ライティング・ハイ

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「20世紀少年」の浦沢直樹先生から、凡人である私が天才肌に打ち勝つための努力の仕方を学んだ気がする

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「僕は天才肌の人間じゃない」

NHKのとあるドキュメンタリー番組で浦沢直樹先生はそう言っていた。

浦沢先生といえば、現代を代表する売れっ子漫画家の一人だ。

20代で「YAWARA」を書き、日本中に柔道ブームを巻き起こし、

「MONSTER」や「20世紀少年」といったメガヒット級の作品を連発していった。

 

テレビで「YAWARA」のテーマソングを聞いたことがある人も多いかもしれない。

私は知った時、驚いたのだが、実は「20世紀少年」と同じ浦沢先生の作品なのだ。

 

20代でいきなり国民的ヒットを飛ばし、その後もメガヒット級の漫画を連発している浦沢先生は私からしてみたら「天才」としか思いえないのだが、

本人は「全くの普通の人間だ」と言っていた。

 

私にはわからなかった。

これだけ売れっ子なのに、なぜ「普通の人間だ」と言えるのか?

 

浦沢先生は別の雑誌でこのようなことも述べていた。

「組み合わせただけだ。自分は天才肌じゃない」

 

組み合わせ?

私はこの部分を読んだ時、よくわからなかった。

 

しかし、ライティングを始めた今となって、私は身に染みてその重要性を感じるようになったのだ。

私みたいな才能のないものが、書く才能に溢れた人にどう打ち勝つのか?

その答えになるかもしれないものを浦沢先生から学んだ気がするのだ。

 

思えば、私は「何をしても勝てない天才」の人間に対して、トラウマ的なものがあるのかもしれない。

努力ではどうにもならないものを目の前にして硬直してしまった経験があるのだ……

 

「こいつらには勝てない」

私は高校の同級生を見て、しみじみとそう感じていた。私が進学することになったのは、東京都内ではそこそこ有名な進学校だった。

偏差値は70を超えるくらいの学校だ。小、中、高の一貫校であるため幼い頃から英才教育を受けて育った富裕層の生徒が多くいた。

私は中学時代は学年でもそこそこ上位の成績をキープできていた。

スポーツも何もできなかった私だが、勉強だけは努力すれば何とかなると思って、

がむしゃらに勉強していたのだ。

公立中学ということもあり、成績は上位に上がれた。

 

しかし、進学校となると話が違ってくる。

どんなに努力しても勝てないのだ。クラスにはIQ200近くの頭の回転がすこぶる早い優秀な生徒がいっぱいいて、あまり勉強をしなくてもテストで高得点をとれる人が溢れるくらいいたのだ。

 

優秀な人ほど部活動に打ち込み、忙しい合間に勉強して、常にテストでは高得点をキープしていた。全国模試を受けると、全国で5位以内に入る生徒が多くいたのだ。

それは公立で生まれ育った私には衝撃的なことだった。

この世界には宇宙人なみに頭のいい人がいることをはじめて知ったのだ。

 

私はそんな彼らを見て、自分の不甲斐なさを常に感じていた。

小・中・高の一貫校に高校から入学したため、元からいた生徒と上手く馴染めず、私は孤立していった。勉強しても上位にはなかなか入れなかった。

それでも私は自分なりの努力は続けていたと思う。

テスト前になると、図書館に引きこもり、数学の参考書を丸暗記するくらい真剣に取り組んだ。

 

学校での自分の居場所を求めるかのように、勉強に打ち込んでいったのかもしれない。

本来、私は学問が好きな学者タイプの人間でもあるみたいで、物事を考えることは

わりと昔から好きだった。

勉強をできる優秀な生徒ほど、授業の合間に、わかりずらかった問題をクラスメイトに

教えていた。

私にはそれが不思議だった。

先生の話を聞くより、クラスメイトのその子に話を聞く方がわかりやすいようで、

クラスメイトはその子の周囲にいつも集まっていた。

物事を噛み砕いて説明してくれるのだ。

本人も「人に教えることが最も良いアウトプット勉強法」だとわかってやっているのかもしれない。

 

私はそんな優秀な人を見て、ますます自分の殻に閉じこもっていった。

悔しかったのだ。

努力でこいつらを越してやると思っていたのだ。

 

しかし、どんなに努力しても勝てないものには勝てなかった。

天才肌の人間は容易に90点を超えてくるが、私はどんなに努力しても70点が限界だった。

 

「どうもがいても勉強では勝てない……」

そのことがわかってしまったのだ。

クラスから現役東大生が10名ほど出るような環境だった。

今思えば、将来日本を背負って立つような優秀な人材に早い段階で出会えたのは幸運だったと思う。

 

しかし、当時は彼らに対し、私は常に劣等感を抱えていた。

どんなに努力しても勝てない存在に気づいてしまったのだ。

 

私のような凡人には彼らのような天才肌の人には同じ土俵で戦っても勝てない。

こればかりは無理だと思った。

 

劣等感を常に感じていた。

「こいつらには何をやっても勝てない。自分は他のジャンルで勝負しなきゃ」

と思ったのだ。

 

その頃だった。私が映画に目覚めたのは……

「映画ならこいつらには勝てるかもしれない」

そう思って私は高校時代から人一倍、映画を見るようになった。

漫画やアニメなどのコンテンツを見るようになったのだ。

 

いつか人を感動させるものを作りたいという思いはなかった。

ただ、私は高校の同級生を超えたかったのだ。

映画などの芸術分野でなら勝てると思っていたのだ。

 

人一倍真剣になって映画や漫画、アニメを見ていった。

帰宅部であったので、時間だけはたっぷりあった。

貪り尽くすように本を読み、人を魅了するコンテンツとは何か? 

を自分なりに考えていった。

 

そんな時だった。

「20世紀少年」の映画化が話題になったのは……

 

今から9年ほど前に「20世紀少年」が映画化されるということで、話題になったのを

覚えている人も多いかもしれない。

唐沢寿明豊川悦司など豪華俳優が勢ぞろいだった。

私もそんな「20世紀少年」の話題にのって、原作漫画を読んでみることにした。

 

昭和を舞台にした話だろ……

平成生まれの自分がわかるはずがない。

そう思って私は「20世紀少年」を舐めていた。

 

「ALWAYS 三丁目の夕日」をみても、何も感動できなかった私である。

昭和の匂いというものがわからず、どうしても描かれている世界観に感情移入できなかったのだ。

面白いだろうが、そこまで感化されることもないと思っていた。

「20世紀少年」の単行本を目の前にして私が完全に舐めきっていたのだ。

 

本当に舐めていた……「20世紀少年」を。

 

単行本を1巻目を読み始めた。確か高校2年と時だったと思う。

 

う? と思った。

何かが違うぞ。

 

オープニングで謎の少女が出てくるあたりで壮大な物語は予想できていたが、

まだ物語自体何も始まっていないのだ。特に進展もないのだ。

 

私は続けて2巻、3巻と読み続けていった。

話の登場人物が多いせいか、いろんな場所に話が飛んでいた。

タイの話から東京のコンビニまで、いろんなところに話が飛んでいくのだ。

私はどんどん作者のペースに取り込まれていった。

 

話がどんどん壮大になっていき、漫画の世界に入り込んでしまったのだ。

5巻目から止まらなくなった。

高校生へと成長した主人公のカンナが、「ともだち」と立ち向かっていくあたりから

止まらなくなってしまったのだ。

 

早く続きを読みたい!

そう思って、本屋に駆け込んだのを覚えている。

4日くらいで全巻読み終えてしまった。

 

最終巻で「ともだち」の正体がわかり、物語が完結すると私は呆然と立ちすくんでしまっていた。

 

こんなに面白いものを作り上げた人間がいる。

そのことが衝撃的だった。

漫画としての質が高すぎて、私の脳みそは感化され、思考回路が停止していたのだ。

あまりにも面白すぎて、体が動けなくなるくらい呆然としてしまったのを覚えている。

 

 

こんなに面白い漫画がこの世にあるなんて思わなかった。

これほどまで面白い物語を作った人間がこの世にいることが信じられなかったのだ。

 

私は作者の浦沢直樹先生がとても気になってしまった。

どうやってあの壮大な物語を築き上げていったのだろうか?

どうすればこのような物語を書けるようになるのだろうか?

 

そう思い、お小遣いもほとんどなかったが、私は本屋で浦沢直樹先生が特集されている雑誌を買って、読んでみることにしてみた。

 

貪り尽くすように浦沢先生の創作秘話を読み解いていった。

あれほどまでに質の高い物語をどのようにして書いたのか気になって仕方がなかったのだ。

 

私は浦沢先生のアトリエの写真が載ったページにふと、目を落とした。

そこには本棚を背景に浦沢先生の仕事部屋を一望する写真が載っていた。

 

机に座る浦沢先生の後ろには大量の本が写っていた。

漫画の参考にする資料が保管されてあるのだろう。

 

浦沢先生が衝撃を受けたと言っていた「火の鳥」や「ブラックジャック」は棚の左上に綺麗にまとめて置いてあった。

やはり「漫画の神様」である手塚治虫先生の作品だけは大切に保管してあるのだろう。

 

私は浦沢先生の背後にあった、とある小説が気になっていた。

椅子に座ってもすぐに取り出せるような場所に置いてある分厚い本だった。

 

なんでこんなわかりやすい場所に置いてあるんだろう?

と私は疑問に思った。

 

なんだこの本は?

私はタイトルを調べてみることにした。

それはアメリカの人気ホラー作家が書いた代表作の一つだった。

浦沢先生はよく、この作家が好きだと公言していた。

 

大学の頃から夢中になって読んでいたらしい。

私はその本が気になってしまった。

浦沢先生に少なからず影響を与えた本なのだと思ったのだ。

 

近所にあった図書館へ行き、その本を調べてみた。

すると、本のあらすじを見て、私は驚いた。

「小学生の時の誓いを果たすため、かつての仲間との約束を思い出し、少年と少女たちは30年ぶりに再会する……」

 

これって「20世紀少年」に少なからず影響を与えてないか?

そう思ったのだ。

 

これを読んで、浦沢先生は未来と過去が交錯する壮大な物語を考えていったのではないか? と思えてしまったのだ。

思えば、浦沢先生のアトリエの写真もこの本だけが妙に目立った場所に置いてあった気がする。

 

もしかして先生は「この本に影響を受けて書いただけだよ」と伝えたかったのかもしれない。

私は天才クリエイターの創作熱意と遊び心を感じたような気がした。

 

浦沢先生はテレビなどでこう言っていた。

「メジャーとマイナーの組み合わせが大切だ」と。

 

浦沢先生はもともと漫画家になるつもりはなかったという。

5歳の頃から漫画は描き始めていたが、自分が好きな漫画がどれも売れていなく、

漫画を描き始めても貧乏が待っているだけだと思っていたらしい。

 

ひょんなことがきっかけで、編集者に浦沢先生が書いた原稿が目に止まり、漫画家としてデビューすることになったが、最初の頃は悪戦苦闘していたという。

 

自分が好きなマイナーな漫画が売れてないから、好きなことを書いてもヒットしない。

そう思い悩み、3日ほど徹夜してプロットを考えいった。

自分が好きなマイナーなものに、メジャーなスポ根漫画の要素を入れたら面白いんじゃないか? 

とあるとき気づき、柔道にスポ根を組み合わせる漫画を描いていった。

それが「YAWARA」だという。

 

メジャーなものとマイナーなものを組み合わせたら新しいものができる……

ハリウッドで映画化の話も進んでいた「MONSTER」という漫画も、

フランケンシュタイン」と海外ドラマの「逃亡者」の組み合わせをイメージしたという。

 

「20世紀少年」もきっと、あの人気作家の小説とあるものを組み合わせて作ったのかもしれない。

 

斬新なクリエイティブなアイデアは、既存のものの組み合わせなのだ。

 

0から1を作れる人もいるかもしれない。

手塚治虫先生や黒澤明監督はそれができる方だった。

何もないところから1を作れるのだ。

 

しかし、よほどの天才肌の人間じゃないと無理だと思う。

新しいアイデアを0から作るのは難しい。

結果的に何10年かに1度現れる天才肌のクリエイターに勝つには、

既存のものとものを組み合わせて新しいものを作っていくしかないのだと思う。

 

手塚治虫先生や黒澤明監督クラスの人じゃないと0から1を作り出すのは無理なのだ。

既存のものを組み合わせて新しいものを作っていく。

それが結果的に凡人が天才肌に打ち勝つ唯一の方法かもしれない。

 

私はその浦沢直樹先生の創作秘話が満載な雑誌を高校時代に読んでいてよかったなと思っている。

少なからず、私が抱えていた劣等感が解消されたような気がするのだ。

 

私は今、ライティングにはまっているが、やはり新しいネタのアイデアは既存のものの組み合わせなのかもしれない。パズルのようなものなのだ。

 

ライティングをしていると……

どうしてもこの人には勝てないと感じる時もいる。

やはりプロにも通じる天才肌の人たちは世の中にはたくさんいるのだ。

自分のような凡人タイプが勝てる相手ではないのかもしれない。

 

だけど、自分にあった努力の仕方があるのだと思う。

自分にしかできない戦い方がきっとあるのだ。

 

浦沢直樹先生は手塚治虫という天才肌のクリエイターに、自分なりの戦術で戦いを挑み、超えることはできなかったかもしれないが、多くの読者に届くような作品を作り上げていった。

 

私はそんな浦沢先生の姿に憧れを抱いている。

凡人である私はどんなに努力しても天才肌の人間には勝てないかもしれない。

しかし、自分なりの努力があるはずと信じて、今日も私はライティングに励んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんど本を読んでこなかった私が映画「インターステラー」を見て、読書に目覚めた理由

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「この望遠鏡、どれくらいの重さがあると思いますか?」

私は目の前にある巨大な天体望遠鏡を見つめていると、係員にこう尋ねられた。

当時、中学生だった私は答えられるずにいたと思う。

直径10メートル以上ある巨大な天体望遠鏡のスケールに圧倒されていたのだ。

 

「500キロくらいですかね……」

 

すると係員はちょっと笑ってこう答えた。

「10トンあります」

 

え? と私は驚いてしまった。

そんなに重いのか……

 

500キロと私が答えたことに明らか係員は笑っていたと思う。

 

私が生まれ育った家の近所には東京大学が管理する国立天文台があり、

平日などは無料開放していた。

近所に天文台があるので、宇宙好きであった私は子供の頃はよくそこに遊びに行っていた。

昔は天体観測が盛んだったが、度重なる都市開発の影響で、夜の観測に適さなくなり、観測自体はもうやっていないそうだ。

観測はしていなくても、昭和の時代から観測に使っていた巨大な天体望遠鏡が展示されてあった。

天体観測室の屋根は取り除かれ、夜空を360度見渡せるようになっている。

そんな天体観測室で望遠鏡を眺めながら、私はよく宇宙に想いを馳せていたのだ。

 

この銀河の向こう側には一体どんな世界があるのだろうか?

そんなことを思いながら広大な宇宙を見つめていたのだと思う。

 

私は本をまったく読まない子供だった。

むしろ、読めなかったのだ。

小学校の読書週間が嫌いで、ほとんとボイコットしていた。

 

漢字が苦手で文字が頭に入ってくるのが遅い子供だったのだ。

母親曰く、しゃべるようになったのも他の子より遅かったらしい。

 

ひらがなを覚えるのも遅かった。

人とのコミュニケーションが苦手だったこともあり、文章を読んでも登場人物たちの

心境がまったく頭に入ってこなかったのだ。

今思うと、知的障害など持っていたのかもしれない。

とにかく小学校の時は本を読めなかった。

 

そんな私でも、宇宙図鑑はよく眺めていた。

読書週間の、本数を稼ぐのに、私はよく宇宙図鑑を使っていた。

アポロ計画や当時のソ連ソユーズロケットの模型を見ながら、宇宙を夢見ていた。

たぶん、当時は本気で宇宙飛行士を目指していたのかもしれない。

 

 

私が高校に進んだ頃、宇宙好きということもあり理系科目に「地学」を選んだ。

数学に苦手意識を感じ、悩んだ末に文系に進むことを選んだ私だったが、センター試験を受けるには必ず理系科目が必修になってくる。

 

多くの文系の生徒が「生物」を選択する中で、私は「地学」を選択したのだ。

センター試験の「地学」は簡単と聞いていた。

国語と英語で差がつく文系の試験の場合、センター試験の理系科目に時間を費やしていう暇はあまりない。

なので、比較的楽に点数が取れる「地学」を選択した。

 

簡単に点数が取れると思っていたが、私の思い違いだった。

 

その「地学」の先生は有名な研究所から高校にやってきた人だった。

もともと自分が大切にしていた「宇宙研究」をいろんな諸事情で続けられなくなり、

食っていくために仕方なく高校の先生をやっているような人だった。

そんな先生だったので、授業に扱うものは明らか高校生のレベルを超えていた。

 

相対性理論を使って、惑星の周期を計算するからついてきて」

 

え? 相対性理論

アインシュタインが発表した時、当時はあまりにも何回で理解できた人が世界に5人いるかいないかだったという相対性理論

 

先生はそれを使いながら高校生相手に惑星の天体運動を証明しようとしていたのだ。

授業の45分をフルに使って、黒板を3面も使って、先生は相対性理論の図式を説明していった。

 

文部科学省が認定している「地学」の教科書を見てみると、明らかに相対性理論について書かれたページはなかった。

 

高校生のレベルじゃないだろ……

私は先生のチンプンカンプンな話を聞きながら頭を抱えていた。

本気で何を言っているのかわからなかったのだ。

 

「エネルギーは物体の質量に比例して〜〜」

 

私はひとまず黒板に書かれた意味がわからない図式をノートに書いていくことにした。

授業のチャイムがなり、先生がチョークを止めると

「この相対性理論の証明の部分、期末試験に出すから勉強しといて!」

と言い始めた。

 

え? 試験に出るのこれ!

どう見ても教科書に載ってませんが!

 

私は授業のレベルに驚いてしまった。そして、先生の無茶振りに驚いた。

私は頭があまり良くない生徒だったので、授業の内容がチンプンカンプンだった。

しかし、他の生徒はわかったのだろうと思い、隣の人に聞いてみた。

 

私が通っていたのは私立の進学校だ。現役東大生が数人出るようなところだったので、

私以外の生徒はみんな今の内容な理解していると思っていたのだ。

 

しかし、聞いてみると

「あんなのわかるわけないだろ!」

そういう答えが返ってきた。

 

ですよね……

高校生相手に相対性理論はさすがにないですよね。

というか、教科書の内容シカトしてますよね。

 

私は先生の無茶振りに再び困惑すると同時に期末試験の対策に頭を悩ませていた。

ほとんどの生徒は

「あんなのわかるわけがない……捨てる!」

と言って、テスト対策を放棄していた。

 

私は非常に成績が悪い生徒だったので、万が一「地学」を落とすことになったら、留年の危機になる。

仕方なく私は「地学」のテスト対策を始めることにした。

 

ひとまず「相対性理論」がさっぱりわからなかったので図書館で調べてみることにした。

私が読んだのは「高校生でもわかる相対性理論」という本だった。

 

高校生でもわかる! 

それなら自分でもわかるだろうと思って本を読み始めたのだ。

エネルギーは物体の質量に比例するという世界一有名な図式はわかるが、それの証明がまたチンプンカンプンなのである。

 

どこが高校生でもわかるだよ!

 

そう思ったが、仕方なく読み進めることにした。

地学の試験対策に、私は「ひも理論」の生命やホーキング博士の本を読み漁った。

「ひも理論」や「超ひも理論」には頭を抱えた。

まったく内容が頭に入ってこなかったのだ。

 

その頃も大の読書嫌いだったので、年間ほとんど本を読まなかった。私の読解力は小学生並みだったと思う。

よくそんな学力で文系を選択したなとは思うが、数学が嫌だったので仕方ない。

 

「ひも理論」の本を読んでも活字が頭に入ってこなかったが、

図式を見てなんとなく理解はできた。

ホーキング博士の宇宙の本にはしびれた。

車椅子の天才ホーキング博士の頭の中には広大な宇宙が広がっているのだ。

私はそんなホーキング博士の本を読みながら、再び宇宙に想いを馳せていたのだと思う。

 

結局、自分なりの「地学」の試験対策をして、期末試験を迎えた。

チャイムがなり、答案用紙をめくってみると驚いた。

例題は記述問題が5問ほどあるだけで、最後の問題にはこう書かれてあったのだ。

 

相対性理論を用いて、惑星の軌道周期を証明せよ」

 

そんなのわかるわけないだろ!

私は試験用紙を破ってやろうかと思ってしまった。

宇宙物理学者が学会で発表しているような難しい問題を、

高校生の文系選択者が、しかも学校の試験用紙の上で証明しろと言われても無理に決まっている。

 

私はゆっくりページを裏返して、諦めることにした。

さすがに無理です……と。

 

チャイムがなり、クラス中はテストについて話し合っていた。

「あんなのわかるか!」

「白紙で出したぞ!」

もはや笑うしかなかった。

 

あのテストの記述問題を解けたのは誰かいたのか?

今でもわからない……

 

 

試験結果が返ってくると自分の点数は4点だった。

学年平均点は5点である。

100点満点のテストで平均点が5点である。

もはやテストになっていない。

問題が難しすぎるのだ。

 

結局、その先生の異常に難しい試験問題は職員室でも話題になり、

「地学」の担任が変わることになった。

 

今思えば、図書館にこもって「相対性理論」や「ひも理論」と格闘していた私の努力はなんだったのか? と思う。

今でも「相対性理論」が何を意味しているのかよくわからない。

当時の私は小難しい宇宙用語をわかったふりをしていただけなのだと思う。

 

しかし、そのわかったふりをしただけでも「相対性理論」や「ひも理論」に触れた

経験はのちにある映画を見ている時に役に立っていた。

 

映画好きだった私は大学生の頃、クリストファー・ノーランの映画にはまっていた。

ダークナイト」や「インセプション」など映画ファンなら見たことがない人はいないと思う。現代を代表する映画作家の一人だ。

 

そんなクリストファー・ノーラン監督が新作でSF映画をやると聞いた時、私は驚いてしまった。

あのクリストファー・ノーランがSFを撮るだと!

作風的にも人間の心理描写が得意とする監督なので、SF映画のイメージがなかったのだ。

私はノーラン監督のファンなので、映画が公開されるとすぐに見に行った。

 

映画が始まると驚いた。

 

スクリーンの目の前には宇宙が広がっていた。

私が幼少期から思い描いていた宇宙が広がっていたのだ。

宇宙探査の旅に出たクルーたちが、ワープホールを抜けるあたりの映像描写など見て、驚いた。

それは現代の最先端の宇宙物理学を用いた、今現在判明している宇宙の構造を全て映像で表現したものだったのだ。

 

SF漫画などで描かれるワープホールは普通、丸い渦状態のものだ。

しかし、現代の宇宙物理学でわかっているワープホールは円形なのだ。

まん丸の物体と言われている。

点と点とつなぎ合わせ、一瞬で別の空間に飛ぶには空間を円形に変形させなければならない。

 

私は映画の中で繰り広げられている宇宙の描写に驚きを隠せなかった。

相対性理論」や「ひも理論」など最先端の宇宙物理が全て映画の中で描かれていたのだ。

 

そして、映像で初めて表現されるというブラックホールの姿を見て、呆然としてしまった。光ですら吸収してしまうブラックホールは観測するのは難しい。

重力に飲み込まれ、黒一点の空間なので、観測できないのだ。

世界中の天体学者が集まってブラックホールの解明に取り組み、やっと判明した構造を映画で初めて表現されているのだ。

 

私は本当に衝撃を受けながら映画を見ていたと思う。

映画館なのに、そこには宇宙が広がっていたのだ。

 

映画が終わると呆然と立ち尽くしてしまった。

文句なしの素晴らしい映画だと思った。

最先端の学問と芸術が合体した素晴らしい映画だと思う。

 

私は衝撃を受けると同時に、あることが疑問に思った。

それは……

なんで惑星探査の旅に出るSF映画なのにオープニングは本棚から始まるのか? 

ということだった。

 

インターステラー」という映画全体が明らか本が重要なテーマになっているのだ。

人類を救う鍵となるデータを、主人公は本棚を使って娘に伝えている。

人に想いを伝えるのに本を使っているのだ。

 

私は映画評論家の町山智浩さんのラジオや、クリストファー・ノーラン監督のインタビューを聞いて「インターステラー」で描かれている背景を調べてみることにした。

 

 

「インターネットは嫌いだ」とノーラン監督はよくインタビューで答えている。

 

「ネットのせいでみんな本を読まなくなった。書物は知識の歴史体系だ。ネットのつまみ食いの知識では背景の文脈が失われてしまう。だからインターステラーでは父が娘に想いを伝える道具に本棚を使ったんだ!」

 

ノーラン監督は60年代の宇宙開発が盛んで、世界中が宇宙を見上げていた時代が大好きだという。

「今の時代はみんなスマホばかりいじって下ばかり見ている。下ばかり見ていては人類は進歩しない。宙を見上げれば広大な宇宙が広がっているではないか!」

そんな思いが映画の中に込められていたのだ。

 

ノーラン監督は映画を一本作るのに1000冊近くの本を読むという。

それだけの書物を頭に入れないと多くの人を惹きつけるコンテンツは作れないのかもしれない。

 

私は「インターステラー」を見て、宇宙に想いを馳せると同時に、本の大切さを学んだと思う。私は子供の頃から大の読書嫌いで月に一冊も本を読んでこなかったが、この映画を見てから月に4冊以上本を読むようになった。

 

今までネットからのつまみ食いの知識で満足していたが、それではいけないと思ったのだ。私にとっては本の大切さに気付かされた映画でもあった。

 

今、日本人の全体の約4パーセントくらいしか月に4冊以上本を読まないという。

インターネットが広がりますます読書離れが進んでいっている。

しかし、今も昔も時代を変えていくようなクリエイターは本を読むのだと思う。

人類の英知が詰まった本を読むことで、物事を変えていくような多くのものを手に入れているのかもしれない。

 

私は今でも年に数回は「インターステラー」を見直している。

人類の希望を背負い、惑星探査の旅に出た主人公たちの姿を見ていると、

私はクリエイターとして大切な部分を教えられる気がするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「普通」であることがコンプレックスだった自分が気づいた半径5メートル以内にあった「希望」

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「普通の名前だね」

私は大学の同級生にこう言われたことがある。

昔から私は「普通だ」と言われることがよくあった。

 

「普通の顔」

「普通の成績」……

 

「普通」ということが私のコンプレックスだった。

人と同じように「普通の人間」と思われるのが嫌だったのだ。

 

私は「普通の人間」かもしれない。

普通の学校を出て、普通に就活をした。

そんな「普通」である私だが、がむしゃらに「普通ではない人間」になろうともがいていた気がする。

 

 

「とにかく好きなことをやろう」

大学に入学する際、私はそう誓った。

 

私が通っていた高校は都内でもそこそこ有名な進学校だった。

周囲には自分以上に勉強ができる生徒がいて、私は完全に落ちこぼれていた。

いま思うと、本当に天才肌が集まっているような環境だったと思う。

クラスから現役東大生が10くらい出ていた。

 

本当に頭がいい人は、勉強もでき、スポーツもできるものだ。

私はそんな優秀な人たちを見て

「こいつらには勝てない」

そう痛感していた。

 

私が公立中学に通っていた頃は、ちょっと勉強すれば学年でもそこそこの成績が出せていた。

しかし、進学校となるとそう簡単にはいかない。

小学校からきちんと英才教育を受けてきた人たちが多くいて、私は完全に浮いていたのだ。

直前に軽く教科書を見ただけで、満点近くの成績を出す生徒がゴロゴロいたのだ。

 

努力しても勝てない存在に気づいた瞬間でもあったと思う。

いま思うと、人生のわりと早い時期にこのような天才肌の人たちと触れ合えた経験は

貴重だったと思う。

たぶん、彼らは何かの分野で頭角を出していくのだろう。

(実際、今すでに同級生の中から世に名前が出てきてる人もいる)

世に頭角を出していく人は高校生の頃から何か人と違ったものを持っているのだ。

明らかに何かで突出しているのだ。

 

私はそんな何か人と違ったものを持つ人たちを見て、劣等感を抱いていたのかもしれない。

自分は何も持っていない……

そう思えて仕方がなかった。

 

浪人の末、大学に入学した。

私は大学では好きなことをやろうと誓った。

高校時代に抱いた劣等感をもう感じたくなかったのだ。

「普通の人間」であることがもう嫌だったのだ。

 

私は自分が好きだった映画の世界にのめり込んでいった。

子供の頃から映画が大好きで、いつか映画を撮ってみたいと思っていたのだ。

私は大学に入学してすぐ、自主映画作りにのめり込んでいった。

 

図書館にこもっては脚本を書き、映画関連の本を読み漁って一介の映画人になったかのような気がしていた。

 

20人以上の人に協力してもらい70分の長編映画も撮ってみた。

 

自主映画と言っても撮影はハードだった。

どれも制作に4ヶ月以上かかった。

しかし、多くの人と関わりながら映画を作るのは楽しかったのだ。

映画を撮っている時だけが、「普通」であることから脱却できているように感じていた。

 

人と違うことがしたい!

そう思って10リットルの血糊を用意して、40分近くのゾンビ映画も作ってみた。

とにかく私は「普通」であることを忘れたかったのだ。

自分には何か光っているものがあると信じたかったのだ。

 

「普通」であることが嫌で外ばかりに刺激を求めていたのかもしれない。

人と違うことをすれば、いつか何かの分野で頭角を出せると思っていたのだ。

 

しかし、世の中そうあまくない。

「就活なんてしない」と私は思っていたが、いつの間にか就活の時期が来て、

私も周囲に流されるかのように就活をしていった。

フリーランスノマドワーカーなど自分らしく仕事をすることが良しとされていたが、社会経験がない私はフリーランスになる勇気もなかった。

 

いつの間にか私はスーツを着て、社会の荒波に飲まれるかのように就活をしていたのだ。

私は「普通」であることに何よりもコンプレックスを抱いていた。

「普通」であることが何よりも嫌だった。

それなのに「普通」に就活をして、「普通」に成り下がってしまったのだ。

 

新卒で入った会社は、度重なる残業と極度の睡眠不足で結局、数ヶ月で辞めてしまった。社会のレールから外れた人には異常に冷たい日本社会に嫌気がさし、海外を放浪したりもした。

私はまだ外に刺激を求めていたのだ。

結局「普通」であることが嫌で、外に刺激を求めていた。

 

どこに向かっていいのかわからなかったのだ。

何をしたらいいのかわからなかった。

 

タイや東南アジアをさまよっているうちに多くの旅人と出会った。

ほとんどの人が30歳手前で脱サラして、フィリピンで語学留学をしたのちに海外の旅に出るという人が多かった。

世界一周をしている人にも出会った。

海外を2年間放浪している人にも出会った。

 

いろんな刺激的な人と出会ったが、私は常に妙な違和感を感じていた。

私は彼らを見て

「逃げているだけじゃん」と心のそこで思っていたのだ。

 

その時、私も逃げていただけにもかかわらず、旅人を上から見下していた。

そんな自分が一番カッコ悪いと思った。情けないと思った。

 

海外を放浪している人には面白い人もいる。

しかし、外に刺激を求めているだけで、その人自身の中身はどうなっているか? と言われると空っぽなケースが多いのだ。

 

自分と同じように外に刺激を求めている人だらけなのだ。

旅の途中で出会った武勇伝を語るため、普通の日常では体感できない刺激を求めて海外を旅している日本人が多すぎる気がしていた。

私もそんな日本人の一人だった。

 

ベトナムからラオスの秘境まで旅していった。

ラオスの山奥まで行っても自分の居場所は見つけられなかった。

 

どこまで逃げても一緒なんだなと思った。

外に刺激を求めてばかりいたらダメなんだ。

自分の内側を変えなきゃならない……

そう感じるようになったのだ。

 

私は日本に帰ってきたのち、ひょんなことがきっかけでライティングと出会った。

プロのライターさんや忙しい仕事の合間にものを書くことに夢中になっている人やいろんな人と出会った。

 

私はそんな人たちが輝いているように見えた。

本当に好きなことに夢中になっている人は輝いて見えるのだ。

自分の内側としっかりと向き合い、自分の好きなことに真剣に取り組んでいるのだ。

 

記事のネタを書き始めた頃は、どうしても自分の外側の出来事ばかりを気にしてしまっていた。しかし、外側の刺激ばかり書いていてもすぐにネタが尽きてくる。

 

そうなってから私は自分の内側としっかりと向き合うようになったのかもしれない。

 

面白い文章を書く人は自分のこともよく知っていると思う。

こういうことに劣等感を感じ、こういったことに悩んできたなど、

自分を築いてきたものをしっかりと把握しているのだ。

自分の内側をしっかりと文章に落とし込む。そんな記事が多くの人の心に届くのかもしれない。

私のような外に刺激を求めてばかりいた人間が書いた文章は、どこか重みがなく、

中身がスカスカなのだ。

自分の内側をもっと見つめなければならない。

多くの人の文章を読んで、そのことに私は気づき始めた。

プロのライターさんは、自分の周りにある出来事をコンテンツに変えることがうまいのだ。プロの人は身の回りの半径5メートル以内にあるものからささっと調理して、記事を書き上げていく。

 

答えは自分の周り半径5メートル以内に眠っているのだ。

 

私は「普通」であることがコンプレックスで、外に新しい刺激を求めてばかりだった気がする。しかし、人の心に届くようなものは、自分の周りの半径5メートル以内に眠っているのかもしれない。

 

社会に出て、いろんな挫折を経験した今、「何者」かになりたい……

「普通じゃない人」になりたい……などと考えるようなことはなくなった。

しかし、今は自分の半径5メートル以内にある出来事がどこかの誰かの心を動かしていたらと思って、こうしてものを書いている。

 

外に刺激を求めてばかりではダメなのだ。

答えはきっと自分の身近なところにある。

 

「普通」ということがコンプレックスで、カオがない「カオナシ」のようなアイデンティーが欠如した存在だった私が見つけた答えがそれだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

負の感情という名のアレルギー

 

「人生、マイナスの出来事もあれば、プラスの出来事もある。

プラスの振り幅が大きい分、マイナスの振り幅も大きくなる。プラスマイナス0だ」

 

誰かがテレビで言っていた言葉だ。

いいこともあれば悪いこともあるという言い伝えが日本にはあると思う。

芸能人として華やかな世界で生きている人は大抵、若い時は壮絶な体験をしているらしい。

明石家さんまなどテレビでは絶対見せないが、相当つらい幼少期を経験していたようだ。それがエネルギーになってしゃべりまくっているのか……

 

しかし、私は何か腑に落ちないでいた。

どんな人にも、いいことがあれば、その分悪いこともあると聞くけど、本当にそうか? 

ずっと幸運に恵まれ続けている人もこの世のいるはずなのだ。

どんな人も負の出来事は経験したくはないはず。

 

私もできればマイナスの出来事をできれば経験したくないとずっと思っていた。

 

 

「大凶……」

2016年の元旦に、私が引いたおみくじに書かれていた言葉だった。

昨年、私は24歳で、本厄だった。

本厄であると同時におみくじで大凶を引いたのだった。

 

最悪だ……もう2016年終わってしまえ……

そう思った。

 

おみくじにはこう書かれてあった。

「ただひたすら困難が続く、黙ってたえよ」

 

神様ももうちょっといいアドバイスをくれたらいいのに……

黙って絶えよって……

 

私はがっかりしながら、おみくじをひもに結んだのを覚えている。

やはり、神様はしっかりと見ているようだ。私の2016年の運勢は本当に大凶だった。

年を越した瞬間から凶の嵐なのだ。

まず、一月しょっぱなから好きな女の子にフラれ、2月には京都の寺にこもって修行、

3月にはインド放浪、4月からテレビの世界で働き出すも、あまりにもブラックで死にかけた。

 

テレビの世界でもっと働いていればなよかったと今でもたまに思う。

新卒で入った会社は、結局、私は数ヶ月でやめてしまった。

度重なる寝不足で精神的におかしくなり、人身事故まで引き起こしそうになった。

 

貴重な休みの時にあった中学の同級生には

「お前目が死んでるぞ」と言われた。

確かに入社して2ヶ月ほどで私の体重は8キロも減少していたのだ。

1日30分睡眠の中、昼飯すら食う暇がなかった。

 

さすがに8キロも体重が減ると、人間の体は悲鳴を上げてくるものだ。

常にフラフラになりながら、いつも私は始発の電車で家に帰っていた。

 

「もうそんな仕事すぐに辞めたほうがいい」

そう同級生には言われた。

 

「どんな仕事も3年は続けろ」

世間的にはそう言われてきている。

しかし、私は結局数ヶ月で会社を辞めてしまった。

 

辞めると言った記憶すらない。

気づいたら辞めることになっていた。

 

転職活動の時は本当に苦労した。

一度社会からドロップアウトした人間には、日本社会はとても厳しいのだ。

私は一気に負け犬になったような気がしていた。

電車に乗っていても、周囲の人間から負け犬というレッテルを貼られて見られているような気がしていたのだ。

 

転職の面接も新卒の時以上に落ちた。

会社を数ヶ月で辞めただけで使えない人間と思われてしまうのだ。

 

社会の底辺をのたまって歩いているうちにどんどん負の感情が蓄積されていっていた。

仕事を数ヶ月で辞めたということが私の人生最大のコンプレックスにもなっていたのだ。

もっときちんと働いていれば、人と面と向かって話せるようになっていたのに……

と思っていた。

 

自分の中に湧き上がる負の感情のはけ口が見つからないまま私はのたまり歩いていた。

エネルギーはあるのにそのはけ口が見つからない……

体はそれに反応してか帯状疱疹が出てきた。

それは負のエネルギーを抱えた人間のアレルギー反応みたいなものかもしれない。

 

アレルギーは、自分の体に入った異物を取りのぞくために、免疫が敏感に反応しすぎて自分の体ですら傷つけてしまう反応だ。

精神的におかしくなっていた時、自分の体は負のエネルギーをどこかに発散しようとしていたのかもしれない。帯状疱疹が出てきたのはそのエネルギーをはけ出そうとして、自分の体ですら傷つけていた証拠だった。

 

社会の中を歩きながら、なんとか転職を終えた今、あの出来事は一体なんだったのか? と思う時がある。

私の人生で一番過酷で負に満ちた2016年だった。

 

しかし、今だから言えるのは、その出来事は少なからず私のエネルギーにもなっていたということだ。

最悪の2016年も後半に差し掛かった頃、私はひょんなことでライティングの楽しさに気づいた。

 

プロとして活躍しているライターさんや小説家を目指して、寝る暇を惜しんで書いている人にも出会った。

私はそんな仕事をしながら睡眠時間を削って、ものを書くことに夢中になっている人が羨ましくて仕方がなかった。

やはり、きちんと働きながら書いている人の文章はどこか違っている。

ものを書くという決意や意思が文章にも滲み出ているのだ。

子育ての貴重な時間を削って、ものを書いている人の文章など、母性に満ち溢れていてそこらの小説家の文章よりも面白いのだ。

 

自分のような空っぽな人間に、ものなんて書けるわけがない……

そう思って私は悪戦苦闘していたが、ある出来事だけはスラスラと書けた。

その出来事とは……負に満ちた2016年だった。

 

楽しい出来事は文章にはしづらいが、辛い経験や過酷な思い出はそれ自体がエネルギーとなって私を後押ししてくれたのだ。

その出来事は、す〜と書けるのだ。

 

まだ24年しか生きていない、自分のような空っぽな人間が言うことではないかもしれなが、負の感情は少なからず、のちに自分を動かすエネルギーに変わるのだと思う。

 

人生プラスマイナスゼロではなく、マイナスの出来事がエネルギーになって自分の力でプラスに転換させていただけなのかもしれない。

 

「てっぺんにいる時も、下にいる時も、感情の振れ幅は一緒。真ん中で平凡に暮らしていることが一番つらい」

テレビでとあるミュージシャンが言っていた言葉だ。

彼女は売れるまでは壮絶な体験を経験し、売れた後にも大変な思いをしたようだ。

結局、プラスの出来事もマイナスの出来事もその人自身の感情を大きく揺れ動かしているだけなのかもしれない。

 

面白い文章を書く人は、少なくともその振れ幅が普通の人よりも大きいのだ。

そして何より、マイナスの出来事も楽しんでいるのだ。

つらいことがあっても、いつかそれがエネルギーに変わるとわかっているのかもしれない。

 

私はもうそろそろしたら、また働き出すことになる。

会社に入ったらまた大変な思いをするだろう。

満員電車に嫌気がさし、逃げ出したくなると思う。

しかし、その出来事すら自分を突き動かすものになるのかもしれない。

 

最近はありふれた日常の中にある、負の感情ですら愛おしく思う。

その出来事がたまって、いつかプロのライターさんのようなしっかりと地に足がついた文章が書けるようになっていたらと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が子供の頃からバイブルにしていた「NARUTO」を全巻売った理由

 

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「ナルトじゃん!」

私が東南アジアを旅していた頃、バンコクのデパートでナルトの看板を見かけたことがあった。

上の階にはアニメショップがあるようだ。

そこに行ってみると、多くのタイ人から欧米人がひしめき合っていてびっくりした記憶がある。

 

こんなに日本の漫画って人気あるの!

と私はびっくりしてしまった。

 

ナルトはもちろんのこと、日本のBL漫画からオタク系の漫画まで全て揃っていた。

単行本の表紙や中の吹き出しは全て英語に変更さえているが、絵は日本の漫画そのものだった。

 

日本のアニメの影響力の凄さを身にしみて痛感した。

 

東南アジアを回っている頃、ベトナムのゲストハウスの人に

「自分はジャパニーズだ」と答えると

やおい漫画は知っているか?」

と聞かれたことがあった。

 

やおい漫画ってなんだ? と思ってグーグルで調べてみると……なんとBL漫画のことである。

ベトナムまでBL漫画って浸透しているのか!

そのことにもびっくりしてしまった。

 

そんな日本のアニメ文化の凄さを痛感する旅でもあったが、旅の道中に出会った外国人から「好きな日本の漫画は何か?」と聞かれたら、私はすぐに

「ナルトです」と答えていた。

 

私たちゆとり世代の多くが、ナルト世代でもある。

ナルトを見て育ったようなものなのかもしれない。

同時代にワンピースもあったが、私の場合は圧倒的にナルトの方に夢中になっていった。

 

今でも第一巻を読んだ時の衝撃を覚えている。

確か、小3くらいの時に眼科で目の検診を受けるため、待合室で待機していた時、

暇だったので本屋で貴重なお小遣いを使って、ナルトの一巻目を買って読んだのだ。

 

テレビアニメの放送は見ていたので、ある程度内容は知っていたが、それでも衝撃的だった。

あの忍者の世界観に圧倒されてしまったのだ。

そして、「他者に認められたい」と願うナルトの姿に私は感情移入してしまっていた。

 

小学生だった頃の私にはほとんどお小遣いがなかったが、ちょっとずつお金を貯めて

ナルトの単行本を買っていった。

一巻、一巻と溜まっていき、小学生から大学までナルトを見て育っていった。

ナルトは完全に自分にとってバイブルのような存在になってしまったのだ。

 

自分のようなゆとり世代が、なぜナルトに夢中になったのか?

それは、SNS時代の台頭による承認欲求の表れが原因だと言われている。

木の葉の里に壊滅的被害を与えた九尾の妖狐を腹に封印され、ナルトは里の中で異端な存在だった。大人たちに無視され、居場所をなくしていた。

「火影になって自分の存在を認めさせてやる」という他者からの承認を求めて、もがくナルトの姿にSNS世代は感情移入してしまうのだ。

 

90年半ばから生まれた子供は、経済成長を遂げていた日本の姿を知らない。

生まれた時から不況だったので、社会がどん底の状態であることしか知らないのだ。

失われた20年とか言われている。

 

消費社会が行き詰まり、ものが溢れかえって、人々は生きているという実感が持てなくなった時代……

私は浮足立っていて、社会全体をさまよい歩いている感じが常にしていた。

そんな時代に生まれた子供たちは、他者からの承認でしか生きている実感を得られなくなってしまったのかもしれない。

 

私は小学生の頃から、常にクラスの隅っこにいるような子供だった。

クラスの中心的な存在に憧れていた。

昔から人とのコミュニケーションが大の苦手で、常に隅っこにいるような子供だったのだ。特にいじめられていたわけではなかったのに、何かが不安で、何かが嫌で仕方がなかった。

私は常に浮足立っていたと思う。

誰か自分の存在を認めてよ!

自分はここにいるよ。

と心の中で叫んでいたのだ。

 

中学の頃になると、心の中では反抗期のような状態になったが、先生に反抗的な態度をとることすらできなかった。

授業中も常にイライラしていたが、感情を表に出せなくて、常にフラストレーションが溜まっていたのだ。

自分の中に煮詰まった感情をどこに向けたらいいのかわからなかった。

授業はいちよ出るが、ほとんど頭の中に入ってこない。

腹の中に煮詰まった感情を吐き出す術を知らなかった私は、他者よりも上に行きたいという承認欲求が抑えられなくなり、勉強にのめり込んでいった。

 

ナルトのようにトップに立って、クラスのみんなから自分の存在を承認されたかったのだ。

中学3年の頃は勉強をしていた記憶しかない。

行きたい高校などとくになかったのに、私は勉強にのめり込み、模擬試験で一位をとることに夢中になっていた。

 

結果的に中学の卒業生の中で一番偏差値の高い進学校に入れることができた。

目標を達成できたのだ。勉強ではてっぺんに立つことができた。

しかし、そのてっぺんに立っても私の心は満たされなかった。

何かが違う……

生きている実感を持てず、もがいていたのかもしれない。

何かが苦しかった。他者から認められたかった。

 

そんな暗黒の中学時代も私はナルトを読んでいた。

ナルトを読んで、登場人物たちに感情移入していったのだ。

 

第十巻のロック・リー我愛羅戦には夢中になった。

人一倍の努力で体術のみを極めてきたロック・リーが、努力だけではどうにもならない敵とぶち当たり、葛藤する姿に私は泣いた。

「お前は努力の天才だ」

とガイ先生に言われるシーンにも泣いてしまった。

 

ガイ先生が言っていた「自分ルール」は今の私にも影響を与えている。

毎朝早めに起床して記事を書くという「自分ルール」を設けたのだ。

 

ちょっとでも朝の眠気に負けて、記事を書くことをサボってしまいそうになると

ガイ先生から怒られると思って、こうして毎朝記事を書いている。

 

高校時代に入り、進学校で落ちこぼれていた自分を救ったのもナルトだった。

周囲には天才児レベルの同級生たちだらけで、模試を受けたら全国5位以内の生徒がわんさかいた。

クラスから現役に東大合格する人が10人近くいる環境だったのだ。

そんな環境にいたためか、私はどんなに勉強しても努力ではどうにもならない現実を見て嫌気がさしていた。

そんな時、いつもナルトの言葉を思い出していた。

どんなに里の大人から嫌われようとも自分の存在を認めされることにもがき苦しむ

ナルトの姿が自分に重なって見えたのだ。

 

他人から認められたいというものが私の原動力にあったのかもしれない。

常に浮足立って、生きている実感が持てなかった私の学生時代を支えたのはナルトだった。

 

 

ナルトは私が大学生の頃に完結を迎えた。

最終話が載っているカラーページの少年ジャンプは本屋で買って、ずっと家に保管してある。

単行本も気がついたら全72巻揃えていた。

家の本棚のスペースのほとんどがナルトで埋まっていた。

 

そんな私の学生時代を支えたナルトだったが、私はつい最近、すべて売ることにしたのだった。

 

書くにはインプットが必要だ……

そう思って、2017年になった頃から私は毎日2000〜5000字の記事を書いては映画を浴びるように見て、本を浴びるように読んでいった。

毎日ブログ用の記事を書いているとよく思うのだが、アウトプットをしているとどうしてもネタが枯渇してくるものだ。

インプットが間に合わない……と焦ってしまう。

 

何よりも書く事……アウトプットが大事だと思い、アウトプット>インプットで今までやってきたが、どうしてもインプットが間に合わない。

 

どうすればいいのかと悩んでいる頃、本で溢れかえった自宅の本棚を見て思った。

私の頭の中はナルトでほとんどのスペースを埋め尽くされている……

 

本棚は頭の中の貯蔵庫みたいなものだ。

相手の脳の中を覗こうと思えば、その人の本棚を見てみるといいかもしれない。

どんな本を読んで、その人の人格が形成されていったのかすべてわかるのだ。

 

私の脳みその中が反映された本棚を見て、ほとんどのスペースがナルトで埋まっていることに気づき、このままではいけないと思ってしまった。

 

新しいインプットを頭の中に取り込むには、今まであったものを捨てなければならない。

仏教でいうと「断捨離」だ。

 

2017年は「書く」と私は決めていた。

毎日ブログ記事を書く事は自転車レースに参加しているようなものだ。

ギアが重すぎたら自転車を漕ぐのがつらくなり、ギアが軽すぎても平坦な道を漕ぐのがしんどくなる。

常に真ん中のギアくらいのペースがちょうどいい気がする。

毎日のように私の頭の中から出てくるアウトプット量にインプット量が比例していないと書くことがしんどくなってくる。

 

今からインプット量を増やすのではなく、もともと頭の中にあった余分なインプットを捨て去ればいいのではないか? 

そうすれば新鮮なインプットを新たに脳みその中に入れることができる。

そう考えて、私の脳の中にあった貯蔵庫を減らすことにしたのだ。

 

ナルトは何回も読み直した。

もう小学生の頃から擦り切れるくらい読んでいた。

ナルトVSペイン戦には燃えた。

 

ナルトを眺めているとありとあらゆる思い出が蘇ってきた。

そんなナルトだったが、私は意を決して、すべて売り払うことにした。

すでにあるものを捨て去らなければ、新しいものと出会えない。

そう思えたのだ。

 

家にあったでかい紙袋にナルト全72巻をまとめた。

めちゃくちゃ重かった。

試しに体重計で計ってみたら、10キロもあった。

 

これをどうやって古本屋に持って行くか?

車で運べばいいものの、私はかれこれ一年以上車の運転をしていない。

超がつくペーパードライバーだ。

 

こうなったら自転車で行きしかない。

そう思って私は自転車のカゴにナルト全72巻がはいった重さ10キロの紙袋を詰め込み、坂道を駆け下りて、古本屋に向かうことにした。

道中、何度も転びそうになった。

カゴが重すぎるのだ。

 

ナルト全巻を腕で抱え込み、私は古本屋を目指した。

私の学生時代を支えてくれたナルトだ。

道に落とすわけにはいかない。

約20分かけて古本屋にたどり着いた。

着いた時にはもうヘロヘロだった。

 

10キロもある紙袋をカウンターに運び、査定してもらうことにした。

さて、いくらになるか……

 

査定が終わり、カウンターに呼び出される。

金額を見て、驚いた。

 

ナルトでもこんな値段なんだ……

私が想定していた値段よりもはるかに安かったのだ。

ナルトは完結した今でも人気の漫画ではある。ブランドがあるとは思うが、売ってもこれくらいにしかならないとは……

 

私は古本屋業界に驚くと同時に、重さ10キロもある紙袋にナルトを詰め込んで、来た道を自転車で戻る勇気がなかったので、結局そのまま買い取ってもらうことにした。

 

古本屋を出てみると、バイブルにしていたナルトを全巻売り払い、清々しい気持ちになるかと思っていた……私は意外にも何も感じなかった。

あっけなく終わってしまった感があった。

 

家に帰り、今まで本棚にナルト全72巻が並べてあったスペースを見て、

私はやっと何か感慨深いものを感じた。

 

私はそのスペースにどう彩りを与えていくのか?

ナルトに変わる私のバイブルと言えるものが現れるのか。

 

ナルトをすべて売り払った今、私は毎日書き続けるアウトプットに追いつくため、

時間を見つけては本や映画などでインプットもしっかりと忘れずにやるようにしている。

 

頭の中にあったナルトのスペースを空けたためか、私は最近、道を歩いているだけで、新たなネタがぽんぽん浮かんでくるようになった。

まるで、仙人モードを手に入れたナルトのように、周囲から自然エネルギーをかき集めているような感じがするのだ。

無意識にインプットができるようになったのか?。

物事を見る目線が少し変わってきたような気がする。

 

大掃除の時に、年を越すために余分なものを捨てる断捨離を自分の親は大切にやっていた。

確かに新しいものと出会うためには今まであったものを捨て去らなければならないのかもしれない。

 

世界的な作家である村上春樹は、呼吸するように書くというスタンスを貫いているという。本人曰く、書かなきゃと思うと、書けなくなるらしい。

頭を空っぽにして、呼吸するように書いているのだ。

 

私も呼吸するかのように、もの書くということを体得したいと思う。

自然エネルギーからパワーをもらう仙人モードを会得したナルトように、身の回りにある些細なものにもアンテナを張って、常にインプットができるライターの目線を手に入れたいのだ。

 

世の中に出てくるクリエイターの人たちはどういったインプットとアウトプットをしているのか今の私にはまだわからない。

インターステラー」や「ダークナイト」のクリストファー・ノーラン監督は一本の

映画を作るのに何千冊と本を読むらしい。

それだけのインプット量がないと、あれだけの濃厚な人間ドラマを描けないのだという。

どのみち、世界に通用するコンテンツを作るには膨大な読書量が必要なのだと思う。

本棚にあったナルトのスペースを空けることによって、新たにどんな本と出会えるのか? 

私は楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松本人志の手ぶらの美学に憧れて

 

「手ぶれでさっと帰る美学に憧れてて、この仕事しているようなところあるんですよ」

とある番組で松本人志羽生善治のニュースに、このようにコメントしていた。

 

手ぶらでやってきて、さっと仕事だけして帰る。

そんな仕事の姿勢に彼は憧れているのだという。

 

羽生棋士は何も持たず、長時間にわたって将棋をさし、一試合で体重が2キロも痩せてしまうことがあるらしい。

一つの手を考えるのに、3〜4通りから何100通りの手を考えて、一つ一つ将棋を指していく。凄まじいくらい集中力を必要とする職業なのだ。

 

すごい一手を思いついた時には、身体中が震えてしまうのだと言う。

そんな手ぶれでさっと仕事をしていく姿勢について松本人志が話していて

奥深いな〜と私は思った。

 

松本人志はよくお笑いについて言っているのだが、

彼は自宅からロケに入る間、基本的には全く何も考えてないで来ているという。

何も考えない方がうまくいくらしい。

自宅では基本ゲームばかりしているようだ。

 

あれだけの売れっ子芸人さんだから、本人ならではのお笑いの努力をしているかもしれない。

しかし、基本的にロケが始まるまで、仕事のスイッチが切り替わらないという。

頭を空っぽにして、手ぶらでやってきて、さっと笑いをとって、帰っていくのだ。

 

私は昔からお笑い芸人ほど難しい仕事はないと思っていた。

人を感動させることよりも、笑わせる方がはるかに難しいのだ。

お涙頂戴の感動話は意外と簡単にできてしまうと思う。

 

私も学生時代、アホみたいに自主映画を作っていたため、そこはなんとなくわかる。

脚本などを書いていくとお涙頂戴のスイッチって意外と作れてしまうものだ。

死んだ親戚の言葉や、両親の結婚秘話など、誰だって自分にしか語れない感動秘話を持っているはずだと思う。

 

人を感動させるメソッドは案外簡単なものだったりする。

しかし、人を笑わせるのだけは難しい。

絶妙なタイミングでさっと笑いをとっていく必要があるのだ。

それにみんな一人一人笑いのツボが違うはずで、場の空気に合わせて笑いも変えていかなければならない。

 

よく考えれば、私も友人と話をしている時に何度か感じたことがあるのだが……

人を笑わせようと思った時はその場のノリっで直感的に喋った方がうまくいく場合が多い。

笑いのネタをどう伝えようか、どの流れで話そうかとあれこれ考えているよりも、

その場のノリでさっと喋った方がうまく伝わるのだ。

 

頭を空っぽにして、その場のノリと直感でさっとしゃべる。

何かクリエイティブな作業をする時は、その何も考えずに、頭を空っぽにした状態というのがとても大切な気がしている。

 

私が記事のネタをパッと思いつくのは……たいてい風呂に入っている時なのだ。

頭を空っぽにして、湯船に浸かっている時が一番ネタが思いつきやすい。

 

この絶妙に頭を空っぽにして、何も考えないという感覚はとても大切な気がするのだ。

 

松本人志もあえて何も考えず、手ぶらで仕事場に来て、さっと笑いを生み出して、帰って行っている。

私はそんな松本人志の仕事の姿勢をカッコよく思う。

 

また嵐の二宮くんも同じような手ぶらの美学を持っていると思う。

確か、情熱大陸を見ていて知ったのだが、

彼は基本的にロケ中だろうが、撮影中だろうが、どこに行こうがゲームばかりしている。ゲームしながら会議の話を聞いていたりするのだ。

 

ドラマの撮影中なども、とくに台本を見直すこともなく、ずっとゲームをしているのだ。それなのにいざ本番になると誰よりもカッコよく仕事をビシッと決めていく。

 

クリント・イーストウッドの映画にも出たような俳優だ。

アカデミー賞の席にも呼ばれたことがあるアイドルだ。

 

そんな彼だが、基本、仕事場ではゲームしているのだ。

「ゲームしている方が集中できる」

と本人は言っていた。会議もゲームしながら聞いた方が頭に入ってくるらしいのだ。

私はその情熱大陸を見た時も不思議に思っていた。

 

なんで台本などを読み解くことなく、その場のノリでさっと仕事ができるのか不思議でならなかったのだ。

やはりクリエイティブな職業は、あれこれ考えて努力するよりも、その場のノリと直感でさっと決めていく方がうまくいくのかもしれない。

嵐の二宮くんもまた、手ぶらの美学を極めた人物なような気がする。

 

私にはライティングの師匠と言える人がいるのだが、その師匠は会議をしながらパソコンで5000字の記事をさっと書いたりする。

その記事がまためちゃくちゃ面白いのだ。

 

なんでこんなことができるのか私には理解しがたいのだが、師匠曰く

頭の回路を別にしているらしいのだ。

脳の左の部分で会議して、右の部分を使って、ライティングをしているのだ。

師匠もまたライティングにおける手ぶらの美学を極めた一人なのだと思う。

 

私はそんな手ぶらの美学にとても憧れるのだ。

パソコンの前に座り、ささっとその場で記事を書いて投稿する。

手ぶらでやってきて、さっと仕事をして帰っていく。

 

そんな姿勢がカッコいいと思う。そして、そうなりたいと思う。

手ぶらでやってきて、さっと仕事をしていく職人技はどうやったら身につくのか?

なぜ、松本人志も嵐の二宮くんも基本、何も考えずに仕事場にくるのに華麗にバシッと決められるのか?

たぶん、才能という部分もあるのかもしれない。

しかし、頭の中を空っぽにして、余裕のそぶりでさっと仕事を決めるのは、

やはり手ぶらで何も持たずにやってくるからという理由が大きい気がする。

 

何も武器を持たず、手ぶらでいるので、仕方なくその場にあるもので、ささっと調理していくのだ。

どの道のプロになる人にも、そんな手ぶらの美学というものが必要なのかもしれない。

手ぶらでやってきて、長年の経験からくる直感で、その場でささっと仕事をこなす。

そんな職人技に私は猛烈に憧れを抱いている。

 

どうすればそんな職人技を手に入れられるのか?

何も才能がない私にはその領域まで到達できるのか……まだわからない。

しかし、ライティングの師匠は言っていた。

「とにかく書け」

 

書いて書いて書いているうちに、長年の経験がストックされてきて、

手ぶらでも書けるようになるのかもしれない。

 

あれこれ考えている暇があったら、ひとまず書こう。

そんなことを考えて私は毎日のブログを始めた節がある。

いつか私も手ぶらの美学を極めた一人になれるのだと信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人を愛するということを大切にしてください」とYUKIは言った

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「人を愛するということを大切にしてください」

歌手のYUKIがラジオの中でリスナーに向けて言っていた言葉だった。

 

私はとくにYUKIのファンというわけではなかった。

だけど、一時期YUKIのラジオの音源をよく聞いていた頃があった。

母性の塊みたいな彼女の言葉に強く心を動かされたのだ。

 

JUDY AND MARY時代から音楽業界の第一線で25年近く活躍している人だからか……

彼女がいうことは一言一言が奥深くて、考えさせられるのだ。

 

YOUTUBEでラジオを聴いている中で、とある生きづらさを抱えていたリスナーへYUKIが語っていた言葉がずっと私の脳裏にこびりついているのだ。

 

「人を愛するということを大切にしてください」

YUKIは何度もそのことを話していた。

それだけを背負ってアーティストとして、自分は人の前で歌ってきたのだと。

 

 

はじめその言葉を聞いた時はよく意味がわからなかった。

なんで人のために生きなきゃならんのだ?

人を愛するということを大切にしなきゃならんのだ?

という風にしか捉えられなかったのかもしれない。

 

しかし、ライティングを始めた今ならYUKIがラジオで語っていたその言葉の意味がとてもよくわかる。

 

あるがままに生きたくても周囲の目線がそうさせない……

私はずっとどこか心の中で「生きづらさ」を抱えていた。

 

就活の時はとくに入りたい企業でもないのに、名のある大手企業ばかりを受けていた。

ただ「あいつ、あの会社に受かったんだって」と大学の同級生に自慢したかっただけだ。

就活アドバイザーの人は「自分の軸を大切にしろ」とよく言っていた。

 

自分の軸っていったいなんだ?

とくにやりたいことが明確にあったわけではない。

しかし、周囲が就活をするから自然とその流れで就活をしていただけだ。

 

私はずっと浮足立っていたと思う。

しっかりとした価値観がなくて、地に足がついていなかったのだ。

 

ずっと平均台の上を歩いて生きてきたため、突然社会の大きな海に放り込まれても

どこに向かって泳いでいいかわからなかった。

 

中学から高校、大学までずっと平均台の上を歩いてきた気がする。

高校受験も大学受験もそこそこ勉強はしていた。

元来、勉強することはそこそこ好きなタイプの人間だったので、受験勉強はわりとしっかりとやっていた。

しかし、勉強のモチベーションは常に「同級生より上に立ちたい」だった。

 

私は人とのコミュニケーションがとても苦手でクラスの隅っこに常にいるような生徒だった。クラスの中心的な華のある人を羨ましく思っていた。

 

あんなコミュニケーション能力を身に付けたい。

あいつらを見返したい。

どこかクラスの中で、「自分は他人より何か特別なものを持っている」という上から目線で人を見て、見下していたと思う。

 

とくに偏差値が高くないのに、有名大学ばかり受けていた。

 

就活の時も「自分は周囲の人間とは違う何かを持っているはずだ」と心のそこでは思っていて他人を見下していたのだ。

そんな浮足立って、他人を見下している奴を雇ってくれる会社があるわけがない。

ほとんどの企業が落っこちた。

 

私はずっと自分の軸がないことがコンプレックスだった。

体育会系の人や田舎から東京に来た人たちはどこか地に足がついて生きている気がしていて羨ましかった。

しっかりと自分の価値観を持っていて、自分ができることと社会が求めていることを把握し、社会という大きな海をうまいこと渡っているような気がしていた。

 

私はといえば、ずっと浮足立っていてどこに向かっていけばいいのかわからなかったのだ。

毎日のように飛んでくるお祈りメール(不採用通知)にうんざりし、頭がパンクしそうだった。

とくに何がしたいのかわからなかったのだ。

 

あるがままに生きよう。

自分らしさを認めてもらえる会社に入ろうという風潮が耐えられなかった。

 

あるがままっていったい何なんだ?

自分らしさっていったい何なんだ?

 

92年生まれのゆとり世代である私がずっと抱いていた疑問だった。

あるがままに生きようとみんな言うけども、あるがままって何なんだ?

と思っていたのだ。

 

あるがままの心を持とう……

しっかりとした自分の軸を持たない自分にとって、そんな社会の風潮は苦痛でしかなかった。

 

夢を持って生きよう……自分らしく生きよう……というゆとりの教育を受けてきたなかで、突然社会に出る手前になると社会の枠にうまくはまることを強要されるのだ。

 

何が何だかわからなくなってしまった。

学校で言っていたことと違うじゃんと思ったのだ。

社会は自分らしく生きている人間を求めているのではない。

社会のいうことをきちんと聞く人を求めているのだ。

 

私は自分が小学校から言われてきた価値観と社会が求めている価値観とのギャップに挟まれ、身動きが取れなくなっていた。

 

そんな時だっただろうか。

自分の軸をしっかりと持っている人たちのラジオの声を聞くようになったのは。

 

今の時代、ほとんどの人がラジオを聞かなくなってしまった。

しかし、自分の好きなアーティストや芸能人の考えや声をもっと聞きたいと思ったら

その人のラジオを聴くのがベストなのだと思う。

 

ビートたけし爆笑問題伊集院光の深夜ラジオをよく聴いていた。

芸能界の第一線で活躍している人たちの価値観や考え方は本当に面白い。

多くのリスナーを惹きつけるような喋りをしてくれるので2時間ずっと聴いていられるのだ。

 

そんな感じに深夜ラジオをよく聴くようになってからYUKIの言葉に出会った。

 

私はもともと、そんなにYUKIの根強いファンではなかった。

しかし、44歳であの美貌は凄すぎるだろとは思っていたけども……

 

確か、YUKI論という公開ラジオ収録で音楽ジャーナリストの人たちが

アーティストとしてのYUKI、母親としてのYUKIの凄さを思う存分語っていた番組を聴いて、私はとてもYUKIに興味を持ったのだ。

 

「バンドとしてあれだけ売れて、ソロになっても売れ続けている人はYUKI以外にいない」

そのように音楽ジャーナリストの人は語っていた。

確かにそうだと思った。

音楽に疎い私でもJUDY AND MARYというバンドは知っていた。

私が子供だった頃、YUKIがテレビでよく歌っていたのを覚えている。

ソロ活動になってもまだ活躍し続けているのだ。

 

 

あまり知られていないがYUKIは自分の幼い子供を亡くしている。

幼児性麻痺か何かの原因不明の突然死だった。確か昔ニュースにもなっていた気もする。

普通の人だったら幼い子供を亡くした時、悲しみのあまり動けなくなるだろう。

その頃YUKIに取材のアポを取っていたその音楽ジャーナリストは、

気を使って取材は中止を打診した。しかし、本人の口から

「取材は続けてください」

と言われたという。

子供を亡くしてわずか3日目のことだった。

 

そのアーティスト精神や彼女の力強さに音楽ジャーナリストの人は驚いたという。

なんだこの精神的な強さは……と感じたのだ。

 

私はその話を聞いた時に、なぜこの人はこんなにも力強く生きられるのか?

しっかりと地に足をついて人前に立って、歌い続けることができるのか? 

と思った。

そして、あの母性溢れる歌声は何なんだ。

 

YUKIの魅力と力強さに気づき、YOUTUBEにアップされていたYUKIのラジオを暇な時によく私は聴いていたのだ。

 

会社を辞めてしまい、世の中をさまよい歩いき、私はひょんなことがきっかけで

ライティングの魅力に気づきはじめた頃だった。

「とにかく書け! 書き続ければ人生が変わってくる」

とある人に言われこともあり、こうして書き続けているのだが、

今まではずっとワードファイルに保存して自分だけが見れるような状態にしているだけだった。

 

書いた内容を人には見せたくなかったのだ。

しかし、そのように自分のためだけに書き続けていたら、どんどん自分の殻に閉じこもった文章を書くようになってきてしまった。

2017年は毎日2000字〜5000字の記事を書くと決めていたが、どんどん自分の殻にこもった文章を書くようになって、書くのがつらくなってきてしまったのだ。

 

 

このままじゃダメだ。

そう思ってブログに記事をアップし、無理やりでも人に見せるよな形にしていった。

そうすると不思議に書くのが楽になったのだ。

 

無理やりでも人に見せる前提で書き始めたらすんなりと書けるようになったのだ。

今までのように自己満足のために記事を書いているのでなく、人に見せるための記事を書くようにしたら、一気に気持ちが楽になったのだ。

 

人をどう楽しませようか? という視点になった途端、書くのが楽しくなった。

その時にYUKIが言っていた言葉の意味がようやくわかった。

 

 

「人を愛するということを大切にしてください。多くの人は、自分は幸せになりたいというけれども、自分の幸せを願うよりも、相手の幸せを願ってください」

そうYUKIが言っていたことがやっとわかったのだ。

 

 

あるがままに生きたい。

自分らしく生きたい……

そんなことを言って「生きづらさ」を感じているのは、自分のことしか考えていない

証拠だったのだ。

 

相手をどう楽しませるか? という視点に変わっていったら「生きづらさ」など感じなくなるのだ。

 

自分のことなんてどうでもよくて、まず目の前にいる人をどう楽しませるか?

ということを考えるのが大切なのだ。

 

就活の時にあるがままに生きられなくてつらい……と感じていたのは

自分のことしか考えていなかったからだと思う。

もしあの時、相手の面接官をどう楽しませようか? 

仕事の合間に面接をして疲れている面接官にどうリラックスして楽しんでもらうか? という考えが自分にあったらあんなにも就活で苦しむことがなかったのかもしれない。

 

相手をどう楽しませるか? 

そのことを考えるのが大切なのだ。

 

もし、昔の自分のように、社会に対しどこか「生きづらさ」を抱え込んでいる人がいたらYUKIの言葉を思い出すのがいいのかもしれない。

 

「人を愛するということを大切にしてください」

 

私はライティングを通じて、その大切さに気づけたが、どんな職業でも当てはまるのかもしれない。飲食業なら、目の前のお客さんをどう楽しませるか?

営業なら、お得意さんをどう楽しませながら会話できるか? 

そんな視点を持つことが「生きづらさ」を少しでも緩和させる秘訣なのだと思う。

なんだか自己啓発本みたいなことを書いてしまい申し訳ない。

 

しかし、相手をどう楽しませるか? という視点が常に浮足立って「生きづらさ」を

抱え込んでいた私を救ってくれたのは事実だった。

 

私はYUKIのあの言葉を忘れないためにも書き続けるつもりだ。

いつかご本人に感謝の言葉を伝えられたがいいが。