人一倍仕事を覚えるのが遅い私が見つけた不器用という名の武器
私はとにかく昔から不器用な方の人間だった。
何をやるにしても人一倍時間がかかるのだ。
大学受験も一年間浪人してやっと入れたし、テスト勉強もいつも人の倍はしないとダメだった。
「真面目だな」
大学のテスト前になると、いつもノートの書き込みをチェックしている私を見て、友人はそうつぶやいていた。
真面目なのではない……
こうでもしないと確実に単位を落とすからやっているのだ。
何をやるにしても人の倍は時間がかかる私は、とにかくテスト前になると必死だった。
不器用すぎて、効率がいい勉強法がわからなかったのだ。
アルバイトも悪戦苦闘した記憶しかない。
とある飲食店でアルバイトをした時、とにかくレジ打ちができず、私はいつも怒られていた。
「何でこんなこともできないの!」
そう怒鳴られては、私は自分の不器用さを痛感していた。
1万円を打とうとしても、0を何個打てばいいかわからず、いつもパニックになっていたのだ。
土日の混雑している時間帯に私がレジを打つと、いつも客から罵声が飛んできた。
「何やってんだ!」
私は客から怒鳴られるたびに「すいません」と謝るしかなかった。
営業時間が終わるたびに、私は店の裏に呼び出され店長に叱られていた。
「もうちょっと仕事を覚えていってもらわないと困るんだけどな」
「はい、すいません」
私は飲食店のアルバイトをやっていた時、何度すいませんと謝ったかわからないほど、謝り続けていた。
世の中の大半の仕事が接客業だ。
何をやるにしても不器用だった私は技術系の仕事ならできるんじゃないかと思い、プログラミングを独学で勉強し始めた時があった。
レジ打ちすらできなかった私だ。
社会に出て生き残っていくには、パソコンを使いこなすしかない。
そう思い、無料プログラミングツールを使って、勉強を始めてみた。
一ヶ月で挫折してしまった。
コンピューター言語があまりにも難解で、不器用すぎてプログラムを覚えることができなかったのだ。
よく考えれば、私は大のパソコン音痴だ。
ワードやエクセルすら使いこなすことができないのに、javaなどのコンピューター言語を理解することなどできるはずがない。
20代前半であまりにも不器用な私はどの職業に就けばいいのかさっぱりわからなくなっていた。
人一倍不器用で要領が悪い自分が嫌で仕方がなかった。
どうしたらいいのかさっぱりわからなかったのだ。
社会に出た時、はじめはとあるテレビ関係の制作会社に入ることにした。
そこでは、まぁこれでもかというくらい怒鳴られ続けた。
「何でお前はこんなこともできね〜んだ」
「何をやっても時間がかかるな」
テレビの世界はとにかくスピード勝負の世界だ。
24時間テレビは放送されているため、毎日のようにネタを探し、ロケをしなければならない。
仕事が遅い人間はほっとかれる。
私の同期はとにかく仕事ができる奴で、ぱっぱと資料をまとめていくが、
私は同期の三倍の遅さで資料を作っていた。
「何でこうも同期で差が出るんだろうか」
私はいつも同期と比べられていた。
とにかく仕事ができない自分が嫌で仕方がなかった。
要領がよく、器用な人間はすぐに組織の色に染まるのがうまいと思う。
私はこの組織の中に入るということが昔からとにかく苦手で、どの職場に行っても馴染めずにノイローゼ気味になっている自分がいた。
自分が不器用なのが悪い。
もっと社会と適合できるようにならなきゃダメだ。
そんなことを思っていた。
社会に出ては挫折し、転職をしてようやく今の会社に入ることができたが、そこでも私は不器用さを醸し出していた。
同期の中でも人一倍、日報を書くのが遅いのだ。
次々と同期が帰っていくのか、私だけが夜遅くまで会社に残り、仕事を続けていた。
何でみんなテキパキ仕事ができるのだろう。
いつも不器用で仕事ができない自分を呪っていた。
子供の頃から不器用すぎる自分が嫌で仕方なかったのだ。
そんな時、とある記事を読んだ。
確かフェイスブックなどで流れてきた記事だ。
最近は、こうして毎日不器用ながらもライティングに励むようにしているのだが、アウトプット最優先の日々を送っているせいか、やたらと興味深い記事が目に入ってくるようになった。
電車の中に乗ってもつり革の広告が気になり、いろいろ記事のネタを考えてしまうのだ。その日はいつものように自分一人だけ居残り残業をし、疲れたまま電車に乗ってスマホをいじっている時にふと、この記事が目にはいった。
それは糸井重里さんとライフネット生命の出口治明さんが対談した記事だった。
イノベーターの資質というタイトルだ。
二人はジョージ・バナード・ショーというおじさんの言葉を借りて、こんなことを言っていた。
「素人だから世界を変えられる。器用な人は世界のことがよく見えるので、そっちに自分を合わせちゃう」
私はハッとした。
合理的な人間は、自分を世界に適応させることが上手いが、非合理的な人間は自分に世界を適応させようと、粘るらしいのだ。
あらゆる進歩はこの非合理的な人間に頼ってきたということが二人の対談でちらほら語られていた。
よく考えたら、こうして毎日記事を書くのも私が不器用な人間だからできているのかもしれない。不器用だからこそ世界にハマることができず、人と違った角度でしか物事を見ることできないのだ。
これまで私は不器用で鈍い自分にいつも嫌気がさしていたが、この記事を読んで少し救われた気がした。
不器用であるからこそ、器用な人にはできないことにも気づける。
社会にうまく染まれないからこそ、周囲を変えていこうという気持ちが芽生えるのだ。
私は今でも人一倍不器用で、仕事を覚えるのも時間がかかる。
しかし、一歩一歩進めばいいのではないかと思えた。
少しずつ仕事を覚えていったら、器用な人間には気づけないことにも気づき、周囲を変えていく力も付いてくるのかもしれない。
そんなことを思いながら、今日も満員電車の中に飛び込んでいくことにした。
人脈というものの正体
昨日に引き続き、あまりにも名著なので、もう一度。
「なんでこの人の周りには人が集まってくるのだろう」
私の周りにはやたらとコミュ力がある知り合いが数人いる。
飲み会の時では、必ずと言っていいほど目立つのだ。
「〇〇さんはどう思う?」
「〇〇さんは普段何をしているの?」
など、30人以上いる飲み会でも、一人で回しているんじゃないかというくらい喋りまくるのだ。
喋りが上手い人には、自然と人が吸い寄せられてくるのかもしれない。
飲み会の誘いが絶えず、いつも飲み歩いている。
私はそんなコミュニケーション能力が高い人たちを見ると、どうしても羨ましく思える自分がいた。
世の中で勝つ人は圧倒的にコミュニケーション能力が高い人だと思う。
何をやるにも喋れる人が生き残るのだ。
営業もそうだし、コンサルもそうだし、研究職の人だって予算を申請するのにお偉いさんを説得できるかできないかで研究費の割り当ても大きく変わってくるだろう。
どんな道に進もうが、文系、理系にかかわらず喋れる人が世の中に頭角を出してくるのだと思う。
芸術の世界も同じだ。
エヴァンゲリオンやシンゴジラを監督した庵野秀明監督は、いつもは寡黙そうに見えても飲み会の席では一番目立つらしい。
アニメーターが集まる中、いつも一人で喋りまくるのだ。
大学時代からアニメーター内では目立つ存在だったらしく、自然と人から仕事に誘われるようになり、20代前半で「風の谷のナウシカ」でアニメーターをやったりで、次々と頭角を出していった。
もちろん、どれだけクオリティが高い絵を描けるかは大切だと思う。
しかし、絵が上手い人など世の中に腐るほどいるのだ。
その中で庵野秀明が他のアニメーターと違って頭角を出せてきたのは、やはり現場を指揮できるコミュニケーション能力が高いからだと思う。
昔、映像ディレクターの先輩と飲みに連れて行ってもらった時も同じようなことを聞いた。
「映画の世界で生き残れる人はとにかく喋れる人だ。映画監督なんていう仕事、どこかのお偉いさんがこいつに監督をやらせてみたいと言った瞬間、誰でも監督になれるんだ。たとえ、学生であっても東宝のプロデューサーに気に入られれば、一本映画を監督できたりする。人脈っていうものがとても大切なんだ」
その人曰く、どれだけクロリティの高い映画を撮れるかよりも、現場を指揮できるコミュニケーション能力とお金を集めてこれる人脈が監督になる資質で一番大切らしいのだ。
クオリティが高い映像を撮れるかどうかはカメラマンに任せればいい。
とにかく人脈が作れる人がクリエイティブな世界で生き残るという。
確かにそれはあるなと思った。
小説家やライターをやっている人も、どれだけいい文章を書けるか?
というものも大切だが、どれだけ信頼できる出版社の人脈があるか?
ということがもっと大切な気がする。
世の中には村上春樹よりも面白い文章を書き、ベストセラー作家よりも量を書いている小説家の卵のような人はいっぱいいるのだと思う。
サラリーマンをやりながら、書いている人もいるだろう。
小説家の人よりも面白い文章を書ける人なんていっぱいいる。
だけど、プロの小説家はプロであって、サラリーマンをやりながら趣味で小説を書いている人はアマチュアなのだ。
その二つを分けているのは、やはり人脈を持っているかもっていないかだと思う。
私は昔からどうも人とのコミュニケーションが苦手で、極度の人見知りなところがあった。高校時代は人と喋らなくて済むように、部活などにも入らず、いつも逃げてばかりいた。
しかし、世の中、喋れる人が強いと気づいた時に、私はこれまでコミュニケーションというものから逃げてきた自分に後悔した。
人脈がある人は強い。
どうやったらコミュニケーション能力が高められるんだろう……
喋りが下手くそな自分には世の中の隅っこでひっそりと生きていくしかない。
そう思っていた。
そんな時、ふとこの本と出会った。
あまりにもいい本すぎて、擦り切れるくらい読み込んだ本だ。
ワタミ社長の渡邉美樹さんが書いた「強く、生きる。」
とにかくこの本は感動する。
仕事とは何か? 夢とは何か?
20代前半で、トラック運転手をやりながら地道に資金を貯め、苦労しながらも全国にチェーン店を持つワタミを起業していった社長だからこそ書ける言葉がその本の中にはあった。
私は普段、自己啓発本の類の本はあまり好きではない。
読んだら自分があたかも一介の経営者になれた気分がするだけで、身になってこない気がするのだ。
しかし、この「強く、生きる。」だけは何度も読み直したくなるくらい、いい本なのだ。
渡邉美樹社長の人柄が行間の中にもあふれていて、読んでいてとても心地よいのだ。
特に大好きな一節がある。
それは人脈作りというものに違和感を感じていた自分にとっては衝撃的な言葉だった。
「人脈を広げるのに一生懸命になっている人がいますが、誰かの支援を受けたいとか、困った時に頼れる相手を作っておこうなどと、後に「役立てる」ことを目的に人脈を作るのなら、それはやめたほうがいいと思います。
人と知り合うにもふさわしい「時」があって、不自然な形で無理に人脈を広げても、その付き合いが深まることはまずありません。人との出会いや交流というのは、もっと自然発生的なものです。人脈作りに精を出すひまがあったら、もっと己の人間を磨くことに手間と時間をかけるべきです。まず、自分が周囲に豊かな人脈を作るにふさわしい人間になれるように努めること。自分自身の人間を磨くことが大切なのです」
私はずっとコミュニケーション能力が高い人に、自然と人が集まってきて人脈が生まれてくるものだと思っていた。
しかし、違うのだ。
影でもきちんと努力している人に、自然と人は集まってくるのだ。
世の中には年収1000万クラスのエリートな人がたくさんいる。
そんな影響力のある人と出会えるには、飲み会で名刺を配りまくることよりも、目の前のことにきちんと向き合って、努力していくことが一番大切なのだと思う。
尊敬しているとあるライターさんは若い頃、毎日1万6千字の文章を書いていたという。原稿用紙40枚分だ。異常な量だ。
フリーターだった頃はどんなに努力しても自分の言いたいことを聞いてさえもらえなかったが、毎日書いて、努力を重ねていくうちに、いつしか自然と人が集まってきて、自分の主張が世の中で聞いてもらえるようになったという。
人一倍、死に物狂いだったのだと思う。
そんな死に物狂いに努力している人には自然と人が集まってくるのだろう。
世の中では、喋りが上手い人、コミュニケーション能力が高い人がのし上がっていくことは事実だろう。
しかし、死に物狂いで努力を重ねている人にも自然と人が吸い寄せられ、気づかないうちに人一倍の人脈が広がっていくのだと思う。
喋りが下手な自分には無理だ……
才能なんてない……
と憂いているのではなく、毎日努力を積み重ねていれば、どこかで点と点が繋がるのかもしれない。
死に物狂いで書くことに取り組んでいたら、どこか実りあるものにたどり着くのではないか。
そんなことを思いながら、毎朝ライティングに励むことにした。
お金のために仕方なく仕事をしていたけども……
「仕事だからきちんとしろ!」
アルバイトでも、社会に出ても、上司からこの言葉をよく突きつけられていた。
「これはお前の仕事なんだから」
私はその言葉を聞くたびに、少し後ろめたい気持ちになり、モヤモヤが心の中に芽生えてきた。
こんなこと自分がやりたい仕事じゃない。
自分がやりたいことだけに向きあいたい。
そんなことを思い描いていた。
最初にこのことを強烈に感じたのは撮影所でアルバイトをしていた時だった。
私は昔から映画が大好きだった。
どれくらい好きだったかというと学生時代に年間350本の映画を見て、TSUTAYAから年賀状が届くくらい映画を見まくっていたのだ。
(今思うと、なんでこんなに映画を見ていたのかよくわからないのだが)
映画を見まくっては、アホみたいに映画を撮りまくっていた。
大学時代には、毎日のように撮影で走り回り、あたかも自分は一介の映画監督になった気分でいたのだと思う。
そんな映画マニアだった私は、自然と映画の撮影所の現場を見たくて、うずうずしてきた。
ある時、家の近所にある撮影所でアルバイト募集の掲示が貼り出されていたので、私は飛びつくようにアルバイト採用に応募をした。
2、3日後に早速面接が決まった。
撮影所の所長みたいな人が来て、私は必死に
自分がどれだけ映画が好きか?
どれだけ撮影所のアルバイトをしたいか? を伝えていったと思う。
「ま、明日から来てみて」
私は採用が決まり、舞い上がっていた。
夢にまで見た映画撮影所の仕事である。
どんな世界が待っているのか……
私は興奮しながらも撮影所のアルバイトに向かった。
結果的に言うと、すぐに辞めてしまった。
超過酷だということもあったが、何よりも雑務の多さに耐えられない自分がいた。
撮影の現場に訪れたことがある人なら一度は痛感したことがあると思う……
映画やテレビドラマの撮影は、ものすごく時間がかかる上、待ち時間が異常にあるのだ。
ワンカットを撮ったら、照明やカメラのセッティングを直し、役者を踏まえてリハーサルを行い、2カット目を撮っていく。
特に照明のセッティングに時間がとてもかかる。
何回もリハーサルを行い、役者の顔に合わせ、照明を照らしていくのだ。
その照明のセッティングの際に、ケーブルを巻いたり、電源を入れたりする雑用をしていたのだが、とにかくそれは過酷だった。
約32時間ぶっ通して立ちっ放しである。
ドラマでもテレビの世界はみんなアシスタントからスタートする。
どこかクリエイティブで刺激的な世界に見えるが、実際は泥臭い仕事が多いのだ。
何10時間も照明を持って走り回り、弁当を手配したり、タクシーを呼んだり、自分より何歳も若い女優さんに頭をペコペコして、敬語を使わなければいけなかったりで大変である。
「好きなことをやっているんだからいいでしょ」
という人も多いが好きだからこそ、辛い一面もある。
映画の世界は過酷な肉体労働でもあったりする。
私は結局、その過酷な雑務に耐えられなくなり逃げ出してしまったのだ。
飲食店のアルバイトも長くは続かなかった。
心のそこでお金のためだから仕方なくやっているという感情が邪魔して、仕事にのめり込めなかった。
自分は本来、のびのびとしか環境で働きたいんだ……
物事を理解することが人一倍遅い私は、自分のペースでのびのびと仕事ができる環境を追い求めていた。
社会人の先輩からすると完全なゆとり世代の甘えである。
雑務な仕事なんてやってられない。
自分にはクリエイティブな才能がある。
どこか広告代理店のクリエイティブな人なら、自分の存在を認めてくれるはず。
そんなことを思っていたのだ。
社会に出てからも、ワードで資料を作ったり、エクセルで見積書を出すのは、
自分が本来やりたかった仕事じゃない。
お金のためだから仕方ない。
そんな感情が芽生えていた。
さっさと仕事を終えて、自分の私生活を充実させようと思いながら仕事をしていたのだと思う。
そんな時、この本と出会った。
尊敬しているライターさんが「今まで出会ったビジネス書の中でトップクラスに人に勧めたい本」と言いまくっていたとあるビジネス書だ。
その本とは、ワタミを一代で築きあげた渡邉美樹社長の「強く、生きる。」だった。
この本を読んでいる時、社会に出ても「お金のためだから仕方ない」
と思いながら仕事をしている自分がとても恥ずかしくなってきた。
学生時代のアルバイトでも些細な雑務もきちんとこなさず、いつも逃げ出していた自分が恥ずかしくなってきた。
この本の中には、渡邉美樹社長の人生観や働くことへの考えが詰まっていた。
「仕事は人生そのもの。よく働くことはよく生きることに他ならない。したがって、
仕事をごまかすことは人生をごまかすことになるんです」
どんな些細な雑務もきちんとこなしてきた人は、数年後、その仕事のプロフェッショナルになり、顔に年輪が刻まれていき、いい生き方をしている良い顔になってくる。
世の中の仕事の99パーセントは雑務である。
そんな雑務もきちんとこなせない人間には、大事は望めないということが書かれてあったのだ。
仕事をきちんとこなす人はやはり人間性も高いと思う。
やはり、世の中で頭角を出してくる社長や経営者などは、ビジネスの才能があるのはもちろんだが、何よりも仕事を楽しみながらしている。
どんな雑務も楽しみながらやっているのだ。
仕事だから仕方ない。
お金のために仕事しなきゃと思っていた自分が情けなくなってきた。
自分はこんなことやりたかったわけじゃないと思って、雑務を適当にごまかしていた自分が恥ずかしくなった。
どんな些細な雑務でもきちんとこなせない人間は何をやってもダメなのだ。
私はこの本を読んでいるときに、そのことを強烈に感じた。
世の中の仕事は99パーセント面白くもない雑務である。
だけど、そんな雑務でもきちんとこなせる人が、遠回りになるかもしれないが、大事を成せるのだという。
私にとって、この本は人生の指針にもなる本になった。
仕事に悩むビジネスマンがいたら、一度は読んでみてほしい本だと思う。
この本に書かれてあることをきちんと心に刻み、私は今日も満員電車の中に飛び込んでいく。
リクルートスーツという仮面に下にあるもの
この時期になるといつも思い出す。
満員電車の中、会社に向かっていると、たいていは新品のリクルートスーツを着ている就活生が一人はいる。
風貌は社会人に寄せているが、発しているオーラが明らか純粋な学生そのものなので、ぱっと見ただけで、すぐ就活生だとわかるものだ。
就活生はたいていスマホをいじりながら、必死に就活メールをチェックしている。
私はそんな就活生を見ると、いつも自分の就活をしていた頃を思い出してしまう。
何度の夢に出てきては、悪夢のように苦しまされた就活の日々を……
「就活なんてしないと思います……」
私はゼミの教授にこんなことを言っていた気がする。
教授は割と破天荒な人で、普通の生き方ができない人だった。
だから自分の価値観をわかってもらえると思ったのだ。
「確かに君は就活しそうにないな」
そんなことを言われた気がする。
私はその頃、アホみたいに映画を作っては、アホみたいに映画を見まくっていた。
何ヶ月も準備をして、ゾンビ映画を作ったりしていたのだが、撮影所のアルバイトやプロの現場に潜り込んで、映像の現場に入り込んでいた。
きっとこの道が自分には合っていると思っていたのだ。
「で、結局君は何がやりたいの?」
私はフリーのディレクターをやっている人にOB訪問をしている時に、そう言われた。
「映像が作りたいんです」
そんなことを言っていたが、心の底で迷いが生じている自分に気づいた。
実際に撮影現場などを見て、プロの現場の過酷さを身にしみて感じていたのだ。
休みもなく何10時間労働が当たり前の世界だ。
学生の自分にもこの世界が異常なことがわかっていた。
「映像なんて興味を持つなんてな。この世界は過酷だよ。辞めておいた方がいい」
そんなことを言われた。
私は迷っていた。
このまま好きなことを貫いてプロの世界に入るか?
それとも普通のサラリーマンをやるか?
私は結局「就活なんてしない」と言っておきながら、時期が来て、周囲の波に飲み込まれるかのように就活をしていった。
このままでいいのかという迷いもあった。
しかし、自分が好きなことを貫き通す自信もなかったのだ。
マスコミを中心としたテレビ局ばかりを受けていたと思う。
電通などのちょっとクリエイティブな人なら、自分の才能を見抜いてくれるだろうと、どこか傍観者の目線を持ちながら就活をしていたのだ。
そして、結局、落とされまくった。
なんで自分は落ちるんだろう……
その当時は本気でそう悩んでいたと思う。
グループ面接なら目立つことを言えば、通過できる可能性があったが、個人面接になった途端、一気に面接の通過率が減っていったのだ。
きっと喋りが下手くそな自分が悪い。
コミュニケーション能力を高めれば、きっと就活も上手くいく。
そう思っては、就活対策本を読みあさり、無料セミナーみたいなものに通って、
面接対策をしていった。
周囲がどんどん内定を獲得していく中、私は焦っていた。
「あいつ〇〇会社受かったんだって」
「すげーなあいつ」
久しぶりに大学に行くと、4年生は内定が出た会社名の自慢合戦みたいなものを始めていた。
そんな人たちを見て私は後ろめたい気持ちになっていた。
私はその時、内定ゼロだったのだ。
なんで自分はこんなにも努力しているのに、内定が出ないのか?
やはり内定を何個も取りまくる人は、大学のサークルでも中心的な人物だ。
コミュニケーション能力が高いため、面接官にも好印象を残しやすいのだ。
私はというと、面接の度にテンパってしまい、喋りがどもってしまうのだ。
就活の時は、自分のコミュニケーション能力の低さを恨んだ。
喋りが上手い人がのし上がっていく社会の厳しさを学んだ気がする。
私の就活はそんな感じだった。
とにかく苦しんでいた記憶しかない。
今でもスターバックスなどで、エントリーシートを書いている就活生を見かけると、昔の自分と重なって見え、苦しくなってくる。
自分もエントリーシートを書いては、落とされまくっていたな……
大学を卒業して、数年経っても今でも就活の苦しみが胸の中に残っているのだ。
そんな時、この本と出会った。
朝比奈あすか著の「あの子が欲しい」だ。
学生との駆け引きや、ネット上の情報工作……
全力で優秀な学生を確保するために走り回る採用担当者の奮闘を描いた物語だった。
私はこの本を読んでいる時、衝撃的だった。
え? 採用担当者ってこんなことで悩んでいるの?
私は就活する側だった時、「いいから内定をよこせ!」といった態度で面接に挑んでいたと思う。
面接官からいい反応がなかった時は、「あ〜今回もだめだ」と思っていた。
しかし、採用担当者からしたら「今回も優秀な学生と出会えなかったか……」
という視点になるのだ。
大手企業になると1日何100人という学生を集団面接する。
そして、その中から優秀な学生30人に内定を出しても、優秀な人ほど、他からも内定をもらっているので、内定辞退が出てくるという意味がわからないゲームが繰り広げられるのだ。
企業側の採用担当者もいかに内定辞退を減らすか? で奮闘しているのだ。
(このことを考えるといかに日本の就活が不毛なものだとわかる)
就活情報サイトに求人を載せると何百万もの大金がかかる。
学生一人採用するにも100万円近くの資金をかけて、選んでいくのだ。
採用担当者も本気で内定辞退を減らし、優秀な学生を囲い込みたい気持ちもわかる。
「私たちとしては、会社に守られたいという雑魚には来て欲しくないのよ」
採用担当者は結果を残すため、容赦なく学生を落としていく。
この会社ホワイトだし、なんか面白そうだから受けてみた……
という学生を面接で見抜き、落としていく。
結果的に、本気でこの会社で成長したいと心から思っている人とだけ、内定を出したいと思うのだ。
私は学生側の視点しか持ってなかったが、企業側の視点を考えるとそりゃそうだなと思ってしまった。
誰だって、なんとかくこの会社面白そうと思った人間と一緒に仕事したいとは思わないものだ。
採用担当者も必死に仮面をかぶった人間を落としていくのだ。
私はずっと就活で失敗したのは、コミュニケーション能力の問題だと思っていた。
面接でうまく喋れない自分が悪いと思っていたのだ。
しかし、今ならわかる。
私が就活に失敗した理由……
それは別のものになりたい自分がいたからだと思う。
その頃、私は猛烈に映画監督になりたかったのだ。
映画が撮りたくても時期が来て、就活をしなければいけなくなり、なんとかく自分の夢に近いところを受けていたのだ。
本心ではテレビや広告代理店といったクリエイティブな仕事をしたいというわけではなかった。自分の夢になんとなく近いことをやっている会社を受けているだけだったのだ。
面接ではきっと、腹の底からこの会社に入りたいと思っているいない自分を見抜かれていたのだろう。
私は容赦なく落とされ、優秀な学生を囲い込んでいる輪の中に入ることができなかった。
今も就活生を見かけると、いつも自分が就活をしていた時期を思い出す。
リクルートスーツを着た就活生の中で、どれだけ仮面をかぶった人間がいるのだろうか?
本来はやりたいことがあるのに、時期が来てしまい、仕方なく自分の夢と近いことをやっている会社を受けている人がどれだけいるのだろうか?
リクルーツスーツという仮の姿を剥がしたとき、その就活生が抱いているものは一体なんなのだろう……
「あの子が欲しい」という本を読んで、私はそんなことを思った。
日本の就活が理不尽なことはわかりきっている。
学生と企業側の嘘つき大会みたいなものになっているのも知っている。
しかし、実際に社会に出てみて、いろんな挫折を味わう中で、就活という制度も悪くないなと気づけた自分もいた。
どうせ社会に出ても、辛いことは山ほどある。
人生の早い時期に、自分のやりたいことときちんと向き合い、容赦なく蹴飛ばされる経験も必要なのかもしれない。
なんだかんだ言って、私はとことん就活と向き合っていたのかもしれないなと思った。
映画「3月のライオン 後編」を見て、今も人々から熱狂的な人気がある岡本太郎の絵を思い出した
「後編はどんなだろう?」
私は「3月のライオン 後編」の映画を楽しみに待っていた。
3月に公開された前編があまりにも良かったため、1ヶ月も焦らさないで早く見せろ〜と心の中で思っていたのだ。
前編を見たときは、驚いた。
「なんだこの格闘シーンのように描かれる将棋バトルは……」
そこには汗を流しながら、全身の体力を使って対局するプロの棋士たちの姿があったのだ。
将棋はマイナーで、座布団に座っておじいちゃんたちがやっているイメージがあったが、こんなに体力を使うものだとは思わなかった。
何十時間にも及ぶ対局が終了した時には、プロの棋士たちは動けなくなるという。
羽生棋士のような名人級の対局になると、一回の対局で2、3キロ体重が減るらしいのだ。
それほどまでに、体力と精神力を削ってまで、対局に挑むのが将棋という競技だったののだ。
私は映画「3月のライオン」を見るまで、これほどまで将棋の世界が厳しいものだとは知らなかった。
こんなにも熱いバトルが千駄ヶ谷にある将棋会館で繰り広げられているとは……
後編があるなら見に行くしかない。
そう思って私は後編が公開されるやいなや、さっそく映画館に飛び込んでいった。
新宿の映画館は、案の定、満席だった。
さすが根強いファンが多い羽海野チカ原作の漫画だ。
周囲はカップルやら、漫画が好きそうな女の子でいっぱいだった。
カップルだらけの映画館に妙な居心地悪さを感じながらも、私は席について映画が始まるのを待っていた。
最近、漫画原作の映画がやたらと多い気がしていた。
確かにプロデューサー陣からすると、ある程度ファンが獲得できている漫画を原作にしたほうが映画がヒットしやすいということもあるだろう。
ゼロから映画のストーリーを自主的に作るよりも、漫画原作を脚本にしたほうがヒットが見込まれる。
だけど、どうしても東宝の漫画原作の映画に満足しきれないでいる自分がいた。
ほとんどの東宝映画は見ているのだが、前編だけがやたらとストーリー展開が面白くて、後編がグタグタなものが多かった気がするのだ。
映画全体のクオリティーの話でなく、後編を見ると無理やりストーリーを終わらせた感がして、なんかパッとしない印象が多かったのだ。
それもそのはずである。
ほとんどの漫画を原作にした映画は、原作の漫画が完結していないのだ。
原作が終了していないため、前編は原作の漫画通りの展開ができるが、後編になると、自分たちでストーリーを作らなくてはならなくなるのだ。
そのためだろうか……
原作にないストーリー展開になった途端、映画全体がグダグタになりだすのだ。
たいていは後編の方からグダグダになりだす。
映画「3月のライオン 後編」も同じ感じだろうと思っていた。
漫画の原作にない部分になると一気につまらなくなると思ったのだ。
私はそんな前提を胸に秘めながら映画を見ることにした。
映画が始まった途端、私は思った通りだと思った。
やはり原作にない部分を描こうとしたらこうなるよな……
ちなみに私は原作の漫画は読んでない。
読んでから後編をみようと思ったが、あまりにも仕事が忙しすぎて読む暇がなかった。
だけど、映画を見れば、これ原作にある部分だな、これ東宝の人が創作した部分だなとある程度、想像はできた。
やっぱり全12巻もある漫画を2時間の映画にまとめるとこうなるよな。
ファンに傾倒しすぎて、シーンを盛り込みまくりストーリーに破綻が出てくるのだ。
私はあまりにも前編が面白かったので、後編はがっかりするだろうと思っていた。
そう思っていたが結果から言うと超良かった。
なんだこの将棋の対局シーンは!!!!
前編もそうだったが、後編も対局のシーンが素晴らしいのだ。
何なんだ、この面白さは。
自分をあえて追い込むことで、将棋に全精力をかけていくプロの棋士たちの物語がそこにはあったのだ。
私は映画の後半部分から前のめりになりながらも映画に夢中になっていた。
冷や汗が出るくらい緊張感がある対局シーンがそこにはあるのだ。
私は映画を見ているうちにどこか岡本太郎のある言葉を思い出していた。
「つねに死の予感に戦慄する。だが死に対面した時にこそ、生の歓喜がぞくぞくっと湧き上がるのだ。血を流しながらニッコリ笑おう」
あえて断崖絶壁に片足で立ち、自分を追い込んでいくような生き方をしていた岡本太郎は自分で自分を傷つけながらもそこから発せられるある種の狂った熱量が「太陽の塔」などの作品に込められているのだと思う。
自らを断崖絶壁に立たせるような生き方ができる人間がこの世にどれほどいるだろうか?
絶体絶命のピンチに追い込まれれば、追い込まれるほどそこから湧き上がるエネルギーが作品に込め始めるのだ。
多くの人が、死後20年経っても岡本太郎の絵に魅せられるのはそこが理由だと思う。
自らを断崖絶壁にあえて追い込み、血で染まりながらも作品に狂ったような熱量を込めていった岡本太郎のような生き方にみんな憧れるのだ。
普通の人にはそんな生き方できないであろう。
映画「3月のライオン 後編」の中盤以降で繰り広げられる対局シーンにもそんなことが描かれていた。
「将棋しかないんだよ!!!!」
生き残るために将棋をやってきた桐山零は、決戦の舞台に向け、全てを投げ捨ててまで将棋に打ち込んでいく。
対戦相手の後藤も、全てを捨ててまで将棋に集中していくのだ。
自らを断崖絶壁に追い込み、片足で立ちながら、狂ったエネルギーが全身から湧き出しているのだ。
一局、一局に血の傷跡を残すような、ほとばしるエネルギーがその対局シーンにはあった。
私は「3月のライオン」を見て、なんだか生きるエネルギーをもらえたような気がした。
自らを断崖絶壁に追い込んでいく生き方ができるのがプロの条件なのかもしれない。
全てを投げ捨ててまでも、目の前の好きなことに打ち込める人……
それがプロなのだ。
金銭面の問題や社会的な面で普通の人はそこまで好きなことに打ち込めないだろう。
だから、皆そんな人に憧れるのだと思う。
よく考えたらライティングも同じだ。
世の中には村上春樹よりも面白い文章を書ける主婦がいるかもしれない。
直木賞クラスの小説を書ける若者がいるかもしれない。
しかし、いくらプロ級のライターでも、アマチュアであって、プロではないのだ。
そこには自らを断崖絶壁に立たせてまでも好きなことに向き合える「決意表明」の差があるのだと思う。
私も自分の好きなことに向き合いたい。
しかし、岡本太郎やプロの棋士たちのように全てを投げ捨ててまで、そのことに打ち込める熱量があるのだろうか?
それでも好きなライティングに向き合いたい。
そんなことを映画「3月のライオン 後編」を見ながら思った。
福山雅治主演の映画「SCOOP!」を見て、社会人の仕事が何たるかを知った
「この生活いつまで続くの……」
私が大学生だった頃、一年先に社会人になった先輩が事あるごとに、そうつぶやいていた。
後輩である私たちの前では学生のノリを貫いているみたいなのだが、
どうやら仕事は結構辛いらしいのだ。
「早く転職したい……」
そんな事をつぶやいていた。
「そんな事言わないで仕事頑張ってくださいよ」
と私は他人事のように言っていたと思う。
私は学生の頃、そんな社会に出て仕事をするようになった先輩方をどこか他人事のように捉えていたと思う。
みんな仕事の愚痴を言うけども、仕事ってそんなに辛いものなのか?
好きな仕事に就けばいいじゃん。
そんな傍観者の目線を持っていたのだ。
私は社会に出ても仕事の愚痴は言わない……
仕事を好きになる……
そう思っていた。
どこか傍観者の目線を持っていた私も時が経ち、就活という得体のしれないものをすることになった。周囲に流されるかのように就活を始め、何十社と落っこちたが、私はとある制作会社に内定をいただいた。
私は学生時代に映画を撮りまくっていた。
ほぼ毎日何かしらの撮影をしていたのではないかというくらい映画を撮りまくり、映画を見まくっていたのだ。
約4ヶ月以上かけて40分間のゾンビ映画を作ってみたりもした。
アホみたいに映画を作り、アホみたいに映画を見て、私はあたかも一介の映画人になったかのような錯覚に陥っていた。
映像業界だったら自分が好きな分野である。
その世界ならわがままな自分でもなんとか続けられるだろう。
そう思っていた。
大学を卒業して、入社式がやってきた。
入社した途端、私は後悔することになった。
ボロボロの服を着て、目の下が真っ黒な先輩方がたくさんいたのだ。
この会社大丈夫か? と正直思った。
翌日は土曜日なのに、入社式の次の日には早速、休日出勤が決まった。
「え? 月に何回ほど休んでいるんですか?」
すると先輩方はこう答えていた。
「週に一回休める時もあるけど、大抵は月に0回だな」
私は驚愕していた。
言われたことと違う。
もっと調べてから入社する会社を決めろよという声もあると思うが、面接をする際、
「これだけきちんと休めるよ」という声を上司から聞いていたのだ。
しかし、実際に働いてみると月0の休みである。
ま、映像業界などそんなものかと思って私は必死に働くことにした。
働きはするものの、私はどんどんノイローゼになってきた。
毎日のように飛び書く罵声の中、深夜4時まで続く残業に頭がスパークしてきたのだ。
人間寝ないとやはり頭がおかしくなるものだ。
私はボ〜とした頭のまま、夜道をふらふら徘徊していた時もあったようだ。
私は社会に出ても、きっと自分は何か持っていると思っていた。
心のそこで何者かになれると信じて疑わなかったのだ。
どこかのクリエイティブな誰かが、「君は人と違った才能を持っている」と言ってくれるのを待っていたのだ。
「君はちょっと変わった考え方を持っている。映画撮ってみないか?」
そんなことを言われるのを待っていたのだ。
夢ばかり見ては、現実とのギャップに失望し、私はもがき苦しんでいた。
こんなはずじゃなかった。
そう思えて仕方がなかった。
いつものように4日も帰れず、フラフラの足で始発の電車に乗ろうとしていた頃、
私はホームに入ってくる電車に吸い込まれそうになった時があった。
自分でも驚いた。
あと一歩、立ち止まるのが遅かったら人身事故を起こしていたかもしれないのだ。
さすがにヤバイ。
このままでは死ぬ。
そう思った私は結局会社を辞めることにした。
辞めてからも私のノイローゼが続いた。
一度会社を辞めてしまうと、人間やめ癖がついてしまうものだ。
私はアルバイトすら怖くてできなくなってしまった。
私は自分の弱さを痛感し、仕事ができなくなってしまったのだ。
無職中はアルバイトを三回ほどやってみたが、どれも2週間ほどしか続かなかった。
仕事を覚えようにも制作会社時代の思い出がフラッシュバックしてきて、気分が悪くなってきてしまうのだ。
何個もアルバイトを辞めては応募を繰り返し、自分が好きだったレンタルビデオ屋のアルバイトにたどり着いた。
そこでのアルバイトは精神的に滅入っていた私でもなんとか続けることができるだろうと思ったのだ。
学生時代には年間350本もの映画を見てきた私である。
全く仕事ができずにノイローゼ状態になっていた私でも、レンタルビデオ屋の棚の配置は全て覚えていたのだ。
あれだけ貪るかのように映画を見ていたので、あ行からわ行までほとんどの棚を暗記していたのだ。
ここなら自分でも働けるかもしれない。
私は最後の望みを託すかのようにレンタルビデオ屋で働いていった。
社会に出て一度は挫折した私だが、レンタルビデオ屋で大好きな映画に囲まれながら仕事をしていると、徐々に精神が回復していった。
今まで出会ってこなかった素晴らしい映画とも出会えた。
毎日のように映画のパッケージに囲まれ、映画に携わっていると映画が心底好きな自分を再確認できたのだ。
やはり、映画に携わる仕事に就きたいんだな。
そう思った私は映画用のカメラやフィルムを製造販売している会社を転職で受けてみることにした。
あれだけ新卒の時は落とされまくったのに、精神が安定し、どこか心のゆとりがある状態で面接をしてみると、あっさり受かってしまうものだ。
私はけろっと転職することに成功したのだ。
その後、数ヶ月間レンタルビデオ屋で働き、4月から転職先の会社で働くようになった。
専門的な知識が必要で覚えることもいっぱいだ。
毎日、私の脳みそはパンク状態だ。
忙しい毎日を過ごしている時、帰宅途中にふと、以前働いていたレンタルビデオ屋に行ってみることにした。
人生どん底の時に、私が最後の望みを託すかのように辿り着いたレンタルビデオ屋さんである。相変わらず人はあまり入っていなかった。
もともと従業員として働いていたが、今回は客という立場で店内を徘徊していった。
するといつもはあまり見ることがない邦画コーナーでこの映画のパッケージと出会った。
私はそんなに興味があった映画というわけではなかったが、休日の暇つぶしにその映画を見てみることにした。
福山雅治の映画だ。
所詮アイドル映画っぽい代物だろうと思っていたのだ。
家のDVDデッキに入れて映画が始まった。
福山雅治……こんなことやっていいのか?
オープニングからかっ飛ばして下ネタの連続であった。
攻めに攻めまくっている福山雅治がそこにはいたのだ。
下ネタのオンパレードだったが、私は妙な懐かしさのようなものを感じながら映画を見ていった。
なんだろうこの感じ。
なぜか主人公の中年パパラッチを私はどこか他人事のように思えなかったのだ。
いつも酒飲んでは風俗ばかり通っている中年パパラッチでも、とある暗い過去を背負おっているものだ。
彼が背負っていた暗い過去が判明してくる後半には、私は前のめりになって映画を見ていた。
「プロのカメラマンになりたかったというよりかは、何者かになりたかっただけかもしれない……」
とある戦場カメラマンに憧れ、カメラマンになった主人公は毎日のゴミみたいな仕事に翻弄されながらも、こんな風でいいのかと迷っていたようだった。
こんな大人になってしまっていいのか? と自問していたのだ。
しかし、彼は結局カメラマンの仕事にした。
最後の最後まで、彼にはカメラしかなかったのだ。
カメラマンという仕事を貫き通した男の生き様がわかるラストシーンは必見である。
まさか、前半あれだけ下ネタ連発していた男にラストで泣かされるとは思わなかった。
こんなかっこいいラストシーンが待っていたのか。
最後の最後まで、一つの仕事を全うして命がけでスクープを追いかけた男の生き様がそこにはあった。
私はこれまで社会に出ても「何者かになれる」と心のそこで思っていたのだと思う。
自分はこのままでいいのか……
社会に出て転職をしてもずっとそんな思いを抱いていた。
しかし、何者かになりたいというよりも目の前の仕事、一つに絞って真剣に取り組むことが大切なのかもしれない。
最後の最後までカメラマンという仕事しかできなかった中年パパラッチから私はそんなことを学んだ。
何をやるにしても不器用で仕事が遅い私でも、
ある一つのことを貫き通した人間になりたい。
そんなことを思ったのだ。
それにしても映画「SCOOP!」のラストシーンは面白かった。
まさかあんな展開になるとは。
昔の松田優作の映画を彷彿させる映画だった。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を見て、昔を懐かしむ人がいたら、東南アジアに飛んでみてと言いたい
「昔は良かった……」
そんな声を私はよく聞いた。
「昔は飲み会の時も翌朝まで飲んだものだ。今の若い者はすぐ家に帰るからな」
「俺たちの頃はスマホなんてなかった。今はググればなんでも出てくるから若い連中は頭を使わない」
よく職場の上司にそう注意されては「昔のアナログの時代は良かった」という話を聞かされていた。
よく考えたら平成生まれの自分には、携帯がなかった時代に、待ち合わせをする際、どうやってお互い会っていたのかさっぱりわからない。
人でごった返している渋谷駅で待ち合わせなど神業のように思える。
スマホがなかった時代、多くの人は頭を使いながら仕事をしていたのだと思う。
今は、メールを送って一発で待ち合わせ完了だ。
小学生の後半に携帯が普及し始め、当たり前のようにスマホやLINEを使ってきた世代には、スマホがない時代のことを想像するのが難しいと思う。
私もスマホがない生活が想像できないのだ。
何か仕事上でわからないことがあってもスマホでググればすぐに見つかる。
待ち合わせ場所もLINEで決める。
知らない場所を行くのにもグーグルマップがあれば、地球の裏側でも自分の位置を確認できる。
こんなに便利なものがあると、人間は機械に頼りっきりになって、頭を使わなくなるというのもなんだかわかる気がする。
よく上司の人は言っていた。
「頭を使え! 自分の頭で考えろ」
確かにそれには一理ある。
どこか心のそこで昭和の世代の人たちを羨ましく思う部分もあるのだ。
スマホが普及していなかった時代。
人々は自宅の電話しかコンタクトを取れるものがなかったため、人とのコミュニケーションが今よりも密接だったと思う。
銭湯などに集まって、おじいさんから子供まで、意気揚々と日々の営みを過ごしていた気がするのだ。
どこか「昔は良かった」と嘆く大人がいるのもわかる気がする。
スマホが普及しすぎた現代は、人々のコミュニケーションは明らかに希薄化している。
LINEでなんでもコンタクトが取れてしまうため、お互いに面と向かって話す機会も減ってきた。
もはや電話すらしなくなった世代だ。
みんなLINEでコミュニケーションをするため、電話がかかってくることに慣れていないため、電話に出れないのだ。
この人とのコミュニケーションが無機質なものになった時代に生まれた私は、どこか心のそこで、昔は良かっただろうなという思いがずっとあった。
92年生まれの私は、生まれた頃から日本が不景気だったため、好景気だった時代を全く知らないのだ。
高度経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国だった頃の日本はどんな風だったのだろうか?
きっと人々の目もキラキラしていて、活気立っていたのだろう。
そんなことを思っていた。
どこか昭和の時代に憧れを持っていた私は映画「ALWAYS 三丁目の夕日」をなんども見て、昭和の姿を仮想イメージしていった。
きっと映画の世界観のように頑固オヤジがいて、子供達が意気揚々と駆け回り、人々の営みが東京でも繰り広げられていたのだと思う。
もはや今の日本では見られない原風景だ。
平成の不景気の世代でなく、経済成長に心踊り、みんなで明るい未来を描いていた世代に生まれたかったという思いが心の中にあった。
昔の日本の姿を見てみたい。
そんな思いに駆られていた。
ある時、友人にこんなことを言われた。
「日本より西に行けば、日本の過去の姿が見られるよ」
彼は世界中を飛び回るバックパッカーだった。
タイを訪れた時、日本の昔の姿を見られたと言っていた。
東南アジアは今、高度経済成長の真っ最中だ。
60年代の東京オリンピックで脇立つ日本の原風景の姿がそこにはあったという。
「日本より西の東南アジアに向かえば過去に戻ることができる。逆に東のアメリカに向かえば日本の未来の姿がみれる」
そんなことを言っていた。
確かにと思った。
経済成長が行き詰まり、不景気になったアメリカの姿は、日本の10年後の姿なのかもしれない。
私は経済成長真っ最中の東南アジアに非常に興味を持った。
一体、今の東南アジアでは何が起こっているのだろうか?
人々はどんな生活をしているのだろうか?
私はその時、ほぼフリーターの無職状態だったため、時間だけはあった。
今行くしかない。そう思い立ち、私はバックパックを背負って、タイのスワンナプール国際空港に降り立った。
空港から出た瞬間、蒸し暑いと思った。
なんだこのジメジメした気候は。
東南アジアはスコールが多いという。
常にジメジメした気候なため、洗濯物もキチンと乾かないらしい。
私はひとまず安宿が集まるカオサン・ロードに向かうことにした。
そこには世界中から集まってきたバックパッカーが連日お祭り騒ぎをしていた。
夜中まで続くパレード状態に私の耳はうんざりしながらも、私はタイの旅を楽しんでいた。
数日滞在したのちに、バスを使ってタイの中心街に出てみることにした。
すると、私は驚いた。
日本よりめちゃくちゃ栄えているのだ。
サイアム・スクエアという大型ショッピングモールは、明らか日本のお台場よりも華やかな場所だった。
世界中から観光客が集まり、サイアム・スクエアでショッピングを楽しんでいるのだ。
今の東南アジアはこんなに栄えているんだ……
これじゃ日本なんてすぐに抜かれる。
そんなことを思いながら、私はサイアム・スクエアを探索した。
ビルの上階には映画館があるのが見えた。
そういえば、タイの映画館ってどんなんだろう?
そんな風に思った私は、時間が合う映画を一本みることにした。
映画館の中に入り、上映が始まった。
私は周囲が騒がしいなと思っていると、みんな映画を見ながら大興奮しているのだ。
私が見たのはとあるハリウッドのホラー映画だったが、みんな恐怖の瞬間に大絶叫して、映画館内でパニック状態だった。
リアクションしすぎだろ……
と正直、思ってしまったが、こんなに映画館内で大興奮しながら映画を見るという習慣は日本じゃ考えられなかった。
日本ではみんなキチンと椅子に座って映画を見るだけだ。
タイの映画館ではみんなで大興奮しながら一本の映画を全力で楽しみながら見ているのだ。
そのことが私にとって大きなカルチャーショックだった。
よく考えれば日本の昔の映画館もこんな風景だったのだろうと思う。
角川映画の「セーラー服と機関銃」などが流行っていた頃は、女子高生から大人まで映画館に駆け込んで、薬師丸ひろ子主演の映画をみんなで楽しみながら見ていたのだと思う。
私はタイの映画館の中で、懐かしい日本の風景を見た気がした。
「日本より西の東南アジアに向かえば、過去に戻ることができる」
友人はそう言っていたが、確かにその通りなのかもしれない。
「昔は良かった」
そう嘆く大人がいたら、一度東南アジアを訪れてみるのもいいかもしれない。
きっと日本の原風景がそこには広がっている。
経済が行き詰まった日本はこれからどこに向かうのだろう?
そんな不安を抱きながら私は日本に帰っていったのだと思う。