書く上で一番大切なことって実はこのことじゃないのか
「ある程度PV数が増えてくるとアンチが飛んできます」
一年前に私がブログを始めた時、知り合いのライターさんに言われた言葉だった。
その時、私は書くということを始めたばかりで、そのアンチが飛んでくるという言葉にピンとこなかった。
正直、アンチが飛んできてもいいじゃんとも思っていたのかもしれない。
自分が好き勝手に書いている文章だ。
否定的な言葉が飛んでくるのは当たり前じゃんと思っていたのだ。
去年の今頃はフリーターのプー太郎をしていたので、ただひたすら書く時間だけはあった。
その頃は家とアルバイトを往復した生活を送っており、家に帰っても家族から白い目が飛んできていた。
はじめに就いたテレビ局の仕事があまりにもハードすぎて、精神的に壊れてしまい、
気が付いた時にはアルバイトですら怖くて仕事が出来ない有様だった。
大学生の頃は飲食店などの割とハードな仕事も何度か経験していたが、スーパーのレジ打ちですら怖くなってしまったのだ。
このままじゃ、いけない。
社会と接点を持つことを始めなきゃ。
そう思って、私が始めたのが書くということだった。
「とにかく書いて下さい。書けば人生が変わります。答えは書けです!」
なんの縁かでたどり着いたライティング教室で、ハイパーフルスロットルで働きまくっている店主さん兼ライターさんにそう言われ、私は書くということを始めた。
その頃は精神的に相当病んでいたらしく、今思うと、
とてもじゃないが恥ずかしくて読めない。
よくこんなこと書いていたなと読み返してみると恥ずかしくなる。
それでも書き続けていた。
書くのが面白いと思った。
自分の中に芽生えていた感情を相手に伝える。
そんなライティングという手段を身につけられたことは本当に幸運だったと思う。
気が付いたら自分の周りにはポジティブな人が集まってきていた。
プロのカメラマンとして生きていくと決めた人。
書くことで生きていこうと決めて、ブックライターをやっている人。
ニューヨークで日本人シェフとして活躍し、日本中を飛び回っている人。
書くことを始めた去年にかけて、本当に心から尊敬できる人たちと幸運にも出会えた。
ポジティブなことを書き続けると、自然とポジティブな人が集まってくるんだ。
そんなことを書いているうちに思ったりした。
本当に書くということは不思議で、ちょっとでも気分が乗らず、マイナスなことを書いてしまうと、どっとマイナスの発言をする人が集まってきたり、
ポジティブな発言をすると、今度は不思議な縁で社会でも活躍しているようなポジティブな人たちが集まってくる。
私は気がついたら書くのが面白くて、書いて書いて書きまくっていった。
そして、PV数もちょっとずつだけど伸びてきて、気が付いたらはじめて知り合う方にも「いつもブログ読んでますよ〜」と声をかけられるようにもなった。
その頃からだろうか。
書くのが辛くなったのは。
はじめは本当に些細なことがきっかけだった。
どうしてもPV数が伸びてくるとアンチなコメントが飛んできたりするが、
さすがにメールやらメッセージで直接アンチコメントを飛ばしてくるのは精神的にキツかった。
「感性が豊かで何者かになったかのように振舞っていて、読んでいて虫唾が走る」
周囲にトゲを発してくる人に、トゲのある言葉を返すと余計に炎上するだけだとライティングを通じて私は嫌という程痛感していたので、何も返信しなかった。
基本的にスルーするのが一番だが、さすがに直接メッセージやらメールを飛ばされるのは精神的にきつかった。
自分が書いた文章やら写真を通じて、少なからず不愉快な気持ちになる人がいるのか。
ちょっとずつPV数が増えていくにつれて徐々にそんなことを感じるようになった。
気が付いたら、人に好かれるようなことしか書けなくなっていた。
そして、書くのが辛くなってしまった。
SNS時代になるとほっといても人と自分を見比べる手段が多く出てきてしまう。
あ、あの人この上場会社で働いているのか……
この人もう結婚したのか……
ひと昔に比べて、自分と他人を比べる手段が増えてしまったので、いやでも承認欲求というものが膨大になってくる。
自分も毎日書いていたから、承認欲求の塊に見えていたのかな。
何者かになったように振舞っている痛いやつと思われていたのか。
そんなことを思うようになり、書くのがきつくなった。
人からアンチ的なコメントが飛んでくるのが怖くなり、身動きが取れなくなってしまった。
ちょうど同じタイミングで仕事が猛烈に忙しくなり、目の前にある大量の仕事に没頭しているうちに、気が付いたら書くということを忘れて行っていた。
忘れたというよりかは、書くことから逃げていたのだ。
フリーターを長くやっていたせいか、少ない給料ながらも今ついている営業の仕事が楽しくて仕方がなく、毎日誰よりも早く会社に出社し、夜遅くまで働きづめの毎日を送っている。
終電近くに疲れて目が死んでいる状態でも、いろいろポツポツと感情が芽生えてきている。
洪水のように溢れ出てくる感情を何かに残したい。
人に伝えたい。
そう思うが、人から批判的なコメントが飛んでくるのが怖くて、身動きが取れなかった。
ただ好き勝手に書くだけはもう終わりなんだな。
自分が書くことによって、少なからず、不愉快を感じる人がいるんだ。
書くのが怖くなり、何も書かない日が続いていった。
するとある時、こう思った。
あれ、元々自分って何のために書いていたんだっけ。
書くことによって、プロのカメラマンやライターさん、ベストセラー作家さんと出会うことができた。
会社経営をしていて、自分が好きなことを好きなだけやっている人たちと出会った。
好きなことを熱中して取組んで生きている人たちは、本当に目がキラキラしていた。
自分もそういった人たちに猛烈に憧れたのだ。
別にクリエイティブな何者かになりたいというわけではない。
だけど、生き生きと仕事に楽しんで取り組んでいて、周囲の人たちにパワーを与えていくような人たち。
そんな人になりたい、周囲の人たちに何か心に残るものを残したい。
そんなことを思い、私は書くことに没頭して行ったのだ。
書くということは鏡の前に立つことに似ている。
人前に自分の感情を見せびらかすと、人は自分をどう見ているのか?
自分は人にどう見られたいのか?
そんなことを嫌でも考えさせられてしまう。
だけど、もう人にどう見られるかよりも、自分自信を見失わないことが大切なのかもしれないと最近は思うようになった。
人に好かれる文章を書こうとしても、万人に受け入れられるものを書くことは不可能なのだと思う。
自分が書いた文章を読むことによって、少なからず不愉快を感じる人がいるかもしれない。
だけど、やっぱり自分の中に芽生えた感情を出すということ、
自分は些細な日常の中でこんなことを思って、生きていますよと人に伝えることだけはやめたくないと思う。大切にしたいと思う。
申し訳ないけどもそう思ってしまう自分がいる。
以前にとある人からこんな諺をもらったことがある。
この諺が好きで、よくたまに読み返したりする。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」
英語にすると、
「One must draw the line somewhere」
君子は誰とでも調和するが、道理や信念を忘れてまでも人に合わせることは決してしないという意味だ。
この英語にした時の音と言葉の響きが好きで、私は昔からよく読み返すことがある。
最近になってすごくその意味がわかってきた。
松岡茉優主演の映画「勝手にふるえてろ」を観て、才能の本質=リズム感だと気付かされた
「なんか松岡茉優がとてつもない演技していたよ」
普段、仲良くさせていただいている映画好きの方がSNSでこんなコメントを書かれていた。
松岡茉優?
あの「桐島、部活やめるってよ」の人か?
私は普段、ほとんどテレビを見ないせいか、日本の芸能界で活躍している人の名前をほとんど知らない。
アイドルのグループとかスマップくらいしかわからない。
女優さんの名前も映画で見かけたことがある人なら、なんとなく顔がわかるくらいで、あまり自分から名前をググったりしない。
映画は大好きだけど、作品や監督自体に興味はあっても、俳優や女優さんにあまり関心が向かなかった。
「とにかく松岡茉優が凄かった」
やたらと自分の周りにいる映画好きの人たちが声をあげてそう語っていた。
話題になっていた映画は去年の年末に公開された「勝手にふるえてろ」である。
正直、予告編を見る限り、あまり期待はしていなかった。
また、邦画特有の青春映画だろとしか思っていなかったのだ。
私は学生時代にはアホみたいに映画を見まくっていたが(年間350本)……
そのほとんどが洋画である。
なんか邦画特有の陰気臭さというか、内面をむき出して、客先に届けるというか、監督の個性と内面がスクリーンに出されている映画があまりにも多すぎて、どうも邦画は肌には合わなかった。
基本的に話題になっている映画は劇場に飛び込んで見るようにしていたが、
昔から「バックトゥザフューチャー」をはじめとした洋画を見て育ってきた影響か、邦画というものにどうしても抵抗があった。
「勝手にふるえてろ?」
また、陰気臭い邦画特有の青春映画だろ。
そんなことを思い、全く期待していなかった。
しかし、自分の周りにいる人にはやたらと評判がいい。
普段、あまりそんなことをしないのだが、ネット上でググってみると、
映画を見た人の評価も圧倒的に高評価が多いという。
一度見ただけで満足せず、何回も繰り返してみるリピーター客が増加中だという。
なんだ、このリピーター客で溢れかえっている映画は……
気になって仕方がなく、休みの日に見に行ってみることにした。
映画館は満員だった。
公開されて二週間以上経っているのに、満員ってすごいな。
しかも、超低予算映画のため、東宝シネマズなどの大型シネコンでは公開されていないにも関わらず、SNSで話題になり、映画館に駆け込んでいる人が増えているという。
人でごった返している渋谷の映画館の座席に座る。
時間になると本編が始まった。
周囲は若いカップルと映画好きのおじさんでごった返していたが、私は目の前のスクリーンに集中した。
とにかく面白いのである。
笑えるのである。
主演を演じる松岡茉優の演技といい、会話のテンポが凄すぎて、一瞬も見ていて飽きないのだ。
明らかに監督とディスカッションをしながら、楽しく、おかしく、撮影して行ったのだろう。
ところどころで笑いが散りばめられていて、会場は爆笑の嵐である。
自分も正直、映画館の中でここまで爆笑したのは初めてだった。
ものすごいセリフ量をものすごいスピードで話しまくる主人公の女の子の姿を見ていると、ずっと会話のテンポに追いつくことに必死で、見ていて一瞬も飽きない。
内面に生きづらさを抱えて、必死に生きている拗らせキャラの主人公を見ていると、自分と重なって見えてきてしまい、なんだか応援したくなるのだ。
涙が出てくるのだ。
ところどころに笑いがはさまれ、それに加えてシリアスなトーンに切り替わる。
私は終始、この映画を見ていてこう思った。
「よく、この映画ちゃんとした形になっているな」
コミカルなシーンと妄想なシーンがテンポつながっていて、普通だったらとても見づらいはずなのに、とにかく次の展開が気になって仕方がないのだ。
テンポがあまりにも良くて、見ていて心地よくなってくるのだ。
しかも、前半のコミカルなシーンを残しつつ、後半はきちんとシリアスな雰囲気になってくる。
24歳で都会の孤独に疲れ、妄想の世界に逃げ込んでいた女性が必死にもがきながら、懸命に生きて行く姿に涙が溢れてくるのだ。
映画が終わった瞬間、こう思ってしまった。
「もう一回見たい!」
とにかくあまりにも映画が面白すぎて、再び見たくなってしまうのだ。
リピーターが多いと聞いていたが、それも納得である。
自分のようにSNS時代に生きづらさを抱えている人にとって、共感できるシーンが多いと思う。
私は映画を見終わった後、帰りの電車の中でふと思った。
あれ? なんであんなに見やすかったのだろう。
とにかくテンポが早くて、スピード感がある映画なのにとてつもなく見やすいのだ。見ていて心地よいのだ。
あれ、これってもしかして松岡茉優の独特なセリフ回しのおかげじゃない。
あまりバラエティ番組は見る方ではないが、何度か主演の松岡茉優がバラエティで出ているところを見かけたことがあった。
やたらと独特なテンポで喋る人だなと思っていたが、このテンポ感が明らかに映画全体を支えている感じがあったのだ。
よく考えれば、ビートたけしも明石家さんまもしゃべりで一番大切なのは「間」だと言っていた。
独特なリズム感が笑いの出来を左右すると。
このリズム感って自分から生み出すものではなく、本人がもともと持っている才能の一つなのかもしれない。ダウンタウンの松本人志もとにかく独特な「間」がすごいと思う。
この映画を撮った監督もこのことを意識していたのだろうか。
バラエティ番組で普段見せている松岡茉優の独特なしゃべり方とテンポ感が画面全体に澄み渡り、しかも、監督が意図的にリズム感をなくさないようにシーンをつなぎ合わせていたりする。
とにかくテンポ良く次々と話が進んでいくので、見ていて心地よいのだ。
よく考えたら全てのコンテンツの質を左右するのはこのリズム感なのかもしれない。
私は普段、カメラで写真を撮ったりしているが、ある女性プロカメラマンに
「写真を撮る時はリズムというものを大切にしてくだいさい!」
と言われたことがあった。
最初は、なんで写真なのにリズムが大切なのだろうと思っていた。
しかし、毎日写真を撮るようになってから、いかに自分の中にあるリズム感というものが写真に影響を与えるのかがなんとなくだけどわかってきた気がする。
ポートレートなどを撮っていると身にしみて感じるのだが、
自分の中に持っているリズム感と、被写体が持つテンポ感が重なった時、異様にいい写真が撮れたりするのだ。
なんか相手のリズム感にあわせて写真を撮っている感じ……
この感じがたまらなく好きで、自分は写真を撮ることが好きなのかもしれない。
この誰しもが持っているはずのテンポ感、リズム感。
才能がない私が言うのも恐縮なのだが、リズム感こそその人の才能を左右するし、出来上がったコンテンツの質を大きく左右するのだと思う。
「勝手にふるえてろ」の主演を演じきった時に出てきた松岡茉優の独特のテンポ感は正直、努力で培うものではないと思う。
もはや才能なんだなと見ていて思ってしまった。
とにかく「勝手にふるえてろ」。
半端なく面白かった。
こんなに面白い映画久々に見た感じだ。
私たちはもっと日本古来のものから学ぶことがある気がする
「これはスティーブ・ジョブズが生前愛読していた本です」
大学時代、とある授業で先生がそう語っていた本をよく思い出す。
私は学生時代、基本的に授業中寝てばかりいたが、その先生の授業だけは真剣に聞いていた。
私が通っていた大学はギリギリなんとかMARCHという肩書きにすがりついているような大学で、自分が言うのもなんだが、授業を真剣に聞いている人もあまりいない大学だった。
私も学生時代は授業をサボって図書館にこもり、映画ばかり見ていて、
今思うと相当堕落した生活を送っていたと思う。
あまり真剣に勉強をする学生ではなかったが、とある授業だけは面白くて真面目に受けていた。
それは日本文化論の授業である。
文化論を担当していた先生は、数年前に芥川賞を受賞した作家さんだった。
(なぜ芥川賞作家の先生が、大学で教授をやっていたのかは今でも謎……)
芥川賞作家であり、しかも楽に単位をくれる(通称で楽単)の先生だったため、授業は全体で100人くらいの大人数が収容できる大教室で行われていた。
人数は多いが基本的に出席点さえカバーできれば単位が取れるので、ほぼ9割の人は寝ていた。
私も学期の前半は寝ていることが多かった。
しかし、先生が語る日本文化の根底にある、ある要素の話を聞いていると、
とても面白くなり、学期の後半は真剣にノートをとって勉強していた。
先生が授業中に語っていたとあるもの……
それは「禅」である。
私が授業を受けていた先生は、作家になる前は本気でお坊さんになろうと思い、
寺に入門しようと考えたことがあったという。
しかし、その後、何の縁かで小説を書くようになり、芥川賞にノミネートされたという。(その辺の経緯はあまり真面目に聞いてなかった)
授業中に語っていた「禅」という概念……
先生が小説家でもあることから、話は大抵クリエイティブな要素に展開されることが多かったが、とにかく日本のクリエイティブな部分と「禅」が密接に絡み合っているという話がとんでもなく面白かったのだ。
「禅」というとお坊さんが修行していたり、瞑想しているイメージが多いかもしれない。
私も先生の授業を受けるまで「禅」などに興味が全くなかった。
しかし、話を聞いていると日本古来から伝わる「禅」という直感的な思考法が、アップルやグーグルなどの世界トップクラスのクリエイター集団に少なからず影響を与えていることを知り、面白くて真剣に授業を聞いてしまった。
特に影響を受けてきたのはスティーブ・ジョブズだという。
ジョブズは若い時から「禅」というものに魅了され、一時期本気で京都の禅僧のもとに出家しようと考えるくらい「禅」に傾倒していたらしいのだ。
禅の根幹にある「雑音を捨てて、物事の本質を見抜く」という考えに相当影響されたのか、彼が作り上げたiphoneやMacbookはとにかく直感的に触れて、デザインの本質的な部分を極限まで洗練されて作られている。
「自分の心の声を聞く」
ジョブズの人生観に多大なる影響を与えたと言われる「禅」……
作家でもあるその先生は、小説家などをはじめとしたクリエイティブな世界でも、いかにこの「直感力」というものが大切なのかをこと細かく生徒に語っていた。
(授業中ほとんどの生徒は寝ていたが)
私は「禅」を熱く語っている先生に影響を受けて、日本古来から伝わる「禅」とは何か? と興味を持ち、京都の寺に修行に行ってみることにした。
今思うと謎の行動力だ。
朝の5時に起き、夜の24時までぶっ通しで座禅をする生活を一週間ほど続けた。
座禅に集中しようとしても、スマホやメールなどで毎日情報に踊らされている現代人には頭の中を空っぽにすることは案外難しい。
なんとなく「禅」というものの感覚が分かり始めてきた時に、修行を終えて東京に戻ることになった。
今でも「禅」って何なのか?
とこと細かく語れるほど詳しくはない。
だけど、写真を撮るようになってから、この「禅」の本質的な部分と写真というものが思いの外つながっていると思うようになってきた。
写真も「禅」も本質的なことは「捨てる」ことだと思う。
目の前に見えている360度の景色のどこを切り取り、どこを捨てるのか?
写真はファインダー越しに見える世界の切り取り方のセンスがとても問われるものな気がするのだ。
そして、頭の中で「この時はこういう構図で、この時はこれぐらいの光量で……」
などと理屈で物事を考えるよりも、
「あ! この景色いい」
と思った瞬間、直感でシャッターを切った方が案外いい写真が撮れたりする。
この直感的に物事を切り取っていく感覚が「禅」に似ている気がする。
この直感を大切にする「禅」の本質的な部分が、論理的な思考を大切にしている欧米人にとっては相当新鮮のようで、今でも京都の禅寺に通い詰めている外国人観光客が大勢いるという。
よく考えれば歴史に名を残す写真家も「禅」に傾倒している人が多かった。
アンリ・カルティエ・ブレッソン、ソールライターなども、「禅」に傾倒し、浮世絵などの日本画をコレクションしていた。
19世紀の画家も「禅」の根本的な部分が詰まった浮世絵に相当影響されていたという。
アップルやグーグルのハイパークリエイティブな人たちも、
「直感的に物事を見て、余計な雑音は捨てる」
という「禅」に影響され、昼休みは瞑想に励んでいる社員も多くいるという。
世界に影響を与えている「禅」。
私たちは古くからある日本古来の文化や概念からもっと学ぶことがあるのかもしれない。
私は写真を通じて、「禅」の奥深さにちょっとずつ気が付いた。
ちなみにスティーブ・ジョブズが生前愛読していたと言われるのは
オイゲン・ヘリゲル著の「日本の弓術」。
論理的な思考を持ったドイツ人の博士と、日本古来の弓術の師範との交流を描いたこの本は、世界中で出版されるほどの名著。
レンズ沼にはまる私が、貴重な週末をビックカメラで過ごしている本当の理由
「あ! いつもありがとうございます」
笑顔で店員さんにこう言われ、つい照れ笑いをしてしまった。
「さすがに通いすぎたか……」
社会人になってから、念願の一眼カメラを手にするようになり、約半年以上経った。
カメラにどハマりしてしまい、最初は標準ズームレンズを買って写真を撮っていたが、
「次はちょっと広角よりの単焦点レンズが欲しい……」
「今度は望遠レンズが欲しい……」
「あっ、もっと解像度が高いGマスターレンズが欲しい……」
などと、カメラにハマり、レンズの特性によってファインダー越しに見えてくる景色も違ってくることに気がつくと、ついついレンズが欲しくなってしまった。
世に言うレンズ沼というやつだ。
あっ、もっと広角のレンズが欲しい……
写真が好きになればなるほど、このレンズの沼にどっぷりと浸かってしまうことになる。
昔からカメラには興味はあった。
映画が好きで仕方なく、映画用のカメラやレンズを扱う会社に入るほど、
カメラや映画が大好きである。
結局、担当になったのはハイスピードカメラの部署で、映画の人とあまり関わりないが、まぁ、大好きなカメラに毎日触れられる今の環境は割と自分にはしっくりきているとは思う。
カメラが好きで、毎週ビックカメラに通い、レンズを眺めているが
いかんせんレンズは高い。
安いレンズでも5万は平気で超えてくる。
最高級のGマスターレンズとなると20万は余裕に超える。
あ、いいな、このレンズ。
とレンズをビックカメラで眺めはするものの、到底手が出る値段ではなく、
普段は眺めるだけで終わってしまう。
何も買う予定がないなら、別にビックカメラに行かなくても、知り合いの人にレンズを借りたりすればいいかもしれない。
しかし、私には毎週ビックカメラに行くのが自分にとって、プラスになることがある。
それは……
営業の勉強になるからだ。
とにかくビックカメラに行くと営業の勉強になるのだ。
私は普段、業務用のカメラを売っていることもあり、少しはカメラには馴染みが深い方だとは思う。
しかし、今の一眼カメラはどこのメーカーの高性能であり、他社と比較してもあまり違いが見当たらない。
キヤノン、オリンパス、ソニー、ニコン、FUJIFILMなど多くのメーカーがあるが、あまりカメラに興味がない人が店に行っても、どこのメーカーがどんな特性を持っているのか何が何だかわからないと思う。
そんなほとんど競合他社と違いがなくなってしまった現代のカメラ業界で、店員さんたちが凌ぎを削って、自分が担当している部門のカメラをお客さんに売り込む姿を見ていると、とても営業の勉強になるのだ。
スペックの違いがない時、どうやってものを売り込むのか?
ある営業マンは大きさの点でソニーのカメラが優れているというかもしれない。
しかし、昔からレンズが豊富なニコンの方が使い勝手がいいことをアピールするかもしれない。
自分も普段、業務用のハイスピードカメラを扱い、売り込んだりしているので、
ほとんど解像度で違いがなく、価格の面で競合と負けている時、どうやって売ればいいのかと頭を抱えている。
実際に営業の仕事を行い、売り込みに行っているからこそ、ビックカメラの店員さんの営業トークがとても自分の仕事の参考になるのだ。
私は普段、ソニーのα7Ⅱというカメラを使っていることもあり、ソニーのレンズを眺めることが多い。
多分、会社の方針でソニー担当の人は店頭で数秒立っている人には声をかけるようにしているのだろう。
普通にレンズを眺めているだけでも「何かお探しですか?」と声をかけてくる。
もちろん、自分の財布事情でレンズなんてすぐに買えるわけではないのだが……
うまい営業マンに捕まった時と、下手な営業マンに捕まった時の、
接客時間の満足度が天と地ほどの差があることに最近気がついた。
とにかく優秀な営業マンに捕まると、レンズを買うことが自分の運命だったと錯誤してしまいそうになる。
最近だと、
「このレンズは本当にどこの店舗も品切れ状態だったのですが、ついさっきキャンセルがあったんですよ。今ならすぐにお出しできます」
とマネージャークラスの店員さんに言われてしまい
(多分、相当優秀な営業マン)、
ついつい興味があったGレンズを買ってしまった。
(冬のボーナスは吹き飛んだが、最高級のレンズなので大満足ではある)
つい冬のボーナスを吹き飛ばすほどのGレンズを買ってしまったが、
なぜあの時、営業トークに惹きつけられてレンズを買ってしまったのか考えてみたら、レンズを買うことが運命だと自分で思ってしまったからだと思う。
あの時、心のそこでは「レンズが欲しい。自分の財布事情もあるが誰かに背中を押して欲しい」と思っていた。
そんな時にマネージャークラスの営業マンに理性ではなく、感性に訴えかけられ、ついついレンズに手を出してしまったのだ。
結局、人がものを買う時は理性ではなく感性に訴えかけられると「買う」という行動に移ってしまうのかもしれない。
自分が普段、営業の仕事をしていることもあり、最近はやたらと「買う」ということに興味がある。
自分の主観かもしれないが、世の中にある仕事の大半が
「何かの価値を相手に売る」または「価値あるものを相手に提供する」ことだと思う。
接客業の人も、商品を相手に売っている。
バスの運転手も乗客を目的まで運ぶ価値を相手に売っている。
エンジニアの人も、時間と人件費をかけて、プログラムを構築することで価値ある情報を相手に売っている。
ほぼすべての仕事が結局のところ「売る」ということにたどり着くのかもしれない。
小説家やカメラマンなどのクリエイティブな世界の人たちも、
価値ある小説を読者に売り、価値ある写真を編集者に売っているのだ。
結婚も就活も、結局のところ自分の価値を相手に売るということに結びつくので、この「何かを売る」ということも相当大きな意味を持っている気がする。
もともとサラリーマンなんて死んでもやりたくないと私は思っていた。
喋りが下手くそな自分は営業職なんて向いていない。
そう思っていた。
だけど、すべての仕事は、結局のところ「売る」ということに結びつく……
そのことに気がついてから、「営業」の仕事が面白くなってきた気がする。
「人よりも上に立ちたい」という、あの感情……
「人よりも上に立ちたい」
よく考えれば大学生の頃の私はこの感情に動かされて、空回りばかりしていたと思う。
「自分は他の人と何か違ったものを持っている」
「ちょっと人と違った職業に就きたい」
そんなことを思い、何かに取り憑かれたかのように映画ばかり見て、自主映画ばかり撮っていた。
「自分は人よりも上に立つことができるはず」
そんな無駄な自尊心に蔑まされて、就活の時もどこか他人目線でいる自分がいた気がする。
ちょっとクリエイティブな感覚を持っている自分ならどこかの広告代理店なら受かるはず……
そんなことを思い、アホみたいに倍率1000倍のマスコミ各社を受けて、アホみたいに落とされまくっていた。
「自分は何か特別なものを持っている」
そんな自尊心に動かされ、他人を心の奥底で侮辱している自分が嫌で仕方がなかった。
就活の時は30社以上落とされ、本当に精神的に気が狂っていたと思う。
「自分は結局何がしたいのか?」
新卒で入ったテレビ関係の制作会社も、5日連続で寝ずに働いた結果、電車に飛び降りそうになった。
「本当に自分は何がやりたいのか?」
「自分の仕事は何なのか?」
さっぱりわからなくなり、しばらく海外放浪の旅に出ていた時期もあった。
今思うと、何で学生の頃の自分はあれほど
「人よりも上に立ちたい」と願っていたのか不思議に思う。
とにかく「自分は何か人と違ったものを持っている」
「ちょっと違った感性を持っている」
と信じていたかったのだと思う。
そんな感情を抱きながら他人を心のそこで侮辱している自分が嫌で仕方がなかった。
転職活動をして、ようやくきちんと社会人として働くようになった今、
もう「特別になりたい」というあの感情も消えていったが、心の奥底ではきっとまだ持っているのかもしれない。
何だろう……この「人よりも上に立ちたい」という感情は。
そんな時、ふとこの映画と出会った。
映画のタイトルは昔から知っていた。
本国のアメリカでは超低予算映画にもかかわらず、スマッシュヒットを飛ばし、
出演者が次々とトップスターの仲間入りになった映画だ。
昔からこの映画のことは気になっていたが、ティーンエイジャー向けの恋愛映画と聞いて、どうしても見る気がしなかった。
どうも昔から恋愛映画というものが苦手で、邦画特有のキラキラした青春映画に見えて、どうしても手に取ってみる気がしなかった。
年末に見る映画をどうしようかと思い、TSUTAYAを歩いていると、
ふとこの映画のパッケージが見えた。
ま、一度くらいは見てもいいかな。
そんな軽い気持ちだったと思う。
やけに映画のパッケージのデザインが気になってしまい、気が付いたらレジに向かっていた。
どうせキラキラした青春映画だろう。
ま、暇つぶしにいいか。
そんな軽い気持ちで映画のストーリーも知らずに見てみることにした。
映画の本編が始まった瞬間、やばいなと思った。
あ、この映画やばい。
学生時代にアホみたいに年間350本以上も映画を見ていたせいで、最初のオープニングショットが映画全編の雰囲気を決めることは知っていた。
面白いと思う映画は、ほぼ100%……
オープニングからどこか人の心に突き刺さる何かがあるのだと思う。
野生の直感というか、人の脳内にイメージがこびりつくかのようなオープニングが後世まで語り継がれるような映画にはあるのだ。
このティーンエイジャー向けの恋愛映画にも、どこか人の心に琴線に触れる何かがあった気がする。
最初の1時間ほどは普通のラブストーリーである。
今やハリウッドを代表する若手俳優とヒロインが奏でる恋愛映画だ。
だけど、後半はただのティーンエイジャーものの恋愛映画と違って、どんな人の心にも響くセリフの数々があった。
それは60歳以上の方が見てみると違った見方ができるかもしれない。
また、30歳ぐらいの働き盛りのサラリーマンがみると違った解釈が生まれるかもしれない。
20代の進路に迷っていた昔の自分のような人にも、またどこか心に響く何かがあると思う。
重い病に倒れ、自分の命の灯火を懸命に燃やす18歳の男女が奏でる独特の世界観はきっと多くの人の心にも届くはずだ。
この映画では、人生で一番大切なことは何か?
ということを問いかけている。
「多くの人に自分の存在を示したい」
「誰かに自分を認めてもらいたい」
どこか「自分は特別でいたい」と願っている人もいるかもしれない。
だけど、大勢の人に認められるより、ただ一人にきちんと愛され、認めてもらえることがどれほど幸せで、愛おしいことなのかをこの映画では教えてくれる。
映画「きっと、星のせいじゃない」
ただのティーンエイジャー向けの恋愛映画だと思っていたが、全くそんなことはなかった。
原題の「The Fault in Our Stars」とあるように、
ラストシーンで亡くなった恋人の面影を夜空に探し求めるヒロインの姿を見ていると、
「自分の人生で大切なものは一体何なのか?」と考えさせられてしまう。
何かを「売る」ということは……
「こんなに本を買ってたのか」
2017年も終わりに近づいてきて、夜中に一人で大掃除をしていた時、ふと思った。
あまり棚とか整理していなかったため、私の部屋の本棚はぐちゃぐちゃである。
それを一気に片付けていると自分が今年読んできた本の量に驚いたのだ。
「え? こんなにビジネス書読んでいたの!」
棚を整理していると、ビジネス書がなだれ込むようにして出てきたのだ。
全て会社に向かうまでに満員電車の中で読んできた本だった。
しかも、ほとんどがビジネス書である。
学生の頃はほとんど本など読んでこなかった。
小学生の頃から文字の読み書きが大の苦手で、本を読んでも内容が頭にほとんど入ってこなかったのだ。
大学受験の時も国語の偏差値は40台である。
日本史やら英語で無理やりカバーして受験競争を乗り切った感じだ。
そんな大の国語嫌いだった私が、2017年に死ぬほど本を読んでいたのである。
あれ、なんで自分ってこんなに本を読んでいたんだろう?
思い返せば2017年は自分の周りの環境も大きく変化していた年だった。
去年はずっとフリーターのプー太郎をしていた。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞めてしまったため、行く場所もなく、ただひたすら東南アジアを放浪していたりしていた。
「どこに向かって歩けばいいのか?」
本当に全くわからなかった。
自分は社会人に向いていない。
サラリーマンなんて絶対に無理だ。
そう思い、何もやりたいことも見つからず、ただ家に引きこもってばかりでいた気がする。
さすがにこのままではダメだと思い、何10社と落とされながらも何とか今の転職先の会社に辿り着くことができた。
配属先は営業である。
人とのコミュニケーションが大の苦手な自分に営業なんてできるはずがない。
そう思っていたが、さすがにずっと家に引きこもっているのもどうかと思い、
内定をいただけた会社に入社することにした。
営業の仕事を始めてから、驚いた。
意外と仕事が面白いのだ。
自分が勤めているのはカメラを扱う会社で、業務用のカメラや映画用のカメラの代理店などをやっている。
自分は業務用のカメラの担当だが、初めはとにかく覚えることが多くて死にそうになった。
業務用のカメラのニーズがあるのは、主に自動車産業や溶接の現場である。
まさか社会人にもなって、自動車の部品を覚えることになり、溶接の手法を勉強する羽目になるとは思わなかった。
最初は嫌々やっていたが、日本の産業を支えている自動車メーカーの人たちと関わるようなり、そこで働いている人たちの姿を間近で見ているうちに、いつしか自分の心も変化してきた気がする。
この人たちが日本の自動車を作っているのか……
自動車のピストン一つとっても何万人という技術者の人たちが関わって部品を組み立て、毎日夜中までピストンを改良して、燃費がどうすれば良くなるのか?
と研究している人たちがいるのだ。
この技術者たちがいるおかげで、日本の自動車は世界一燃費がいいのだ。
自動車のワイパー一つ見ても、何万人という技術者たちが日夜改良を重ねている。
そういった技術者の人たちはとても頑固で、まるでリアル「陸王」みたい現場だった。
この技術者の人と対等に会話をできなければ、カメラを買ってもらえるようにはならない。
そう思い、がむしゃらに自動車の部品やら溶接の手法を勉強していった。
そして、ビジネス書を読み漁り、「どうしたら売れるのか?」ということを真剣に考えていった。
学生の頃は飲食店などでアルバイトをしていたが、
「ものを売る」ということがこんなにも難しいものだとは思わなかった。
相手のニーズにしっかりと応えなければ、「これを買います!」と言ってもらえないのだ。
むしり取るようにしてビジネス書を読み漁り、読むだけでなく実際の営業の現場でアウトプットをしているうちに、少しずつだけどなんとなく見えてきたものもあった。
結局、自分が相手にどれだけ価値を与えられるのか?
これが一番大切なんだな……と思うようになったのだ。
営業って結局のところ、「相手に認められること」である。
結婚も就活も、「自分の価値を相手に認められてもらうこと」
になるので、やっていることは営業の仕事と一緒である。
テレアポ一つとっても、相手が「この人と会っても意味がない」
と思われてしまったら、断られてしまう。
いかにして相手に価値を提供できるのかが大切な気がする。
自分は就活の時も海外を放浪していた時もずっと、
「誰かに認められたい」と思っていた。
「君にはクリエイティブな素質がある」
「人とちょっと違った価値観を持っている」とか、どこかのクリエイティブな広告代理店の人とかに言ってもらいたかったのだ。
電通やら博報堂のクリエイティブな人たちなら自分の才能に気づいてくれる。
そんな上から目線な心を持っていた。
人に認められたと思って、無理に人脈を作ろうとしても、誰も自分のことを見てくれることはなかった。今思えば当然である。
人に認められるには、自分が相手のために何ができるのか?
相手にどんな価値を与えられるのか?
このことを考えることが一番大切な気がするのだ。
究極のところ、あらゆるクリエイティブな仕事もこの利他の心が大切な気がする。
とにかく相手のためを思って、何かを書く、写真を撮るというコンテンツを作っていくことが、プロというものなのだと思う。
この写真を通じて、相手にどんな価値を与えられるのかが一番大切なことな気がするのだ。
自分はまだ営業の仕事を始めて日が浅いが、社会に出てから多くのことを学んでいった気がする。
むしり取るようにしてビジネス書を読み潰したことも無駄ではなかったのだと思う。
カメラを持つと「死」に怯えた日々を思い出す
こんなことを書いてもいいのか正直今も迷っている。
普段、ブログを書くときはどこの誰かが読んでいるのかもわからないため、自由に自分の気持ちを素直に書いてしまっているが、もしかしたらこの文章はどこかの誰かを傷つけることになるかもしれない。
身近な人が亡くなった時、人は何を思うのか。
私にとって、初めて訪れた身近な人の「死」は小学生の時だった。
学校から帰ってくると、母親が興ざめた表情で私に語ってきたのだ。
「おじいちゃんが亡くなった」
その時、私は何が何だかわからなかった。
体調が悪いとは聞いていたが、夏休みまで元気に過ごしていたおじいちゃんが亡くなるなんて信じられなかったのだ。
確かに末期の癌だとは聞いていた。
夏休みにあった時は、顔色が真っ白で体調が悪そうだったが、
孫である私には元気いっぱいの笑顔を見せてくれた。
思い返せば、祖父の体調の変化に初めて気がついたのは春休みの頃だった気がする。
その頃はまだ癌も発症していなく、普段通りに孫の私を可愛がってくれ、
いろんな場所へ連れて行ってくれた。
その頃から祖父はあることを訴えていた。
「足が痛い」
やたらと足が痛いと訴えていて、湿布を貼っていたのだ。
捻挫でもしたのかな?
私はそんなことを考えて、あまり大きな問題として捉えていなかった。
まさか、その足の痛みが癌の転移だったとは思わなかったのだ。
結局、夏に癌が発覚してからはもう手遅れだった。
気がついた時には全身に癌が転移していて、余命わずかだった。
命を削ってまで、癌の痛みに耐えていた祖父はベッドの上で何を思い描いていたのだろうか。
命を燃え尽くした祖父の表情はとても凛としていて、清々しい笑顔を浮かべながら眠っていた。
私にとってそれが初めて見た人の「死」だった。
つい最近まで普通通りに生きていた人が突然動かなくなったのだ。
祖父の顔に触れてみると、びっくりするくらい冷たかった。
顔だけを見ていると、「おお、来たか! 東京から遠かっただろ」とひょこっと飛び起きそうな感じがするが、もう二度と起き上がることはない。
葬式を済まして、火葬場から出てくる煙を眺めていると、私は何だか不思議な思いがした。
骨と灰になった祖父の姿を見ていると、自分の中にあった何かが壊れていく感触があった。
小学生だった私は、骨と灰と化した変わり果てた祖父の姿を見て、
「あっ、人って死ぬんだな」
と強烈に思ったことを今でも覚えている。
人はどうもがこうが、いつかは死ぬのだ。
それは明日かもしれない。
もしかしたら100年後かもしれない。
だけど、絶対いつか人は消えて無くなる。
そんなことを強烈に思ったのだ。
そこから不思議と小学生ながらも「死」というものを、どうしても身近な存在にしか思えなくなった。
人はいつか消えて無くなる。
そんなことを強烈に感じるようになったのだ。
叔父が亡くなったのも唐突だった。
ある日、眠っている時に心臓発作になり、そのまま亡くなったのだ。
42歳の若さだった。
普段通り会社に通い、日々の生活を過ごしていたという。
しかし、ある時突然、魂が抜け落ち方のように動かなくなった。
小学生の頃に立て続けに身近な人の「死」を体験した私は、何かに取り憑かれたかのように「死」について考えてしまうようになった。
明日死ぬのは自分かもしれない。
もともと眠りが浅かったが、寝付けない日々が長らく続いていた。
眠ってしまうと二度と起きることはないのかもしれない。
そんなことを強烈に感じるようになったのだ。
普段、何気なく過ごしている日々も、もう二度と見ることができないのかもしれない。
そんなことを頭の片隅にずっと思い描いていた。
中学や高校の頃か、地平線の彼方に沈んでいく夕日の光を眺めるために、わざわざ自転車で多摩川を爆走し、夕日を眺めに行っていた。
地平線の彼方に沈んでいく光の筋を見つめているうちに、
もうこの光は二度と見えないかもしれない。
哀愁深く、黄金色に澄み渡っている和泉多摩川駅から眺める景色を見ながら、
私は強烈にそんなことを感じていた。
いつも私の心を動くきっかけになる景色は何だったのか?
そのことを考えるとどうしても「死」というものを考えてしまう。
自分は明日死ぬのかもしれない。
日頃、怠惰な心で過ごしてしまう自分の戒めを込めて、なぜか哀愁漂う夕日を眺めていると、どうしてもそんなことを思ってしまう。
この美しくも、儚い光はもう見ることができないかもしれない。
そんなことを子供の頃から頭の片隅にずっと思い描いていたのだろう。
大人になり、カメラを手にしてからも猛烈に子供の頃に描いていたこの感情を思い出してしまう。
この美しくも儚い光はもう見ることができないかもしれない。
見ることが出来るうちに切り取って、形に残したい。
そんなことを強烈に思うのか、仕事をしていようが、会社に出社していようが、カメラのファインダー越しに世界を眺めたくなってしまう。
この景色をもう二度と見ることができないのかもしれない。
とにかく儚く消えていく、ありふれた日常にある時間というものを切り取りたくて仕方がない。
つい、最近も親戚がまた一人亡くなった。
癌が発覚して、3ヶ月も経たないうちにこの世を去ってしまった。
本当にあっという間だったという。
残された私にできること。
それは、ひたすら毎日を真剣に生きることだと思う。
普段、会社に出社して忙しい日々を過ごしていると、どうしてもそのことを忘れてしまう自分がいる。
本当に自分は毎日を大切に生きているのか。
そんな自戒の念を込めて、私はありふれた日常を大切にするためにも、ファインダー越しに見える世界を大切にしたいだと思う。
自分は真剣に生きているのか。
ありふれた日常を切り取っていく時、私の頭の片隅には、どうしても身近な人の「死」というものがちらついて見えてくる。