ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

ひとと関わらなければ、ひとに輪郭は生まれない  

 

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「君は思い込みが強すぎる」

ある日、突然職場の上司にこんなことを言われた。

 

自分が担当しているお客さんに挨拶に行った時、

「仕事が忙しそうで、全く相手にされなかった」と報告した時だった。

 

「あの人はそんな無責任な方じゃないよ。君がその人をそういう人だって思い込んでいただけじゃないの? 君は思い込みが強すぎる」

 

その言葉を言われた時にハッとしてしまった自分がいた。

確かにその通りである。

 

自分が子供の頃から悩んでいた部分を的確に指摘されて、えぐり取られた感じ……

 

 

自分は昔から人と関わるのが苦手だった。

小学生の頃から、どこかクラスメイトと馴染めない自分がいるのには気がついていた。

自分の考えがあるのに、うまく言葉にして吐き出せない感触。

ずっとモヤモヤを抱えて、じっとしていられなかった。

 

いつからだろうか。

クラスの隅っこでうずくまっているうちに、授業中も昼休みもただひたすら時がすぎるのを待つようになっていた。

 

「人と関わるのは面倒だ。だから自分の世界に引きこもっていればいい」

そう思い、部活動もろくにせず、学校が終わると一目散に家に帰っていた。

 

団体行動を取ろうにも、うまく出来なかった。

中高と野球とかバスケをやってみようと、部活の体験入学などをやってみたが、

みなで同じ方向に走る……

団体でプレーをするということにどうしても馴染めない自分がいた。

 

なぜか団体行動をしようとしても、どっと精神的に疲れてしまい、ぐったりとしてしまうのだ。

 

「なんで自分はこんなにも人と関われないのだろう」

とそんなことを思い、いつしか自分の殻に閉じこもるようになった。

 

周囲の心ある人間にも目に見えない膜を貼り、自分の枠の中に入ってくるのを拒絶するようになった。

 

「君は人に対する思い込みが強すぎる」

そう上司に言われた時、自分の人生の中での人間関係の問題がすべて露呈してしまった気がする。

 

人と関わるのは苦手だ。

だから、周囲にバリアーを張って、自分が傷つくのを避けている。

そんなことは自分でもわかっている。

だけど、どうしても人の性格はなかなか変わらない。

 

いつしか、人と会っても、ちょっとした仕草だけで

「あ、この人はこういう人なんだな」

「いま一瞬、目を背けたから、この人はきっと自分に興味が無いんだな」

 

ちょっとした仕草や行動だけを読み取って、その人を判断してしまうようになった。

初対面の人と5分くらい話して、相手のことをすべて理解するのは不可能だろう。

目を背けたりする行動も、その人の性格の氷山の一角にすぎないのかもしれない。

だけど、思い込みが激しい自分はちょっとした仕草を読み取るだけで、

「あ、この人はこういう人なんだな」と思い込む。

 

いつも仕事に疲れてしまい、家に帰る時には、ぐったりときてしまう。

「あ、今日もうまくいかなかったな」

 

そんなことを思っている時、いつものように本屋に立ち止まった。

ふと、目に入った本が気になった。

 

「臆病な詩人 街へ出る」

高校生詩人として一世を風靡したしじんの文月悠光が書いたエッセイ集である。

なにげなくページを捲っていると、ふと目に入った言葉が突き刺さった。

 

なんだこのエッセイ。

 

表紙の写真がとても好きだった。

臆病な詩人が光る街に出ていく感じ。

その物語が一枚の写真に写りだされていた。

 

気がついたら、レジで会計を済ませていた。

 

 

いつものように満員電車に揺られながら本を読み進めた。

高校生にして最年少で中原中也賞を取ったJK詩人。

そんなJK詩人もいつしか大学を卒業して、大人となって東京に出てくる。

 

社会から自分がどう見られているのか?

自分が社会から何を求められているのか?

 

高校生の頃から周囲から詩人というレッテルを貼られ、悩み苦しみながらも

懸命に言葉を継ぐっていく。

 

ありふれた日常に潜む、かすかな光を言葉にまとめていく。

そんな姿勢に心が惹かれてしまった。

 

そして、ある一説が目に焼き付いて離れなかった。

知り合いの作家が亡くなった際に自分に投げかけられた言葉。

それが一つの文章になっていた。

 

「ひとと関わらなければ、ひとに輪郭は生まれない」

 

恋愛も人間関係もすべて片思いからはじまる。

一方に好かれていても、自分の感情が相手を忘れてしまうこともある。

変動する自分の心を知ってほしい。だけど、相手を忘れたくない。

 

そんな矛盾に満ちた恋愛や人間関係のすべてがこの言葉に置き換えられている気がした。

 

恋愛も人間関係も、相手をよく知ろうとすればするほど、傷つく。

だけど、相手のことを知ろうとすればするほど、

いつしか相手との思い出が自分自身のかけらになっていく。

自分自身に輪郭が生まれていく。

 

 

なんだか、この一行の言葉に救われる思いがした。

 

人間関係は正直、面倒である。

自分のような「自分の世界に酔い浸りがちな」性格には、きっと辛い部分もある。

 

だけど、この言葉にある通り、

「ひとと関わらなければ、ひとに輪郭は生まれない」のだ。

 

いつも「人が嫌い」と言って、逃げていた自分がいる。

だけど、この言葉と出会ってから、どこか前を向いて人と関わらないとなと思うようになった。

 

 

是枝裕和監督の「万引き家族」を観て、アラブ諸国のモスクを思い出した  

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常に浮足立っている感じが常にあった。

毎日、満員電車にゆられながら、会社に向かっていると、自分が荷物のような扱いを受ける。

ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で呼吸をじっとこらしながら、ただ耐える毎日。

 

自分が立っている位置を確保するのに必死で、周囲に目を配る余裕もない。

特に雨の日は最悪である。

 

多くの人が傘を持っているため、雨に濡れた傘がカバンにあたり、びしょ濡れになる。

 

始発から乗ってくる人は椅子取りゲームのごとく、目的地までじっと座っていられるが、途中の駅から乗ると、まず座れることはない。

 

ただひたすら自分の位置を確保するのに必死になる。

そんな缶詰状態の中に閉じこもっていると、たまに自分が生きているのかどうかわからなくなる瞬間がたまにある。

何かの糸がプチリと切れるかのように、ただ黙って時が経つのを待っている

感覚。

 

あまりにも情報が過多し過ぎで、自分の位置がわからなくなった時代と言われている。

忙しすぎる毎日に没頭するあまり、自分の立ち位置というか、自分が今何処にいて、どこに向かっているのかわからない感覚。

 

 

SNSを開くと、同級生たちが楽しそうな日々を送っている写真が投稿されている。簡単に他人と見比べることが出来てしまう。

 

自分って一体何なのだろうか?

ずっと、そんな風に浮足立っていて、生きている実感があまりわかなかった。

 

人と違うことがしたい。

人と違う自分でありたい。

 

そんな感情が渦を巻いて、ある時爆発して、異常に映画を観まくっていた時期があった。

大学生の頃は「何も持っていない」自分に嫌気が差して、家に閉じこもって映画ばかりを観ていた。たぶん、一日6本以上映画を観ていた時もあった。

 

そんな時だった。

是枝裕和監督のことを知ったのは。

 

「誰も知らない」を見たときの衝撃は今でも忘れられない。

こんなに後味が悪い映画がこの世にあるのかと正直思ってしまった。

現代社会に潜む、闇の部分をえぐり出す是枝監督の目線にただ、驚いてしまった。

 

ありふれた日常に潜む狂気というか、どこまでも続いていく日常のはずなのに、何かが壊れていく感じ。

そんな感覚がどの作品にも溢れていた。

 

カンヌを受賞した「万引き家族」。

これも見に行かなきゃなと思い、早速休日を利用して見に行くことにした。

なぜか突然の代休で休む事ができ、平日の昼間に映画館に駆け込むことが出来た。

 

映画館の中は人でごった返していた。

平日の昼間なのにこんなに人がいるとは驚いた。

やっぱり日本人の特性というか、賞を取ったものに異常に敏感になって、

みんなで同じ映画を観に、駆け込んでいるような感じだ。

 

映画が始まった。

正直言ってしまうと、自分にとって「そして、父になる」や「誰も知らない」の方が重く、ドシンと心に来るものがあった。

だけど、なんだろう、この感触。

スクリーンの前にいるはずの家族が途中から自分と重なって見えてきたのだ。

 

血がつながっていないが、絆で繋がる家族。

それは生きていくため、お金のために繋がりを求めて集まってきた家族なのかもしれない。

 

是枝監督のどの映画にも根底にあるテーマ「人とのつながり」

それが今作には一番わかり易い形でにじみ出ていた。

 

 

「私達はお金で繋がっているの?」

そんなことを登場人物の一人が語るシーンがあった。

生活のために集まってきた疑似家族。

だけど、どう見ても普通の家族以上に幸せそうだ。

 

映画を見終わったあとも、しばらくの間、ずっと考え込んでしまった。

あの家族が背負っていたものは何だったのだろうか。

なんで、あの場に集ってきたのだろう。

 

そんなことを考えている時にふと、アラブのモスクのことを思い出した。

 

大学時代のゼミでは、フランス映画学みたいなものを専攻しており、

その中でフランスの移民問題について、深く調べたことがあった。

多種多様な移民が混じりあり、アラブ各国から人々が集まってきている現在のヨーロッパ事情。

 

昔からパリに住んでいる人にとって、正直アラブ各国の移民は恐怖の対象なのかもしれない。

 

人種差別的な問題も浮上している中でも、秩序を保っている部分は何なのか。

アラブ各国の移民たちは、いつもある一定の時間になると礼拝堂(モスク)に集まってくる。皆、ある時間に一つの方角に向かって祈りを捧げている。

富裕層から貧困層まで、地位に関係なくある方角に向かって祈りを捧げている。

 

社会から一瞬、切り離され、自分と向かい合う時間を作っている。

 

そんな時間を持つことができる事によって、貧富の差を超えての秩序を保つ

理由にもなっているという。

 

現代社会はあまりにも高速で進みすぎだ。

高速で情報が過多していて、自分と向き合える時間がほとんどない。

 

そんな中でも、自分が依存できる場所を持つことが大切なのかもしれない。

どこか社会から自分を断絶できる空間や居場所。

 

それを求めて、映画の登場人物たちは、あの家に集まってきたのかもしれないなとふと、思った。

 

自分が依存できる場所。

心の拠り所というか、依存できる空間。

社会から断絶できる時間を求めて、人は世の中を彷徨い歩いている。

そんなことを強く感じた。

 

 

未来を写したその先にあるもの……  

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「終点、渋谷〜」

満員電車のドアが開いて、人がどっと溢れかえっている渋谷駅構内。

毎朝見ている光景で、一年以上社会人をやっているとさすがに満員電車にもなれてくる。

 

この電車に乗れば、通勤ラッシュの時間にあたるな。

この電車に乗れば、比較的ラクに都心に出れるな。

 

朝起きてから家を出るタイミングで、何時発のどの電車に乗れば、何時に会社に着くのかはだいたいわかってくる。

 

自分は人混みの中で電車に乗るのが大の苦手のため、早めに家を出て、

通勤ラッシュ直前の比較的空いている各駅停車に乗って会社に向かうことにしている。

 

各駅でも朝は大混雑だ。

怪物のような満員電車のドアが口を開けた時、ものすごい量の人がなだれ込んでくるのだ。

 

よくもみんなこんな混雑した空間の中、我慢しながら会社に向かえるよな。

自分も我慢しながら通勤している身だが、我ながら良くも持ちこたえて出社しているなと思う。

 

ドアの開け口が開くたびに、人の出入りがあり、自分が確保していたスペースは減らされていく。

 

あ、やばい。

クラクラと目眩がするときは、とっさに駅に降りて休むことにしている。

人と話すのが大の苦手な私は、とにもかくにも満員電車が駄目である。

 

いつも本を読んで、自分の世界に没頭しているが、周囲の雑音が目に入って、どうしても耐えられなくなる時がある。

 

なんかずっと空虚な感じがずっとしていた。

人混みの中で漂っていると自分が何処に向かって、どこに歩んでいるのかわからなく感触。

 

とにかく浮足立っていて、常にフラフラな状態で会社に向かっている感じだ。

 

あ、最近は写真も撮れてないな。

いっとき、何かの感受性が爆発したのか、会社に出社するときも仕事中も、帰宅中も、土日もカメラを持ち歩いて写真ばかり撮るようになった時期があった。

 

しかし、自分に課される仕事量が増加するに連れて、自分がなんとかしなきゃと踏ん張っているうちに、気がつくと今まで鮮やかに見えていた景色も少しずつ色あせていった。

 

あれ、なんだかおかしいな。

枯れていく自分の感覚。

どこか社会とのつながりを持とうと必死になっているうちに、何かが消えていく感覚があった。

 

一度、社会人を辞めたことがあったこともあって、とにかく社会とのつながりを持ちたくて必死になって働いていくうちに、外の世界と繋がるはずが、どんどん自分の中に閉じこもっていった。

 

土曜日になるといつもフラフラな状態になっていて、昼過ぎまで体が起きないのだ。

無理に外に出ようとして、カメラを持って街の中で出ていっても、

何も撮るものが思いつかない状態が数ヶ月続いていた。

 

 

「無理にカメラを持って、外に出なくていいです。常にカメラを持ち歩いて下さい。コンビニに行くだけでも心に響く自分だけの景色があるはずなんです」

 

以前に少しお世話になったカメラマンの方がツイッターでそんなことを呟いていた。

 

ガンを宣告されて、余命がわかっているのに、いつも笑顔を絶やさない、

そんな素敵な方だ。

 

その方がやたらと勧めている映画があった。

 

「未来を写した子どもたち」

 

インドの売春街で生まれた子どもたちが、カメラを通じて外の世界に飛び出していくドキュメンタリー映画だという。

 

私は、映画は好きだがドキュメンタリー映画は大の苦手である。

人との会話が続くだけで、見ているとなんだが映像に酔ってきてしまうのだ。

 

あ、ドキュメンタリーか……

どこか自分の波長とは合わない映画のような気がして、最初はあまり見る気が起きなかった。

 

だけど、気がついたらTSUTAYAのレンタルコーナーの棚からDVDを取り出していた。

 

インド・コルカタ……

 

自分は二年半ほど前にインドに行ったことがあった。

空港から出た瞬間、悪臭が広がり、人で溢れかえり、カオスとしか言いようがない世界。

信号もろくになく、タクシーやオートリキシャーに秩序なんて存在しない。

日本で生まれ育った自分にとっては、だいぶカルチャーショックな世界だった。

 

ホテルの送迎タクシーに乗ってデリー中心部に向かっていると、溢れんばかりの小さな子どもたちが群がってくる。

みんなボロボロの服を着ていて、物乞いをしている。

 

カースト制度というインドの奥深くに根付いている問題を目の前にして、自分は何も返答が出来なかった。

 

DVDのパッケージに映る、笑顔で笑っているインドの子どもたちの姿を見ているうちに、その光景を思い出してしまった。

  

家に帰り、さっそくDVDデッキで見てみることにした。

画面に広がっていたのは、自分が見てきたインドの光景と似通っていた。

 

過酷な環境下で生きている子どもたちに取材を続けるアメリカのジャーナリスト。

 

インドは生まれた瞬間に自分の運命がほぼ決まってしまう。

カーストですべてが分断されているため、富裕層の子どもたちはきちんとした教育を受けられるが、最下層のカーストの親を持つ子供は、大人になっても最下層のカーストである。

将来に就ける職業も生まれた瞬間にほぼ決まってしまう。

どんなに努力しても、変えられない現実が目の前に横たわっている。

 

売春街で生まれた子どもたちは将来、売春で生計を立てることが本人の意思ではなくても決まってしまうのだ。

生活苦のため、その環境下からも逃げ出せずにいる子どもたち。

そんな子どもたちに、アメリカ人のジャーナリストはカメラを与える。

 

生まれて初めて見るカメラを通じて、外の世界に飛び出していく子どもたちの姿がそのドキュメンタリー映画に映し出されていた。

 

売春宿で撮った子どもたちの写真が、とても美しいのだ。

無邪気にカメラを楽しんでいて、自分たちと外の世界をつないでいる。

 

ただただ、純粋にカメラを楽しんでいる姿が描かれていた。

 

しかし、月日が経つにつれて、過酷な運命が子どもたちの前に横たわっていた。

 

ある子は親の跡をついで、売春を始める。

カメラを通じて外の世界とつながることを知ってもどうしても変えられない現実がある。

 

それでもある子はカメラを持って、外の世界に飛び出していく。

奨学金を申請して学校に通い出す子どもたち。

 

純粋に目の前の過酷な光景を見つめる子どもたちの姿を見つめていると涙が溢れてくる。

日本はだいぶ恵まれている。

街を歩いていても乞食をやっている子どもたちの姿なんてまず見かけることがない。

 

だけど、純粋な目線で外の世界に繋がっていこうとするインドの子どもたちの姿を見ていると日本にはない何かがある気がする。

 

最近は仕事が忙しいのを理由に自分の世界に閉じこもってばかりいたと思う。

 

カメラを通じて、外の世界を見つめる喜び……

そんなことをこのドキュメンタリー映画を見ているうちに感じた。

「狂」としか言いようがない圧倒的な名演をこの目に見せつけられた。

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「この映画だけは絶対見たほうがいい」

先日、映画好きの方が集まる会に久しぶりに参加した時、いつもお世話になっている方からこんなことを言われた。

その方は大の映画好きで、お会いするたびについつい映画の話ばかりしてしまう。

 

「この映画だけは絶対に見たほうがいい。見なきゃだめだ!」

どこか好きな映画の波長が似ているその方がここまでおっしゃるなら、

さぞかし名作なのだろう。

 

その映画のタイトルは知っていた。

確かにトレーラーを見る限り、名作の予感が漂っていた。

 

ハリウッドの名俳優ゲイリー・オールドマン主演の

ウィンストン・チャーチル ヒットラーから世界を救った男」。

 

トレーラーを見たときに、なんだか面白そうだな……

機会があれば見に行かなきゃなと思っていた。

 

だけど、なんだかんだ4月、5月と仕事でバタバタしてしまい、見に行く時間を持て余していた。

 

すでに6月になってしまい、上映している映画館なんてもうないだろうな。

DVDが出たときに見ればいいや。

そう思い、見るのを半ば諦めていたのだ。

 

「この映画は絶対に見たほうがいい。本当に見たほうがいい!」

映画好きのその方に嫌という程熱く語られ、なんだか自分の心も動いてしまった。

 

今、都内の映画館でやっているところあるかな?

渋谷とかのミニシアターなら公開から2ヶ月以上経っても上映してそうである。

 

だが、調べてみると都内で上映している映画館は皆無だった。

そうだよな。二ヶ月以上前に公開した映画を上映してくれている映画館なんてないよな。

やっぱり映画じゃなくて、DVDで見ればいいや。

 

そう思い、映画館で見るのを諦めかけていた時、ふとネットに上がっていた

埼玉の映画館の公開情報に目をやった。

 

う、やっている?

 

大宮にあるイオンシネマだけが上映していたのだ。

 

自分が住んでいるのは調布市近辺である。

電車で大宮まで1時間以上かかる。

 

休日で移動するにはなかなかの距離である。

どうしようかな。

レンタルが始まるまで待つかな。

 

 

だけど、どうしてもこの映画は映画館で見なきゃいけない。

そんな直感が働いていた。

 

後世にも語り継がれるような名作はなるべくならテレビやPCの中ではなく、

眼の前に広がるスクリーン上で見たい。

というよりむしろ、なぜかわからないが、この映画だけは今、見なきゃ!

そんなことを感じたのだ。

 

大宮まで行くか。

 

そう思いたち、休日でのんびりする暇もなく、朝から電車に飛び乗り、埼玉県の大宮に向かうことにした。

 

新宿からだと40分くらいである。

最寄りの駅からイオンシネマまで15分以上歩いた。

(なぜ駅の近くにショッピング施設を作らないんだ!)

 

 

公開から二ヶ月以上経っているためか映画館の中はガラ空きである。

ほぼ、席に自分しか座っていない。

 

席に座り映画が始まるのを待つ。

 

映画が始まった。

オープニングでの国会の討論シーン。

ヒットラーの侵略からどうイギリス本土を守るべきか?

次の首相は誰にすべきか?

 

そんなことが議論されている中、カメラは天井から白熱した討論を繰り広げている議員たちにフォーカスしていく。

 

オープニングを見た瞬間、

「この映画は普通の映画じゃない!」

そう思った。

 

ワンカット、ワンカットの演出や作り込み具合が半端ないのだ。

議長の部屋に差し込んでくる朝焼けの光、一つ一つが徹底的に計算され尽くされていて、どうみても戦時中の1940年代のイギリスの光景にしか見えないのだ。

 

そして、主人公であるチャーチルが登場するシーン。

どっぶりと太った容姿に滑舌が悪く、タイピストを罵倒するシーン。

もはや演技には見えなかった。

 

チャーチル役をやっているのがゲイリー・オールドマンだとは知っていた。

特殊メイクが優れていて見た目がチャーチルそっくりなのがわかる。

だけど……

声も、仕草も、言動も、食べ方も、すべてチャーチルにしか見えないのだ。

 

圧倒されるような演技を見せつけられ、どこからどう見てもチャーチルがスクリーンの中を歩き回っているようにしか見えない。

 

こ、これが演技なのか。

気が狂ったまでに洗練され、昇華されている演技力に驚いてしまった。

 

これが、本物の名演なのか……

 

 

そして、物語は後半に続く。

史上最大のダンケルク撤退作戦を前に、政界で闘争を繰り広げるチャーチル……

 

この映画の原題は「darkest hour」という。

ナチスドイツが暴走を始め、ヨーロッパ全土に侵略戦争を仕掛けていた時、

アメリカも他国も無関心を装っていた。

1940年はイギリスだけがナチスに徹底抗戦を挑んでいたという。

 

フランスも陥落寸前で、本当にヒットラーが世界を征服するかもしれないという恐怖で覆われ、真っ暗闇の時期があった。

そんななかでもチャーチルだけは「最後まで戦え」と信念を貫き通していた。

 

いま現在の私たちは、連合国がナチスドイツに戦争で勝利し、第二次世界大戦終結することを知っている。

 

しかし、当時の人は海の向こうで、今にもヒットラーが本土に侵略をしかけてこないか不安で仕方がなかったと思う。

 

そんな恐怖に覆われ、暗闇の中でも自国の勝利を信じて、ある種の盲信で人々に鼓舞し続けていた人物がいた。

 

スクリーンの前で繰り広げられるチャーチルの演説を見ているうちに、気がついたらポロポロと涙がこぼれてきてしまっていた。

 

チャーチルにあったのは、異常なまでの負けず嫌いだったのかもしれない。

政界一の嫌われ者だったが、異常な負けず嫌いと自己の盲信だけで首相までのぼりつめたのかもしれない。

 

だけど、危機にひんしたときに見せた、信念としかいいようがない説得力。

国土が崩壊しても、何が何でも戦いに勝つことができるという、盲信が国民を動かしたのかもしれない。

 

 

結局何かをやり遂げる人は才能とかの前に、信念というか、ある種の盲信があるかないの違いかもしれないと、この映画を見ているうちに思ってしまった。

 

昔、ある人に自分はこう言われたことがある。

「人はなりたいと思った人になる」。

 

その方は25歳で単独でニューヨークに飛び込み、世界中で活躍する料理人になっていた。

何が何でも世界一のシェフになると単身で飛び込み、ハリウッドでも活躍する料理人になったという。

 

 

ニューヨークは夢追い人の街だ。

「プロのカメラマンになれると信じて疑わなかった人はプロのカメラマンになれたし、カメラだけでは食べていけないと思っていた人は結局、その通りになった」

そんなことを教えてくれた。

 

チャーチルが今なお、偉大なリーダーとして崇められているのはやはり信念というか、盲信があったからかもしれない。

 

何が何でも自分はこうなれる。

戦いに勝つことができると信じて疑わなかった盲信が人の心を動かしたのだ。

 

チャーチルの演説シーンを見ているうちに、自分は映画を見ているのかどうかもわからなくなってしまった。

 

なんだか映画の中で描かれていた物語以上のものを自分は受け取った気がするのだ。

 

 

 

「クリエイティブな仕事」があるのではない

 

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「なにかモノを作りたい欲求が溢れているんです」

そう目をキラキラしながら映画への情熱を語る人がいた。

 

その時、私は久々に映画好きの人が集まっている会に参加していた。

毎月開催されており、以前は毎月参加していたが、最近は仕事が忙しいのを理由に全く参加できてなかった。

 

久々の休日とその映画好きの会の日がかぶって、今日は参加することができた。

 

「久々だけど、行くか」

そう思って、足を運んだのだ。

毎月のように映画好きが集まるその会……

「これでもか!」というくらいマニアックな映画を語る人、

だれも知らないけど、とにかく好きでたまらない映画を語る人、

などなど若い世代から年配の方まで多くの人が集まってくる。

 

自分は大学時代にわりと多くの映画を見ていた。

授業をサボっては映画館に閉じこもり、一日6本くらいの映画を見ていた。

(映画の見すぎでTSUTAYAから年賀状が届いてしまったくらいだ)

 

 

わりと映画について詳しい方だと思っていたが、その会にいくと

周囲の人の映画への情熱と知識の量に圧倒されてしまう。

 

久々に楽しい会を過ごす中で、ある方が、自分が好きな映画について語り、

「最近、映画が撮りたくて仕方がない。モノをつくりたい欲求がすごい」

と熱く語っていた。

具体的に映画が作りたくて、行動に移しているらしいのだ。

 

その方の熱い目線を見ているとなんだか懐かしくなってしまった。

自分も昔はこんな感じだったんだなと思ってしまったのだ。

 

大学時代はアホみたいに映画を見て、アホみたいに映画を作っていた。

とにかく映画を見ていたか、映画を作っていたことしか記憶がないくらいだ。

 

どうしてもゾンビ映画を作りたいと思い、大学に10リットル以上の血糊をばらまいてゾンビ映画を作ったり、ヒーロー戦隊者の映画を作ったりで、

無我夢中になって映画を撮りまくっていた。

 

とにかく、なにか自分というものを表現したかったのかもしれない。

今思うと、大学生特有のエゴが爆発していたのか。

とにかく夢中になって映画を作りまくっていた。

 

自然と、映画の現場に興味を持ち、撮影所でアルバイトを始めた。

そして、その流れのままテレビ制作会社に就職して、映像の現場で働き始めた。

 

「やっと夢だったクリエイティブな世界に入れる!」

そう思って、胸をときめかせて映像業界に入ったが、なかなか現実は厳しかった。

 

2ヶ月以上休みがなく、5日寝ずに働いていたら体を壊してしまったのだ。

今思うと、自分が弱かっただけなのかもしれない。

好きなことなら続けられると思ったが現実は甘くなかった。

 

仕事を辞めてからしばらくフリーターをして、転職は出来た。

どうしても映画に関わる仕事がしたいと思い、

映画や業務用のカメラを扱う会社になんとか入れたのだ。

 

自分が感じたことだが、日本という社会は第二新卒に異常に厳しく、

一度失敗した人間にはとても冷たい目線が送られる。

そうした中で、運良く少しでも興味がある業界に入れたのはラッキーだった。

 

なんとか今は営業職ということでサラリーマンをやって、

毎日満員電車に格闘しながら会社に出社している。

 

一度、痛い挫折を味わったので、意地でも逃げ出せないと思い、誰よりも早めに出社して、毎日終電近くまで残って仕事している。

 

カメラという自分が興味を持っているものだからか、あまり仕事が辛いとは思わないが……

それでもなんだろうか。

少しずつ、少しずつ心の中でもやもやが広がっていった。

以前は自分が持っていたはずの何かが少しずつ損なっていく感じ。

 

きっと大学時代には何かを作りたいという欲求があったはずなのだ。

 

だけど、毎日の忙しさに没頭しているうちの、そのクリエイティブなものを感じる部分が明らかに消えていっていた。

 

「クリエイティブな仕事についている人は偉い」

「毎日、適当に働いているだけで決まった日に給料が出るサラリーマンはださい」

大学生の頃はそんなことを心のそこでは思っていた。

たぶん、サラリーマンになった今でもそんなことを少しは思っているのかもしれない。

 

映画好きの集まりが終わり、帰りの電車の中でふと本屋で見かけたある本を思い出していた。

それはカンヌで賞を取り、今話題になっている「万引き家族」の是枝監督のインタビュー本である。

 

本屋で見かけたときに、タイトルに惹きつけられたのだ。

「クリエイティブな仕事はどこにある?」

家に帰ってから本を読み直していた。

読み返してみると、いろいろと新たな発見があって、感じる部分があった。

 

あ、自分が最近悩んでいたものの答えってここにあったのかもしれない。

 

是枝監督はテレビマンユニオンという制作会社の出身である。

(たぶん、映像業界に勤めている方なら誰もが知っている会社だ)

 

そのテレビマンユニオンの社長に昔言われた言葉が今でも忘れないという。

 

「クリエイティブな仕事とクリエイティブでない仕事があるのではない。

その仕事をクリエイティブにこなす人とクリエイティブにこなせない人がいるだけだ」

 

若きアシスタントディレクター時代にそう社長に言われた是枝監督は、

今でもこの言葉が忘れられないという。

 

私はこの一説を読み直した時、はっとしてしまった。

 

自分はもともつクリエイティブな仕事に就きたいと思っていた。

だけど、今は冴えないサラリーマンをやっている。

 

たぶん、今でもクリエイティブなことをしたいという欲求はある。

一度、失敗してしまった分、そのことを口に出すのが怖くて仕方ない。

 

だけど、どんな仕事でも「クリエイティブにこなせるか、こなせないか」

の問題だけなのかもしれない。

 

エクセル入力の単純な作業でもクリエイティブにテキパキこなせる人はこなせるし、ダラダラと適当に済ませる人は適当に終わらせ、「仕事がつまらない」

と嘆いている。

 

もともと私はクリエイティブな仕事についている人が一番偉いと思っていた。

だけど、どんなに単純な労働でもテキパキとクリエイティブにこなしている人がいるのだ。

単純なゴミ掃除でも、「自分が担当しているトイレはこの駅で一番綺麗にしてみせる」と毎朝笑顔で清掃しているおばちゃんたちがいるのだ。

 

眼の前の仕事をクリエイティブにこなす……

 

そういった視点で自分の仕事を見直してみると、いろいろな発見があるのかもしれない。そんなことを思ったのだ。

 

 

「クリエイティブな仕事はどこにある?」

是枝裕和著 樋口景一著 

 

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一滴ずつだけど、バケツの水は溜まっていく  

 

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「最近、あまり写真撮っていないね?」

この頃、人に会うたびにこんなことを言われることが多かった。

 

「忙しくて写真取る暇がなくて……」

そんな言い訳をいっては、いつも言い逃れていた。

 

「いつも君の写真楽しみにしていたんだから、もっと撮ってね」

そう言ってくれる、お世話になっている方には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 

そうだよな。写真撮らなきゃな。

そして、記事も書かないとな。

 

そう思っても、なかなか記事も更新できず、一ヶ月近く経ってしまった。

 

一年以上前のフリーター時代はアホみたいに時間を持て余していたせいか、

毎日1万字近くの文章を書いていた。

 

今はどうなのかと言うと、一ヶ月に2000字くらいになってしまった。

書けないという言い訳はしたくない。

だけど、パソコンを前にしても全く心が動かなくなってしまった。

 

なんか最近、何も心が動かなくなった気がする……

そんなことを薄々と感じていた。

 

土日になって、映画を見ることがたまにあるが、映画を見ても明らかに昔よりも

感動する比率が低くなったのだ。

 

面白い映画を見て、「面白いな〜」と思うことはあっても、

感動する映画を見て、涙を流すことが本当になくなった。

 

大学時代は授業をサボっては、図書館で映画をみて、一人隅っこで映画の世界観に浸って、号泣ばかりしていた。

(小説とか映画の世界観にすぐに浸ってしまう性格)

 

昔はなにか本を読んだり、映画を見たりしただけで、すぐに心が動かされていたが、社会人になってからは、不思議と心が動く機会が極端に少なくなっていった。

 

 

なんでだろうか。

なんか心がカサカサになっていく感覚。

そう薄々感じつつも毎日の忙しない日々に奮闘しているうちに、いつしか一ヶ月以上何も書かず、写真を撮らない日々を過ごしていた。

 

 

こないだ、仕事で都心を歩いているとき、不思議なことが起こった。

自分の仕事は業務用のカメラの営業で埼玉だったり、東北地方だったり、いろんな場所を飛び回る。

 

そういった業務用のカメラのニーズが有るお客様はたいていが自動車産業である。大きな工場は多くの場合、都心でなく地方にあるので、営業先まで車で一時間〜二時間かかるのが当たり前である。

 

私は普段、車の運転が大嫌いで、ほとんど運転などしなかった。

まさか、社会人になって、毎日こんな長距離を運転する羽目になるとは……

 

ま、仕事だから仕方ないと思い、1時間以上の時間を書けて関東を飛び回る毎日である。

その日は代々木で仕事があった。

 

都心の方にお客さんがいるケースは少ないが、本社の方とちょっとした打合せがあったのだ。

 

 

久しぶりに電車に乗るな……

そう思いながら電車に乗って、毎日忙しない山手線の代々木駅に降り立った。

線路沿いに歩いて目的地に向かっていると、ふと目の前の光景を見て、立ち止まってしまった。

 

そこはなんの変哲もない、線路沿いの風景だった。

だけど、妙に心が動いた。

まるで、糸の線がプチンと切れるかのように、バケツがどっと溢れかえったのかのようにして、気がついたら涙がポロポロ溢れていたのだ。

 

周りの人からは怪しまれた。

サラリーマンの人が道路のど真ん中で涙をポロポロ流しているのだ。

それは確かに怪しい。

 

なぜか、その時、涙が止まらず、気がついたら立ちすくんでいた。

なんの変哲もない線路沿いの風景だ。

 

それなのに、心の糸がプチンと切れたのか、どっと感情が溢れてしまった。

しばらく深呼吸していたら、その症状はおさまったが、この出来事は何だったのだろうかとしばらく考え込んでしまった。

 

最近はずっと仕事に熱中していた、わりと無理ばかりしていた。

朝8時から終電まで仕事ばかりである。

 

喋りが下手で、人とのコミュニケーションが大の苦手な自分は営業の仕事なんて出来っこないと思っていたが、実際に営業の仕事をやってみると、しっくりきている自分がいた。

なぜか、飛び込み営業が大の得意なのである。

上司からは「仕事ばかりしていないで、家で休め」

とよく怒られるが、容量が悪く仕事が遅い私は

「20代のうちに、なるべく仕事を覚えなきゃ」と思い、多少無理してでも仕事ばかりに取り組んでいた。

 

体力は持っても、心にガタが来ていたいのか……

 

ある日突然、感情が溢れかえってしまったみたいだ。

普段閉じていた感受性がどっと開くようにして、どっと涙が溢れてしまった。

 

あ、最近は多少無理していたんだな……

 

その日は普段以上に早めに帰ることにした。

 

 

昔、読んだ本でこんな一説があった。

 

「書くということは心のバケツが溢れかえるようなものだ。

何もしなくてもいい。普通に生きていただけでバケツの水は溜まっていく。

そして、それがいっぱいになった時、その一滴一滴が何であったのかを理解するんだ。どんな人間だって、それが訪れる瞬間が、人生の中に訪れる」

 

最近は仕事に雁字搦めになりすぎて、あまり心に余裕を持てなかったのかもしれない。

少し余裕を持つようになると、ちょっとだけど毎日黒く色ずんでいた満員電車の光景が、明るく色鮮やかに見える様になってきた。

 

自分にとって、そのバケツの一滴が何なのかはまだわからない。

だけど、いつか、その一滴、一滴が何だったのかに気がつく時が来るのだろうか?

 

そんなことを感じつつ、たぶん明日も満員電車のなかに飛び込んでいくのだろう……

「何を捨てて、何を捨てないか?」その判断基準は結局……

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「どんな写真が撮りたいんですか?」

度々、出会う人にこんなことを言われる。

 

そのたびに私は返答に困ってしまう。

自分は一体どんな写真を撮りたいのだろう?

どんなことをやりたいのだろう。

 

 

頭のなかにはあやふやだが、何かを伝えたいという思いはあった。

だけど、言葉にしようとしたら伝わらない何かがいつもあった。

 

自分は一体何がやりたいのか。

 

カメラを買って、写真を撮るようになってからもうすぐ一年が経つ。

その間にいろんな方々とあった。

 

本物のプロのカメラマンともあったし、プロ級に写真が撮るのがうまいアマチュアの方々ともいろんな人ともあった。

 

会社にいても「あいつはなんかいつもカメラを持ち歩いているし、写真の話ばかりする変なやつ」みたいな扱いになってしまっている。

 

自分が入社した会社はカメラを扱う会社だった。

もともと映画が大好きで、映画と関係した仕事がしたいと思い、映画用のカメラや業務用のカメラを扱う会社に入社した。

 

カメラが好きということもあって、超自己中な性格で、そこそこ社会不適合なところが若干あるかもしれないが、なんとか一年以上続けて働くことが出来ている。

 

よく考えれば、上司と会話するときもいつも、カメラの話しかしていない。

 

「今度の週末どこに写真を撮りに行くの?」

金曜日が近づくと毎回そんなことを聞かれる。

 

この一年近く、周囲に「カメラが好きだ!」と叫び続けたこともあって、

最近だと「写真を撮ってください」と個人宛にメッセージを送って頂けることもある。

本当にありがたいことだ。

 

とにかく何でもいいから撮って撮りまくることを続けてきた気がする。

なんでこんなに写真を撮っているのだろうか。

 

「で、結局どんなことを表現したいの? 君は何がしたいの?」

そんなことを年配の方に投げかけられたことがある。

 

自分は何がしたいのか?

どんなことを表現したいのか?

 

最近だとデジタル一眼カメラの性能もすごく上がって、プロとアマチュアの差が殆どなくなってきている。

自分みたいな素人の目でも、普通に会社員をしていて週末にカメラを持っている方が撮った写真でも、プロとほぼ同じにしか思えない。

 

一昔前だったらカメラといったら高級なもので選ばれた人しか手に出来なかった代物のはずだったが、今ではビックカメラでプロ級のカメラが簡単に変えてしまう時代だ。

 

Instagramではプロとかアマチュアと関係なく、鮮やかで彩りのあるキレイな写真でごった返している。

そんな写真で溢れかえっている現代の中で、Instagramを眺めているとどうしても考えてしまう。

 

自分はどんな写真を撮りたいんだろう?

何がやりたいんだろうか。

 

 

何かモヤモヤとしたものがずっと腹の底にはあった。

何か伝えたい事があるのに、何か表現したいことがあるのに、何を伝えたらいいのかわかないもどかしさ。

それが腹の底で煮えたぎり、仕事をしていてもずっと、もやもやが消えなかった。

 

そんな感じで一年が過ぎ、ゴールデンウィークの季節になった。

普段ゴールデンウィークといったら、どこ行っても混んでいるし、飛行機代もバカ高いため、家でずっと引きこもっているのが常だったが、今年はなぜか違った。

 

ずっと日本に閉じこもって、会社で仕事ばかりしていた影響か、異常に海外に飛び出してみたくなった。

 

今年は海外でもいくか。

そう思い、何も考えないまま香港行きの飛行機のチケットを買った。

学生時代は一人でバックパッカー旅行とか行っていたので、あまり躊躇はなかった。

 

泊まるところとかも決めなくても、なんとかなるっしょ。

そんな適当な考えで、とにかく海外に行こうと思い、チケットだけを買った。

 

香港と決めたのはただ単にフォトジェネティックなイメージが強かったからだ。

満島ひかりが香港の夜道を蝶のように舞い踊る「ラビリンス」というPVを見て、香港に興味を持ったことも理由にあった。

 

とにかく行ってみたらなんとかなるっしょ。

 

そんなノリと勢いだけで、とにかく現地に飛び込んでみた。

 

宿を予約しなかったことが災難だった。

 

「No bookingの人は泊められないな」

どこの安宿を行っても、同じことを言われる。

 

何、中国にもゴールデンウィークってあるの。

てか、ゴールデンウィークって日本だけじゃないの!

 

 

香港は中国の特別経済区域である。

中国の異常な経済成長の影響もあって、中国本土からの旅行客が急増しているという。

それに香港がイギリスから返還されてから今までに自由貿易が加速されて世界中の企業がアジアの拠点を香港に置いている。

そのため、年間何万人もの観光客が香港を訪れているという。

 

中国の暦では5月の初旬が休みという事もあって、安宿がどこも満席である。

 

マジか……

完全に学生時代のノリで、ひとまず安宿に飛び込めばどこでも簡単に泊められると思っていたが、大の誤算である。

 

結局、一泊200香港ドル(3千円くらい)の安宿の部類になるドミトリーに泊まることにした。

 

案の定、異常に汚かったけど。

夜中にインド人が騒いでいるけども……

朝起きたら足にムカデがのっていたけども……

 

ま、安宿だから仕方ないか。

そう思って、適当に気ままに香港を旅して回った。

 

行き先も特に決めなかった。

泊まった先は重慶大厦という香港の中心街では有名な安宿で、宿の前の大通りには地下鉄の駅もあり、大型のバスもとまる。

 

特に行き先も決めず、バスに飛び乗って、適当に香港を歩いて回った。

(バスの行き先が中国語で読めず、下りた先が何駅なのかわからなかったため、だいぶ道に迷ったが)

 

ずっとブラブラしていたこともあり、最終日が近づくに連れて、体調が結構、しんどくなっていた。

炎天下の中、ずっと外をぶらぶら歩いていたため、体調不良になってしまった。

 

せっかくだけど、今日は宿の近くでじっとしているか……

 

貴重なゴールデンウィークの休暇だったが、奇跡的に6日も海外に行けた。

最初からかっ飛ばして、いろいろ回りすぎたのだ。

 

宿の近くにあったカフェで本を読むことにした。

なぜかよくわからないが日本から村上春樹の本を持ってきていた。

空港に向かう途中でふと本屋に立ち寄ったとき、気になって買ってしまったものだ。

 

「職業としての小説家」

結構有名な本だから知っている人も多いかもしれない。

 

世界的な小説家村上春樹が思う存分、小説を書くことについてまとめた著書だ。

自分はそこまで村上春樹が好きということでもない。

 

有名な本はいちよ全部読んでいるけど、めちゃくちゃ好きかと言われたら、そうとも言えるし、そうではないとも言える。

だけど、この人の考え方、なんか面白いなと思い、気がついたら読んでしまう。

 

本を開けて、読んでいった。

何で香港まで遥々やってきて、カフェで本を読んでいるのかよくわからないが、

日本にいるときはずっと会社に閉じこもって仕事ばかりしているので、たまにはこういう何もしない時間というものは大切なのかもしれない。

 

 

気がついたら夢中になって読んでしまった。

完全に時が経つのを忘れてしまった。

 

そこにはオリジナルについて書かれた一節があった。

 

「大切なことは自分から何かをマイナスにしていくことです」

 

小説を書く上でどうしても問題になっていくオリジナリティの問題。

その問題にぶち当たったとき、村上春樹氏はこう考えたという。

 

「自分から何かをマイナスにしていくことです。何かモノを作るとき、とりあえず必要のないコンテンツを捨てていけば、頭の中はスッキリします」

 

それで何を捨てて、何を捨てないかを判断にする時、

「それをやっていて自分が本当に好きかどうか」を判断基準にするという。

 

この小説を書いていて自分が心から楽しいと思うのかどうか。

心がワクワクするかどうかを基準にして、小説を書き続けているという。

 

なぜかこの一説を読んで結構考えさせられてしまった。

 

写真が好きだと周囲に言い続けたこともあって、最近だとちょこちょこと

「写真を撮ってください」ということを言われることがある。

 

可愛い女の子の前に立って、そこそこの一眼カメラでピンぼけをして、写真を撮るのは簡単だ。

可愛い写真は案外撮れてしまう。

 

だけど、自分が撮りたいものってなんだろうと結構考えてしまっていた。

自分がいままで撮った中で一番心がワクワクしたもの。

 

それは可愛い表情とかではなくて、どこか悲しい切なさがあって、少しもの暗い写真だったりする。

 

キレイな美女が写っている写真というよりも、

本を読んでいる物静かな風景、そういったものの方が好きである。

 

何かこの本を読んだことによって、少し答えが出てきた気がする。

ずっと、目の前に霧がかかっていたが、そのもやもやとした霧も少しだけ晴れてきた気がするのだ。

 

 

「どんな写真を撮りたいのか」

自分はこうでこうですという正確な答えはすぐにうまく言葉に出てこないけど、

「どんな写真を撮るのが好きなのか?」という答えは出た気がする。

 

海外まで出てきたかいがあったのかよくわからないが、日本に閉じこもっていただけだと見えてこなかったものが、薄ぼんやりと見えてきた気がする。