ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

人を愛することで自分が傷つくのを恐れている人こそ、映画「メッセージ」は見た方がいいかもしれない

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「余命1年です」

医者の言葉を、ポールは呆然としながら聞いていた。

隣では妻が泣いている。

 

「この病気は現代医療では治療方法がありません……残念です」

「嘘だ……」

ポールは医者に向かって怒鳴り散らした。

 

嘘だ……

嘘に決まっている。

 

彼の妻と出会ったのは、つい1年ほど前だった。

職場で出会い、彼が一目惚れしたのだ。

つい先日、結婚を決意したのに、まさか……

 

ポールは医者の言葉を聞くことができず、泣いているばかりだった。

 

妻はゆっくりと言葉を発した。

「あと一年しか生きられないんですね……」

重たい口で医者はこう言った。

 

 

「残念ながら……そうです」

 

この医者はヤブ医者に決まっている。

妻があと一年しか生きられないなんて信じられない。

この医者は今まで何人に「死」を宣告してきたのだろうか。

自分には関係がないという客観的な目で妻の「死」を語る医者がどうしても許せなかった。

 

 

重たい足取りでポールは病院の駐車場に停めてある車に乗った。

車に乗ると同時に、感情がこみ上げてくる。

 

なんで妻なんだ……

人間の運命の残酷さを痛感し、彼はただひたすら涙を流していた。

 

 

医者から「死」を宣告されてからも、妻はごく普通を装いながら過ごしていた。

きっと彼を悲しませたくなかったのだろう。

懸命に普通を装う妻の姿を見ているとポールは悲しみを堪えきれなくなった。

 

自分が結婚することなんてないと思っていた。

結婚しても、どうせ長続きしない。

人を好きになることがどうしても苦手だったのだ。

 

価値観が全く違うもの同士、お互いを知り尽くしても、最終的にはお互いを傷つけることになる。

人を愛することなんてしないほうがいい。

 

そう信じていた彼だったが、妻と会った瞬間、全てが変わってしまった。

妻がいるだけで、ここまで世界が鮮やかに見えるなんて。

彼の全てを変えてしまうほど、妻の存在は彼の中では大きかったのだ。

 

どんなに仕事でつらいことがあっても、妻の笑顔が全てを忘れさせてくれた。

そんな妻があと一年で死ぬという。

 

彼はどうしてもやりきれない気持ちでいっぱいだった。

自分は妻のために何かしてやれたのだろうか。

この世に何か残してやることはできないだろうか?

 

そんな時、妻はこう言った。

「私の命は一年しかもたない……だけど、子供を産みたいの」

 

彼との間にはまだ子供がいなかった。

仕事が落ち着いてきたら作ろうと話し合っていたのだ。

彼は言葉を失った。

「子供を産もうと言っても、あと一年しか……」

「お願い。私が生きた証をこの世に残したい」

 

妻の真剣な目つきを見て、彼はどうしても言葉が出なかった。

 

 

 

その日から、余命との競争が始まった。

命が尽きるのが先か、子供ができるのが先か?

 

周囲の人間は彼を非難していった。

「生まれてくる子供がかわいそうじゃないか! なんでそんな無責任なことをするんだ」

確かにその通りだ。

万が一、子供を授かったとしても、その子供の母親はすぐにこの世から去ってしまうのだ。

残酷な運命に翻弄されるも、妻はポールの前では、決して泣くことはなかった。

「生まれてくる子は大丈夫。たとえ私がいなくなっても、一生懸命生きてくれる」

 

2ヶ月後、妻の妊娠が発覚した。

医者によると、妻の命が尽きるまでに子供を産むことができるのか、ギリギリの時間だという。

妻の寿命を延ばすことを考えたら、子供は諦めたほうがいいと言われた。

「絶対に私は産みます」

妻は頑として医者の忠告を聞かなかった。

ポールは妻の命をつなぎたい思いを受けて、懸命に妻の看病をした。

 

余命が宣告されてから11ヶ月がたった。

妻の寿命はもう尽きてしまう。

命が尽きるのが先か、子供を授かるのが先か。

その競争の結末がもうじきわかる。

 

分娩室に入っていく妻を見た後、落ち着かない時間を過ごした。

中からは妻の悲鳴が聞こえてくる。

どうか神様。最後に妻の望みを聞いてやってください。

新しい命を授けてください。

 

「おぎゃー」

分娩室から聞こえてくる子供の泣き声を聞いた時、彼は思わず泣き崩れてしまった。

看護師に呼ばれて、分娩室の中に入っていくと、小さな小さな命を抱えた妻の姿がそこにあった。

 

「間に合ってよかった……」

生まれ来た新しい命を前にして、彼女はそうつぶやいた。

 

ポールは小さな命を手に取っていると、涙が溢れ出して止まらなくなった。

子供を優しい目で見つめる妻を見て、彼は思った。

 

これからこの子はきっと楽しい経験もつらい経験もしていくだろう。

だけど、母親の愛情を一身に受けて、この世界に生まれてきたのだから、きっと大丈夫だ。

 

妻は子供の笑顔を見送るとそっと目を閉じた。

 

 

 

*******************

 

これは映画「メッセージ」の原作者が、物語を書く前に参考にしたという、とある売れない俳優とその妻の物語だ。

 

余命一年と宣告され、残酷な運命に翻弄されつつも懸命に生きた夫婦の姿に、原作者は感銘を受けたのだろう。

映画の中では、その出来事が染み渡るようにして反映されていたと思う。

 

 

SF映画「メッセージ」はとても難解で、「2時間は長い!」

「こんなのSF映画じゃない!」という人もいるという。

 

実際、私もこの映画を見たときには、頭を抱えてしまった。

時間が何重にもループし、内容がとても難解なのだ。

 

だけど、この映画の背景には

「結末がわかっていたとしても、人はどう生きるのか?」という意味が込められていると思う。

 

実際、原作のタイトルは「あなたの人生の物語」だ。

残酷な運命が目の前にあったとしても、人はどう生きていくのか?

そんなメッセージが込められているのだ。

 

自分が傷つくのを恐れ、人を愛することをやめてしまうのか。

自分が傷つくとわかっていても、人を愛する道を選ぶのか。

 

どちらが正解なのかはわからない。

だけど、映画「メッセージ」の中ではその答えがあると思う。

 

 

自分を傷つけ、抜き差しならない状態の人がいるのかもしれない。

そんな人にとっては、映画「メッセージ」は心を癒す薬のような映画かもしれない。

 

ブレードランナー2」の監督にも抜擢されて、ハリウッドで今一番注目されている、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の最新作……「メッセージ」。

 

自分の人生について今一度考えさせられる素敵な映画だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もしかしたら「普通」こそ、一番の天才なのかもしれない

 

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「どうやったら面白いものが書けるのか?」

大学生だった頃の私は、図書館に立てこもり、ひたすら面白いコンテンツを探しまくっていた。

 

その頃は、本気で映画の世界に入りたくて、貪り尽くすように脚本や有名な本をインプットしては、大学のパソコンの前でひたすら誰が読むかもわからないストーリーを書きまくっていたのだ。

 

大学時代に頭角を現す!

そんな自意識過剰でイタイ大学生だった。

 

自分なら何者かになれる。

自分ならクリエイティブな素質がある。

そう思っては、ひたすら映画を見たり、大量の脚本を読みあさったりしていた。

 

邦画を観てもダメだ。

エンターテイメントの最前線を行く、ハリウッドを研究しなくては!

 

洋画を見るだけでなく、スクリーンプレイのサイトから英語を読めもしないのに、ハリウッドで出回っていた英語のシナリオを読んだりしていた。

 

自分なりに映画を研究しては、毎日ちょっとずつ脚本を書いていった。

だけど、書けば書くほど、書くのがつらくなる自分がいた。

 

 

どうすれば人を動かせるような脚本をかけるのだ。

そう頭を抱えて、インスピレーションが湧いてくるのを待つふりをして、家の近所を歩き回ったりしていた。

(今思うとだいぶ大物作家気どりである)

 

どうすればいいコンテンツが作れるのか?

それは私が抱えていた最大の悩みだったりする。

 

 

 

若くして頭角を出してくるようなクリエイターの方々は、どこか人と違う感覚を持っていて、特殊な才能があるんだ。

 

何も持っていない自分には努力で、天才を上回るしかない。

そう思って、アホみたいに映画を見まくって、アホみたいに脚本を書きまくっていた。

 

そして、大学4年生になり、就活の時期が来てしまった。

 

結局、自分は何者にもなれなかった。

 

ひたすら人を感動させられるようなクリエイティブな何かを作りたいと思い、ただ闇雲に努力らしきものをしてきたが、何の役にも立たなかった。

 

結局、普通のサラリーマンをやるようになったが、どこかでモヤモヤを抱えているのだろう。

こうして毎日文章を書く癖をつけてきたが、まだ、人を魅了するコンテンツって何だろうという思いがずっとあった。

 

やはり、天才肌の人には自分は勝てないんだ。

だったら、天才肌の人たちの倍の努力をしなければいけない。

 

そう思って、毎日書いてきたが、やはり自分のような才能がない人間が、すごいバズを起こせるようなライターさんの人に勝てる気がどうもしない。

 

特に意識して気合いを入れてなくてもあっという間に10万PVを超える文章を書ける人が世の中にいるものだ。

 

私の周りにもそんな人を惹きつける文章を書ける人が何人かいるが、そういった人たちを見るたびに自分の才能のなさを痛感し、苦しくなってくる。

 

自分のような才能のない人間が書く意味があるのか……

そんなことを思ってしまうのだ。

 

 

「ああすればこうなる」

「こんな書く方をすれば面白い脚本が書ける」

そんなことを求めて、私はシナリオライターの本を読みあさったりしていた。

今でもたまに面白い文章が書けるようになる本を読んだりすることがある。

 

「ああすればこうなれる」

 

そんなことを追い求めても結局、クリエイティブなインスピレーションは湧いてくることはなかった。

 

やはり、自分には才能がないんだ。

面白い記事を書けるような人たちは、何か特別な個性を持っていて、凡人には到達できない領域にいるんだ。

そう思っていた。

 

 

よく考えれば自分を突き動かしていたエネルギーになっているものは、この「特別になりたい」という承認欲求だったような気がする。

 

人と違う自分を表現したい。

人と違って特徴ある人間でいたい。

 

もっと人と違うことをしなきゃいけない。

そう思って、なぜか一人インドに行ったりとぶっ飛んだことをして、人と違って個性的な自分をアピールできるようにしていただけなのだ。

 

無理に個性的であろうとするほど、私の中にある心は悲鳴をあげてきた。

もっと他人から承認されたい。

もっと人に認められたい。

その思いに突き動かされて、私はずっと空回りしていただけのような気がする。

 

書いていく中でも、どうしても苦しいと思うこともある。

 

そんな時、ふとこの言葉と出会った。

世界の歌姫、宇多田ヒカルが語っていた言葉だ。

15歳でデビューしてあっという間に大物歌手になっていった宇多田ヒカルは、世間から天才とよく言われていた。

周囲から天才だからすごいねと言われて10代を過ごし、休養期間を得て、しっかりと自分の芯を確立できたのだろうか……

何かこの言葉にすごい人生の集約があるような気がしていた。

 

宇多田ヒカルが語っていた言葉。

それは‥……

 

 

「天才とか凡人とか……そんな分けるものじゃない。すごい頭がいいとか、すごい才能がある人こそ、その自分の中に万人の共感するものをわかっていたり……すごい普通の人間の感覚があると思う」

 

 

いつも何者かになりたいと承認欲求に振り回されていた私は、この言葉にとてもズカーんときた。

 

天才肌と世の中で称されている人は、特別な個性があるわけではないのだ。

万人に共感できるものをつかめるアンテナの張り方が上手いのだ。

 

 

よく考えたら、何十万PVというバズを起こしていくライターさんは、恐ろしく普通の感覚を持った人たちだ。

 

特に個性というものを押し付けているわけでなく、いたって普通の感覚を大切にしながら文章を書いているような気がする。

 

私はずっと、「ああすればこうなれる」というものを探して求めていた。

他人に承認されたいという思いに、突き動かされ、空回りしていた。

 

一番大切なのは「普通」の感覚なのかもしれない。

特別な出来事を探さなくてもいいのだ。

 

そう思えたらなんだか生きるのか楽になってきた気がする。

 

ありふれた日常を切り取って、そこに埋まっていた普通の感覚を一つ一つ大切にしていく人たちが人を惹きつけるコンテンツを作っていく。

 

その普通の感覚こそ、一番大切なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナム・ハノイを旅していると、情報で溢れた競争社会で生きていくすべを学べる

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ハノイだよ! 兄さん」

眠気をこらえながら、隣にいたおじさんの掛け声で私はゆっくりと起き始めた。

バスの外を見てみると、夜が明け、眩しい太陽が昇っていた。

 

バスに乗り始めて12時間が経っていた。

 

ベトナムホーチミンからハノイまで、ベトナムを横断する旅に出て、早2週間。

すべてのルートを深夜バスで回ってきたので、最終ゴールのハノイ行きのバスになると、12時間の深夜バス移動などへっちゃらになっていた。

 

明け方の5時になり、揺れが激しいベトナムの夜行バスの中でも気がついたらスッキリと眠れるようになっていたのだ。

 

ゆっくりとバスを降り、目の前にはベトナムの首都ハノイが広がっていた。

 

相変わらず、通りはバイクでごった返している。

 

ベトナムはバイク天国と言われている。

圧倒的に車よりバイクの方が多いのだ。

どこに行ってもバイクと人の塊で目が回ってきた私は、ひとまず今日泊まる宿を捜し歩くことにしてみた。

持ってきた地球の歩き方を片手にハノイ中を歩いて行く。

どこのゲストハウスも満杯である。

 

休暇を楽しむ欧米人で賑わい、ベトナムは今とても活気立っているのだ。

 

「これが30年前にアメリカと戦争した国なのか?」

そう思うくらいとても活気立っている。

 

アメリカ人からヨーロッパ人まで、ハノイには観光客でごった返していた。

その観光客を狙って、タクシーの客引きが道には溢れている。

 

タイ、カンボジアと旅してきた中でもベトナムの客引きは群を抜いてがめつい。

道を歩いていると、ガンガン客引きをしてくるのだ。

 

「お兄さん、バイク乗っていかないか?」

「日本人なら特別に半額にするよ」

 

とにかくガンガン客引きしてくるのだ。

特にハノイの客引きは危なかった。

ホーチミンなどは、浅黒い肌のお兄さんたちがバイクを使ってガンガン客引きしてくるが、ハノイとなるとなぜか肌の白いお姉さん方がガンガン客引きしてくるのだ。

 

ハノイは昔から美人が多いと言われるように、確かに美人が多かった気がする。

中国に近いせいか、色白の肌で綺麗な人が多いのだ。

なぜかハノイの客引きはその綺麗な姉さん方がガンガンと客引きをしてくるのだ。

 

これは変なところに連れてかれて、身ぐるみをはがされるパターンだ。

そう思った私は、その綺麗な姉さんがたの勧誘を払いのけ、目的の安宿探しに専念することにした。

 

宿を探している間に、ふと気がついた。

「シン・カフェ」という看板が多すぎないか?

 

道を歩いていて、どこの通りに出ても2〜3件「シン・カフェ」があるのだ。

 

「シン・カフェ」とは、ベトナムで昔からある旅行代理店の名前だ。

こっちで言ったらHISみたいなものだ。

 

自分もホーチミンにいた時は、「シン・カフェ」で夜行バスの予約をしたりしていた。

 

早速、次のラオス行きのバスを予約でもしようかなと思って、私は目の前にあった「シン・カフェ」でバスのチケットを買うことにした。

 

 

チケットを買ってから、ようやく客が少ない安宿を見つけ、私はゆっくり休むことができた。

休んでから、再び街を探索することにすると、やっぱりどうもおかしいことに気がついた。

 

どう考えても、この街だけで「シン・カフェ」が100件以上あるのだ。

一つの街に同じ旅行代理店が100件あるのはどう考えてもおかしいだろう……

 

 

安宿に戻り、受付の人に「シン・カフェ」について聞いてみることにした。

すると、ニコッと微笑みながら

「あ! それ、偽物だよ」

 

その人曰く、ハノイには偽「シン・カフェ」となるものが大量にあるらしいのだ。

 

100件近くある「シン・カフェ」のうち、本物は2件である。

みんな勝手に看板を「シン・カフェ」に書き換えて商売してしまっているらしい。

 

なんつう無茶苦茶な。

てか、法律とかで規制かけろよ……

 

そう思ったが、もう偽物の「シン・カフェ」でチケットを買ってしまった私はもう時すでに遅かった。

 

ネットで調べて、100件中、2件の本物の「シン・カフェ」を探してみることにした。

本物の周りには通りを挟んで10件「偽シン・カフェ」があるので、ネットで調べてもどれが本物なのかさっぱりわからない。

 

どこだよ、本物の「シン・カフェ」は!

 

偽シン・カフェで買ったチケットでも、目的地まで行けるかもしれない。

そう宿の人には聞いていたが、不安になってしまったので、チケットを破棄し、私は新しくまともそうな旅行代理店でバスのチケットを買うことにした。

 

あの偽「シン・カフェ」で買ったバスのチケットでも、目的地までいけたかもしれない。

そう思うとあの時払った4000円は勿体無かったなと思う。

 

今考えると、あの偽「シン・カフェ」で溢れかえっているハノイ市内から、本物の「シン・カフェ」を探すのは、日本で就活をすることに似ているなと思う。

 

 

自分にとって相性がいい本物の会社を見つけるために、就活情報サイトで溢れかえっている偽情報から、本物だけを抜き出し、受けていく会社を選んでいく。

 

 

どれだけ、情報を取捨選択できるかが就活というものでかつ秘訣なのだと思う。

 

ハノイの「シン・カフェ」騒動も、100件近くある中、どれが本物でどれが偽物なのか見抜くのも本人の選択次第なのだ。

偽「シン・カフェ」で買ったチケットでも目的地にたどり着くかもしれない。

しかし、それは運としか言いようがない。

 

溢れ出ている情報の中から、本物の情報を抜き取る。

その大切さを「シン・カフェ」で溢れかえっているハノイから学んだ気がする。

 

 

あの偽「シン・カフェ」に振り回された日々を思い出すと、結局、この競争社会を生き抜いていくのは、自分の選択次第なんだなと思う。

 

どれが本物でどれが偽物かのかわからない。

しかし、自分で決断した道を信じて進むしかない。

 

選んだ会社が自分にとって相性がいいかわからない。

選んだ結構相手と一生過ごしていくかわからない。

 

それでも自分が何100通りとある選択肢から選び取ったのだから、大切にしなくてはならない。

このごった返している情報社会の中で、どれだけ選択肢を減らせるか?

自分が選び取った選択肢をどれだけ大切にできるのか?

そのことが大切なのだと思う。

 

 

結局、私は100件中2件しかない本物の「シン・カフェ」を見つけ出すことができなかった。

それでも、まぁ、目的地までたどり着けたから結果的に良かったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弱さを武器にして

 

 

「なぜ、自分はこうも弱いのか?」

私は、ずっとそう思っていた。

就活も無駄なプライドから大手企業ばかりを受け、30社以上落ち、せっかく新卒で入った会社も数ヶ月で辞めてしまった。

 

人一倍、自分の弱さというものを気にして生きていたのかもしれない。

 

なぜ、自分は弱いのか?

その思いが、私を突き動かして、海外の放浪の旅に出かけて行った。

 

社会のレールにうまく乗れなかった自分。

常に人を上から目線で見下し、ずっと自分の居場所を追い求めていた自分。

そんな自分に一回嫌気がさし、すべてを放り投げて海外放浪に出たのだ。

 

 

バンコクには自分と同じような境遇の人たちがいっぱいいた。

30歳手前で、脱サラし世界一周の旅に出た人。

自分探しを続けている大学生。

 

200万円の貯金が作るまで帰ってこないと決め、2年間世界を放浪している旅人。

そんな人たちがバンコクには集まっていた。

バックパッカーたちは毎晩、明け方まで飲み会に明け暮れていた。

 

「日本なんて居心地悪い」

「やっぱり海外の方が住みやすいね」

そう語っている旅人がいる中、私だけが妙な違和感を覚えていたのだ。

何だろうこの違和感。

 

そこにいるバックパッカーの人たちはみんな、どちらかというと日本社会にうまく馴染めなかった人たちだ。私も同じだった。

 

必死に自分を見繕って社会の枠の中でハマろうと努力してきたつもりだった。

しかし、どうも集団行動というものが苦手で、いつもどこか社会の中で違和感を抱えてきた自分がいたのだ。

 

自由を追い求めて旅に出ているバックパッカーの人たちは、自分が憧れていたものだった。

社会の枠組みにはまらずして、世界を放浪する旅人。

ありのままの自分を保っているように見えて、ずっと憧れを抱いていたいのだ。

 

しかし、実際にバックパッカーたちとあっていると妙な違和感があったのだ。

 

「この人たち、所詮日本から逃げているだけだ」

思ってはいけない……言ってはいけないと思っていても、ついつい考えてしまうのだ。

 

自由気ままに世界を旅している人たちの目はみんなキラキラしていた。

みんな自分の旅を生き生きと語り、「ここではこんな人たちと出会った!」

「こんな人たちと仲良くなった」

みんな自由な旅の魅力について語るが、

 

「ところであなたは何をしてきた人なの?」

とその人自身のことを聞いてみると何も返事がなかったのだ。

外に刺激を追い求めているだけで、その人自身は空っぽな気がしていた。

 

 

「この人たちやっぱり逃げてきただけだ」

自分も日本にいた時、勤めていた会社を逃げ出し、海外に逃げて来ただけだった。

 

自分こそ逃げてきたのだ。

 

それにもかかわらず、世界を旅しているバックパッカーを心のそこで侮辱している自分がいた。

そんな自分が一番カッコ悪いと思ってしまった。

 

自由を求めて海外に来た。

海外なら自分の居場所があると思っていた。

 

しかし、どこに行っても自分の居場所など存在しなかったのだ。

自分の居場所は自分で見つけるしかないのかもしれない。

 

 

日本で生きていた時は、私は無駄な虚栄心の塊だった。

就活では何がなんでも人より上に立とうと大手企業ばかり受けて、30社以上落っこちた。

何者かになりたい。

何者かにならなくてはいけない。

そんな思いがぐるぐると私の頭の中で回っていて、自分で自分の首を絞めていくように就活に挑んでは落とされまくっていた。

 

何で自分の凄さをみんなは認めてくれないのか?

自分はきっとくりエイティブな素質がある。

そんなことを思い、自分の殻に閉じこもっていた。

 

結局、そんな自意識過剰な性格だった私は、せっかく入った会社も辞めてしまうことになる。

 

なぜ、自分はこんなにも弱い人間なのか?

肥大化する承認欲求に振り回され、私はその時、本当に身動きが取れなくなってしまった。

海外にいっても自分の居場所を見つけられなかった。

それならどこに向かって歩けばいいんだ……

 

 

その時、とあるライターさんが書いた文章にとてもとても惹きつけられた。

 

「強さ一色で塗りつぶされた社会の何が面白い」

そのライターさんは就活の時、パニック障害にかかり、無内定のまま大学を卒業していったという。いろんな職業を転々とし、結局ライターという職業にたどり着いたという。

 

何で自分は人と同じことができないのか?

なぜ自分は弱い人間なのか?

そのことを思いな悩み苦しんだ果てに、ライターという職業にたどり着いたという。

 

私はその方が書いた書評記事を読んで本当に感動してしまった。

弱さイコール強さの欠場ではなく、弱者が弱さを持つがゆえに、強者以上の力を発揮し、弱さが人間の魅了ともなっている部分を解き明かしていく。

 

 

「弱さを持つことは致命傷になり得るが、新たな強さの契機にも成り得る」

 

社会はますます弱さを抱えている人には居心地が悪いものになっているのかもしれない。

強さ一色で塗りつぶされ、私のような弱さを抱えた人にはとても生き辛い気がするのだ。

 

 

派遣切りが当たり前のようになり、ますます社会は強者と弱者に分かれていく。

そんな社会の何が面白いんだとそのライターさんは魂を込めて書いていた。

 

 

私はまだまだその領域にも達していないが、いつかそのライターさんのような文章が書けるようになりたいと思うようになった。

 

弱さは強さの欠如ではない。

新たな強さの契機にもなり得る。

 

 

その言葉を信じて、今はひたすら書き続けるしかないのかもしれない。

どこの誰が読んでいるかもわからない。

それでも私は書き続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その一瞬一瞬を大切にしていった先にあるもの

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フィルムカメラを始めれば人生変わるよ」

私が東南アジア放浪の旅をしていた時に、ラオスの山奥でとある旅人にこう言われたことがある。

 

その人はやたらとカメラにこだわっており、観光地などに行っても決して闇雲に写真を撮ったりすることなかった。

絶景と言われる場所に立っても決して写真を撮らないのだ。

 

それじゃカメラを持ってきている意味がないではないか?

私はそう思っていたが、その人なりのポリシーがあったのだ。

 

「自分はこれだと思った時だけにシャッターを切るようにしている。ただ、観光地だからといってその景色がいいわけではないんだ」

 

よく考えたら自分を始め、多くの旅人は観光地に着くと、やたらとスマホで写メを取りまくる癖がある気がする。

 

「ひとまず来たから写真を撮ろう」

そうやってみんな写真を撮るのだ。

 

その写真を自分の国に帰って見直すことがあるのかと言われたら、多分ないだろう。

よくてInstagramに写真をアップするぐらいだ。

 

そんな写真を撮りまくっても記憶に残らないじゃん!

 

私は旅をしている間、やたらと写真を撮りまくってはしゃいでいる旅人を見るたびにそう思っていた。

 

そのためかフィルムカメラを常に持ち歩いているその旅人がいった言葉がとても印象に残ったのかもしれない。

 

フィルムカメラを始めれば人生が変わる」

 

フィルムカメラは現像するまで、どんな写真が撮れているのか確認できないという。

だから、その旅人は毎回、写真を撮る時は、全力で、一期一会の出会いを大切にするかのように写真を撮っていた。

 

ただ闇雲に観光地だからといって写真を撮るのではなく、自分が見たい光景、ただ路上に座っている老人でも、笑顔が素敵で自分が撮りたいと思っていた絵ならシャッターを切っていたのだ。

 

 

今の時代に撮って現像がめんどくさく、その場で画像を確認できないフィルムカメラは時代遅れかもしれない。

しかし、私はその旅人のフィルムカメラ愛からいろんなことを考えさせられてしまった。

デジタルが普及した現代では、旅の形も大きく変わってきているという。

みんなスマホ片手に宿を決め、いく先々を決めていくのだ。

 

宿も事前にスマホで予約していった方が安く済ませられるため、予約してから現地入りするのが当たり前である。

simフリースマホを使えば、世界中どこでもスマホを使えるようになるのだ。

 

私は旅をしている間、スマホをいじりながら世界を一周している人たちを見て、なんだかやるせない気持ちになっていた。

 

便利だけど、これって旅のか……

 

私は元来、機会が嫌いなタイプで、海外でスマホを使うと、データ通信量がバカにならないことを懸念して、常に電源を切っている状態だった。

 

宿なども「地球の歩き方」片手に探していたし、安宿は現地の人に聞いて、探していた。行き先ざき、現地の人にいい場所を聞いて、決めていた。

 

旅先で知り合った旅人たちとフェイスブック交換などもしたことがある。

SNSで繋がれることはいいが、なんだか違和感をずっと抱えていたのだ。

 

 

なんでもかんでも便利で、人と簡単に繋がれるが、旅先で出会う人たちは一期一会のような感じがいいのではないか?

たとて、フェイスブックで繋がれたとしても、旅先であった人ともう一度会う確率は、ほぼ0パーセントなのだ。

さすがにベトナムで大変お世話になった人でも、もう一度会うようなことはまずないと思う。

 

だけど、みんなフェイスブックをしているから、ついつい友達申請してしまう。

私はどうもこの旅先で出会った人たちとフェイスブックを通じて輪ができていくことが苦手だった。

 

フィルムカメラのように一瞬一瞬の出会いを大切にしていった方がいいのではないか?

旅先で知り合った人たちは一期一会の出会いで、その先で会うこともないくらいが丁度いいのではないか?

 

そんなことを思っていた。

やたらと簡単に人と繋がれるようになった時代だからこそ、人とのコミュニケーションが簡単に済ませられてしまい、ものすごい勢いでコミュニケーションが希薄化している気がするのだ。

 

連絡取れるだろうし、また今度でいいや。

そうやって一生の一度の出会いをおろそかにしている気がしてならない。

 

「やたら滅多ら写真を撮っても、いい写真とはなかなか出会えない。フィルムカメラがいいところは、撮った写真をすぐ確認できないところだ。だから、自分は出会った人や光景を毎回大切にしている」

 

そうラオスで出会った旅人は言っていた。

その旅人は、特別な光景や世界遺産の景色を撮るだけでなく、ありふれた日常の風景も大切に切り取って、シャッターを切っていた。

 

フィルムカメラを始めるとありふれた日常が愛おしくなる。だから人生が変わって見えるんだ」そう何度も言っていた。

 

私は日本に帰ってきてから、その旅人に言われたよういフィルムカメラを始めようかと思っていたが、結局、初期費用などを懸念して未だに始められずにいる。

 

しかし、フィルムカメラの代わりに始めたものがあった。

それは、ライティングだ。

 

ライティングはフィルムカメラを撮ることに似ているかもしれない。

ありふれた日常を切り取り、コンテンツにしていく。

そのありふれた日常から、日々自分が見つめている世界を見直し、人に伝えていく作業。

その作業を繰り返していくうちに、自分の身の回りの景色が愛おしく思えてくる。

 

「ただ闇雲に写真を撮るのではなく、一瞬一瞬の出会いを大切にしていった方がいい」

そう語っていた旅人は、今カメラで何を撮っているのだろうか?

 

私は結局、フィルムカメラを始めなかったが、その代わりライティングを使って日常を切り取ることを始めた。

私もその旅人のように一瞬一瞬の出会いを大切にしながら、ありふれた日常を切り取っていけたらなと思う。

 

「一瞬一瞬の出会いを大切に」

 

その言葉が今でも私の記憶に残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニュージーランドのど田舎生まれの青年が、アカデミー賞を11部門も受賞した約10時間の長編映画を作れた理由

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「また、ピーターが変なことやっているよ」

彼は村中の笑いものだった。

 

「また、あの子か」

「今度は何をしたんだ」

 

彼は太った容姿で、森の中で怪しい小道具を広げて、ミニチュアを作っていた。

ピーターが作っていたのは、ミニチュア撮影による自主映画だった。

5歳の時に見た映画「キングコング」に衝撃を受け、こんなもの作ってみたいと思ったピーター少年は、粘土でミニチュア模型を作り、父親から借りたカメラでコマ取り撮影を行っていたのだ。

 

ミニチュア模型を作っては、血糊を使った戦闘シーンなどを撮っていたのだ。

「また、あの子変わったことやっているのね」

 

毎日学校が終わると同時に、家の近所の庭でミニチュア模型の撮影に明け暮れているピーター少年は、主に牧畜が盛んなニュージーランドの田舎では変わった人間に見えたのだ。

村には映画館が一つしかなかった。

見渡すかぎら緑豊かな大地が広がっていた。

 

学校でも、変わった子供だったピーター少年は相当虐められたという。

太った容姿の上、いつもフィギュアばかりいじっていた物静かな少年は、クラスメイトたちの格好の餌食だったのだ。

 

ボロボロになった服で家に帰ると、両親に呼び出されこう言われたという。

「誰に何と言われようとも好きなことを続けなさい」

 

そう両親に言われ育ったピーター少年はいつしか高校生になっていた。

 

高校を卒業する段階で彼は新聞社に勤めることになった。

特にやりたいことも見つからず、空いていた求人広告を見て、応募しただけだった。

 

19歳の時、都心部に向かう長距離列車の中、暇つぶしに本でも読もうと思い、とある本を駅の購買で買って読んでみることにした。

 

その本が彼の運命を変えることになる。

 

 

 

彼は涙しながらその本を読んでいた。

 

何だこの物語は……

それは10巻にも及ぶ長編の物語だった。

とある作家が約11年の歳月をかけて完成させた物語だったのだ。

 

この本を読んだ瞬間、彼の中で忘れていた思いがよみがえった。

 

 

自分は「キングコング」のような映画が作りたかったんだ……

 

 

ピーター青年は新聞記者として働く間際、休日は自宅にこもってミニチュア模型製作を再び始めることにした。

金を貯め、8ミリカメラを買い、友人を集めて映画作りを始めたのだ。

 

彼が作っていたのは宇宙人に侵略された村で戦う中年オヤジの映画だった。

宇宙人と戦う場面では、思いっきり首を飛び跳ねる描写などを描き、血糊を森にばらまいたりしていた。

 

「また、ピーターが変なことやっている!」

再び、彼は村で笑い者にされていった。

 

しかし、両親だけは彼のことを応援していた。

「好きなことを続けなさい」

 

 

 

その言葉を信じて、彼は4年以上かけて一本の自主映画を作っていった。

映画を作っているうちに、ニュージランドの映画オタクたちが彼の家に集まってきた。

やはり、ど田舎なので映画関係の職に就こうとも、そんな仕事はどこにもなかったのだ。

暇を持て余していた映画オタクたちは彼が作るミニチュアの世界に魅了されていったのだ。

 

 

4年の歳月をかけて完成させたグロテスクな宇宙人侵略モノの映画を、カンヌ国際映画祭に応募したところ、特別賞をもらえた。

ピーターは初めて、誰かに認められた気がして嬉しかったのだ。

そのまま彼は新聞社を辞め、自身の映画会社を立ち上げることになる。

映画会社を立ち上げたはいいが、ニュージーランドのど田舎で映画の仕事など存在しなかった。

 

ならば一から作ればいい。

そう思った彼は、誰が見るかもわからないオカルト映画をいっぱい作り始めた。

ゾンビがいっぱい出てきて、首が吹っ飛びまくる映画を作っては、映画館で公開していった。

客は全く入らなかった。

しかし、いつしか彼の名前はカルト映画監督として徐々にハリウッドでも知れ渡るようになっていった。

 

彼が得意だったのは特撮技術だ。

その当時、普及し始めていたコンピューターを借金をしてでも買い、自分でいじっていく中で、CG技術を独学で学んでいった。

 

トーリーも破綻したグロテスクなスプラッター映画だったが、最新鋭のコンピューター技術を使った描写がいたるところでされ、技術的には工夫された映画を作っていたのだ。

 

そして、彼はいつしか「キングコング」をリメイクしたいと思うようになっていた。

映画作りを通じて知りあった奥さんに脚本を書いてもらい、ハリウッドに売り込みを始めていった。

 

なんだかんだ業界でカルト的人気を誇っていたピーターだったが、大金を使う「キングコング」のリメイクにゴーサインを出してくれる会社はなかなか現れなかった。

 

どうすればいいんだ……

彼はどこに行っても否定的な答えが返ってくるため、新聞社で勤めていた頃に読んだ、あの長編物語の実写化の話を試しに映画会社にしてみた。

すると一社から好意的な反応があったのだ。

 

 

それは、ずっと彼がいつか実写映画化をしたい思っていた物語だった。

その実写化のために15年近くの歳月をかけて、一歩づつ特撮技術を研究し、誰が見るかもわからないゾンビ映画の中でも、どうやったら小人たちの描写を描けるか?

どうすれば大群が城を攻め落とすシーンを取れるのか?

 

それを一つ一つ自分の自主映画で試していったのだ。

 

全てはこの長編映画を作るために、やってきたことだった。

 

誰が見るかもわからないグロテスクなグチョグチョのカルト映画の中でも、いつか自分がこの物語を実写化するんだという夢を持って映画を作ってきたピーターは、ここで自分の人生をかけた勝負に出ることにする。

 

どうしてもこの長編物語を実写映画化したい!

 

シナリオライターとしても活躍する奥さんに脚本を書いてもらい、映画会社に売り込みを始めていった。

 

何十社も断られたが、カルト映画を作っていたニューラインシネマという会社だけはいい反応が持てた。

 

 

どう考えても4時間以上の長編映画になる。

しかし、ニューラインシネマの上役は、ピーターの情熱に心を打たれ、実写映画化にあたり、大金を出す決意をしたのだ。

 

ピーターはニュージーランドに戻ってから、まず、映画撮影所を作ることから始めた。

ニュージーランド市議会員などを説得し、撮影所を作るにあたっての土地をもらったのだ。

 

彼には特に実績などなかった。

しかし、情熱だけは異常だった。

 

15年以上かけて、この映画の実写化のために自分の人生をかけてきたのだ。

いつしか、彼がいるニュージーランドには世界中からその物語の実写化を望む優秀なクリエイターが集まってきた。

 

ピーターには特に誇れるものがなかった。

ヒット作を作っていたわけでもない。

しかし、彼の異常な情熱に心動かされたクリエイターたちが、ニュージーランドのど田舎に集まってきたのだ。

 

 

彼が始めたとある一本の長編映画はいつしか、国を挙げての映画作りになっていた。

エキストラの数は3000人を超えていた。

戦闘シーンとなるとニュージーランドの軍隊に頼み込んで、本物の軍隊を用意してもらったりしていた。

 

「ピーターのいうことだから仕方ない」

そう言ってみんな、ピーターの夢に協力していったのだ。

 

気がついたら、全3部作の長編映画になっていた。

全て合わせると10時間にも及ぶ長編映画だ。

 

映画会社はストップをかけるのが普通だが、彼の情熱やニュージーランド中の期待を集めて作られたその長編映画に文句を言う人はいなかった。

 

 

全三部作を公開し、収益を上げようとなると相当な賭けになる。

映画会社も経営が傾くおそれがある。

 

しかし、ニューラインシネマの上役も、ピーターやニュージーランド中の人たちの思い尊重し、彼の映画作りを支援することにした。

280億円以上の制作費がかかった。

 

出来上がった映画が公開されると世界中の人が度肝抜かれた。

あまりにも完璧な映画だったのだ。

 

なんだこの超大作は!

ニュージーランドのど田舎で、こんな完璧な映画が撮影されていたのか!

 

あまりのも完璧で3部作の完結編ではアカデミー賞を11部門も受賞した。

タイタニック」の並ぶ最多の受賞だった。

 

 

 

ピーター青年が19歳の頃、思い描いた物語が全て現実となった瞬間だった。

彼が新聞社で働いていた頃、「指輪物語」を読むことがなかったら、この偉業を達成することはなかったのだろう。

 

映画監督ピーター・ジャクソンが作り上げたWETAデジタルは今でもハリウッドの映像美を支えている会社へと成長していった。

ハリウッドの3大特撮スタジオのうち、実は一社はニュージーランドのど田舎にあるのだ。

 

ニュージーランドのど田舎で生まれ育ち、自分が好きだった特撮を無我夢中になって取り組んでピーター青年は30年後、自分の夢を実現することになった。

 

「好きなことを続けなさい」

そう両親に言われたことが彼を支えたのかもしれない。

 

彼がニュージーランドの国を挙げて作り上げた「ロード・オブ・ザリング」3部作は、今でも伝説的な映画となっている。

 

 

 

 

「特別でありたい」と思っていた私が、アニメ界の巨匠から学んだこと

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「特別な人間になりたい」

10代の私を突き動かしていた感情は主にこれだったと思う。

 

人と違う人間でありたい。

特別な人間でありたい。

 

他人と一緒の行動をするなんてたえられない……

その一心で空回りばかりしていた。

 

他人と違うことがしたいというだけで、インドに一人飛び込んで、あたかも世界を股にかける旅人になったふりをしていたのだ。

自分の居場所は日本じゃない。海外に行けばもっと自分らしく生きられる。

そう思った私は英語もろくにできないのに、一人海外に飛び込み、悪戦苦闘しながらも旅を続けていた。

 

 

バンコクなどに行ったら、自分と同じような悩みを抱えている人をたくさん見た。

 

「日本だとちょっと馴染めない」

「海外の方が生きやすい」

とある人は10代の頃に足に刺青をした関係で

「日本だと銭湯すら入れない。海外の方が居心地がいい」と言っていた。

 

「日本だと見た目だけで判断される。外国だと見た目なんて関係ない。みんな自分の目を見て話してくれるんだ」

そのように刺青を入れたお兄さんは微笑みながら語っていた。

 

日本からバンコクにやってきたバックパッカーはみんな、自分が生まれ育った環境に違和感を覚え、刺激を追い求め海外に逃げてきた人たちが多かった気がする。

 

「海外の方が居心地が良いと感じる」

そのようにみんな言っていた。

 

私というと、そう笑顔で語る旅人を見かけるたびになんだか違和感を感じていた。

みんな日本から逃げてるだけじゃん……

 

自分も日本から逃げてきただけなのに、なぜだかそんな感情が芽生えてきたのだ。

みんなかっこいい自分でありたくて、海外を旅しているだけなんだ……

 

そんなことを思ってしまったのだ。

 

そういう自分もバックパッカーをしている自分ってかっこいい。

日本に馴染めないと言っている自分ってかっこいい。

 

心の底で特別な人間でありたいと思って、海外を旅しに来ただけだったのだと思う。

傍観者の目線で、バンコクに来たバックパッカーを侮辱している自分が一番カッコ悪いと思った。

 

 

「特別でありたい」という感情は一体なんなのだろうか?

人と違ったクリエイティブな仕事に就きたいと思って人は小説家やアニメ作家を目指したりするのだろうか?

 

自分も「特別な人間でありたい」と思って、映画ばかり撮っていた時期があった。

特別でありたい。

人と違うことがしたい。

 

肥大化する承認欲求を誰が読むかわからない脚本にぶつけ、映画を撮りまくっていたのだ。

そんな承認欲求を満たすだけに作られた映画は誰も見なかった。

映画祭に応募してもどこも受からなかった。

 

とある世界的な作家は言っていた。

「この世の中を不幸にしているのは、自己表現しなきゃという思いが蔓延しているからです。自己表現なんてそう簡単にできるはずないですよ。砂漠で塩水を飲むようなものです」

 

まさしく特別でありたいと願って、脚本ばかり書いていた私は、砂漠で塩水を飲むような状況に陥っていたのだ。

特に旅が好きでもないのに、海外に言って、無理にバックパッカーの仲間入りをしていたのも、海外旅行好きの自分をアピールしたいという自己表現欲求だったのかもしれない。

 

 

社会に出るようになり、現実の厳しさを知るようになって、どこかしら特別でありたいという感情は薄れていったと思う。

それでもまだ、自己表現しなきゃという感情が芽生えてきて苦しくなる時もあった。

自己表現したい。

特別な人間でありたい。

 

その感情に突き動かされ、社会の枠組みにはまって身動きが取れなくなってしまった私はいつしか他人を侮辱するようになっていたのだと思う。

 

特別でありたいと願う人に限って、他人を侮辱する。

 

普通にサラリーマンをやっているなんてカッコ悪い。

演劇やら小説家になって自己表現している人の方がかっこいいという。

 

特別でありたい。特別でありたい。

その感情に振り回され、普通に働いている人を侮辱していたのだ。

 

この感情をどこかに追いやりたい。

自己表現しなきゃという砂漠で塩水を飲むような感情を追いやりたい。

そう思っても、特別でありたい……

人と違う自分でありたい……

と願う自分を押し込むことができなかった。

 

そんな時、アニメ界の巨匠のこの言葉に出会った。

 

「若い人に何か贈る言葉はありますか?」

そうインタビュアーに聞かれたアニメ界の巨匠宮崎駿をこう答えていた。

 

「ゴミ拾いでもすればいいんじゃないですかね。その小さな穴から見えてくる世界がありますよ」

 

アニメ界の巨匠宮崎駿は毎朝、ゴミ拾いをしてからスタジオジブリに通っているという。

ゴミ拾いを通じて、何か感じるものがあったのか……

 

よく考えれば、著名な方ほど、特別になりたい、有名人になりたいという感情を持っていない気がする。

新海誠だって有名になりたくて、サラリーマンをしながらアニメを作っていたわけではないと思う。

村上春樹だって有名な小説家になりたくて小説を書いているわけではないと思う。

 

 

「有名になりたいなんて論外だ」

そう語るアニメ界の巨匠はどこか現代の若者像を鋭く捉えている気がする。

 

人を感動させる美しいアニメを作りたいという思いはあっても、自分が特別でありたいと思ってアニメを作ってきたわけではないのだ。

 

近所の公園をゴミ拾いをしているうちに、そこから見えてきた小さな世界を大切にして、アニメを作っていったのだと思う。

その小さな穴から世界に通じるアニメが生まれていったのかもしれない。

 

ライティングを始めてからも、もっと個性的なことをしなきゃ。

もっと人と違う面白いことをやらなかきゃと雁字搦めになっていた自分は少し救われた気がした。

 

特別なことをしなくていい。

世界に通じるコンテンツは身の回りに転がっている。

大切なことはありふれた日常をどう切り取るかだ。

 

特別でありたいという感情に振り回されていた私は、そのことに気がついたら少し、気持ちが楽になった気がするのだ。