ライティング・ハイ

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京都の庭園に座っていると、世界を変えていったiPhoneのことをどうしても思い出してしまう

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14歳だった頃、東京のほとんどの中学生がそうであるように、私は京都に修学旅行にいった。

 

 

修学旅行と言っても、中学生同士が友達とじゃれ合うための旅行みたいなものだ。私は他のクラスメイトたちとギャーギャー騒ぎながら新幹線に乗って京都に向かっていたのだろう。

 

京都に言っても何か面白いものあるのかな?

 

その頃の私にとって、京都と言ったら寺のイメージしかなかったのだ。

中学の頃は、歴史があまり好きでなく、寺やら神社を見て何が面白いのかさっぱりわからなかった。

 

京都よりもディズニーランドの方が楽しいのにな……

そんな低レベルなことを考える中学生だったのだ。

 

京都について、私の班は、中学校の教員が用意してくれたタクシー券を使い、京都の町並みを走り回っていた。

 

学問の神様で有名な太宰府天満宮に行った記憶がある。

そこで私は牛の頭を触り、「学問の神様……私の頭を良くしてください!!!!」

と祈ったりしていた。

 

「君たち、京都の日本庭園に興味がないかい?」

私たちの班を引率してくれているタクシーのおっちゃんが突然、こんなことを言った。

 

日本庭園? どんなものだっけ?

私は日本史の授業でその言葉を聞いた記憶があった。

確か、金閣寺やらなんとか寺にある庭のことを指すのだろう。

 

歴史嫌いだった私は、正直、日本庭園なんて見てどうするんだ? と思っていたのだ。

 

「この近くに龍安寺という日本庭園で有名な寺があるから行ってみよう」

そうタクシーのおっちゃんに言われるがままに、私は龍安寺と呼ばれるお寺に向かうことにした。

多分、おっちゃんは東京から来た中学生に京都の良さを必死に説明してくれていたのだろう。

生意気だった中学生の頃の私は、今日の昼ごはんなんだろう? と関係のないことを夢想していた気がする。

 

タクシーは数分後、龍安寺にたどり着いた。

さすが世界観光都市の京都である。

今でも世界から旅行客が京都を訪れるが、10年以上前から外国人が京都中にある寺院を訪れていた。

 

人でごった返す境内を歩いていると、その庭園はあった。

白い壁で覆われ、外からは見えないが、入り口から中に入ると白い砂で覆われた庭園が目の前に広がっていた。

 

私はその庭園を見たとき、なんだか妙な胸騒ぎをしたのを覚えている。

どういうことだ? と思ったのだ。

 

パンフレットの説明では庭園にある石は15個のはずである。

しかし、どの角度から見ても14個にしか見えないのだ。

 

左端から庭園を見ていた私は、右端に行ってみた。

すると、また不思議なことに今度は、左端から見えなかった石が見えるようになると、

今まで見えていた石が見えなくなるのだ。

 

絶妙な視覚的な構造で作られていたのだ。

 

私は入り口にあった庭園の縮小模型を見てみることにした。

確かに頭上から見ると、15個石がある。

しかし、庭園を右から左に向かってみていくと、どうしても15個全部見れない作りになっているのだ。

 

中学生だった私には衝撃的なことだった。

なんでこんな作りをしたのだろうと不思議に思ったのだ。

 

「なんか適当に石を並べているだけじゃない?」

同級生はそう語っていた。

確かにそうかもしれない。

だけど、これだけの観光客が毎年のように龍安寺に押しかけてので、この庭園には何かしらの特別な魅力がある気がしたのだ。

 

言葉では説明しきれない、何かの魅力が。

中学生だった頃の私には、日本庭園の魅力がよくわからなかった。

しかし、何か人を惹きつけるものがあるのだろうと思っていたのだ。

 

中学の修学旅行から10年ほど経った今、なぜか私は日本庭園に妙に惹きつけられていた。

ライティングを始めて、ものを作るというものに興味を持ったせいか、日本古来からある日本庭園というものに改めて興味を持ったのだ。

よく考えたら私は海外にぶらっとバックパック一つで旅行をしたことがあるが、日本をちゃんと見たことがなかった。

 

 

タイ、ベトナムラオスの山奥まで行っても「ジャパニーズだ」と言えば、

「日本の桜の写真を見せてくれ!」

「京都に昔行った頃があるんだよ」

「日本の車は世界一だ」

など、やたらと日本のことになると熱く話す外国人が多かった。

日本ってこんなにも世界から興味を持たれている国なんだ。

そう感じ、カルチャーショックを受けたのだ。

 

せっかく日本に生まれておきながら、きちんと日本文化を学んでこなかった自分に後悔し、私は一度きちんと日本の伝統的なものを見ていこうと思ったのだ。

 

 

ゴールデンウィークは飛行機代がやたらと高い。

しかし、京都行きの新幹線の往復代なら金の工面はなんとかなる。

そう思った私は久々に新幹線に飛び乗り、京都に向かうことにした。

 

特に行き先は決めてなかったが、なぜか龍安寺に行こうと思っていた。

中学生の頃、妙な衝撃を受け、あれ以来、何か心の中にもやもやがあったのだ。

 

あの庭園は一体何だったのだろうか?

それに龍安寺の近くには、妙心寺仁和寺もある。

のんびりと京都の日本庭園を巡ってみようと思ったのだ。

 

中学生ぶりに訪れる龍安寺は相変わらず、観光客でごった返していた。

自分が中学生の頃よりも、どこか外国人観光客が多い気がする。

 

 

私は庭園に入り、過去の記憶をたどって龍安寺の日本庭園に向かうことにした。

10年ぶりに見る日本庭園はやはり美しかった。

一面、真っ白い砂で覆われ、画角的な構造を徹底的に考えつくされた日本庭園がそこにはあった。

 

その庭園は、禅の境地を表しているという。

見る人の心の有り様によって、姿形が変わって見えるのだ。

私は他の観光客と一緒に縁側に座っていると、どこか落ち着いた気分になってきた。

そして、やはりこの庭園を見ているうちに、なんで幅10メートルくらいしかないこの空間に人が引き寄せられるのか不思議に思えてきた。

 

よく考えたら砂の上に石が置いてある幅10メートル足らずの空間に世界中から人が押し寄せてくるのは不思議な現象だ。

何か人を惹きつけるものがあるのだろう。

 

私はここでも心の中にもやもやを抱えていた。

何だろう、このもやもやは。

何かあるはずなのに、答えがうまく出てこないのだ。

 

私は龍安寺を出てから、隣にある仁和寺にも行ってみることにした。

龍安寺から仁和寺に抜ける道は、竹に覆われていて、心地よい気持ちになった。

他の観光客も同じ道を歩いていたからこの道は有名なのだろう。

 

歩き始めて数分後、仁和寺にたどり着いた。

境内は広大だった。

壁に囲まれ、奥の方には五重塔が見えた。

 

中央にある御殿は、庭園が寺院の中に内包されている作りになっていることは知っていた。

外から見たら壁に囲まれているが、内側から見ると、木で壁が覆われ、無限の奥行きのある空間に見える作りになっているのだ。

 

仁和寺の構造は知っていたが、やはり実際に目で見てみると衝撃が走るものだ。

境内は壁で覆われているはずなのに、無限の奥行きがある空間がそこにはあったのだ。

私は仁和寺の縁側に座りながら、昼寝をしていると、ふとなんでこんなシンプルな構造の庭園を作れたのか不思議に思った。

 

龍安寺の庭園もそうだが、とてもシンプルで洗練されている空間に見えて、物事の本質を捉え、徹底的に考えつくされた構造になっている。

よく考えたらどの角度から見ても石が14個にしか見えないような配置を考えるのは、並大抵の職人には無理な話だ。

 

徹底的に物事の本質を考え尽くし、シンプルに洗練された空間を作り上げていったのだ。

 

私はiPhoneのことを思い出していた。

アップル社を作り上げたスティーブ・ジョブズは生前、日本の禅文化に相当傾倒していたらしく、度々京都を訪れていたという。

 

表参道にあるアップルストアなどに行ったことがある人もいるかもしれない。

アップルストアの洗練とされたシンプルな空間は、日本庭園をイメージして作られているのだ。

物事の本質を見抜き、徹底的に洗練された空間を作り上げていたのだ。

 

また、アップルの製品のほとんどが日本文化の影響を受けているという。

物事の本質を見抜き、不要なものを徹底的に排除し、洗練とされた日本の陶磁器をイメージしてできたのがiPhoneだった。

 

世界に影響を与えていくクリエイティブな製品は、実は京都の文化から着想を得たものだった。

 

京都の日本庭園を作り上げた大昔の日本人はしっかりとわかっていたのかもしれない。

徹底的にシンプルに洗練とされ、物事の本質を見抜いて造られた空間は、何百年と歳月を得ても人々の心を惹きつけるのだと。

 

現代でそのことに気づいたのは、日本人でなく、シリコンバレーで活躍するアメリカ人だったのだ。

物事の本質を見抜き、洗練とされた日本の伝統文化を、そのままアメリカに持ち帰り、世界を変えていくような製品にしていったのだ。

 

 

今の時代、日本のベンチャー企業はやたらとアメリカや中国、イスラエル、インドとIT革命が起こっている国に進出しようとするらしい。

 

アメリカのシリコンバレーに留学して、技術を持ち帰ろうとするのだ。

しかし、わざわざ外国に行かなくても、もっと自分たちの国には凄いものが眠っているのだと思う。

海外にクリエイティブなものを求めるのではなく、もっと日本の伝統文化を見直してもいいのではないか?

 

京都の当たり前な日常の中には、世界を変えていくような気づきが眠っているのかもしれない。

そんなことを京都の庭園で座っている時にふと思った。