ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

私がタイ・バンコクで見たのは、50年前に黒澤明が描いていた「天国と地獄」だった

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「天国と地獄だ」

赤い煙が燃え上がっている煙突を見て、青島刑事はこうつぶやいていました。

映画「踊る大捜査線」のワンシーンです。

 

私は小学校の頃、そのシーンを見て、

なんで青島刑事は煙突を見て「天国と地獄だ」とつぶやいたんだろう……

と思っていました。

 

黒澤明のあの名作のことを当時の私は知らなかったのです。

今思い返すと、映画「踊る大捜査線」のあの煙突のシーンは世界的な巨匠へのリスペクトを捧げたオマージュになっているのだと思います。

 

明らかにあの作品をイメージしてオマージュしているのです。

 

その映画とは黒澤明監督の傑作人間劇「天国と地獄」です

 

私は大学に入った頃に「天国と地獄」を初めて見ました。

とても衝撃を受けたのを覚えています。

 

ここまで人間を深く描いた作品はあったのだろうか……と震えながら見ていました。

そして、犯人と被害者が対面するラストシーンを見た後には、何かトンデモナイものを見てしまったという余韻が残り、呆然としてしまいました。

 

本当に素晴らしい映画です。

素晴らしいだけでなく、私の人生観に影響を与えるきっかけにもなった映画にもなりました。

 

しかし、当時の私はただの大学生で、世の中のことを全くわかっていませんでした。

親の金をかじって大学に進ませてもらいながら、授業をろくに出席せず、

図書館にこもって映画ばかり見ていたのです。

 

そんな浅はかだった当時の私には、黒澤明が残したメッセージの深い意味をきちんと読み取れてなかったと思います。

 

「天国と地獄」で描かれている人間の深さを……

 

 

 

 

「死ぬ……」

私はその時、精神的に限界でした。

連日の徹夜で意識が朦朧としていたのです。

都心にある駅で一人始発電車を待っている時、ふとめまいがしました。

 

このままでいいのか……

こんなはずじゃなかった……

 

私が新卒で入ったのはとあるテレビ制作会社でした。

テレビといったらブラックなイメージが強いと思いますが、案の定なかなかのブラックです。

 

1日30分くらいしか寝れませんでした。

月に休みが一回あるかないかです。

そんな世界でしたので、同期は次々と辞めていきました。

 

今思うと、私は自分の意思でこの世界に入って行ったのに……と思います。

映画が大好きで大学時代には年間350本以上の映画を見ていました。

TSUTAYAの洋画の棚はほぼすべて見つくしました。

 

休みの日となると、1日に6本の映画を見ていたのです。

今思うとだいぶ気持ち悪い大学生だと思います。

 

映画の見過ぎでTSUTAYAから年賀状が届きました。

 

私は映画を見るのが大好きであるのと同時に、自主映画を制作することにのめり込んでいました。

大学生活で7本くらいの自主映画を作っていました。

3ヶ月以上かけて約70分くらいの長編も作りました。

 

自主映画作るのにも10人以上のスタッフの協力が欠かせません。

撮影、照明、編集など多くの人の協力が必要なのです。

 

私は元来コミュ症な体質です。

高校時代までずっとクラスの人とうまく話せないような学生でした。

ずっと教室の隅っこでうずくまってるような生徒だったのです。

 

こういうことを主張したい!

こんなことを言いたい!

 

私はずっとモヤモヤを腹の中に抱え込んでいたと思います。

クラスの中心的な華のある人を見て、羨ましく思っていました。

 

自分もあの人のように、いろんな人に囲まれたい!

自分が仕切って会話を盛り上げたい!

 

そんな感情を抱いて生きていたと思います。

しかし、人と話すことが大の苦手だった私は自分の世界に引きこもり、

映画の世界に逃げていたのです。

 

もっと自分を表現したい!

そういった感情が常にありました。

それが大学時代に一気に爆発したのです。

 

「10リットルの血糊をばらまくぞ」

そういって、夜な夜な大学に忍び込んでゾンビ映画を作ったこともありました。

 

ただ楽しかったのです。

多くの人と関わりながら映画を作っていくのが何よりも楽しかったのです。

映像制作こそ自分の生き甲斐だと思っていました。

 

 

就活ではテレビ局などを受けたのですが、ほぼすべて敗北。

結局、とあるテレビ番組制作会社に就職して、働くことになりました。

 

好きを仕事にするのは難しいと聞いていました。

当時の私は「好きなことを仕事にできたら最高じゃん!」と思っていました。

 

しかし、好きだからこそ、その仕事の裏にある酷い部分を知り、辛い気持ちになることもあるのです。

私は映像制作が大好きでした。

大好きだからこそ、それを仕事にするのは辛かったのかもしれません。

 

朝の3時過ぎまでデータの取り込みをし、5時過ぎには翌日のロケハンに向かう準備をしていました。

かなりのハードスケジュールです。

 

一週間家に帰れなかった時もありました。

ほぼ毎日会社の床で寝ていました。

 

それでも自分の選んだ道だと思って耐えていたと思います。

耐えてはいましたが、少しずつ限界が来ていました。

 

いつものように終電を逃して、始発で家に帰ろうとしている時、

自分でも驚くような行動を取ってしまったんです。

 

私はホームに入ってくる電車に向かって吸い込まれそうになりました。

 

わぁっ! となりました。

 

無意識でした。

電車に接触する寸前で我に返り、私はホームに立ちつくしたのです。

何が何だかわかりませんでした。

 

深呼吸をして、目をじっと閉じていると、自分は危ない状態にあることをようやく理解できました。

入社2ヶ月ほどで私の体重は8キロも減量していました。

歩くのもフラフラなくらいでした。

 

貴重な休みを利用して会った中学の同級生には

「お前、目が死んでるぞ」

と言われました。

 

このままでは危ないと思い、結局私は退社することにしたのです。

会社を辞めると上司に言った記憶がないほど、私はおかしくなっていたと思います。

 

人間、追い込まれたら何をしだすかわからない。

そんなことを身にしみて痛感しました。

自分の体で感じたのです。

 

 

その後、私は東南アジアをバックパッカーの旅に出ました。

ずっと憧れていた長旅です。

社会人になるとできないと言われていた旅だったので、私は1ヶ月以上海外にいることにしました。

 

一旦、自分と距離を置きたかったのです。

日本の社会ではとてもじゃないが生きていけないと思っていたのだと思います。

 

タイ・バンコクスワンナプール国際空港に私は降り立ちました。

飛行機から降りた時、あまりにも空港のデザインのかっこよさに私は圧倒されていました。どこもかしこもスタイリッシュで洗練とされた空間なのです。

 

高度経済成長が進んでいるタイを象徴するような建物でした。

どこを見てもピカピカの通路で、ターミナルの窓は円球で斬新なデザインでした。

 

私はバーツに両替をして、中心部に向かうエアポートトレインに乗ることにしました。

安宿が集まっているバンコクの中心部に向かおうとしたのです。

 

電車から見るタイ・バンコクの光景に私は驚きました。

高層ビルが立ち並び、まるで世界の中心都市のような形相をしていたのです。

 

こんなにバンコクって栄えているのかと思いました。

 

日本のお台場よりも広大ですごいと思います。

 

私は中心部の駅周辺にあった安宿で泊まることにしました。

金はほとんどありませんでした。

最下層の宿に泊まるしか選択肢がなかったのです。

 

ベッドの下にはゴキブリがいっぱいいました。

私はただ唸るようにただ耐えて、眠りについていたと思います。

 

翌日になってバンコクの中心街、サイアム・スクエアを見てみることにしました。

東南アジア最大級のショッピングモールです。

 

驚きでした。

どこを見ても外国人だらけです。

物価が安いタイまで家電良品を買いに来る人もいるのでしょう。

 

フランス人からアメリカ人まで、多くの欧米人がひしめき合っていました。

もちろん金がなかった私は何も買うことができず、ただ街中を歩いているだけでした。

 

街中を歩いていると変わったことに気づきました。

ものの値段が変動しすぎているのです。

 

都心部のレストランでは700円くらいするセットメニューでも、

郊外にある庶民が食べるような屋台では50円ほどで腹一杯飯が食えるのです。

 

 

何でこんなに物の値段に差があるのか不思議でした。

 

バンコク内を張りめぐされた鉄道もまた不思議な光景でした。

高架鉄道スカイトレイン)に乗ってみると、中は洗練とされていて、まるで鉄腕アトムで描かれていた未来都市にある乗り物のような感じでした。乗車券は150円ほどです。

 

しかし、庶民が乗る一般的なバスは、エアコンなどもついてなく、椅子もガタガタで

たったの7円で乗車できます。

 

富裕層高架鉄道スカイトレイン)に乗っていて、貧困層は皆バスで移動しているのです。

 

人々が営む生活の差に、私は驚きでした。

こんなにも貧富の差があるのかと思ったのです。

 

街中を見ていても驚きでした。

高層ビルが密集している地帯でも5分ほど歩くとスラム街へと変わるのです。

目と鼻の先に富裕層が暮らすエリアがあり、すぐ隣に貧困の人が暮らすエリアがあるのです。

 

私には衝撃的でした。

日本に暮らしているだけではわからないことだらけです。

 

世界にはこんなにも経済的な格差が蔓延しているんだなと思いました。

 

私はタイ・バンコクに数日滞在し、次にカンボジアに向かうことにしました。

都心部にある駅から国境沿いの町に通じる電車が出ているので、それに乗ることにしたのです。

トゥクトゥク(タクシー)のおっちゃんに騙されなければ、300円ほどでカンボジアまでいけるかもしれません。

 

国際バスではどうしても1000円を超えてしまうので、電車で行くことにしたのです。

 

朝5時30分発の国境行きの電車に乗るため、私は夜中の2時過ぎから駅のホームで待機しようと思いました。

そうすれば一泊の宿代が節約できるからです。

 

私は夜中、駅にやってきました。

ホームレスが寝床を求めて駅の入り口に群がっています。

私はホームレスに混じって、地面に座って、体を休ませました。

 

そこでバンコクで暮らす人々の営みを体感すると同時に、怖くもなりました。

世の中の仕組みを知ってしまったからです。

 

高度経済成長は富を手に入れる人がいる一方で貧しい人を生み出してしまうのです。

 

世界中の富のほとんどが上位の数パーセントの人間が手にしているという話は聞いたことがあります。

富む人がいる一方、貧しくなる人が生まれてしまう。

 

世界中の人が貧富の差がなく、公平に豊かになることは不可能に近いことなのです。

日本で暮らしているだけではその感覚はわかりませんでした。

 

豊かになる人がいたら、その分貧しくなる人がいる。

タイ・バンコクでホームレスと混じって、駅で寝た経験が私の人生観を変えたのかもしれません。

 

私はその時、こう思いました。

 

天国と地獄だ……と。

 

 

黒澤明監督の「天国と地獄」では、最後に犯人とすべてを失った被害者が対面する際に

こういったセリフがありました。

 

 

「クソ暑いアパートから見上げたあんたの家はまるで天国でしたよ」

 

貧しい家庭で生まれ育ち、苦学の末に医学部に通っていた青年は

富を握りしめた富裕層に恨みを持っていました。

 

彼をそこまで追い詰めたのは社会なのでしょうか?

人間なのでしょうか?

 

人はとことん追い詰められると何をしでかすかわからない。

自分の経験でも身にしみてわかりました。

 

 

人間のやり切れなさ、そして人間の奥深さを黒澤明監督は描きたかったのではないでしょうか?

 

 

バンコクの中心部にある駅でホームレスと混じって眠りについていると、

気づいたら朝の4時30分になっていました。

 

まだ、周囲は真っ暗闇です。

 

4時30分になったら駅の入り口が開き、室内に入れるようになりました。

 

その時、駅の周辺にホームレスが密集していた理由がわかりました。

皆、エントランスのエアコンの涼しさを求めていたのです。

 

バンコクは年がら年中蒸し暑いです。

湿った空気がただよい、常に蒸し暑い状態が一年中続きます。

 

そんなバンコクではエアコンの冷房が豊かさの象徴でもあるようです。

ホームレスたちは皆、駅の中の冷房を求めて、夜中から入り口で待っていたのです。

 

私はそんなバンコクの人々を見て、人間の欲深さや営みを私は学びました。

 

結局、どうしてもやりきれない気持ちを残したまま、私はバンコクを後にし、別の国に向かいます。

 

日本に帰ってきた今でも、

あの日、出会ったホームレスたちは今頃何をしているのだろうか?

元気で暮らしているだろうか?

と思うことがあります。

 

先進国である日本で生まれ育った自分にとって、彼らに何か施しをすることは

善意によるものなのか、ただの上から目線によるものなのか……

正直、よくわかりません

結論は今でもついてないです。

 

 

日本に帰ってきた今でも「天国と地獄」の最後で、黒澤明が描いたような人間のやり切れなさをずっと身にしみて感じるのです。