常に何かが不安で、生きている実感がわからない人には、この映画が効くかもしれない
「どこ出身ですか?」
出身を聞かれるといつも私は困っていた。
私の出身は東京だ。
東京生まれ、東京育ちである。
「東京です」
と人に答えると「……」という地味な反応が返ってきて、会話が続かない。
東京出身というのはありきたりすぎて、会話のネタになりにくかった。
それに比べ、地方出身の人は
「群馬です」
「え? 私もなんだけど、群馬のどこですか?」
と次の会話のきっかけを作りやすいと思う。ましてや、同郷の人がいたら、地元ネタで盛り上がることができる。
自分の故郷を語れる人と出会えた喜びを噛み締めながら、話している姿を見て、
私は微笑ましく思っていた。
帰る場所があるっていいなと思っていたのだ。
私のような東京生まれ、東京育ちの人は、しっかりとした自分の故郷というものを持っていないと思う。
生まれた時から、コンクリートジャングルに囲まれ、毎朝の満員電車に揺られながら
会社に通っていた。
どこか生きている心地が常にしなかった。
自分の故郷を人に喋れることがずっと羨ましかった。
そのことを最近、再び痛感した出来事があった。
とある本屋さんの映画ラボに参加した時のことだった。
それは自分が好きな映画について語るという集まりだ。
多くの人が自分の血肉になっている映画について語っている中、私だけが困っていた。
自分に影響を与えた映画がパッと思いつかなかったのだ。
次々と参加者が自分の好きな映画について発表していく中、ある方がこう言っていた。
確か、「西の魔女が死んだ」という映画について女性が語っていた時だった。
「つらいことがある時、新しい刺激を求めるよりも、自分はここに戻れば大丈夫という場所を作ればいい」
その女性にとって、その映画は「ここに戻れば大丈夫」という指針になる映画だという。
都会の暮らしに疲れた主人公の少女は田舎で自然と共に暮らす魔女から生きる知恵を
学んでいく物語だ。
ある方はこう言っていた。
「自分は田舎出身で、親が農家だから昔から大地を耕す人に囲まれて暮らしていた。
東京に来ても、どこかその心が残っている。仕事で上司に怒られた際も、大地から野菜を取るだけで、人間は食っていけると心のそこでは思えて、なんでも耐えられることができる」
私が田舎出身の人に憧れる理由はそこにもあった。
子供の頃から豊かな大地に囲まれて、育った人はやはり精神が強いと思う。
自然から受ける恵みを感じ、すくすくと育った感があるのだ。
自分の価値観の軸がしっかりとしていて、ブレていない。
しっかりと地に足をつけて生きている感じがするのだ。
それに比べて私は常に浮足立って生きていた気がする。
常に何かが不安で、また何が不安なのかわからなかった。
その映画ラボで最後にある人はこう言った。
「都会で暮らす人がかわいそうなのは、生きている実感を他者からの承認でしか得られないところだと思う。仕事をしていても、周囲からの評価でしか満足を得られない」
私にとって、血肉になっている映画は何なのか?
ずっと頭を抱えていた。
しかし、その言葉を聞いて、私は思い出していた。
私の血肉になった映画……
常に何かが不安で、身動きが取れなくなっていた私の高校時代を支えた一本の映画。
「17歳のカルテ」
私はそう答えていた。
その映画を見た時は、私は高校生だった。
私の通う高校は都内でもわりと有名な進学校で、クラスから現役東大生が何名も出るような学校だった。
中学時代の受験勉強の時は、クラスでは優秀な方だったが、世の中には上には上がいるのだ。
私は高校に入ってから、全くその学校のレベルについていけてなかった。
全国模試で5位以内に入る連中がゴロゴロいるのだ。
私はいつも隅っこにいるような生徒だった。
高校2年になり、進路希望を提出するような時期になっても、私は自分が何をしたいのかわからなかった。
みんな取り合えず大学に進学するようだが、私は大学に行きたいとは思えなかった。
「大学には絶対行ったほうがいい」
と大人はみんな言うが、当時の私にはそんなところに行って、自分の人生において
何の役に立つかわからなかったのだ。
自分のクラスメイトは当たり前のように早慶を滑り止めにして、東大を受けるという人が多かった。
そういう人たちは、たいてい親も東大出身なので、プレッシャーが凄いかかっているのだ。それはそれでかわいそうだと思った。
私の親は特に大学を出ていない。私は普通のサラリーマン一家で育った。
高校2年の段階で自分が何をしたいのかわからなかった。
どこに向かえばいいかわからなかった。
ずっと生きている心地がしなかった。
そんな時に「17歳のカルテ」という映画に出会った。
私がこの映画を初めて見た時の衝撃は今でも覚えている。
ボーダーライン人格障害……
何不自由なく暮らしているが、常に何かが不安で、世の中を悲観的に捉えてしまう心の病だ。
人格障害という病名が付いているが、これは多くの人にも当てはまると思う。
自分の気持ちがわからず、常に浮足立って、生きている心地を持てないのだ。自分の
気持ちを理解することができなく、常に鬱な気持ちが身にまとっている。
そんなボーダーライン人格障害に悩む女性が主人公の映画だった。
私はこの映画の主人公を見ていると、他人事では思えなかった。私もこれと同じだと思ってしまったのだ。
目の前のことに集中できず、生きている実感を持てない感じ。
よく考えれば、東京生まれの多くの人に、この症状が当てはまると思う。
社会の雑音に苛まれて、「生きづらさ」を感じながら生活している人も多いと思う。
みんなどこかで、生きることを躊躇している感じもあるかもしれない。
主演のスザンナを演じたウィノナ・ライダーも同じくボーダーラインで悩んだ女性だった。
「シザーハンズ」の大ヒットで、トップ女優の仲間入りを果たしたが、
彼女は常に何かが不安で、自分が何がしたいのかわからず、鬱状態になっていた。
そんな時に、彼女が出会ったのがこの映画のシナリオだったという。
シナリオを見た瞬間、「これは私がやりたい役だ」と思ったらしい。
「みんな背中を押されたがっている」
アンジェリーナ・ジョリー演じるリサはこう言った。
「なんで誰も私のことを押してくれないんだ」と。
この映画のラストシーンは映画史に残る名場面になっていると思う。
私は年に数回、この映画を見直したくなる時がある。
とても元気をもらえるのだ。
明日も頑張ろうと思えるのだ。
常に浮足立って、不安に苛まれていても、この場所に戻ればなんとかなると思える映画が私にはこれだったのだ。
たとえ世界が嘘だらけでも、私はその世界で生きていく。
そう言って、スザンナは病棟を出て行った。
きっと、この世界は嘘だらけだ。
毎日のように繰り返される日常に満足できず、鬱な気持ちを感じることはこれからもあるだろう。
世界の綺麗な部分だけを見ていたいと思う日もある。
だけど、そんな嘘だらけの世界でも美しいと思える映画なのだ。
この映画は常に浮足立って、生きている心地がしなかった私を支えてくれた映画なのだと思う。