ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

是枝裕和監督の「万引き家族」を観て、アラブ諸国のモスクを思い出した  

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常に浮足立っている感じが常にあった。

毎日、満員電車にゆられながら、会社に向かっていると、自分が荷物のような扱いを受ける。

ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で呼吸をじっとこらしながら、ただ耐える毎日。

 

自分が立っている位置を確保するのに必死で、周囲に目を配る余裕もない。

特に雨の日は最悪である。

 

多くの人が傘を持っているため、雨に濡れた傘がカバンにあたり、びしょ濡れになる。

 

始発から乗ってくる人は椅子取りゲームのごとく、目的地までじっと座っていられるが、途中の駅から乗ると、まず座れることはない。

 

ただひたすら自分の位置を確保するのに必死になる。

そんな缶詰状態の中に閉じこもっていると、たまに自分が生きているのかどうかわからなくなる瞬間がたまにある。

何かの糸がプチリと切れるかのように、ただ黙って時が経つのを待っている

感覚。

 

あまりにも情報が過多し過ぎで、自分の位置がわからなくなった時代と言われている。

忙しすぎる毎日に没頭するあまり、自分の立ち位置というか、自分が今何処にいて、どこに向かっているのかわからない感覚。

 

 

SNSを開くと、同級生たちが楽しそうな日々を送っている写真が投稿されている。簡単に他人と見比べることが出来てしまう。

 

自分って一体何なのだろうか?

ずっと、そんな風に浮足立っていて、生きている実感があまりわかなかった。

 

人と違うことがしたい。

人と違う自分でありたい。

 

そんな感情が渦を巻いて、ある時爆発して、異常に映画を観まくっていた時期があった。

大学生の頃は「何も持っていない」自分に嫌気が差して、家に閉じこもって映画ばかりを観ていた。たぶん、一日6本以上映画を観ていた時もあった。

 

そんな時だった。

是枝裕和監督のことを知ったのは。

 

「誰も知らない」を見たときの衝撃は今でも忘れられない。

こんなに後味が悪い映画がこの世にあるのかと正直思ってしまった。

現代社会に潜む、闇の部分をえぐり出す是枝監督の目線にただ、驚いてしまった。

 

ありふれた日常に潜む狂気というか、どこまでも続いていく日常のはずなのに、何かが壊れていく感じ。

そんな感覚がどの作品にも溢れていた。

 

カンヌを受賞した「万引き家族」。

これも見に行かなきゃなと思い、早速休日を利用して見に行くことにした。

なぜか突然の代休で休む事ができ、平日の昼間に映画館に駆け込むことが出来た。

 

映画館の中は人でごった返していた。

平日の昼間なのにこんなに人がいるとは驚いた。

やっぱり日本人の特性というか、賞を取ったものに異常に敏感になって、

みんなで同じ映画を観に、駆け込んでいるような感じだ。

 

映画が始まった。

正直言ってしまうと、自分にとって「そして、父になる」や「誰も知らない」の方が重く、ドシンと心に来るものがあった。

だけど、なんだろう、この感触。

スクリーンの前にいるはずの家族が途中から自分と重なって見えてきたのだ。

 

血がつながっていないが、絆で繋がる家族。

それは生きていくため、お金のために繋がりを求めて集まってきた家族なのかもしれない。

 

是枝監督のどの映画にも根底にあるテーマ「人とのつながり」

それが今作には一番わかり易い形でにじみ出ていた。

 

 

「私達はお金で繋がっているの?」

そんなことを登場人物の一人が語るシーンがあった。

生活のために集まってきた疑似家族。

だけど、どう見ても普通の家族以上に幸せそうだ。

 

映画を見終わったあとも、しばらくの間、ずっと考え込んでしまった。

あの家族が背負っていたものは何だったのだろうか。

なんで、あの場に集ってきたのだろう。

 

そんなことを考えている時にふと、アラブのモスクのことを思い出した。

 

大学時代のゼミでは、フランス映画学みたいなものを専攻しており、

その中でフランスの移民問題について、深く調べたことがあった。

多種多様な移民が混じりあり、アラブ各国から人々が集まってきている現在のヨーロッパ事情。

 

昔からパリに住んでいる人にとって、正直アラブ各国の移民は恐怖の対象なのかもしれない。

 

人種差別的な問題も浮上している中でも、秩序を保っている部分は何なのか。

アラブ各国の移民たちは、いつもある一定の時間になると礼拝堂(モスク)に集まってくる。皆、ある時間に一つの方角に向かって祈りを捧げている。

富裕層から貧困層まで、地位に関係なくある方角に向かって祈りを捧げている。

 

社会から一瞬、切り離され、自分と向かい合う時間を作っている。

 

そんな時間を持つことができる事によって、貧富の差を超えての秩序を保つ

理由にもなっているという。

 

現代社会はあまりにも高速で進みすぎだ。

高速で情報が過多していて、自分と向き合える時間がほとんどない。

 

そんな中でも、自分が依存できる場所を持つことが大切なのかもしれない。

どこか社会から自分を断絶できる空間や居場所。

 

それを求めて、映画の登場人物たちは、あの家に集まってきたのかもしれないなとふと、思った。

 

自分が依存できる場所。

心の拠り所というか、依存できる空間。

社会から断絶できる時間を求めて、人は世の中を彷徨い歩いている。

そんなことを強く感じた。