ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

1日の大半をSNSに費やしてしまう人が、もしこの映画を見たら、今すぐ本を読まずにはいられなくなるかもしれない

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「次は新宿〜新宿」

私は人でごった返している満員電車に乗りながら、都心の方に向かっていた。

東京では朝の7時から9時までは通勤ラッシュだ。

おじさんから中高生までがひしめき合う電車内の中で、私はつり革に手を当て、

駅に着くのを心待ちにしていた。

 

東京都内、毎朝繰り広げられる満員電車への乗車はもはや戦場だ。

パンパンに膨れ上がるほどの乗車率の電車内にいざ、勇気を振り絞って乗り込むのは、根性がいる。

電車内に入れてもぎゅうぎゅう詰めの中、じっと駅にたどり着くのを耐えなければならない。

あ〜まだかな、まだかな。

 

そう念じながらいつも私は満員電車に乗っている時間を過ごしていた。

ウォークマンを聴く人、本を読む人……電車の中での過ごし方はいろんな方法がある。

 

しかし、ほぼ95パーセントと言ってもいいかもしれない。

ほぼ全ての人が必ずと言っていいほど、電車内でスマホをいじっている。

数分という単位ではない。

目的地までの30分間、ずっとスマホをいじっているのだ。

 

そういう私もスマホをいじるスマホ中毒者の一人だ。

暇さえあれば、スマホを見つめてしまう。

最近だと、どれだけ記事のPV数伸びているかな? などが気になって、ついついスマホの画面をチェックして、ブログのPV数を気にしてしまう。

 

SNSのタイムラインを見ては、どんな人が、どんな投稿をしているのかが気になって仕方がない。

 

時間の無駄だとはわかっている。

しかし、バックの中にスマホがあるとつい気になって開いてしまうのだ。

 

よく考えれば、今の時代、電車内で読書する人など、ほとんどいないのではないかと言うくらい、スマホをいじっている人が多い。

ほぼ全員じゃないかと言うくらい、電車内にいる人、みんなじっと下を見つめながらスマホをいじっているのだ。

 

私も同じだ。

スマホ中毒者だ。

時間の無駄だとわかっててもどうしてもやってしまうのだ。

 

私はそんなスマホに振り回されている自分に嫌気がさし、一時期、スマホの電源を切り、家に放置して過ごしたことがあった。

 

結局、一週間しか続かなかった……

 

スマホがないと情報をキャッチできないのだ。

今の時代、ニュースなどもテレビや新聞ではなく、スマホで情報を手に入れる人も多いかもしれない。

テレビのニュースを見るよりも、ツイッターのタイムラインに流れてくるニュース投稿を見ていた方が、リアルタイムで情報を手に入れることが出来るのだ。

 

そして、何よりもスマホがないと友人たちとの会話についていけなくなるのだ。

「あいつ今、〜やってんだって」

「昨日、〜したって本当?」

 

ほとんどの人が、前日のツイッターInstagramの投稿を読んでいるという前提で会話が進んでいくのだ。

 

きちんとツイッターのタイムラインをチェックしていないと友達同士のグループから外れてしまう。

これは中学から高校生の間で、なおさらだと思う。

 

今の時代、みんなツイッターInstagramを常に更新していないと、友達を作ることさえできないのだ。

 

私も何度も、スマホなんていらない。

スマホを見ている時間があったら読書に費やした方がいい。

そう思って、スマホ中毒症状を克服しようと試みたが、やはりスマホがないと生きていけない気がして、結局常に持ち歩いてしまっていた。

 

スマホが普及し始めた2009年あたりから、一気に本を読む人も減ったと思う。

 

日本人の47.5パーセントが月に一冊も本を読まないのだ。

識字率がほぼ100パーセントの先進国にも関わらずだ。

 

みんなスマホをいじっている。

確かに本を読むよりもスマホでサクッと情報を仕入れた方が簡単だし、時間もかからない。

 

私も大学時代は、論文を書くための情報をほとんどネットから手に入れていた気がする。

 

しかし、こんなんでいいのか? と思う節が常にあった。

自分の生活の大半をスマホに費やしていていいのか?

時間の浪費なのではないか?

そんなことを思っていた。

 

スマホをイジる時間があったら、本を読んだほうがいい。

本からの方が有意義な情報を手に入れられる。

そう頭ではわかっていても、どうしてもスマホから情報を手に入れてしまう自分がいた。

 

 

そんな時、とある一冊の本にまつわる映画と出会った。

最近お世話になっている本屋さんの人が、やたらと絶賛している映画だった。

 

それは、本のあり方を教えてくれる映画でもあるらしい。

 

私はずっとこの映画は気になってはいたが、パッケージからくる妙な暗いイメージから、いつか見ようと思って、ずっと先延ばしにしていた。

 

本についての物語?

なんだそれ?

そんな風に思って、適当にスルーしていたのだと思う。

 

しかし、最近になってライティングを始め、インプットのために本を読むようになってから、本から手に入れる情報の大切さを感じるようになってきた。

 

スマホだと、どうしても情報の断片しか手に入れられないのだ。

サクッと流し読みしてしまうため、手に入れたい情報だけがさっと頭の中に入れるだけで、その背景にある情報を見落としてしまうのだ。

 

記事のネタを探すのは、ネットよりも本からのほうが脳みそのストックが潤うと痛感し始め、私は本の大切さを感じるようになった。

 

そのためか、最近妙にこの映画が気になるようになったのだ。

何だ本の物語って?

 

TSUTAYAに行ってその映画を探してみると、本にまつわる物語と聞いていたので、私は人間ドラマのコーナーに置いてあると思っていたが、SFコーナーにその映画が置いてあった。

どうしてSFなんだ?

 

私は気になって仕方がないので、一度その本にまつわるSF映画を見てみることにした。

 

DVDを再生し始める。

 

なんだこのアウトローな世界観は……

大丈夫かこの映画……

 

私は序盤、正直そう思っていた。

まるで、アウトロー集団が活躍するマッドマックスのような映画にしか見えなかったのだ。

北斗の拳の世界観だ。

世界崩壊後、狂った人たちが略奪を繰り返し、密かに生き延びているアウトローな世界がそこにはあった。

 

 

ちぇ! 外れか。

私はそう思った。

 

学生時代に映画を年間350本以上見ていた私は、映画に感動しやすい性格のためか、どんな映画を見ても大抵は面白いと感じてしまうところがある。

 

しかし、この映画は前半は正直、そんなに面白い展開があるとは思えなかったのだ。

映画の世界観的にも、ビジュアル的にも自分の好みとは違っていた。

 

このままタラタラと物語が展開していくのかな……

そんなことを思いながら映画を見続けていた。

 

すると前半30分くらいで不思議な感覚が起こった。

それは主人公の旅人がどうやら本を抱えながら西に向かって旅をしていることが判明するあたりだ。

 

敵のボスもどうやら必死こいてその本を探し求めているらしい。

 

それは人類の救いにもなるかもしれない本だったのだ。

人類を破滅に導くきっかけにもなった本なのだ。

 

私は中盤からこの映画に夢中になってしまった。

まるで映画を見ているのに、図書館を走り回るような感覚がしていた。

 

そうか、本ってこういう存在だったんだ。

本は人類にとってこうあるべき存在なんだ。

 

私はその知識の体系がまとめられたSF映画を夢中になって見てしまっていた。

気づいたらエンドロールの最後まで見ていた。

 

感無量。

 

私は今すぐにでも本を手にとって、読書を始めたい気分がしていた。

 

そうだったんだ!

 

 

紙に印刷された本が、人類を前進されてきたんだ。

いつの時代も、世界を変えていくのは本だったんだ。

そんなことを思った。

 

 

本は人々に恩恵をもたらすと同時に、時には災いをももたらす。

この映画で描かれていた本についての話に私はとても心動かされていた。

 

確かにその通りなのかもしれない。

今世界中で起こっている戦争も、よく考えたらとある一冊の本が発端なのだ。

 

長い年月をかけて語り継がれていたその本は、人種の違いを生み出し、対立のきっかけも生み出してしまったのだ。

 

私は、この映画で描かれていた本のあり方を見て、とても考えさせられた。

いつの時代も人々を前進させるのは本なのだと思う。

 

 

その深い深い本にまつわるその映画は、私にとって大切なものになった。

スマホばかりいじっていた私は、この映画を見ることがきっかけで、本の重要性を改めて再確認できたと思う。

 

 

読書好きの人こそ、この映画は一度は見た方がいいのかもしれない。

あるいは、読書をほとんどせず、スマホばかりいじっている昔の自分のような人こそ、この映画だけは見てみてもいいかもしれない。

 

きっと本の大切さを痛感するだろう。

今世界中で起こっている戦争も、とある一冊の本が原因なのだ。

その事実から目をそらしてはいけないのだと思う。

 

ザ・ウォーカー」はいつしか私にとって、本のあり方を教えてくれる大切な映画になっていた。

 

 

 

 

 

 

紹介したい映画

 

ザ・ウォーカー」 2010年  アルバート・ヒューズ アレン・ヒューズ監督

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会の中で、どこかしら孤独を抱えている人こそ、映画「3月のライオン」だけは観たほうがいい

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「負のオーラ出ているよ」

親に子供の頃から私はよくこう言われて育った。

 

「また負のオーラ出てる」

「本当に周りの人をネガティブにするからやめて」

そんなことを周囲からよく言われていた。

 

私は子供の頃からとにかくネガティブ思考だった。

「こんなことうまく行くはずがない……」

「自分なんてダメだ」

と考える癖があり、どうやらそのネガティブ思考が周囲に伝染するらしい。

 

「なんで君はいつも暗そうにしているんだ」

学校の担任にもよく言われていた。

 

なんでなんだろうか?

私はクラスの中でも、とにかく周囲を明るくする華のある人を見て、ずっと憧れを抱いていた。常にポジティブ思考で明るい性格の人の周りにはいつも人が集まってくるものだ。

私のように根っこからネガティブ思考の人には誰も近づいてこない。

 

ポジティブに考えなきゃ。

なんでもうまくいくと考えなきゃ。

そんなことを思っていた。

 

 

今思うと、私が常にネガティブに考えてしまうのは、自分を傷つけないようにするための防衛手段だったと思う。

最初から物事をネガティブに考えとけば、うまくいかなかった時に、自分を傷つけずに済むからだ。

どうせうまくいかない……

そう思っていた方が失敗した時、自分へのダメージも少なくできる。

 

そんなことを思っていた私は、受験もどうせ失敗すると思って受けていたし、恋愛もどうせ失敗すると思って始めていたと思う。

 

とにかくネガティブ思考なのだ。

そんなネガティブ思考が自分の身から出ているせいか、

私の周りには人が近づいてこなかった……

 

自分なんかがいるせいで周りを不幸にする。

それならいっそのこと、自分の殻に閉じこもった方がいい。

 

そして、私は殻に閉じこもった。

朝から晩までひたすら映画を見続けて、誰とも会話をすることを拒んだ時期があった。

 

自分は周りに負のオーラを撒き散らす。

自分なんていない方がいい。

そんなことを思っていた。

 

大学を卒業して、社会に出ても、どこかしら自分は周囲の人を不幸にしているという感覚を根に持っていた。

仕事先でも

「なんでいつも暗いの! もっと明るく振舞ってくれよ」

そう上司に怒鳴られた。

 

自分がいるせいで、周囲を暗くしている。

そんな自意識をずっと抱えて生きていたと思う。

 

 

そんな時、ふと私は公開中の映画「3月のライオン」を観た。

原作は読んだことがなかった。

その日は特に予定がなく、見たい映画もなかったため、仕方なくその映画を見ようと思ったぐらいだった。

 

なんか可愛らしいタイトルにもかかわらず、どうやら将棋の棋士の話らしいという情報だけは知っていた。

将棋のルールぐらいは知っていたが、将棋の棋士の物語ってどんなものなんだ?

さっぱり予想がつかなかった。

 

昔、原作漫画を少しだけ読んだことがあった記憶があるかないかという感じだった。

それでも特に観たい映画はないし、私は仕方なく映画館で「3月のライオン」を観ることにした。

 

全く前情報を持っていなかった。

大した映画じゃないと思っていた。

 

しかし、結果から先にいうと大傑作だった。

もう超大傑作なのだ。

子役から活躍している天才役者の神木隆之介くんの演技がこれでもか! というくらい炸裂しているのだ。

その周囲にいるキャストも見事というしかない演技だ。

漫画原作だからだろうか、どこかしら漫画っぽい表現があったが、それがまたいい。

実写映画と漫画の世界観が見事に馴染んでいる気がした。

 

原作をきちんと読んでないため、役者の人がどれだけ原作に近づけているのかよくわからなかったが、原作を知らない人も知っている人も満足できる映画だと思う。

とにかく将棋の対局シーンが凄まじい。

あれほどまでに血肉を削って、プロの棋士は対局に挑んでいるのか……

私はスクリーンに映る、剣を使わない、命をかけた真剣勝負に身震いしながら観ていた。

 

そして、主演の神木隆之介くん演じる桐山零にどこか感情移入している自分がいた。

 

将棋の対局に勝っても、どこかで人をイラつかせ、家族も自分がいるせいでぐしゃぐしゃにしてしまう自分にイラ立ち、桐山は頭がパンクしてしまう。

 

ずっと孤独を抱えながらも自分がいるせいで周囲を不幸にしていくと思っていたのだ。

私はそんな主人公の桐山を見ていると、昔の自分を思い出しているようで胸が痛くなってきた。

 

私も同じだったのだ。

自分がいるせいで周りを不幸にしていくと心の底では思っていたのだ。

 

桐山はそんな自分と将棋に真剣に打ち込むことで決別していく。

 

 

「もっと自分自身を大切にしろ!!!!」

そう親友に言われ、自分の将棋を掴み取っていくのだ。

真剣に将棋に打ち込むようになると周囲の人間も変わっていった。

 

そんな桐山を見ていると涙が溢れてきた。

将棋の対局は長い時には何10時間にも及ぶ。

ただ座って将棋を指しているように見えても、棋士達には尋常じゃないくらいの体力が必要なのだ。

プロの棋士となると、長丁場が終わった頃には体重が2キロも減ってしまうことがあるそうだ。それほどまでにエネルギーと自分の体を削ってまで目の前にある将棋に打ち込んでいくのだ。

 

そこは精神的にも肉体的にも人間がやれる限界点までに挑むある種の格闘技なのだ。

自分の血肉を削り、肉体の破片を飛ばしながらも、一歩一歩将棋を指していく。

その一歩一歩の奇跡が積もってどちらかの勝敗が決まる。

私はそんな真剣勝負をする桐山を見ていると涙が溢れてきた。

 

人間何かに打ち込むと周囲の人間関係も変わってくるものだ。

私も世の中をさまよい歩いている時に、ライティングに出会い、毎日書くようになってから自分の周りに集まってくる人も変わってきたと思う。

 

今まで出会ったこともなかった人からメッセージが来たり、いろんな人と出会えるようになってきたのだ。

ライティングを始めたことには、まさかこんな風になるとは思わなかった。

 

「いつも読んでいるよ」

「今度飲もうよ」

などとメッセージをいただけるようになった。

ずっと負のオーラを撒き散らしていた私がである。

 

自分の殻にいつも閉じこもっていた私でも、真剣にライティングに打ち込むようになると自分の周りに集まってくる人も変わってきたのだ。

 

ある人は言っていた。

「書けば人生が変わる」

本当にそうなのかもしれない。

 

何かに打ち込んでいると自分の周りの人間関係も変わってくるのだと思う。

 

映画「3月のライオン」はそんなことも教えてくれる映画だった。

今まで孤独を抱えてずっと一人で生きてきた桐山は、将棋に真剣に打ち込むことで周囲の人も変えていった。

 

自分の孤独に打ち勝つには、自ら行動するしかない。

そんな力強さを教えてくれる映画でもあるのだ。

 

前編だけでも大傑作なのに「3月のライオン」は、4月に後編があるそうだ。

これは見に行くしかない。

 

今から後編が楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書くことも「数こそ質なり」

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「書けない……」

それは最近の私の悩みだった。

とあるライティング教室と出会い、書くことを一から学んでいったが、どうしても書ける時と書けない時のバラつきがある。

 

 

私は元々書くことは好きだった。

大学時代もいつも、脚本ばかり書いていた。

しかし、一介の映画人になったふりをして、自分の殻に閉じこもりながら書いていたのだろう。

どんなに努力しても映画祭などで私の映画が評価されることはなかった。

 

書くことにおいても、人一倍努力はしてきたつもりだった。

しかし、プロ級のすごい濃厚で、面白い記事を書くライターさんには勝てなかった。

 

なんでこんなに面白い記事が書けるんだろう……

なぜ、これほどバズを起こせるのだろう……

 

私はフェイスブックに流れてくる面白い記事を見るたびにそう思っていた。

私の文章といえば、どんなに頑張っても1万pvもいかなかった。

 

どんなに努力しても無駄なんじゃないか?

そんなことも思った時期もあった。

 

努力は量か? 質か?

私は中学の頃からそのことを悩んでいたのかもしれない。

 

努力というものは難しいものだと思う。

努力するのはもちろん大切なことだが、努力しているだけだと、

「これだけ頑張ったんだから自分は大丈夫だろう」

という安心材料にもなりうるのだ。

 

努力をきちんと正確にやっているライターさんは、量以上に質を大切にしているんじゃないか?

才能のある人は週に一回だけども、きちんと時間を作って、質の高い記事を書いている。

自分みたいに毎日ダラダラと量をこなしているわけではない。

そう思っていた。

 

 

努力だけでは才能のある人には勝てない……

努力というものの難しさを最初に痛感したのは、私が中学の頃だったと思う。

 

 

中学2年まで私は一切勉強というものをしてこなかった。

子供の頃から文字の読み書きが苦手で、本を年間1冊も読んでこなかったのだ。

読みたくても読めないのだ。

文章を読んでいると、文字に酔ってきて、気持ち悪くなってしまう。

 

自分は読み書きが苦手なバカなんだから仕方ない。

そう投げやりになっていた私は小学校から中学2年まで、ほとんどペンを持ったことがなかった。

 

そんな時、ふと同級生の友達に「塾の体験授業に出ないか?」

と誘われた。

 

塾? 

ま、もうそろそろ部活も引退で暇になるから、塾でも覗いてみるか。

そんな風に始めは気楽に考えながら、ひとまず私は塾の体験授業に参加することにしたと思う。

 

体験授業が始まり、目がギラッとしたいかにも怖そうな講師が現れた。

その講師が発した言葉に私の人生観は変えられたのかもしれない。

 

「知らないということは恥なんです。漢字でもなんでも、わからないでいるのは恥ずかしいことだと思う。勉強できる時期には、きちんと勉強しろ!」

 

私はポカンとなっていた。

知らないということは恥なんだ。

これまで私は小学生レベルの漢字が読めず、クラス中の人から変な目で見られても、

自分はバカだから仕方ないと思っていた。

 

だけど、知らないということは恥ずべきことなのか。

情けないことだったんだ。

そう思った私はそれから一気に勉強をするようになった。

 

勉強を始めても小学生レベルの算数もほとんどわかってないレベルだった。

私は小学生用の漢字ドリルから全てやり直すことにした。

英単語もほとんど覚えてこなかったので、毎朝時間を作って暗記することにした。

 

一日何時間勉強していたのだろうか?

多分多い時には10時間以上勉強していたと思う。

受かりたい高校があったというわけではなかった。

ただ、勉強が面白いことに気づけたのだ。

これまで文字の読み書きが苦手だと言って、逃げていたが、きちんと勉強すると学問の世界はこんなにも奥深いんだなということに気づき、私は勉強にのめり込んでいった。

 

塾には午前中から通い、朝から何時間もかけて英単語を暗記していった。

私の成績は伸びていった。

しかし、ある程度限界までくると横ばいになっていった。

 

なんでこれ以上伸びないのか?

私はそう悩んでいた。

友人は「無駄な勉強をしすぎなんじゃない?」と言っていた。

 

私はとにかく圧倒的な量が大切だと思い、物覚えが悪い私は、何をやるにも人の倍の時間がかかるため、英単語の学習も3時間以上費やして、暗記していった。

量をこなして安心していたのかもしれない。

 

それでも私は量をこなしていった。

自分にはこの努力で、頭のいい人に打ち勝つしかない。

そう思っていたのだ。

 

頭のいい人達は中学3年の夏休みまで、部活に専念し、忙しい部活動の合間でも集中して、質の高い勉強をしていた。

私はといえば、部活のスタメンに入れなかったこともあり、春には引退していたのだ。

時間だけはあった。

頭のいい人よりも時間をかけて努力しているつもりだった。

 

しかし、私は第一志望の公立高校には落ちた。

なんとか私立の学校に受かったはしたものの、努力だけでは頭のいい天才肌の人には勝てなかった。

 

努力するだけじゃダメなんだ……量をこなすだけでは天才肌には勝てない。

そんな諦めの精神を感じてしまったのかもしれない。

 

数年後、ライティングの魅力に気づいてこうして文章を書くようになってもその考えは私につきまとっていた。

量をこなすだけではダメなんだ。才能のある人には勝てないんだ。

そう思っていた。

 

そんな時、この本と出会った。

タイトルを見た瞬間ビビッときた。

これだ。

最近、私が思い悩んでいた答えがここにある。

そう直感的に思った。

 

タイトル名は「数こそ質なり」

人の10倍以上の手術数をこなす心臓外科医のプロフェッショナルがまとめた努力の仕方がそこにはあった。

 

心臓外科医は職人だと言われている。

繊細な心臓にメスを入れるということは、何よりも経験値が必要なのだ。

その経験値を身につけるには質以上に量が大切だという。

 

「数は知識を凌駕する。天才でない限り数をこなすのは必須」

 

職人の技術が必要な心臓外科医で、同期の中でも差が出てくるのは数をこなせたかどうかなのだ。

手術の質よりも数が大切なのだ。

著者の新浪先生は、日本の心臓外科のレベルの低さを痛感し、あえて量をこなせる環境を追い求めて、心臓外科手術の数が多い、オーストラリアの病院に勤務する道を選んでいった。

そこで、職人技を身につけるには質以上に量が大切だと痛感したという。

 

「数こそ質なり」

この本の中では何度もそれが登場する。

 

私はライティングにおいても、努力以上に質が大切だと思っていた。

しかし、数こそが質なのかもしれない。

人一倍書いて書きまくって、実戦経験を積んで数をこなすのが、才能のある人に勝つ唯一の方法なのだと思う。

 

それはどんなことにも言えるのかもしれない。

中学の頃に、私が受験に失敗したのも、質も大切だったが、過去問を解く量が足りてなかったのだ。

実戦での経験値が足りなかったのだ。

営業やエンジニア、どんな仕事に就くにしても、実際に手と足を動かして、実践的に仕事を学んでいくことが何よりも大切なのだと思う。

 

 

練習よりも何よりも実践。

数が知識を凌駕する。

本当にそうなのだ。

 

ライティングにおいても、質以上に量だったのだ。

そう思った私は、今日もライティングに励むことにしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進路に迷っていた中学時代の私は、近所の町医者から人生における大切なことを学んだのかもしれない

 

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「ガシャン」

私は自転車から転げ落ち、顔面から地面に叩きつけられていた。

 

自分の中にあった視界が、一瞬凍結していた。

ぐるっと視界が回ったかと思うと、目の前には地面があったのだ。

一旦停止した脳の思考回路が再び動きを始めた。

 

顔の辺りから痛みを感じる。

どうやら血が吹き出しているようだ。

 

私は自転車に乗って坂を下りている時に、道路の溝にタイヤを乗り上げてしまい、アクロバットにも盛大なスキージャンプを決めてしまったようだった。

 

くるっと一回転して頭から地面に叩きつけられたのだ。

気づいたら私の周囲には、血が溢れ出していた。

 

やばい。

私の脳は軽く脳震盪を起こし、意識が朦朧としていたが、これだけはわかった。

この血の量はやばい。

 

私は何が起こったのか状況を把握できなかった。

それでも一旦家に帰り、頭を整理しようと思った。

 

家に帰ると母親が顔面蒼白していた。

「あんた一体何をやったの?」

後から聞いた話だと、顔面血だらけの男が、家の玄関の前で立っていたのだという。

 

母親は急いで病院に掛け合ってくれた。

しかし、時刻は午後8時過ぎだ。

この時間だと、ほとんどの病院がやっていない。

しかも、その日は木曜日だった。

 

木曜日は病院は学会のため、全国的に休みのところが多い。

 

「ダメだ。どこもやってない」

私は血だらけの顔を抱えたまま途方に暮れていた。

さすがにこのまま塾に行くのはまずいな……

救急車呼ぶしかないのかな。

そんなことを思っていた。

 

「あ、あった」

母親が近所にある、とある小さな病院を見つけた。

そこは内科から外科まで全て揃っていた。

 

電話してみると診察時間は過ぎているのに

「今すぐ来てください」と掛け合ってくれたのだ。

 

私は母親に連れられ、その近所にあった小さな病院に向かうことにした。

車に乗って向かった。助手席は血だらけになっていた。

 

後で拭かなきゃな……

 

そんなことを思っていると、気づいたら病院の前についていた。

そこは自転車でも家から数分の距離にある小さな病院だった。

 

「こんな辺鄙なところに病院があったんだ」

そう思いながら、病院に駆け込んだ。

 

室内に入ると理事長の方が待ち構えていたらしく、すぐに治療室に案内された。

ベッドに横たわり、私の視界にはガーゼが敷かれた。

 

「チクっとするけど、我慢してね」

 

そう言われると、どうやら細長い管が、カパっと開いた顎の皮膚のところに挿入されていった。

 

たぶん麻酔を注射しているのだろう。

私の頬の神経がどんどん麻痺していくのがわかった。

痛みも感じなくなった。

「傷口が開いているから、これから縫っていくね」

理事長は細長い糸を手に持って、私の顎にあててきた。

 

え? 縫うの……

私はまさか顔面を縫うほどの怪我をする羽目になるとは思わなかった。

 

なんであの時、立ち漕ぎをしながら坂を駆け下りたのだろうか……

安全運転を心がけていればこんなことにはならなかったのだ。

 

あ〜これで私の顔面も縫われて、ブラックジャックみたいになるのか。

そんな後悔の念に駆られていると、チクっとする痛みを感じた。

 

麻酔が効いていても、自分の皮膚が縫われていっているのがわかるのだ。

私は視界に敷かれたガーゼ越しから、理事長の真剣な眼差しを見ていた。

理事長はものすごい勢いでさっと縫っていく。

 

まるで職人のようだった。

「オーケー。終わったよ」

理事長は私の声をかけた。

 

「2、3日の間は痛みが続くと思うけど、7日もすればガーゼは外れるでしょう。傷口が大きかったので5針縫いました」

 

 

5針も縫ったのか……

私はショックだった。

 

中学生の段階で顔に傷だらけになる重傷を負ったのだ。

たぶん、ずっとこの傷を人に見られながら人生を歩んでいくことになるんだなと思い、悲しくなってきた。

 

「なるべく、傷が残らないように縫っておきました。一週間後、ガーゼを外して確認しますね」

 

私は麻酔がまだ効いていて、頭がボケっとしながら、家路に着いた。

「5針も縫ったんじゃ、傷跡は残るね」

母親はそう言っていた。

 

あ〜、中学生にしてブラックジャックみたいになるのか……

 

 

次の日、顔面に包帯を巻かれながらも私は学校に登校した。

念のため担任に報告すると

「5針も縫ったのか? じゃ、一生分の傷が残るな……かわいそうに」

そんなことを言っていた。

 

やはり、深い傷跡が残るのか。

なんであの時、自転車でスキージャンプなんてしてしまったんだろう。

そう悲嘆していた。

顔面に包帯を巻かれながら、一週間が過ぎた。

さすがに傷口が痒くなってきたので、早く包帯が外れないかと心待ちにしていた。

 

私は今度は歩いて近所にある病院に行くことにした。

来るのは二回目だが、本当に小さな病院だなと思った。

しかし、小さい病院なのに、午前中にもかかわらず患者の数は多かった。

 

なんでこんなに人が多いんだろう。

大学病院に行けばいいのに……

そんなことを思っていた。

 

私は看護師さんに呼ばれて診察室に入っていった。

そこには白衣姿の理事長が椅子に座っていた。

 

「やあ、痛みは引いたかい?」

理事長は私の顔面に巻かれた包帯を外して行った。

傷口に覆いかぶさっていたガーゼを外す。

 

「うん。綺麗に治ったね」

私は鏡を見た瞬間、驚いた。

 

全くの無傷だったのだ。

え? なんで傷跡が残ってないの……

私は驚いた。

5針も縫ったのに、傷跡が残らないなんて奇跡としか思えなかったのだ。

 

理事長曰く、どうやら傷跡が残らないようにうまく縫い合わせてくれたらしい。

普通、顔や皮膚の傷は糸を上から覆い被せるように縫っていくが、

理事長は皮膚の内側で、皮膚が重なるように縫ってくれていたのだ。

 

縫っている場所が皮膚の内側のため、顔の表面に傷の後が残らなかったのだ。

 

なんだこの職人技は!

この理事長いったい何者なんだ。

 

ニコッと笑う理事長を見ながら、私はそう思った。

 

 

帰りに治療費を払うため、待合室で待っている時に、ふと棚に置かれている雑誌が気になった。

 

真ん中のページには付箋が貼ってあるのだ。

そのページには理事長の姿があった。

 

「離島の診療所で活躍する外科医」

 

その雑誌には、この小さな病院を支える理事長の経歴がこと細かく載ってあった。

 

理事長は名門の早稲田大学に通うも、3年の時に中退。

そこから猛勉強の末に医科大に入学したという。

医科大を卒業して救急救命の最前線で活躍したのちに、とある離島の診療所で救命設備が不足している中、懸命に島民のために走り回っている姿がそこにあった。

まるで、本物のDr.コトー診療所である。

 

離島の診療所の後は、都内の救命救急で患者のために懸命に治療し、

都内の病院は設備が充実しているが、患者一人ひとりに十分な医療環境が行き届いてない……島のように患者と一対一で治療にあたりたいと思い、小さな町の病院を作ったという。

 

小さな病院にもかかわらず、内科から外科、皮膚科、眼科まで全て揃っていたのは理事長の経歴が関係していたのだ。

都内の救命救急や離島の診療所の経験から、ほぼ全ての体の不具合を把握できる経験値があったのだ。

 

 

私はなんだかすごい人に治療してもらっていたんだなと思った。

 

次の日に学校に行っても、包帯が巻かれていたところがあまりにも無傷のため、

「今まで仮病使ってただろう!」と言われるほど傷口が綺麗に整っていたのだ。

 

その町に密着している小さな病院の理事長は、早稲田に通うもこのままでいいのか……と自問し、結局大学を中退してまでも医者の道を進んでいったという。

医科大を卒業したのちも、すぐに大学病院に配属されるわけではなく、島の離島や救命救急の最前線を走り回っていたのだ。

普通のエリートコースの医者なら、卒業したのちに大学病院に配属されるのが普通だ。

しかし、理事長は何度も遠回りしながら今の町に密着した最先端の医療を提供できる病院を作り上げていった。

 

 

小さな小さな病院だが、治療のうまさが評判を呼んでか、都内中からわざわざ時間をかけてその理事長がいるクリニックに通う人も多いという。

 

人の何倍も回り道をしていったから、理事長は町に密着した最先端の医療現場を作り上げることができたのだと思う。

木曜日も空いているクリニックは全国的にも珍しい。

少しでも患者を救いたいという理事長の思いがすごく伝わってくる。

 

 

私は同世代の人に比べてだいぶ遠回りしている。

ストレートに学校を出て、働き出していたら、社会人歴が2年目以上になっていてもおかしくない。

しかし、私は遠回りに遠回りを重ね、4月からようやくちゃんとした社会人としてスタートすることになる。

 

働いている同世代の人を見ると、後ろめたい気持ちになることはあった。

なんで私は未だにフリーターのプー太郎なのか。

きちんと働けないのだろうか。

 

一回、就職したものの、午前4時まで続く労働と、度重なる睡眠不足で頭がおかしくなり、結局辞めてしまったのだ。

精神的にも疲れた私は、なぜかよくわからないがラオスの山奥まで飛んでいった。

 

人よりも何倍も遠回りして、なんとか日本に帰ってきて、記事を書いたりしている。 

遠回りを重ねて、ライティングの魅力にも気づけたのだ。

 

近所にあるクリニックの理事長も人の倍以上遠回りしていって、本当のやりたいことを見つけていった。遠回りして行った分、技術を磨いていき、人の何倍もの経験値を積み重ねていったのだと思う。

 

 

私は正直いうと、今だに自分が何になりたいのかよくわかっていない。

しかし、それでもいいのではないかと最近は思う。

 

人の何倍も遠回りしてもいいのではないか?

 

遠回りした分が、その人の財産になる。

そんな気がするのだ。

 

 

 

 

カンボジアで50人近くの現地人に囲まれて乗ったバス移動が、私にライティングの楽しさを教えてくれたのかもしれない

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ホーチミン行きのバスのチケットをお願いします」

私は滞在しているカンボジアシェムリアップのゲストハウスで、ベトナム行きのバスのチケットを購入していた。

 

旅を始めてからまだ一週間ほどだった。

これから一月ほどかけて、カンボジアベトナムラオス、タイのゴールデンルートを一周する予定だ。

 

あまりのもアンコール・ワットを拠点とするシェムリアップという街が居心地よくて、

始めの予定よりも多くの日数を滞在してしまった。

 

アンコール・ワットも通算二日かけて、すべてのルートを回った。

旅行代理店でマウンテンバイクをレンタルし、遺跡を回るのはまるでインディー・ジョーンズの世界だった。

 

あまりにも居心地が良すぎて、このままではカンボジアから抜け出せなくなる!

そう思い、私は意を決して、次の国ベトナムを目指すことにした。

 

ベトナムホーチミン行きのバスは安くて19ドル、VIPバスだと30ドルぐらいになりますが、どうしますか?」

 

ゲストハウスの方にそう聞かれ、私は迷わずに一番安いベトナム行きのバスのチケットを買うことにした。

後の旅のことを考えると本当にお金がなかったのだ。

全財産8万円ほどだ。これであと1ヶ月暮らさなければならない。

東南アジアは物価が安いというが、食費や宿代を含めたら否が応でも1日2000円はかかってしまう。

私はずっと一泊3ドルほどの安宿に泊まってきたが、それでも節約をしなければ、お金がもたない。

 

VIPバスだとエアコン付きで、快適と聞いていたが、貧乏旅行を続けているので仕方ない。

私は一番安い国際バスに乗ることにした。

 

東南アジアはバックパッカー初心者にやさしい国だと言われている。

旅のルートが確立されていて、旅人は同じような街をまわり、同じように安宿が集まる場所で宿を探すことになる。

宿に泊まっていると世界中のバックパッカーが集まっているので、旅の情報交換が可能だ。その上、どの国も国際バスが通っているので、ルートや道で困ることはほとんどない。

 

 

私は翌日、朝の5時に起き、バスが停車しているポイントに向かうことにした。

ピックアップのトゥクトゥクに乗って、シェムリアップの郊外に向かうと、

そこには一台のボロボロのバスが停車してあった。

 

まさかこのバスじゃないだろ……

私はそう思った。

 

しかし、案の定トゥクトゥクのおじさんは

「このバスだよ!」

と言って、ボロボロのバスを指さしてきた。

 

このバスでベトナムまで向かうのか……

私は不安と期待に苛まれながら、言われた通り、バックパックを荷台に乗せ、バスに乗ることにした。

バスの中はいたって快適だった。

外から見ると、泥だらけで汚いバスだなと思ったら、中は広々としていて快適なのだ。

 

私は発車まで30分ほど暇をつぶしていた。

他の旅人が乗ってきたら行き先が自分と同じだとわかって安心なのだが……

誰一人として旅人が乗ってこない。

 

乗ってくるのはみんなカンボジア人だ。

しかも、虫のつまったビニール袋や竹の棒を持って乗車してくる。

30人以上カンボジア人が乗っているバスの中、外国人は私一人だった。

 

なんだこの状況は!

なんで30人以上のカンボジア人に囲まれながら、バスに乗っているんだ!

 

私たちが乗ったバスは時間が過ぎてからゆっくりと発進した。

ギコギコ言いながら道中を進む。

カンボジアの道路は毎朝大量に降るスコールの影響で、泥だらけだ。

交通もほとんど整備されていない。

 

ガタンゴトンと揺れながらバスは進んでいった。

 

本当にこのバス目的地に着くのかな?

そう思いながらも、今更どうしようもないので、バスの中でじっと揺れに耐えることにした。

 

バスが発進しだして数分後、突然、道の真ん中で停車しだした。

なんだ? と思ったら現地のカンボジア人はどんどん乗車してくるのだ。

 

なんでバス停で乗らないんだ!

と私は思ったが、バス停だろうが道の真ん中だろうが、バスが来たら手を上げて呼び止めるのがカンボジア流のバスの乗り方らしい。

 

20分に一回はこんな感じの途中停車が続いていた。

何人途中から乗ってくるんだ……

 

気づいたら私は50人近くのカンボジア人に取り囲まれていた。

もちろん旅人は私一人だ。

 

みんな世間話で大騒ぎだった。

バスの中はカンボジアの歌謡曲がずっと流れていた。

 

頼むからカンボジア語の歌謡曲だけは止めてくれ……

眠れないじゃないか……

私は耳をふさぎながらそう思っていた。

 

約3時間ほど経っても一向に目的地に着く気配がない。

国境に向かっているのかさえ不明だった。

本当に大丈夫かな。

私は不安になってきた。

 

バスの窓から道路標識を眺めていると、この先プノンペンと書かれた標識を見つけた。

あ! このままいけば首都のプノンペンか……

 

そう思った矢先、バスはその矢印とは反対に右折し始めた。

 

おいおい……どこに向かっていくんだ。

 

私は意を決して、バスの運転手に行き先を聞いてみた。

持っていたチケットを見せて、「本当にホーチミンまでこのバスは行くの?」

と聞いたのだ。

どう考えても私の身の回りにいるカンボジア人はベトナムまで行くつもりはなさそうだった。

 

バスの運転手はニコッとしながら

「ノープロブレム」と答えていた。

 

本当にノープロブレムなのかよ!

そう思ったが、バスの中でひしめき合うカンボジア人の熱気に圧倒され、私は席につくことにした。

 

バスはそれから何度も途中停車して、現地のカンボジア人を乗せて行った。

バスが停車すると売り子が寄ってたかってくる。

みんなバスの窓から昼食を買って行った。

私も昼食を買うことにした。

 

なんかよくわからんライスが入った弁当だった。

明らかにライスの横にはコオロギらしき虫がセットで付いてきている。

なんでライスの横に虫があるんだ!

私には衝撃的だったが、カンボジアの奥さん方は美味しそうに虫を食べていた。

 

結局バスはそれから2時間ほどかけて、何もない荒野を進んでいき、ようやくプノンペンにたどり着いた。

 

「おい! 君ここだよ」

私はバスの運転手に声をかけられた。

え? まだベトナムに入ってないよ。

そう思ったがバスから出てみると、旅行代理店が目の前にあった。

 

どうやら私が持っているベトナム行きのチケットはプノンペンでバスの乗り換えがあったらしい。

どうりであのバスは現地のカンボジア人で賑わっていたのか……

 

私はやっと理解できた。

プノンペンの旅行代理店の前でベトナム行きのバスに乗り、私はカンボジアを後にすることにした。

 

 

約50人近くのカンボジア人に囲まれ、蒸し暑い車内でカンボジアの歌謡曲を聞きながらバスの揺れに耐えた経験は笑えるほど過酷だった……

しかし、今思うといい思い出かもしれない。

 

私は最近、毎朝ライティングをするようになった。

「書けるようになるには書くしかない」

そう言われ、毎朝コンテンツを書くようにしているのだが、

ライティングって、あの不安で苛まれたカンボジアのバス移動に似ているなと思う時が度々あった。

ライティングもある程度、着地点を決めてから書き始めているが、道中どこに転がって、どのような展開になるのか自分でも把握しきれないのだ。

ほとんど即興任せで書いているのだ。

 

私だけでなく、すべてのブロガーや記事を書いているライターさんも同じだと思う。

ある程度、着地点は決まっていたも道中どのような展開になるのかは把握できない。

自分でも思ってもみなかった展開になる時もある。

 

旅も同じなのだ。

目的地はある程度決まっていても、道中どのようなルートをたどり、どんな人と出会いながら旅が進んでいくのかその場でしかわからないのだ。

ほとんど即興任せだ。

 

だから、旅もライティングも面白いのかもしれない。

すべて即興的な出会いと出来事が蓄積されていって面白いものが出来上がっていくのだ。

 

私は毎朝のライティングを通じて、あの刺激と出会いに満ちた東南アジアの旅を思い出しているのかもしれない。

 

旅もライティングも自分でも予想しなかった出来事や出会いを大切にしたい。

そんなことを思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「普通とは?」というタイトルに惹かれて

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「普通とは?」

とある本屋さんでこのタイトルの雑誌を見かけた。

表紙は小松菜奈でどこかサブカルチャーくさい雰囲気を出している雑誌だ。

 

メイビーの「普通とは?」とという特集を読んだのは、去年の11月だった。

その頃、私はライティングの魅力に気づき、記事を書いては書きまくって、自分の才能のなさに憂いている時だった。

 

本当に面白い文章を書いている人は、その人の個性が文章にも滲み出っているものだ。

たくさんのバズを起こす人気のライターさんなどを間近で見ていると自分の才能のなさを感じ、憂いた気持ちになっていた。

 

空っぽの私が書いた文章など面白いはずがない……

そう思っていたのだ。

 

そんな時、ふとメイビーという雑誌と出会った。

タイトルと表紙からくるインパクトに私は一気に惹きこまれた。

 

「普通とは?」

 

それは私を含めた、ゆとり世代の多くが抱える悩みの一つかもしれない。

 

普通でいたくない。

人と違った自分でいたい。

 

どの人も心のそこでは「普通でありたくない」と思ったことがあると思う。

他者との比較する上で、グループから外れたくないという思いがあると同時に、普通でいたくないという生理的な欲求が人間にはあるのかもしれない。

 

私もそんな普通であることに後ろめたさを感じ、常に自分の承認欲求に振り回されてきた一人だった。

 

人と違うことがしたい。

何者かになりたい。

 

そう思っては、学生時代には映画を作り、一人でインドに飛び込んだりと、

常に刺激を追い求めてさまよい歩いていたと思う。

今思えば、ただ私は「普通であること」が異常なほどコンプレックスだったのだ。

 

「普通の顔だね」

「君の名前って普通だね」

と言われるのが何よりも嫌いだったのだ。

 

だからかもしれない。

この雑誌のタイトル「普通とは?」に妙に惹かれてしまったのだ。

私は記事ネタのインプットのためにもと思い、早速その雑誌を購入し、読んでみることにした。

 

それはミステリアスな雰囲気を漂わせる小松菜奈や水曜日のカンパネラ、根本宗子など普通じゃないトップクリエイターが「普通とは?」について語る特集記事だった。

 

私は電車でその雑誌を読んでいくに連れて、

普通っていったい何だろう? と考えてしまっていた。

 

この雑誌に登場するクリエイターの方々はどう考えても普通じゃない人たちだ。

そんな人たちが普通について語るのはどこか面白く、斬新な切り口だなと思ってしまった。

 

私は雑誌を読んでいくうちにあるページがとても気になってしまった。

あ!!!!

と思った。

 

知り合いの方の特集ページがあったのだ。

 

彼女はここまで大きくなってしまったのか……

私はそう思ってしまった。

 

彼女の隣のページには小松菜奈の写真がドンとあるのだ。

 

普通の初恋、普通じゃない恋……

という特集記事を見て、私はその彼女と出会った日のことを思い出していた。

 

 

その時、私は大学1年生の頃だった。

大学に入ったら好きなことをやろうと意気込み、自主映画サークルに入って映画ばかりを作っていた。

映画を作るのは面白かった。

多くの人と関わりながら一つの作品を作るのは、刺激的だ。

自分の頭の中にある世界観を目の前で形にしていくのがとても楽しかったのだ。

 

映画を作っては、TSUTAYAで映画を借りて、人を惹きつけるコンテンツについて研究していった。図書館にこもっては脚本を書いて、一介の映画人になったふりをしていたのだ。

大学時代に何かで頭角を出すと意気込んで、自分の殻に閉じこもっていただけなのだと思う。

 

そんな時、ある映画祭に自分の作品を出展することになった。

その打ち合わせを兼ねて、映画祭のミーティングに行くことになったのだ。

当日、そこには都内の大学の映画サークルが集まっていた。

みんな自分の作品を意気込みながら解説していた。

 

私はそんなクリエイターぶっている人たちを見て、

 

ここはもっとこうするべきじゃないか……

自分の世界観に良い浸っているだけじゃん……

などと、上から目線で見ていた。

 

自分はこの人たちとは違う。

人とは違ってた感性を持っていると思い込んでいたのだ。

(今思うと、だいぶ上から目線でウザいやつだ……)

 

そんな時、会場に去年の特別審査員賞をもらった、とある大学の女性が前に立っていた。

どうやら今度、自主的に映画館で上映をするので、その宣伝にミーティングを訪れていたという。

その女性が作った映画の予告編がスクリーンに流れてきた。

 

私はその予告編を見た瞬間、度肝抜かれた。

 

 

なんだこれ!!!!

 

 

そこには彼女しか作れない世界観があったのだ。

痛々しいほどに青春を輝かせる独特の世界観がそこにはあったのだ。

 

斬新な映像美、センスのあるセリフ回し、どれを見ても才能の塊のような人が撮った映像だった。

私はその映像を見た瞬間、

この人には勝てない……と思った。

 

 

私は呆然としたまま、ミーティングが終わった後にその映画を監督した彼女に話しかけてみることにした。

 

彼女はとある大学で哲学を学んできたらしい。

(どうりでセリフに哲学的な表現が多いなと思った)

 

本気で哲学者になろうと思ったが、大学3年生の時、ふと

「言葉だけはな表現しきれないものがある。映像なら言葉では捉えきれないものを表現できるのではないか?」

と思い立ち、自ら仲間を集めて自主映画を作っていったらしい。

驚くことに彼女の大学には自主映画サークルはなかったという。

すべて自分で一からサークルを作り上げ、映画を作っていってくれる仲間を集めて行ったのだ。

 

彼女の映画作りの背景を聞いていくうちに、この人はトンデモナイものを持っていると直感的に思ってしまった。

 

話をして10秒ほどで、彼女の背景にある痛々しいほどむき出しの感受性を感じ取ってしまった。

本当に才能の塊のような人だなと思った。

どう見ても彼女は「普通じゃない」人だったのだ。

 

私はその日から、なおさら映画作りにのめり込んでいった。

70分近くの自主映画を4ヶ月以上かけて作った。

大量にDVD をレンタルして、映画を見まくった。

自分の世界を表現しなきゃと思い込んでいたのかもしれない。

 

 

彼女が審査員特別賞を取った映画を真似て脚本を書いてみた。

脚本の評判は上々だった。しかし、実際に映像にしてみると、とてもじゃないが人に見せられる出来ではなかったのだ。

映画祭に応募してもどれも予選を突破することはなかった。

 

なぜだ!

なんで自分が作った映画は評価されないんだ。

そう思った。

 

私はずっと普通じゃない人に憧れていた。

自分なら何者かになれると思っていたのだ。

しかし、結局、何者にもなれなかった。

 

 

時が経ち、就職活動の時期が来て、周囲に流されるように就活をしていった。

大学入りたての頃は「就活なんてしない〜」と嘆いていたが、

結局、時が来て、社会の荒波に飲まれていくように就活していったのだ。

 

自分は一体何がしたいんだろ?

そうずっと思い悩んで不安だった。

 

映画祭で知り合った彼女は、どんどんプロの世界を駆け上がっていった。

ある雑誌では、彗星の如く現れた天才と称させていた。

 

私は結局、何者にもなれなかった。

そう思い、他人の眩しいまでに輝く才能を見て、後ろめたさを感じていた。

 

2年近くの時が経った今でも、メイビーの「普通とは?」という特集を見ている時に、同じな思いを感じてしまった。

もはや彼女は小松菜奈を主演にした商業映画を撮っていたのだ。

彼女は27歳のデビューだった。早すぎる。

 

新卒で入った会社を辞め、フリーターのプー太郎をしていた私は、

わずか数年でこんなにも差がついてしまったのか……

と思い、後ろめたい気分になっていた。

眩しいまでに輝く才能を見て、自分には無理だと思った。

 

 

 

そんな時だった。

ライティングの師匠のような人にこう言われた。

「書くようになるには書くしかない。今までの倍以上書くようにしてください」

 

 

私はもともと書くことは好きだった。大学も自主映画を撮っていた関係で、

脚本などものを書くということはしていた。

特にやりたいことも見つからず、世の中をさまよい歩いている時に、

ふと、とあるライティング教室に辿り着き、私はライティングにのめり込んでいった。

 

もう自分にはこれしかないと思ったのだ。

ある程度文章を書くことには慣れてはいたものの、上には上がいるものだ。

自分よりも大量のバズを発生させるような人がゴロゴロいた。

 

そんな人たちを見て私はまたしても、自分の才能のなさに憂いていた。

私はやっぱり何をやってもダメだ。

そう思っていた。

 

 

そんな時、ライティングの師匠に

「書くようになるには倍の量を書かなきゃいけない」

と言われたのだ。

「つべこべ言う前に手を動かせ! 何でもいいから毎日かけ!」

 

ひたすら「書け! 書け! 書け! 書け!」である。

私は何か書くことができない自分に聞く特効薬のようなものがあると思っていた。

しかし、出てきた答えは「とにかく書け!」である。

 

ああだこうだ言っても仕方がないので、私は仕方なく今までの倍の量を書くことにしてみた。

こうして無料ブログを立ち上げ、毎日きちんとコンテンツを作ることを日常にしていった。

初めの頃は、書くネタを探すのに苦労していた。

毎朝、記事を更新するために四六時中、記事のネタを探して世の中にアンテナを張っていかなければならないのだ。

 

すぐにネタが品切れてくる。

毎日悪戦苦闘しながら、なんとか2ヶ月以上続けてみた。

そして、私はあることに気がついた。

 

それは……

 

以前より他人の才能に憂いていない自分に気がついたのだ。

 

毎日、目の前にあることに無我夢中で自分の才能のなさに憂いている余裕がなくなったのだ。

 

私はずっと「普通じゃない」人に憧れていた。

「普通じゃない」才能を持っている人を見ては、自分の才能のなさを痛感し、憂いていたと思う。

 

同世代の人がテレビに出てきても、劣等感を感じて私はテレビを見ることができなかった。

なんで自分はこうで、同じ時期に生まれたあの人たちはテレビに出て注目されているのか? そう思うと、後ろめたい気持ちになってしまうのだ。

 

しかし、そんな風にして他人の才能を憂いているのは、ただ自分が努力してこなかっただけなのかもしれない。目の前のことに無我夢中になっている人は、他人の才能など気にしている余裕などないのだと思う。

 

才能のない私は、彗星の如く現れた才能の塊のような彼女にかなわないかもしれない。

大量のバズを起こす、ライターさんには勝てないかもしれない。

 

しかし、そんな人を目の前に見ても努力し続けることが大切なのだと思う。

「普通じゃない」人たちを見ても、とにかく今は書き続けよう。

そんなことを思うのだった。

 

 

 

 

忘れ去られたゴミの92年生まれの私が見つけた、個性という名の呪いに効く薬

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ゴミの92年生まれを知っているだろうか?

ネット上でも、度々話題になった92年生まれの悲惨さ……

私は92年に生まれたゆとり世代だが、確かに92年は他の年に比べて、有名人の数も少ない気がする。

92年生まれが悲惨といわれる所以は、その年に生まれた人達が歩んできた道筋が、

どうも他の年に比べて悲惨なことが多かったからだ。

 

 

まず、小学校に入学すると同時にゆとり教育が本格的に開始された。

私も覚えているのだが、突然、土曜日の授業がなくなったのだ。

教科書も明らかに上の先輩のものと比べて薄くなっている。

授業時間が伸びるかと思ったら「総合の時間」というよくわからない時間割ができて、みんな遊び呆けていた。

 

私はその時、小学生ながらも、こんなんでいいのかな?

と思っていた。

 

ゆとり教育が始まり、のびのびと子供の個性を伸ばそうという教育方針になっていった。

そんな小学校教育では週に2時間「総合の時間」というものが始まった。

今思うと、その時間で私は一体何をしていたのかさえ覚えていない。

算数も国語も理科もほっといて「総合の時間」という道徳の教科書をただ広げて暗唱するような時間を過ごしていたのだ。

 

92年生まれの私と同じ世代の人たちは、大人のいいなりになりながらも、その個性を尊ぶゆとり教育にどっぷりつかっていったと思う。

個性的なのがいい。

人と違う自分がいい。

自分らしく生きることがいい。

そんなことを思っていた。

 

しかし、個性を尊ぶゆとり教育も、92年生まれが高校生になることには考えが改められてきたのだ。

ゆとり教育を受けてきた世代の学力偏差値があまりにも下降傾向にあるので、

「脱ゆとり」が叫ばれるようになってきた。

 

私は「ゆとりだ!」「詰め込み教育反対だ!」などと大人は言っておきながら、

今度は「脱ゆとりだ!」と方向展開され、社会に翻弄されてきたように少し感じた。

 

そして、どっぷりゆとり教育の影響を受けた92年生まれが高校を卒業するとともに、教科書が一新され、完全に「脱ゆとり」の流れになった。

92年生まれは社会からつまはじきにされてしまったのかもしれない。

円周率がこれまで「3」と言われていたのに、「脱ゆとり」になってから「3.14」ときちんと子どもたちに教えるようになったのだ。

 

 

大人たちは「ゆとりだ!」と言っておきながら、失敗したから92年生まれが消えた途端に、次の世代は「脱ゆとり」の流れできちんと教育するという。

 

なんだか腑に落ちない気がしていた。

 

私たち92年生まれ前後の世代はやたらと、

個性を尊重しよう。

自分らしくあろう。

あるがままに生きようと言われ続けてきたと思う。

 

私もそんな個性的でありたいと思っていたゆとり世代の一人だった。

 

人と違うことがしたい。

上のいいなりになるなんて嫌だ。

そう思ったゆとり世代の多くが、ベンチャー企業などを立ち上げていった。

しかし、活躍しているゆとり世代はほんの一部だ。

 

ほとんどの人が私も含め、一般の企業に就職していくことになる。

個性を尊ぶことを学んできた私たちゆとり世代が社会に出るとどうなるのか……

 

今まで言われてきたことと社会が求めていることの違いに気づき、ギャップにもがき苦しむのだ。

私はそのギャップを始めて痛感したのは就職活動の時だった。

 

あれだけ、自分らしくあろう。

ありのままで生きようと言われていたのに、社会が求めているものは結局、自分たちのいいなりになって、つべこべ言わずに働いてくれる若者なのかもしれない。

 

体育会系の人が就活に強いと言われるのはそこなのだと思う。

先輩のいいなりになって、動くことに慣れているのだ。

上下関係を厳しく叩き込まれている。

 

私はというと全く体育会系の部活に入れなかった。

団体競技が苦手という意味もあったが、上下関係の息苦しさを常に感じていた。

個性的でありたい。

自分一人の力でのびのびとしたい。

そう思っていた私は、結局陸上部に入部することにした。

陸上は自分一人の成績と能力で順位が決定してくる。

私にはどうもそれが合っていたようだ。

 

社会に出るとどうも個性というよりも組織の中で動くことが求めれられてくる。

個性を尊ぶとあれだけ言われてきたのに、社会に出るときには個性を捨てることが求められるのだ。

 

個性っていったいなんだ?

私はずっとそう悩んでいた。

 

自分らしさっていったい何なのだろうか?

ありのままの自分っていったい何なのだろうか?

 

私は人と違うことがしたい。

個性的でありたいと思って、なるべく個性的な行動をするようになっていたのかもしれない。大学生になる頃には、一人でインドに行ったり、約10リットルの血糊をばら撒きながらゾンビ映画を作ったりしていた。

「君は個性的だね」

「あなたは人と違った何かを持っている」

と誰かから言われたかったのかもしれない。

 

しかし、個性的であろうとしても、そんな自分を誰も見てくれはしなかった。

約4ヶ月以上かけて作った自主映画も賞を取れなかった。

マスコミ中心に30社以上エントリーしても、ほぼ全て落ちた。

 

 

私は結局、個性的でありたいという呪いに振り回されていただけなのかもしれない。

自分はゆとり教育や社会のせいにして、逃げていただけなのだ。

 

自分を何かで表現したい。

自己表現しなきゃと思い込んでは、空っぽな自分に気づき、苦しんでいた。

 

社会に出て、いろんな挫折を経験して、何とかこうしてライティングの面白さに気づいて書くようになってからも、その個性という呪いに振り回されてきたのかもしれない。

 

個性的で独特の文章の方がバズる。

人に面白いと言ってもらえるのだとずっと思っていた。

 

だから、私はあえて人と違った行動をとって、個性的な文章を書けるようにしてきたのだと思う。

もっと個性を磨かなきゃ!

個性的であらなきゃ。

そう思っていたのだ。

 

しかし、ものすごいバズを発生させるようなライターさんや小説を書いている人と直接会ってみると、そんな風にして個性というものを気にしている人はあまりいなかった。

自分の身の回りのささいな出来事をコンテンツにし、自分がこれまで生きてきたなかで蓄積された感情を文章に流し込んでいるのだ。

 

あえて個性的であろうと振舞っていないのだ。

私はいろんな人と出会い、ライティングをするようになって薄々感じ始めていた。

 

「個性って自分から作るものではなくて、自然と身についてくるものなのではないか?」

 

確かに個性的でぶっ飛んだ行動をする人が書いた文章は面白い。

しかし、自分がこれまで経験してきたことや蓄積された感情が積もるに積もって、その人でしかない個性が生まれてくるのだと思う。

 

自分から個性的でなきゃいけないと思って、行動しているわけではないのだ。

会社に入って、悪戦苦闘し、失恋やいろんな挫折を経験していく中で、否が応でもその人だけの個性が生まれてくるのだと思う。

自然と身についてくるのだ。

 

私はこれまで個性的であらなきゃと思って、人と違った行動をなるたけ取るようにしてきて苦しんでいたのだと思う。

 

ありのままの自分でいたい。

自分の個性を磨きたい

そんなことを思っていた。

 

しかし、そんな無理して個性的であろうとする必要もないのではないかと最近は思うようになってきた。個性を気にして、SNSに投稿するネタや写真を探している暇があったら、目の前のことに向き合った方がいいのではないか? そう思うようになったのだ。

 

 

私を含めた92年生まれ前後の世代は、個性というものが呪いのように体に染み込んでいると思う。

個性的でありたい。

人と違う自分でいたい。

そう思って皆、SNSInstagramに写真をアップするのだ。

 

バブルが崩壊したのちに生まれた世代は、市場にものが溢れ、消費社会が行き詰まり、

「ライフスタイル」というものが最後の商品になったと聞いたことがある。

 

確かに成功している会社は「ライフスタイル」というものを商品にしている。

 

個性的な写真を撮れるInstagramフェイスブックが人気なのはそのためだ。

 

みんな「ライフスタイル」を手に入れたいのだ。

自分の個性を表現できるツールが商品になっているのだ。

アップル製品やスターバックスが人気なのも、会社と自宅の間にある、

豊かな「ライフスタイル」を手に入れることができるからだと思う。

 

世の中はどんどん自分の個性を表現できるツールで溢れてきている。

そんな世の中で生きている人にとって個性というものが呪いのように蔓延っている。

 

 

これから自分より若い世代がどんどん世の中に出てくるのだろう。

自己表現というものが呪いのように蔓延っている世の中と、社会が求めているもののギャップにもがき苦しむ昔の自分のような人は案外多いのだと思う。

 

そんな個性というものに、もがき苦しむ人に言いたい。

個性は自分から作るものではなく、自然と生まれてくるものなのだと思う。

自分から個性的であろうとする必要はないのだ。

 

普通だっていいではないか?

と私は最近、思うようになった。

普通の中から人を惹きつける文章を生み出している人もいるのだから。