【ゆとり世代に告ぐ】私は、ありのままで生きたいと思っていたけども……
「ありのままの君たちの姿を映画で描いてください」
とある学生映画祭で審査員を務める映画監督の人がそう言っていた。
「学生映画なんだから技術はどうでもいい。それよりも君たちが何を感じ、何を考えているのかをぶつけてくるような熱い映画を見たい!」
そんなことを言っていた。
その時、私は客席からそんな審査員同士のディスカッションを聞いていた。
ありのままを表現してください。
ありのままの自分でいてください。
ゆとり世代である私のような人間には常に「ありのまま」というキーワードがついて回っていたと思う。
ありのままに生きよう。
自分らしくあろう。
そんな平成のゆとり教育を受けてきた影響か、今の若い世代にはノマドワーカーやフリーランスという生き方に憧れを抱く人が多い。
(自分も似たようなもんだが……)
学生時代に私が自主映画を作っていた時も、この「ありのまま」というのがネックになっていた。
「もっと自分を吐き出せ!」
「あるがままに自分というものを表現しろ!」
どこの学生映画祭を回っても、そんな風潮が良しとされていた。
自分が学生だった頃は、園子温監督の映画がブームだったので、彼のように人間の中に眠るドロドロの気持ちを吐き出すような作品が多かったのだ。
私もそんな学生映画祭に流れる自主映画を見ていて、ありのままの自分を表現すれば評価されるんだなと思っていた。
その頃は死ぬほど自主映画作りに熱中していたため、何が何でも学生映画祭で賞をとって、大学生のうちに頭角を出す! と私は張り切っていたのだ。
家にこもっては自分を掘り下げていって、自分のありのままというものを脚本に込めてみた。
自分を深掘りしていって、頭を抱えながら書いた脚本は、友達に見せたら割と評判は良かった。
これならいける!
この脚本なら賞を狙えるぞ。
そう思い、急いで役者をやってくれる子を探して、約四ヶ月以上かけて映画を作っていった。今回だけは生半可な気持ちでやりたくない。自主映画だからといって馬鹿にされたくない。そう思い、少ないバイト代を使って、本物の大学病院でロケをしたりした。
病院ロケは大変だった。
学生の自主映画といっても、いろんな手続きを踏まなければならないのだ。
診察室を使える時間も限られていた。照明など細かくチェックする暇もなかった。
普通に考えて、このカット数をわずか3時間で撮りきるのは無理があった。
しかし、どうしてもこの映画だけは撮り切りたかったのだ。
自分のありのままが詰まった映画なので、私は異様な熱意を込めてその映画を作っていたと思う。
カット割りを極端に減らす方法を考え、撮影2週間前から早撮りできる方法を考えていった。
その甲斐あって当日はスムーズにテキパキ撮影できたと思う。
撮影していた時は、2月の真冬の季節だったので、凍える寒さに耐えながら私はカメラを持って走り回っていた。何週間も前からロケ地である聖蹟桜ケ丘の坂道を走り回ってはいい絵が撮れる場所を探していた。
私は毎日カメラを持って、映画を撮り続けた。
こればかりはきちんとした形にしたい。
あるがままの自分を見て欲しい。
そんなことを思っていたのだ。
完成した映画を上映会で流してみた。
私が四ヶ月も走り回り、死に物狂いで撮った映画だ。
見る人はどんな反応をするのか楽しみだった。
映画は約60分だった。自主映画にしたら長編の部類になる。
上映が始まった。
お客さんはちらほら入っていた。
少ない人でもいい。
自分のありのままが人に届けばいい。
中盤から異変に気付いた。
なんだかお客さんたちが寝だしたのだ。
体を揺らして明らかに映画に飽きていたのだ。
そしてほとんどお客さんが寝てしまっていた。
私はショックだった。死に物狂いで真冬の聖蹟桜ケ丘を走り回り、自分のありのままが詰まった自主映画は誰の心にも届かなかったのだ。
今ならわかる。それは自分の独りよがりに過ぎなかったのだと。
カメラも全て自分でやり、脚本も全て自分が作り、編集も自分で全てやった。
捨てるべきシーンもここは自分にとって大切にしたい場所だからと言って、あえて詰め込んだのだ。
見直してみると無駄なシーンばかりで退屈されるような映画になっていた。
私は当時、結構落ち込んでいたと思う。
自分のありのままを表現しても誰も見向きもしてくれない。
どうしたら自分をもっと吐き出せるんだ。
そんなことを思っていた。
就活の時も、ありのままということがネックになっていた。
自分と企業との相性でほぼ決まる就活は、よく恋愛に似ていると言われている。
ほとんど相性がいい企業とめぐり合えるかどうかなのだ。
面接官も数多くの就活生を見ているため、能力や学歴以上にその人の体から発せられる雰囲気や言葉遣いで内定を出すか出さないかを決めている。
なんとなくこの人は仕事できそう。なんとなくこの人は会社の社風に合わなそう。
など、日本の就活は全てがなんとなくで決まって、よくわからない物になっている。
就活アドバイザーの人はよくこう言っていた。
「面接の場では話を盛らないでください。ありのままに喋って、相性がいい企業に入れた方が入社してからのミスマッチが減ります!」
私もありのままの気持ちで面接に挑んでみることにした。
「私は自主映画を作っていました。多くの人と関わりながら映画を作ることは〜」
などとありのままに自分がしてきたこと、自分が考えていることを企業の面接官にぶつけていった。
自分を演じずに、ありのままを話していった。
すると結果は……
ほぼ全て落ちた。
ありのままの気持ちをぶつけた方がいいって言ったじゃん。
素直な気持ちで、面接官に話した方がいいって言ったじゃん。
私は社会から必要とされてないような気がして相当就活には苦しんでいたと思う。
日本社会に蔓延る「ありのままでいよう」「ありのままの自分でいよう」という風潮に私はうんざりし始めていた。
しかし、ありのままで生きるためにフリーランスやノマドワーカーといった自由を謳歌できる仕事に就く自信はなかった。社会人経験が極端になく、空っぽな自分には、そう言った世界に飛び込んでいく勇気がなかったのだ
私はずっとありのままの自分とは何なのか?
ありのままで生きるって何なのか? と考えていたと思う。
ライティングの魅力に気づき、こうして文章を書くようになっても常にありのままということが意識にあった。
ありのままの自分がこもった記事の方がバズるのか?
あるがままの記事の方が人に思いが伝わるのか?
そんなことを気にして書いていたと思う。
しかし、ある時気付いた。
ありのままでなく、ある程度自分を演じるということは相手への優しさになっているのかもしれないのだと……
私は2017年はとにかく書くということを大切にしようと、毎日記事をワードにまとめて書いていた。人に見せるのは恥ずかしいので、パソコンのフォルダに書いた記事を保存していったのだ。
しかし、人に見せることを前提に書いていないので、どんどん自分の殻にこもったものを書くようになり、書くのが苦しくなった時期もあった。
自分を掘り下げていったも空っぽな自分に気づき、虚しくなるだけだ。
私は書くこと自体が苦しくなってきた。
このままではダメだと思い、こうしてブログに書いて無理やり人前に見せるようにしていったのだが……
人に見せることを前提にして記事を書いていくと、不思議と書くことが楽になったのだ。書くのが楽しくなったのだ。
ここはこうした方が読みやすいかな?
このタイトルはインパクトあるかな?
など常に読む人の目線に立って、書くようにしたら楽しくなったのだ。
あるがままに生きられず生きづらさを感じていた自分は、常に自分のことしか考えていなかったのかもしれない。
ありのままの自分で居られる場所を求めていたのだ。
しかし、世の中自分の思い通りになることなんてほとんど無い。
あるがままに生きようとするのではなく、相手のことを思って何をするか?
ということが一番大切なのだと思う。
常に相手をどう楽しませたいかを考える。
相手の視線に立って考えていくと、自分が抱えていた生きづらさがなくなるのだ。
私はライティングを通じて、ようやくそのことに気づけた。
あるがままで生きようとするから、自分を傷つけてしまうのだ。
自分を傷つけないようにするためにも、他者への思いやりというものが大切なのかもしれない。
それが、私たちゆとり世代の人間が最も大切にすべきことなんじゃないかと最近は思うのだ。
就活に失敗した私がGReeeeNの映画「キセキ あの日のソビト」を涙なくして見れなかった理由
「なんで私ではなくて、あいつが選ばれるんだ」
大学の同級生で大手企業に受かった人を見て、私は劣等感に包まれていた。
私は大学4年生の時、就活というものをしていた。
前評判で「就活だけは一筋縄ではいかない」
「人生最大の嘘つき大会だ」みたいなことをよく聞いていた。
テレビのニュースでも3月の就活解禁とともに、リクルートスーツを着た集団が、一列に並んで企業の採用説明を聞いているのを私も見ていた。
なんだかよくわからないけど、就活というものは大変なんだなと思っていた。
ま、自分はどこかの会社に受かるだろう。
そんな風に就活に対し、あまい考えを持っていた。
私はどこか傍観者の目線になっていたのだ。
大学時代には死ぬほど映画を見て、自主映画を作って、人一倍クリエイティブな自分であろうとしていた。
「君は人と違った素質を持っている」
「人と違った考えがあって面白いね」
と電通や博報堂のクリエイティブっぽい人にそう言われたかったのだ。
私は倍率1000倍を誇る民放キー局などのテレビ局を受けていった。
大手広告代理店などマスコミもに受けた。
人生をかけたマスコミ就活となると、就活生は皆全力で面接に挑んでいく。
本気でテレビ局に受かりたい人など、エントリーシートを100枚くらい書いて、全国のテレビ局に送り、全国を行脚していた。
テレビ局の面接となると、いつもスーツケースを持ち歩いている人を多く見かけた。
「今日は東京の〇〇局を受けて、明日は名古屋の〇〇局の第一次面接を受けに行きます」
交通費だけでいったいいくらになるんだ……
なぜ、そこまでテレビ局にこだわるんだと私は思っていた。
「ずっとマスコミで働くのが夢だったんです。だからマスコミに強い早稲田に入りました」
スーツケースを抱え、全国を行脚している組は、どこの集団面接でも全力で挑んでいた。そんな彼らを見て、私はノリでテレビ局を受けている自分が恥ずかしくもなった。
あんなに受けても、内定が出て入る会社は一つじゃん。
そこまでしてマスコミにこだわる必要があるのかな……
私は心のそこでそんな風に思っていた。
私はマスコミ対策本などを読んで、早めから就活について勉強し、自分なりのエントリーシートを作成していた。
就活セミナーの無料面接対策講座を受けて、集団面接の注意点なども学んでいった。
大学の学生相談室にもエントリーシートを持ち込んで、採点してもらったりした。
これだけ努力したんだ。
まぁなんとかなるでしょ。
そう思っていた。
しかし、結果は惨敗だった。
集団面接はなんとか通過するも、個人面接でいつも落ちた。
周囲の人は皆必死になって、その企業の魅力を語っていたと思う。
私はというと……とくに行きたい企業などなかったのだ。
ただ、大学の同級生に「〇〇局から内定が出た!」と自慢したかっただけなのだと思う。
働けたら華やかでかっこいいからという理由でマスコミを受けていたのだ。
私は常に「自分は特別なものを何か持っている」と思い込んでいたのだ。
皆が必死こいて就活をしている中、常に傍観者の目線になっていた。
そんな自己陶酔に陥っているやつを雇いたいと思ってくれる会社があるはずがない。
私はほとんどの企業から不採用通知が飛んできた。
就活後半戦になると落ちることが普通になって、就活自体に対し、嫌気がさしてきた。
単位のため週に何回か大学に行っていたが、4年生の授業に出ると周囲では就活の話題で持ちきりだった。
「あいつ商社受かったらしいよ」
「ゼミの友達がテレビ局受かったって」
「俺、〇〇商社から内定出た」
自分が受かった企業の名を自慢し合うのが日常になっていた。
私はそんな彼らを見ていて、後ろめたい気持ちになっていた。
なんで私じゃなくて、あいつらが選ばれるんだ。
なんで誰も私を必要としてくれないんだ。
そんなことを思っていた。
就活で不採用通知がバンバン飛んでくると、なんだか自分は社会から必要とされていない人材のように思えて、私は苦しくなっていた。
エントリーシートの自己PRを考える時も、自分の特技は一体なんなのか必死に考えて、自分を掘り下げていったものの、空っぽな自分に気づいて虚しくなるだけだった。
私の居場所は一体どこなんだ?
そんなことを常に感じていた。
結局、私はとある制作会社に内定をいただき、就活を終えることができた。
就活はいちよ終わったが、このままでいいのかという不安があった。
私はただ人に自慢できるような会社に入りたかっただけなのだ。
しかし、結果は惨敗だった。
私は自分なりに必死こいて就活をしていた。
しかし、ボロクソに落ちた。
どんなに努力してもダメなものはダメなんだなと思った。
倍率1000倍を超えるテレビ局から内定を出るような人はどこか人とは違う特別なものを持っているんだ。
自分は選ばれなかった方の人間なんだ。
そう思い、私は劣等感に包まれ、ほとんど大学にも行けなくなっていた。
結局、私は内定先に就職することにした。
今思うと就活を通じて私が体感したことは……
「物事はなるようにしかならない」ということだった。
同じ大学を出ていて、同じような顔つきの人がいても、ケロッと大手企業に受かる人もいれば、何回チャレンジしても受からない人がいる。
こればかりは努力でどうにかなる問題ではないと思う。
就活の場合、ほとんどが面接官との相性で内定が出るか出ないか決まってしまうため、
受験の時のように努力すればどうにかなる世界ではないのだ。
私はマスコミに受かりたいと思って、何十社と企業を受けていた。
しかし、ほとんど受からなかった。
当時の私は自分がやりたいことと社会が求めているものとのギャップにもがき、苦しんでいたと思う。
大学を卒業したのちに入った会社でも常にその気持ちを抱えていた。
ここは自分の居場所ではない。もっと他に自分の個性を伸ばしてくれる場所があるはずだ。そんなことを思っていた。
結局私はあまりにもブラックだという理由で会社を辞めてしまった。
転職活動をしながら世の中をさまよい歩いた。
自分の居場所は一体どこなんだ?
私は常に浮足立っていたのだと思う。
そんな時、つい先日GReeeeNの映画を見た。
音楽に疎い私でもGReeeeNぐらいは知っていた。
歯医者をやりながら、音楽活動もしている覆面アーティストだ。
仕事に支障が出るからという理由で、今まで一切顔を出したことがない。
私はそこまでGReeeeNのファンというわけではなかったが、土曜日時間が空いていたのでレイトショーで見てみることにした。
公開から1ヶ月以上経っているのに、レイトショーが混んでいて私は驚いた。
ほとんどが20代だった。
やはり、GReeeeNの歌声に皆惹かれてるのか。
上映が始まった。
私は驚いてしまった。
ほとんどGReeeeNの物語ではないからだ。
GReeeeNを育てたボーカルHIDEの兄さんJINの物語なのだ。
兄のJIN役には松坂桃李が演じていた。そのJIN役の人に私は感情移入して見てしまっていたと思う。
医者である父親に反発して音楽の道を志した兄のJINは自分の才能の限界を感じて挫折してしまう。そんなJINだったが、弟の歌声の魅力に気づき、弟の才能を伸ばすべく悪戦苦闘する話なのだ。
兄はレコード会社などに頭を下げ、弟のグループを売り込んでいく。
自分ではなく、弟の方に音楽の才能があったことに気づいたのだ。
「人はそれぞれ役割を持って生まれてくるのかもしれない。そんな役割にようやく俺は気づけた」
ミュージシャンになる夢を諦め、弟の才能を伸ばすという役割を見出だした兄の姿に私は心動かされてしまった。
もちろん映画だから、ある程度は脚色しているだろう。
しかし、歯科大生が作った曲がオリコンチャート1位になったのは事実だし、ボーカルのHIDEの兄であるJINがGReeeeNのプロデュースを担当しているのは事実なのだ。
私はただ、自分がやりたいと思うことを探していたのだと思う。
就活の時も自分が入りたいと思う会社ばかりを受けていた。
自分が人に自慢できるような会社のブランドを追い求めていたのだ。
ずっと自分がやりたいと思えるようなことを探し求めていた。
しかし、やりたいことではなく、自分がするべき役割というものがきっと世の中には
転がっているのかもしれない。
社会人経験がほとんどない私には、まだ自分がすべき役割というものがあまりわからない。しかし、きっといつか気づくのかもしれない。
弟の歌声を全国に届けることに意味を見出した兄のように。
「鋼の錬金術師」を読むといつも私は……
「ナンダコレハ」
小学生だった頃、初めてみた「鋼の錬金術師」アニメ放送のエンディングを見て、驚いたのを今でも驚いている。
兄弟たちが背負った罪が明かされた時、私は呆然としながらテレビを眺めていたと思う。
次の日、学校に行くと「鋼の錬金術師」の話題で持ちきりだった。
「なんかすごいアニメ始まってない?」
「誰か漫画持ってない?」
クラスの中の漫画オタクっぽい子が先生にバレないようにハガレン5巻分の単行本を持ってきていた。
彼の周りには人たがりができた。
「私にも見せてよ〜」
「なんかすげ〜漫画だな」
クラスメイトは興味津々だった。
アニメ放送が始まった時、確かハガレンは単行本5巻分しか発売されていなかった。
しかし、本屋では山積みにされ、巷ではハガレンの話題でいっぱいだった。
当時のアニメ好きの人たちの間で
「なんかすごい新人が出てきた」と話題になっていた。
私もそんなハガレンブームに乗って、単行本を読み始めた。
1巻目の初っ端から凄いのだ。
今思うと、子供が読む漫画にしては生命倫理を問う重たい内容だなとは思うが、とても深くて面白いのだ。
母親を蘇らせようとし、人の命を弄んだ罪を背負った兄弟の物語に多くの人が涙したと思う。
月刊連載漫画のため、すぐに単行本が出るわけではなかった。
半年に1巻発売されていくようなペースだった。
私は中学生の頃までずっとハガレンを単行本が発売されると同時に買い続けていた。
買い続けていたが、ある時苦しくなってしまった。
漫画で描かれている生命倫理の内容が自分に重なって見えてしまったのだ。
結局、ハガレンは10年近くの連載期間を経て、完結した。
最終巻を読んだ時、私は大学生だった。
また面白い漫画が終わってしまった……
そう思い寂しくもなった。
そして、ハガレンを読んでいる時に感じていた私自身が犯した罪の意識を思い出していた。
それは他人の目には大したことには見えないかもしれないが、自分にとってはトラウマ的な出来事だった。
私は小学生だった頃、二匹の亀を飼っていた。
親に頼んで亀を買ってもらったのだ。
二匹ともミドリガメで大きい方を亀太郎、小さい方を亀二郎と名付けていた。
買い始めた頃は二匹とも手のひらサイズでかわいらしい容姿だった。
私はその二匹の亀を可愛がって育てていたと思う。
しかし、ミドリガメを飼ったことのある人なら感じたことがあるかもしれないが、
亀はとてつもなく成長が早い。
あっという間に手のひらよりも大きくなってしまったのだ。
二匹の亀が飼っている水槽はスペースが足りなくなってしまった。
私は急いで大きな水槽に変えた。
そうしてもまた一年後には亀の体重は増加して、より大きな水槽を買う必要が出てきた。
その頃になると可愛らしい容姿が嘘みたいになり、頑丈な歯を使ってムシャムシャ餌を食べるようになっていた。
水槽が小さいため、二匹とも暴れるようになった。
ベランダからカタカタ音が聞こえてきて、私は頭を悩ませていた。
あんなにデカくなるとは思わなかったのだ。
二匹の小さい方の亀は水槽が小さいせいか、体が傷だらけになり、どんどん衰弱していった。餌を与えても食べなくなったのだ。
そして、数ヶ月後に死んでしまった。
一匹が死に、水槽にスペースが空いたため、大きい方の亀はより一層成長の度合いが増していった。
毎日のように大量の餌を食べ、大量の糞を出していった。
私は週に一回していた水槽の掃除もおろそかになっていった。
いくら掃除してもすぐに汚くなるのだ。
亀の甲羅についた雑菌を取り除こうと、亀を捕まえてゴシゴシ洗っても、すぐに汚くなる。
大きい図体のくせに、ものすごくすばしっこいのだ。
水槽の掃除をするのにも手がかかった。
昔は小さくて可愛かったのに……
私は大きくなったミドリガメに手を焼いていた。
そして、中学の2年が終わり、受験を意識し始めた頃、私は勉強に集中していった。
毎日のように塾に通い、夜遅くまで勉強していった。
いつしか、亀に餌を与えるのもおろそかになった。
週に一回やっていた水槽の掃除もやる時間がなくなってしまったのだ。
亀は水槽の中でカタカタ暴れ出していた。
もっと餌をくれと叫んでいたのだと思う。
その頃には両手で抱えるぐらいの大きさになっていたので、月の餌代もバカにならなかった。
ベランダでカタカタ音が聞こえるたびに、私は大量の餌を水槽の中に投げ込んで、亀を落ち着かせていった。
今は勉強に集中したいんだ。
我慢してくれ。
そして、受験の天王山と呼ばれる夏期講習が始まった。
私はよりいっそう、勉強に集中していった。
今は勉強しなければいけない。
そう思っていたのだ。
夏休みが中盤になり、家にこもって勉強していると外から悪臭がしてきた。
私はふと、なんだと思いベランダに出てみると、表面まで緑がかった亀の水槽が目に入ったのだ。
そこには衰弱した亀の姿があった。
しまった! 三日も餌をやるのを忘れていた。
私は急いで餌を用意し、水槽に投げ込んだ。
しかし、亀はびくりとも動かなかった。
あれ? どうしたんだ。いつも餌に飛びついていたのに……
亀は私の顔をじっと見つめていた。
何か恨みを込めたかのようにじっと私を見つめてきたのだ。
甲羅から顔を出し、恨みがこもった目を私に向けてきた。
私は言葉が出なかった。
亀が私に抱いていた憎悪を感じ取ったのだ。
結局、その亀は一週間後、動かなくなった。
真夏の暑い日に、力つきるかのように水槽で目を真っ赤にして死んでいた。
私はその死骸を近所の川の土手に持って行き、土を掘って埋めてあげた。
何か申し訳ない気持ちになった。
受験勉強に集中していることを言い訳に、命をおろそかにしてしまったのだ。
私はどこか罪の意識を感じながら、亀を埋めた墓に手を合わせていた。
それから10年以上経ったが、私は今でも亀を埋めた土手の近くを通るたびに、あの亀が最後に見せた憎悪を込めた目線を思い出す。
命を弄んだ代償に私は何かを失ったのか……
何か胸がチクっとする痛みを感じていた。
鋼の錬金術師もそんな命の尊さを教えてくれる漫画だったと思う。
ハガレンを読むたびに感じていた胸にくる痛みは、あの亀の姿を思い出していたのかもしれない。
命をおろそかにした自分の罪の意識を感じていたのだと思う。
ハガレンの作者は農家出身で、子供の頃から生命の生き死を間近で見ていたという。
だから、あれほどまでに深い生命倫理の問題を問う漫画を描けるのだと思う。
小学生に生き物と触れ合った経験は今思うとだいぶ貴重だ。
きっと私は生命をおそろかにしたこの罪の意識だけは忘れてはいけないのかもしれない。
忘れずに背負い続けることが、あの亀に対する唯一の罪滅ぼしのような気がするのだ。
「やりたいことがない」は、あるいは最大の武器になるのかもしれない
「やりたいことがない」
それは私のコンプレックスだった。
就活の時は本当に苦労した。
行きたい会社などなかった。
やりたいことなどなかった。
いや、あえているならば、やりたいことがあったが、やりたいことができる会社がなかったのかもしれない。
私はとにかく映画が好きだった。
どれくらい好きだったかというと年間350本の映画を見て、TSUTAYAから年賀状が届くくらい映画が好きだった。
学生時代は映画を見まくっていた記憶しかない。
1日空いている日があれば、朝から晩まで6本映画を見ていた。
(今思うと、だいぶ気持ち悪い)
しかし、当時の私はとにかく映画を見ることに集中していた。
そして、その映画から吸収した知識をひけらかすかのように自主映画を作りまくっていた。大学時代には7本近くの自主映画を作ったと思う。
1時間を超えるものもあった。
映画作りは文科系っぽいイメージが強いが、実際は完全な肉体労働だ。
カット割りごとに一つ一つカメラを設置し、照明の色をセッティングして、役者さんに演技指導する。その一連の動作だけでも20分以上かかる。
スケジュール調整やロケ地の関係で、時間が決まっているため、1日に13時間にわたって撮影しなければならなかった時もあった。
真夏のクソ暑い中、カメラと照明を焚いて、13時間以上映画作りと格闘しなければならないのだ。
カット割りを頭の中で考え、どこのシーンがどうつながるのかを計算しなければならないので、私の頭は終始パンク状態だった。
ただでさえ30人近くのスタッフや役者さんのスケジュールを合わせるのは大変なのに、雨が降って、撮影ができなくなると泣けてくるものだ。
全てスケジュールが白紙になるのだ。
自主映画作るにも多くの人の協力が欠かせない。
どんなに短い短編を作ろうが、5人以上の協力が必要になってくる。
私はいろんな人と協力してものを作っていくことが大好きだった。
ありとあらゆる知恵を絞りながら、多くの人と一本の映画を作っていくことがたまらなく面白かったのだ。
私が進むべき道はこれなんだなとも思えた。
一介の映画監督のふりをしながら、これが自分がしたいことなんだと思っていたのだ。
しかし、就職活動の時期が来て、私はわからなくなった。
今まで遊んでばかりいた大学の同級生はみんな一気に髪を黒く染めて、就活モードになっていた。私というと「就活なんてしない」と思っていたが、周りに流されるかのようにリクルートスーツを着て、就活を始めていった。
やりたいことはたぶん、あったのかもしれない。
しかし、そっちの道に行く勇気がなかったのだ。
フリーランスやノマドワーカーなど、自分の趣味を仕事にするのはかっこいいという風潮があったが、実力も何も持ってない私がそのような業界に飛び込んでもやっていける自信がなかった。
私は結局、やりたいことが何なのかはっきりとしないまま就活をしていった。
映画が好きという気持ちはあったため、マスコミ関係や映画会社を受けてまくった。
すべて落ちた。
倍率1000倍の世界である。考えてみれば落ちるほうが普通かもしれない。
しかし、当時の私はなぜ、世の中は自分の才能を認めてくれないのだと嘆いていた。
なぜ、こうも自分につらく当たるのか?
自己PRにしても「うちの会社で何がしたいですか?」と聞かれて、
心のそこで抱えていた本心は「特にやりたいことなんてない」だった。
それでもそんなことは面接官に向かっては言えないので、
「御社に入社いたしましたら〜」と無理くり嘘を並べていた。
自分がやりたいことっていったい何なんだろう。
自分が表現したいことっていったい何なんだろう。
そんなことを悩んでいた気がする。
そして、あやふやな思いのまま、とあるテレビ制作会社に内定をいただき、私は何とか就活を終えることができた。
大学の同級生は人生最後の休みを堪能していっていた。
私はというとずっと悩んでいた。
このままでいいのか……
私はサラリーマンだけはなりたくないと思っていた。
普通のサラリーマンをしている父親の姿を見ていると、毎日窮屈な満員電車に乗って、仕事の愚痴を言いながら、好きでもない仕事をするのは耐えられないと思ったのだ。
だから、好きなことである映像制作の仕事が自分にはいいのではないかと思っていた。
いや、自分でそう信じ込んでいた。
大学を卒業し、実際にその会社で働き始め、私はうつ病になっていた。
平均睡眠時間が30分の環境で、死ぬほど働いていた。
人間しっかりと寝ないと頭がおかしくなるものだ。
私の体重は二ヶ月ほどで8キロも減っていた。始発の電車で会社に向かっていると、体がフラついて、あわや電車に轢かれそうになったこともあった。
周囲の人が羨ましく思えた。ちゃんと定時に帰れる会社で働くことがどれだけありがたいことかを痛感した。
結局、私は好きを仕事にしたが、それは自分のエゴに過ぎなかったのかもしれないと思うようになっていた。
「君はどこか人と違って面白い才能を持っている」と電通や博報堂のクリエイティブっぽい人にそう言われたかったのだ。
自分は人と違った何かを持っていると信じたかったのだと思う。
自分がやりたいことはいったい何なのだろうか?
私はそう思っていた。
実はやりたいことなんてなかったのかもしれない……
結局、私は会社を辞めてしまった。
体が動けなくなってしまったのだ。
世の中をさまよい歩いている時に、偶然ライティングの面白さに気づき、こうして文章を書くようになったが、書いている時も自分のやりたいことって一体何なんだろう? と思う時はよくある。
プロのライターを目指している人は、小説家になりたい。
ライターとして食っていけるようになりたい……など目標がある人が多かった。
そんな人たちを見ていて私は羨ましかった。
社会人もすぐにドロップアウトした空っぽの私にはやりたいことなんてとくになかったのだ。
やりたいことが何なのかわからなかったのだ。
小説家になる夢を目指して、日々ライティングに励んでいる人を見ると、光って見えた。
自分もやりたいことを見つけて、目標に向かって行きたい。
そう思えた。
そんな時だった。
とあるシナリオライターさんが出演したラジオを聴いている際、私は心動かされてしまった。
そのライターさんは数年前にカルト的にヒットを飛ばしたとあるアニメを作っていた。
私はあんな人間の欲望を深く抉り取るようなアニメを作るのだから、さぞぶっ飛んだ人なんだろうなと思っていた。
しかし、ラジオから聴こえてくる声は普通の人にしか思えなかった。
「これこれを表現したいことなんて自分にはないっす。自分はただ監督やアニメーターさんがやりたいと思っていることを聞いて、シナリオにまとめていくだけっす」
聞いていくと、この人はどうやら表現者というよりかはビジネスマン的なところがあるのかもしれない。
明確にこれをやりたいというよりかは、監督やアニメーターなど表現をする人たちの声を聞いて、合気道のように相手の力に合わせてものを作っていく人のように思えた。
「アニメ作りは本当に楽しいっす。いろんな人とものを作っていく作業が本当に好きなんです」
そのシナリオライターはそう言っていた。
私はハッとした。
自分もこれでいいのかもしれない。
やりたいことが明確であるよりかは、相手の力に合わせてパッと形にしていく。
頭の中を空っぽにして、合気道のように相手の力を引き出しながらコンテンツにしていく力……それがプロの証なのかもしれない。
そう思えた。
よく考えれば、クリエイティブな世界では自分が表現したいことを好きなだけ表現できている人は少ない。たいてい自分がやりたいことをやらせてもらえるほど、世の中あまくないということもある。
しかし、やりたいことが明白でない人の方がクリエイティブな世界では長続きするのかもしれない。
これを表現したい! という熱い思いがある人は、それができてしまったらすぐに燃え尽きてしまうのだ。
特にやりたいことがない人の方が、読者の合わせたものを作っていける。
浦沢直樹も同じようなことを言っていた。「作品のテーマなんてないんだよね。ただ、自分が面白いと思ったものを、読者も面白がって読んでくれる。それだけを目指してる漫画を描いているだけなんだよね」
だから、浦沢直樹はYAWARAから20世紀少年まで、30年以上にわたって漫画界の前線に立てるのかもしれない。
鳥山明がドラゴンボール以降、パッとしなくなったのも、やりたいことをやりきって燃え尽きてしまったのかもしれない。
「ただ、面白いものを作りたい。見る人が楽しんでくれるアニメを作りたい」
そのようにあのシナリオライターは語っていた。
私もそれでいいのかもしれない。
明確にこれを表現したいというよりかは、相手に合わせてものを作っていく。
「やりたいことがにない」ということは、それだけ武器になるのかもしれない。
私はそう思えた。
無理にやりたいことを見つける必要はない。
自分が好きだと思うことをやっていくうちに、これを書きたい! と思うようなものが生まれてくるのかもしれない。
自分がやりたいことは何なのか考えている暇があったら、とにかく書こう!
そう思うのだ。
「魔法少女まどかマギカ」を見て、今は亡きスティーブ・ジョブズの伝説のスピーチを思い出した
「大人になってからもまどかマギカだけは見たほうがいい」
ある人がこう言っていた。
「まどかマギカ?」
あの魔法少女が出てきて、なんだかよくわからない敵を倒すものか?
私はそのアニメにそんなイメージを持っていた。
プリキュアやセーラームーンみたいなアニメを大人になってから見てどうすんだ? と思ったのだ。
しかし、その人がフェイスブックで「まどかマギカ」についてコメントすると、多くの人から反応があった。
「まどマギだけは凄すぎる」
「あのアニメは大人が見るべきですよね」
「間違いなく世界に通じるコンテンツですよ」
私のフェイスブックのタイムラインは一時期、まどマギで埋め尽くされていた。
そんなにまどマギって面白いのか?
私はもちろんそのアニメのことを知っていた。
5年くらい前に話題になったアニメだ。
ちょうど震災があった時に放送されていたため、一時期放送中止になっていたが、あまりにもファンの声が多かったため、急遽3話独占放送が決定したそうだ。
私の周りにも「まどマギ」が好きだという人が多かった。
私はなんでいい年した大人が美少女モノのアニメにハマるんだと思っていた。
私は「セカイ系」というジャンルのアニメが大の苦手だった。
新海誠の作品も素晴らしいと思うが、世界観についていけなくなるのだ。
「攻殻機動隊」も電脳セカイの話になった途端、ついていけなくなった。
「涼宮ハルヒ」も途中で話が壮大になりすぎて、頭を抱えながら見ていた。
どうやら「まどかマギカ」もそのジャンルに入るアニメのようだった。
たぶん、ハマらないんだろうなと思っていた。
これまでみたいに、途中で挫折するんだろうなと……
そう思っていたため、「まどマギ」だけには手を出していなかった。
「まどかマギカだけは大人になってからも見たほうがいい。クリエイターとしてのコンテンツを学びたいと思うなら、間違いなくこのアニメは見たほうがいい!」
私のフェイスブックを通じて、多くの方がそんな声をあげていた。
そんなに面白いのか?
間違いなく2010年代のナンバーワンアニメだろうが、そこまでハマるとは思えなかったのだ。
私はどうしても「まどかマギカ」が気になってしまい、レンタルショップでDVDを借りて、見てみることにした。
はじめは3巻分を借りて見始めた。
たぶん、途中で飽きると思ったのだ。
前情報によると、どうやら3話目でトンデモナイ展開があるらしい。
「3話までは耐えろ」と聞いていた。
本当に面白いのかな……
というか24歳にもなって、可愛らしい美少女の絵柄が描かれたパッケージのDVDをみることに躊躇していた。親にバレたら恥ずかしかったのだ。
DVDを再生していった。
はじめの方は普通のアニメのように思えた。
可愛らしい女の子たちが出てきて、なんだかよくわからない魔女と戦う物語だ。
私は1話目の終わりごろから、薄々感づいた。
このアニメ普通のとは違う……
なんだこのざわつき感は。
なぜか妙に胸にチクチクするのだ。
そして、問題の3話目にやってきた。
3話を見ていくと、後半あることが起こるのだ。
その出来事を見た瞬間……
「あああああ!!!」
と思わず叫んでしまった。
なんじゃこのアニメは。
私の手は震えていた。
面白すぎる。というか斬新すぎる。
私はそこから止まらなくなっしまった。
4話目から一気に見てしまったのだ。
どんどん物語が進むにつれて、魔法少女たちの残酷な運命が明かされ、私の胸はチクチクと痛みを感じていた。
なんだこの胸に刺さるような痛みは!
私はすぐにレンタルショップに走り、残りの巻全てを借りてた。
8話を超えたあたりから、なおさら、ものすごい展開になっていくのだ。
まだ続くのか……
こんな面白い話がまだ続くのか。
そして劇場版のラストを見た瞬間、思わず呟いてしまった。
エンドロールの中で、二人の少女が暗闇に走っていく姿を見て、こう呟いてしまったのだ。
「感無量……」
間違いなく天下一品のコンテンツなのだ。
トンデモなく面白いアニメだったのだ。
新海誠の「君の名は。」を見て、泣けなかった私でも「まどかマギカ」を見て、泣きそうになっていたのだ。
なんだこの胸にくる痛みは……
なんで少女たちが魔女と戦うアニメを見ているのに、こんなにも胸が痛いんだ。
私はそう思った。
「まどかマギカ」は従来の魔法少女モノの概念を覆した傑作だと言われている。
「プリキュア」や「魔女の宅急便」のキキは、裏ではこんな契約を交わしていただろうという内容をアニメ化したものが「まどかマギカ」なのだという。
中盤から昼ドラ並みのドロドロした展開になるのだ。
タイトルからくるイメージと、内容が全然違うじゃん!
私は見ていて、ずっとそう思っていた。
人間誰しもが持つ「穢れ」というものを描いた傑作アニメなのだ。
人間の欲望や希望を抱いた代価として失っていくものを描いた傑作だった。
間違いなく何十年と語り継がれるアニメだと思う。
このアニメを作った人は誰なんだ。
私はそう思って、自分なりに調べてみることにした。
映画ならこの人にお任せの町山智浩さんもwowow映画塾でまどかマギカについて
1時間以上熱く語っていた。
それだけ語っても語りつくせないアニメなのだと思う。
あまりにも深すぎて、それだけ語ってしまうのだ。
私は町山さんの解説を聞いていった。そして、自分なりに考えていった。
このアニメがすごいところ。
もちろん映像表現が斬新だったという部分もある。
深夜アニメだから低予算で作られているため、コマをあまり動かせない。
だからだろうか……
魔法少女と契約を結ぶキュウべえは可愛らしい容姿なのに、全く口が動かない。常に無表情なのだ。それがまた後半の展開で、キュウべえがトンデモないやつだとわかって、無表情でいるのが怖くなってくる。
戦闘シーンも斬新だった。
劇団イヌカレーが手がけた異空間演出は必見だ。
あんな戦闘シーンは今まで見たことがなかった。
そして、何よりも私が気になったのは、この物語を作った脚本家の方だ。
この壮大な物語を作った脚本家はどんな人なんだろうと思った。
調べてみると、やっぱりなと思った。
やっぱりあれをイメージして「まどかマギカ」を書いたんだ……
私はしっくりとくると同時に、胸がチクチク痛くなった。
「まどかマギカ」を見ていて、常に感じたあの胸の痛みはやはりあれだったんだ。
このアニメを作った脚本家の方は「エロゲー」出身の方だった。
ずっと見ている時に感じていた痛み……
それは大島渚の「愛のコリーダ」や「ラストタンゴ・イン・パリ」など人間の欲や性について描いた映画を見ている時に感じたものと似たものだったのだ。
日活ロマンポルノなどの人間の欲望や愛を描いた作品は、望みを叶えられると同時に、残酷な運命が待っているという展開がよくある。
愛が深くなればなるほど、残酷な運命が待っているのだ。
人間の欲や営みを描いたそういった作品はなぜか最後は報われない展開になる。
私は「まどかマギカ」の背景には、そういった人間の営みや欲についての物語が隠されているのだと思う。
人間が持つ「穢れ」について深く描かれた傑作なのだ。
世界的に見ても、清らかなものほど、穢れているという考え方がある。
日本においても風俗嬢の元祖は神社の巫女さんだ。
キリスト教においても、マグダラのマリアは娼婦だったという説がある。
少女たちは清らかな存在だが、それと同時に穢れをまとった存在と描かれることが多い。
「まどかマギカ」もそんな人間が持つ「穢れ」を描いた物語なのだ。
私は爆笑問題のラジオで、まどかマギカの脚本家虚淵玄さんが出演した回を聴いてみることにした。
さすがラジオだ。
あまり公ではわからないところも話してくれていた。
あの残酷でドロドロのアニメを作った人だから、脚本家の人もどこかちょっと怖いイメージがあったが、声からくる印象はどこかのほほんとしていて、親しみの持てる人のように思えた。
あの壮大で複雑な物語を書いた人だから、メフィストやキリスト教の聖書について深読みしているのだろうと私は思っていた。
しかし、実際は
「全然わからいっす。メフェストなんて読んだことないっす」
と言っていた。爆笑問題の太田さんは「え? そうなの」と驚いていたようだ。
それじゃ、なぜあのようなドロドロして深いアニメを書けたのだろうか?
と私は思ってしまった。
「細かい部分はアニメーターの人に任せたんです。私は骨格の部分を書くことだけに集中していきました」
そのようなことを虚淵玄は語っていた。
脚本家の虚淵さん曰く、まどかマギカの会議は驚きの連続だったという。
なんと毎回、脚本会議が5分で終わったという。
「え? こんなんでいいの?」
と本人も思っていたらしい。
そして、自分が書いた脚本がそのままラフとして出来上がっていく様を見て、驚いたという。
自分が好き放題書いたものが、誰からの訂正もなく、そのままアニメになっていくのだ。
監督に気になって聞いてみたようだ。
すると……
「アニメ慣れしていないライターさんに好き放題書いてほしい」
そう監督に言われたらしい。
「本当に好き放題書かせてもらいました」
と虚淵さんは語っていた。
「自分はエロゲー畑出身なんですけど……そういったアダルトモノの中では、少女が酷い仕打ちを受ける展開はよくあるんです。メジャーな魔法少女モノのアニメでそれをやってみたんです。自分が得意としていたマイナーなものを大衆向けに書き換えていった感じです」
虚淵さんは「地元の料理をマンハッタンで出したら大ヒットした感覚」
と言っていた。
エロゲーやアダルトモノは一般的にあまり評価されるものではないだろう。
虚淵さん本人はどう思っているのかわからないが、マイナーなものでも自分が興味を持って突き詰めてやっていたら、いつの間にか大衆向けのアニメを作る際に役に立っていたのだと思う。
時代を変えていくようなものを作っていく人は、いつも業界の外からやってくるのかもしれない。新海誠も元々、普通の会社員をしていた方だった。アニメーター出身の方ではないのだ。
私は虚淵さんの話を聞いていると、ある人が残した伝説のスピーチを思い出していた。
ある人とは……
スティーブ・ジョブズだった。
ジョブズは大学の授業に嫌気がさし、親が貯めた金を無駄遣いしているようにしか思えず、すぐに大学を中退してしまっていた。
その時はどうしようかと悩んでいたらしいが、今となっては最良の選択だったと思っているという。
中退したジョブズがしたことは、自分が聞きたいと思った講義に潜り込むことだった。
その時、ジョブズが夢中になったのはカリグラフィーだ。
書体や文字間隔の手法はどうしたら美しくなるのかを講義に潜り込んでは学んでいったらしい。
美しく、歴史があり、科学では捉えきれない繊細な世界だったとジョブズは語っている。
その時は、これが何の役に立つのかはわからなかったという。
ただ、自分が興味があるものを学んでいっただけなのだ。
10年後、マッキントッシュの開発時にそのカリグラフィーの知識が多いに役立った。
パソコン画面に複数フォントや時間調整フォントを付け加えたのだ。
もし、ジョブズが大学を中退して、カリグラフィーの講義に潜り込んでいなければ、今のパソコンは美しい文字やデザインが反映されていなかったのかもしれない。
ジョブズは最後に学生に向けてこう投げかけていた。
「点と点はいつか繋がる。たとえ、その時は無意味に思えても、いつの日か繋がって、役に立つ時が来る。たとえ、それが皆が通る道でなくても、いつの日か大きな違いをもたらしてくれる」
ジョブズは点と点が繋がってIT業界を変えていったように、あのアニメも点と点が繋がって世界に影響を与えるようなコンテンツになったのだと思う。
もし、脚本家の虚淵さんがエロゲー業界の人でなかったら、あれほどまでに人間の深い感情を描いた傑作アニメは作れなかったと思う。
世間的には評価されなくとも、自分が興味を持って取り組んできたことが、点と点が繋がって、いつしかメジャーな大衆向けのアニメへと生まれ変わったのだ。
私は「魔法少女まどかマギカ」を見て、そんなことを思った。
今の仕事はたとえ、世間から評価される仕事ではないかもしれない。
自分が好きな仕事ではないかもしれない。
しかし、点と点はいつの日か繋がるものなのだと思う。
10年かかるかはわからない。しかし、きっと役に立つ時が来る。
今は役に立たなくても、世間から評価されなくても、自分が取り組んできたことは、いつの日か役に立つ。
そんなことを教えてくれたアニメでもあった。
東京育ちの私が、生涯を鳥取砂丘で過ごしたある写真家に心底憧れを抱く理由
「なんだこの写真は」
私はその写真家の写真を始めて見た時に、衝撃を受けたことを今でも覚えている。
何もない平坦な砂が続く鳥取砂丘に立つ、4人の少女の姿を見て、私は何かを感じてしまった。
被写体の構図から、カメラワークまでがあまりにも洗練としていて、完璧なのだ。
私は写真に関してはあまり詳しくはない。
そんな素人の私でさえ、その写真家が撮る一枚の写真からありとあらゆるものを直感的に感じ取ることができた。
こんな素晴らしい写真を撮る人が鳥取にいたなんて。
私が衝撃を受けた写真家は植田正治という写真家だった。
生涯を鳥取砂丘で過ごし、砂丘を中心とした写真を撮り続けた世界的に知られる写真家だ。
私は彼の写真を見ているとどこか懐かしい気持ちになる。
あの福山雅治も植田正治の写真に魅了され、自身のアルバムのジャケット撮影を頼んだほどであった。
パリにも出店され、世界を魅了した植田正治という写真家に、大学生だった私は猛烈な憧れを抱いていた。
一度、植田正治が生涯を過ごした鳥取砂丘をしっかりと見てみたいと思っていた。
大学3年生のとある時、私は鳥取へ一人旅に出た。
お金がなかったので、夜行バスで鳥取まで行った。
夜行バスはつらかった。
一番後列の座席に当たってしまったため、揺れが激しく気持ち悪くなった。
約9時間の運行の末、早朝の鳥取駅にたどり着いた。
鳥取駅を見た瞬間の感想は、
何もねぇ……だった。
本当に何もなかった。
駅前にミスタードーナッツがあるくらいだ。
私は早朝のミスタードーナッツで朝食を済まし、友人の家に荷物を置かせてもらったのちに、鳥取にある植田正治の美術館に向かうことにした。
電車で2時間ほどかかるという。
私は一休みついたのちに、10時頃の電車に乗ろうと思って、友人の家を出た。
鳥取駅についた瞬間驚いた。
本数が少なすぎるのだ。
電車が1時間に一本しかないのだ。
え? こんなに少ないのと思った。
東京生まれ東京育ちの私には電車やバスは10分間隔でくるというのが当たり前だった。こんなに本数が少ないとは思わなかった。
約45分ほど待っていると電車が来た。
ゆらゆら揺れながら電車は鳥取市内を走る。
車窓から見ている風景はどこか懐かしいものを見ている気がしていた。
どこまでも続く日本海。
そこを点々としてある鳥取砂丘を見ているうちに、生涯をこの地で過ごした植田正治の心境も少しはわかった気がした。
私は常に浮足立っていた。
東京に蔓延る雑音に頭を悩まされ、身動きが取れなくなっていたのだ。
大都会で生まれ育ち、常にビルに囲まれた空間にいるため、自分の足はしっかりと地面についていないような気がしていた。
常に生きている心地がしなかった。
どこか田舎から上京していき人に猛烈な憧れを抱いていたのかもしれない。
しっかりと大地に立ち、自然の恵みに囲まれて育ってきた人に憧れているのだ。
大都会で生まれ育つと他者からの承認でしか生きている実感を得られない。
鳥取の人たちはどこか大地に根をはる大根のように、しっかりと地面に足をつけて立っていた。
この土地を愛した植田正治の気持ちも少しはわかった気がした。
植田正治をはじめとしたクリエイターの人たちは、常に創作の場を大切にしていると思う。心のふるさとを軸にして、創作に打ち込むのだ。
小説家などに旅好きが多いのはそのためなのだと思う。
しっかりと自分の足で立ち、小説に迎える場を常に探して、世界を旅しているのだ。
世界的な小説家の村上春樹ですら、東京に嫌気がさして、静かなギリシャの島で「ノルウェイの森」の執筆を始めたという。
しっかりと地に足をつけて立てる場が創作にも影響するのだと思う。
私はこの鳥取という場を使って、生涯写真を撮り続けた植田正治からどこかクリエイティブな分野で大切なものを学んだのかもしれない。
浮足立って、さまよっていた私には、鳥取の大地にしっかりと立ち、砂丘を見つめ続けた彼の姿が新鮮に思えたのだ。
電車は約40分の遅延の末、目的の駅にたどり着いた。
携帯を使って地図を調べてみると、駅からタクシーで20分と書かれてあった。
写真館に向かうのに、タクシーが必要なのか……
本当に交通手段がタクシーしかないほど、駅の周りは何もなかった。
タクシーを呼んで私は丘の上にある植田正治写真美術館に向かった。
ひたすら坂道を駆け上がっていった。
丘の上にその美術館はあった。
洗練とされたアーチ型の建物の向こうにはそびえ立つ山が見えた。
この山の麓で植田正治は生涯、写真を撮り続けたという。
私は彼が撮った写真と同じ構図で、その山を見ていると、どこか感慨深い気持ちになった。
彼はこの地を愛し、この地で生涯を過ごしたのか。
写真館の中も洗練とされ、彼の写真ひとつひとつに人を惹きつける何かがあった。
心のふるさと……
それは多くのものをクリエイターにとっては欠かせないものだと思う。
人間、しっかりと地に足をついて立っていられる場所が必要なのだ。
私が彼の写真に猛烈な憧れを抱いた理由もきっとそこなのだと思う。
鳥取を愛し、生涯のほとんどを鳥取で過ごした彼の写真には世の中にはびこる邪気が取り除かれたかのような洗練としたものが宿っていた。
私も植田正治のような、人の心を惹きつける何かを作りたい。
そんなことを大学生だった私は感じ取ったのだ。
ものを作る際は、創作に集中し体と心との距離を一旦おける空間が必要なのだと思う。
常に都会の雑音に阻まれ、浮足立っていた私はつい最近、トキワ荘のようなクリエイターが集まってくる空間を見つけた。
きっと、そこが自分にとっても創作の中心であり、心のふるさとになるかもしれない。
そう思うのだ。
何者かになろうともがいていた私が見つけた、いらない荷物を捨てていく旅
「何者かになるために上京してきた」
そう劇作家の本谷有希子はテレビで言っていた。
何者かになるために、東京にやってきて、20歳そこそこで自身が主催する劇団を立ち上げ、本谷有希子は何者かになった。
何者かになるためのパワーを持っていたのかもしれない。
彼女が人とは違う才能を持っていたのは確かだと思う。
そんなパワーを秘め、何者かになった本谷有希子に私はどこか憧れを抱いていたのだと思う。
私も何者かになりたかったのだ。
「大学は好きなことをやる」
そう入学式の時に宣言し、私はひたすら映画を作る毎日を送っていた。
大学時代は映画を作っていた記憶しかない。
浴びるように映画を見て、毎月のように自主映画を作っていた。
年間350本以上は映画を見ていた。TSUTAYAから年賀状が届くほどだ。
私はただ何者かになりたかったのだと思う。
「普通だね」と言われるのが何よりもコンプレックスだったのだ。
中学から高校まで、私はただクラスの隅っこにいるような生徒だった。
「桐島、部活やめるってよ」の前田君みたいに隅っこでいつも映画秘宝を読んでいるような学生だった。クラスの中心でいつも人の輪に囲まれている人たちを羨ましく思っていた。
「何者かになりたい」
自分はこういう人間だ! と言える肩書きを手にして、人から承認されたい。
そんなことを思っていた。
浪人の末に入った大学では、私はこれまで体に溜まっていたエネルギーが一気に拡散するかのように自主映画作りにのめり込んでいった。
昔から映画は好きだったが、多くの人と関わりながら一つの作品を作っていくのは楽しかった。
自分の頭の中にあるイメージを具現化していく作業がとても楽しかったのだ。
脳みその中にある絵を、目の前にいる役者さんを通じて、具現化していく……
そんなクリエイティブな道のりが何よりも好きだった。
10リットルの血糊をばら撒きながらゾンビ映画を作った。
ドンキー・ホーテでヒーロースーツを買って、ヒーローの格好で公演を走り回ったりもした。
私は図書館にこもって脚本や映画関連の本を読みふけっていた。
一介の映画人のふりをしていただけなのかもしれない。
それでも私は本を読みあさり、脚本を書いていった。
脚本を書いては、映画を作る……そんな日々を3年以上続けていた。
面白い人間にならないと面白いものは作れない。
そう思って、私は面白い人間であろうとしていた。
人と変わったことをあえてしようと、世界の中心であるニューヨークにも旅に出た。
学生にはホラーは難しいと言われているから、あえてゾンビ映画に挑戦してみたりした。
私は常に、人とは違う変わったものを求めていた。
ただ、何者かになりたかったのだ。
自分はどこか人とは違う何かを持っていると信じたかったのだ。
面白い人間でありさえすれば、クリエイティブで面白いものが作れるようになる……
そんなことを考えていた。
常に外に刺激を求めていた私だったがタイムリミットは刻々と近づいていた。
大学3年生の終わりになり、就活の時期がやってきたのだ。
今まで遊び呆けていた同級生も、皆髪を黒く染めて、ビシッとスーツを着ていった。
「就活なんてカッコ悪い」
私はそんなことを思っていたが、結局時期が来て、社会の波にのめり込まれるかのように就活をしていった。
日本の就活に異議を唱え、ノマドワーカーやフリーランスになろうという風潮はあったが、社会人経験がなく、何ももっていない私にはフリーランスになる勇気もなかった。
結局、私は何者にもなれなかった。
「大学生のうちに何かで頭角を出す!」
そう意気込んでいたが、結局、飛び出す勇気を持てず、何者にもなれなかった。
真っ黒なスーツを着て、企業の面接を受けていくうちに私は焦っていた。
何がしたいのかわからなかったのだ。
頭の片隅には他にやりたいことを持っている。
しかし、面接の場では「御社の企業に是非、入社したい」と言っている。
そんな嘘つき大会の就活に嫌気がさしていた。
結局、何とかとある制作会社に内定をいただき、私は何とか就活を終えた。
このままでいいのか……
そんな不安が常に脳裏を横切っていた。
大学に行ったら、面白い人間になれると思っていた。
世の中の隙間に、どこか自分の才能を認めてくれる余地があるだろうと思っていた。
しかし、そんなことはなかった。
誰も自分のことを認めてくれなかった。
自主映画を作っては、映画祭に応募していたが、どれも落選した。
映画サークルの知り合いは、学生映画祭で特別賞をもらい、商業映画監督としてのデビューが決まっていった。
自分と同じ時期に大学に入り、活躍していく人を見ていると、私は胸が引き裂かれそうになった。
なんで自分じゃなく、あの人が選ばれるのか?
私は何も持っていない自分に嫌気がさし、世の中をふらふら彷徨っていた。
常に浮足立っていて、生きている心地がしなかった。
そんな時、ふとこの本に出会ったのだ。
タイトルを見た瞬間、どこか直感的にビビッとくるものを感じたのだ。
私は割と直感的なものを信じる方だった。入学する大学も試験を解いていて、一番スラスラ問題が解けて自分と相性が良さそうな大学を選んでいた。
直感的にここだ! と思ったらすぐに飛び込むようにはしていた。
その本を手に取った時も、ある種の野生の勘みたいなものが働いていたのだと思う。
「人生に疲れたらスペイン巡礼」
就活に疲れ果て、世の中を浮足立ったさもよっていた私の前に、ふとこの本が現れたのだ。
私はその本を夢中になって読んでいった。
作者は就活をしている際にパニック障害になり、就活をやめてしまった。
就職ができない自分に焦り、スペインの巡礼の道「カミーノ・デ・サンティアゴ」まで巡礼の旅に出たという。
私はその本を読んでいる時にある一節がとても頭にこびりついた。
「人生と旅の荷造りは同じ。いらない荷物をどんどん捨てて、最後の最後に残ったものだけが、その人自身なんです。この道を歩くことはどうしても捨てられないものを知るための作業なんです」
私は常に外に刺激を求めていたと思う。
人と違ったことをやろうと、外に刺激を求め、常に浮足立って、空回りしていた。
しかし、大切なことは捨てることなのだ。
自分の中にある余計な荷物をどんどん捨てて、最後まで残ったものがその人にとって一番大切なものなのだ。
その言葉が私の心に深く残っていった。
結局、私は就職したが、あまりにもその会社がブラックだったため、数ヶ月で辞めてしまった。自分の弱さに嫌気がさしたりもした。
家に数週間引きこもって動けなくなった。
そんな時、いつもこの言葉を思い出していた。
大切なことは捨てることだ。いないな荷物をどんどん捨て、最後まで残ったものがその人にとって一番大切なものだ。
私は東南アジアに飛び、いらないものを捨てる旅に出た。
一ヶ月近く海外を放浪していくうちに、自分は何か変わったのかもしれない。
変わらなかったのかもしれない。
ラオスの山奥まで行ってみたが結局、何も見つからなかった。
しかし、ふと、この本を書いた作者のような文章を書きたいと思ったのだ。
人の心に突き刺さるような文章を書けるライターになりたいと……そんなことを思うようになった。
日本に帰り、転職活動をしている時も頭の片隅でそんなことを考えていた。
世の中に対するアンテナの張り方がそっちの方に向いていると、自然と運もそっちの方に向かってくるものだ。
人の人生を狂わせるような凄いライティングの師匠に出会い、今こうして私は文章を書くようになった。
もし、就活に嫌気がさし、世の中を暗い目で見ていた当時の私が、この本に出会わなかったらどうなっていたのだろう?
きっとライティングの魅力にも気付かずに、今でもずっと世の中をさまよい歩いていたのだと思う。
自分の中にある荷物を捨てて、ようやく私はライティングの魅力に気づけたのだ。
ブログを書くことも、荷物を捨てていく旅に似ているかもしれない。
毎日ライティングに励み、自分の中にあったネタのストックをどんどん捨てていくと、捨てた分だけ脳みそが枯渇して、ブログの記事のネタを探して無理やり世界を多角的に捉えるようになる。
道を歩いていても常にアンテナを張った状態になり、日常のささいな出来事にも敏感になって、ありふれたことも愛おしく思えてくるのだ。
世界がカラフルで色鮮やかに見えてくる。
大切なことは捨てること。いらない荷物をどんどん捨て、最後まで残ったものがその人自身を作る。
その言葉を励みにして、今日も私はいらない荷物を捨てるべく、ライティングに励んでいる。
紹介したい本
「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み、食べ、歩く800キロの旅」
小野美由紀著