ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

「自分の母親だけは死なないものだ」……そう感じている人にとってこの本は。

f:id:kiku9:20171104004439p:plain


「この漫画読んでみてください。そして、是非感想を聞かせてください」

 

いつもお世話になっているプロのフォトグラファーの方からこんなメッセージが届いた。

その人は自分にとって写真の師匠のような存在で、月に数回写真のことを学ばせていただいている方だ。

感受性がとても強い人で、その方が撮る写真にはどんな人にも何かを感じるような不思議な魅力が込められている。

 

「写真の構図なんてどうでもいい。その時、その場で自分が何を感じたのか?

それを写真に残したいし、伝えたい」

 

ありふれた日常に潜むスペシャルな瞬間を撮るそのフォトグラファーの人は、そんなことを口癖のように言っていた。

そんな方からある日、私宛にこんなメッセージが届いたのだ。

 

「この漫画は是非読んでみてください。漫画でこんなにも泣くのかって言うくらい泣けました。是非、感想を聞かせてください」

 

私はそのメッセージを開いた時、夜11時過ぎまで仕事をしていて正直クタクタだった。

スマホの画面を見ながら、何かウトウトしたながそのメッセージを読んでいたと思う。

 

ひとまず添付されたURLに無料立ち読みできる電子書籍版があったので、無料分を読んでみることにしてみた。

 

電子書籍の無料版といったら、せいぜい全体の一話分くらいである。

その電子書籍にはいろんなコメントが飛び交っていた。

 

「泣けました!」

「こんなに泣ける漫画は初めてです」

 

そんな漫画ごときで泣けるわけがない。

私はそう思っていた。

 

しかも、毎日続く残業の嵐でその時、自分の心は結構ゆがんでいたのだと思う。

 

「こんなに忙しい毎日に漫画なんて読んでいる暇ないよ……」

正直、そう思っていた。

 

疲れた表情で座っているサラリーマンに挟まれながら、ひとまず電車の中でも暇つぶしにスマホを開き、その漫画の無料ページを読んでいくことにした。

 

なんだろう? この独特なタイトルは……

なんだ、このタッチは……

 

私は普段、ほとんど漫画を読まないし、絵にはとても疎い。

絵に疎い自分でも正直、この漫画家の絵はうまいとは思えなかった。

 

だけど、なぜか心に染みてくるのだ。

 

なんでこんなに心に響くのだろうか。

 

疲れた表情でクラクラしながらも私は無料ページを読み進めていった。

 

それはある30過ぎの男が亡くなった母親についての思い出を綴ったエッセイのような漫画だった。

 

 

とても心に響くのだ。

とても涙が出てきてしまうのだ。

 

 

これは大切に読まなきゃいけない。

平日のクソ忙しい時に、心がゆがんでいる時に、読んでいいものじゃない。

直感的にそう思い、時間が取れる休日を使って読み進めることにした。

 

私にとって電子書籍は初めての体験だった。

電子書籍だとどこかデジタルな分、作り手の感情が伝わらず、機械的に感じてしまうのだ。

だけど、この漫画だけはす〜と読める。

 

しかも涙が溢れてくる。

 

この漫画には、最愛なる母を亡くした時に芽生えた感情と母との思い出を綴るとともに、後悔の念が込められている。

 

全体としては一巻しかない短い短編集だ。

絵も正直言ってうまくはないと思う。

 

だけど、5話目くらいから涙が止まらなくなった。

母に親孝行ができなかったその中年の漫画家が、どこか自分に重なって見えてしまうのだ。

 

 

 

人はいつか消えて無くなる。

 

普段生きている中で、つい忘れてしまうこの事実を思い出させてくれるのだ。

 

この漫画を読んでいるうちに私は自分自身の両親のことを思い出していた。

いつも夜遅くに帰っても晩御飯を残してくれる母親。

自分は両親にきちんと親孝行ができているのか?

 

 

よほどのことがない限り、自分より先に両親が亡くなることになる。

その時に私はきちんと親孝行をしてきたと胸を張って言えるのか?

 

そんなことを猛烈に感じてしまった。

 

 

 

この漫画では18話にわたり、漫画家の母への思いと後悔が綴られている。

その思いは両親がいる多くの人に共感ができるはずだ。

 

自分はきちんと親孝行ができているのか?

ありふれた日常を大切に生きているのか。

 

失って初めて気がつくのでは遅い。

そんなことを考えさせられるのだ。

 

 

私は気がついたら大粒の涙を流していた。

こんなに感情が揺れるなんて。

 

なぜだかとても、泣けるのだ。

 

ありふれた日常を大切に生きよう。

そんなことを感じさせてくれるのだ。

 

 

 

人はいつか消えて無くなる。

 

この漫画は、誰もが共通して持っている「死」というものを思い出させてくれる。

 

 

 

大切な人が亡くなった時、あなたは後悔することになるのか?

胸を張って、きちんと見送ることができるのか?

そんなメッセージが込められていた。

 

 

私はこの漫画を読み終わり、すぐにそのフォトグラファーの方にメッセージを飛ばした。

 

 

「ありふれた日常がとても愛おしく思える。そんな素敵な漫画でした!」

 

 

今、大切にしたい方がいる人が読むのもいい。

あるいはまた、特別な人への後悔に苛まれている人が読むのもいい。

きっとその時々に別の感じ方もあるのだと思う。

 

 

 

「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った」

 

この漫画は自分にとって、何か忘れてはいけない感情を思い出させてくれる……

そんな大切な漫画になった。

 

 

www.cmoa.jp

 

 

 

 

映画「硫黄島からの手紙」を見て、日本人の「働き方改革」について深く考えさせられた

f:id:kiku9:20171022022929j:plain

 

 

「今日は映画を見なきゃまずい」

私は飛び込むようにしてレンタルビデオ屋に駆け込んで行った。

 

大学を卒業して1年以上経つが、転職するなり、海外を放浪するなり、ストレートで卒業した人よりから少し遠回りをしてきた。

 

何かの縁で入れた今の会社だけはしっかりと頑張らなきゃ。

そう思い、毎日夜遅くまで仕事をしている。

 

夜遅くまで仕事をして、誰よりも早く会社に来て仕事をする。

そんな毎日だ。

はじめの就職に失敗した影響か、世の中の厳しさが身にしみてわかってきたのか、

いろいろ遠回りしてきたこともあり、仕事の楽しさが最近ようやくわかってきた。

私がついた仕事は営業職だが、物を売るということはこれほどまでに難しく、奥深いものだとは正直思わなかった。

 

学生の頃までの22年間の人生では、人に何かをサービスするということはあまりやってこなかった。

お店に行って何かを買うときでも、当たり前のようにお金を出し、ものを買っていた。

アルバイトをしても、適当に済まして、時給分の働きだけをすればいいと思っていた。

 

しかし、実際に社会に出るようになって、人にものを売ることをするようになると、

私の中の価値観が少しずつ変わっていったのだと思う。

 

ものを買うのは簡単だけど、ものを売るってこんなにも難しいのか……

 

普通に「この商品のここが魅力で〜、値引きしますよ〜」

とか話していても全く売れない。

 

どうすればいいのか?

ああすればいいのか?

そんなことを考えながら仕事をしている。

 

ここは踏ん張りどころだ。

そう思いながらも自分なりに毎晩遅くまで働いている。

 

割と残業の嵐である。

私の知り合いに仕事の話をすると、まず間違いなく言われることがあった。

「それってブラックじゃん」

「残業してもお金にならないなら意味ないじゃん。定時で帰ったほうがいいよ」

 

私の会社の中でも定時でふらっと帰る人もいれば、毎晩遅くまでがむしゃらに仕事をしている人の2パターンがあるのだ。

 

新入社員の中でもはっきりと仕事を早めに済まして定時に帰る人と、

次から次へと自分の仕事を作っていき、夜遅くまで働いている人の2パターンの人種にくっきり分かれる。

 

10月ごろになると「早く帰る組」と「遅くまで残っている組」が生まれてくるのだ。

「早く帰る組」の人は周りも「この人はこういう人だから仕方ない」と思っているのか、誰も咎めたりしない。

会社の中でも働き方にこんな違いがあるんだな。

そんなことを最近、感じ始めていた。

 

 

長時間残業や過労死の事件の影響で、「働き方」改革が求められているこの頃。

会社の中でも定時になったら強制的に家に帰るように注意させる企業が増えてきたという。

 

昔の頃のように「会社のために汗水垂らして働け!」という風潮はタブー視されているみたいだ。

確かに、体が壊れるくらいに働くのはどうかと思う。

私も一度、5日間ほぼ無休で働きぶっ倒れたことがあるので、明らかに過労気味の人を電車で見かけるとどうしもほっておけない。

 

だけど、「6時になったんで帰ります」

「残業して何の意味があるの?」

「会社のために働いても意味ないじゃん」

などなど行って、定時にパッと帰っていく人を見ると何だかやるせない気持ちになる。

 

何だろう、この違和感。

 

そんなことを思いながら、金曜日も夜遅くまで働いていると、どうしても心がもやもやしてきてしまった。

 

何だろう、この気持ち。

 

とにかく、明日休日だから映画でもみよっか。

 

そう思い、レンタルビデオ屋に駆け込んで映画をレンタルすることにした。

私がふと手に取ったのは「硫黄島からの手紙」という映画だ。

 

クリント・イーストウッド監督で主演は渡辺謙や嵐の二宮君など、日本の俳優が多く出演しているハリウッド映画だ。

 

学生時代にアホみたいに大量の映画を見てきた私だが、なぜかこの映画はまだ見たことがなかった。

 

パッケージの絵からして何だか重そうな映画に見えたのだ。

 

戦争映画は基本好きではあるが、この映画だけはなぜか

重たい人間ドラマのように思えて、見る機会がなかった。

 

金曜日の夜、一週間の疲れがどっと押し寄せてきた私は、クラクラの状態のまま、

硫黄島からの手紙」のDVDを手に持っていた。

 

なぜか、この映画が見たい! 

と強烈に思ったのだ。

 

本当になぜかはわからないが、今このタイミングで見なきゃいけない。

そう思ったのだ。

 

私は早速、家に帰り、自宅で映画を見ることにした。

 

ハリウッドを代表する名俳優であり名監督のクリント・イーストウッド

プロデューサーにヒットメーカーのスティーブン・スピルバーグが関わっていることから、もうハズレではないなとは思っていた。

 

だけど、私の予想以上にすごい映画だった。

 

私は前半15分あたりから映画にクギ付けになっていた。

 

なんだ、この濃厚な人間ドラマは……

家族のため、国のため、硫黄島で命を捧げた日本人の姿がそこにはあったのだ。

 

2時間20分という少し長い映画だが、私は時間を忘れて映画に夢中になっていた。

気がついたら涙が止まらなくなっていた。

 

きっと、硫黄島にいた日本兵の多くが生きて帰ってこれないことがわかっていただろう。

それでも、家族を救うため、自分の「信念」を最後まで貫き通した人々の姿がそこにはあった。

 

 

ハーバード大学に留学していた渡辺謙演じる栗林は、アメリカ人の友人たちのことも深く知っていた。心のそこでは戦争などやりたくないと思っていた。

 

だけど、国という大きな組織の中で、自分の「信念」に従ったのだ。

 

 

「我々の子供らが、日本で1日でも長く安泰にくれせるなら、我々がこの島を守る1日には意味があるんです!」

 

大きな国という組織の中で、理不尽な命令だとわかっていても、己の「信念」を最後まで貫き通し、散っていった人々を涙無くして見れなかった。

 

決して戦争賛美の映画ではない。

反戦的な映画である。

戦争なんて何の意味があるんだというメッセージが深く深く込められているのだろう。

 

だけど、最後まで心の中で「信念」を貫き通し、死んでいった司令官の姿は凛々しかった。

司令官の最後を見送る、二宮君の姿も凛々しかった。

 

アメリカの友人たちと戦争などやりたくない。

だけど、国のため忠実にならなければならない。

組織の中でも己の「信念」を貫き通した司令官が最後を迎える時、

二宮くん演じる西郷の瞳にぽろっと涙が溢れてくる。

 

古くいえば大和魂なのかもしれない。

 

だけど、これが日本人が一番強い部分なのかもしれないと思った。

 

日本人はとにかく組織に忠実なのだ。

時には「個」を捨てなければいけない時があるかもしれない。

だけど、組織の中で「信念」を貫き通して、がむしゃらに働くのだ。

 

 

これは自分を第一に考えてしまう欧米人には持てない価値観なのだと思う。

 

日本人の働き方はよくないと海外から言われる。

「働き過ぎで人生を無駄にしている」

「仕事よりも大切なものがあるはず」

 

 

確かに欧米に比べたら日本人は圧倒的によく働く。

 

自分らしく生きよう。

あるがままの自分でいよう。

自分の好きなことを仕事にしよう。

 

そんな働き改革の風潮か、ノマドワーカーやベンチャー企業の台頭など、働き方に変革が起きているこの頃。

 

だけど、日本人が世界に通じるパワーを見せられるのは、ベンチャー企業などの自由な働き方ではなく、大きな組織の中で忠実に「信念」を持って働く姿なのかもしれない。

 

自分の「信念」を持ってがむしゃらに働くということは欧米人には難しいのだと思う。

 

私はずっと「日本の働き方はよくない」

「みんな定時に帰って、自由気ままに好きなように働くのがいい」

そう思っていた。

 

 

だけど、「硫黄島からの手紙」に描かれていたように、組織の中でも「信念」を貫き通して働く大人はかっこいいと思う。

 

ベンチャー企業を創立していった人よりも、表には名前が出ないかもしれない。

だけど、家族のため、会社のために「信念」を持ってがむしゃらに働く人はとてもかっこいいと思う。

 

 

私も何かに「信念」を持って働ける大人になりたい。

 

そんなことをこの映画を通じて思った。

 

 

 

 

今をときめくサイバーエージェントの藤田社長が、「麻雀からビジネスを学んだ」と語る理由

f:id:kiku9:20170924002745j:plain



 

「この本は買わなきゃ!」

私は直感的にそう思った。

 

本屋で通勤の時間に読む本を選ぶとき、私は基本的に表紙を見て、ピンときた本を直感的に選んで買うようにしている。

 

なんだかんだ自分の価値観を変えてくれるような本と出会うときは、たいてい直感的に「この本いい!」と感じた本なのだ。

 

アマゾンなどを見て、本を買うときも同じだ。

レビューがたくさん書かれているとか星マークが多いとかはあまり見ないで、表紙とタイトルを見て、直感的に「いい」と感じたらクリックする。

 

いいものと出会うときはいつも直感が一番正しい気がする。

 

私は普段生きていても直感というものをわりと信じる方だ。

「あ! この道に進んでいったらなんか面白いことがありそう」

道を歩いていても、直感的にこっち行ったらいいことありそうだと感じたら、なるべく直感を信じてそっちに進むようにしている。

 

何も考えずに直感に信じて進んでいった先に、中学の同級生とばったり遭遇したり、有名人と出会えたりすることが自分の経験上、何度かあった。

 

 

迷ったら自分の直感を信じたほうがいい。

私は結構、そう感じるのだ。

世間の流れに沿って、型にはまった道に進んでもろくなことがなかった。

内定がないからという理由で、特に行きたいとも感じなかった会社に就職することにしたのだが、あまりにも仕事がハードすぎて数ヶ月で辞めてしまった。

 

会社に入った瞬間、「あ! この会社やばいな」と感じたのにだ。

内定が出ないのはやばい。

同級生たちに会わせる顔がないと焦るあまり、選択を間違えてしまった。

 

結局会社を辞め、辛い転職活動を続けているうちに、直感的に「ここがいい!」と思えるような会社と出会えた。

まだ、働き出して半年ぐらいだが、なんとか続けられている。

 

やはり、就活などの人生の岐路に立たされた時、理性的な決断よりも己の心から感じるような直感が一番正しい気がするのだ。

 

なんであの時、こんな決断をしてしまっただろう?

そんな後悔をする時は決まって、周りの空気に合わせて焦った状態で決断してしまった時だった。

 

 

就活でそんな経験をしたため、決断を下す瞬間というものにやたらと興味を持ってしまった。

 

就活や結婚といった人生の岐路に立たされる時、運というか縁というものが大きな要素だったりするだろう。

 

だけど、今自分にはいい流れがきている……

いい方向に運命が進んでいる。

そう感じ、後悔のない選択ができるかどうかは己の直感に頼る部分が多い気がするのだ。

 

 

私のような平凡な人生でなく、大企業を立ち上げ、ビジネスという名の戦場で戦い抜いた著名人たちは、一体どういった決断を下し、勝負の時にどのような選択をしているのか?

そんなことが気になって仕方がなかった。

 

その時、この本と出会った。

まず、タイトルに惹かれてしまった。

 

「運を支配する」

 

 

著者はプロ雀士である桜井章一氏とネット業界の風雲児と言われるサイバーエージェント社長の藤田晋氏である。

 

なんでサイバーエージェントの社長が麻雀のプロ雀士と一緒に本を出してんだ?

 

最初、私はそう思ってしまった。

 

サイバーエージェントと言ったら、日本でトップクラスのベンチャー企業である。

あまりネットの世界に疎い私でも、その社名ぐらいは知っていた。

藤田社長は、最年少で上場を果たし、アメーバブログを成功に導いた今も活躍するベンチャー起業家だ。

 

新書のビジネス本なので、表紙が黄色で覆われただけで、カバーもなく、

どんな本なのか、パッと見わからなかった。

 

だけど、直感的にこの本はきっと面白い。

今をときめくベンチャー起業家が、なんで麻雀のことを語っているのか気になってしかたがなかったのだ。

 

それにタイトルに惹きつけられた。

「運を支配する」

 

一体どういうことなんだろう?

私は早速、本を購入し、読んでみることにした。

 

 

読んでみて驚いた。

え? 藤田社長って「麻雀最強位」タイトル持ってんの!

 

麻雀を全く知らない私だが、とにかく藤田社長の麻雀愛に驚いてしまった。

本を読んでいくと、藤田社長の麻雀への情熱が異常なことがわかるのだ。

 

大学時代に麻雀と出会い、雀荘に居座っている時に伝説のプロ雀士である桜井章一氏と出会ったらしいのだ。

 

 

この本の中には何度もこう書かれていた。

「僕は麻雀からビジネスのことを多く学んでいたかもしれないって最近、気がついたんです」

 

ビジネスとは銃がない戦場と言われている。

私は起業した経験もなく、何も大きなことが言えないが、

20代でベンチャーを起業した私の同級生も同じようなことを言っていた。

 

起業するということは、見た目はかっこいいが、とにかく大変らしいのだ。

銀行から融資してもらい、何時間も、何日間も真っ暗闇の中を突き進む。

起業すると休日なんてあってないようなものだ。

1日15時間ぐらい働いて、何年も耐えて、ようやく黒字になっていくという。

 

 

 

藤田社長は最年少で上場を果たした後、3年間赤字経営を続けていたという。

ずっと孤独に耐えてしのぎ、ようやく会社が軌道に乗ったらしいのだ。

 

藤田社長はネットバブルの時に、成功していった経営者と消えていった経営者を見ていくうちに、ビジネスは麻雀の勝負に似ているなと感じたらしい。

 

「勝負の時に運を引き寄せられるかがビジネスの世界では必要」

 

東大を出てようが、どんな有名な大企業に勤めていようが、ビジネスの世界では経歴など何の役にも立たない。

 

有名な大学を出ている優秀な人がみんな事業に成功するかといったら、そうはならない。

そうはならない理由が、「勝負の時に運を引き寄せられるかどうか」だという。

 

リスクと恐れず、勝負に出るか? 出ないべきか?

赤字を出している事業を見切るべきか。

 

一つ一つの問題を正しく選択し、運を引き寄せていける能力がある人、ない人がビジネスの世界でも麻雀の世界でも、勝敗を左右する。

 

勉強ができて、MBAを持っているビジネスマンが全員優秀であるわけではないのだ。

自分の前に現れた運をきちんと引き寄せられる人、一つ一つの選択をきちんと間違えずにできる人が、ビジネスでもアスリートの世界でも生き残る。

 

サイバーエージェントの藤田社長は世間的に言ったら成功者と言われる人だ。

最年少で上場を果たし、サイバーエージェントは今では3000人の社員を抱える大企業へと成長していっている。

 

多くの人が藤田社長のことを「運のいい人だ」と評するが、この本の中で藤田社長はこんなことを言っていた。

 

「別に幸運がたまたまやって来たわけではありません。自分のタイミングで勝負せず、その時を見極め、運に合わせているだけなんです」

 

 

この本の中では藤田社長が尊敬してやまないプロ雀士の桜井章一氏と麻雀やビジネス、アスリート達が経験する勝負どころについて詳しく書かれている。

 

麻雀やビジネスに興味がない人でもきっと、人生の岐路に立たされ、選択を迫られた経験があるだろう。

 

そんな選択を迫られた時に、正しい選択をするにはどうすればいいのか?

そんなことがこの本の中には書かれてあるのだ。

 

起業した人が読むのもいい。

あるいは、転職をしようか迷っている人が読むのもいい。

 

きっと、自分の選択について、改めて考えさせられる本なのだと思う。

 

自分はこれから雑音に満ちた社会で生きて残っていくためにも、この本は何度も読み潰していくつもりだ。

 

 

紹介したい本

「運を支配する」      著者 桜井章一 藤田晋       幻冬舎新書 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【SNSで人生を変える】承認欲求に苦しんでいる人にとって、この本は……  

f:id:kiku9:20170918215846j:plain

 

「承認欲求なんて消えてなくなれ!」

私はずっとそう思っていた。

 

どうしてもツイートしたくない。

それなのにツイッターにつぶやいてしまう。

 

フェイスブックにシェアしたくない。

それなのに「いいね」欲しさに記事をシェアしてしまう。

 

 

自分が書いた文章をフェイスブックにシェアして

「あ、またこいつこんな記事書いているよ」と他人に思われるのがたまらなく怖かった。

だけど、どうしても私の中にある承認欲求が抑えきれず、SNSに些細な出来事や記事を投稿してしまう自分がいた。

 

 

なんでだろう……

どうしてSNSをやめられないのだろう?

 

誰かに自分の気持ちを見て欲しかったのかもしれない。

自分の中にある承認欲求を抑えられなかったのかもしれない。

 

他人に馬鹿にされているのが嫌で、怖くてSNSを一旦止めようとも思っていた。

それでも私はフェイスブックに自分が書いた記事をシェアすることを止めれなかった。

 

 

 

仕事中もいつもスマホ画面に現れるフェイスブックのアイコンばかり気にしていた。

 

今日はどれくらい「いいね」がついたんだろうか?

 

そんなことを気にしてばかりいて、「いいね」の数が極端に少ない時があると、自分の気持ちが割れるくらい苦しかった。

 

だんだん、記事を投稿すればするほど、自分の中にジレンマが生まれてきた。

SNSで他人に承認されたい気持ちとSNSを使いたくないという気持ちが芽生えてきて、苦しくなってきたのだ。

 

いっそ、SNSなんてやめてしまえばいい。

そんなことを思っていた。

 

 

 

私は平成4年生まれの人間だ。

今現在、自分と同じように20代なかばの人たちにとっては、SNSはものすごく身近な存在だった気がする。

 

中学から高校の頃にスマホが普及し、大学時代にLINEが生まれた。

 

今や、ツイッターフェイスブック、LINE、Instagramがないと生きていけないんじゃないかと思うくらい10代~20代にとってSNSというものは欠かせないものになってきている。

 

自分もそうなのだが、今の10代~20代の多くはニュースをテレビではなくツイッターフェイスブックで知ることになるのだ。

 

サッカーのワールドカップ予選のニュースなども、ほとんどの人がツイッター上で知ったりしている。

 

 

テレビをつけてニュースを見るよりも、パッとスマホを開いて、タイムライン上に流れてくるニュース記事を読んだ方が、案外早く情報を手に入れたりするのだ。

 

その一方、自分が知りたい情報だけ頭の中に入ってくることになるので、土日に台風が接近していることも知らずに過ごしている人もいたりしている。

 

 

そんなSNS時代に生まれた私たちゆとり世代にとって、ツイッターフェイスブック、LINEをやっていないということは生活に支障が出るくらい大問題になってくる。

 

LINEやツイッターなどをやっていないとまず今の時代、友達を作ることも難しくなってくる。

友人たちが昨日のツイッターのつぶやきを見ていることを前提にして、会話を進めていくため、常にタイムラインを眺めていないと会話についていけなくなるのだ。

 

 

 

SNSに投稿して、他人にどう思われるのだろう?

こんな記事を投稿したら他人にどう見られるのか?

 

そんなことを気にしながら、SNSをやっている。

 

自分の考えをもっと人に知ってもらいたい。

自分は実はすごい人間だぞと人に知ってもらいたい。

 

肥大化する承認欲求を抑えられなくなり、みんなSNSに投稿してしまうのだ。私も同じだった。

 

何者かになりたい。

人とは違う生き方をしたい。

 

そんなモヤモヤした気持ちを晴らすため、人から承認されることだけを考えてSNSを使っていた。

 

他人に認められたい。

何者かになりたい。

そんな気持ちが頭の中でぐるぐる回って、スマホを開くことを止めれなかった。

止めれないと同時に怖かった。

 

「こいつうざいな」

「何考えてるんだ? こいつ」

そんなことを思われるのが嫌だった。

 

 

「なんでこの人はSNSの使い方が上手いんだろう?」

そんなことを思う人が私のフェイスブックのタイムライン上に数人いる。

 

一度記事を投稿すると、あっという間に「100いいね」を突破するような人がいるのだ。

 

なんで、こんなに「いいね」をもらえるんだろう?

 

 

SNSはセルフブランディングに使えるとよく聞く。

人から好かれるセルフブランディングが確立した人って一体何をやってきたのか?

 

テレビタレントだったら、あっという間にフォロワー数が数万人を超えるのはわかる。

だけど、無名のブロガーや経営者の人が何万いいねをもらえたりする理由がよくわからなかった。

 

 

 

何でセルフブランディングができるんだろう?

 

そんなことを考えながも、自分の中の承認欲求を消すことができず、SNSを止めれなかった。

誰も自分のことなんて見てくれてない。

そう思っていた。

 

 

そんな時、ある本と出会った。

 

いつものようにフェイスブックをいじっていると、ふと本が紹介されている記事が目に入ったのだ。

 

それは9月の中旬に出版されたばかりの新刊だという。

 

女の子たちには有名なインスタグラマーが書いた本だった。

 

本のタイトルにとても惹かれてしまった。

SNSで夢を叶える ニートだった私の人生を変えた発信力の育て方」

 

HKT48のアイドルが、脱退後、ニートになりながらも、SNSの力で自分の人生を変えていった物語だという。

 

私は本のあらすじを読んだ瞬間、即クリックし、アマゾンで発注してしまった。

 

 

家に届いた瞬間、読んで行った。

 

本を開くたびに涙が出そうになった。

 

とにかく著者が抱いていた苦しみがわかるのだ。

SNSを開きたくなくても、開いてしまうジレンマ……

自分の承認欲求を抑えられない気持ち……

 

 

結局、彼女は自分の力でSNSの使い方を発掘し、人生を切り開いていった。

そのストーリーがとにかく泣けるのだ。

 

何度でも読み直したくなるのだ。

 

 

この本の中には何度も書かれてあった。

 

「人はポジティブなものに惹かれる」と。

 

ネガティブなことを発する人にはネガティブな人しか集まってこない。

人はワクワクする人のところについていくのだ。

 

よく考えれば、SNSで「100いいね」をもらえるようなセルフブランディングを確立できている人は、みんな人一倍、行動をしている人たちのような気がする。

 

 

ただ、SNSで夢を語るのではなく、実際の行動に移して、夢を現実にしているのだ。

 

そんな人たちのつぶやきはなんだかワクワクするものだ。

 

次はどんなことをしてくれるんだろう?

どんな面白いものを見せてくれるんだろう?

 

 

会社を作るなり、本を出すなり、とにかく行動するのだ。

頭の中で理想を語るのではなく、実行しているのだ。

 

中途半端な夢を語るのではなく、明確な夢を語って、行動に移している。

全くブレていない。

 

承認欲求に苦しんでいる人……

それは行動に移す勇気が持てない人なのかもしれない。

 

なりたい自分がいるのに、他人の目を気にして行動に移せない人。

 

 

勇気を持って行動に移せた人がこの本の著者のように人から憧れる存在になれる気がするのだ。

 

どんな業界にもプロとアマチュアがいる。

ライターの世界だって、アマチュアでブログを書いている人から、プロのライターとして書いている人がいる。

 

 

カメラマンの世界だって、アマチュアでやっているフォトグラファーから、

プロのフォトグラファーまで大勢いる。

 

そのプロとアマチュアの差……

それはただ、行動に移せたかどうかな気がするのだ。

 

 

なりたい自分がいるのに、勇気が持てず、心の中にある承認欲求だけが肥大化していった人。あるいは、行動に移してプロになった人。

 

その両者を隔てているのはただ単に「覚悟」と「行動力」の問題に過ぎない気がする。

 

この本の著者は、自分が「モテたい」という気持ちを抑えきれず、自分が大好きなモテメイクをいろんな女の子に伝えたいと思い、情報を発信し続けていた。

 

YOUTUBEにアップする動画を作ったことがなかったが、

「やれる!」と信じて行動に移していったのだ。

 

この本を読んでから承認欲求に打ち勝つには、ただ行動するしかないのではないかと思うようになった。

 

行動していくうちに承認欲求を忘れていくのだ。

承認欲求自体を消すことは基本的に無理なのだと思う。

 

 

この本は発売して一週間も経っていないが、いろんなメディアで注目されている。

カリスマブロガーの「はあちゅう」も自身のブログでコメントを書いていた。

 

人生のどん底を経験し、ニートから自身の力で人生を駆け上がっていった

「モテクリエイター ゆうこす」の言葉は、SNS世代に響く言葉で溢れかえっていると思う。

 

 

自分のやりたいことが見つからない。

人の目を気にしてばかりいて、生きている心地がしない。

 

そんな風にSNS時代において「生きづらさ」を感じている人にとって、この本は特別な処方箋になるのかもしれない。

 

少なくとも自分はこの本を読んでから、どこか心の底にあったモヤモヤが消えていった気がする。

 

普段、私は本を繰り返し読む方ではないが、もうすでに2周読んでしまった。

これからも3周、4周と繰り返し読んでいく本なのだと思う。

 

自分にとって、人生を変えるくらいの影響力がある本な気がするのだ。

 

 

 

 

 

 

紹介したい本

SNSで夢を叶える ニートだった私の人生を変えた発信力の育て方」

                 著者 ゆうこす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社会の歯車になった果てにあるもの……「三度目の殺人 」 

f:id:kiku9:20170918001029j:plain

 

 



 

 「え? こんな機械的に裁かれていくの」

私は初めて裁判というものを見て、妙な居心地の悪さを感じていた。

 

大学時代に私は一度、裁判を傍聴したことがある。

特に傍聴席に行った理由などなかった。

一度は裁判を見てみたいという好奇心があったのかもしれない。

 

裁判と言ったら海外ドラマのようにスリリングな展開があって、ハラハラドキドキするんじゃないか?

 

そんな淡い期待を抱きながら、東京の都心にある地方裁判所に向かったのを覚えている。

 

重いゲートを通り過ぎると、警備の人に荷物をチェックされた。

さすがに裁判の傍聴でも、荷物検査には厳しいようだ。

一回のロビーで本日の裁判のスケジュールを確認していると、後ろから次々とおじさんたちがスケジュール帳を開き、自分のノートにメモを取っていく。

 

こんなに傍聴マニアな人って多いんだな……

 

平日の昼間でも傍聴席に来る人は案外多かった。

 

目の前で人が裁かれるということに妙なスリリングがあるのか、寄ってたかって裁判の傍聴に群がっているのだ。

人気の裁判となると早朝から整理券が配られる。

 

私が裁判所に着いたのは11時過ぎだったため、人気の裁判は案の定売り切れていた。

 

私は初めての傍聴だったため、ひとまず目に入った法廷に足を踏み入れることにしてみた。

生まれて初めて見る法廷は、とても澄み切っていて神聖な雰囲気が漂う場所だった。

 

 

私が席に座ると、横に明らか傍聴慣れしてるおじさんたちが座っていく。

 

「起立」

裁判官が法廷に入ってくると、補佐官が声をあげた。

 

今まで噂話をしていたおじさんたちも静まり返った。

 

 

「裁判官、弁護側がただいま遅刻しているようでして」

 

え? 弁護士が遅刻?

私は驚いてしまった。

弁護士が遅刻なんてするのか? と思ったのだ。

 

いくつか裁判を傍聴している中で薄々感じたことなのだが、裁判官と検察官は国の公務員に当たるので、とても時間厳守で働いている印象だった。

その一方、弁護士は営利目的で動いている。

国に仕える身分ではないので、何かというか自営業者みたいな印象の人が多かった。

 

私が裁判の傍聴席に座っていると、何度も時間に遅れてくる弁護士を見かけた。

遅れてくると言っても2分ほどではあるが。

 

 

「次の裁判があるので、これで失礼します」

 

分刻みで裁判のスケジュールが埋まっているため、弁護士の人たちも大忙しのようだった。

 

裁判自体も判決を言い渡すだけで、5分くらいで終わってしまうものもあった。

そのわずか5分の時間でも、法廷の仕組み上、一人の裁判官と検察、弁護人が一人一人いなければならないのだろう。

 

 

「こんな機械的に人って裁かれていくんだな」

私は目の前で初めて見る法廷というものに驚いてしまった。

本当に次から次へと人が裁かれていくのだ。

そうしなければ、スケジュール的に何時までたっても裁判が終わらないのだろう。

 

私は初めて傍聴席に座ってみたが、人の不幸を目の前で見て、なんだか居心地の悪さを感じてしまった。

傍聴にハマる人がいるのはわかる。

日常では味わえないドラマチックな展開の話が聞けるからだ。

不倫訴訟、刑事事件、耳を覆いたくなるような殺人事件の裁判が毎日何十件と展開されているのだ。

 

平日の昼間なのに、何百人という人が傍聴席に集まっていた。

 

私はというと他人の不幸を目の前で見て、とても辛くなってきてしまったせいか、数時間くらいで退出してしまった。

 

大学時代に一度行ったきり、それ以来、傍聴には行っていない。

 

「あんなに分単位でスケジュールが埋まっているなんて……弁護士も検察官も大変なんだろうな……」

生まれて初めて見る裁判というものはそんな印象だった。

 

それから数年が経ち、私は大学を卒業して社会人となった。

社会に出てまだ数年も経っていないが、学生の頃のように親に甘えているわけにはいかない。

 

社会に出て自分のお金を稼ぐようになっているうちに、こうも世の中、自分が食っていくだけのお金を稼ぐということが大変だとは思わなかった。

 

会社に雇われている身だが、それでも自分の給料を稼ぐというだけでもとても大変だ。

こんなことを世の中のお父さん方はやっているのか……

今まで育ててくれた親のありがたみが嫌という程わかった。

わかると同時にどうしても違和感を拭えない自分がいたのだ。

 

毎日のように満員電車のドアから吐き出され、会社に向かっている中、周りを見回してみると、自分と同じ方向に、自分と同じような服装を着て、自分と同じような顔の人が、駅を歩いているのだ。

 

没個性……

 

 

きっと自分も何も感じない方がいいのかもしれない。

 

だけど、毎日満員電車から吐き出されてくる人を見ていると、こんなにも世の中機械的に分単位で動いていって、何事もなかったかのように人身事故が片付けられていくことにどうしても違和感を忘れられなかった。

 

テキパキとスケジュール通りに動いて、分単位で電車がホームにやってくる。

機械的に動いていく世の中にとても居心地の悪さを感じてしまう自分がいた。

 

そんな時だった。

是枝監督の最新作「三度目の殺人」を見たのは。

 

是枝監督の作品は昔から知っていた。

文句なしの日本一の映画監督だと思う。

「そして、父になる」もみたし、「誰も知らない」も傑作だ。

 

こんなに日常の些細な部分まで丁寧に描けるなんてすごい……

ずっと憧れの映像作家だった。

 

そんな是枝監督の最新作の「三度目の殺人」のトレーラーを見た瞬間、これはやばいなと思った。

普段は家族の日常などを丁寧に描く作風だが、最新作は法廷ミステリーだという。

このトレーラーを見た瞬間、これは絶対に傑作だと正直思った。

学生時代に350本以上映画を見てきたので、ある程度いい映画と、ダメな映画の区別がつくようになっているとは自分では思っている。

 

死ぬほど映画を見ては、映画を撮りまくっていたので、ある種の直感でこのトレーラーはやばい。絶対名作だと思った。

 

私は早速映画館に駆け込んで「三度目の殺人」を見てみることにした。

映画館は案の定、福山雅治目当ての女性客が多かった。

さすが福山雅治だな……と思っているうちに映画が始まった。

 

 

見ていて、私は驚きを隠せなかった。

なんだ、この法廷劇は。

なんだ、この面会シーンは。

 

私は最初の5分のうちに「三度目の殺人」で描かれている世界観に夢中になってしまった。

 

なんだこれ。

初めて見る法廷劇だ……

 

 

何回も続く面会のシーンに私は夢中になってスクリーンに食い入った。

 

なぜだか胸がチクチクと痛んでしまうのだ。

なんでこんなに胸が苦しんだろう。

なんでこんなに胸が重たいんだろう。

 

 

その映画の中で描かれていたのは、誰もが心のそこでは感じている口には出せない感情なのかもしれない。

 

罪を犯したものと、弁護する側のものが面会を続けていくうちに、両者ともに何一つ変わらない普通の人間であることに気がついていく。

 

罪を犯すものと、犯さないものの間には大きなガラスがあるはずなのに、物語が進むにつれて、そのガラスの板が崩れていくのだ。

 

 

 

 

映画館の中では誰一人、席を立つ者もいなかった。

ポップコーンを食べる音もしなかった。

皆、スクリーンで繰り広げられる役所広司の怪演と福山雅治の演技に、

そして、広瀬すずの凍てつくような表情に夢中になっていたのだ。

 

こんな映画が……

 

映画が終わった後、私はしばらく放心状態だった。

結局、結論が出ないまま映画は終わってしまうのだが、自分の中ではなんとか結論は出したいと思ったのだ。

 

結局、犯人は罪を犯したのか?

犯さなかったのか?

 

 

普段はあまり映画のパンフレットを買わない方なのだが、「三度目の殺人」のパンフレットは欲しいと思い、買うことにした。

 

結局、この映画の結論は一体なんなのか?

何が言いたかったのか?

 

 

帰りの電車の中でもじっと呆然としながら、パンフレットを開いていった。

そこには福山雅治がコメントした言葉が書かれていた。

 

 

「わからないことをわかろうとする心はあるのか? 真実がわからないからといって、見て見ぬふりをするのか? という社会への問いかけなのかもしれません」

 

 

私はこのコメントのことをとても考えてしまった。

 

「わからないことをわかろうとする心はあるのか?」

 

毎日、忙しい時間を過ごしていると、どうしても見えてきたものでも、見て見ぬ振りをした方が好都合なことが多い。

 

路上で貧しい人がホームレスの人がいても、醜いものを見るような目線で、見ない振りをした方が楽である。

 

毎日、機械的に動いていく社会の歯車の一員になって、余計なことを見ず、考えない方が楽である。

 

だけど、そんなに機械的に動いている社会の中で何か大切なものを見過ごしていることもあるのかもしれない。

 

 

 

この映画は裁判を舞台にした法廷劇だが、それ以上に世の中に対する思いが強烈に描かれているのだと思う。

 

確かに見て見ぬ振りをする方が楽だろう。

だけど、もう少し余裕を持って見なければいけないことも世の中にはあるのではないのか。

 

私は人身事故が起きた駅構内でも、スマホをいじって復旧を待つだけの大人にはなりたくなかった。

社会に隅にうずくまっている人も、見てみる振りをして、通り過ぎたくなかった。

 

きっと、もっと見なければいけないことがこの世の中にはあるのだろうと思う。

 

 

この映画を見終わった後、数時間考えさせられてしまった。 

自分にとって、世の中に対する価値観が変わるくらいの印象深い映画だった。

 

 

 

三度目の殺人」   監督 是枝裕和

 

 

 

 

社会に出ると「感性」というものを消さないと生きていけないと思っていた。

f:id:kiku9:20170910212744j:plain

 

 

 

「感性が鋭すぎるんじゃない?」

昔、友人にこんなことを言われたことがあった。

 

飲み会に行っても、ぐったりとしている自分を心配してかそんな言葉を投げかけてくれたのだ。

 

私は昔から飲み会というものが極端に苦手だった。

会話のペースについていけず、楽しい飲み会のはずなのにぐったりとしてしまう。

目の前の人と話していても、微妙な視線の違いに気が入ってしまい、

「この人はこう話しているが、裏ではこう考えているんじゃないか?」

など、裏の裏まで考えてしまう癖があり、話をしているだけで無駄に精神的に疲労を感じることが度々あった。

 

だから、昔から人と話をするということが極端に苦手だった気がする。

人と話すのが嫌いなのではない。

些細な言葉のトーンの違いにも目がいってしまい、異常に疲れてしまうのだ。

 

大学時代もどうしても飲み会というものだけは好きにはなれなかった。

誘われても、なんとか言い訳をつけて断っていたのだと思う。

 

そんな私に大学時代の友人はこう投げかけてくれたのだ。

「君は感性が豊かすぎる」

 

ちょっとしたことにも目がいってしまい、普通に生活しているだけでも疲れてしまうのだ。そのためか、どんどん私は人との距離を置くようになっていった。

 

知り合いと話をしているよりも一人で家にこもって映画を見ていた方が気が楽だった。

大学時代はずっと家に引きこもって映画を見まくっていた。

 

映画を見すぎてTSUTAYAから年賀状が届いてしまうくらい映画を見まくっていた。

映画が好きだったということもあるが、何よりも人とのコミュニケーションが苦手で自分の中の殻に閉じこもったのだ。

 

人と話をしているよりも自分の中の世界に入っていた方が楽だ。

そう思っていた。

 

社会人になって、毎日満員電車に揺れられて会社に向かうも、どうしても通勤中に気分が悪くなることが度々あった。

満員電車に乗っていても、常に人の目を気にしてしまうのだ。

「この人は今、こういうことを考えているのだろうか?」

「この女性はきっと、昨日の晩、こんなことがあったのだろうか?」

 

人の顔を見ているとなんとなくその人の個性というか、考え方が見えてくる。

その人の性格が顔の表面に現れてくるのだろう。

 

そんな風に常に些細なことまでに目がいってしまう性格からか、会社の昼休みになる頃にはいつもぐったりとしてしまう。

 

いろいろ考え事をしすぎて、頭が疲れてしてしまうのだ。

あ……このままではまずい。

そう思った時は、トイレに駆け込んで、深呼吸をしている。

 

世の中ではこう言った症状をパニック障害とかいうらしい。

 

自分も何度か経験があるが、本当にちょっと体調がすぐれないと思った時は、すぐにトイレに駆け込んで深呼吸をする。

 

なんでこうも世の中は生きづらいのか……

極度に人の動作や目の動きに注意がいってしまい、人と話をしているだけで疲れてしまう性格を直すため、最近はなるべく感受性というものをシャットアウトするようにしていた。

 

社会人となると毎日やるべきことがいっぱいあり、いちいち感受性というものに敏感になっている時間がない。

 

テキパキと言われたことをやり、言われた通りに書類を作らないと時間内に仕事が終わらないのだ。

 

結構、長いあいだフリーター生活をしていたが、なんとか今の会社に入社することができた。

大学を卒業して1年分、人よりも遅れを取ってしまったので、人一倍頑張っていかなければいけないと思う。

仕事は割と好きな方だ。

 

だけど、どうしても何か心のそこでしっくりとこないものがある気がする。

 

 

 

いちいち、人との会話に敏感に反応してしまい、ぐったりと疲れていては仕事にならない。

そのため私はなるたけ感性のスイッチを切ろうと、大好きだった映画鑑賞もなるたけ抑え、小説もあまり読まなくなった。

電車に乗っていても、あまり人の顔や表情を気にしなくなっていった。

いちいちいろんなことに敏感になって反応していては、仕事に集中できない。

そう思って、無理やり感性の扉をシャットアウトしていたのだ。

 

だけど、どうしても何か心の奥底で不安を感じていた。

このままでいいのだろうか?

そんな漠然とした不安を感じていたのだ。

 

不安を感じつつも、あっという間に夏休みになった。

上司や同僚の人はみんな海外旅行などに出かけて行っていた。

私はというと約8ヶ月かけて20万近くするカメラを買ったため、極度の金欠状態であり、どこにも旅に出かけることができなかった。

ま、大好きなカメラで近場を撮りまくれるならいいや。

そんなことを思って夏休みを過ごそうと思っていたが、どうしても行ってみたいと思っていた場所が一箇所だけあった。

 

そこは「山田かまち美術館」である。

 

山田かまちという青年を知っているだろうか?

わずか17歳でこの世を去った青年だ。

亡くなった後に家に残されていた大量の詩や絵が評価され、美術の教科書にも載っている。

 

私は中学の時に彼が書いた「青い自画像」と呼ばれる絵を美術の教科書で見かけ、衝撃を受けたことを覚えていた。

 

思春期特有の感性が絵の中ににじみ出ていたのだ。

 

 

なんだこの人は……

 

そこから私は山田かまちが残した大量の詩を貪るように読んでいった。

強烈にまでに鋭い感性に私は完全に魅了されていった。

 

なんでこんな才能ある人が17歳でこの世を去ってしまったのだろうか?

ギターの練習中、感電死したと言われているが、どうしてもしっくりとこなかったのだ。

 

いつか彼の美術館を訪れてみたい。

そう思っていたが、なんせ彼の故郷は群馬であり、そう簡単に行ける距離ではなかった。

 

いつか行ってみたいと思っていたが、いつしか結構な年月が経っていた。

 

せっかくの夏休みだし、群馬まで行ってみるか。

そう思い立ち、私は愛くるしいまでに愛用しているカメラを持って、群馬にある山田かまち美術館を訪れることにした。

 

東京の新宿から片道2時間の旅である。

遠い……

群馬……遠い。

そう思いながら、新宿から普通列車に乗って片道2時間以上かけてようやく群馬の高崎駅にたどり着いた。

 

 

駅から歩いて30分ほどのところに山田かまち美術館があった。

死後、30年以上経っているにもかかわらず、美術館の中は人で埋め尽くされていた。

中学生から60代の老人まで幅広い層が、彼の美術館を訪れていた。

 

17歳でこの世を去った青年の感性と才能に、多くの人が魅了されていた。

 

私は館内を歩いていくうちに、彼の鋭いまでにすざまじい感性に完全に良い浸ってしまった。

そこには異常なまでの量の絵と詩が展示されてあった。

 

この量の絵と詩をわずか17年の人生で書き上げていたなんて……

 

そこに展示されてある詩と絵の量が異常なのだ。

異常なまでにむき出しにされていた彼の感性が絵の中で爆発していたのだ。

 

私は何時間もかけて彼の書いた絵を見ていくうちに、心のそこではこう思っていた。

 

「きっと、これだけ感受性がむき出しになっていたら、生きていくのも辛かったんじゃないか?」

 

 

彼が書きあげていた絵と詩の量が異常なのだ。

感受性が異常なまでに鋭すぎるのだ。

17歳が書いた絵とはとてもじゃないが思えないのだ。

 

 

普通に生活していても自分の中にある感受性を抑えきれず、ペンを迸るかのように握っていたのが、目に見えるようにわかるのだ。

 

とにかく量が異常だ。

こんなに感性が鋭いなんて……

 

私は彼が書いたとある一節の詩に目がいった。

その詩を見た瞬間、自分の中にあったモヤモヤの正体が書かれてあった気がしたのだ。

 

そこにはこう書かれてあった。

 

 

「感じなくちゃならない。やらなくちゃならない。美しがらなくちゃならない」

 

社会に出たら、感性というものを捨てなければいけないと思っていた。

何かを見て、感動したり、悲しみを抱いたりする感受性は仕事をする上で支障が出てくる。

だから、どんどん捨てなければいけない。

そう思っていた。

 

だけど、人は何かを見て、悲しんだり、苦しんだり、嬉しがったりと感性をむき出しにして、感じなければいけないのかもしれない。

 

子供の頃にはみんな感性をむき出しにして、泣いたり、笑ったりしていた。

だけど、どうしても大人になってくるにつれてそう言った感情は消えていってしまう。

 

何かを見て悲しんだり、苦しんだりする感性があるからこそ、人は苦しんでいる人を見ても、見て見ぬ振りができなくなるのだ。

 

忙しい毎日を送る中、社会の隅っこでもがき苦しんでいる人を見ても何も感じなくなっている自分がいる。

人身事故が起こっても、

「何だよ! 打ち合わせに遅れるじゃないか」と不満を言う人もいる。

その場で人が亡くなっていることよりも、打ち合わせに遅れることを気にしてしまうのだ。

 

社会に出てみると、いちいち、人の悲しみを見ている暇もなくなってくる。

 

だけど、それでも人は感受性をむき出しにして、感じなければいけないのかもしれない。

感じることができるからこそ、人の苦しみや痛みに気付けるのだ。

 

山田かまち美術館を出た時には、私はいつしか目に涙を浮かべていた。

「何かを感じなければならない」

 

たとえ、世の中に暗い部分や汚いことはきっといくらでも転がっているのだろう。

それでも、この社会の中で生きていかなければならないのだ。

17歳の鋭いまでに突き刺さる感性に私は多くのことを学んだような気がするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイドルに全く興味がなかった私が、欅坂46の「不協和音」だけは何度も聞いてしまう理由

 

f:id:kiku9:20170612063825j:plain

 

「会社員は我慢することが仕事だ」

とある社会人の先輩にこんなことを言われたことがある。

 

私はその時、確かに……と思った。

ストレスが溜まっても我慢するしかないよな……

 

私は一度、フリーターというものを経験して、社会に出た。

 

今、普通の会社に入ってサラリーマンをやっているが、一度フリーターというものを経験したおかげで、会社に雇われの身となるのがどれだけありがたいことか痛感できる。

 

とにかく年金や税金などの手続きが楽なのだ。

すべて会社の事務の人がやってくれるのだ。

フリーターをやっていた時など、一年に一度、確定申告を受けなければならないので、役所に何時間も待たされ、意味のわからない書類を大量に書く羽目になっていた。

 

それが、サラリーマンとして雇われの身となると、そんな手続きがなくなのだ。

税金の申告なども勝手に給料から引き落とされるので、いちいち役所に行かなくて済むのだ。

 

今の時代、フリーランスノマドワーカーとして生きていく人が多くいる。

しかし、手続きのことや社会的な負担を考えると、やはり普通の一般企業に入ってサラリーマンをやっている方が楽なのは確かだ。

 

事業に失敗しようが、雇われの身である以上は自分自身の全責任になることはない。

社会的な面で、ある程度は会社が守ってくれる。

 

 

一度、フリーターというプー太郎を経験したおかげで、会社から一ヶ月に給料が出ることのありがたさが嫌という程感じる。

何の仕事もできてないんですけど、もらっていいのですか?

と正直、感じてしまう。

 

 

雇われの身として、会社にありがたみをとても感じるが、その一方で、心の中にモヤモヤしたものをずっと抱えていた。

 

私は出社までのルートに渋谷駅があるので、よく山手線や井の頭線の連絡通路を通るのだが、そこに毎朝押し寄せるかのようにして、同じ格好をしたサラリーマンたちを見るたびに、いつもなんだかモヤモヤした気持ちを感じてしまう。

  

同じ格好、同じような顔、没個性の表情のまま、スーツを着たサラリーマンたちは人混みを嗅ぎ分けるようにして、満員電車の中に吸い込まれるかのように、乗車していき、ホームに吐き出されていく。

 

私は昔から人混みの中が極度に苦手なため、いつも満員電車に乗っている時は、本を読んで、人が視界に映るのを無理やり遮断して、駅に着くのを我慢している。

 

そうしなければ、耐えられないのだ。

 

みんな同じ方向を向いて、同じような格好で、同じようなビルに入っていく姿を見ていると、なんだか気分が滅入ってくる。

 

自分が生きているのか死んでるのかわからなくなる感覚。

毎朝、通勤ラッシュの時間に、人混みに紛れて渋谷駅を歩いていると、自分が生きている実感が持てなくなってくる。

 

 

「みんな会社に不満があっても耐えているんだよ。だから、金曜日になると飲み屋で愚痴を言うんだ」

 

集団で働くとなるとどうしても人間関係の問題がネックになってくると思う。

会社に苦手な人が一人ぐらいいるのが当然だと思う。

 

私が今、働いている会社は特に嫌な先輩などもいなく、自分にとってはとても働きやすい環境だ。

 

だけど、どうしてもモヤモヤが膨れ上がっていく気がする。

多分、3年や長い年月働いていくと忘れていくであろう、この違和感。

だけど、この違和感が忘れてしまうくらい、会社という組織に馴染むのもなんだか違う気がする。

 

 

このモヤモヤを忘れたくて、私は最近やたらとカメラを持って走り回っているのかもしれない。

 

毎朝、押し寄せるかのようにしてホームを歩くサラリーマンたちを見ていると、どうしてもシャッターを押したくなる。

今、目の前にある光景を切り取りたくなるのだ。

 

なんで自分はこんな光景を切り取りたくなるのだろう。

 

 

カメラはもともと好きだった。

映画が大好きで、映画用のカメラを扱う会社に入社するほど、カメラが好きなのだ。

 

だけど、自分がいったい何でカメラに魅了され、写真を撮っているのかがわからなかった。

 

なんで自分はカメラを手に持ってしまうのだろう。

社会人をやって、会社には特に不満はないはず。

だけど、どうしても忘れちゃいけない感覚がある気がしてならなかった。

 

なんだろう、この違和感。

 

そんな時、このPVを見かけた。

私は昔からアイドルにはあまり興味を持てなかった。

 

なんかどうも苦手だった。

明るすぎるというか、純粋すぎるというか。

 

ももクロやらAKBのことはもちろん知っていたが、あまり興味を持つことができなかった。

知り合いの中には、ももクロの大ファンの人が多くいた。

そんな人たちはみんなアイドルのことを喋り出すと止まらなくので、私は全く話についていけず、いつもぽかんとしていた。

 

アイドルにハマるってなんだ? と正直思って、アイドルというやらにあまり関心が持てなかったのだ。

 

だけど、このPVを初めて見たとき、全身に衝撃が走った。

確か新曲のCMの一部をどっかで見たのだと思う。

 

PVのサビの部分を聴いた瞬間、衝撃が走った。

 

 

なんだこのダンス!!!

とにかく激しすぎる。

 

アイドルがやる踊りじゃないだろ! 

と思うくらい、激しい。

独特な世界観を醸し出している。

 

え? 今のアイドルってこんなにレベル高いのか!

 

私が衝撃を受けたPVは欅坂の「不協和音」である。

多分、初めてこのPVを見た人の多くが度肝抜かれたと思う。

 

youtu.be

 

なんじゃこれ!!!!

激しい! 速い!

 

15歳やそこらの少女たちが全力で踊り狂い、大人たちを圧巻しているのだ。

全身から「狂」が滲み出ている。

 

 

今のアイドルってこんなにレベル高いの……と思ってしまった。

私はこの独創的な世界に魅了され、YOUTUBEで動画を漁っていると、この「不協和音」の振り付けを手がけたダンサーの人の動画を見かけた。

 

あ! この人が振り付けを考えてたんだ。

私はこの振り付けを作ったダンサーの人を知っていた。

昔、情熱大陸で見たことがあったのだ。

ニューヨークの舞台で活躍し、あのマドンナにも才能を認められた天才ダンサーTAKAHIROさん。

 

18歳でダンスを始め、独学でダンスを一から学んでいったという。

社会人を一通り経験したのちに、24歳でニューヨークへ単独で飛び込み、ダンサーの世界に入っていった人物だ。

 

情熱大陸で見たとき、多分自分は16歳ぐらいだったと思うが、とても感動したのを覚えていた。

 

この人があの独創的な振り付けを考えていたのか……

 

TAKAHIROさんが欅坂のPVの振り付けをすべて担当しているという。

この世界的なダンサーはいたるところで欅坂の子たちのことについて、いろんな思いを熱く語っていた。

「あの子たちは本物のアーティストです!」

 

歌詞の世界観を表現するために、みっちり話し合いを行い、欅坂のメンバーと一緒にあの独特な振り付けを作り上げていっているという。

まるで感性のぶつけ合いのように話し合いをしているらしい。

 

若い感性と自分の感性がぶつかり合って、新しいものが生まれていく。

多分、この瞬間がたまらなく楽しのだろう。

私は、生き生きと欅坂のことを語るTAKAHIROさんのインタビューを聞いていくうちに、そんなことを感じてしまった。

 

「テーマにしているのは「集団の中にある個」です。周りが群れをなしてルールを作っていても、それには乗っかりたくない少女たちの悲鳴を踊りで表現しています。彼女たちの才能に感化されて、自分はこれまで以上にダンスに夢中ですよ」

 

欅坂のことを語るTAKAHIROさん目はとてもキラキラしていた。

この人たちがあのPVを作っているのか……

 

日本のトップクリエイターが本気を出して、アイドルのPVを作っているのである。

そりゃ、話題にもなるわと思ってしまった。

 

TAKAHIROさんは欅坂の10代そこいらのメンバーについて、誰一人子供扱いしていない。

一人のアーティストとして扱っている。

欅坂のことを語る時の目はとても生き生きとしていて、なおかつ真剣な眼差しだ。

 

 

 

「本気の人たちが目の前にいる。私はそんな人たちに賭けていきたい」

 

 

24歳の時、ニューヨークに単独で飛び込み、世界で認められたダンサーのTAKAHIROさんは熱くこうを語っていた。

 

なんで私はこのPVに魅了されたのか?

この言葉を聞いて、なんとなくわかった気がする。

 

TAKAHIROさんをはじめ、世界を魅了するクリエイターが、本気の少女たちに向かって、本気で振り付けをつけているのだ。

 

とにかくメンバーが異常なほど、本気なのだ。

 

本気で何かを作り上げようとしている人たちは、たとえ15歳でも全身から異常な熱気を漂わせている気がする。

私はこの異常な「狂」にまで到達したあの独特な世界観がたまらなく好きなのだと思う。

 

全身から異常なまでの「狂」を漂わせているあの踊り。

15歳やそこらの年齢でも「覚悟」の度合いが違うのだ。

 

 

私がカメラに見せられるようになった理由はそこにあったのかもしれない。

何かに異常なまでに打ち込む人の姿をカメラで捉えたいという思いが腹の中にある気がするのだ。

劇団のオーディションの撮影をした時も、受かるかわからないオーディションに挑む役者の人たちの目は、みんな真剣そのものだった。

 

何かに全力で打ち込んでいる人の目は、異常に輝いている。

 

 

 

たとえ、年収1000万円を超えていても、毎日疲れた顔で会社に出社している社会人もいる。

だけど、トイレの掃除でも、どんな些細な仕事でも、真剣に与えられた仕事に取り組んでいる人がこの世にはたくさんいる。

多分、私は毎朝、通勤ラッシュの渋谷駅でそんな人の姿を見たいのだ。

どんなに後ろめたい仕事でも、家族のため、会社のため、自分の夢のために、「覚悟」を持って目の前のことに取り組んでいる人たちの姿を見たいのだ。

 

 

私はそんな人たちの姿を写真で撮りたいのだと思う。

なんだか15歳やそこらの女の子から私はたくさん感化されてしまったみたいだ。

 

あの異常なまでに激しい踊りの中にある「狂」が人の心を動かしているのかもしれない。