ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

全然愛情がこもってないんですけど    

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「え? 全然愛情がこもってないんですけど」

それは自分が撮った写真を会社の人に見せたときのことだった。

ずばり、自分が感じていたことを指摘されたのだ。

 

篠山紀信って知ってる? その人が宮崎美子を見つけた時の話なんだけど」

その写真家なら自分は知っていた。

もしろん宮崎美子のことも。

 

宮崎美子ミノルタのCMに選ばれた理由なんだけど、当時付き合っていた彼氏が撮った素朴で愛らしい写真が篠山紀信の目についてCMガールに選ばれたんだ。たぶん、その彼が撮った彼氏の前でしか見せない素顔が審査員の心に響いたんだろうね。何が言いたいかというと写真って人のこころを直接写しているっていうこと」

 

ふだん、カメラの話とか特にしてこなかったが、ごもっともなことを言われた。

 

私はカメラを始めてから、ちょこちょこと人を撮る機会が増えてきた。

「カメラが好きだ!」といろんなところで叫び散らしているせいか、

撮ってもらいたいと言われる機会も増えてきたのだ。

 

だけど、どうしても心の奥底では感じていることがあったのだ。

「自分は相手にきちんと向き合っているのか?」

そんなことを感じることが度々あったのだ。

 

自分が普段、写真を撮って感じていたことを、直接会社の人から言われてしまった。

 

 

「写真って人のこころを写すから、その人が相手をどう見ているのかが一枚の写真から滲み出てしまうからね」

 

愛情を持って、人と接しているのか?

自分のこころを映し出す鏡となって、一枚の写真に出てきてしまう。

 

そんなことを痛烈に感じている時に言われた一言だった。

なんかガツンと感じてしまった。

 

自分はどうも昔から人と接するのが苦手だった。

人混みに入っていると、どうしても息がつまり、ノイローゼ状態になってしまう。

飲み会がどうしても苦手で、人が喋っているときの会話の流れについていけず、いつも口を閉ざして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

飲み会の席は本来楽しい場所のはずなのに、自分にとってはどうしても耐え難い時間という部分もあった。

 

これじゃいけない。

もっと人と関わるようにならなくちゃ。

そう思った時に手にしたのがカメラだった。

 

カメラを通じたら人とコミュニケーションが取れる。

そう思い、カメラを買ったのだ。

 

だけど、どうしてもカメラのファインダー越しに相手を見ていても、

少し距離を置いてしまう自分がいた。

 

あ、やっぱり自分の性格って写真に現れるんだ。

もっと、相手のことをよく知らなきゃ。

 

そんなことを感じて始めていた。

 

人から愛されたい。

人ともっと接したい。

 

そう思い、自分の中でもやもやが広がっていた。

 

どうしたら人ともっと関われるようになるのだろう。

人の心を突くような写真が撮れるようになるのだろう。

 

「とにかく量を撮るしかないよ。もっと写真を撮ればうまくなる」

そんなことを会社の人から言われた。

 

確かに量かもしれない。

だけど、性格ってなかなか治らない。

 

自分の中でモヤモヤが広がっていたこの頃。

ふと、思い出した。

 

「人を愛するということを大切にして下さい」

 

どこで聞いたのかよく覚えていないが、ラジオでYUKIが語っていたことだった。

 


「多くの人は、自分は幸せになりたいというけれども、自分の幸せを願うよりも、相手の幸せを願ってください」

 

人は愛されたいと思ったりする生き物だけど、まずは自分が人を愛するということを学んで下さい……そうすれば自然と自分のことを愛してくれる人が現れてくるとラジオで語っていたのだ。

 

それって写真において、ものすごく重要なことなのだと思う。

眼の前の被写体になってくれている人に対し、愛情を持って接することができるのか?

 

それが否が応でも、出来上がった一枚の写真に現れてくるのだ。

 

やっぱり人のこころに響くような写真を撮る人って、相手のことを優しい目線で見つめている人だと思う。

 

写真を撮るようになるまで、そのことに気がつけなかった。

 

相手のことを好きになる。

人を愛するようになる。

 

その気持を忘れないためにも、やっぱりより多くの写真を撮るしかないのだとふと思った。

 

人を好きになる努力。

それがいちばん大切なことなのかもしれない。

枠を取っ払ってしまえば、きっと、そこには。

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「よく一年間社会人やってこれたね」

仕事の帰り道にふと、上司にこんなことを言われた。

正直、驚いてしまった。

 

あまり、自分は職場でプライベートなことは話していない。

どこか仕事と私生活に一線を置いている節がある。

 

自分が今勤めている会社はとてもフレンドリーな雰囲気が職場にあふれていて、

休日も社員同士集まって、どこか遊びに行っていたりする。

 

自分は昔から人付き合いが苦手という部分もあって、休日は会社と一旦距離を置いていたりする。

仕事以外の話は正直、会社の人と話してこなかった。

 

「いや、君を見ていると、本当に社会にうまく馴染めてない感じがしててね、

正直、そんなに仕事続かないと思っていたよ」

 

とある仕事帰りの日、上司と帰り道が一緒になった時にふとこんな話をされた。

 

「え? そうなんですか!」

自分って周囲からみるとあまり会社とか社会に溶け込んでないやつなんですか?

 

周囲から自分がどう思われているのかなんてわからないため、正直ただ困惑してしまった。

確かに、満員電車が大嫌いで、どこか組織に入るのが嫌で嫌で仕方ない自分がいるのは確かだが、会社に来るときはきちんとメリハリを付けて仕事に取り組んでいるつもりだった。

 

「いや、君って、一つの場所にじっとしてられない性格でしょ。いつも長期休みのたび、一人でふらっと海外に行っているじゃん」

 

確かに私は休みのたびに海外に行っていた。

今年のゴールデンウィークも無理やり有給を使って、周囲に

「僕は休み中は仕事はしません!」と宣言し、香港にバックパックひとつで飛んでいってしまった。

 

大学生の時も一人でインドに行ったり、東南アジアを放浪していたりしたせいか、会社の中で「休みのたびにバックパックを背負って、いつも一人でどこかに飛んでいってしまう奴」というレッテルが貼られているらしい。

 

ま、事実だから仕方ない。

 

「いや、本当に君は落ち着きがなくて、いつも一人でふらっと単独行動してしまう性格だから、きっと会社勤め続かないと思っていたよ。正直、社会人やるの結構辛いでしょ?」

なかなか、ズサっと心に突き刺さることを言われてしまった。

 

自分の中では今勤めている会社の雰囲気がわりと性に合っていて、仕事内容も割と面白いなと思っている。

だけど、もっと自由にいろんな価値観の人と出会って、いろんな仕事に触れてみたいと思っている自分がいるのも正直なところだ。

 

 まさか、会社の上司から「社会人やるの結構辛いでしょ?」

と言われるとは思わなかった。

 

自分は昔からどうも周囲にうまく馴染めなかった。

学生の時も、全員が同じ向きに座って、同じ講義を受けているのがどうしても許せなかった。

なぜ、皆が同じ方向に向かって座っているのか?

そのことが疑問で仕方なく、クラスに居る時も常に落ち着きがなかった気がする。

 

ずっと、どこかモヤモヤとしたものを抱えて過ごしてきた。

そのモヤモヤがピークに達したのが、就活のときだったと思う。

皆が同じ色のスーツを着て、同じような自己紹介を始める。

 

同じような顔立ちで、同じような内容の自己PRを語り、なんだかよくわからない理由で、企業に内定が出る人と出ない人が別れていく。

 

 

その違和感が堪えきれず、どうしても憤りを感じていた。

マジョリティに染まらなくてはならない自分。

なんだかよくわからない社会のレールから飛び出していく勇気も持てない自分が嫌で仕方なく、意味もなく海外を彷徨い、歩いたりしていた。

 

 

結局、自分は一体、何がしたいのだろうか。

 

そのことがわからないまま、大学生活も終わりに近づいていた。

たしかその時期だったと思う。

この映画を観て、妙に感動したのだ。

イントゥ・ザ・ワイルド

 

監督は盟友のショーン・ペンである。

最初に見たときは正直、途中で眠くなってしまった。

 

だけど、大学を卒業して社会人になり、いろいろあって、会社を辞めたり、

海外に失踪したりした経験もあって、改めて見直してみるといろいろ考えさせられることがあった。

 

何かの拍子で今週、久々にこの映画を見直してみた。

 

物語が後半に向かうに連れて、心にじわじわと突き刺さるものがあった。

 

あ、もしかしたら自分ってこの映画から少なからず影響を受けていたんじゃないか?

ふと、そんなことを考えてしまった。

 

何不自由なく裕福な家庭で生まれ育ち、優秀な成績で大学を卒業した主人公。

しかし、大学を卒業すると同時に、全ての私財を捨てて、放浪の旅に出る。

 

それは自分を見つめる旅かもしれないし、文明社会からの逃避だったのかもしれない。

二年近くの放浪の後、アラスカの荒野に消えていった彼は、幸せな人生を歩めたのだろうか? そんなことをふと考えてしまった。

 

大学生の頃に見たときは正直、そんなにいい映画だとは感じなかった。

しかし、改めて見直してみると、心に響く言葉だらけで、目がじわじわと来てしまう。

 

物に支配されるのは嫌だ。

全てを捨て、荒野に旅に出た彼はどんなことを思いながら、アラスカで最後の時を迎えたのだろうか。

 

「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合う時だ」

アラスカの荒野で一人、孤独に死の瞬間を迎える時、彼が書き残した言葉だ。

 

どんなことを思いながら、死の時を迎えたのだろうか。

 

自分は旅行好きということもあるが、全ての捨ててまで、二年以上放浪する勇気もなければ、力もないだろう。

だけど、心の奥底ではきっと、飛び出してみたいと思っているのかもしれない。

社会人になって、いろんなことに責任を負う立場になってきた。

昔のように、気ままに飛び出すわけも行かないのかもしれない。

 

だけど、この映画の主人公のように、「外の世界を見てみたい」という

純粋な気持ちはいつまで経っても忘れてはいけないのだと思う。

 

社会の枠にうまく染められない人がいるのかもしれない。

毎日の満員電車に心が疲弊してしまった人がいるのかもしれない。

 

そんな人達に荒野に一人彷徨い歩いた青年の物語が心に染み渡るだろう。

映画「イントゥ・ザ・ワイルド」。

 

たぶん、自分にとって一生忘れられない映画になったと思う。

きっと、今後道に迷った時にも見直す映画だ。

 

 

 

 

 

大の邦画嫌いの私でも、この日本映画だけは涙無くして観れなかった

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「久々に面白い邦画と出会った」

以前からお世話になっている映画好きの方からこんなことを言われた。

 

その方は大の映画好きで、黒澤明などの昔の巨匠の映画が好きだということもあって、どこか自分ととても映画の好みが合う方だ。

 

その方が大絶賛している邦画があった。

「邦画は基本的に胸糞悪いものばかりで見ないけど、この映画だけは違った。

久々に邦画を見て感動した」

 

映画に関してはだいぶ辛口のコメントをするその方が大絶賛している邦画があったのだ。

 

私も基本的に邦画は苦手だ。

最近は、なんだか可愛い顔した女子高生が出てきて、なんだかイケメンが登場してイチャつくような物語ばかりで、こんなんで日本映画って大丈夫なのだろうか? と正直思っていた。

 

自分も映画が大好きだが、基本的に見るのは9割以上が洋画である。

ハリウッドの映画を見て育ってきた影響もあって、邦画を見ても、どこか島国っぽくて閉鎖的な空気感が漂う感じがして、どうしても感情移入できないのだ。

作りての思いというか作家性が感じられなくて、どうしても見れないのだ。

 

 

そんな大の邦画嫌いの私だったが、同じく邦画嫌いのその方がやたらと絶賛している日本映画が気になって仕方がなかった。

 

その映画のタイトルはもちろん知っていた。

正直言ってしまうと、原作は読んでいた。

 

本屋大賞を受賞して、本屋に行けば平積みされており、気がついたら買って読んでいた。

 

本屋大賞だって。

日本人って本当に賞を取ったものに弱いよな。

そんなことを感じながら読んでいったが、本の世界に度肝抜かれてしまった。

 

それは音楽を支えるある職人さんの物語である。

ピアノの奏でる音楽を支える人たち。

 

その物語に感動してしまい、涙なくして読めなかった。

もちろん、映画化されることは知っていた。

だけど、原作があまりにも良すぎて、映画の方は見る気が起きなかった。

どうせまた、女子高生とイケメンが出てきて、イちゃつくだけの映画になってしまうのではないのか?

 

そんなことを懸念していて、トレーラーは見ていたが、どうしても見る気が起きなかった。

 

「青年の目が、明らかにアナログのものを見つめる目なんだよ。本当に素晴らしい作品なんだ」

そう絶賛するその方の声を聞いて、私はその邦画が気になって仕方がなく、週末になると見に行くことにした。

 

映画館に入ると驚いた。

ほぼ、観客性は女性ばかりだ。

男性はほぼいないんじゃないかと思った。

 

映画が始まると、オープニングからキレイな雪の景色が広がっていた。

窓についた氷の結晶。

それがどれも美しかった。

 

私は野生の直感的にこの映画すごいと思った。

映画が始まって1分も立たないうちに、一気に映画の世界に引き込まれていった。

 

そして、原作で読んだ主人公が人生の師となる人物と出会う場面に入った。

 

音楽が体育館に流れた時、一瞬森の景色がスクリーンに映り込む。

 

「あ、こういう風に映像にしたのか」

 

小説を読んでいるときは、各々が物語のイメージを脳裏に焼き付けて読んでいく。

そのイメージは本を読んでいる読者によって、異なるだろう。

だけど、映画となるとどうしても一方的なイメージしか伝わらない。

スクリーンに映し出される絵は誰が見ても同じのため、同じイメージが観客の脳裏に焼き付くことになる。

 

だけど、この映画は、小説では描けなかった部分を映像にしていく。

それは映画でしかできない表現だった。

 

音楽と森の描写。

それが映像とリンクしていて、心地よいメロディを奏でている。

 

私はあっという間に映画の世界に惹かれていった。

原作を読んでいるため、物語の展開は知っていたが、音楽と映像が奏でる世界観に良い浸ってしまった。

あまりにも美しい自然の描写、そこに暮らす人々の姿。

 

どこか日本人が忘れてはならない感情がそこには眠っている気がしたのだ。

 

そして、物語の後半になり才能に苦しむ主人公に、ある人物はこう投げかける。

 

「才能っていうのは、ものすごく好きだという気持ちなんじゃないかな。どんなことがあってもそこから離れられない執念とか、闘志とかそんなものに似ている」

 

原作でもこのセリフを読んだ時、感動してしまったのを覚えている。

才能に苦しむ主人公。必死に音楽と向き合うからこそ、自分の才能のなさを痛感して、もがき苦しんでしまう。

 

それでも主人公は、音楽の世界に戻っていき、音楽が生み出す深い森の世界に身を捧げていく。

 

その森に一度足を踏み入れてしまうと自分の力で来た道を戻っていくしかない。

だけど、主人公は音楽が奏でる深い森の世界をきちんと見つめていく。

 

2時間以上あった映画だが、あっという間だった。

時間を忘れて音楽と調律師の物語の世界に入ってしまった。

 

自分の才能に苦しんでいる人……

あるいは、自分のように人生の目標を見つけられず、もがき苦しんでいる人がいるかも知れない。

 

そんな人にとって、この映画は特別な薬になるのかもしれない。

どこか心を落ち着かせてくれる、心の拠り所になる映画になるかもしれない。

 

多くの人が原作のことを絶賛していた。

だけど、映画の方も素晴らしかった。

 

映画だからこそできる表現が、物語の中にあふれていて、時間を忘れてしまうくらい物語の世界に入り込んでしまう。

 

ピアノと調律師の物語……「羊と鋼の森」。

原作も凄かったが、映画の方も素晴らしかった。

 

何かを選ぶことにまだ慣れていない人たちに……

 

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「あ、あぶない」

 

私は自転車のブレーキを握りしめた。

 

「ふう、何でこんな場所に猫の死体があるんだ」

道のど真ん中に猫の死体が転がっていたのだ。

しかも、この通りは大通りに面していて、車の行き来も多い。

 

私は躊躇してしまった。

周囲の人は猫の存在に気がついているが、見て見ぬふりをしている。

 

猫の死骸からは赤い液体が飛び出ており、内臓が出ている。

道を走る車も、次から次へと猫の死体の手前を走っているが、遺体を避けて走っている。

 

多くの人が何か見てはならないものを見てしまったというばかりに、

見て見ぬふりをすることを決めていた。

 

私も正直、心の奥底でこう思ってしまった。

「あ、めんどくさいものを見てしまった……」

正直、そのときは早く帰らなきゃいけない用事があったのだ。

だから、猫のことにかまっている暇がない。

 

すぐに私は多くの人と同様に猫の遺体を見て見ぬふりをして、家に向かって再び自転車を漕ぎ始めていた。

 

ま、どこかの誰かが交番に届けてくれるだろう。

自分がわざわざ時間を使って、猫の遺体を回収しなくてもいいや。

 

そう思って、見て見ぬふりをして、家に向かって進んでいった

 

しばらくして、自分の中にある自尊心がくすぶり始めた。

このまま、見て見ぬふりをしていいのか。

 

誰かがきっと交番に届けてくれるだろう。

だけど、自分は見て見ぬふりをしたままでいいのか。

そんなことを急に心の奥底で感じてしまったのだ。

 

気がついたら私は元の道を戻り始めていた。

 

猫の遺体が転がっている場所には相変わらず、多くの人が行き来しているのに、皆が見て見ぬふりをしていた。

 

道の真中には内臓が飛び散り、行き交う車も猫の遺体を避けるようにして通っている。

私は近くにあった交番に駆け込むことにした。

自転車を止めて、中に入ろうとすると、ある一人の女声が交番の中に設置されている電話機を使って、電話しているところだった。

 

「道の真中に猫の遺体があるんです。来て頂けますか?」

私の少し前に交番にかけこんで、警察に連絡してくれた人がいたのだ。

 

あ、これなら大丈夫だろう。

きっと数分後には交番に警察が来て、猫の遺体を撤去してくれるはずだ。

私は自分の任務を終えた感じがして、その後の様子を見届けることなく、家に帰ることにした。

 

私達は毎日、多くの選択をしている。

家から会社に向かうことを選択していたり、

何を昼ごはんに食べるのかを選択したりする。

ましてや、自分にとって面倒になるであろうことを避ける選択も多くする。

 

毎朝、電車に乗って会社に向かうようになってから痛烈に感じたことがある。

異常なまでの人身事故の多さである。

中央線など、毎日のように人身事故で電車が停まっているのではないかと思うほど、

いつも遅れている。

 

「あ、また人身事故だ」

二時間以上電車が停まっている場合、確実に何処かの誰かの命が奪われたことになっていると思う。

駅のホームに飛び込んでくる電車。

そこに人が引き込まれるかのようにしてホームに飛び込んでいく姿を想像するとぞっとする。

その方は無意識かもしれないが、自分の命を経つということを選択してしまったのだ。

 

「人身事故かよ。仕事に遅れるじゃないか!」

口には出さないが、電車に閉じこまれた多くの乗客の顔からこんな声が聞こえてくる。

 

私はそんな状況に出くわすたびに、感情が抑えきれなくなって、俯いてしまう。

社会の不甲斐なさや無機質までに他人に無関心な人のあり方にどこか憤りを感じてしまう。

 

あまり深く考えない方がいいのだろうか。

どうしてもどこか心の奥底で、人の不幸を目にしたら、無責任な立場ではいられない自分がいる。

 

そんなとき、この本と出会った。

ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏が書いた「あなたがいる場所」である。

 

重い社会の現実を描くノンフィクション作家が書いた小説である。

正直、驚いてしまった。

この著者が書いた「深夜特急」やその他のノンフィクション本は読んだことがあった。どこか社会の根底の闇をむき出しにするノンフィクションを書いているイメージが合ったため、小説を書くイメージがなかったのだ。

 

 

私はどんな小説なのか気になってしまい、本を開いて読みふけってしまった。

そこには9つの短編小説が書かれていた。

 

まだ自分の将来を決めかねている女子高生、

ありふれた日常を生きる30代のサラリーマン、

子供を失った妻の物語、

刑務所に入った息子に手紙を書く父親などなど……

この作家がよく描いていたノンフィクションのような特別な世界に生きている人ではなく、ごく普通の世界に生きている普通の人達の物語がそこにはあった。

 

ありふれた日常のようで、少しだけ違う。

この小説の中にごく普通の主人公たちは、ある選択をする場面を描いている。

その選択は人生を大きく帰るようなたいそうなものではない。

 

だけど、「向こう側にはいかない」という選択をしている。

より簡単な方向にはいかない。人の不幸を目にしても、見て見ぬふりをする大人にだけはならない。

 

ある高校生はカラスにいじめられている鳩を見て、バスを無理やり止めて駆けつけていく。

ある中年の男性は娘を死なせた保育園にある遊具を壊しに行く。

 

どこか世の中に眠る悲しい出来事に遭遇しても、見て見ぬふりをしないという決意を選択している。

 

この本を読んでから、自分は道の真中に横たわっていた猫の死体を見て見ぬふりしなくてよかったなと思った。

一度、面倒なことを放棄してしまうと、どうしても人は見て見ぬふりをしてしまう大人になってしまうと思う。

だけど、少しでもいいから世の中の悲しみを感じる心の余裕は持っておきたい。そんなことをふと思ってしまった。

 

最後のあとがきに小説家の角田光代氏の言葉が書かれてあった。

「より簡単な方向に向かうか向かわないか。どっちにいくか。

その分岐点は、私達の人生に溢れかえるほど存在している。

その選択をし続けることが、つまり自分を生きることではないのか」

 

東京という社会は思いかけないくらい冷酷な部分がある。

他人の不幸が毎日のように目にすることがあっても、見て見ぬふりだけはしたくない。そんなことを感じた。

 

 

人生の目標は身近なものに……

f:id:kiku9:20180622063219j:plain 「バタン」

あ、やばい。

 

家の階段を登っている時に、足をつまずいてしまった。

人間、死ぬときは時間がゆっくり感じるとよく言う。

大げさかもしれないが、バタンとつまずいた時、

「あ、これは頭ぶつける」

と脳裏で認識できていても、体がうごかず、時間がスローモーションのように感じた。

 

「手を出さないといけない」

そう思っていても、体が反応しない。

自分の運動音痴具合を再認識してしまった。

 

結局、前かがみのまま頭から壁に突っ込み、

家中に「バタン」という大きな響きを出すことになった。

 

「痛い」

自分の運動音痴具合を嘆いてしまった。

なぜ、転びそうとわかっていて、手が反応しないのか。

 

やっぱり昔からスポーツとかやっておけばよかった。

そんなことを嘆きつつ、自分の体の様子を確かめてみると、

手にはあざができ、頭から壁に突っ込んだおかげでメガネはグチャッと曲がってしまっていた。

 

やれやれである。

 

これは修理に出さなきゃな。

あいにく壁に激突した日は、仕事で外回りをする日ではなかった。

社内整理に当てる予定だったので、曲がったメガネのまま、お客さんの前に経つことはなさそうである。

 

それに軽くおでこにあざが出来ている。

 

「あ、やばい。時間がない」

壁に激突しても、会社には向かわなければならない。

もたもたしていると、いつもの電車に遅れてしまう。

 

そう思った私は急いで身支度を終え、駅に向かって歩いた。

 

会社に着くと、いろんな人からツッコミを食らった。

「え? どうしたの」

 

私が装着しているぐにゃりと曲がったメガネを見た瞬間、上司全員がツッコンできた。

「あの、朝家でズッコケてしまって……」

爆笑された。

 

「何で顔面から壁に突っ込むんだよ」

「手で押さえろ」

などなど自分でも嫌とわかっているツッコミを浴びる。

 あ、運動不足が続くと、こんなことが起きるんだ。

自分の不甲斐なさを嘆きつつ、仕事に取り組んだ。

本当に今日は社内整理の日でよかった。

 

そうこうしているうちに、ある問題にぶつかった。

「あ、今日中にメガネを修理に行かなきゃ」

 

今日はさすがに早く仕事を終えなきゃと思ったのだ。

いつも、尋常じゃない仕事量に没頭しているうちに、なんだかんだ22時やら終電近くの時間まで会社に残っている。

 

さすがに深夜まで開いている眼鏡屋なんてあるわけがない。

ネットでいつも使っている眼鏡屋のことを調べてみると20時で閉まってしまう。

よし、今日はなんとしても18時には仕事を終えよう。

そう思い、朝からかっ飛ばして仕事に取り組んだ。

 

集中していると気がついたら18時過ぎになっていた。

「すいません。今日は早く帰ります」

そう上司に恐る恐る告げ、私は約半年ぶりの定時退社をすることができた。

 

案外、仕事を終える時間を決めてしまうと、きちんと終わるものである。

すっきりとした心で、電車に飛び込んだ。

 

あ、この時間はまだ外が明るいんだ。

 

18時過ぎの暗闇に包まれていく、鮮やかな夕焼けをみていくうちに、

久々にゆっくりとした自分の時間を持てているなと思った。

 

今の時期ってこんなに夕焼けが綺麗なのか。

眼鏡屋に飛び込み、メガネを修理してもらった。

さすが、眼鏡屋の方は仕事が早い。

ものの五分できちんとフィッティングしてもらえた。

 

「これで大丈夫かと思います」

恐る恐るフィッティングしてもらったメガネを掛けてみると、いつもより掛け心地がいい。

「ありがとうございます」

 

「また、いつでも修理にいらしてくださいね」

眼鏡屋に別れを告げ、私はバスに飛び込んだ。

 

いつもは最寄りの駅から徒歩だが、

最寄りまで少し距離があるため、今日はバスに乗ることにしたのだ。

 

バスから夕焼けを眺めていると、ふと感慨にふけってしまった。

いつも私は平日は仕事で埋め尽くされている。

夜中遅くまで仕事しているため、くらくらの状態で電車に飛び込むことになる。

だけど、今の世の中って案外、定時退社が基本である。

 

バスの中は仕事を終えたサラリーマンで埋め尽くされている。

 

あ、本当に今日修理に来れてよかったな。

 

いつもの私だったら、なんだかんだ会社にダラダラ居座り、夜の22時くらいまで仕事をしてしまう。だから、土曜日の貴重な午前中、まるまる使ってメガネの修理に向かうつもりでもあった。

 

 

だけど、貴重な人生の時間、効率よく使わなくていいのかと少し感じたのだ。

 

バスの中、夕焼けを眺めつつ、ふと思った。

「あ、目標を決めてしまうと、案外人間ってその目標に向かって突っ走れるんじゃないか」

 

私は「今日は18時に帰る」と宣言して、その時間に向かって膨大な仕事をこなしていった。

目標を最初から決めてしまったのだ。

しかも、高い目標ではなく、低くて身近な目標に。

 

20代から起業したりする人はいる。

スティーブ・ジョブズもよく「自分の人生の時間を無駄にしないで下さい」

そう言って、23歳くらいから会社を立ち上げ、かっ飛ばして人生の階段を上り詰めていった。

 

いつになっても行動できない人がいる。

その一方で、がむしゃらに目の前の目標に向かって突っ走る人がいる。

 

その違いって、案外、

「今年のうちに〇〇する」と、身近な目標を立てているか、立てていないかの違いなのかもしれない。

 

人生100年時代だと言われている。

いつかすればいいやと思っていると、案外あっという間に寿命が尽きてしまうかもしれない。

 

自分の貴重な人生の時間をどのように使うか?

それは自分次第だ。

 

朝早くから壁に激突したおかげで、ふとそんなことを思ってしまった。

上から目線のことを書いてしまったが、自分も全く行動できてない部類の人間である。

 

行動しなきゃ。

とにかく書かなきゃ。

そんなことを、ふと思った。

生まれた瞬間から、ビルから飛び降りている

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「なんか単調だな」

毎日、ありふれた日常を過ごしているといつしかそう思ってしまう。

 

子供の頃には色鮮やかに見えていた都会の景色も、毎日見慣れてきてしまうと単調なコンクリートの塊のように見えて、何の新鮮味も帯びてこない。

 

昔は家から最寄りの駅まで歩くだけでも大冒険だった。

道端には花が咲いていたり、空を見上げると面白い形をした雲を見かけたりする。

石ころが転がっているとひっくり返って、裏に虫がくっついてないか確認したいしていた。

 

しかし、大人になるに連れて、ありふれた日常にある新鮮な景色を観ていく余裕もなくなっていった。

 

駅に向かう道中も、忙しない毎日に没頭するあまり、周囲も気にせず一直線に目的地まで向かってしまう。

 

慣れというのは本当に怖いことかもしれない。

毎日、同じ景色を見て、、同じような道を歩いていると、何も新鮮味を感じなくなってしまう。

 

そんな自分が嫌で、いつしかカメラを持つようになった。

会社に向かう途中もカメラを持って歩くことで、どんなに忙しくても、

ありふれた日常に潜む一瞬の輝きを捉えるように意識を変えてみた。

 

すると、面白いことが起こった。

毎日の出社時間が楽しみになったのだ。

朝の渋谷にこんなにゴミがあるなんて思わなかった。

スクランブル交差点の真ん中に光が差し込んでくる瞬間があるなんて思わなかった。

 

 

カメラを持つことで、少しずつ、少しずつだが目の前に広がっていたモノクロの世界も色味がかかってきた。

 

毎日、同じ時間で同じ電車に乗って、周囲と同じような顔をしながら会社にむかう。そんな単調な毎日に少しでも新鮮味を感じようとした自分なりの工夫だった。

 

だけど、ちょっとずつカメラを持ち歩くことに慣れてき始めた頃、また、恐ろしい慣れというものが襲いかかってきた。

カメラを持ち歩くことで、新しく見えてきた景色も、仕事量が膨大になるに連れて、

見つめている余裕がなくなってしまったのだ。

 

最近だと、カメラはいちよバックにしまっているが、撮っている余裕がなくなってしまった。

こんなんでいいのだろうか。

今は、仕事に集中しなければならない。

だけど、何か心の奥底から大切なものが消えていく感触が常にあった。

 

「凍」

ずっと、気になっていた本のタイトルだった。

作家はノンフィクション作家の沢木耕太郎氏である。

この著者の「深夜特急」を読んで、感化されすぎて、自分は東南アジアに疾走してしまった。そんな感じに多大な影響を受けた作家さんだ。

 

社会を鋭く見つめ、その中にある素材から絵が浮かぶような描写力で言葉をつなげていく。

そんな沢木氏の姿に憧れるとともに、こんな文章は自分には書けないと思えてしまうくらい高嶺の花のような存在の作家さんである。

 

 

そんな沢木氏が世界最強のクライマーと呼ばれる山野井氏とその妻の登山夫婦を追いかけたノンフィクション本があった。

それが「凍」である。

 

ずっと、この本が気になっていた。

自分はあまり登山とか運動とかは得意ではないし、興味もあまりない。

 

だけど、孤高に美しいチベット氷壁に命を削ってまでも挑んでいくこの登山家夫婦の物語がなぜかずっと気になっていた。

 

ブックオフで見かけ、つい手をのばしてしまった。

読み始めると止まらなくなった。

 

標高8000メートルを超えると、人間には致死レベルの領域だという。

エベレストの他に8000メートルを超える山は世界に数箇所あるが、多くのクライマーは極地法という方法で登ることになる。

ベースキャンプから出発して、徐々に荷物を荷揚げしてキャンプを設置していき、最後の何人かで登頂を目指す。軍隊のような手法で山頂を目指すのだ。

 

 

だが、この本で描かれている山野井夫婦は違った。

ベースキャンプから単独で頂上を目指すアルパイン・スタイルと呼ばれる登山家なのだ。もちろん、ベースキャンプを出発すると、そこからはアシストしてくれる人はいない。

雪崩にぶつかっても、道に迷っても、自分の経験と感覚を研ぎ澄ませて、対処していくしかない。

一歩間違えれば、命を落としかねない危険な登山でもある。

 

この本では、なぜ夫婦が命を削ってまでも孤高の山に挑んでいくのかが書かれている。

 

そこには少し普通の人には理解しきれない感覚もある。

なぜ、指を凍傷ですべて失っても、再び山に登ってしまうのか。

山に魅せられ、虜になった夫婦の物語がそこにはあった。

 

仕事の合間も通勤の時間も全て使って私はこの本に読みふけってしまった。

命を削ってまでも、自分の好きなことに向き合っているこの夫婦に魅了されてしまったのだ。

 

 

ヒマラヤの難峰ギャチュウカンと呼ばれる氷壁にアタックした夫婦。

そこで事故が起こってしまう。

 

美しい大自然の中、猛烈に吹き荒れる吹雪を前にして、一週間近く遭難してしまうのだ。

「生きて帰れるのか」

登る途中で何度もそう思った。

 

引き返そうと思えば、出来たはずだが、指を失うことになってもどうしても山に魅せられ、頂上を目指してしまう。

 

なんか孤高の精神というか、普通の人とはかけ離れた精神力に私は圧倒されてしまった。

 

命からがら下山することに成功するも、その代償は大きかった。

奥さんは18本の指を切断することになり、山野井氏も多くの指を切断することになる。

だけど、とくに奥さんの方はあまりショックがないという。

自分が好きなことをやって、体を傷つけたのだから仕方ないと思って、また山に登ってしまうのだ。

18本の指を失ってまでもこう考えたという。

「戻らないのは仕方ない。大事なのはこの手でどのように生きたかだ」

 

 

人は生まれた瞬間から、ビルから飛び降りているとどこかで聞いたことがある。

いつの日か地面にぶつかって、命が尽きるのだ。

 

ビルから飛び降りている時間の中で、その人がどう生きていくのか。

 

山野井夫婦のように自分の寿命を削ることになっても、自分が愛してやまない登山を続ける人もいる。

毎日、単調な日々を過ごして、地面にぶつかるのを待っている人もいる。

 

 

この本を読んでから、毎日を全力で生きなきゃなと思い、力が湧いてきた。

ありふれた日常に潜む、輝かしい一瞬もしっかりと見つめていたい。

そんなことをふと思うのだ。

 

 

今日も忙しない一日になりそうである。

そんな日々でも私は満員電車の中に飛び込んでいく。

 

 

「自分の中に自分はいない」……そう教えてくれたのは。

 

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今思えば、大学生の頃から自分は常に浮足立っている感覚があった。

ずっと浮足立っていて、生きているのかどうかわからなくなる瞬間。

そんなことが常にあった。

 

無機質なコンクリートジャングルで生まれ育ったせいか、

土にしっかりと踏み込んで立っていない感じ。

 

常に浮足立っていたのだ。

その感覚が露呈し始めたのが、就活の頃からだった。

 

「自分の強みは〇〇です」

何百人と受けてくる就活生。

面接官もしっかりと優秀な学生層を引っこ抜くのに必死である。

 

「私は大学生時代に〇〇をやっていました」

とにかく人と違うことを喋らなきゃ。

人と違うことをしなきゃ。

 

そんなことで雁字搦めになっていた。

 

他者と簡単に比較できてしまう時代。

SNSを開けば、小学生の同級生の動向も簡単にわかってしまう。

 

「あ、あいつ今この会社でこんなことやっているんだな」

「あ、昔は静かなやつだったが、今はこんなことをやっているんだ」

みな、楽しそうな日々を送っている様子がタイムラインで流れてきては、

自分と他人を比較してしまい、胸が苦しくなる。

 

一体何をやっているんだろう。

自分は一体、何になりたいのだろう。

 

 

とにかく人と違うことをしなきゃ。

人と違う自分でいなくちゃ。

 

そんな思いが込み上がって、常に浮足立っていて生きている心地がしなかったのだ。

 

一度、すべてが嫌になって海外に逃避行の旅に出たことがあった。

東南アジアをぐるっと一ヶ月以上かけて一周したのだ。

 

タイ、カンボジアベトナムラオスと自分の足で歩き回って、自分の足で

世界を見に行きたい。

その思い出駆られて、ただ何も考えずに放浪していた。

 

海外に行けば、何か見つかるだろう。

きっと、そのときは自分自身と一旦距離を起きたかったのかもしれない。

 

ずっとむやみに放浪しているうちに多くの人と出会った。

一輪車で世界一周をしている青年。

耳が聴こえないのに、英語、日本語、韓国語を喋るおっちゃん。

 

旅の中で出会った人は今でも色鮮やかに覚えている。

だけど、どうしてもわからないのだ。

 

海外に出てきたけど、自分は一体何をしにきたのか。

自分は何がしたいのだろうか。

 

タイ・バンコク貧困層に苦しむ人々の暮らしを眺めているうちに、

ふと自分はこんなところで何をやっているんだろうかと思ってしまった。

 

自分はただ、逃げてきただけだ。

そんな思いに駆られて、結局は日本に帰ってきた。

 

日本に帰ってきてから転職をして、きちんとした社会人一年目をスタートさせた。

社会人になって、早一年以上が経った。

毎日仕事を覚えるのに必死で、あっという間に一年が経ってしまった。

忙しない毎日の中、ただひたすら仕事を覚えるのに必死だった気がする。

 

ちょっとずつ仕事に慣れてきて、すこし余裕が持ててきた頃、ふとSNSを開いた。

そこにはやっぱり周囲の人々に様子が全面に映し出されていた。

 

ある人はベンチャーで成功して、裕福になっていたり、

ある人は自分のやりたいことを追い求めて、アメリカに渡ったり、

さすがに26歳となるとみんなそれぞれ自分の道を決めていっていた。

 

すごいな。

みんな自分の道を決めているな。

 人と比べて、自分の劣等感を感じていた頃。 

そんな時、ふとある本を開いた。

「芸術と科学のあいだ」

 

動的平衡という生物学の新しい概念を生み出した福岡伸一先生の著者である。

 

動的平衡というのはすべての人の細胞は常に半年後には生まれ変わり、

人の記憶は一体どこから来るのか? という学術的にも難しい論点だ。

(全部わかってなくてしっかりと書けなくて申し訳ない)

 

秩序があるなかで美しさを感じるセンス。

科学の世界で生きているからこそ、美的センスというものが大切だという。

 

数学的な計算でも、整数が続く数字に美を感じられるかどうか。

それが数学者にとって大切なことらしいのだ。

 

日本の教育は早い段階から文理がわかれてしまう。

理科系も文学系も共通で芸術的な論点が必要だと思い、

芸術と科学のあいだにある繊細さとその均衡の妙さをまとめたのがこの本だった。

 

私はこの本が好きでたまにパラパラと開く。

 

何か心がもやもやしていたのだろう。

ふと、開いたページに目をやった時に、考え込んでしまった。

やはり、心が病んでいるときには、その時々に出会うべき言葉がしっかりと存在するのかもしれない。

 

「自分の中に自分はいない」

先生はパズルのピースの例を出しながら、生物学の根幹にあるものを教えてくれる。

 

なくしたパズルを探す場合は、メーカー側になくしたピースの周囲8つ分を渡せばいいという。

 

周囲のピースがわかれば、無くしたピースも判明するのだ。

 

生命も同じで、それを取り囲む要素との関係性のなかで初めて存在しうる。

 

私はこの一説を読んだ時に感動してしまった。

「自分の中に自分はいない。自分の外で自分が決まる」

 

就活をしていた頃はとにかく何者かになりたくて必死だった。

常に浮足立っていて、生きている心地がしなかった。

 

だけど、どんなに自分を探し回っても結局答えは見つからないのだ。

 

自分と外の世界とのつながり……それが自分を構成する様相になる。

 

今までずっと自分の殻に閉じこもって逃げていた部分があった。

いつも周囲と自分を比べてしまい、劣等感を感じてしまう。

そんな自分が嫌で、なおさら自分の殻に閉じこもっていく感覚。

 

だけど、自分が外の世界とどう繋がっているのか?

それがいちばん大切な気がするのだ。

 

もっと、人と関わらないとなとふと思ってしまった。