忘れ去られたゴミの92年生まれの私が見つけた、個性という名の呪いに効く薬
ゴミの92年生まれを知っているだろうか?
ネット上でも、度々話題になった92年生まれの悲惨さ……
私は92年に生まれたゆとり世代だが、確かに92年は他の年に比べて、有名人の数も少ない気がする。
92年生まれが悲惨といわれる所以は、その年に生まれた人達が歩んできた道筋が、
どうも他の年に比べて悲惨なことが多かったからだ。
まず、小学校に入学すると同時にゆとり教育が本格的に開始された。
私も覚えているのだが、突然、土曜日の授業がなくなったのだ。
教科書も明らかに上の先輩のものと比べて薄くなっている。
授業時間が伸びるかと思ったら「総合の時間」というよくわからない時間割ができて、みんな遊び呆けていた。
私はその時、小学生ながらも、こんなんでいいのかな?
と思っていた。
ゆとり教育が始まり、のびのびと子供の個性を伸ばそうという教育方針になっていった。
そんな小学校教育では週に2時間「総合の時間」というものが始まった。
今思うと、その時間で私は一体何をしていたのかさえ覚えていない。
算数も国語も理科もほっといて「総合の時間」という道徳の教科書をただ広げて暗唱するような時間を過ごしていたのだ。
92年生まれの私と同じ世代の人たちは、大人のいいなりになりながらも、その個性を尊ぶゆとり教育にどっぷりつかっていったと思う。
個性的なのがいい。
人と違う自分がいい。
自分らしく生きることがいい。
そんなことを思っていた。
しかし、個性を尊ぶゆとり教育も、92年生まれが高校生になることには考えが改められてきたのだ。
ゆとり教育を受けてきた世代の学力偏差値があまりにも下降傾向にあるので、
「脱ゆとり」が叫ばれるようになってきた。
私は「ゆとりだ!」「詰め込み教育反対だ!」などと大人は言っておきながら、
今度は「脱ゆとりだ!」と方向展開され、社会に翻弄されてきたように少し感じた。
そして、どっぷりゆとり教育の影響を受けた92年生まれが高校を卒業するとともに、教科書が一新され、完全に「脱ゆとり」の流れになった。
92年生まれは社会からつまはじきにされてしまったのかもしれない。
円周率がこれまで「3」と言われていたのに、「脱ゆとり」になってから「3.14」ときちんと子どもたちに教えるようになったのだ。
大人たちは「ゆとりだ!」と言っておきながら、失敗したから92年生まれが消えた途端に、次の世代は「脱ゆとり」の流れできちんと教育するという。
なんだか腑に落ちない気がしていた。
私たち92年生まれ前後の世代はやたらと、
個性を尊重しよう。
自分らしくあろう。
あるがままに生きようと言われ続けてきたと思う。
私もそんな個性的でありたいと思っていたゆとり世代の一人だった。
人と違うことがしたい。
上のいいなりになるなんて嫌だ。
そう思ったゆとり世代の多くが、ベンチャー企業などを立ち上げていった。
しかし、活躍しているゆとり世代はほんの一部だ。
ほとんどの人が私も含め、一般の企業に就職していくことになる。
個性を尊ぶことを学んできた私たちゆとり世代が社会に出るとどうなるのか……
今まで言われてきたことと社会が求めていることの違いに気づき、ギャップにもがき苦しむのだ。
私はそのギャップを始めて痛感したのは就職活動の時だった。
あれだけ、自分らしくあろう。
ありのままで生きようと言われていたのに、社会が求めているものは結局、自分たちのいいなりになって、つべこべ言わずに働いてくれる若者なのかもしれない。
体育会系の人が就活に強いと言われるのはそこなのだと思う。
先輩のいいなりになって、動くことに慣れているのだ。
上下関係を厳しく叩き込まれている。
私はというと全く体育会系の部活に入れなかった。
団体競技が苦手という意味もあったが、上下関係の息苦しさを常に感じていた。
個性的でありたい。
自分一人の力でのびのびとしたい。
そう思っていた私は、結局陸上部に入部することにした。
陸上は自分一人の成績と能力で順位が決定してくる。
私にはどうもそれが合っていたようだ。
社会に出るとどうも個性というよりも組織の中で動くことが求めれられてくる。
個性を尊ぶとあれだけ言われてきたのに、社会に出るときには個性を捨てることが求められるのだ。
個性っていったいなんだ?
私はずっとそう悩んでいた。
自分らしさっていったい何なのだろうか?
ありのままの自分っていったい何なのだろうか?
私は人と違うことがしたい。
個性的でありたいと思って、なるべく個性的な行動をするようになっていたのかもしれない。大学生になる頃には、一人でインドに行ったり、約10リットルの血糊をばら撒きながらゾンビ映画を作ったりしていた。
「君は個性的だね」
「あなたは人と違った何かを持っている」
と誰かから言われたかったのかもしれない。
しかし、個性的であろうとしても、そんな自分を誰も見てくれはしなかった。
約4ヶ月以上かけて作った自主映画も賞を取れなかった。
マスコミ中心に30社以上エントリーしても、ほぼ全て落ちた。
私は結局、個性的でありたいという呪いに振り回されていただけなのかもしれない。
自分はゆとり教育や社会のせいにして、逃げていただけなのだ。
自分を何かで表現したい。
自己表現しなきゃと思い込んでは、空っぽな自分に気づき、苦しんでいた。
社会に出て、いろんな挫折を経験して、何とかこうしてライティングの面白さに気づいて書くようになってからも、その個性という呪いに振り回されてきたのかもしれない。
個性的で独特の文章の方がバズる。
人に面白いと言ってもらえるのだとずっと思っていた。
だから、私はあえて人と違った行動をとって、個性的な文章を書けるようにしてきたのだと思う。
もっと個性を磨かなきゃ!
個性的であらなきゃ。
そう思っていたのだ。
しかし、ものすごいバズを発生させるようなライターさんや小説を書いている人と直接会ってみると、そんな風にして個性というものを気にしている人はあまりいなかった。
自分の身の回りのささいな出来事をコンテンツにし、自分がこれまで生きてきたなかで蓄積された感情を文章に流し込んでいるのだ。
あえて個性的であろうと振舞っていないのだ。
私はいろんな人と出会い、ライティングをするようになって薄々感じ始めていた。
「個性って自分から作るものではなくて、自然と身についてくるものなのではないか?」
確かに個性的でぶっ飛んだ行動をする人が書いた文章は面白い。
しかし、自分がこれまで経験してきたことや蓄積された感情が積もるに積もって、その人でしかない個性が生まれてくるのだと思う。
自分から個性的でなきゃいけないと思って、行動しているわけではないのだ。
会社に入って、悪戦苦闘し、失恋やいろんな挫折を経験していく中で、否が応でもその人だけの個性が生まれてくるのだと思う。
自然と身についてくるのだ。
私はこれまで個性的であらなきゃと思って、人と違った行動をなるたけ取るようにしてきて苦しんでいたのだと思う。
ありのままの自分でいたい。
自分の個性を磨きたい
そんなことを思っていた。
しかし、そんな無理して個性的であろうとする必要もないのではないかと最近は思うようになってきた。個性を気にして、SNSに投稿するネタや写真を探している暇があったら、目の前のことに向き合った方がいいのではないか? そう思うようになったのだ。
私を含めた92年生まれ前後の世代は、個性というものが呪いのように体に染み込んでいると思う。
個性的でありたい。
人と違う自分でいたい。
そう思って皆、SNSやInstagramに写真をアップするのだ。
バブルが崩壊したのちに生まれた世代は、市場にものが溢れ、消費社会が行き詰まり、
「ライフスタイル」というものが最後の商品になったと聞いたことがある。
確かに成功している会社は「ライフスタイル」というものを商品にしている。
個性的な写真を撮れるInstagramやフェイスブックが人気なのはそのためだ。
みんな「ライフスタイル」を手に入れたいのだ。
自分の個性を表現できるツールが商品になっているのだ。
アップル製品やスターバックスが人気なのも、会社と自宅の間にある、
豊かな「ライフスタイル」を手に入れることができるからだと思う。
世の中はどんどん自分の個性を表現できるツールで溢れてきている。
そんな世の中で生きている人にとって個性というものが呪いのように蔓延っている。
これから自分より若い世代がどんどん世の中に出てくるのだろう。
自己表現というものが呪いのように蔓延っている世の中と、社会が求めているもののギャップにもがき苦しむ昔の自分のような人は案外多いのだと思う。
そんな個性というものに、もがき苦しむ人に言いたい。
個性は自分から作るものではなく、自然と生まれてくるものなのだと思う。
自分から個性的であろうとする必要はないのだ。
普通だっていいではないか?
と私は最近、思うようになった。
普通の中から人を惹きつける文章を生み出している人もいるのだから。