ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

一滴ずつだけど、バケツの水は溜まっていく  

 

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「最近、あまり写真撮っていないね?」

この頃、人に会うたびにこんなことを言われることが多かった。

 

「忙しくて写真取る暇がなくて……」

そんな言い訳をいっては、いつも言い逃れていた。

 

「いつも君の写真楽しみにしていたんだから、もっと撮ってね」

そう言ってくれる、お世話になっている方には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 

そうだよな。写真撮らなきゃな。

そして、記事も書かないとな。

 

そう思っても、なかなか記事も更新できず、一ヶ月近く経ってしまった。

 

一年以上前のフリーター時代はアホみたいに時間を持て余していたせいか、

毎日1万字近くの文章を書いていた。

 

今はどうなのかと言うと、一ヶ月に2000字くらいになってしまった。

書けないという言い訳はしたくない。

だけど、パソコンを前にしても全く心が動かなくなってしまった。

 

なんか最近、何も心が動かなくなった気がする……

そんなことを薄々と感じていた。

 

土日になって、映画を見ることがたまにあるが、映画を見ても明らかに昔よりも

感動する比率が低くなったのだ。

 

面白い映画を見て、「面白いな〜」と思うことはあっても、

感動する映画を見て、涙を流すことが本当になくなった。

 

大学時代は授業をサボっては、図書館で映画をみて、一人隅っこで映画の世界観に浸って、号泣ばかりしていた。

(小説とか映画の世界観にすぐに浸ってしまう性格)

 

昔はなにか本を読んだり、映画を見たりしただけで、すぐに心が動かされていたが、社会人になってからは、不思議と心が動く機会が極端に少なくなっていった。

 

 

なんでだろうか。

なんか心がカサカサになっていく感覚。

そう薄々感じつつも毎日の忙しない日々に奮闘しているうちに、いつしか一ヶ月以上何も書かず、写真を撮らない日々を過ごしていた。

 

 

こないだ、仕事で都心を歩いているとき、不思議なことが起こった。

自分の仕事は業務用のカメラの営業で埼玉だったり、東北地方だったり、いろんな場所を飛び回る。

 

そういった業務用のカメラのニーズが有るお客様はたいていが自動車産業である。大きな工場は多くの場合、都心でなく地方にあるので、営業先まで車で一時間〜二時間かかるのが当たり前である。

 

私は普段、車の運転が大嫌いで、ほとんど運転などしなかった。

まさか、社会人になって、毎日こんな長距離を運転する羽目になるとは……

 

ま、仕事だから仕方ないと思い、1時間以上の時間を書けて関東を飛び回る毎日である。

その日は代々木で仕事があった。

 

都心の方にお客さんがいるケースは少ないが、本社の方とちょっとした打合せがあったのだ。

 

 

久しぶりに電車に乗るな……

そう思いながら電車に乗って、毎日忙しない山手線の代々木駅に降り立った。

線路沿いに歩いて目的地に向かっていると、ふと目の前の光景を見て、立ち止まってしまった。

 

そこはなんの変哲もない、線路沿いの風景だった。

だけど、妙に心が動いた。

まるで、糸の線がプチンと切れるかのように、バケツがどっと溢れかえったのかのようにして、気がついたら涙がポロポロ溢れていたのだ。

 

周りの人からは怪しまれた。

サラリーマンの人が道路のど真ん中で涙をポロポロ流しているのだ。

それは確かに怪しい。

 

なぜか、その時、涙が止まらず、気がついたら立ちすくんでいた。

なんの変哲もない線路沿いの風景だ。

 

それなのに、心の糸がプチンと切れたのか、どっと感情が溢れてしまった。

しばらく深呼吸していたら、その症状はおさまったが、この出来事は何だったのだろうかとしばらく考え込んでしまった。

 

最近はずっと仕事に熱中していた、わりと無理ばかりしていた。

朝8時から終電まで仕事ばかりである。

 

喋りが下手で、人とのコミュニケーションが大の苦手な自分は営業の仕事なんて出来っこないと思っていたが、実際に営業の仕事をやってみると、しっくりきている自分がいた。

なぜか、飛び込み営業が大の得意なのである。

上司からは「仕事ばかりしていないで、家で休め」

とよく怒られるが、容量が悪く仕事が遅い私は

「20代のうちに、なるべく仕事を覚えなきゃ」と思い、多少無理してでも仕事ばかりに取り組んでいた。

 

体力は持っても、心にガタが来ていたいのか……

 

ある日突然、感情が溢れかえってしまったみたいだ。

普段閉じていた感受性がどっと開くようにして、どっと涙が溢れてしまった。

 

あ、最近は多少無理していたんだな……

 

その日は普段以上に早めに帰ることにした。

 

 

昔、読んだ本でこんな一説があった。

 

「書くということは心のバケツが溢れかえるようなものだ。

何もしなくてもいい。普通に生きていただけでバケツの水は溜まっていく。

そして、それがいっぱいになった時、その一滴一滴が何であったのかを理解するんだ。どんな人間だって、それが訪れる瞬間が、人生の中に訪れる」

 

最近は仕事に雁字搦めになりすぎて、あまり心に余裕を持てなかったのかもしれない。

少し余裕を持つようになると、ちょっとだけど毎日黒く色ずんでいた満員電車の光景が、明るく色鮮やかに見える様になってきた。

 

自分にとって、そのバケツの一滴が何なのかはまだわからない。

だけど、いつか、その一滴、一滴が何だったのかに気がつく時が来るのだろうか?

 

そんなことを感じつつ、たぶん明日も満員電車のなかに飛び込んでいくのだろう……

「何を捨てて、何を捨てないか?」その判断基準は結局……

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「どんな写真が撮りたいんですか?」

度々、出会う人にこんなことを言われる。

 

そのたびに私は返答に困ってしまう。

自分は一体どんな写真を撮りたいのだろう?

どんなことをやりたいのだろう。

 

 

頭のなかにはあやふやだが、何かを伝えたいという思いはあった。

だけど、言葉にしようとしたら伝わらない何かがいつもあった。

 

自分は一体何がやりたいのか。

 

カメラを買って、写真を撮るようになってからもうすぐ一年が経つ。

その間にいろんな方々とあった。

 

本物のプロのカメラマンともあったし、プロ級に写真が撮るのがうまいアマチュアの方々ともいろんな人ともあった。

 

会社にいても「あいつはなんかいつもカメラを持ち歩いているし、写真の話ばかりする変なやつ」みたいな扱いになってしまっている。

 

自分が入社した会社はカメラを扱う会社だった。

もともと映画が大好きで、映画と関係した仕事がしたいと思い、映画用のカメラや業務用のカメラを扱う会社に入社した。

 

カメラが好きということもあって、超自己中な性格で、そこそこ社会不適合なところが若干あるかもしれないが、なんとか一年以上続けて働くことが出来ている。

 

よく考えれば、上司と会話するときもいつも、カメラの話しかしていない。

 

「今度の週末どこに写真を撮りに行くの?」

金曜日が近づくと毎回そんなことを聞かれる。

 

この一年近く、周囲に「カメラが好きだ!」と叫び続けたこともあって、

最近だと「写真を撮ってください」と個人宛にメッセージを送って頂けることもある。

本当にありがたいことだ。

 

とにかく何でもいいから撮って撮りまくることを続けてきた気がする。

なんでこんなに写真を撮っているのだろうか。

 

「で、結局どんなことを表現したいの? 君は何がしたいの?」

そんなことを年配の方に投げかけられたことがある。

 

自分は何がしたいのか?

どんなことを表現したいのか?

 

最近だとデジタル一眼カメラの性能もすごく上がって、プロとアマチュアの差が殆どなくなってきている。

自分みたいな素人の目でも、普通に会社員をしていて週末にカメラを持っている方が撮った写真でも、プロとほぼ同じにしか思えない。

 

一昔前だったらカメラといったら高級なもので選ばれた人しか手に出来なかった代物のはずだったが、今ではビックカメラでプロ級のカメラが簡単に変えてしまう時代だ。

 

Instagramではプロとかアマチュアと関係なく、鮮やかで彩りのあるキレイな写真でごった返している。

そんな写真で溢れかえっている現代の中で、Instagramを眺めているとどうしても考えてしまう。

 

自分はどんな写真を撮りたいんだろう?

何がやりたいんだろうか。

 

 

何かモヤモヤとしたものがずっと腹の底にはあった。

何か伝えたい事があるのに、何か表現したいことがあるのに、何を伝えたらいいのかわかないもどかしさ。

それが腹の底で煮えたぎり、仕事をしていてもずっと、もやもやが消えなかった。

 

そんな感じで一年が過ぎ、ゴールデンウィークの季節になった。

普段ゴールデンウィークといったら、どこ行っても混んでいるし、飛行機代もバカ高いため、家でずっと引きこもっているのが常だったが、今年はなぜか違った。

 

ずっと日本に閉じこもって、会社で仕事ばかりしていた影響か、異常に海外に飛び出してみたくなった。

 

今年は海外でもいくか。

そう思い、何も考えないまま香港行きの飛行機のチケットを買った。

学生時代は一人でバックパッカー旅行とか行っていたので、あまり躊躇はなかった。

 

泊まるところとかも決めなくても、なんとかなるっしょ。

そんな適当な考えで、とにかく海外に行こうと思い、チケットだけを買った。

 

香港と決めたのはただ単にフォトジェネティックなイメージが強かったからだ。

満島ひかりが香港の夜道を蝶のように舞い踊る「ラビリンス」というPVを見て、香港に興味を持ったことも理由にあった。

 

とにかく行ってみたらなんとかなるっしょ。

 

そんなノリと勢いだけで、とにかく現地に飛び込んでみた。

 

宿を予約しなかったことが災難だった。

 

「No bookingの人は泊められないな」

どこの安宿を行っても、同じことを言われる。

 

何、中国にもゴールデンウィークってあるの。

てか、ゴールデンウィークって日本だけじゃないの!

 

 

香港は中国の特別経済区域である。

中国の異常な経済成長の影響もあって、中国本土からの旅行客が急増しているという。

それに香港がイギリスから返還されてから今までに自由貿易が加速されて世界中の企業がアジアの拠点を香港に置いている。

そのため、年間何万人もの観光客が香港を訪れているという。

 

中国の暦では5月の初旬が休みという事もあって、安宿がどこも満席である。

 

マジか……

完全に学生時代のノリで、ひとまず安宿に飛び込めばどこでも簡単に泊められると思っていたが、大の誤算である。

 

結局、一泊200香港ドル(3千円くらい)の安宿の部類になるドミトリーに泊まることにした。

 

案の定、異常に汚かったけど。

夜中にインド人が騒いでいるけども……

朝起きたら足にムカデがのっていたけども……

 

ま、安宿だから仕方ないか。

そう思って、適当に気ままに香港を旅して回った。

 

行き先も特に決めなかった。

泊まった先は重慶大厦という香港の中心街では有名な安宿で、宿の前の大通りには地下鉄の駅もあり、大型のバスもとまる。

 

特に行き先も決めず、バスに飛び乗って、適当に香港を歩いて回った。

(バスの行き先が中国語で読めず、下りた先が何駅なのかわからなかったため、だいぶ道に迷ったが)

 

ずっとブラブラしていたこともあり、最終日が近づくに連れて、体調が結構、しんどくなっていた。

炎天下の中、ずっと外をぶらぶら歩いていたため、体調不良になってしまった。

 

せっかくだけど、今日は宿の近くでじっとしているか……

 

貴重なゴールデンウィークの休暇だったが、奇跡的に6日も海外に行けた。

最初からかっ飛ばして、いろいろ回りすぎたのだ。

 

宿の近くにあったカフェで本を読むことにした。

なぜかよくわからないが日本から村上春樹の本を持ってきていた。

空港に向かう途中でふと本屋に立ち寄ったとき、気になって買ってしまったものだ。

 

「職業としての小説家」

結構有名な本だから知っている人も多いかもしれない。

 

世界的な小説家村上春樹が思う存分、小説を書くことについてまとめた著書だ。

自分はそこまで村上春樹が好きということでもない。

 

有名な本はいちよ全部読んでいるけど、めちゃくちゃ好きかと言われたら、そうとも言えるし、そうではないとも言える。

だけど、この人の考え方、なんか面白いなと思い、気がついたら読んでしまう。

 

本を開けて、読んでいった。

何で香港まで遥々やってきて、カフェで本を読んでいるのかよくわからないが、

日本にいるときはずっと会社に閉じこもって仕事ばかりしているので、たまにはこういう何もしない時間というものは大切なのかもしれない。

 

 

気がついたら夢中になって読んでしまった。

完全に時が経つのを忘れてしまった。

 

そこにはオリジナルについて書かれた一節があった。

 

「大切なことは自分から何かをマイナスにしていくことです」

 

小説を書く上でどうしても問題になっていくオリジナリティの問題。

その問題にぶち当たったとき、村上春樹氏はこう考えたという。

 

「自分から何かをマイナスにしていくことです。何かモノを作るとき、とりあえず必要のないコンテンツを捨てていけば、頭の中はスッキリします」

 

それで何を捨てて、何を捨てないかを判断にする時、

「それをやっていて自分が本当に好きかどうか」を判断基準にするという。

 

この小説を書いていて自分が心から楽しいと思うのかどうか。

心がワクワクするかどうかを基準にして、小説を書き続けているという。

 

なぜかこの一説を読んで結構考えさせられてしまった。

 

写真が好きだと周囲に言い続けたこともあって、最近だとちょこちょこと

「写真を撮ってください」ということを言われることがある。

 

可愛い女の子の前に立って、そこそこの一眼カメラでピンぼけをして、写真を撮るのは簡単だ。

可愛い写真は案外撮れてしまう。

 

だけど、自分が撮りたいものってなんだろうと結構考えてしまっていた。

自分がいままで撮った中で一番心がワクワクしたもの。

 

それは可愛い表情とかではなくて、どこか悲しい切なさがあって、少しもの暗い写真だったりする。

 

キレイな美女が写っている写真というよりも、

本を読んでいる物静かな風景、そういったものの方が好きである。

 

何かこの本を読んだことによって、少し答えが出てきた気がする。

ずっと、目の前に霧がかかっていたが、そのもやもやとした霧も少しだけ晴れてきた気がするのだ。

 

 

「どんな写真を撮りたいのか」

自分はこうでこうですという正確な答えはすぐにうまく言葉に出てこないけど、

「どんな写真を撮るのが好きなのか?」という答えは出た気がする。

 

海外まで出てきたかいがあったのかよくわからないが、日本に閉じこもっていただけだと見えてこなかったものが、薄ぼんやりと見えてきた気がする。

 

 

自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ  

 

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「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」

フェイスブック上に流れてきた、とある詩を読んで衝撃が走った。

 

なんだこれ。

なんでこんなにぐさっと心に突き刺さるのか。

 

 

詩を見て、衝撃を受けたのは初めてだった。

きっと詩を読んだのも小学校の授業以来だ。

 

この詩を書いた作者は一体誰なのだろうか?

SNSで書き込みがあったのは、この詩を読んで衝撃を受けた誰かなのだろう。

 

フェイスブック上のページにはこの詩を読んだ衝撃や、自分の人生観が変えられた出来事などが詳細に書かれてあった。

 

私はこの詩を読んで、ただ心に重く突き刺さってしまった。

 

本当に今、自分が感じていたことがこの詩の中に入っていたのだ。

 

「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」

 

社会人になってから早くも二年くらいが経つ。

正確に言うと一年ちょっと前はラオスの山奥を放浪していたりしていたから、社会人歴は履歴書上では一年だ。

 

学生という特権階級的なポジションから外れて二年があっという間に立ってしまったが、毎日忙しない満員電車の中に揺られていると何か感じるべきものも消えていっている自分に気がつく。

 

以前は感じていたはずの何かが、何も感じなくなっているのだ。

 

朝の通勤ラッシュ時に人身事故などが起こって電車が止まっていると

「なんで、事故が起こるんだろよ。お客さんとの打ち合わせに遅刻しちゃうよ」とイライラして、思わずそう呟いている自分に驚くことがある。

 

あれ……昔の自分だったらこんなこと思わなかったんじゃないか?

 

割と昔から人の目線や挙動にとても敏感な節があって、些細な言動や表情で、「この人はきっと今はこう考えているんだろうな?」

と考えなくてもいいことをぐるぐる考えてしまい、無駄に精神エネルギーを使っていた。

 

過剰に周囲の反応に敏感だったのかもしれない。

飲み会などがあると昔からとてもグッタリとしていた。

 

自分の家の近所に事故などが発生すると、他人事には思えなくて、なぜか悲しくなってきて、泣いてしまうような子供だった。

 

きっと、人身事故が起こって、誰かがきっと悲しんでいるに違いない。

そんなことをいちいち感じてしまう子供だった。

 

 

だけど、最近は人身事故や社会の隅に追いやられた人を街の中で見かけても、申し訳ないのだが、何も感じないのだ。

 

あれ、何で何も感じなくなってしまったのだろう。

昔だったら、どこかで事故があっただけで、自分に起こったことのように悲しくなっていたのに……

 

今は目の前にある仕事を効率良くこなすことに必死で、悲しい出来事と遭遇しても本当に何も感じなくなってきたのだ。

 

あ、これがもしかしたら大人になるってことなのかもしれない。

 

社会的に責任がある立場になると、他人の悲しみにいちいち触れている時間もなくなってくる。

 

 

目の前の仕事に追われていると、どうしても視野が狭くなってきている自分に気がつくのだ。

 

きっと、このままではダメだな。

直感的にそう思い、土日が来るたびに映画館に駆け込んで、ひとまず一旦仕事スイッチをオフにするようにしている。

 

映画館に飛び込んで、映画を見て、無理やりでも心を動かす経験をしていないと、休みの日もぐるぐると「見積もりを書かなきゃ、仕事のスケジュールを立てなきゃ」とずっと仕事のことを考えてしまうのだ。

 

 

感受性って、本当にどんどん磨り減っていくんだな。

そんなことを最近はとても痛感していた。

 

もともと持っていた感じるという心がすり減っていく感覚がとにかく嫌で仕方がなかった。

 

そんな時にこの詩とふと出会ったのだ。

詩を見た瞬間、自分が今、ちょうど感じていることはこれじゃないか!

そう思った。

 

「自分の感受性くらい、自分で守れ! ばかものよ」

作者は茨木のり子という。

 

この作者の名前は正直言って知らなかった。

誰なんだろう。こんなにぐさっと心に突き刺さる詩を書く人は……

そう思ってしまった。

 

「自分の感受性くらい、自分で守れ……」

 

最近は、文章も書けてないと思っていた。

忙しい毎日ということを言い訳にして、書くことから逃げていたのだ。

 

フリーターをやっていた時は嫌というほど時間があり、なおかつ社会で生きていく中で不満に感じることも多かったのだろう。

ライティングというものにはまって、アホみたいに書きまくっていた気がする。

 

 

しかし、今はどうなのか。

社会人になったから時間が持てない。

だから仕方ない。

 

何も感じることもなくなったから書かなくてもいい。

 

そう思って書くことから逃げていた。

 

 

「自分の感受性くらい、自分で守れ! ばかものよ」

40年以上前に書かれた詩だが、今の自分にはとても突き刺さる言葉だった。

 

忙しさを理由にして、書くことから逃げていたのではないか?

書くということはやっぱり生きていくことに直結しているのかもしれない。

 

生きていたら、自然と人に伝えたいことが出てくる。

何かを感じて、書かずにはいられない状況が出てくる。

 

「自分の感受性くらい、自分で守れ! ばかものよ」

満員電車の中、スマホでこの詩を見かけたとき、自分に投げかけられているようで、思わず身震いがしてしまった。

 

 

 

 

「 自分の感受性くらい」 茨木のり子

https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E6%84%9F%E5%8F%97%E6%80%A7%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%84-%E8%8C%A8%E6%9C%A8-%E3%81%AE%E3%82%8A%E5%AD%90/dp/4760218157

 

 

 

 

写真という名の鏡  

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「君は相手のことをしっかりと見ているのか?」

とあるプロカメラマンにあった時、こう言われた言葉が頭の中を反芻してならなかった。

 

「自分は何のために写真を撮るのか?」

「君は一体何になりたいのか?」

 

 

大学を卒業して早2年が経つ。

20歳の頃は人生なんて、まだまだこれからだという、どこか可能性に溢れているかのように思えていたけども、本当に月日が経つのは早い。

 

あっという間に時が流れて、25歳になった。

いろんな人が言っていた。

「21歳から時間の感覚が早くなって、20代なんてあっという間に終わっちゃうよ」

その言葉の意味がなんとなく最近わかってきた。

 

「君は一体どんな写真を撮りたいの?」

「相手の人のことをしっかりと捉えて写真を撮っているの?」

そうプロ中のプロカメラマンに言われた言葉がずっと頭に響き渡っている。

 

 

自分は一体どんな写真を撮りたいんだろう……

ましてや何になりたいんだろう……

 

思い返すと私は昔からとにかく「何者」かになりたくて仕方がなかった気がする。

とにかく「何者」かになりたくて、大学時代はアホみたいに映画を作り、

就活の時は何者かに近づけられそうな、クリエイティブな職業に憧れて、

広告代理店やテレビ局を受けまくっていた。

 

自分なら何者かになれる。

人と違って感受性にあふれている。

 

そんな自意識過剰な精神を持て余し、自分の周りの人にトゲを向けて、心のそこでは侮辱していたのだと思う。

 

自分なら何者かになれる。

ただ、そう信じていた。

 

そして、壊れた。

最初に入ったテレビ製作会社をすんなり、数ヶ月で辞め、海外を放浪しては空っぽになって日本に戻ってきた。

 

「君は何をしに海外まで行っていたの? ただ逃げたかっただけでしょ」

日本に帰ってくると多くの人にこんなことを言われた。

 

テレビの世界は過酷だってわかって入ったのに数ヶ月でやめるなんて……

 

転職活動の時は本当に苦労した。

新卒の時はちやほやされていたのに、自分の履歴書に書かれた経歴だけで

「こいつは数ヶ月で会社を辞める使えない人」というレッテルを貼られてしまうのだ。

 

面接の度に「なんで辞めたんですか?」と繰り返される質問の数々。

 

目の前にいる人を肩書きだけで判断する癖がある日本の風潮にうんざりしてしまい、本当に逃げたくなってしまった。

 

なんとか転職活動を続けて、やっと内定を出してくれる会社が現れた。

「4月まで待ってくれたなら、もう一度新卒と同じ扱いで採用してもいい」

そう言ってくれた今の会社にとても恩を感じてしまい、この一年はただがむしゃらに働いた。

 

大した営業成績も出せてないけど、誰よりも早く出社し、カタカタ仕事をしている。

 

毎日、終電近くの電車に乗って、疲れた表情で電車のつり革を眺めていると、

目の前にはいつもブツブツと嘆いているおじさんがいたりする。

 

みんなストレスを抱えながら必死に生きているのか。

そんなことを感じながら仕事に行く毎日だ。

 

大勢の人を吐き出すようにして開く電車のドアを眺めていると、

人生に本当に絶望していた自分でもこうやってなんとか生きていることに、驚いてぞっとしたりすることがある。

 

絶望して、死にかけていた当時、自分が見ていた一枚の写真……

 

「潜在能力を引き出せ」

ポカリスエットの広告で有名なとある若手写真家が撮った一枚の写真を見て、私はとにかくも魂が揺さぶられた。

 

全身全霊で踊り狂う高校生たちを捉えた写真。

その写真を見て、私はとにかくも圧倒的な生を感じてしまった。

 

あの写真を見てから心の中の空っぽだった部分に、何かが注がれるような何かを感じた。

 

あんな不思議な感覚になったのは初めてだった。

それから私は、たった一枚の写真を撮る写真家という人たちにとても興味を持った。

 

 

たった一枚の写真でも、人の人生を変えることがある。

絶望の中で見たあの一枚の写真が心に残り、兎にも角にも写真が撮りたくて仕方がなくなった。

 

とにかく写真家という人たちに会いに行きたくて仕方なかった。

今はいいことにSNSの時代である。

会いたいと思った人に会いに行ける時代でもある。

 

広告の写真を見て、このカメラマンに会わなきゃと思い、とにかく会いに行った。

プロだけでなくアマチュアで活躍しているカメラマンにも会いに行った。

 

いろんな人に会った。

 

「君は一体何になりたいの?」

自分は人から見ると空回りしているように見えるらしく、

そんなことをたまに投げかけられるが、正直な話、自分でも何になりたいのかはわからない。

 

だけど、今はとにかくいい写真が撮りたい。

自分だけしか撮れない写真を見つけたい。

そのことだけが全てだ。

 

写真は鏡に似ていると思う。

自分が相手をどう見ていたのか?

それが写真を通じてわかる。

 

相手が自分をどう見ていたのか?

写真を撮ってくれた相手が普段、自分をどう見ていたのかもわかる。

 

「君は相手のことをしっかりと見ているのか?」

「写真を通じて興味があるのは、相手との関係性だ」

そのようにプロカメラマンから言われた言葉の意味がちょっとずつだが分かってきた。

 

相手のことをしっかりと見つめているのか。

自分が撮りたいと思った絵と被写体の人が潜在的に自分をこう撮って欲しいと思っていた絵が合体した時の喜びが本当にたまらない。

 

そして、写真にしっかりと向き合うようになってから、自分がどれだけ小さな世界でしか物事を見ていなかったのかがわかった。

 

もともと人と話すのが本当に苦手で、飲み会とかに行くとぐったりとしてしまう性格だ。

休みの日なんて映画館に飛び込むくらいしかしてこなかった。

 

もっといろんな人と出会いたい。

もっと多くの人の写真を撮りたい。

 

そんなことを最近は強く思うようになった。

 

 

 

 

 

 

もし被写体になってくれる方がもしいらっしゃいましたら連絡お待ちしております。

jupiter4499kiku@gmail.com

 

 

 

社会の歯車に自分を合わせるということ

 

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「あ……これで自分も社会の歯車の一部分になるのか」

就活を終えた大学4年生の時、周囲にこんなことをいう人が多くいた。

 

よく考えると日本の大学生って人生で一番自由が効く期間だと思う。

映画館や美術館に行っても学生料金で入場できるし、休みは異常に長いし、

勉強の方は、理系は大変だけども、文系なら期末試験前にちょろっと勉強すれば留年することはまずない。

 

大学生ほど自由な人種はいないんじゃないか? 

と思うくらい自由である。

自分の知り合いは

「日本の大学生って人生の有給休暇だよね」と言っていたが、その通りだと思う。

自分もその4年間というぬるま湯に浸かり、のほほんと過ごしていた。

 

日本の大学は入学するのは大変だが、卒業するのは簡単だという。

 

その一方で海外の大学は入学が簡単で、卒業するのが大変らしい。

アメリカの大学生となると、卒業するために必死こいて勉強するという。

 

日本の大学生というぬるま湯にどっぷりと浸かっていた私は自由気ままな大学生活を楽しんでいたと思う。

 

授業がない日は一日中アルバイトをしていたり、映画ばかり見て過ごしたり、

社会人になった今考えると自由な時間がありすぎて、信じられないくらい暮らしをしていたと思う。

 

 

このぬるま湯にどっぷりと浸かっているせいか、いざ社会に出る四年生の時期になると「一生大学生をやっていたい」と思う人も出てくるのかもしれない。

 

自分も実はそうだった。

自由が効く時間が愛おしすぎて、社会に出ることが嫌で仕方がなかった。

 

「学歴があればいい就職先にたどり着ける」という誰が決めたのかわからない社会のレールに乗っかり、ずっとレールの上を歩いていただけなので、いざ自分の進路を決める段階になると何をすればいいのかわからなくなってしまった。

 

今思うと、どのレールに乗っかるのも、どんな選択をするもの全て自分の責任である。

 

だけど、当時の自分はとにかく社会のせいにして逃げ回っていた。

今まで自由気ままに過ごしていたけど、大学4年生という時期になるといきなり進路を決めろという。

一体、どうすればいいのか?

 

そんなことを思い、「こんな社会を作った大人たちが悪い」と思い、社会人になることから逃げていた。

 

フリーランスノマドワーカーという今はやりの自由な時間を使える仕事に就く勇気もなく、周囲に流されるように就活をして、自分もしっかりと社会の枠組みにはまるように努めていった。

 

大学を卒業して、就職先に選んだテレビ製作会社は、本当に申し訳ないけど、ただなんとなくで決めた。

昔から映画が大好きで、ちょっとでも映像に関われることに携わればいいと思い、選んだ場所だ。

「社会人になるのは嫌だけど、自分が好きなことだったら続けられるだろう」

そう思って決めたことだった。

 

本当に考え方が甘かった。

 

5日寝ずに働いて、ぶっ倒れてしまった。

辞表を提出した記憶がないほど、当時はノイローゼ状態になってしまい、気が付いたら会社を辞めてしまっていた。

 

一日中家で寝込み、社会との接点を一切無くした時期が続いていた。

当時は本当に死にたいと思っていた。

 

新卒で入った会社を数ヶ月で辞めてしまったという後ろめたさで、人と会うことですら怖くなってしまった。

 

なぜ、自分は社会とうまく折り合いがつけられないのか?

そう自問自答して、ずっと世の中を彷徨い歩いていた。

 

自分にふさわしい場所はどこなんだろうか?

 

当時そう感じていたこともあり、今ついている職場では、当時の恨みを晴らすべく死ぬほど働いていたりする。

 

「お前、いくらなんでも働きすぎじゃねぇか?」

と上司の人に何度も言われる。

 

「自分の居場所はどこなのか?」

 

1年前にそう悩み、ずっと世の中を彷徨い歩いていた自分を思い出したくなくて、今は仕事に没頭しているのかもしれない。

一年以上かけて、ちょっとずつ社会と折り合いがつけられるようになってきたが、今でもよく当時のことを思い出してしまう。

 

本当に今の世の中は価値観が多様すぎて、選択肢が多すぎて、自分というものをうまく周囲に合わせるのが難しくなってきている気がする。

 

SNSを開けば、同級生たちの幸福な姿が映し出され、他人と自分とを簡単に比較できてしまうので、強烈な嫉妬心を抱いたりしてしまう。

 

なんか便利にはなったんだけど、生きづらい世の中にもなった気もする。

 

そんな中で、ふとこの本と出会った。

暮しの手帖で編集長をやっていた松浦弥太郎さん著の「即答力」である。

本屋でふと見かけて、最初の一行がとても気に入ってしまい、即決で買ってしまった本だった。

 

「成功の反対は失敗ではなく、何もしないことだ」

 

著者の松浦弥太郎さんは若い時にアメリカを旅していたが、その時に強烈にこの言葉の意味を考えたという。

アメリカという社会は日本以上にコミニティーに入るのに、自己主張が必要となる。自分と社会と折り合いをつけるために、嫌でも自分の意思を周りに伝えていくことが必要になったという。

 

とにかく自分の殻を破って、コミニティーに入ったら世界が一気に広がった。

と著書には書かれてあった。

 

社会のニーズに合わせることは困難かもしれない。

それでも、少しずつ社会の歯車と自分の歯車を合わせて行った著者の努力がこの本の中には書かれてあった。

 

一週間ぐらいかけてこの本を少しずつ大切に読んでいったのだが、電車で読んでいると心が揺れ動く言葉がたくさん出てきた。

今でも自分がきちんと社会の歯車になって、きちんと動けているのかはわからない。

だけど、この本を読んでからどこか心の奥底がすっきりとした気がする。

昔の自分のように居場所を探し求めている人が読むのもいい。

社会と自分の歯車がうまく合わせられずにもがき苦しむ人が読むのもいい。

 

きっと自分と社会との接点について多くのことを考えさせるはずだ。

 

 

 

 

 

紹介したい本

「即答力」 松浦弥太郎

 

伝えたいときに伝えたい言葉が出てこないもの哀しさ

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「この人には会わなきゃ」

直感的にそう思った。

 

どこだったかよく覚えていないけど、駅の掲示板に貼られていて今話題のドラマの広告用写真を見て、衝撃が走ったのを覚えている。

 

なんだこの写真は。

世の中に絶望していた少女の眼差し。

 

なぜだかわからないけど、自分が心の奥底で抱いていたもの全てを目の前で表現されている気がした。

 

この写真を撮った人は誰なんだろう。

そんなことを思いながら、日々を過ごしていると、人間の思考回路って不思議なもので、注意がいっているものには自然と目に入るようにできているらしい。

 

普段はフェイスブックのタイムラインはあまり見ないのだけど、

終電近くの電車の中で、仕事で疲れ切ってクタクタのまま、ふとタイムラインを眺めていると、その写真のことが書かれた記事があった。

 

この写真を撮った人は一体誰なのだろうか?

ただ、興味本位でその記事を読んでいった。

 

 

その方はもちろんのことプロのカメラマンである。

それもプロ中のプロのカメラマンである。

多分、日本でいるカメラマンの中だと本当にトップ10に入る凄い人なのだろうと思う。

 

自分みたいな写真のど素人が見ても「この人が撮る写真、凄い!」

と衝撃が走ってしまった。

 

何かの縁で、つい先日この写真を撮ったカメラマンさんとイベントでお会いする機会があった。

 

「とにかく、この写真を撮った人に会いたい」

ただ、その一心だった。

 

昔から、何も考えずに「とにかく飛び込んでみよ」精神で育ってきたこともあり、

ひとまずイベントに飛び込んで見ることにした。

正直、本人と会うまでは緊張しすぎて、近くのコンビニのトイレに数分こもっていたりしたが、カメラマンさん本人を目の前にすると、なぜだか緊張の糸がほぐれてす〜と会話ができてしまった。

 

やっぱりプロのカメラマンさんだから、人を惹きつける不思議な魅力があるのか?

周りに集まってくる人も独特で、普段だと出会えないような刺激的な人ばかりだった。

 

不思議な空気の中、会話が進んでいった。

普段、私は全く人と話すのが苦手である。

 

人がいっぱいいる場所、特に飲み会などにいると会話の流れについていけず、

疲れ切ってしまう。

ちょっと対人恐怖症みたいな部分がある。

 

だけど、そのカメラマンさんを目の前にするとなぜかよく分からないが、普段頭の中で考えていることがどっと溢れてきて、止まらなくなってしまった。

 

 

言葉が溢れてきてしまうのだ。

だけど、きちんとした文脈になっていない。

 

頭の中にある思いとか考えをきちんと目の前の相手に伝えたいのに、

整理しきれていないことが自分でもわかった。

 

モヤモヤのまま、とにかく日頃自分が考え、感じていることを相手に向けて喋って行く感じ。

 

自分でも伝えたいが湧いてくるのに、きちんとした文脈で伝えきれず、目の前で言葉が滑り落ちていくのがわかった。

 

あまり、きちんと物事を考えきれてないんだな。

そんなことを感じている時、「君の写真見せて」と言われた。

 

恥ずかしながら、パニックになりとっさにスマホに保存してあった自分が撮った写真を数枚見せた。

 

反応は案の定薄かった気がする。

そうだよな。

プロ中のプロカメラマンの方に自分の拙い写真を見てもらっただけ幸運と思った方がいい。

自分の才能のなさを痛感するとともに、「とにかく人を撮る方がいい」と伝えてくれたそのカメラマンさんはこんなことを言っていた。

 

「自分が相手をどう見て、相手とどんな関係であるのか?」

 

日本だと、可愛い女の子を背景が真っ白でボケが決まっている、

可愛らしい写真を撮ることが好まれたりする。

それはそれで一つの正解なのだけども、同じような写真が大量に溢れかえっている。

 なんか正しいような違うような感覚が前からあった。

 

「自分が相手をどう見て、どんな風に相手を見ているのか?

相手の奥底まできちんと理解していないといい写真は撮れない」

そんなことをカメラマンさんは言っていた。

 

 

自分が今まで、どれだけ浅はかな写真を撮っていたのかを痛感してしまった。

普通に可愛い子が目の前にいたら、85mmの単焦点を解放にして、背景をぼかして撮影すれば、それっぽい可愛い写真は撮れる。

 

だけど、可愛いだけで、ただ目の前に広がるSNSの洪水に消費されていくだけの写真になってしまう。

 

 

「自分が相手をどう見て、相手とどんな関係なのか?」

それは写真に自然と現れてくるのだという。

 

なんだかんだ6時間以上お話しさせていただいた。

ヘロヘロになりながら家に着く前に、紹介していただいたアニー・リーボヴィッツドキュメンタリー映画TSUTAYAでレンタルした。

 

お恥ずかしながら現代写真家のアニー・リーボヴィッツを知らなかった。

完全に勉強不足だ。

 

夜中に偉大な写真家のドキュメンタリー映画を観ていると、アニー・リーボヴィッツという伝説の写真家のエネルギーに圧倒されてしまった。

とにかく写真が死ぬほど好きなことが画面から伝わってくるのだ。

 

「あ、自分ってこんなに写真を好きになれるのだろうか?」

 

そんなことを感じながら映画を見ていくと、カメラに向かってこんなコメントを述べている箇所が印象に残ってしまった。

いい写真を撮る秘訣に関して、アニー・リーボヴィッツはこう述べていた。

 

「私は相手の懐深くまで潜り込んで、写真を撮る」

とにかく、相手のことを深く深く理解しようとするのだという。

 

昨日、衝撃を受けたプロカメラマンさんにお会いしたのだが、その時言われた言葉を思い出した。

「相手のことをきちんと理解しているのか?」

 

 

まだ、頭の中が多分整理しきれていない気もするが、とにかくその時感じたことを言葉に残そうと今必死になって文章を書いている。

私がプロ中のプロカメラマンさんと実際にお会いして学んだのは、いい写真の構図でもなく、プロのカメラマンになる方法でもなかった。

 

「人ときちんと目を見てコミュニケーションをしているのか?」

そんなことを学んだ気がする。

 

 

普段人と話をしていても、

「この人はこういう職業についているから、こういう人だ」

「この人は一瞬、目を離したからきっと自分の話に興味がないんだろう」

と勝手に第一印象や相手のしぐさが気になってしまい、自分の思い込みによって相手を判断してしまう。

 

物事を自分の目線だけで勝手に決め付ける癖って自然と写真とかにも現れてくるのだろう。

 

相手のことをきちんと理解しているのか?

自分がどれだけ人ときちんと向き合っているのか?

そのことってとても大切なのだと思う。

 

 

この人を見て、こう感じた。

こういうことを周りの人に伝えたい。

伝えたいことがあるのに伝えたい言葉が出てこなくて、悔しい思いをしたことが何度もある。

何か人に伝えたいことがあるのに、それが何なのかわからずにモヤモヤとした気持ちがずっとあった。

 

だけど、そのカメラマンさんと会ってから少しその霧も晴れた気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生き方は水の流れのように

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「選択肢が多すぎて、価値観が多様で、自分というものを保てない」

ブログを書き始めて、一年ちょっと経つが、細々と書き続けているうちに、

本当にありがたいことにコメントをいただけるようになった。

 

 

最近は、あまりの仕事の忙しさに書くことをサボり気味であるが(反省しています)、結構前に書いた記事についてコメントをもらえることがある。

 

そのコメントを読むうちに、

「あ、このころはこんなことを感じてこの記事を書いていたんだな」

「この記事を読んで、こんなことを感じた人がいたのか……」

と感慨にふけったりしながら、涙が出そうになったりする。

 

そんな中、いつものようにように終電近くの満員電車に乗っていると、

ブログのコメント欄に書かれてあったこの言葉がす〜と脳裏に焼き付いてしまった。

 

「選択肢が多すぎて、価値観が多様で、自分というものを保てないんです」

 

なんかとてもズシンと心の奥底にくるものがあった。

自分が大学生の頃に感じていたこと、社会人になるようになり常日頃から感じていたことがこの一文に書かれていたのだ。

 

 

「選択肢が多すぎる」

多分、このコメントを書かれた方は自分と同世代なのだろう。

SNSの台頭で、人とのつながりも変化して、いろんな情報が殺到している現代社会でやっぱり自分と同じことを感じている人もいるんだと正直、思ってしまった。

 

選択肢の多様化……

 

 

特にこのことを強烈に感じたのは就職活動の時だった。

 

サイトにアップされている会社情報を見て、何をどう選んだらいいのかさっぱりわからなかった。

 

何でこんなに選択肢があるのだろうか……

 

 

今思えば、どの会社に就職するのか?

どんな生き方をするのか?

 

それを選ぶのは自分自身の問題なのに、当時の私は

「こんなルールを作った社会が悪い」と社会を罵っては、投げやりになりながら就職活動を続けていたのだと思う。

 

一体自分はどんな方向に進めばいいのか?

あまりにも膨大な選択肢の中から身動きが取れないでいる自分がいた。

 

結局、最初についてテレビの仕事はそそくさと辞めてしまい、

海外を放浪するふりをして、逃げてばかりいた。

 

「自分は絶対にサラリーマンなんて向いてない」

「社会人なんて向いてない」

そう思い、できるだけ遠くに逃げたい一心だった。

 

 

逃げるだけ逃げた。

だけど、結局答えなんて見つからなかった。

 

「どの方向に向かって歩けばいいのか」

ずっとその答えを捜し歩き、もがき苦しんでいたのだと思う。

 

数ヶ月ぶりに日本に帰ってきて、さすがにずっとニート生活をするのも嫌だなと思い、転職活動をしたのだが、完全に流されるままになんとか今の会社にたどり着いた感じだ。

 

「あ、再び社会人になるのか。会社勤めなんて絶対に向いてない。

営業の仕事なんて向いてない」

そう思っていたが、案外働き始めてみると、営業の仕事が自分にしっくりときていることに驚いた。

 

毎日、朝から晩まで働きづめだが、思った以上に仕事を苦痛とは感じていない自分がいるのだ。

むしろ営業の仕事にしっくりときている自分がいる。

 

「あれ、ものを売るってこんなにも楽しいことなのか?」

自分は元々、映画が大好きで、できるならそっちの映像業界で働きたいと思っていたが、業務用カメラを業界の人に売るという今の仕事が案外合っていたのかもしれない。

 

仕事をしながら、いろんな人と出会い、価値観と出会い、刺激をもらっていく感じが自分には合っていた。

 

 

生き方なんて考えだけ無駄だと思う人がいるかもしれないが、やはり人生の岐路に立たされる20代くらいの時には、自分の進路というものを嫌という程考えてしまうものだ。

 

自分はどう生きたらいいのか?

どんな仕事に就いたらいいのか?

 

25年しか生きていない自分がこんなことを言うのも恐縮だが、就職に一度失敗し、人生のどん底を見てきた経験を通じて、なんとなくだが見えてきたこともあった。

 

「悩んだら、流されてみる」

 

そのことが案外、一番大切な答えなのかもしれない。

自分が求めていることと社会から求められていることってほぼ100%違っているのだと思う。

 

「自分はこうなりたい」と思っても、周囲からは

「こっちの方が向いているんじゃないか?」と思われていたりする。

 

その自分がやりたいことと周囲が求めているものとのバランス感覚の均衡を保つことって、とてもとても難しい。

 

自分は転職活動の時、何になりたいのかさっぱりわからずにもがき苦しんで、

結局、流されるままに今の営業の仕事にたどり着いた。

 

 

喋りが下手な自分はずっと「営業なんて向いてない」と思っていたが、

元来、どこへでも飛び込んでしまう性格がある自分にはしっくりときている職種だった。

 

自分はこうなりたい。

こんな仕事に就きたい。

そう言った願望とか夢ってとても大切だと思う。

 

だけど、「夢を持って生きよう」「ありのままに生きよう」

というゆとりの教育方針を受けてきて、それにしっくりときている人もいれば、

多様化した生き方に生きづらさを抱えている人もいるのだと思う。

 

生き方って案外、水の流れのようで、流れてたどり着いた環境が自分にしっくりとくる場所だったりする。

 

ひとまず、ありのままに生きようとか関係なく、

たどり着いた環境で自分なりに頑張ってみる。

 

それが多様化した現代社会で一番大切な答えなのかもしれないなと最近は思うようになった。