何者かになろうともがいていた私が見つけた、いらない荷物を捨てていく旅
「何者かになるために上京してきた」
そう劇作家の本谷有希子はテレビで言っていた。
何者かになるために、東京にやってきて、20歳そこそこで自身が主催する劇団を立ち上げ、本谷有希子は何者かになった。
何者かになるためのパワーを持っていたのかもしれない。
彼女が人とは違う才能を持っていたのは確かだと思う。
そんなパワーを秘め、何者かになった本谷有希子に私はどこか憧れを抱いていたのだと思う。
私も何者かになりたかったのだ。
「大学は好きなことをやる」
そう入学式の時に宣言し、私はひたすら映画を作る毎日を送っていた。
大学時代は映画を作っていた記憶しかない。
浴びるように映画を見て、毎月のように自主映画を作っていた。
年間350本以上は映画を見ていた。TSUTAYAから年賀状が届くほどだ。
私はただ何者かになりたかったのだと思う。
「普通だね」と言われるのが何よりもコンプレックスだったのだ。
中学から高校まで、私はただクラスの隅っこにいるような生徒だった。
「桐島、部活やめるってよ」の前田君みたいに隅っこでいつも映画秘宝を読んでいるような学生だった。クラスの中心でいつも人の輪に囲まれている人たちを羨ましく思っていた。
「何者かになりたい」
自分はこういう人間だ! と言える肩書きを手にして、人から承認されたい。
そんなことを思っていた。
浪人の末に入った大学では、私はこれまで体に溜まっていたエネルギーが一気に拡散するかのように自主映画作りにのめり込んでいった。
昔から映画は好きだったが、多くの人と関わりながら一つの作品を作っていくのは楽しかった。
自分の頭の中にあるイメージを具現化していく作業がとても楽しかったのだ。
脳みその中にある絵を、目の前にいる役者さんを通じて、具現化していく……
そんなクリエイティブな道のりが何よりも好きだった。
10リットルの血糊をばら撒きながらゾンビ映画を作った。
ドンキー・ホーテでヒーロースーツを買って、ヒーローの格好で公演を走り回ったりもした。
私は図書館にこもって脚本や映画関連の本を読みふけっていた。
一介の映画人のふりをしていただけなのかもしれない。
それでも私は本を読みあさり、脚本を書いていった。
脚本を書いては、映画を作る……そんな日々を3年以上続けていた。
面白い人間にならないと面白いものは作れない。
そう思って、私は面白い人間であろうとしていた。
人と変わったことをあえてしようと、世界の中心であるニューヨークにも旅に出た。
学生にはホラーは難しいと言われているから、あえてゾンビ映画に挑戦してみたりした。
私は常に、人とは違う変わったものを求めていた。
ただ、何者かになりたかったのだ。
自分はどこか人とは違う何かを持っていると信じたかったのだ。
面白い人間でありさえすれば、クリエイティブで面白いものが作れるようになる……
そんなことを考えていた。
常に外に刺激を求めていた私だったがタイムリミットは刻々と近づいていた。
大学3年生の終わりになり、就活の時期がやってきたのだ。
今まで遊び呆けていた同級生も、皆髪を黒く染めて、ビシッとスーツを着ていった。
「就活なんてカッコ悪い」
私はそんなことを思っていたが、結局時期が来て、社会の波にのめり込まれるかのように就活をしていった。
日本の就活に異議を唱え、ノマドワーカーやフリーランスになろうという風潮はあったが、社会人経験がなく、何ももっていない私にはフリーランスになる勇気もなかった。
結局、私は何者にもなれなかった。
「大学生のうちに何かで頭角を出す!」
そう意気込んでいたが、結局、飛び出す勇気を持てず、何者にもなれなかった。
真っ黒なスーツを着て、企業の面接を受けていくうちに私は焦っていた。
何がしたいのかわからなかったのだ。
頭の片隅には他にやりたいことを持っている。
しかし、面接の場では「御社の企業に是非、入社したい」と言っている。
そんな嘘つき大会の就活に嫌気がさしていた。
結局、何とかとある制作会社に内定をいただき、私は何とか就活を終えた。
このままでいいのか……
そんな不安が常に脳裏を横切っていた。
大学に行ったら、面白い人間になれると思っていた。
世の中の隙間に、どこか自分の才能を認めてくれる余地があるだろうと思っていた。
しかし、そんなことはなかった。
誰も自分のことを認めてくれなかった。
自主映画を作っては、映画祭に応募していたが、どれも落選した。
映画サークルの知り合いは、学生映画祭で特別賞をもらい、商業映画監督としてのデビューが決まっていった。
自分と同じ時期に大学に入り、活躍していく人を見ていると、私は胸が引き裂かれそうになった。
なんで自分じゃなく、あの人が選ばれるのか?
私は何も持っていない自分に嫌気がさし、世の中をふらふら彷徨っていた。
常に浮足立っていて、生きている心地がしなかった。
そんな時、ふとこの本に出会ったのだ。
タイトルを見た瞬間、どこか直感的にビビッとくるものを感じたのだ。
私は割と直感的なものを信じる方だった。入学する大学も試験を解いていて、一番スラスラ問題が解けて自分と相性が良さそうな大学を選んでいた。
直感的にここだ! と思ったらすぐに飛び込むようにはしていた。
その本を手に取った時も、ある種の野生の勘みたいなものが働いていたのだと思う。
「人生に疲れたらスペイン巡礼」
就活に疲れ果て、世の中を浮足立ったさもよっていた私の前に、ふとこの本が現れたのだ。
私はその本を夢中になって読んでいった。
作者は就活をしている際にパニック障害になり、就活をやめてしまった。
就職ができない自分に焦り、スペインの巡礼の道「カミーノ・デ・サンティアゴ」まで巡礼の旅に出たという。
私はその本を読んでいる時にある一節がとても頭にこびりついた。
「人生と旅の荷造りは同じ。いらない荷物をどんどん捨てて、最後の最後に残ったものだけが、その人自身なんです。この道を歩くことはどうしても捨てられないものを知るための作業なんです」
私は常に外に刺激を求めていたと思う。
人と違ったことをやろうと、外に刺激を求め、常に浮足立って、空回りしていた。
しかし、大切なことは捨てることなのだ。
自分の中にある余計な荷物をどんどん捨てて、最後まで残ったものがその人にとって一番大切なものなのだ。
その言葉が私の心に深く残っていった。
結局、私は就職したが、あまりにもその会社がブラックだったため、数ヶ月で辞めてしまった。自分の弱さに嫌気がさしたりもした。
家に数週間引きこもって動けなくなった。
そんな時、いつもこの言葉を思い出していた。
大切なことは捨てることだ。いないな荷物をどんどん捨て、最後まで残ったものがその人にとって一番大切なものだ。
私は東南アジアに飛び、いらないものを捨てる旅に出た。
一ヶ月近く海外を放浪していくうちに、自分は何か変わったのかもしれない。
変わらなかったのかもしれない。
ラオスの山奥まで行ってみたが結局、何も見つからなかった。
しかし、ふと、この本を書いた作者のような文章を書きたいと思ったのだ。
人の心に突き刺さるような文章を書けるライターになりたいと……そんなことを思うようになった。
日本に帰り、転職活動をしている時も頭の片隅でそんなことを考えていた。
世の中に対するアンテナの張り方がそっちの方に向いていると、自然と運もそっちの方に向かってくるものだ。
人の人生を狂わせるような凄いライティングの師匠に出会い、今こうして私は文章を書くようになった。
もし、就活に嫌気がさし、世の中を暗い目で見ていた当時の私が、この本に出会わなかったらどうなっていたのだろう?
きっとライティングの魅力にも気付かずに、今でもずっと世の中をさまよい歩いていたのだと思う。
自分の中にある荷物を捨てて、ようやく私はライティングの魅力に気づけたのだ。
ブログを書くことも、荷物を捨てていく旅に似ているかもしれない。
毎日ライティングに励み、自分の中にあったネタのストックをどんどん捨てていくと、捨てた分だけ脳みそが枯渇して、ブログの記事のネタを探して無理やり世界を多角的に捉えるようになる。
道を歩いていても常にアンテナを張った状態になり、日常のささいな出来事にも敏感になって、ありふれたことも愛おしく思えてくるのだ。
世界がカラフルで色鮮やかに見えてくる。
大切なことは捨てること。いらない荷物をどんどん捨て、最後まで残ったものがその人自身を作る。
その言葉を励みにして、今日も私はいらない荷物を捨てるべく、ライティングに励んでいる。
紹介したい本
「人生に疲れたらスペイン巡礼 飲み、食べ、歩く800キロの旅」
小野美由紀著