自分の仕事がわからなかった私が、富士そば社長から学んだこと
「何で昼ご飯を食うのに立って食べなきゃならんのだ」
はじめて立ち食いそば屋を見ていた時、私はそう感じていた。
働き方改革と叫ばれている今日……
日本人の働き方を問題する風潮が多いという。
基本的に欧米に比べ、圧倒的に残業が多い日本の働き方を見直す流れが今あると思う。
私も社会人をやるようになって、とにかく平日は時間がないということを嫌でも痛感するようになった。
飯を食う時間すらゆっくり持てないのだ。
学生の頃から、定期的に駅前の立ち食いそば屋などを利用していたが、何でサラリーマンの人たちはみんな飯を食うのも3分とか5分で済ませているのだろうか?
ご飯ぐらいゆっくり食べればいいのにと思っていた。
しかし、実際に働き出すようになって、立ち食いそば屋で急いで食べているサラリーマンの気持ちが痛いほどよくわかるようになってきた。
とにかく時間がないのだ。
自分の仕事が遅いというのも理由の一つだが、とにかく平日は飯を食う時間すらもったいなく感じてしまう。
特に営業職となると、スケジュールが先方の時間帯に合わせて行動するため、帰社が夜20時過ぎになることも平気で起こる。
そうなると必然的に晩御飯を食べるのも21時過ぎとなる。
次の日も朝9時前から会議などがある人がほとんどなので、できるだけ早めに家で寝たい。
そのためには晩御飯をできるだけ早く済ませたいと思うのだ。
そうなるとごく当たり前のようにサラリーマンの人は、立ち食いそば屋やファーストフード店で適当に済ませ、翌日を迎えることになる。
私もそんな働くサラリーマンの一人だ。
子供の頃は、ごく平凡な会社で働き、嫌いや仕事をして毎週休日が来るのを楽しみにしていた親を見て育ったため、サラリーマンだけは絶対なりたくないと思っていた。
しかし、時が来て、いつしか24歳という人生に言い訳ができない年になってしまった。
お給料がもらえるのは本当にありがたいことだが、このままでいいのかと言う焦りもあった。
フリーランスで働く自信もなければ、ノマドワーカーとかいう自由な働き方で食っていける自信もない。
そうなると自然と会社に入って働くということになる。
子供の頃に思い描いていた大人に今なっているのか?
目を輝かせながら働く自分と同い年の人を見るたびに私はそう感じていた。
私はというと結構回り道をしてきた方だった。
大学に入るのも一浪した。
一年間、浪人生活を行ってきた。
私が浪人したのは2011年の震災の年だった。
3月10日に国立入試の結果が発表され、浪人が決定し、落ち込んでいると、その翌日に大震災が起こったのだ。
ただでさえ受験勉強で精神的に追い込まれている上に、テレビをつけたら放射能とかのニュースが流れているのだ。
計画停電とかいうよく分からないものもあり、真っ暗闇の中過ごした時期もあった。
それでも勉強しなきゃと思い、あの頃は自分なりに必死に勉強していたと思う。
なんとか私立の大学に入学はできた。
一年間回り道した分、無我夢中に死ぬほど自分が好きなことに取り組んできたと思う。
私が好きだったのは映画作りだった。
アホみたいに映画を撮って、アホみたいに映画を見ていた。
いつしか撮影所にも出入りするようになり、映像制作の現場で働くようにもなっていた。
就活の時期が来て、ごく当たり前のように、映像の世界に入っていった。
しかし、結局そこで躓いてしまった。
好きだからこそ、自分が選んだ仕事がつらくて仕方がなかった。
「好きでその道を選んだんでしょ」
と多くの人は言うが、実際好きを仕事にすると、現実と理想のギャップを知って、めちゃくちゃ辛い思いをすることがある。
好きだからこそ、辛いのだ。
私は連日夜中まで続く仕事に疲れ果て、いつしか会社を辞めてしまった。
転職する際は本当苦労した。
会社を数ヶ月で辞めた人間を雇ってくれる場所はほとんどなかった。
サラリーマンだけにはなりたくない。
その一心で自分が好きと思えた世界に入ったが、結局私は挫折してしまった。
そして、なんとか雇ってくれる会社を見つけ、一からやり直すことにした。
ちょっとずつ仕事を覚えていくも、心のそこではこのままでいいのか?
と言う思いを抱えていた。
サラリーマンだけはなりたくなかった。
そんなことを思ってしまうのだ。
その時、この本と出会った。
富士そば社長が書いた自伝「らせん階段一代記」だ。
どこかの番組でマツコデラックスが絶賛しているのを見て、富士そば社長の自伝に興味を持ったのだ。
読んでいるうちに、驚きが連発した。
今では富士そばの社長といったら日本を代表する億万長者だが、若い時は炭鉱で働いていたのだ。
夢を追い求め、4回も上京し、なんとか立ち食いそば屋で成功をおさめた富士そば社長の人生は波乱万丈なものだった。
中学卒業とともに上京し、東京の上野駅で電車を乗り間違え、誤って福島行きの電車に乗り、たどり着いた場所は炭鉱だったという。
普通だったら東京に戻るところだが、まぁいいかと思って、そのまま炭鉱で2年も働いてしまったのだ。
そこで富士そば社長は生きる術を身につけていくことになる。
汗水垂らして働き、いつしか勉強がしたいと思うようになり、高校にも通い出す。
私は電車を乗り間違え、福島の炭鉱で働くようになった富士そば社長の物語を読んでいるうちに心を動かされている自分がいた。
何がしたいかよりも、たどり着いた場所でどう生きるか?
そのことを富士そば社長に言われた気がしたのだ。
私はどこの職場に行っても、もっと自分にあった環境があるのではないかと思って、いつも理想の環境を追い求めていたと思う。
しかし、そんな性格な人間はどこに行っても環境のせいにして逃げるだけで何も変わらないのだ。
どんな場所にたどり着いても、ひとまずやってみよう! と思える心構えが重要なのだと思う。
私は今でも富士そばを食べる時、社長の姿を思い浮かべてしまう。
電車を乗り間違え、たどりついた炭鉱でも、必死に生きてきた青年は将来、大きな偉業を成し遂げて行った。
私もひとまず、たどりついた今いる環境で自分なりにもがいてみようと思うのだった。
書いて生きていく術を学ぶはずだったが……
何者かになりたい……
私は大学時代ずっとそう思っていた。
クリエイティブな人間でありたい。
大学時代に世の中に頭角を現したい。
「何者かになるために上京してきた」とテレビでコメントしていた劇作家のように、
私はただ何者かになりたかったのだ。
人よりも上に立ちたい。
特別な何かになりたい。
その思いが私を突き動かして、アホみたいに映画を作っては、研究していたりしていた。
大学2年になる頃には、このままではダメだ。
実際に業界で活躍する人に会わなきゃ!
そう思って、つてをたどり、映像の世界で活躍する人やプロの脚本家の方に会って行った。
プロの世界で活躍する人はやはり、すごかった。
普通のサラリーマンをやっている人とは違い、その道で食っていくという決意が体から滲み出ていたのだ。
「自分もクリエイティブな世界で生きていきたい」
そんなことを私は言ったのだと思う。
映像の世界でフリーランスとして働くその先輩はこういった。
「映画監督だけはやめておけ。なりたくてなる職業じゃない」
私はえ? と思ってしまった。
子供の頃から憧れていた職業だ。
なりたくてなる職業じゃないってどういうことだろう。
「日本の映画業界は食っていけない。小説家よりも食っていけない。大手の映画会社だろうが趣味で作っているようなものだ。映画を好きでいたいなら、週休二日制を守れる会社員やったほうがいい」
そんなことを言われた。
その人たちは私が憧れていた〇〇という肩書きを持った人たちだった。
ライター、映像ディレクター、脚本家、放送作家……
私はそう言った〇〇という肩書きを持ったクリエイティブな人たちに憧れていたのだ。
しかし、実際に〇〇な肩書きを持った人たちと会っても、なんだか腑に落ちない反応が返ってきた。
好きで食べていくことはそれはそれで大変なのかもしれない。
私はそう感じていた。
気がつけば、いつしか就活の時期が近づいてきた。
私は大学4年生まで、自分が何をしたいのかさっぱりわからなかった。
だけど、心のそこで〇〇という肩書きを持った人間になりたいという気持ちが強かったのだろう。
映画会社や広告代理店などのちょっと華やかでクリエイティブな世界を目指して、倍率5000倍の企業を受けては落ちまくっていた。
自分でも気がついていた。
この何者かになりたいという気持ち……
無駄なプライドからくる承認欲求を消さなければ、ダメだ。
そうわかっていた。
大手企業に受かる人は無駄なプライドなどなく、入った会社ですんなりと言うこと聞いて働きますよ! という感じの人が多かった気がする。
所詮、どこの企業も、何か目的意識が高い以上に、入った会社でつべこべ文句も言わず働いてくれる人が第一に欲しいのかもしれない。
確かに私が企業の上司の立場だったら、ブツブツ文句を言う部下より、文句も言わず働いてくれる部下を欲しがるだろう。
就活をしていて、同じ集団面接で一緒になった人たちでも、どこか体全体から余裕を醸し出している人たちはすんなり面接に合格していった。
別になりたいことなんて特にないし。
なんとなくで受けてきただけだけど。
という人に限って大手企業やマスコミに受かっていくから、世の中は不思議だ。
私はというと、ずっと何者かになりたい。どこかに受からなきゃ死ぬ!
という焦った気持ちで、面接を受けては、落ちまくっていた。
結局、私の就活は惨敗に終わった。
30社以上落ちたのだと思う。
結局、広告代理店やテレビ局員などのちょっとクリエイティブな職業に就くことはできなかった。
やっぱり私はクリエイターの才能なんてないんだ……
そう思い悩んでいた時、この本と出会った。
ブックライターの上阪徹さんが書いた「書いて生きていくプロ文章論」だ。
大学時代の頃から私は友人に頼まれてインタビュー記事を書くアルバイトを何回かしたことがあった。
著名人や社長にインタビューしに行き、5000字程度の記事にまとめる。
最初は文章を書いたことない私がインタビュー記事なんて書けるのか?
と思っていたが、案外やってみると面白いものだ。
人に会って話を聞いて、その人の思いをまとめていく。
その作業をしていると、
こんな考え方もあったのか!
こんな生き方もあるんだ! と刺激的な出来事がたくさんあった。
ブックライターとして食っていく自信なんて一ミリたりとも持っていなかったが、インタビュー記事を書くということに興味を持っていた私は、ブックライターの上阪さんの本をいつしか手に持っていたのだ。
読んでいって驚いた。
プロのライターはこんなことを考えて仕事しているのか。
それは書くということを職業にしているプロのライターが、徹底的にライターの仕事の現場を描いた本だったのだ。
「好きでやってるんだから」と世の中の大半は言うかもしれないが、好きだからこそ辛い世界もあるのだ。
上阪さんの人柄や、厳しいライターの世界がその本の中には描かれていた。
私は読んでいく中である一節が気になった。
「私は一度も何かになりたいと思ったことはない」
上阪さんは日本を代表するブックライターの一人だが、自分からなりたくて今の仕事にたどりついたわけではないのだという。
人との縁を大切にして、人に流されていったら、いつしかブックライターという職業にたどりついたらしいのだ。
その本の中で何度もこう書かれていた。
「何になりたいという気持ちも大切だが、それ以上に人との縁を大切にしてください。チャンスは全部、人が持ってきます!」
私はずっと〇〇になりたいと思って、ちょっと人とは違ったクリエイティブな仕事に就こうともがいて苦しんでいたのだと思う。
無駄な承認欲求が邪魔をして、人とのつながりを考えたことがなかった。
しかし、この本を読んでから何だか心がホッとした気分になった。
20代で頭角を出そうなんて思って、焦らなくていいのかもしれない。
先のことをあまり焦って考えずに、人との縁を大切にして、今自分ができる努力をしていたら、いつしかそこにたどり着けるのではと思えてきたのだ。
何者かになりたいという気持ちはエネルギーになるから大切なのかもしれない。
がむしゃらに努力することはもちろん大切だ。
しかし、それ以上に一つ一つの人とのつながりを大切にした人にチャンスが巡ってくるのだと思う。
とある映像ディレクターが言っていたように、なりたくてなれる職業じゃないのかもしれない。
しかし、人との出会いを大切にして一歩一歩遠回りしながら、そこにたどり着けばいいのではないか?
そんなことを思うのだ。
【ミスマッチした新入社員に告ぐ】「3年は続けろ」と大人は言うけども
「君たち、自分で選んだ道なんだから!」
多くの大人は新入社員に向かってこう言う。
「自分でこの会社を選んだんだから」
「もう大人なんだから、職場は学校じゃないんだ」
確かに仕事を選ぶのは自分自身の問題だ。
しかし、どうしてもその言葉に納得できない自分がいるのだ。
「自分でこの仕事を選んだんでしょ?」
30代以上の方が時々発するこの言葉だけには妙に納得できないのだ。
「自分で選んだ道なんだから、しっかり仕事をしろ」
確かにその通りだ。
お金をもらう以上しっかりとそれ相応の仕事をしなければならないのは当然のことだ。
だけど、自分たちの意思で、自分たちがする仕事を全ての新入社員が選んできたのかと言ったらそこは違うと思う。
今の新入社員のほぼ99パーセント以上は、ただ単に情報に流されて、今いる会社に辿りついただけなのだ。
2000年に入ってから、大手人材派遣会社を中心に、就活情報サイトが始まった。
ネット上でほぼ全ての情報が管理され、3月から6月までの期間で浴びるような情報の中から、就活生は自分が進むべき道を選ばなければならない。
わずか3ヶ月間で自分の働く会社を決めなければならないのだ。
当然、名前が知られた大手企業ばかりに人が集まってきてしまう。
ひと昔では受けても3〜4社だった時代があるが、今は平均的にほとんどの就活生が、20〜30社をエントリーしている。
その中から運良く内定が決まった会社に就職することになるのだ。
大手企業などはエントリー数だけで1万人を超えてくるため面接だけでも3回から4回するのが当たり前だ。
どこの会社も平均的に3回以上面接をすることになるので、就活の時期になると皆焦りだし、何が何でも受かろうと自分を大きく見せるようになっていく。
企業側は本気で働いてくれる新入社員を追い求めているが、就活生はただ単に内定がもらいたくて必死なのだ。
だから、自然と企業と学生同士のミスマッチも起きてくるのは当然だと思う。
5月を超えてくると「こんなはずじゃなかった」と嘆いている新入社員も多いだろう。
私もそんな新入社員の一人だった。
何かの縁で辿りついた制作会社の世界は、思った以上にハードだった。
自分が好きで選んだ道だから仕方がない。
しかし、実際に仕事を経験してみると想像以上にハードだ。
毎朝4時まで続く徹夜作業にノイローゼ状態になり、私は一度、人身事故を起こしかけたこともあった。
「こんなはずじゃなかった……」
そう何度嘆いたことか。
私はそして会社を辞める決断をした。
ノイローゼになりすぎて、うつ状態のまま上司に辞めるということを伝えたみたいだ。
後から、上司から「あの時、本当にお前頭おかしくなっていたぞ」と言われた。
頭がおかしくなり、なぜかラオスの山奥まで放浪の旅に出た私は、逃げてもダメだなと思い、日本に帰ってくることになる。
そして、日本社会の厳しさを知った。
職場のミスマッチを経験し、一度社会のレールから抜け出ただけで、ここまで社会は厳しいものだとは思わなかった。
転職をしようにもどこも受からないのだ。
大学4年の時は、なんだかんだ新卒というプラチナチケットを持っているため、否が応でもエントリーシートなら通過する企業があった。
しかし、一度就職してしまい、退職すると、自分の中では大したことがないように思えても、企業側からすると「会社を数ヶ月で辞めた人間」というレッテルを貼られてしまうのだ。
こんなに社会って厳しいなんて……
私はノイローゼ状態になり、アルバイトすらできなくなってしまった。
仕事をすること自体が怖くなってしまったのだ。
アルバイトをしていても、常にやる気がない自分を見てよく店長に怒られていた。
「だからフリーターはダメなんだ!」
そう思われていたのだろう。
人生どん底の一年間だった。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞めた無職。
それがその時の私が持っていた肩書きなのだ。
一度会社とのミスマッチを経験しただけど、こうも社会の目線は変わるものなのか……
そう嘆いていた頃、私はライティングに出会った。
昔からものを書いたり、作ったりすることは好きだった。
好きだったが、自分なんて特に書くものなんて持ってないし、特に書きたいものなんて持ってなかった。
しかし、なぜかよくわからないが無性に書きたくなったのだ。
日々の不安をかき回すかのように書いて、書いて、書くまくっていた。
すると、不思議なことが起こった。
転職活動もうまくいきだしたのだ。
なんとか数ヶ月後、今働いている会社に内定をもらえ、再び働くようになったが、今思うと、あの時私はただ単にポジティブ思考になっていたのだと思う。
ライティングというものは不思議なものだ。
書いて吐き出してを繰り返していると、自然と世の中に対してアンテナを張るようになってくる。
いつもポジティブに記事を終わらせようとすると、自然と世の中から入ってくる情報もポジティブなものが増えるのだ。
常にポジティブに物事を捉えるようになると、自然と状況も好転してくるものだ。
面接の時の私は凛としていたのか……
書類選考や面接で通過する率が増えたのだ。
多分、書類選考で落とされても、まぁ、いいかと開き直れるようになったのだろう。
どんどん書いていくうちにいつしか就職できるようになったのだ。
私は無職のプー太郎から、いちよ会社員という肩書きらしきものをもてるようになった。
だけど、今でも無職のプー太郎という肩書きを持っていた時代を思い出すことがある。
もし、あの時私はライティングに出会ってなかったらどうなっていたのだろうか。
もし、今働いている会社と出会えなかったら、どうなっていたのだろうか。
考えただけでゾッとしてしまう。
多分、今でも適当にアルバイトを続けて、暗い目をしたまま、この他人に無関心な社会の中で生きていくことになっていたのだろう。
会社帰りに暗そうにしている新入社員を電車の中で見かけるたびに、私は過去の自分を思い出してしまう。
私も企業とのミスマッチを経験し、心底苦しんできた一人だったのだ。
ミスマッチを経験すると、死にたくなるほど仕事が辛くなるのはわかる。
私も一度、経験した。
毎日、会社の上司に怒鳴られ、相性も良くない同僚や上司といつも囲まれて過ごすのだ。
ストレスが溜まり、気が変になるのも当然だ。
大人の方々は「どんな仕事でも3年は続けろ」という。
3年は働かないとその仕事はわからない。
確かにその通りだと思う。
とにかく続けないとその仕事の面白さや内容など、わかるはずがないと思う。
だけど、ミスマッチを経験している人に向かって「3年も働け!」なんて、
私はいえない……
死にたくなるほどだったら逃げ出していいとも思う。
ミスマッチをして、毎日会社に向かうのが辛い人がいたら、
会社を辞めるか、自分を会社に合わせるか、それしかないのだと思う。
自分を会社に合わせるのが辛かったら、転職など他の道を考えるしかない。
だが、3年以内で辞めると、日本の社会では「3年以内で会社を辞めた人間」というレッテルを貼られてしまう覚悟も必要になる。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、世の中を放浪していた私は、ミスマッチをしている新入社員を見ていると、どうしても笑えない。
他人事とは思えないのだ。
すぐに辞めたほうがいいとはいえないが、一つだけ転職の基準にしたほうがいいことははっきりとわかった。
転職をするべき理由……
それは、夢を追う時だと思う。
転職すると決意するなら、自分の夢を追う時だ。
テレビ番組の制作だろうが、どこかの大企業の営業だろうが、どの仕事だろうと、
やっていることは基本変わらない。
人とコミュニケーションをとって、仕事をしている。
ただ、それだけだ。
相性が悪い上司がいるだろう。
会社の雰囲気が悪くて胸が詰まるような苦しみにあっている人もいるかもしれない。
だけど、環境のせいにして逃げても、その倍の苦労が後に待っているだけなのだ。
本気で仕事がつらくて、今にも死にそうな人がいたら、すぐに逃げ出したほうがいい。
しかし、環境のせいにして、自分の理想の職場というものを求めている人がいたら、少し思いとどまったほうがいいと思う。
環境のせいにする癖がある人は、どの職場に行っても基本的に変わらない気がするのだ。
だから、転職を決意するときは、本当に自分がやりたいこと。
自分の夢を叶える決意をする時だと思う。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞めた自分が言うのも変かもしれないが、ミスマッチで苦しんでいる新入社員を見るたびにそう思ってしまうのだ。
承認欲求に振舞わされていた私が見つけた、生きづらさを緩和させる唯一の方法
「承認欲求なんて消えてしまえ」
私はいつもそう思っていた。
フェイスブックなどに投稿したとき、「いいね」の数が増えれば嬉しいものだ。
しかし、いつしか「いいね」をもらうために投稿するネタを探して歩き回っている自分に気がつくのだ。
「いいね」がもらいたい。
誰かに承認してもらいたい。
そんな思いが、私の心の中であったのだと思う。
そのことに気がつくたびに私はこう思っていた。
「承認欲求なんて消えてしまえ」
とあるきっかけからライティングを学ぶようになり、こうして毎日書く習慣をつけてきたが、やはり、プロ級のバズを起こせるライターさんは世の中にいるものだ。
特に書く訓練をしていなくても、ば〜とバズを発生させることができるのだ。
そんな人たちがフェイスブックに記事を投稿するたびにあっという間に、「いいね」が100を超えていく。
やっぱり凄いや。
自分なんていくら頑張ってもバズを起こせない。
そんなことをいつも思ってしまうのだ。
その嫉妬心ともいうべき感情から、元来、大の負けず嫌いの私はこうして毎日書く習慣をつけてきたのだが、努力なんてしていても無駄なんじゃないかと思うことが何度もあった。
いくら書いたって、あの人には勝てるはずがない。
どんなに書いてもプロになれるわけがない。
やはり、プロ級のバズを起こされる人たちはすごい。
本能的というか、直感的にというか、感覚的に人に共感されるネタを探すのが超絶にうまいのだ。
はあちゅうなんて、世の中に対するアンテナの張り具合が絶妙にうますぎて、すごいと思ってしまう。
ものを書くことや何かものを作るという上では、世の中に対して常にアンテナを立て、面白い情報を集める習慣が欠かせないと思う。
そのアンテナを張り具合が、生まれつきうまい人がこの世にはいるのだ。
フェイスブックの「いいね」が100を超えてくる人たちなんて、その類の人なのかもしれない。
そんな人たちを見て、やはり何も特別な素質を持っていない私は、自分はやはり才能がない……と思い、へこんでいた。
自分なんて才能がない。
毎日書く意味がない。
そう思っても、満たされない承認欲求を追い求めていたのだろうか……
毎日書いて書いて書きまくってを繰り返していた。
よく考えれば、いつも私を突き動かしていたのは承認欲求だった。
あの人に勝ちたい……だから、努力する。
その繰り返しだ。
「この人には勝てない」
そう思うたびに私はスイッチを入れてがむしゃらに努力はしてきた。
しかし、いつも勝てなかった。
浴びるように映画を見て、映画を撮るまくっていた大学時代も、一人の彗星の如く現れた一人の天才肌の人を見て、スイッチが入り、死ぬほど映画を撮りまくるようになったのだ。
なんだこの感受性は……
痛々しいまでの青春の輝きや、痛みを描くその映画作家はあっという間に、プロになり、あっという間に小松菜奈主演で映画を撮ることになっていった。
この人に勝ちたい。
この人のような映画を作りたい。
そう思って、私はあの頃、浴びるように映画を見ては、脚本や物語構造を研究し、映画をアホみたいに撮りまくっていた。
あの人のような映画を作りたい。
その一心だったのかもしれない。
70分以上の長編映画も撮ってみた。
しかし、とてもじゃないが人に見せられる出来じゃなかった。
答えは簡単だった。つまらないのだ。
人の真似ばかりしていて、何の特別な物語もなく、ただ単につまらないセリフが延々と続くだけの映画だったのだ。
私は常に、何者かになりたい。
人とちょっと違ったクリエイティブな人間になりたいと心のそこで思っていた。
誰かに承認されたい。
その一心だった。
その承認欲求が空回りして、ただ自分が心動かされた映画をパロディと称して、真似てただ自己満足に浸るだけの映画を作り続けていたのだと思う。
誰かに承認されたい。
その思いだけで作られた映画なんて面白いわけがない。
70分間の映画も、40分を超えるゾンビ映画も、全て映画祭で賞を取ることはなかった。
自分なんて才能がない。
そう思った私はいつしか、就活の時が来て、自然と周囲の波に流されるかのように就活というものをしていった。
何度も感じていた……
自分にクリエイティブな才能がないのはわかってきている。
だけど、心のそこでは、どこか自分は才能があるのではないのか?
遅咲きになるのかもしれないという淡い期待を抱いている自分に気がついていた。
クリエイティブな才能がなくても、どうしても昔抱いた夢を諦めきれずに毎日こうして書くということを繰り返しているのだが、やはり現実は厳しいものだ。
どんなに自分ではいい記事だと思っても、周囲には大量のバズを発生される人がたくさんいた。
そんな人たちを見るたびに私の心の中で諦めの気持ちが芽生えてきた。
自分なんてどんなに努力しても勝てるわけがない。
そんなことを常に考えてしまうのだ。
毎日書いて、書いてを繰り返しても、こんな努力無駄なんじゃないか?
そう思っているうちに、5ヶ月過ぎていた。
すると、ある時、ふと気がついた。
これって自分自身の戦いなんじゃないのか?
私はいつも他人と見比べて、劣っている自分が悔しくて仕方がなかった。
いつもいつも他人と見比べてしまう癖が付いていたのだ。
誰かに承認されたい。
その思いだけで突き動かされていた。
だけど、社会人をやるようになり、忙しい毎日を過ごしていると、いつしか自分の中にある承認欲求は無くすことはできないということに気づき始めた。
どんなに承認欲求が肥大化してもなくすことは無理なのだ。
なくすのではなく、承認欲求がある自分を忘れることしかできないのだ。
誰かに承認されたいと空回りしていた自分は、いつしか承認されることよりも、自分自身に課したルールから負けないように努めることの大切さに気がつき始めた。
プロの小説やライターになる人たちはすごい。
まず、大量のバズを起こさせる記事を書けるのだ。
だけど、プロ級のライターとプロのライターの間には大きな溝があるという。
自分なんてプロでもなんでもないが、薄々その溝に感づいていた。
プロになれる人は、自分自身にだけは絶対負けないのだ。
何が何でもプロになってやるという気合いから、自分だけには負けないように努めるのだ。
往路として食っていく段階になると、一般の評価も大切だが、それ以上に自分自身に負けないということが大切になってくる気がする。
他人の評価は二の次だ。
大切なことは自分自身に負けないこと。
常に承認欲求に振り回されていた私は、いつしか自分にだけは負けないように努めることの大切さに気づき始めていた。
身の回りには自分より面白い記事を書ける人は何人もいる。
大量のバズを発生させられる人も何人もいる
天才肌のクリエイターのセンスで、あっという間にプロとして活躍する映像作家の人もいる。
そんな人たちを見るたびに、才能がない自分を感じていた。
しかし、大切なことは他人と見比べるのではなく、自分自身にだけは負けないように努めることなのではないのか?
何が何でも人を魅了するコンテンツクリエイターになんてやると決意した、自分自身に負けないことではないのか?
いつも他人と見比べて、承認欲求に振り回されていた私が見つけた答えがそれだった。
他人なんかどうでもいい。
世の中には自分より才能がある人なんてゴロゴロいる。
そんなこと、否が応でも気がついている。
それでも私は書きたい。
大切なことは自分自身に負けないこと。
そう言い聞かせて、今日も私はライティングに励んでいる。
ただのホラー好きの貧しい青年が、大ベストセラー作家の映画化権をたった1ドルで買い取れた理由
「ピンポーン」
貧しいボロボロの服装を着たフランク青年は、とある大ベストセラー作家の家の前に立っていた。
彼は子供の頃から、その作家の大ファンで、何度もなんども読み直していた。
一字一句全て覚えているくらいだ。
その作家の影響でホラー好きになったと言って過言ではなかった。
もうすぐであの人に会える。
そう思って、フランクは胸を躍らせていた。
ガタンとドアが開き、子供の頃から憧れていた作家が目の前に現れた。
フランク青年が会いに行った作家……
それはホラーの帝王と言われているスティーブン・キングだった。
「やあ、こんにちは」
スティーブン・キングはボロボロの服装を身にまとったこの貧しい青年を暖かく迎い入れてくれた。
暖炉の前に座り、緊張を隠しながらフランクは本題を言う。
「あなたの小説の映画化権を買いたいんです」
スティーブン・キングはこの若い青年の目の眼差しを眺めていた。
ただ純粋な眼差しだったのだ。
彼は本気だ……
子供の頃からフランクは貧しい家で育ち、移民の両親の影響で、各地を転々とする生活をしていた。
難民収容所があった地域で生まれ、子供の頃から、収容所に入れられている移民たちや受刑者をフランクは見ていた。
自分もいつかここにいれられる。
そんな思いが彼の中にはあったのだろう。
怖くはあったが、子供が持つ好奇心からか、その収容所の周りを囲う大きな壁を見て、そんな思いに馳せていた。
「お前の両親は移民だ! 出て行け」
学校ではクラスメイトからそう言われ、いじめられていた。
自分は移民なんだ。
だから、ここにいちゃいけないんだ。
壁で囲まれた自分と同じような移民を見ていると、なんだかやるせない気分になり、彼は自宅に閉じこもるようになっていった。
自分なんていなくても変わらない。
そう思い込んでしまったのだ。
彼は現実逃避の意味も込めて、映画館に通うようになった。
その頃は、安い低予算のホラー映画が大量に撮られていた。
低予算のため、役者の演技も棒読みで、見ていられるクオリティーのものでもなかった。
この低予算映画はもともと、映画館に来るカップルが女の子を口説くために、安い金で作られ、使い捨てされる映画だったのだ。
全く怖くもなんともないホラー映画に見飽きた客はさっさと帰って行った。
しかし、そんな低予算映画でもフランク少年の心を鷲掴みにした。
自分もいつか、人を楽しませるようなホラー映画を作ってみたい。
そう思うようになったのだ。
「あなたのホラー小説を映画化したいんです」
24歳になったフランク青年は、アメリカ一の大ベストセラー作家を前にして、そう頼み込んでいた。
頭を抱えているスティーブン・キングはこうつぶやく。
「君は今まで映画を撮ったことはあるのかね?」
鋭い眼差しでフランクを見つめるこの作家に嘘はつけないと思い、彼は本当のことを言った。
「まだ一度もありません」
スティーブン・キングは続けた。
「君みたいな青年は初めて見た。何人も私の小説の映画化権を買いに来るが、君ほどしつこい人は初めてだ。私のエージェントも頭を抱えていたよ。あまりにもしつこく電話をかけてくるし、オフィスにも現れるから」
彼は赤面してしまった。
どうしてもホラー映画が撮りたかったのだ。
しかし、人脈も金もない無一文のフランクには、ツテがなかった。
ひたすらホラーの帝王と呼ばれるスティーブン・キングのエージェントに頭を下げるしか方法がなかったのだ。
「そんなに情熱的に私の小説の映画化を頼み込んでくる人はそういない。だから、一度会いたくなったんだ」
フランクは全くの無一文で、何も実績を持たない自分と会ってくれたスティーブン・キングにただ感謝するしかなかった。
たぶん、いつものようにただの無一文の青年に映画化権をくれたりすることはないだろう。
それでも来ただけマシだった。
フランクは心のそこから、スティーブン・キングに感謝すると同時に、半ば諦めかけていた。
「ただ、すまんが私のホラー小説の映画化権は、ほとんどすべて売ってしまっているんだ。残っているのは非ホラー小説なんだが、それでよければ君に売るよ」
彼は驚いた。
あのスティーブン・キングの映画化権を買えるなんて!
しかし、ホラー小説ではないのか……
一体、ホラーではない彼の小説はどんな作品なのだろうか。
「君は見たところ一文無しだね。たいした短編ではないが、この作品なら1ドルで君に譲る」
そして、フランク青年は、大ベストセラー作家からとある短編の映画化権を1ドルで買い取ることになったのだ。
フランクはその短編を読んでみて、涙が溢れてきた。
それは「希望」の物語だった。
どんなに残酷な運命に翻弄されても、決して「希望」を見失わない大切さを伝える物語だったのだ。
いつか、この作品を世に出さなきゃ。
それから彼は死に物狂いで仕事をするようになった。
超低予算で興行成績など、ほとんど見越されていない低予算映画でも、彼はしっかりと脚本を書いていった。
いつか、この短編の映画化をしたい。
その思いだけが彼を突き動かしていたのだ。
誰も見ないようなグチョグチョの低予算ホラー映画も、彼はきちんと、ファン層向けに脚本を書き、ちょっとずつだが彼の名は業界内で知られるようになっていった。
「あのホラー映画、クソみたいなできだが、脚本だけは良かったよな」
そう言われる回数も増えていった。
フランクは低予算映画でも、きちんと構成を考え、大衆娯楽映画にも負けないようなクオリティーの映画を目指していったのだ。
ホラーの帝王との約束を果たすため、どんなにくじけそうなことがあっても「希望」を忘れずに、仕事に打ち込んでいった。
いつかあの短編の映画化をする。
それだけがフランクを突き動かしていたのだ。
そして、10年後、とうとう映画化のチャンスが来た。
まるで客が入らないホラー映画でも、フランクが担当する脚本の回だけは異様に評判が良かったため、彼の腕を見込んで監督の仕事の依頼がきたのだ。
フランクはスティーブン・キングから1ドルで譲り受けた短編の映画化を希望していった。
しかし、映画会社はなかなかゴーサインを出さなかった。
あのスティーブン・キングとはいえ、その短編は名前がほとんど知られてない。
そんな短編を映画化しても客が入るとは思えなかったのだ。
しかし、フランク青年は必死に映画会社を説得し、ついに映画化に踏み出していった。
フランク青年がスティーブン・キングから1ドルで譲り受けた短編小説……
それは「刑務所のリタ・ヘイワーズ」という。
無実の罪で、刑務所に入れられるも「希望」を捨てずに戦い抜いたとある受刑者の物語だ。
フランクは、その短編の中で、決して「希望」を捨てずに戦い抜く主人公に共感していたのだろう。
彼もどんな苦境にあいながらも決して「希望」を捨てることはなかった。
そのわずか1ドルで映画化権を譲り受けたその短編は「ショーシャンクの空に」というタイトルで映画化されることになる。
今でも幅広い層から支持される不朽の名作だ。
どんなに苦境に立たされても決して「希望」を捨てることのなかった主人公の姿は、どこか監督であるフランク・ダラボンの姿に似ているのかもしれない。
毎日、繰り返される満員電車の中での死闘を辞めた時……
「暑い、苦しい……」
毎朝、満員電車に乗って、いつも思うことだ。
何で、こんなにぎゅうぎゅう詰めにされながら、電車に乗ってんだろう……
ホームでは駅員が、あまりにもパンパンでドアからはみ出している乗客を無理やり押し込んで、電車の中に詰め込んでいる。
車内はもう、ぎゅうぎゅう詰めの缶詰状態だ。
多くのサラリーマンはスマホをいじりながら、駅はまだか……まだか……
とただ、耐え凌ぐ毎日だ。
雨の日などは、とんでもないことになる。
バスや車、徒歩で通勤していた人が電車に乗り込むことになるので、いつも以上にパンパンの状態で電車に乗ることになるのだ。
多くの人が手に傘を持っているので、その分の面積も加えて、もう車内はぎゅうぎゅう詰めのパンパンで、蒸し風呂状態だ。
もう、満員電車嫌だ……
私はそう何度も思った。
なんで東京の通勤ラッシュはこうもひどいんだろう……
日本の全人口の大半が、小さな面積しかない東京に集中しているという。
地方にも中小企業は数多くあるが、企業の本社は東京にあるケースが多い。
そのためか、地方出身の人でも、就職の段階で東京に出てくる人が多いと聞く。
「東京は華やかでいいところだような」
そんな声をたまに聞くが、私は東京に憧れる人を見るたびに、
東京で暮らすとあの地獄の通勤ラッシュに耐えて会社に行く羽目になることをどうしても伝えてしまう。
私はこの通勤時間を使って、いつも本を読んでいた。
ぎゅうぎゅう詰めで、身体中が痛かった。
蒸し暑かった。
その苦しさを紛らわすためにも、本を読んで時間を忘れるように努めていたのだ。
多くの人は手を手すりにかけて電車に乗っている。
私はというと、いつも本を読むために、片手で本を支え、手すりを持ち、電車の揺れを周りの人の体を借りて、防いでいた。
何度か急ブレーキがかかり、前のめりに倒れそうになった時があった。
なんとか耐え凌がねば。
毎日、満員電車に乗るたびにそう感じていた。
東京の朝のラッシュは7時30分から8時30分の間だ。
どうしても朝礼が8時30分から9時にある会社が多いので、その時間帯に人が集中してしまうのだ。
私は何度か、電車に乗る時間帯をずらしてみた。
30分、早めに家を出ても、やはりどうしても通勤ラッシュと被ってしまう。
急行だろうが各駅だろうが、人でごった返しているのだ。
もう嫌だ! 満員電車なんて乗りたくない。
そう何度思った事か……
毎日繰り広げられるサラリーマンたちの死闘に飽き飽きしてきた頃、ゴールデンウィークがやってきた。
ちょっとリラックスしよう……
そう思った私は、京都にぶらっと訪問することにした。
京都は中学と高校の修学旅行で行ったことはあるが、きちんと見たことはなかった。
学生の頃の私は、歴史などに興味がなく、寺院を見学しても、ただぶらっと眺めるだけだった。
大学時代に海外をちょっと放浪した際、何度も外国人に日本のことについて質問された。
「桜の写真は持っているか?」
「日本の漫画は面白いよな」
「舞妓さんってどんな人たちなんだ」
海外に行って、日本ってこんなにも注目されている国だと知り、驚いてしまった。
それと同時に、答えに窮屈している自分から、私は海外のことばかりに目を向けていて、日本のことを知らない自分に気がついたのだ。
「一度、日本のことをきちんと知ろう」
そう思った私は、連休中を利用して京都にぶらっとたびに出ることにした。
前から一度は行きたいと思っていた、竜安寺や仁和寺に行ってみた。
日本庭園は海外でも注目されていると聞いたことがある。
どの寺院に行っても外国人ばかりで、日本文化の注目され具合に私は驚いてしまった。
本当にどこに行っても外国人ばかりなのだ。
私は、ふと仁和寺に入って、綺麗な庭園に入っていった。
そこには目を見張るような美しい景色が広がっていた。
壁を遮るように広大に広がる森の景色……左右対称に作られた池……
真っ白い砂……
そこにはどこまでも広がる広大な庭園があったのだ。
私はあまりにも美しい景色から、仁和寺にある縁側でゆっくりと腰を下ろし、小一時間ぐらいボ〜としてしまった。
特に何かを考えることもなかった。
ただぼ〜として、仁和寺の庭園を眺めていたのだ。
ゆっくりと流れる時間に身を任せているうちに、私はふと思った。
私は普段、あまり物事を見ていなかったんだ。
毎日、満員電車にぎゅうぎゅう詰めのパック詰めにされ、忙しい毎日を理由に、世界をきちんと眺めたことがなかったのだ。
仁和寺の縁側で小一時間も座るように、ゆっくりと時間に身を任せ、周囲を見回してみると世の中には新しい発見があるかもしれない。
仁和寺の縁側に座っている時に、あまり普段、物事をきちんと見ていない自分に気がついたのだ。
東京に帰ってから、私は電車に乗るたびに、なるべく車窓側を取るようにしてみた。
そこから見る景色を眺めているうちに、朝の東京で繰り広がれらる人々の営みが身にしみて感じるようになった。
ある人はスマホで恋人と連絡を取り合っているのかもしれない。
ある人は、仕事に苦しみながらも家族のために会社に向かっているのかもしれない。
毎日、繰り返されている満員電車の死闘も、人々の営みがきちんとそこにはあるのだ。
一歩、立ち止まれば、普段見えなかったことまでもだんだん見えてくるようになってきた。
もしかしたら、これはライティングに似ているのかもしれない。
世の中に常にアンテナを貼って、書くためのコンテンツになる情報を選び取っていると、普段、見ていなかった物事にも気づくようになり、ありふれた日常が愛しく思えてくるのだ。
一歩立ち止まれば、見えないこともきちんと見えてくる。
私が仁和寺で学んだことはそれだったような気がする。
毎日、満員電車に乗るのは正直、きつい。
しかし、見方を変えればいろいろな発見がそこには眠っているのかもしれない。
そんなことを思いながら、今日も私はぎゅうぎゅう詰めのパック詰めになっている東京の満員電車の中に飛び込んでいく。
正直、言ってしまうと……
「何の映画が一番好きですか?」
私が学生時代に年間350本以上映画を見ていたという話をすると、
まず間違いなく相手から聞かれる質問だった。
そう聞かれるたびに私は戸惑いを隠せない。
やれやれ、と思うのだ。
私は休みの日となると1日6本は映画を見て、映画を浴びるように見まくっていた時期があった。
何でそんなに映画を見まくっていたかというと、映画を撮りまくっていたからだ。
このシーンを撮るためには、どうすればいいんだろう?
脚本を書きていると、どうしてもネタが無くなってくる。
ネタがなくなるたびに、インプットが足りないと思って、浴びるほど映画を見まくっていたのだ。
TSUTAYAにある洋画の「あ行からわ行」まで全て見たんじゃないかというくらい見ていた。
おかげでTSUTAYAから年賀状が届いてしまった。
学生時代に映画を見過ぎたせいで、今TSUTAYAに行っても、見るものがなくて困っている。
1940年代から1950年代の白黒の映画もほとんど見た。
ヒッチコック、デビット・リーン、黒澤明、オーソン・ウェルズ、フランソワ・トリュフォー、ルイ・マルなどなど、名だたる映画人の映画はほぼ全て見た。
洋画のほとんどを見て、結局、何が一番面白かったのか?
そういう質問を聞かれるとどうしても戸惑ってしまうのだ。
年間350本以上映画を見てきて、私が一番面白いと思った映画。
それは……
「ジュラシック・パーク」だった。
あまりにも王道すぎて、いうのが恥ずかしくなるのだ。
映画が好きな人があつまると、どうしても映画のうんちくが言いたくなるものだ。
「何の映画が好きなんですか?」
と質問されると、映画好きの人はたいてい……
「スタンリー・キューブリックです」
「フランソワ・トリュフォーですかね」
など、ちょっと映画通でマニアックなものを言いたくなる。
私も「何の映画が好きなんですか?」と質問されるたびに、
「実は、ヒッチコックの裏窓が好きでして……」
などと、王道ではなく、あえて通な人が知ってそうなマニアックな映画を言って、
映画通であることを自慢するようなことを言っていた。
しかし、マニアックだ。
彼らが活躍したのは60年代で、その当時のカラーフィルムは今見るとどうしても質が劣り、映画にあまり興味がない人が見ても、面白いと思うかどうか微妙かもしれない。
1950年代から1960年代の古い映画をデジタルで育った私たちが見ると、どうしても質が劣っているように感じ、特撮シーンなど、ちゃっちく見えてしまうのだ。
学生時代に死ぬほど映画を見まくっていた私は、2000年代の映画から1940年代の映画まで、ほぼ満遍なく見ていたつもりだ。
古い映画を見ると、どうしても時代の違いからかストーリーについていけなくなり、途中で飽きてしまう映画もあった。
古典的な名作と言われるものでも今見ると古かったりする。
しかし、ある人の映画だけは何度見ても、いつの時代の人が見ても面白いと思うのだと思う。
それは、スティーブン・スピルバーグだった。
彼の映画はたいていでっかい怪獣が追いかけてくるシーンが多い。
「ジュラシック・パーク」も然り、「激突」や「ジョーズ」もそうだ。
怪物に襲われる映画は古今東西、言語の違いがあれど、どんな人でも理解できる物語が備わっていると思う。
私は何度「ジュラシック・パーク」を見ても、やっぱり面白いなと思ってしまうのだ。
しかし、あまりにも王道すぎて
「一番好きな映画は何ですか?」と聞かれるたびに、
「アラビアのロレンスですかね……」
とちょっと、マニアックなことを言って、ひけらかしている自分がいた。
言えない……
浴びるように映画を見続けて、一番面白いと思った映画が「ジュラシック・パーク」だなんて言えない……
しかし、とあるライティング教室で文章を書く極意を学び、こうして毎日書く習慣をつけていると、やはり王道のものを作れる人はすごいなと思うようになり始めた。
文章もマニアックな書き方ではなく、誰でも普遍的に理解できるように書ける人が一番すごいのだと思う。
ベストセラー作家の東野圭吾さんなんて、安易で平凡な文体しか使っていない。
頭がいい人向けの文章を書いているわけではないのだ。
誰でも多くの人の心に届くように、あえてわかりやすい文体で書いているのだと思う。
実際に、自分も文章を書き始めて、誰でも普遍的に共感できるような文章を書こうとするのは難しいと痛烈に感じるようになり始めた。
自分が面白いと思うものでも、他人からしたらどこが面白いのかわからない
ということはよくあるものだ。
毎日、ブログを書くようになってから、そのことが痛いほど感じるようになった。
やっぱり、王道だけど、王道を作り続けられるクリエイターの方が一番すごいと思う。
どうやったら普遍的に人に共感されるような文章が書けるようになるのか?
そういったことをこれからも研究していくしかないのだろう。
やはり、王道だけど王道を貫き通せる人はすごい。
「好きな映画は何ですか?」という質問に対し
「ジュラシック・パークですかね」
と自信を持って言えるようになれたらと思う。