10代の頃に映画「シンドラーのリスト」を観てから、どうしてもこの感情が拭いきれないでいる
「長いこと生きていると、その時、出会うべき人に出会える瞬間がある」
そんなことを昔、ある人に言われた
出会うのが早すぎてもダメ。
社会に出て、いろんな経験をしていく中で、少しずつバケツの水が溜まっていくかのようにして、自分の価値観も変わっていき、出会うべき人に出会う瞬間がある。
出会うべきものが人でも、物でもいい。
今まで積み上げてきたものが凝縮され、出会うべき時に出会えるものがある。
その時にはわからなくても、時間が経てば、きっと気づくこともある。
そんなことをある人に言われた。
自分の人生観を変えるような出会い?
それって一体なんなのだろうか。
大学を卒業して、まだ数年しか経っていなく、未だにそんな出会いがあるのかどうかもわからない。
だけど、自分の脳裏にずっと焼き付いて離れず、きっと無意識のうちに影響され続けている映画がある。
それは「シンドラーのリスト」という一本の映画だった。
始めて観たときは確か高校生だったと思う。
なぜかTSUTAYAに置かれていた映画のパッケージに惹かれ、手に取っていたのだ。
「シンドラーのリスト」を観たときのことを今でも覚えている。
3時間以上もある長い長い映画だったが、一瞬たりとも目を背けず、
じっと見続けてしまった。
全編モノクロの世界で表現されているこの映画に当時の私は相当感化されてしまったのだと思う。
とにかく見ていくうちに、画面から目が離せなかった。
目を離してしまうことが自分に許せなかった。
モノクロで表現されているこの映画は、人類史上唯を見ない大虐殺が起きた事実をこと細かく丁寧に描いていく。
ただ広い荒野の真ん中、静寂に包まれている時、一本の銃声が響きわたり、人が機械的に処理されていく様を見て、とても恐怖を感じた。
映画を見ているから怖くなったというよりも、この映画で見た景色が実際に起きたことに恐怖を感じたのだ。
当時のホロコーストを生き残った生存者たちの証言をもとに作り上げていったこの映画は、まるで記録映画のようにただ刻々と事実を捉えていく。
高校生だった私は、ただ目の前に広がっていたモノクロの世界を呆然としながら眺めていたのだと思う。
そこに描かれているのは、人間の恐ろしさであり、美しさでもあった気がする。
監督のスピルバーグと撮影監督を務めたヤヌス・カミンスキーが作り上げたモノクロの映像はどこか悲しみを奏でるように美しい響きが広がっている。
モノクロの世界に響き渡る悲しみの色合いと、大量虐殺が起きていく中でもユダヤ人を救うため、立ち上がったドイツ人の正義感が全編で美しいハーモニーを奏でているのだ。
モノクロの世界に広がる雪景色はとにかく美しい。
当時の真冬のドイツには、夜空から毎日のように雪が降ってきたという。
だけど、この雪は収容所の煙突から舞い上がっていた大量の灰だとわかった瞬間、なんとも言えない悲しみが心の奥底で湧き上がってくる。
未だにどうしてもこの映画だけは年に一回は見てしまう。
何度でも見てしまう。
全編モノクロの世界で表現されているこの記録映画のような物語に私は相当
かんかされてしまったのだろうか。
普段、街中で写真を撮ることが多いが、どうしてもこの映画を思い出してモノクロ写真を撮ってしまうのだ。
世の中に蔓延している違和感というものを、どうしてもモノクロの映像で切り取りたくなるのだ。
毎日のように忙しい日々を送っていると、日常に潜んでいる他人の悲しみなどを見ている暇などない。
人身事故が起きても、見て見ぬ振りをしてしまった方が楽である。
だけど、どうしても見て見ぬ振りができないでいる自分もいる。
何も感じずにいてもいいのか……
そんなことを、社会人をやっていてもふと思ってしまう。
10代の頃に出会ったこの映画は私の脳裏にとても焼き付いてしまったらしい。
全編モノクロで描かれたこの記録映画のような美しい物語は、大量虐殺が起こった悲しみと人間の怖さを伝えている。
当時のドイツの役人達がいかにして機械的にユダヤ人を処理していったのか。
そのことをしっかりと歴史に残している。
この映画は本当に人として一回は見なきゃいけない映画だと思う。
10代でこの映画と出会った私はその後も社会に潜む違和感というものに目を背けられなくなってしまった。
戦争が終わり、どんな世の中になっても、悲しみを抱えてモノクロの世界でしか社会を見られない人たちがいる。
そんなモノクロの世界でも、些細な一瞬でも色あざやかなカラーに見える光景があるのだと思う。
この映画を観てから私はずっと、オスカー・シンドラーの心を変えた、赤い服の少女の面影を探しているのかもしれない。
全てがモノクロに見えていた当時の私を変えた、あるひとつのフィルムカメラ
「とにかく全部捨てよう」
そう決心してすぐ私は東南アジア行きのチケットを買っていた。
もう何もかも捨ててしまえ。
無理やり自分を押し殺して生きていくことに疲れ果て、私の心は限界に来ていた。
他人の目が気になる。
仕事を辞めてしまった自分に居場所なんてない。
当時の私は相当、精神的に滅入っていたと思う。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、劣等感で人とも全く会えなくなった。
ツイッターやフェイスブックに流れてくる同級生たちの投稿をみつけては、家に閉じこもりニート生活をしていた私は劣等感に苛まれ、身動きが取れなくなっていた。
やりたいことなんてない。
人とも話したくない。
今思えば、人生どん底の日々である。
ずっと家に閉じこもり、死んだ目をしたまま天井を見上げていると、ふと思い立った。
「いったん、全て捨ててしまおう」
私が唯一選択したことは、日本をいったん離れ、海外に行くことだった。
とにかく今、自分の置かれている状況から離れたかったのだ。
世界がモノクロにしか見えなかった私は、とにかく逃げることで必死だった。
このままでは死んでしまう。
とにかく日本から離れよう。
昔から日本に暮らしていたが、どうしても馴染めないと感じている自分がいた。
小学校の頃から、右習えの教育を習い、大多数の意見に流され、気がついたら
自分の居場所がどこにもないように感じていた。
何でこんなに生きづらいのか。
小学校の頃からどこか違和感を感じていたが、社会人になってからがピークだった。
あっ、だめだ。このままじゃ死んじゃう。
自分の中に湧き上がっていた黒い感情がプクプクと湧き上がり、徐々に心に浸透していった。
満員電車の中で軽くパニック障害になり、動悸が激しくなって、あわゆく人身事故を起こしかけたこともある。
とにかく全部捨てよう。
その一心で、私は逃げるようにして東南アジアの旅に出た。
タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスと回っていくうちに多くの刺激的な旅人と出会った。
カンボジアで一人ゲストハウス経営を始めた女性。
一輪車に乗って世界一周をしている旅人。
世界中の薬草を探している研究者。
耳が聞こえないのに韓国語と、日本語、英語を理解するスケベなおっちゃん。
いろんな価値観と出会った。
日本にいた時には、会社という小さな世界でしか物事を見れていなかったが、いったん外の世界に行けば、ものすごく大きな世界が眼の前には広がっていた。
自分は今までどれだけ小さな世界を見ていたんだろうか。
そのことに気がつき始めた頃、ある一人の旅人と出会った。
その方はベトナムからラオスを旅しているうちに、なぜか不思議な縁に導かれるかのようにして、行くところ所で再会していった。
最初はベトナムのフエという街のゲストハウスで偶然出会った。
その後もラオスに向かう国際バス(ラオスの断崖絶壁を24時間にわたって突き進む……地獄のバス移動)の時もなぜか不思議と再会した。
ラオスの旅をしているうちにその人がいつも抱えていたフィルムカメラが気になって仕方がなかった。
旅人がみんな行くような絶景を訪れても決してシャッターを切らないのだ。
なんでだろうと思っていた。
その旅人が大切に持っていたのは古びたフィルムカメラだった。
「みんなスマホで簡単に絶景を写真に撮るけど、国に帰ってその写真を見ることなんてあまり無い。本当にいいと思った瞬間だけシャッターを切ればいい」
当時の私はカメラに疎く、あまり言っていることがピンとこなかったが、日本に帰ってからもその方が言っていた言葉がずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。
「カメラを始めれば世界の見方が変わる。君は絶対カメラは始めた方がいいよ」
日本に帰ってから、転職活動を始め、徐々に社会復帰をしていった。
気がついたら再びサラリーマンをやって、社会の歯車の中に染まっていた。
別に仕事に不満があるわけではない。むしろ今の仕事先は好きである。
だけど忙しい毎日を送る中で、ふと何か忘れてはいけない感情があるような気がしてならなかった。
満員電車から吐き出されるようにして、人でごった返している渋谷の街を歩き、目の前の世界がモノクロにしか見えなかった私が、どうしても見たかった景色が眼の前にある気がするのだ。
気がついたら私はカメラを買っていた。
約8ヶ月かけて徐々にお金を貯めて購入した。
カメラを始めてから驚いたことがあった。
今まで自分が見ていたモノクロの世界が色あざやかに見えるのだ。
普段乗っている満員電車の中でも、ささいな日の光でさえ美しく感じられ、涙が溢れてくるようになった。
そうか。
あの人が言っていたことは、こういうことだったのか。
気がついたら私はカメラに夢中になっていた。
数日前、フェイスブックのつながりで私はその旅人と再び再会した。
新宿の居酒屋で飲みながら、当時の旅のことを話しているうちにとても懐かしい気分になった。
「あのラオスの山奥で出会ったスケベなおっちゃん、今何やっているんだろうか?」
「あの24時間のバス移動は本当に命がけだった……」などなど。
ふと眼の前に座る旅人にこんなことを言われた。
「本当に君、顔色が変わったね。だいぶ話しやすくなった」
私はへ? という感じだった。
聞くところによると海外にいた頃の私は相当精神的にやばかったらしい。
常に死んだ目で街を徘徊していたようなのだ。
そんなに変わったものなのか?
自分にはよくわからない。
だけど他人の目からしたら相当変わったらしい。
気がついたらカメラの話になっていた。
旅人がいつも大切に抱えているライカのカメラを見せていただいた。
カメラファンにはたまらない人気のブランドだ。
50年以上前のモデルでも全く色あせない。
私はライカを見せてもらっているうちに、ふと気がついた。
フィルムカメラはファインダー越しでしか世界を見れないんだ。
私が普段使っているソニーのα7Ⅱというデジタル一眼カメラは、液晶モニター越しに目の前の世界を見ている。撮った写真もすぐに液晶モニターで確認できる。
しかし、ライカなどのフィルムカメラはファインダー越しでしか世界を切り取れないのだ。
小さなファインダーの中を覗いているうちに私は不思議な気分になった。
あ、カメラってルビンの壺なのかもしれない。
ルビンの壺は見る人の見方によって、壺にも見えるし、人にも見える。
カメラのファインダー越しに見えるありふれた日常の世界も、見る人によって見方がだいぶ違ってくる。
たとえ些細な日常でも、人によって大切な一瞬の写真にもなり得るし、つまらない写真にもなり得る。
仕事なども同じなのかもしれない。
サラリーマン人生はつまらないと思っている人にとって、会社勤めはつまらないものでしかないのだ。
社会は理不尽だと思っている人にとって、社会がそう見えるだけなのだ。
身の回りにある光景も、切り取り方次第でだいぶ見えてくる世界も変わってくる。
私はカメラを始めてからちょっとずつ、そのことに気がついていたのかもしれない。
どんな些細な景色でも、見る人の捉え方によって最高の絶景にもなり得る。
きっと絵になる景色はいろんなところに転がっているのだ。
私は死にそうになりながらも海外を放浪し、カメラと出会ってから、ちょっとずつ見えてくる景色があったのかもしれない。
ファインダー越しに見える世界をどう切り取るかは自分次第。
ある人には色褪せたモノクロに見えるだろうし、ある人には色あざやかなカラフルにも見える。
きっと、どのように世界を切り取るかを決めるのはいつも自分自身なのだ。
そのことに気がつくまで、結構な時間がかかってしまった。
カメラを通じて、私は相当多くのことを学んでいたのかもしれない。
社会人になってずっと「空虚感」を抱えている人がいたら……
「なんでこんなに頑張っているんだろう」
ふと満員電車の中で思い立った。
終電近くの満員電車の中は、いつも人でごった返している。
大抵は疲れた顔をしたサラリーマンで埋めつくされている。
仕事のイライラが溜まっているのだろうか。
何か仕事上の話をボソボソと呟いているスーツ姿のおじさんたちもいる。
終電近くの電車に乗るとき、私はいつも本を読んで周囲の光景をシャットアウトするようにしている。
そうしないと負のオーラを出しきっている疲れた表情の人たちが気になってしまい、自分も影響され精神的に疲れてしまうのだ。
別に仕事に不満があるわけではない。
入社して半年以上たち、徐々に仕事の大変さもわかるようになって、ちょっとずつだが社会人としての第一歩を踏み出してきている気はする。
残業が多くても、以前にやっていたテレビ局のADの仕事よりかは苦ではない。
フリーターの時代が長かったせいか、仕事があるだけでありがたく思えてきて、仕事を楽しんでやれている。
だけど、時々思ってしまう。
「どうして自分はこんなに頑張っているのだろうか」
社会人をやって初めて気がついたことなのだが、
一つの会社の中でもこまめに働いている人もいれば、
適当に言われたことだけをやって定時に帰ってしまう人もいる。
そのことにだいぶ驚いた。
会社の中でもこんなにも働き方の違いがあるのか……
部署によってもだいぶ違ってくる。
忙しい部署に配属になると、死ぬほど忙しく残業の嵐になる。
その一方、暇な部署に配属されると、周囲の上司もみんな定時に帰っていくので、夕方過ぎになるとみんな消えていく。
サラリーマンとなると基本的に残業しようが定時に帰ろうが給料は一緒だ。
費用対効果を考えると言われたことだけをやって定時にさっと帰ってしまう方が楽だ。
だけど、どうしも自分は……
もっと働きたい。
もっと一人前になって、きちんと働けるようになりたい。
そう思って、毎日夜遅くまで残業して、自分のペースで仕事してしまう。
別に仕事や残業に不満があるわけではないが、どうしても心の奥でモヤモヤとした黒いものがあった。
なんだろう。
この違和感は。
仕事に夢中になってがむしゃらに営業先を走り回っても、どうしても違和感を抱いてしまうのだった。
高校生の頃はみんな開かれた将来に向けて、胸をときめかせていた気がする。
「ミュージシャンになりたい」
「アーティストになりたい」
そんな夢を周囲に語り、大学に進むなり、専門学校に進むなりして自分の進路に向かって飛び出していった。
だけど、大人になり、徐々に社会の現実というものに気がつき始めると、
夢を語る人も周囲から消えていった。
「あいつ写真家になるって言っていたのに今何やってんだろう?」
「役者になるって言って学校を辞めたあいつ、まだアルバイト生活らしいよ」
そんな声をちらほらと聞く。
そういえば大風呂敷を広げてそんなこと言っていた人がいたな……
と傍観者の目線になっている自分に気がつき、自分に対して嫌気がさしてくる。
自分も一度は将来に対し夢を抱いていた時期があった。
映像に関わる仕事がしたいと思い、実際に撮影現場を訪れたりして自分の夢の仕事に近付こうとしていた。
だけど、やっぱり実際の現実は厳しい。
いつしか高校時代に思い描いていた職業から遠ざかり、今は会社員になって働く日々を送っている。
別に仕事に不満があるわけではない。
だけど、どうしても高校時代の自分が今の自分を見るとどう思うのか?
そんなことを思ってしまう。
どこかずっと「空虚感」というものを抱えながら生きている感じ。
その「空虚感」を忘れるためにも今は仕事に熱中している感じがするのだ。
そんな時にこの本と出会った。
今の自分じゃなきゃ出会えなかった本かもしれない。
「光と写真について書かれた最高の小説があります。読んでみてください」
数回しか直接お会いする機会がなかったが、その人の仕事への考え方や生き方に共感してしまい、何度かやりとりさせていただいている方が自分にはいる。
その方はいろいろ苦労されて今は起業して会社の社長をされている。
多分、行動すれば人生が開かれることを知っているのだろう。
今は海外で起業することを目標に人生の階段を猛スピードで駆け上がっているみたいだ。
「光と写真について書かれた小説?」
一体どんな本なのだろうかと思った。
ひとまず本屋に駆け込むその本を手に取ってみた。
鮮やかな装丁にタイトルが書かれていた。
「砂に泳ぐ」
本の装丁を見た瞬間、直感的にこの本は読まなきゃと思った。
どうしても読んでみたい。
そう思ったのだ。
すぐにこの小説を買い、毎日の通勤時間の隙間に読み始めていった。
読み始めると止まらなくなってしまった。
なぜか気がついたら涙が出てきてしまうのだ。
この小説の主人公が会社経営をしている知り合いの方にも見えてくるし、自分にも重なって見えてきてしまうのだ。
何でこんなに感情移入してしまうのだろうか。
その小説の中にはやりがいを見つけられず生きづらさを抱えていたある女性が、写真を撮ることと出会い、一人の女性として成長し、自立するまでの物語が描かれてあった。
少しずつ少しずつ、迷いながらも自分の道を切り開いていき、
最終的にはフォトグラファーになる主人公は力強くこんなことを言っていた。
「心が動いた時、その時の風景や空気、その向こうにあるかもしれない物語を切り取りたい」
仕事に対し、空虚感を抱えながらも力強く自分の道を見つけていった主人公の女性を見ているうちに涙が溢れてきてしまった。
遠回りしてきても、少しずつ自分の道を見つけていけばいい。
そんなことを感じるのだ。
忙しい毎日を送る中でも、目の前のことに無我夢中になっていたら、きっといつか道は開かれるのではないか。
そんなことをこの小説を読んでいくうちに感じた。
きっと、これからも「空虚感」に思い悩む時、この小説のページを自分は開いているのだと思う。
読む時期によって感じ方も違ってくるのだろう。
今だに自分が本当に何がしたいのか、さっぱりわからない。
だけど目の前のことに真剣に取り組んでいれば、きっと数年後には何か見えてくる景色があるのだろうと思う。
生きている実感を感じられない人にとって、映画「ブレードランナー2049」は、特別な薬になるのかもしれない
「人が生きている意味なんてありません。ただ生まれて死ぬだけです」
今でも予備校講師に言われた言葉をたまに思い出す。
私が通っていた予備校には名物とされている英語の先生がおり、とにかくその先生から授業中ボロクソに私はヤジを飛ばされていた。
「大学受験に失敗するなんて情けない」
「あなたたちはタコですね」
現役の時は志望校をほぼ全て落ちた私はその先生の授業を受けて、結構腹がたつことも多かった。
だけど、とにかくその先生の授業は人気があった。
英語に関してはどの先生よりも力になるのだ。
構文やら英作文までびっしりと鍛えられ、その先生の授業を一年間ボロクソになりながらも通っていた生徒はみんな浪人の末、志望大学に受かっていた。
自分も当時は泣きながら、その先生の授業についていったと思う。
本当に泣きながらだ。
英作文を見せに行っては、「あなたはタコですね」と馬鹿にされ、
なにくそと思ったものだ。
それでも私は必死になってその先生の授業を受けて行っていた。
なぜか直感的にこの授業は受けなきゃいけない。そんなことを思っていた。
約一年間、ボロクソに言われたおかげで私の壊滅的だった英語の偏差値も徐々に上がっていき、なんとか志望大学に合格することができた。
その先生の最後の授業。
いつも生徒をボロクソに言い、厳しいことで有名な先生だったが、最後の授業ではとても感動的な言葉を言っていた。
「今の若い人はよく生きている意味がわかりませんって言います。
生きている意味なんてありませんよ! あなたがこの世に生まれてきたということはどれだけの確率なのか知っていますか? せっかく生まれてきた命なんですから途中で投げ出さないでください。
生きている意味なんてありません。それは誰にも否定できない事実です」
いつもボロクソになって生徒を罵っていた先生だったが、最後は愛情のある
言葉を生徒に語ってくれていた。
最後の授業では泣いている生徒も多かった。
私はその時、泣きながら先生の話を聞いていたのだと思う。
そして、今でもその時に言われた言葉をたまに思い出す。
「人が生きている意味なんてありません。生きがいを追い求めても無駄です」
SNSが主流になった今、どうしても私たちはフェイスブックの「いいね」などで他者から承認を得られることを求めてしまう気がする。
私もよくあるのだが、SNSで投稿するためだけに無駄に外出したり、
あたかも休日を満喫しているアピールをして、生き生きとした毎日を過ごしていることを周囲にアピールしようとしてしまうのだ。
別に好きでSNSを通じて、周囲に自分のことをアピールしたいのではないのだと思う。
SNSを通じてしか、人とのつながりを確認できないのだ。
生きている実感が持てないのだ。
「人が生きている意味なんてありません。ただ生まれて死ぬだけです」
忙しい毎日を過ごし、終電近くの電車の中でSNSをいじっていると、たまにこの言葉を思い出してしまう。
自分が生きている価値って何なのか?
きっと、あの先生が言ったように生きている意味を追い求めるだけ時間の無駄なのだろう。生きがいを追い求めるよりも毎日の仕事に熱中している方がいいと思う。
だけど、どうしても考えてしまう。
自分が生まれてきた理由は何なのか?
他者とのつながりって一体何なのか?
そんな時にこの映画と出会った。
82年に公開された一作目は大学生の時に見た。
雨の中、ネオンが光る大都会をハリソン・フォードが駆け抜ける。
どこか見た人の脳裏からこびりついて離れないような映像美がそこにはあった。
私は正直いうと、一作目を見た時、あまりにも難解な内容のため、途中で寝てしまったのだ。
世界観はとにかくいい。
雨の中の大都会……その崩壊した未来像のビジュアルセンスは多くのSF映画に影響を与え続けているという。
「AKIRA」も「攻殻機動隊」も「マトリックス」もほぼすべて「ブレードランナー」の影響を多大に受けている。
ビジュアル的な絵はいいが、とにかく哲学的でストーリーが難解なのだ。
私はどうしても一回目はあまり真剣に見ることができなかった。
しかし、時が経つにつれて、ジワジワと雨の中の未来都市の映像美を思い出してしまうのだ。
なぜだろう。
どうして、一度見ただけなのに、映像が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
気がついたら私は3回以上「ブレードランナー」を見直していた。
見れば見るほど奥深いストーリーに惹きつけられた。
人は何のために生きるのか?
そんな哲学的な問いに心を惹きつけられた。
なぜか映画のシーンが脳裏にこびりついて離れないのだ。
これが多くの人を魅了し続けているカルト映画ってやつか……
大学を卒業して、社会人をやるようになって忙しい毎日を送る中でも、
たまに「ブレードランナー」だけは見直していた。
最近ではカメラを買い、写真を始めたことも影響され、とにかく雨の中に浮かび上がるネオンの光の映像美に酔い浸っていた。
そんな「ブレードランナー」だが、30年ぶりに2作目が公開されるという。
私は早速、映画館に駆け込むことにした。
映画館の中には評判を聞いてか、一作目を見てきたコアなファン層から20代の人までいろんな層の人が集まっていた。
こんなに人気なんだ。
改めてカルト映画となっている「ブレードランナー」の凄さを痛感するとともに、正直怖くなった。
「ブレードランナー」は見た感じ、万人ウケするような映画ではない。
「スターウォーズ」などのSF映画を想定してきた人にとってはかなりイメージと違う内容だ。
とにかく複雑なのだ。哲学的なのだ。
こんなに幅広い層が映画館に集まっていていいのかな。
そんなことを思っていると映画が始まった。
映画が始まって20分くらいすると私はスクリーンに広がる未来都市にクギ付けになっていた。
全く見ていて飽きないのだ。
主人公が置かれている状況……
AIのガールフレンドにしか心を開かない主人公の姿が、SNSに自分の居場所を追い求めている今の人たちの姿と重なって見えてしまった。
なぜだろう。
どうしてこんなにも涙が出てきてしまうのだろう。
私は映画の中の世界観に酔い浸っていた。
「ブレードランナー」は確かにカルト的な人気を誇る古典的名作の一つだと思う。カルト映画のため、どうしても見る人を選んでしまう節もある。
映画の上映中も何人も途中でトイレに立ち上がっていた。
周囲からザワザワとした音も聞こえてきた。
映画自体も2時間40分もあるため、多くの人にとっては集中力を維持して
見るのは正直きつい部分もある。
だけど、私はこの映画が問いかけている深い内容を感じずにはいられなかった。
2時間40分が経ち、エンドロールが終わっても私は席から立ち上がることができなかった。映画の世界観から抜け出せなくなっていた。
なんで、こんなにも胸が苦しいのか。
なんで、こんなに心に響いてしまうのか。
この映画は2時間以上の時間を使って、
「人はなぜ生きるのか?」ということを問いかけてくる。
「人が人らしくある部分は何なのか? 人間性とは何なのか?」
そんな哲学的な問いを観客に問いかけてくるのだ。
生きている実感を得られず、孤独の中で過ごしていた主人公は最後に自分が生まれてきた意味を見出していく。
そんな主人公の姿を見ているうちに私は涙が溢れてきてしまうのだ。
彼が出した結論……
それは、「誰かのために戦って死ぬ」ことだった。
どこかの誰かのために戦って死ぬことで、初めて生きる意味を知るのだ。
私は今でも予備校時代に言われた言葉をたまに思い出す時がある。
確かに予備校の先生が言っていたように、人が生まれてきた理由なんてないのかもしれない。
だけど、どうしても考えてしまうのだ。
自分が生まれてきた意味は一体何なのか?
どこかの誰かのために戦って死ぬことで、生きる意味を見出した映画の主人公のように、力強く生きて、生きる意味を見出したい。
仕事でも、趣味でも何でもいい。
力強く、毎日を生きて行く中で、何か見えてくるものがあるのではないのか。
そんなことを私は強く感じた。
「自分の母親だけは死なないものだ」……そう感じている人にとってこの本は。
「この漫画読んでみてください。そして、是非感想を聞かせてください」
いつもお世話になっているプロのフォトグラファーの方からこんなメッセージが届いた。
その人は自分にとって写真の師匠のような存在で、月に数回写真のことを学ばせていただいている方だ。
感受性がとても強い人で、その方が撮る写真にはどんな人にも何かを感じるような不思議な魅力が込められている。
「写真の構図なんてどうでもいい。その時、その場で自分が何を感じたのか?
それを写真に残したいし、伝えたい」
ありふれた日常に潜むスペシャルな瞬間を撮るそのフォトグラファーの人は、そんなことを口癖のように言っていた。
そんな方からある日、私宛にこんなメッセージが届いたのだ。
「この漫画は是非読んでみてください。漫画でこんなにも泣くのかって言うくらい泣けました。是非、感想を聞かせてください」
私はそのメッセージを開いた時、夜11時過ぎまで仕事をしていて正直クタクタだった。
スマホの画面を見ながら、何かウトウトしたながそのメッセージを読んでいたと思う。
ひとまず添付されたURLに無料立ち読みできる電子書籍版があったので、無料分を読んでみることにしてみた。
電子書籍の無料版といったら、せいぜい全体の一話分くらいである。
その電子書籍にはいろんなコメントが飛び交っていた。
「泣けました!」
「こんなに泣ける漫画は初めてです」
そんな漫画ごときで泣けるわけがない。
私はそう思っていた。
しかも、毎日続く残業の嵐でその時、自分の心は結構ゆがんでいたのだと思う。
「こんなに忙しい毎日に漫画なんて読んでいる暇ないよ……」
正直、そう思っていた。
疲れた表情で座っているサラリーマンに挟まれながら、ひとまず電車の中でも暇つぶしにスマホを開き、その漫画の無料ページを読んでいくことにした。
なんだろう? この独特なタイトルは……
なんだ、このタッチは……
私は普段、ほとんど漫画を読まないし、絵にはとても疎い。
絵に疎い自分でも正直、この漫画家の絵はうまいとは思えなかった。
だけど、なぜか心に染みてくるのだ。
なんでこんなに心に響くのだろうか。
疲れた表情でクラクラしながらも私は無料ページを読み進めていった。
それはある30過ぎの男が亡くなった母親についての思い出を綴ったエッセイのような漫画だった。
とても心に響くのだ。
とても涙が出てきてしまうのだ。
これは大切に読まなきゃいけない。
平日のクソ忙しい時に、心がゆがんでいる時に、読んでいいものじゃない。
直感的にそう思い、時間が取れる休日を使って読み進めることにした。
私にとって電子書籍は初めての体験だった。
電子書籍だとどこかデジタルな分、作り手の感情が伝わらず、機械的に感じてしまうのだ。
だけど、この漫画だけはす〜と読める。
しかも涙が溢れてくる。
この漫画には、最愛なる母を亡くした時に芽生えた感情と母との思い出を綴るとともに、後悔の念が込められている。
全体としては一巻しかない短い短編集だ。
絵も正直言ってうまくはないと思う。
だけど、5話目くらいから涙が止まらなくなった。
母に親孝行ができなかったその中年の漫画家が、どこか自分に重なって見えてしまうのだ。
人はいつか消えて無くなる。
普段生きている中で、つい忘れてしまうこの事実を思い出させてくれるのだ。
この漫画を読んでいるうちに私は自分自身の両親のことを思い出していた。
いつも夜遅くに帰っても晩御飯を残してくれる母親。
自分は両親にきちんと親孝行ができているのか?
よほどのことがない限り、自分より先に両親が亡くなることになる。
その時に私はきちんと親孝行をしてきたと胸を張って言えるのか?
そんなことを猛烈に感じてしまった。
この漫画では18話にわたり、漫画家の母への思いと後悔が綴られている。
その思いは両親がいる多くの人に共感ができるはずだ。
自分はきちんと親孝行ができているのか?
ありふれた日常を大切に生きているのか。
失って初めて気がつくのでは遅い。
そんなことを考えさせられるのだ。
私は気がついたら大粒の涙を流していた。
こんなに感情が揺れるなんて。
なぜだかとても、泣けるのだ。
ありふれた日常を大切に生きよう。
そんなことを感じさせてくれるのだ。
人はいつか消えて無くなる。
この漫画は、誰もが共通して持っている「死」というものを思い出させてくれる。
大切な人が亡くなった時、あなたは後悔することになるのか?
胸を張って、きちんと見送ることができるのか?
そんなメッセージが込められていた。
私はこの漫画を読み終わり、すぐにそのフォトグラファーの方にメッセージを飛ばした。
「ありふれた日常がとても愛おしく思える。そんな素敵な漫画でした!」
今、大切にしたい方がいる人が読むのもいい。
あるいはまた、特別な人への後悔に苛まれている人が読むのもいい。
きっとその時々に別の感じ方もあるのだと思う。
「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った」
この漫画は自分にとって、何か忘れてはいけない感情を思い出させてくれる……
そんな大切な漫画になった。
映画「硫黄島からの手紙」を見て、日本人の「働き方改革」について深く考えさせられた
「今日は映画を見なきゃまずい」
私は飛び込むようにしてレンタルビデオ屋に駆け込んで行った。
大学を卒業して1年以上経つが、転職するなり、海外を放浪するなり、ストレートで卒業した人よりから少し遠回りをしてきた。
何かの縁で入れた今の会社だけはしっかりと頑張らなきゃ。
そう思い、毎日夜遅くまで仕事をしている。
夜遅くまで仕事をして、誰よりも早く会社に来て仕事をする。
そんな毎日だ。
はじめの就職に失敗した影響か、世の中の厳しさが身にしみてわかってきたのか、
いろいろ遠回りしてきたこともあり、仕事の楽しさが最近ようやくわかってきた。
私がついた仕事は営業職だが、物を売るということはこれほどまでに難しく、奥深いものだとは正直思わなかった。
学生の頃までの22年間の人生では、人に何かをサービスするということはあまりやってこなかった。
お店に行って何かを買うときでも、当たり前のようにお金を出し、ものを買っていた。
アルバイトをしても、適当に済まして、時給分の働きだけをすればいいと思っていた。
しかし、実際に社会に出るようになって、人にものを売ることをするようになると、
私の中の価値観が少しずつ変わっていったのだと思う。
ものを買うのは簡単だけど、ものを売るってこんなにも難しいのか……
普通に「この商品のここが魅力で〜、値引きしますよ〜」
とか話していても全く売れない。
どうすればいいのか?
ああすればいいのか?
そんなことを考えながら仕事をしている。
ここは踏ん張りどころだ。
そう思いながらも自分なりに毎晩遅くまで働いている。
割と残業の嵐である。
私の知り合いに仕事の話をすると、まず間違いなく言われることがあった。
「それってブラックじゃん」
「残業してもお金にならないなら意味ないじゃん。定時で帰ったほうがいいよ」
私の会社の中でも定時でふらっと帰る人もいれば、毎晩遅くまでがむしゃらに仕事をしている人の2パターンがあるのだ。
新入社員の中でもはっきりと仕事を早めに済まして定時に帰る人と、
次から次へと自分の仕事を作っていき、夜遅くまで働いている人の2パターンの人種にくっきり分かれる。
10月ごろになると「早く帰る組」と「遅くまで残っている組」が生まれてくるのだ。
「早く帰る組」の人は周りも「この人はこういう人だから仕方ない」と思っているのか、誰も咎めたりしない。
会社の中でも働き方にこんな違いがあるんだな。
そんなことを最近、感じ始めていた。
長時間残業や過労死の事件の影響で、「働き方」改革が求められているこの頃。
会社の中でも定時になったら強制的に家に帰るように注意させる企業が増えてきたという。
昔の頃のように「会社のために汗水垂らして働け!」という風潮はタブー視されているみたいだ。
確かに、体が壊れるくらいに働くのはどうかと思う。
私も一度、5日間ほぼ無休で働きぶっ倒れたことがあるので、明らかに過労気味の人を電車で見かけるとどうしもほっておけない。
だけど、「6時になったんで帰ります」
「残業して何の意味があるの?」
「会社のために働いても意味ないじゃん」
などなど行って、定時にパッと帰っていく人を見ると何だかやるせない気持ちになる。
何だろう、この違和感。
そんなことを思いながら、金曜日も夜遅くまで働いていると、どうしても心がもやもやしてきてしまった。
何だろう、この気持ち。
とにかく、明日休日だから映画でもみよっか。
そう思い、レンタルビデオ屋に駆け込んで映画をレンタルすることにした。
私がふと手に取ったのは「硫黄島からの手紙」という映画だ。
クリント・イーストウッド監督で主演は渡辺謙や嵐の二宮君など、日本の俳優が多く出演しているハリウッド映画だ。
学生時代にアホみたいに大量の映画を見てきた私だが、なぜかこの映画はまだ見たことがなかった。
パッケージの絵からして何だか重そうな映画に見えたのだ。
戦争映画は基本好きではあるが、この映画だけはなぜか
重たい人間ドラマのように思えて、見る機会がなかった。
金曜日の夜、一週間の疲れがどっと押し寄せてきた私は、クラクラの状態のまま、
「硫黄島からの手紙」のDVDを手に持っていた。
なぜか、この映画が見たい!
と強烈に思ったのだ。
本当になぜかはわからないが、今このタイミングで見なきゃいけない。
そう思ったのだ。
私は早速、家に帰り、自宅で映画を見ることにした。
ハリウッドを代表する名俳優であり名監督のクリント・イーストウッド。
プロデューサーにヒットメーカーのスティーブン・スピルバーグが関わっていることから、もうハズレではないなとは思っていた。
だけど、私の予想以上にすごい映画だった。
私は前半15分あたりから映画にクギ付けになっていた。
なんだ、この濃厚な人間ドラマは……
家族のため、国のため、硫黄島で命を捧げた日本人の姿がそこにはあったのだ。
2時間20分という少し長い映画だが、私は時間を忘れて映画に夢中になっていた。
気がついたら涙が止まらなくなっていた。
きっと、硫黄島にいた日本兵の多くが生きて帰ってこれないことがわかっていただろう。
それでも、家族を救うため、自分の「信念」を最後まで貫き通した人々の姿がそこにはあった。
ハーバード大学に留学していた渡辺謙演じる栗林は、アメリカ人の友人たちのことも深く知っていた。心のそこでは戦争などやりたくないと思っていた。
だけど、国という大きな組織の中で、自分の「信念」に従ったのだ。
「我々の子供らが、日本で1日でも長く安泰にくれせるなら、我々がこの島を守る1日には意味があるんです!」
大きな国という組織の中で、理不尽な命令だとわかっていても、己の「信念」を最後まで貫き通し、散っていった人々を涙無くして見れなかった。
決して戦争賛美の映画ではない。
反戦的な映画である。
戦争なんて何の意味があるんだというメッセージが深く深く込められているのだろう。
だけど、最後まで心の中で「信念」を貫き通し、死んでいった司令官の姿は凛々しかった。
司令官の最後を見送る、二宮君の姿も凛々しかった。
アメリカの友人たちと戦争などやりたくない。
だけど、国のため忠実にならなければならない。
組織の中でも己の「信念」を貫き通した司令官が最後を迎える時、
二宮くん演じる西郷の瞳にぽろっと涙が溢れてくる。
古くいえば大和魂なのかもしれない。
だけど、これが日本人が一番強い部分なのかもしれないと思った。
日本人はとにかく組織に忠実なのだ。
時には「個」を捨てなければいけない時があるかもしれない。
だけど、組織の中で「信念」を貫き通して、がむしゃらに働くのだ。
これは自分を第一に考えてしまう欧米人には持てない価値観なのだと思う。
日本人の働き方はよくないと海外から言われる。
「働き過ぎで人生を無駄にしている」
「仕事よりも大切なものがあるはず」
確かに欧米に比べたら日本人は圧倒的によく働く。
自分らしく生きよう。
あるがままの自分でいよう。
自分の好きなことを仕事にしよう。
そんな働き改革の風潮か、ノマドワーカーやベンチャー企業の台頭など、働き方に変革が起きているこの頃。
だけど、日本人が世界に通じるパワーを見せられるのは、ベンチャー企業などの自由な働き方ではなく、大きな組織の中で忠実に「信念」を持って働く姿なのかもしれない。
自分の「信念」を持ってがむしゃらに働くということは欧米人には難しいのだと思う。
私はずっと「日本の働き方はよくない」
「みんな定時に帰って、自由気ままに好きなように働くのがいい」
そう思っていた。
だけど、「硫黄島からの手紙」に描かれていたように、組織の中でも「信念」を貫き通して働く大人はかっこいいと思う。
ベンチャー企業を創立していった人よりも、表には名前が出ないかもしれない。
だけど、家族のため、会社のために「信念」を持ってがむしゃらに働く人はとてもかっこいいと思う。
私も何かに「信念」を持って働ける大人になりたい。
そんなことをこの映画を通じて思った。
今をときめくサイバーエージェントの藤田社長が、「麻雀からビジネスを学んだ」と語る理由
「この本は買わなきゃ!」
私は直感的にそう思った。
本屋で通勤の時間に読む本を選ぶとき、私は基本的に表紙を見て、ピンときた本を直感的に選んで買うようにしている。
なんだかんだ自分の価値観を変えてくれるような本と出会うときは、たいてい直感的に「この本いい!」と感じた本なのだ。
アマゾンなどを見て、本を買うときも同じだ。
レビューがたくさん書かれているとか星マークが多いとかはあまり見ないで、表紙とタイトルを見て、直感的に「いい」と感じたらクリックする。
いいものと出会うときはいつも直感が一番正しい気がする。
私は普段生きていても直感というものをわりと信じる方だ。
「あ! この道に進んでいったらなんか面白いことがありそう」
道を歩いていても、直感的にこっち行ったらいいことありそうだと感じたら、なるべく直感を信じてそっちに進むようにしている。
何も考えずに直感に信じて進んでいった先に、中学の同級生とばったり遭遇したり、有名人と出会えたりすることが自分の経験上、何度かあった。
迷ったら自分の直感を信じたほうがいい。
私は結構、そう感じるのだ。
世間の流れに沿って、型にはまった道に進んでもろくなことがなかった。
内定がないからという理由で、特に行きたいとも感じなかった会社に就職することにしたのだが、あまりにも仕事がハードすぎて数ヶ月で辞めてしまった。
会社に入った瞬間、「あ! この会社やばいな」と感じたのにだ。
内定が出ないのはやばい。
同級生たちに会わせる顔がないと焦るあまり、選択を間違えてしまった。
結局会社を辞め、辛い転職活動を続けているうちに、直感的に「ここがいい!」と思えるような会社と出会えた。
まだ、働き出して半年ぐらいだが、なんとか続けられている。
やはり、就活などの人生の岐路に立たされた時、理性的な決断よりも己の心から感じるような直感が一番正しい気がするのだ。
なんであの時、こんな決断をしてしまっただろう?
そんな後悔をする時は決まって、周りの空気に合わせて焦った状態で決断してしまった時だった。
就活でそんな経験をしたため、決断を下す瞬間というものにやたらと興味を持ってしまった。
就活や結婚といった人生の岐路に立たされる時、運というか縁というものが大きな要素だったりするだろう。
だけど、今自分にはいい流れがきている……
いい方向に運命が進んでいる。
そう感じ、後悔のない選択ができるかどうかは己の直感に頼る部分が多い気がするのだ。
私のような平凡な人生でなく、大企業を立ち上げ、ビジネスという名の戦場で戦い抜いた著名人たちは、一体どういった決断を下し、勝負の時にどのような選択をしているのか?
そんなことが気になって仕方がなかった。
その時、この本と出会った。
まず、タイトルに惹かれてしまった。
「運を支配する」
著者はプロ雀士である桜井章一氏とネット業界の風雲児と言われるサイバーエージェント社長の藤田晋氏である。
なんでサイバーエージェントの社長が麻雀のプロ雀士と一緒に本を出してんだ?
最初、私はそう思ってしまった。
サイバーエージェントと言ったら、日本でトップクラスのベンチャー企業である。
あまりネットの世界に疎い私でも、その社名ぐらいは知っていた。
藤田社長は、最年少で上場を果たし、アメーバブログを成功に導いた今も活躍するベンチャー起業家だ。
新書のビジネス本なので、表紙が黄色で覆われただけで、カバーもなく、
どんな本なのか、パッと見わからなかった。
だけど、直感的にこの本はきっと面白い。
今をときめくベンチャー起業家が、なんで麻雀のことを語っているのか気になってしかたがなかったのだ。
それにタイトルに惹きつけられた。
「運を支配する」
一体どういうことなんだろう?
私は早速、本を購入し、読んでみることにした。
読んでみて驚いた。
え? 藤田社長って「麻雀最強位」タイトル持ってんの!
麻雀を全く知らない私だが、とにかく藤田社長の麻雀愛に驚いてしまった。
本を読んでいくと、藤田社長の麻雀への情熱が異常なことがわかるのだ。
大学時代に麻雀と出会い、雀荘に居座っている時に伝説のプロ雀士である桜井章一氏と出会ったらしいのだ。
この本の中には何度もこう書かれていた。
「僕は麻雀からビジネスのことを多く学んでいたかもしれないって最近、気がついたんです」
ビジネスとは銃がない戦場と言われている。
私は起業した経験もなく、何も大きなことが言えないが、
20代でベンチャーを起業した私の同級生も同じようなことを言っていた。
起業するということは、見た目はかっこいいが、とにかく大変らしいのだ。
銀行から融資してもらい、何時間も、何日間も真っ暗闇の中を突き進む。
起業すると休日なんてあってないようなものだ。
1日15時間ぐらい働いて、何年も耐えて、ようやく黒字になっていくという。
藤田社長は最年少で上場を果たした後、3年間赤字経営を続けていたという。
ずっと孤独に耐えてしのぎ、ようやく会社が軌道に乗ったらしいのだ。
藤田社長はネットバブルの時に、成功していった経営者と消えていった経営者を見ていくうちに、ビジネスは麻雀の勝負に似ているなと感じたらしい。
「勝負の時に運を引き寄せられるかがビジネスの世界では必要」
東大を出てようが、どんな有名な大企業に勤めていようが、ビジネスの世界では経歴など何の役にも立たない。
有名な大学を出ている優秀な人がみんな事業に成功するかといったら、そうはならない。
そうはならない理由が、「勝負の時に運を引き寄せられるかどうか」だという。
リスクと恐れず、勝負に出るか? 出ないべきか?
赤字を出している事業を見切るべきか。
一つ一つの問題を正しく選択し、運を引き寄せていける能力がある人、ない人がビジネスの世界でも麻雀の世界でも、勝敗を左右する。
勉強ができて、MBAを持っているビジネスマンが全員優秀であるわけではないのだ。
自分の前に現れた運をきちんと引き寄せられる人、一つ一つの選択をきちんと間違えずにできる人が、ビジネスでもアスリートの世界でも生き残る。
サイバーエージェントの藤田社長は世間的に言ったら成功者と言われる人だ。
最年少で上場を果たし、サイバーエージェントは今では3000人の社員を抱える大企業へと成長していっている。
多くの人が藤田社長のことを「運のいい人だ」と評するが、この本の中で藤田社長はこんなことを言っていた。
「別に幸運がたまたまやって来たわけではありません。自分のタイミングで勝負せず、その時を見極め、運に合わせているだけなんです」
この本の中では藤田社長が尊敬してやまないプロ雀士の桜井章一氏と麻雀やビジネス、アスリート達が経験する勝負どころについて詳しく書かれている。
麻雀やビジネスに興味がない人でもきっと、人生の岐路に立たされ、選択を迫られた経験があるだろう。
そんな選択を迫られた時に、正しい選択をするにはどうすればいいのか?
そんなことがこの本の中には書かれてあるのだ。
起業した人が読むのもいい。
あるいは、転職をしようか迷っている人が読むのもいい。
きっと、自分の選択について、改めて考えさせられる本なのだと思う。
自分はこれから雑音に満ちた社会で生きて残っていくためにも、この本は何度も読み潰していくつもりだ。
紹介したい本