才能がない自分が、毎日書き続けるなんて無意味だと思っていたけども……
ビビッ!
朝5時になり始める目覚まし時計の音に目を覚まし、私は毎朝飛び起きる。
夜はなるべく23時には寝るようにしているが、どうしても仕事をしていると6時間の睡眠を確保することは難しい。
それでもなるたけ早めに布団に入り、朝5時には私は飛び起きるようにしている。
熱いコーヒーを飲み、カフェインで無理やり、頭と働かせ、寝ぼけた脳みそのスイッチを切り替える。
PCの前に座り、昨日の晩に書いたネタ帳を開き、会社に出社するまでの時間までに一気に記事を書き上げる。
「2017年は毎日、記事を書く」
そのように去年の大晦日の晩に決意して、早5ヶ月。
なんとかこうして毎日渾身の記事を書き続けているが、ずっと心の中で抱えていたモヤモヤがあった。
それは……
才能がない自分が書き続ける意味なんてあるのか?
というものだった。
何かものを作るクリエイターになりたいという思いがあり、毎朝ライティングをするようになったのだが、書いては書き続けるうちに、だんだん自分の才能のなさを嫌でも痛感するようになったのだ。
自分より書く量が少ない人でも、あっという間に1万pvを超えて、大量のバズを発生させる人なんか何人もいる。
そういうライターさんを見るたびに、私は自分の才能のなさを感じ、劣等感に包まれる。
努力する意味なんてあるのか?
書く意味なんてあるのか?
そんなことを思うのだった。
私はどんなに渾身の記事を書いても1000pvがやっとである。
しかし、自分より3歳ぐらい年下の人でも、あっという間にあれよあれよと何万pvを突破するような人もいるのだ。
私はそんな人を見るたびに強烈な劣等感を感じていた。
自分でも嫌という程わかっている。
自分には才能というものがないということが……
しかし、才能がなくても努力で補えると思っていた。
「NARUTO」で登場するガイ先生とロック・リーが忍術が使えないなら体術一本に絞り、自分ルールを設けてがむしゃらに努力していくように、才能のなさを努力で補うことができると思っていたのだ。
しかし、現実は厳しいものだ。
どんなに努力しても才能の塊のような人には勝てないのだ。
私はほぼ同い年で、いつも大量のバズを発生させるライターさんを見ているうちに、どうしても自分の才能のなさを憂いてしまう自分がいた。
こんな風に毎日、記事を書いても意味があるのか?
努力する価値があるのか?
そんなことを思ってしまうのだった。
よく考えれば、私はこれまでいつも努力するということで逃げていたと思う。
大学受験の時も、自分の頭の悪さもわきまえず「努力すればなんとかなる」という予備校講師の言葉を信じて、早稲田やら国立ばかりを受けていた。
何もしないよりもマシだと思い、いつも朝早くから予備校に通い、意味もなく英単語を書きまくっていた。
「そんなに書いても頭に入らないでしょ……」
予備校で出会った友人にそう言われたが、私は「自分は頭が悪いから努力で補わなければならない」と思って、勉強効率なんて無視して、英単語を書きまくっていた。
結果的に私の大学受験は失敗に終わった。
今思うと私は努力することで現実から逃げていたのだと思う。
「がむしゃらに努力しているんだから、自分でも早稲田に受かるはずだ」
という意味もない根拠が、私を過信させていたのだ。
受かる連中は効率的な勉強法を考えていくものだ。
しかし、私は努力という防波堤みたいなものに苛まれ、自分の実力を過信していたのだと思う。
努力というものは本当に難しい。
努力することはもちろん大切だが、努力自体がその人の防衛手段のようになってしまうことがある。
自分はこれだけ努力してきたから、大丈夫でしょ。
努力してない人に比べたら、自分は実力が上に決まっている。
「自分は努力してきた」という自信が、自分の実力を過信させてしまうのだ。
私は努力の仕方を間違えた結果、大学受験には失敗した。
努力さえしていれば、東大に合格するようなレベルの秀才にも勝てる!
そんなことを思っていたが、生まれ持った才能にはやはり勝てないものだ。
私は毎日、ライティングを続けていると、どうしても努力に逃げていた自分の大学受験を思い出してしまう。
自分の努力は合っているのか?
そう思い、自分の才能のなさをごまかしている自分がいるのだ。
そんな時だった。
私はこの記事と出会ったのは。
尊敬してやまないとあるライターさんが書いた記事が私の目にこびりついていた。
その方は無内定のまま大学を卒業し、いろいろと社会をさまよった挙句、ようやくライターという仕事に出会えたという。
私はその人が書く文章を目にした時、どこか他人事に思えない自分がいたのだ。
就活に惨敗し、世の中をさまよっていたのも私だった。
いつも肩書きに縛られ、身動きが取れなくなってしまうのも私だった。
このライターさんのような記事を書いたいと思い、私は毎日文章を書くようになったという面もあった。
私はフェイスブックに上がった記事を見て、タイトルから一気に引きこまれてしまった。
自分が抱えていたモヤモヤの正体がそこにあったのだ。
「自分の才能のある無しは考えるだけ時間の無駄」
才能がある無しについてどうしても気になってしまうと、ある人に聞かれた時、
そのライターさんは
「才能なんてないわけないじゃん」ととっさに答えたのだという。
「才能のある無しなんて考えるだけ時間の無駄……そんな時間があるなら今ある自分の才能を伸ばすことに使え」というようなことが書かれてあった。
確かにその通りだと思う。
才能のある無しなんて気にしているだけ、時間の無駄である。
その時間があったら、目の前のことに真剣に取り組んだ方がいい。
私はどこかで自分の才能のなさを感じ、毎日努力を続けている意味なんてないと思っていた。
しかし、自分の才能なんて気にしているだけ時間の無駄なのだ。
今、自分ができる限りの渾身の記事を書き続けることが大切な気がするのだ。
「好きなことがあるのに、死に物狂いになれない人が信じられない」
とある人もそう言っていた。
毎日、こうして記事を書き続けられるから私はきっと書くということが好きなのだろう。
才能のある無しを考えている暇があったら、死に物狂いになって書き続ける。
それが答えなような気がするのだ。