜とアイデアが湧き出てくるのだ。

 

些細な日常の中に眠るメロディーを引き出すかのように集め、奏でられたメロディーを聴いていると脳の思考がリセットされ、思いもよらなかったアイデアが思いつくこともある。

私にとってミスチルの「sign」はやる気スイッチなのだ。

 

 

このやる気スイッチである「sign」を聴いていると頭が空っぽになり、絶妙なアイデアが湧き出てくる可能性がぐっと高まってくる。

 

なぜ、そうなのか?

思うに、「sign」のメロディーを作った桜井和寿本人が頭を空っぽにする感覚を大切にしているからだと思う。

 

「sign」のメロディーを思いついたのも桜井さんが二日酔いで死にそうになっていた時に、ふと湧いてきたメロディーであるらしいのだ。

 

度々、このミュージシャンは「頭を空っぽにした時にメロディーが湧いてくる」という発言をしている。

 

サッカーをやっている時に「名もなき詩」のメロディーが湧いてきた。

トイレの中で「彩り」のメロデイーが思いついた。

 

「曲を作ろうと意識している時よりも、頭を空っぽにした方がいいメロディーが思いつく」

そういたるところで発言しているのだ。

 

よく考えたらあれだけのヒット曲を連発できたのは、その頭を空っぽにする感覚というものを大切にしているからだと思う。

 

 

桜井和寿のメロディーを聴いていると、私はいつも禅というものを思い出す。

 

「頭を空っぽにした時に、ふと湧き上がってきたものがあなた自身を作り上げるものです。世の中の雑音を捨てるということを大切にしてください」

私は京都の寺で、お寺の住職さんにこう言われたことがあった。

 

空っぽにした時に浮かび上がる感情や思いが自分が本来望んでいるもの。

大切なことは雑音を捨てていくこと。

 

桜井和寿はどうもこの禅という考え方を大切にしているクリエイターなように思うのだ。

本人に聞かないとわからないが、どこかで禅についての本を読んだのかもしれない。

 

世の中の雑音を排除し、自分の中に眠る音楽を頭を空っぽにして引っ張り出しているのだ。

 

誰もが自分独自の体内リズムというものを持っているのだと思う。

そのリズムを読み取れるかは頭を空っぽにして、自分の奥深くから音楽を引っ張り出せるかどうかにかかっているのかもしれない。

 

見栄や意地などを取り除いた、禅僧のような神聖な精神を持っているからこそ、桜井和寿は世の中の雑音を取り除いて、自分の中から音楽を引っ張り出すことができるのだと思う。

 

感覚的な話になって申し訳ないが、禅を体得した住職さんと桜井和寿が言っている言葉が似ているのだ。

頭を空っぽにして湧き出てくるメロディーを体得しているからこそ、桜井和寿は長年、第一線で工場のようにメロディーを大量生産できるのだと思う。

 

 

毎日、毎日書き続けているとどうしてもネタが枯渇してくる。

そんな時は私はいつも「sign」のメロディーを聴いて、頭を空っぽにする感覚を思い出す。

 

禅の教えであるように頭を空っぽにして、雑音を取り除くこと。

それがクリエイティブな何かを生み出すときに重要になってくるのだと思う。