ライティング・ハイ

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風呂に入ると、京都の寺にこもって座禅修行した日々を思い出す

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「ひらめいた!」

風呂場の中で、私は飛び起きた。

今ひらめいた記事のネタを頭の片隅に置いて、私は急いで風呂を出る。

 

忘れないうちにメモを取らなきゃ。

だけど、忘れるようなネタは大したことないものか……

 

私は大抵、記事のネタを思いつくのは風呂場の中だ。

浴槽の中に入ってボ〜としていると、頭の中が空っぽになり、その中からポツポツとアイデアが浮かんでくるような気がする。

 

ネタどうしよう……と考えている時に限って何も浮かんでこない。

風呂の中など、何も考えていない時の方が良かったりする。

 

それはプロのミュージシャンも同じようで、ミスチルの桜井さんも、曲が思いつくのはトイレの中だったり、自転車に乗っている時だという。

 

名曲の「sign」も酷い二日酔いの中、朝起きた時にふとメロディーが頭の中でなったらしい。

桜井さん曰く、頭の中を空っぽにした方がいい曲が作れるそうだ。

 

私はこの頭の中が空っぽな状態が、一番クリエイターにとって重要な時間のような気がしている。

私のようなクリエイターでもなんでもないただのプー太郎が言うのもなんだが、頭が空っぽの時ほど、いいアイデアが浮かんでくるのだと思う。

私にとって、それは風呂に入っている時が一番多い。

 

なんで、風呂に入っている時が一番記事のネタが思いつくのか?

この頭が空っぽになり、ボ〜とする感覚どこかで味わったような……

 

私はそんなことを思っていると、2月の寒さの中、京都の寺でこもっていた日々を思い出していた。

 

 

「え? 朝5時起きで15時間も座禅するの」

私はその時、京都のとある寺に来ていた。

 

2016年が始まった矢先、私は不運の連続だった。

まず、24歳ということで厄年だし、元旦で引いたおみくじは大凶だし、就活は失敗に終わるし、年明け早々女の子にフラれるし、私はもはや生きる気力がなくなっていた。

 

年明け早々、度重なる不運で私は精神的に滅入っていた。

そんな時にふと、京都の寺で座禅修行しようと思ったのだ。

 

座禅には興味があった。

大学の授業で小説家の先生がやたらと禅の奥深さを言っていたのだ。

その芥川賞を取ったこともあるその先生は

「禅に打ち込んで頭を空っぽにしている時に、一番斬新な小説のアイデアが浮かんでくる」

と言っていた。

 

アップル社のCEOだったスティーブ・ジョブズも本気で禅僧になろうとするほど、禅に傾倒していたという。

アメリカのグーグル社をはじめとしたシリコンバレーでも、禅に傾倒している人たちが多い。

 

私はそんな風にどこかクリエイターに刺激を与えている禅というものに興味を持っていたのだ。

 

大学生のうちにきちんと禅を勉強しようと思い、2月の寒さの中、私は雪が積もる京都に降り立った。

 

寺に着いた途端、驚いた。

「朝5時起きで、夜中の12時までぶっ通しで座禅……」

私が寺に入山した次の日は、仏教用語で「接心」と呼ばれる日で、朝から晩まで修行に励む日だという。

座禅初心者である私は、一ヶ月で一番過酷な日に寺に来てしまったのだ。

 

寺の中には4人ほどのお坊さんがいた。

「あの……自分なんかが15時間のぶっ通しの座禅に耐えられるんですかね?」

 

お寺のお師匠さんは笑いながらこう言っていた。

「これも何かの縁です。頑張って下さい」

 

寺に来て、いきなり朝の5時起きで、そこから夜の12時までノンストップで座禅である。

どう考えてもきつい……

 

寺にいた15人ほどの入山者がいた。

ガンに侵され、自分の人生を考え直したい人。

精神的にやつれ、仕事を休んで寺に来た人。

お坊さんになる予定の高校生……様々な人がいた。

 

「君、どエライ日に来たね」

とみな言っていた。

 

私自身もどエライ日に来てしまったと思った。

聞いた話によると、普段は1日3時間ほどの座禅らしい。

それが明日が「接心」ということで、15時間座禅するのだ。

 

悟るかもしれない……そう思った。

 

 

翌朝の5時、寺の鐘で飛び起き、私は寝起きのまま座禅を組まされた。

初めての座禅なので15分ほどで足の痺れがやってきた。

 

「接心」の日といえども、40分間に一度、10分の休憩があった。

その休憩のたびに禅堂から一階に降りて、足を組み直して血流を良くしていった。

そうしないと、とてもじゃないが40分間の座禅に耐えられなかった。

 

なんとか早朝の座禅を終えて、朝食の時間になった。

初めて食べる精進料理である。

味がしなかった。

 

生きとし生けるものを自分の体に取り組むという神聖な意味もあるので、おしゃべりなど一切せず、心を込めて精進料理を口にしていった。

 

茶碗についた米粒もお湯で溶かし、自分に口に注いだ。

私は毎日、生きているものからエネルギーをもらって生きていたんだな……

そんなことを感じた。

 

 

朝食を食べ、そこから一気に座禅に集中していった。

3時間ぶっ通しで座禅をし、途中で昼食をはさみ、残り半分の座禅に入った。

 

夕方の4時過ぎになると、私の体力は限界に来ていた。

足先はもはや血が一切めぐってなく、しびれを通り越して、激痛に変わっていた。

 

私は足の血流を少しでもよくしようと体を動かしたら

「動くな!」

とお師匠さんに怒鳴られてしまった。

 

この痛みを消すためには、無になるしかない。

脳みその回路を遮断して、心を無にする。それしか、足の痛みから逃れる方法がなかった。

私は必死の思いで、心を無にすることに努めた。

頭を空っぽにしようとしても、簡単にできるものではない。

周囲の雑音が耳に入り、とりとめない物事を考えてしまうものだ。

 

 

それでも私はなんとか心を無にすることに努めた。

 

いつしか夜の9時過ぎになっていた。

 

最後に寺の境内で座禅することになった。

2月の京都である。外に一歩出ただけで痛つくような寒さを感じた。

それでも私は寺の庭園を見つめながら、ひたすら座禅に打ち込んだ。

 

寒さを忘れるためにも、頭を空っぽにし、時間を忘れていった。

池の中からポチャンという音が聞こえてきた。

鯉が呼吸のため、口をぷくぷくしていた。

 

風の音がなびいていた。

雲ひとつない夜空には、大きな三日月が見える。

 

私はその瞬間、なんだか感慨深いものを感じた。

なぜか、自然の中に放り込まれているような感じがしたのだ。

自然と一体になっている感じ。

 

ふわっとして、心地よい気持ちがしたのだ。

何なんだ、この感覚……

私はその時、そう思った。

このどこか懐かしいようで、心地よい感覚は何なのだろう……

 

いつしか丸一日に及ぶ座禅は終わっていた。

私はシャワーを浴び、ぶっ倒れるかのように眠りについた。

 

翌朝、説法の時間にお師匠さんはこう言っていた。

「昨日の接心はお疲れさまでした。皆さんはいい座禅ができましたか?」

 

私は昨日の座禅で体力が著しく消耗していたので、ほとんど気力がないままお師匠さんの話を聞いていたと思う。本当にフラフラだったのだ。

 

お師匠さんは最後にこう言った。

「禅で大切なことは物事の本質を見抜くことです。周囲の雑音を取り除き、頭を無にした中で浮かんできたものがあなた自身を作るんです。この無になった時に現れるものを大切にしてください」

 

私はそのことを聞いた時、昨日の座禅の際に一瞬とても心地よい感覚に陥った時のことを思い出していた。

あのとき、私は世間の雑音から離れ、心を無にすることができていたのかもしれない。

 

お師匠さんのように悟りの境地まで達するのはとても無理だけど、少しは近づけたのかもなと思った。

 

私は短い間だったが、寺での修行の日々を終えて、新幹線で東京に帰っていった。

元の生活に戻っても、あの座禅中に体感した、妙な一体感を思い出していた。

 

あの感覚は一体何だったのだろうか?

頭を空っぽにした時に訪れた、あの直感が冴えきっている感覚は……

 

私は日常生活でも、風呂に入っている時にふとあの感覚を思い返すことがある。

風呂に入って、頭をボ〜としている時に、頭の中で湧き上がってくるもの。

それが私自身を作るものなのかもしれない。

直感が冴え切っている中で、ふと浮かんでくるもの……

最近はそれを書きとめて、こうして記事にしてみたりしている。

 

 

アップル社のスティーブ・ジョブズは世界に向けた新製品のプレゼンテーションの際も座禅を組んで一気に集中力と直感を研ぎ澄ませた状態でプレゼンに挑んでいたという。

 

ジョブズは禅に傾倒していたこともあり、アップルの基本理念は禅の影響を受けているらしい。物事の本質を見抜き、シンプルな構造とデザインを大切にしているのだ。

直感力が研ぎ澄まされた中で生まれるアイデアイノベーションを巻き起こすような製品を作るのだという。

 

頭を空っぽにした中で生まれるこの直感的なものは大切なのかもしれない。

 

無の境地から湧き上がってきたものがその人自身を作る。

頭を空っぽにした時に浮かんできたものを大切にしてください。

 

そういったお師匠さんの言葉を思い出しながら、私は今日も書くことに励んでいる。