ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

アイルランドの少女の恋物語である映画「ブルックリン」を見て、今のアメリカが抱える問題について考えさせられた

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「あの橋の向こうには何があるんだ」

私はブルックリン橋を見ながら、そう思っていた。

 

大学生の頃、私は世界の中心を見てみたいと思い立ち、アルバイト代で金を貯めて、

一週間ほどニューヨークに行ったことがある。

 

マンハッタン島は驚きの連続だった。

本当に人種のるつぼなのだ。

3ブロックほど歩いたら、ガラッと建物から道路から聴こえてくる言葉も変わってくるのだ。

イタリア系からドイツ系、ユダヤ系、エジプト系、インド系、中国系、アフリカ系……

世界中すべての移民で構成されている街がマンハッタン島だったのだ。

 

本当にマンハッタン島を歩くのは刺激的だった。

私は約9時間ほどかけてマンハッタン島を南から北まで歩いてみたが、その島を一周することは、世界を一周することになるのだ。

ちょっと歩いたらドイツ系の移民が集まる街になり、また少し歩いたらイタリア系の移民が集まる街になる。

 

街の風景がコロコロ変わり、普通に歩いているだけで面白い。

世界中の人々を見ることができるのだ。

 

そんな中、休憩のために川沿いで休んでいると、マンハッタン島から見渡せるブルックリン橋が見えてきた。

あの向こうにはどんな移民の街になっているのだろう……

私はそんな思いに耽っていた。

 

私は結局、時間がないのでブルックリンには行けなかった。

それに夜は治安が悪いという噂を聞いていたので、近づきずらかったのだ。

 

ニューヨーク旅行から2年以上経っても、

あの時、ブルックリンを見ていればな……という思いはずっとあった。

古い煉瓦が並び、とても雰囲気がある街だと聞いていた。

 

アメリカ映画を見ていると、よくブルックリンの街並みが登場する。

アン・ハサウェイなど有名な俳優や女優はブルックリン出身の人が案外多いのだ。

スパイダーマンが暮らす街も原作ではブルックリンだ。

 

映画を通じてブルックリンを見ているうちに、私はやはり後悔をしてしまっていた。

あの時、時間がなくてもブルックリンを見ておけば……

やはり、どこかブルックリンに憧れる自分がいたのだ。

 

 

そんな時、いつものようにTSUTAYAを徘徊していると「ブルックリン」というタイトルの映画を見かけた。アカデミー作品賞を取った映画なので、私もタイトルだけは知っていた。

しかし、どんな内容の映画なのかは知らなかった。

私はいつも前情報を固めてから映画を見る癖があるのだが、今回だけは全くの知識なし状態で映画を見てみることにした。

 

ただ、ブルックリンが舞台の映画なのだということ以外に知識がなかったのだ。

 

映画を再生し、本編が始まった。

 

とにかく映像が綺麗だ。

1950年代のブルックリンの姿がそこにはあった。

 

マフィア映画などでよくブルックリンが登場するので、その街並みの美しさはだいたい知っていたが、ここまで綺麗な煉瓦が並ぶ街だとは思わなかった。

 

そして、私は本編を見ていくうちにずっと気になっていたことがあった。

それは、なぜ製作者はこの映画を撮ったのか? ということだった。

 

アイルランド系移民の少女がニューヨークのブルックリンにやってきて、悪戦苦闘する物語なのだが、どうも背景に凄い深いことが描かれている気がしてならなかった。

 

ただ移民の少女が成長していく物語には思えなかったのだ。

私は映画の中盤、ブルックリンにやってきた少女が教会でホームレスたちに炊き出しをしているシーンがとても脳裏にこびりついていた。

 

教会の神父さんは

「この人たちが今のアメリカを作ったんだ」

そう語っていた。

 

なぜ、純粋な少女がブルックリンで成長する物語にそんな描写を入れるのだと思ってしまった。

そして、アメリカ全土にいるアイルランド系の移民にはどんな歴史があるのか気になってしまったのだ。

 

私は正直いうと、世界史には疎い、

大学受験も日本史で乗り切ったため、世界史についてはどうも苦手意識を持っていた。

そして、何よりイギリスの領土問題のことをよく知らなかった。

アメリカ映画やイギリス映画を見ていると、アイルランドスコットランドの抱える問題がちらほら描かれている。

 

映画「タイタニック」でもセリフの中で、

「この船を作ったのはスコットランド人さ」など比喩する言葉があるのだ。

映画「トレインスポッティング」でもスコットランド出身のショーン・コネリーをやたら尊敬している描写があったりする。

 

アイルランド系とスコットランド系の移民が抱える問題がよく映画に出てくるのだ。

私は久々に世界史の教科書を開き、ネットなども使って色々調べてみた。

高校の時、きちんと世界史を勉強していればと思った……

 

そして、映画「ブルックリン」がアカデミー賞でもやたらと評価されている理由も見えてきた。

 

これはアメリカ社会が抱えている公共事業の問題を描いた作品だったのだ。

イギリス本土から外されたアイルランドの人々の多くが、自由を求めてアメリカに渡って行ったという。アメリカに渡った彼らは、元からいた白人達がしているホワイトカラーの仕事にはつけなかったため、仕方なく土木工事の仕事についていたのだ。

 

しかし、アメリカの高度経済成長が進むにつれ、工事も終わっていき、雇われ労働者だったアイルランド系の移民は職を失ってしまうことになる。

 

教会の神父さんが言っていた言葉の意味はそれにあるのだ。

アイルランド系の移民がアメリカを作ったのに、事業が終わるにつれ、職を失ってしまったのだ。

 

去年公開されたこの映画がやたらと評価される理由もそこにあるのだと思う。

アメリカ大統領選でトランプを支持している人たちの多くが、このアイルランド系の移民たちなのだ。

自由を追い求めてアメリカにやってきたのに、公共事業の問題から職に就けず、アメリカの隅っこに追いやられたアイルランドをはじめとした移民たちがトランプ支持に回ってきたのだ。

 

 ブルックリンという街はそんな移民たちが暮らす街も象徴しているのだ。

おしゃれなカフェなどで賑わっているが、今も貧しいアイルランド系移民の多くがブルックリンという地で暮らしているという。

 

映画「ブルックリン」は、アイルランド系の少女が恋を通じて成長していく物語だと思って見ていたら、アメリカが抱えている移民や公共事業の問題を描いた傑作映画でもあったのだと気づいた。

 

この映画を見て私は、もっと世界のことを知らなければいけないなと痛感したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成生まれのゆとり世代はみんな、実は「岡本太郎」を目指しているんじゃないの?

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「また、こいつか……」

ツイッターをやっていると、週に2、3回はある職業の人からフォローを受け取ることがあると思う。

それは、ゆとり世代が生み出した新しい職業かもしれない。

自由を謳歌し、自分らしい生き方を常に模索する平成生まれのゆとり世代は、究極のところ、あるジャンルの職業にたどり着いた。

それは……

 

ノマドワーカーだ。

 

ツイッターをやっている人なら、皆一度は自称ノマドワーカーからフォローを受けたことがあるはずだ。

 

スマホ一台で簡単にできる。

時間も場所も気にせず、自由に仕事ができる。

就活なんて時間の無駄。僕は海外を旅しながら仕事しています。

 

など、本当にそれで食べていけているのかわからないが、プロフィール欄にはよく、こんなことが書かれてある。

 

ノマドとは、いわば「遊牧民」のことを意味する。

インターネットの技術の発展により、オフィスで働く必要がなくなった現代を象徴する職業なのかもしれない。

 

しかし、全員が本当にノマド遊牧民」となって自由気ままに生活できているのかは疑問である。

本物のノマドワーカーと自称ノマドワーカーが絶対いるのだ。

 

好きでもない仕事に時間を費やすのは、もったいない。

自由気ままに生きよう!

という風潮がどうもゆとり世代を中心に覆っているのだ。

(そういう私も、そんな自由気ままな仕事に憧れる一人だが……)

 

しかし、実際のところ世の中そんなにあまくない。

ノマドワーカーと言っても、毎回仕事がその人に入ってくるのは稀だ。

インターネットを駆使して、しっかりとその人しかできない仕事を確立していないと、あっという間に自称ノマドワーカーというフリーターとほぼ変わらない生き方になってしまうと思う。

 

ツイッターを使ってやたらとフォロワーばかりを増やしている人はどうもそんな自称ノマドワーカーを気取っている様な気がしてならない。

 

なんで、自分も含めゆとり世代は、自由気ままな生き方に憧れるのか?

私はずっと疑問に思っていた。

 

ありのままに生きよう。

自分らしくあろう。 

と平成の教育で先生から言われ続けてきた果てがノマドワーカーなのだと私は思う。

 

インターネットが発達した現代なので、そう言った生き方も全然アリなのかもしれない。

しかし、なんだか私は違和感があった。

 

自由気ままに生きているだけでいいのか?

それ相応のものを背負う羽目になるのではないか?

 

 

私はそんなノマドという遊牧民を見ているといつもあの芸術家の姿を思い出していた。

 

それは岡本太郎だ。

 

 

芸術は爆発だ

このフレーズで有名な岡本太郎が亡くなって、もう20年以上経つ。

私は岡本太郎を知ったのは、渋谷駅にある「明日の神話」という絵がきっかけだった。

子供の頃から度々、渋谷駅にいくことがあったが、井の頭線のホームを出たところにある大きな壁画が、実は岡本太郎が描いたものだと知ったのは、中学に入ってからだった。

 

なんだこの胸にくるエネルギーは……

渋谷駅を利用するサラリーマンは毎朝こんなものを目にしながら通勤しているのか……

私はそう思っていた。

 

とにかく彼が残した絵から発せられるエネルギーが凄まじい。

血が飛び散るかのように、渋谷駅の壁に巨大な絵が飾られているのだ。

 

私は今だに多くの人を魅了する岡本太郎とは一体何者なのだろうかと思って、彼のアトリエや記念館を回ったことがあった。

 

岡本太郎記念館は、案外家の近所にある。

自転車で45分くらだ。

東京と神奈川の県境を越え、川崎の山を登ったところに岡本太郎記念館はあった。

私は初めて、その記念館を訪れた時は、衝撃的だった。

 

彼が残した絵に圧倒されてしまったのだ。

言語を超越した私の感性に、彼の絵がダイレクトに突き刺さった。

 

なんだこの世界観は……

私は彼の絵を見ながら気付いたら3時間以上、記念館の中に居座ってしまった。

記念館の隅に設置してある椅子に座り、私はずっと岡本太郎の世界観を堪能していた。

 

このエネルギーは一体……

血が飛び散るかのように、とてつもないエネルギーの塊が私の目の前にはあった。

 

私は記念館の中には、美大系の人だけでなく、一般のサラリーマンや主婦、子供達から様々な人がいることに驚いた。

10代から20代の人も多く見かけた。

 

ありとあらゆる人を魅了し続ける岡本太郎

なぜ、多くの人は亡くなって20年以上経つのに、今だに彼の絵や生き方に感化されるのだろうか?

 

私はそんなことを思いながら、記念館を一人回っていた。

 

私は通路を渡ったところの柱に書かれてあった、ある文章がとても気になった。

どこかの作家が書いた文章かもしれない。

岡本太郎を表す一言が書かれてあったのだ。

 

岡本太郎は金太郎飴のような存在だ。どこをどう切り取っても岡本太郎になるのだ」

 

私はなるほどなと思った。

実は、ゆとり世代のはじめ、多くの人を今でも岡本太郎の生き方に憧れる所以はそこにあるのかもなと思ったのだ。

 

彼はよく言っていた。

「絵描きやら現代芸術家と言ってその人の職業を区別するなんてくだらない。

私の職業をあえて言うなら……それは人間です」

 

 

社会の枠組みにはまり、職業を区別することに異議を唱えていた岡本太郎は本当に自由に自分の時間を使っていたのかもしれない。

 

ある時は、絵を描き……あと時は縄文土器を分析し、学会に発表し、ある時はカメラマンとなって写真を撮る。また、ある時はテレビのバラエティ番組に出演し、お茶の間の人気者になる。

 

職業の枠組みにはまらず、彼が溢れ持っていたエネルギーをありとあらゆる場所に向けて放っていたのだ。

 

社会の枠組みの中で毎日をすごす生き方に不満を覚える人が彼の生き方に憧れを抱くのはそこなのだと思う。

 

職業の枠にとらわれず、自分のエネルギーを自分が使いたい場所で使う。

そんな生き方に憧れるのだ。

実はノマドワーカーの原型は、50年くらい前に岡本太郎が実践していたのかもしれない。

 

 

岡本太郎は自由気ままに生きていたからと言っても、遊んでいたわけではない。

自分の肉体を削り取るほどの、自分の血肉を使って溢れ出るエネルギーを作品に注いでいたのだ。

 

あれほどのエネルギーを注がないと多くの人を惹きつける作品は作れないのだと思う。

 

平成生まれのゆとり世代の多くが、職業の枠にはまることなく、自由気ままに、自分らしく生きたいと望んでいる。

そんな社会の枠組みの中でもがき苦しむゆとり世代こそ、岡本太郎から学べることがあるのかもしれない。

 

自由に生きたいと言っても、岡本太郎ほどの覚悟とエネルギーがないといけないのだと思う。

 

彼は死に直面した時のゾクゾクと湧き上がる生の歓喜がたまらなく好きだと言っていた。

自分の血肉を削るまで、エネルギーを注げるものがあることが自由気ままに生きていい人間の証なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来に先回りする思考を考えていたら、坂本龍馬が明治維新を達成できた理由がわかった

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「この本は読んでおいた方がいい」

とあるベンチャー企業を立ち上げた友人にこう言われた。

私は最近、文章を書くようになって、嫌でもインプットが足らず、本をなるべく読むようにはしていたが、ビジネス書だけはどうも苦手だった。

 

まず、ビジネスをやっていないため、自分には何の得にもならないんじゃないかと思っていたのだ。

それに自己啓発本というものに苦手意識を持っていた。

人生の教訓を学んでも、本を読んだことだけで満足仕切ってしまう気がしていたのだ。

だから、私は普段ハウツー本というものはあまり読まなかった。

 

「この本は面白い。自分はものすごく考えさせられた」

彼は本に書かれてあった内容を生き生きと語っていた。

実際にビジネスという名の戦場で戦っている彼には、とても痛感できることがあったのだろう。

 

論理的に、しかも的確に本に書かれてあった内容を教えてくれた。

「ビジネスにおいても人生においても、すべてはタイミングなんだ。

未来を予測してここぞというタイミングを掴む感覚の大切さが書かれてあるんだ」

 

あまりにも生き生きと彼が話すので、私はこの本に興味を持ち始めていた。

 

タイミングについての本なのか?

どんな内容なのだろうか?

 

私は早速、本屋に問い合わせてこの本を買って読んでみることにしてみた。

それは21歳の若さで起業し、ものすごい勢いで急成長したベンチャー企業の社長が書いた本だった。フォーブスの「未来を救う起業家ベスト10」にも選ばれた人だ。

 

本のページを開いていった。

電車の中で読み始めたと思う。

 

難しい……

難しすぎる。

 

もし、自分がビジネスをやっていれば読み方も変わっていたのかもしれない。

しかし、ただいまフリーターのプー太郎である自分には、この本はちょっと難しすぎるような気がしていた。

普段も頻繁にブログなどを更新し、文章を書くことが好きな社長本人が明らかに本を書いている。ライターを使っていないのだ。

だからかもしれないが、難しい用語が頻発してきて私は頭を悩まされていた。

 

言いたいことはわかるんだけど、もっとわかりやすく説明してくれないかな……

正直、そう思いながら私は本を読んでいった。

 

明らかIQ200を超えている人が書いた文章なんだ。

自分のようなポンクラにはどうも難しかった。

 

しかし、私は読み続けた。

内容が面白かったからだ。

ものすごく考えさせられたからだ。

 

私はずっと若くして成功するような起業家はコミュニケーション能力も突き抜けていて、人を惹きつける魅力がある人だと思っていた。

 

就活を通じて嫌というほど痛感したのだが、世の中は学歴や経歴はもちろん必要だが、喋りがうまい人が一番強いのだと思っていた。

人生でのし上がっていくような人は頭の回転が早いのはもちろんだが、とにかく喋れるのだ。人を魅了する喋り方を熟知している。

 

能力が高い東大生のすべてが起業して上手くいくとは限らないのはそのためだと思う。

何よりも喋りが上手く、人を惹きつけられる人だけが生き残るような気がしていたのだ。

 

フリーランスの世界などもそうである。

そのひと自身の能力や魅力に応じて「もう一度、この人と仕事したいな」と仕事が振り分けられるのだ。

喋っていて「この人面白い」と思われるかが結構大切なのだと思う。

 

私は昔からどうも喋りが苦手だった。

人とのコミュニケーションが苦手なのだ。

だから、喋りが上手く、世渡り上手な人を見ると、いつもうらやましく思っていた。

自分には到底できないと思っていたのだ。

 

 

しかし、この本では自分の価値観を大きく変えるようなことが書かれていた。

 

「短期間で大きな企業を作り上げた経営者の中でコミュニケーションが高く、人望が厚い人であることは意外と稀。その代わり、共通して持っているものが世の中の流れを汲み取り、今どの場所にいるのが最も有利なのかを適切に察知する能力だ」

 

とにかく成功する人は世の中の流れを汲み取り、タイミングを掴むのが絶妙にうまいのだという。

早すぎても技術が追いつかず失敗し、遅すぎてもライバル企業に追い抜かれてしまう。絶妙に絡み合ったタイミングでビジネスを展開させていくのだ。

 

スマホタブレットのコンセプトは随分昔からあったが、コストが高く、重すぎるなど様々な理由で普及していなかった。端末製造のコストが下がり、ネットの回線が十分に速くなったタイミングで登場したからこそ、iphoneは成功したのだ。

アップル社はタイミングを捉えるのが他の企業よりも圧倒的にうまかったのだという。

 

すべてを決めるのはタイミングである。

その重要性が社長の実体験とともに細かく書かれてあった。

私は夢中になりながらこの本を読んでいった。

 

なるほど。そういうことか。

そうだったのか……

ものすごくIQが高い人が書いた文章のため、考えていることについていくのが大変だったが、私はとても考えさせられてしまった。

 

そして、タイミングの話を読んでいるうちに尊敬してやまない坂本龍馬を思い出していた。

私が「竜馬がゆく」を始めて読んだのは高校3年生の時だった。

受験勉強の一貫として、苦手だった近代史を勉強しようと思い、本を手に取ったのだ。

 

私は号泣したのを覚えている。

この人がいたおかげで今の日本があるのか……

もはや受験勉強をそっちのけで「竜馬がゆく」を読んでいた。

龍馬は日本中を走り回り、敵対していた薩摩と長州を結びつき、日本をあるべき姿に変えていった。私はそんな龍馬の姿に憧れを抱いていたのだ。

 

しかし、坂本龍馬は昔からスーパーマンのように日本中を走り回っていたわけではないのだ。26歳の頃まで、ほぼプー太郎状態である。

グータラ昼寝をしているときに、千葉道場の人から

「何で龍馬さんはいつもグータラしてるのですか?」

と尋ねられ、

「時を見計らっているのだ。まだ、動き出す時期じゃない」

と言って、時期を見計らっていたのだ。

周囲の人間は馬鹿にしていたという。

あのプー太郎が何を言ってんだ? そうヤジを飛ばしていた。

 

しかし、坂本龍馬はペリー来航や安政の大獄で激動していた幕末の日本の情勢を読み取り、人々の動きを察していたのだ。

今は動くべき時じゃない。

自分がすべきことはこのタイミングではない。まだ、時を待とう。

 

そして、ここぞというタイミングで脱藩し、ものすごい勢いで日本を変えていったのだ。司馬遼太郎は、流星の如く現れ散っていった坂本龍馬の姿を

これでもか! というくらい情熱をかけて小説で書いていった。

 

もし、龍馬が激動する幕末の日本で、あのタイミング、あの時期に薩摩と長州にコンタクトを取らなかったら、日本を変えていくことはできなかったのかもしれない。

 

薩英戦争ののちに、欧米諸国の強さを痛いほど感じたため、武士道の精神が強く頑固者が集まる薩摩と長州を動かせたのだ。

 

世の中を変えていくような人は皆、タイミングを捉えるのがうまいのだと思う。

早すぎてもダメだし、遅すぎてもダメなのだ。

 

私はそんなタイミングを計ることができるのだろうか?

しかし、ここぞという時のタイミングに向けて、今はせっせと情報を集めるしかないのかもしれない。

私はまだ、自分がやりたいことが何なのかわからない。

しかし、目の前にあることと向き合って、常に世の中にアンテナを張っていたら見えてくるものもあるのではないか?

 

 

 

普段、ビジネス書をあまり読まない私でもこの本はいろんなことを考えさせられた。

「未来に先回りする思考法」

株式会社メタップスの社長が考える未来の姿は本当に凄かった。

いつの時代も世の中を変えていく人々は常に未来の姿を予測してるのだ。

 

 

 

「魔法少女まどかマギカ」を見て、弱さを抱えた自分のトラウマが、実は最大の武器にもなると気付かされた

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私はこのアニメを舐めてかかっていた。

本当に舐めていた。

始まりは、とある人が書いた文章がきっかけだった。

「大人になってからもまどマギだけは見たほうがいい」

フェイスブックでシェアされていた記事を見たとき、私は何で大の大人が魔法少女もののアニメを見ているのだろう? と思っていた。

 

どう考えてもおかしいだろうと……

しかし、その記事はいろんな人にシェアされ、私のフェイスブックのタイムラインは一時期、まどマギ一色になったのだ。

「本当にまどマギだけは見たほうがいいですよ」

「大人がハマるアニメです」

 

そんなコメントがタイムラインで飛び交っていた。

 

何なんだ……まどかマギカって?

 

私はあまりアニメは得意ではなかった。

特にセカイ系と呼ばれるジャンルのアニメは大の苦手だった。

セカイを変えるだの何だので、話が壮大すぎてついていけなくなるのだ。

これまでにいちよ流行ったアニメは何となく見るようにはしてきた。

涼宮ハルヒの憂鬱」もみたし、「攻殻機動隊」もみた。

どれも面白いと思ったが、物語の展開についていけない自分がいたのだ。

 

どうしてもセカイ系のアニメとなると、難しい展開になって物語についていけなくなるのだ。

それにアニメファンが好きそうなアニメがどうも苦手だった。

画面の中で美少女の絵が出てきて、何だか現実逃避のためにアニメを見ている気がして、どうも違和感があったのだ。

 

日本のアニメは世界的に人気なのは知っていた。

私が以前、東南アジアでバックパッカーの旅をしていた際も

やおい漫画って知ってるか?」

「ナルト面白いよな」

「日本の漫画大好きなんだよ」

などと、タイやベトナムのいろんな人に声をかけられた。

 

タイの中心街、サイアムスクエアには巨大なアニメイトがあり、

欧米から中東まで世界中の人々でごった返していた。

みんなガンダムエヴァンゲリオンのことを知っているのだ。

 

本当に日本のアニメって凄いんだな……

私はそう思った。

 

そんな出来事があったため、私は日本に帰ってきてからもなるべくアニメをチェックするようにはしていた。

日本が誇る世界に通じるコンテンツは、間違いなくアニメである。

君の名は。」も「聲の形」もすごかった。

聲の形」なんて、アニメでこんなに重たい内容を描くなんて凄いと思った。

そして、観客層が皆、若い人からお年寄りの方まで幅広くいることに驚いた。

 

もう、オタクだけがアニメを見る時代じゃないんだ……と思った。

すべての老若男女にアニメは受け入れられているのだ。

 

2016年は日本のアニメの凄さを思い知る年でもあった気がする。

本当に日本のアニメは世界で受け入れられているのだ。

 

それでもだ!

 

それでも魔法少女が何だかよくわからないものと戦う「まどかマギカ」だけは、見る気がしなかった。

プリキュア」や「セーラームーン」みたいな話だと思っていたのだ。

大の大人が魔法少女もののアニメを見て、号泣するなんておかしいと思ったのだ。

芸能界でも、おぎやはぎ東野幸治などがまどマギを大絶賛し、話題になっていた。

 

まどマギは世界に通じるコンテンツです。クリエイターを目指す人なら一度は見なきゃいけない」そうテレビでコメントされていた。

 

まぁ、休みの日に2、3話ぐらいは見てみるかと思って、私はTSUTAYAに行き、

まどマギを2巻分だけレンタルしていった。

どうせ今までみたいに途中で飽きて、投げ出すと思ったのだ。

どんなアニメを見ても、登場人物が繰り広げる世界観に共感できず、挫折してしまっていたのだ。今回もどうせダメだと思ったのだ。

 

DVDデッキのスタートボタンを押し、再生を始めた。

最初の頃は普通の美少女もののアニメだった。

 

なんだかハズレだったかな。

私は正直、そう思った。

初っ端からアニメ独特の世界観に私はついていけなくなってしまったのだ。

前情報によると、どうやら3話目にトンデモナイことが起こるらしい。

3話まで待たなきゃならないのか……私はそう思っていた。

 

 

しかし、1、2話と見ている時、妙な胸騒ぎだけはあった。

なんだこのゾクゾクする感じは。

物語が進むにつれ、このアニメひょっとしたらトンデモナイものなんじゃないか?

美少女もののアニメだけとこれまでとは何かが違うのだ。

なんだこの胸騒ぎは……

 

 

そして、問題の3話になった。

後半のとある展開を見た瞬間、こう叫んでいた。

 

「なんじゃこりゃああぁぁぁ」

私はぶったまげてしまった。

 

なんという斬新な演出なんだろうか。

これ、どう考えても従来の魔法少女アニメとは全く違っていた。

凄い……

斬新すぎる。

 

私は急いで、TSUTAYAにもう一度行き、劇場版を含めて、残りの巻をすべてレンタルし、見ることにした。

 

物語が後半に進むにつれて、少女たちが抱える残酷な運命が明らかとなり、私の胸はチクチクと痛み出した。

魔法少女もののアニメを見ているのに、胸にトゲが刺さるようにチクチクと痛み出すのだ。

何だこの胸の痛みは。

何でこんなにも苦しいんだ。

 

結局、劇場版も含めてあっという間に見てしまったのだ。

こんなに面白いアニメがあったなんて……

私には衝撃的な内容だった。

明らかに傑作中の傑作アニメなのだ。

 

人間誰しもが持つ、心の穢れを描いたものすごく深いアニメなのだ。

昔から伝わる言い伝えには、必ずと言っていいほど、穢れが描かれてきた。

神聖で清らかなものほど、同時に穢れを身にまとっていると考えれてきたのだ。

 

キリスト教の聖書に出てくるマグダラのマリアも売春婦として描かれている。

日本古来から伝わる言い伝えの多くが清らかなものほど、穢れを浄化する存在として崇められてきた。

神社の巫女さんが、風俗嬢の起源と言われているのはそのためだ。

 

そんな人間本来が持つ心の穢れを描いたのが「まどかマギカ」だった。

神聖で清らかな存在だと思っていた魔法少女たちは、実は近いうちに残酷な運命が待っていることが明らかになっていくのだ。

 

なんという斬新なアニメなのだろうか。

中盤から自分たちが信じていた価値観がひっくり返っていくのだ。

 

私はこのアニメが作られた背景がとても気になった。

誰なんだ、この傑作アニメを作った人物は。

どんな人が作ったんだ。

 

アニメーターや監督の人たちが優秀なのだろう。

劇団イヌカレーの空間演出など、新しく斬新で凄かった。

アニメを作り上げたクリエイターの人たちの総力が結集され、あの斬新な演出が作られていったのだ。

 

そんな「まどマギ」を作り上げていった人の中でも私は脚本家の虚淵玄さんに注目してしまった。

あんなに面白い物語を書く人は一体どんな人なんだろうか? と思ったのだ。

 

私は「まどマギ」の脚本家である虚淵玄さんが出演した爆笑問題のラジオをYOUTUBEで聴いて見ることにした。

さすが、ラジオだ。

中々、普段では聞けないような深い話がいろいろ聞けた。

とてもフレンドリーで何でも話してくれる虚淵さんにリスナーの人からこんな声が出てきた。

虚淵さんの作品の本当が、途中まで正義と信じていたものが、実は邪悪な存在だったと価値観が変わるような展開になるのですが、ご自身でも以前に価値観が変わるような経験があったのですか?」

という質問がきたのだ。

 

虚淵さんはこう答えていた。

「実は僕、強い左翼思想を持った父親に育てられたんですよ」

 

え? 左翼?

どんな環境で生まれ育ったんだ。

 

「父は本気でソ連はパラダイスだと思っていたんです。だけど、80年代後半になり、自分が信じていたソ連が、実は陰では残酷なこともやっていたということが明らかになって、結局、父は左翼的な思想を捨ててしまったんです。

幼少期にそんな父を見ていて、自分が信じたものが、崩れて去っていき、価値観がひっくり返るようなことを目の当たりにしたんです。それが自分の中に深く残っているのかもしれないですね」

 

私は虚淵さんの話を聴いているうちに、やはり傑作アニメを作るようなクリエイターの人たちは、自分の価値観がひっくり返るようなトラウマ的なことを経験しているんだなと思った。

虚淵さんにとって、自分の父親が信じていたものが崩れ去っていく姿は、目を覆いたくなるようなトラウマだったのかもしれない。

しかし、そのトラウマが創作のエネルギーになっているのも事実だ。

 

あの手塚治虫も、ものすごいトラウマを抱えていた持ち主だった。

彼は漫画の神様や天才と言われ、今でも数々の伝説を残す人だ。

連載を8本同時に抱え、タクシーの中だろうが、飛行機の中だろうが、漫画を書き続けていた。

なんで手塚治虫はそれほどまでに圧倒的な創作のエネルギーを持っていたのか?

 

 

それは学生時代に神戸大空襲と遭遇し、自分の目の前で焼夷弾が爆発するという九死に一生を得た経験をしているからだと思う。

 

あと一歩進んでいたら、自分の頭上に焼夷弾が当たり、即死していたのだ。

その経験が手塚治虫の脳裏に焼き付いていたらしい。

 

あの時、私は何かに生かされた……

 

そんな感覚が常に手塚治虫の心の中にあったと言われている。

自分の価値観が変わるような経験だったのだと思う。

それがあるから、あの圧倒的な創作エネルギーなのだ。

ブラックジャック」や「火の鳥」などで描かれる人間の生き死にの様は、

すべて神戸大空襲での経験が大きく影響されているのだと思う。

 

 

私は虚淵さんや手塚先生ほど、自分の価値観がひっくり返るような経験をあまりしてきていない。

しかし、あえて言うなら大学4年の時にした就活が自分の価値観が変わるようなきっかけになったのかもしれない。

私は就活をしていた時、マスコミ中心に30社以上エントリーした。

そして、ほとんどの会社で落ちた。

 

なぜ、私はあの時、選ばれなかったのだろうか……

それが私にとって今でも引きずっているトラウマなのだと思う。

 

就活の時に、もし選ばれたら年収1000万コースの道を進む。

選ばれない人は年収300万コースに進む。

同じ大学を出ても、自分の人生をどこかの他人に振り分けられているような気がして、私はとても違和感を抱えながら就活をしていたと思う。

 

あの時、私は選ばれなかった。

私は結局、テレビ制作会社に入った。

ほぼ徹夜の24時間労働の中、私はテレビ局の食堂で昼ごはんを食べていると、

局員の新入社員たちが楽しそうに昼ごはんを食べている姿を見て、私はとても悔しい思いをしていた。

 

なぜ、同じ新入社員なのに、あの人たちは夜の19時に帰れて、自分は夜中の4時まで仕事をしているのか……

世の中、自分が入った会社によって、これほどまでに待遇も給料も違うとは思わなかったのだ。

 

私にとってその出来事が自分の価値観を変えるようなトラウマ的な体験だったのかもしれない。

私は結局、テレビの世界を諦めてしまった。

世の中をさまよい、なんとかライティングの魅力に気づいて、こうして書くということを始めてみたが、実際に人に見せるようなコンテンツを意識して書くようになると、自分のトラウマ体験が思いの外、役に立っていることに気づいた。

 

自分の弱さを知り、もがいていたトラウマ体験が書くエネルギーになっているのだと思う。

 

もがき苦しんでいたトラウマは、実はエネルギーにもなり得るのだ。

トラウマを抱えるような残酷な思い出は使い道によっては、前に進むためのエネルギーにもなり、自分自身を蝕む猛毒にもなるのだ。

 

 

私は「魔法少女まどかマギカ」を見て、クリエイターたちが抱える創作エネルギーの源を垣間見た気がする。

つらい出来事ほど、使い道によってエネルギーにもなる。

要は自分次第なのだ。

 

本当に「まどかマギカ」はいろんなことを考えさせられた。

大人になってからも一度は見た方がいいアニメなのだと思う。

 

自分の不甲斐なさを呪い、負の感情という猛毒に取り込まれていった少女たちを救うため、走り回ったまどかの存在を私は忘れてはいけないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事にやりがいを求める就活生ほど、一度は「落語」を見た方がいいのかもしれない

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「仕事をやっていく上でのやりがいは何ですか?」

就活生が企業説明会で必ずと言っていいくらいする質問だ。

そんな質問をされた時、人事担当者はいつも困惑しながら

「お客様と一対一で相談に乗れることですかね」

など、マニュアル的なことを言って話題をそらしていた。

 

私が就活をしている時、企業説明会で嫌という程「仕事のやりがいは何ですか?」

という質問をする人を見てきた。

 

大学が発行する就活手帳にも、企業説明会で質問すべきリストで、堂々一位に

「仕事のやりがいを聞く」というものがあった。

 

仕事のやりがいって何なんだろう?

 

私は妙な違和感を覚えながらも、なぜだか企業説明会では誰かが人事に

「仕事のやりがいは何ですか?」と聞かなきゃいけない風潮があったため、

積極的に私も「やりがい」を聞いていたと思う。

 

私は就活時、やりがいや生きがいを求めていた。

それは他の就活生のほとんどに当てはまることだと思う。

 

やりがいがある仕事に就きたい!

自分がのびのびと活躍できる仕事に就きたい!

 

そんなことを思っていたのだ。

 

先日、とある就活イベントに手伝いで参加した際、就活生に

「1社目の企業で3年以上働く予定の人?」という質問したら、

20人近くいたのにも関わらず、誰も手を挙げなかったことに私は驚いた。

 

みんな3年以内に転職する予定なのである。

「1社目は自分のスキルを高めて、スキルアップのために3年経ったら転職するつもりです」

「自分の能力をのびのびと発揮できる会社を探し続けて、3年経ったら転職します」

そんなことを言っている就活生が多かったのだ。

 

3年で辞めるつもりなら、なんで30社以上エントリーして就活してるんだ?

就活なんてする必要がないだろ?

と言う人もいるかもしれない。

 

しかし、ゆとり世代の自分には「3年で辞める!」と言う就活生たちの気持ちも嫌という程、理解できる。

みんな仕事に生きがいを求めるのだ。

自分の能力がのびのびと発揮できる場所を探し求めているのだ。

 

私も就活をやっていた時はそうだった。

自分がやりたいことや理想を追い求め、なんかカッコイイという理由でマスコミばかり受けていた。

親の世代の人たちは皆、「仕事にやりがいなんてないよ」と言っていた。

確かにそうなのかもしれない。

企業説明会では「就活生に仕事のやりがいを聞かれた時の対象法」に沿って、人事は、会社で働く上でのやりがいをマニュアル通りに言っているだけなのかもしれない。

 

それでも私はきっと自分が働く上でのやりがいがあるはずだと思って就活をしていた。

自分がのびのびと働ける環境があるはずだと思っていたのだ。

 

そして、失敗した。

30社以上落ちたのだ。

 

なんとか制作会社に内定をもらい就活を終えることができた。

私は大学時代に自主映画を撮っていたため、制作会社ならなんとかやっていけるのではと思っていた。

多くの人と関わりながら一本の映画を作る映像制作はとても好きだった。

自分のやりがいはこれだと思ったのだ。

 

しかし、自分の好きなことを仕事にしてみて、私は後悔した。

好きだからこそ、自分の理想とのギャップに苦しいのだ。

毎晩4時過ぎまで続く作業に、毎日寝不足になり、意識が朦朧としたまま会社をさまよっていた。

明け方の4時まで作業して、翌朝の6時から別の仕事が始まるような生活が毎日続いていた。私はどんどんノイローゼになっていった。

同期は次々と辞めていった。

 

こんなはずじゃなかった。

私はそう思った。

 

私は一度無意識にも人身事故を起こしそうになり、さすがにヤバイと自分でも思い、仕事を辞めてしまった。上司に辞めると言った記憶がないほど精神的におかしくなっていた。

 

会社を辞めて、家に引きこもっていた。

なぜ、私はこんなにも弱い人間なのだろうか?

自分は生きる意味があるのだろうか?

 

大学の同級生は定期的に集まって仕事の愚痴などを発散していた。

そんな姿をSNSで見かけ、私はSNSを見れなくなってしまった。

同級生は今も仕事を頑張ってやっている。

それなのに私はなんで会社を辞め、家で引きこもっているのか?

私はそんな罪悪感に苦しんでいた。

 

 

そんな時に立川談志師匠の落語と出会った。

ネットか何かで師匠が語る落語論のページを見たのだ。

私はそのページを見た瞬間、驚いた。

自分が悩み、もがいていたことが落語で全て表現されていたのだ。

 

「落語とは人間の業の肯定である」

談志師匠はいたるところで、落語についてこう語っていた。

 

「人間は寝たい時には寝ちゃダメだとわかってても、つい寝てしまう。酒を飲みたい時には、いけないとわかっていてもついつい飲んでしまう。宿題を早くやればいいものも、ついサボってしまう。先生は努力が大切だというが、努力しても皆偉くなるなら誰も苦労しない。落語はそんな弱い人間を認めてあげるんだ。

落語とは、人間の業の肯定である。覚えときな!」

 

 

 

 

世の中には努力ではどうにもならないことがある。

一生懸命努力したって勝てない人がいる。

学校の先生は清く正しく、生きがいを持って生きることが大切だというが、実際のところ、そう上手くいかない。

 

「そんな自分でもいいんだよ」

と言ってくれるものが人間には必要なのだと思う。

 

私はその落語の「人間の業の肯定」と言うものの奥深さを知り、感動してしまった。

それだ!

こういうことを言ってもらいたかったんだ!

そう思ったのだ。

 

そこから私は談志師匠の本をむさぼるかのように読んでいった。

 

「働くなんぞ、大したことじゃない。人生に意義なんぞもつとろくなことはない」

談志師匠は著者でもこう語っている。

 

その通りなのかもしれない。

自分の人生に生きがいを求めても、大した意味がないのかもしれない。

人間なんて究極のところ、生まれて、食って、子供産んで、あとは死ぬだけである。

 

芸能の世界で活躍しているビートたけし立川談志は、やりがいを求めて芸の道に進んでいったというよりかは、目の前にあった自分が好きな芸の道をやっていたら、気づいたらテレビに出るようになっていたというだけなのだ。

 

生きがいや人生の意義を求めても時間の無駄なのかもしれない。

そんなことを考える暇があったら、とりあえず目の前のことにがむしゃらに向かっていればいいのでは? と最近は思うようになった。

 

大学を卒業し、社会に出ても私は今だに自分が何をしたいのかわからない。

自分の生きがいって何なのか? と思う。

 

しかし、目の前のことをコツコツやっていけばいいのではないか。

コツコツ積み重ねてきたことが蓄積され、いつか実りあるものになるではないか。

仕事や人生にやりがいを求める時間があったら、とにかく今、自分が好きなライティングということに向き合おう。

そんなことを思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

もし、あなたが「生きづらさ」を抱え、いつも自分の殻にこもりがちなら、クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」だけは観た方がいいのかもしれない

 

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「なんで人と同じ行動ができないんだろう」

子供の頃からこのような悩みを持っていた。

私はとにかく団体行動が苦手な子供だったのだ。

 

クラスの中でも常に浮いた存在だったと思う。

友達も割と少なかった。

昔からしゃべることが苦手で、人と面と向かって話すと、いつもどもる癖があった。

それが嫌で嫌で、学校の教室の中では、なるべく人と話さないで済むようなポジションを常に探していたと思う。

しゃべることが苦手だったこともあり、私は自分の世界に閉じこもりがちになった。

友達も少なかったこともあり、家では映画ばかり見て過ごしていたと思う。

 

なんで自分は人と同じに喋れないのだろう。

人と同じ行動が取れないのだろう。

そんな悩みを持ちながら、小学生時代は過ごしていた。

 

中学や高校に進んでもその悩みは続いた。

部活動に入れなかったのだ。

 

人とコミュニケーションを取ることが苦手なこともあり、とにかく団体行動のスポーツができなかった。団体で行動していると、どこか束縛されている感じがして、辛くなってきてしまうのだ。

 

だから、私はチームワークが必要だったバレーボールやサッカー、野球は辛くて出来なかった。

中学の時は、単体競技の陸上部に所属していた。

陸上は自分には合っていたのかもしれない。

練習は団体で行うが、競技は自分一人の力ですべて決まるため、団体行動が苦手な自分には居心地が良かったと思う。

 

 

日本のゆとり教育では「個性を尊ぶ」ということを大切にしていたが、人とうまくコミュニケーションを取れなかった私のような人間には、その教育方針は辛かったのかもしれない。

一人一人の個性を尊ぶと行っても、日本は集団行動を良しとするムラ社会が根幹的にある。集団で行動できない私のような人は異物のようにつまはじきになってしまうのだ。

 

私はそんな日本社会に生きづらさを抱えながら、ずっと生きてきたと思う。

心のそこで、どこか違和感を感じ、生きづらさを抱えていたのだ。

 

 

大学生や社会人になっても同じような生きづらさを常に抱えていた。

飲み会の場でも、私は周囲の話題にそってしゃべるということがとにかく出来なかった。

なんで今この話題なんだ? 

この時、どういった反応返せばいいんだ?

 

人とのトークの流れがまったくつかめないのだ。

私は楽しいはずの飲み会が終わると同時に、毎回、後悔の念に苛まれていた。

なんで、あの時喋れなかったのだろう……

そんなことを考え、悩んでしまうのだ。

 

私はどんどん自分の世界にこもるようになっていった。

人と話しても、会話がギクシャクして、変な目で見るだけだ。

それなら初めから話さないで済む方がいい。

そうやって、大好きだった映画ばかり見て、自分の世界にどんどん酔っていった。

 

常に日本社会に違和感を感じていたと思う。

なんで自分は団体行動が取れないのか?

人とうまくコミュニケーションを取れないのか?

 

 

留学した帰国子女の意気揚々とした姿を見て、私は海外に行けば、自分を変えられるのかもしれないと思った。自由気ままに生きている外国人の中なら、自分の居場所を見つけられるのかもしれない。そう思ったのだ。

 

アメリカやインド、東南アジアなどを旅してみた。

欧米の人は皆、自由気ままに生きていた。

日本人のように、毎日嫌々会社に通っているわけではなく、自分の好きな仕事を好きなだけやっている人が多かった。

東南アジアなどを旅していると、インターネット関係の仕事をしながら、自由気ままに旅を続けている若い同世代の人を多く見かけた。

彼らは本当に毎日楽しそうだった。

自由気ままでいいなと思っていた。

 

しかし、私はそんな外国でも人とのコミュニケーションをとることに違和感を感じ、引きこもりがちだったのだ。ゲストハウスの中でも、なるべく人と話さないで済むようにベットの中でずっとひきこもっていたのだ。

 

なんで海外に来ても自分はこうなのだ?

どこに行ってもどうして自分の世界に入り込んでしまうのだ。

他者との世界の中に入っていけなかった。

 

日本に帰ってきてからも、人との輪に入れない自分に嫌気がさし、私はどんどんノイローゼ状態になってきた。

いっそのこと、人としゃべらずに済む、山奥にでも引きこもろうかと思ったくらい精神的におかしくなっていたのかもしれない。

 

そんな時だった。

渡辺謙が出演していた「インセプション」を観たのは。

公開当時から「インセプション」は日本でも話題になっていた。

世界の渡辺謙レオナルド・ディカプリオと共演している本作は、ハリウッド中でも評価はめちゃくちゃ高かった。

どうやら人間の深層心理の深くまで潜り込んでいくストーリーらしいのだ。

 

私は大の映画好きだったが、劇場では「インセプション」は見ていなかった。

毎週のように通っていたTSUTAYAのDVD棚に「インセプション」を見かけ、

そういえばまだ見てないやと思って、借りてみることにした。

 

クリストファー・ノーラン監督の映画は大好きだった。

ダークナイト」も夢中になって見ていた。

めちゃくちゃ面白かった。濃厚な人間ドラマ、犯罪心理学などを駆使した奥深い物語に私は痺れてしまった。

 

しかし、この監督の映画はどれも濃厚で小難しい物語が多く、見るのに少し躊躇している自分がいた。

インセプション」も心理学の専門用語が連発してくるような難しい映画のように思っていたのだ。

 

それでもきっと、そこそこ面白いんだろうなと思って「インセプション」をレンタルして私は見てみることにした。

 

デッキにDVDを入れ、再生を始めた。

オープニングから驚いた。

 

なんだこの映像美は!

どうなってるんだこの世界観は!!!!

 

それは明らかに世界でもトップクラスのIQを持っているクリストファー・ノーラン監督だから描ける世界観がそこにはあった。

明らかに普通の人間が描けるものじゃないのだ。

ものすごく複雑で濃厚で、時間軸もバラバラなのにうまく絡み合い、絶妙にまとまっているのだ。

無重力状態を走りまわるジョセフ・ゴードン=レヴィットのシーンなど必見である。

こんな映像表現があるのかと驚いてしまった。

 

私はどんどん自分の深層心理の奥深くに入っていく主人公に私は感情移入してみてしまったと思う。自分の世界に引きこもり、心理状態の奥深くに逃げ込む主人公が見たものは、荒涼とした世界だった。

 

そして、目の前で見たものは夢か現実なのかわからないまま映画は終わる。

 

なんだこの余韻を残すラストシーンは!

 

私は「インセプション」を見終わった後、数日間あのラストシーンについて自分なりに考えてみてみた。

なんであんなラストになったのだろうか?

監督は何が言いたかったのだろうか?

 

映画を見て、数年経った今でも「インセプション」のあのラストシーンが私の脳裏にこびりついていた。

クリストファー・ノーラン監督はその後も「インターステラー」という傑作SF映画と撮っていた。私は大のSF好きということもあって、この映画は映画館のスクリーンで見た。

大興奮しながら、惑星間を旅するこのSF映画を見ていたと思う。

私は映画を見終わった後、映画評論家の町山智浩さんのラジオを聞いてみた。

 

クリストファー・ノーラン監督に直接インタビューしたことがある町山さんだからこそ言える解説がそこにはあった。

そして「インセプション」のラストの意味もわかったのだ。

 

クリストファー・ノーラン監督はどの映画でも

「心の内側に入ってばかりいては人間は前には進めない」

というメッセージを暗示させているという。

 

インセプション」でも、自分の深層心理の奥深くに逃げ込む主人公が見た景色は荒涼としたものだった。

「自分の世界に引きこもってもつらいだけだよ」ということを暗示させているのだ。

 

インターステラー」もスマホをいじり、下ばかり見るようになった人類に、

「もっと上を見上げれば壮大な宇宙が広がっているじゃないか。上を見て進まないと人類は進化しないぞ!」というメッセージが込められているのだ。

 

私は人とのコミュニケーションが苦手だということもあり、昔から自分の世界に引きこもりがちだったと思う。団体行動も本当に苦手で、いつも自分の殻に閉じこもっていた。

 

しかし、それではいけないのだ。

自分の殻に閉じこもってばかりではいけない。

前を向いて進んでいかなきゃいけない。

そんなことをクリストファー・ノーラン監督の映画から私は学んだと思う。

 

私は今でも「インセプション」と「インターステラー」だけは、よく見直している。

自分にとって生きる指針にもなっている映画なのだ。

 

自分の殻にこもってばかりではいけない。

そう思って、私はこうして文章を書くようになった。

 

もし、昔の自分のようにどこか「生きづらさ」を抱え、自分の世界に引きこもりがちな人がいたら、ぜひ「インセプション」だけは観た方がいいのかもしれない。

 

自分の心の内側に引きこもっていった主人公の成れの果ての姿が見えてくる。

 

自分の世界に引きこもってばかりではいけない。

そんなことを教えてくれるのだ。

 

 

 

 

 

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文章も、脳の右側で書け!

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「なんだこれ」

私はとある本屋さんで、この本を手に取っていた。

それは絵が下手くそな人でも描けるようになるコツを伝授してくれる本らしい。

店員さんは「この本めちゃくちゃ面白いですよ」と意気揚々と喋っていた。

 

私は帯に書かれている文章に目がいった。

「絵を描くのに必要なのは、特別な才能ではなく、適切な指導です」

 

私は絵が苦手だった。

美術の成績は割といい方だったが、どうも絵には苦手意識があった。

高校時代も美大予備校に通おうと思い、体験授業も受けたが、金銭的にしんどい理由と周囲のデッサンのクオリティーに驚き、高校の美術の時間で満足していた私には無理だとわかったのだ。

 

小学生の頃などは、漫画に憧れ、自分で漫画を描いていた時もあったが、絵が下手くそという理由ですぐに断念した。

 

絵だけはセンスが必要だ。

そうずっと思っていたのだ。

 

絵が上手い人は生まれつき絵が上手い。

ただ、それだけだと……

 

私が絵を描くことの重要性に気づいたのは、大学時代に自主映画を作っていた時だった。

カメラをセッティングして、撮影を始めていくと、どうしてもカメラマンや監督の絵のセンスが問われることがある。

カメラをどう配置し、役者の顔をどう捉えるかなど、写真という名の一枚の絵が2時間に蓄積されたものが映画なのだと思う。

 

カメラをどう配置し、どう描くか?

絵のセンスがものすごく必要とされるのだ。

スピルバーグ監督など、相当絵にこだわる人で、優秀な撮影監督と一緒にミーティングしながら、ゴッホターナーの絵について話し合い、カメラワークや照明の当て方などを研究していくという。

 

よく考えれば、有名な映画監督はみんな、もともと画家志望の人が多かった。

世界の黒澤明だって元々画家である。

ヒッチコックも画家志望だった。

 

1020年代のトーキー映画の時代では、絵では食っていけないからという理由で、

映画の世界に入って来た人が、意外と多いのである。

 

私は美大を目指しても、絵が描けないという理由で諦めた人間である。

どこか絵が描けないということにコンプレックスを抱いている自分がいた。

 

本当に絵が描けるようになるのかと疑いながら、気になって仕方がなかったので、

その本を手にとって読んでみることにした。

 

本のタイトルは「脳の右側で描け」である。

脳の右側? 右脳で描けということか?

 

私はなんだかよくわからない本を買ってしまった。

金の無駄遣いかなと思いながら、本を読んでいった。

 

読み始めて驚いた。

これはデッサンについてがメインの本ではないからだ。

 

脳科学の本だったのだ。

 

 

 

本当に驚いた。

人間が絵を描く際、脳のどの部分を使い、どう描いているのかがまとめられて書いてあったのだ。

 

作者は長年の経験上、絵が描けないという人は才能ではなく言語をつかさどる左脳に支配されているからだという。

絵などをはじめとした人間の創造性の根幹は、すべて右脳で行われるのだ。

左脳の働きを止め、右脳のリミッター解除をする方法が本の中で詳しく紹介されてあった。

 

私はこの本に書かれてあった右脳のリミッター解除をする方法で、簡単なデッサンを描いてみることにした。

すると、驚いた。

明らかに上手くなっているのだ。

 

どうなってんだ? と思った。

たった、これだけのコツで絵が飛躍的に上手くなるものなのか?

 

私は人間の脳の仕組みもまとめられているこの本を夢中になって読んでいった。

スティーブ・ジョブズアインシュタインなど歴史上の偉人はすべて右脳のリミッター解除の達人だったという。

人類を前進させた天才たちは皆、右脳の使い方が人一倍上手いらしいのだ。

 

人間が創造性を発揮する場面では、必ず右脳のリミッター解除が行われている。

理屈でどうこう考えるのではなく、直感的に物事を決め、前進していくのだ。

 

絵が下手くそな人の原因はそこにあった。

デッサンしている時も「ここはこうで〜顔の輪郭はこうで」など、

言葉に置き換えて描いてしまうのだ。

 

絵が上手い人は、右脳の直感的な働きを駆使して、デッサンする対象を言語ではなく、直感的に捉えてデッサンしていくのだ。

 

私はこの本に書かれてあった右脳のリミッター解除の話を知り、ライティングを思い出していた。

私は文章を書く際、10本に1回くらいに何も考えずにす〜と書ける時があった。

普段は「タイトルはこうして〜ここはこうで」など、いろいろ考えながら書いてしまうのだが、割と評判がいい記事は、何も考えず、即興に任せて、す〜と書けた記事なのだ。

 

理屈どうこう関係なく、ただ直感に任せて書いた記事の方がバズってたりする。

もしかして、その時、私は無意識にも右脳モードに切り替わっていたのかもしれない。

無意識のうちに構成などを考え、右脳の中でまとめているのだ。

 

 

この本の中では、とある方法を使って、左脳の働きを止め、右脳のリミッターを解除する方法が書かれてあった。

 

そして、日本人が昔からやっていた右脳のリミッター解除の方法は座禅なのだと思う。

座禅や瞑想は脳みそを空っぽにして、直感力を研ぎ澄ませる働きがある。

その直感的な部分で物事を捉え、京都の寺の庭園などが作られて行ったのだ。

 

実は日本の書道や庭園などは、右脳の力を最大限に発揮されて作られたものだった。

欧米人が日本のものに興味を持つ部分もそこらしい。

論理的な解釈で物事を捉える欧米人には、日本の直感な概念や芸術作品にとても興味が惹かれるらしいのだ。

 

私はまさかデッサンについて書かれた本で、ここまで深い解釈ができるとは思わなかった。

人間が創造性を発揮する場面は一体どこなのか? そのことがこれでもかと詳しくまとめられてあったのだ。

 

クリエイティブな仕事についている人なら一度は読んでみてほしい本だと思った。

物を作っている時、人間は無意識にも右脳をフル活用しているのだ。

空っぽの脳みその中から湧き上がる右脳の直感と即興力を駆使して、クリエイティブな活動をしている。

 

文章を書くコツも「脳の右側で書け」なのだと思う。