ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

普通であることに後ろめたさを感じるけども……

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いつからだろうか。

「普通じゃない」ということに憧れを抱くようになったのは。

 

私はとにかく昔から、心の奥底で、普通じゃない特別な人というものに憧れていたと思う。

 

人と違った何かを持っている。

自分には人と違った感性を持っている。

そう思い、人と違った行動を取って、自分は人と違うと思い込みたかった。

 

自分は普通じゃない。

特別な何かを持っている。

 

そう思い、人と同じ行動を取ることにいつも躊躇していた。

そして、いつも人の事をどこか他人目線で侮辱した目で見ていたのだと思う。

 

小学生の頃からどこかしらそんな他人を侮辱する目というものを持っていた。

やたらと同調意識が熱く、回れ右の環境で勉強をする日本の小学校のあり方に、わりと最初から違和感を覚えていて、

 

「なんでみんなと同じ方向を向いて、座らなきゃいけないの?」

「なんでみんなと同じことをしなければならないの!」

そう思い、机を自分だけ真逆の方向に向けて授業を受けたりと少し変わった行動を取るような子供だった。

 

「授業中は黒板に集中しなさい」

そう先生に言われ、泣く泣く机をもとに戻したのを覚えている・

 

「特別な何かでありたい」

そう思い、いつしか大人になった。

 

就活のときはだいぶ苦労した。

自分はちょっとクリエイティブな素質を持っている。

なにか特別な物を持っている。

 

そう思い込んで、大企業ばかり受けては落ちまくっていた。

社会のレールにうまく乗ることも出来ず、世の中を彷徨い歩いたりした。

 

だけど、いつしか社会に出て、きちんと働くようにはなった。

さすがにもう「自分は特別な何かを持っている」

「特別でありたい」という感情はちょっとずつ薄れていったが、それでも心の奥底では、「普通じゃない」何かに憧れを頂いている自分がいる。

 

 

毎朝、ホームから人が落ちるんじゃないかと思うくらい、

人で溢れている渋谷駅のホームに経つたびに、

就活生や新入社員をみかけるたびに、

昔の自分の面影を探してしまうことがある。

 

自分がいる場所は一体何なのか?

無機質で他人に無関心な大都会の片隅で、異常に胸が苦しくなることがある。

なんだろう、この苦しみ。

どこか「普通じゃない」何かに憧れている自分。

「普通」が何なのか見いだせない自分。

 

常に浮足立っていて、生きている心地があまりしなかった。

 

そんな時、ふとある本を見かけた。

 

「普通を誰も教えてくれない」

 

タイトルに私は惹かれ、本屋で佇んでしまった。

その本は何か私に訴えかけるようにしているかのようだった。

 

この時期に、このタイミングで出会うべき本。

直感的だったけど、そんな気がした。

 

思わず、手にとってしまった。

その本の著者は大阪大学の総長であった鷲田清一氏である。

私はその著者のことは知っていた。

 

大学受験の際に、よく国語の試験でこの著者が書いた本が出題されていたのだ。

あまりにもよくこの著者の本の抜粋を見かけたため、私は興味を持って、

著者の本を一冊買って、読んだことがあった。

 

 

あ! あの国語の試験の題材に使われる人だ……

 

私は気がついたら手にとって、本を読みふけってしまった。

最初のはしがきから、この本の著者の世界観というか考え方が興味深く、読みふけってしまった。

 

これは買ったほうがいい本だ。

そう思い、そのままレジに直行し、本を手に入れることにした。

 

毎朝の満員電車の中、人にぎゅうぎゅうづめにされながら、私はこの本を読んでいった。

文庫本にしては結構分厚いサイズである。

少しずつ、少しずつ読んでいった。

 

この本は1990年あたりから2000年あたりの時に書かれた本のため、当時の社会情勢や雰囲気が如実に書かれていた。

今としては少し古い考え方なのかもしれない。

だけど、当時を生きてきた自分にとっては、今なお続く日本の社会のあり方の問題点が鋭く書かれてあった気がした。

 

章を読み進めていくと、ある時代の部分に差し掛かった。

そこには神戸連続殺傷事件が起きた時代背景について深く、深く書かれてあった。

 

たぶん、その事件は著者にとって、とても考えさせられる事件だったのかもしれない。

教育の問題や、都市のあり方について鋭い視点が書かれてあった。

排他的に便利さだけを構築した都市が建設され、人が逃げることができる場がなくなった時、その反動が社会に現れてきた事件だと書かれてあった。

 

人が作り上げた都市は、どこの時代にも逃げ場になる場所、

昔でいうと銭湯であったり、パチンコ屋であったり、風俗街であったり、

どこか穢れがある場も必要であると。

 

コンクリートで囲まれ、穢れを排除した純白な環境だけだと、人はどこかおかしくなってしまう。

そんなことが書かれてあった。

 

この本が書かれた当時よりも、どこか人は逃げ場所を失って、浮足立って彷徨い歩いている気がした。

SNSの影響もあって、すぐに自分と他人とを比べることが出来てしまう時代。

そんな時代だからこそ、「普通に生きることとは何なのか?」とふと考えてしまう部分もある。

 

この本を読んでいくうちに、自分が生きてきた時代の闇というか、

深く傷がつくようなリアルで追い詰められた空気を感じた。

 

皆、生きている実感が欲しいからこそ、他人を傷つけ、自分を傷つけてしまう。

その傷を癒やすことも、また自分を傷つけることでしか、リアルな生の感覚を得ることができない。

 

そんな時代の背景を考えさせられた。

私はこの本を読んでいく中で、とても深く心がえぐられてしまった。

自分が生きていく中で、どうしても見つめなければならないことのような感じがしたのだ。

 

生きている実感がない。

常に浮足立っていて、どっちに向かって歩んでいけばいいのかわからない感覚が少しずつ、少しずつ私の心の中に広がっていっていた。

そのもやもやの答えがこの本の中に書かれてあったのかもしれない。

 

 

この本の最後にこんな一説が書かれてあった。

それは、普通に生きることがわからなくなった時代に、人と簡単に見比べられてしまい、自己の消失が進んでいる時代に生まれた自分には深く突き刺さる言葉だった。

 

「傷からのほどきは、傷を忘れることにあるのではない。自分を傷つけた場所から離れるのではなく、あえてその場所に戻ること。そこにしか開放はおそらくない。傷を舐めるそういう文章を、わたしはこれからも書き続けたい」

 

その一説を読んだ時、はっとしてしまった。

自分に言い聞かせられた気がしたのだ。

 

私はどうも日本に居心地が悪く、いつも逃げてばかりいた気がする。

なんやら時代のせいにして、自分の居場所を追い求めて、海外を旅して回ったりした。

 

結局、どこにも自分の居場所は見つからなかった。

 

自分の居場所や心地よい場所を探して、逃げて回るよりも、

今いる場所でどう生きるのか?

 

傷から逃避するのではなく、傷口を見つめ、えぐり出す文章を書くこと。

そこでしか、何か答えが出ないような気がした。

 

自分はこの著者のようにたいした学歴があるわけでもなく、たいした経歴があるわけでもない。

だけど、こんな風に時代の傷口を鋭く刳りだすような文章を書きたいと思った。

 

自分を傷つけた場所から離れるのではなく、あえてその場所に戻ること。

やはり、そこにしか答えがないのかもしれない。

その答えを見つけるためにも、私は少しずつでもいいから毎日、文章を書いていくつもりだ。