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ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

5月病の人こそ、銭湯に行った方がいい理由

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「またか……」

彼女は人身事故が起きた線路を前にして途方に暮れていた。

駅の改札口に着いた時から、人がホームに溢れかえり、おかしいな? とは思っていたが、やはり人身事故だったのか。

 

「各路線で振替輸送をしています。復旧は1時間後の予定です」

復旧作業に1時間もかかるとなると、事故を起こした本人は……

 

彼女はそんな想像をすると胸が痛くなった。

 

周囲を見回していると「ちっ……またかよ」と舌打ちする人。

「すいません。〇〇で人身事故があって、会社に遅れます」

スマホ片手に会社に連絡を始める人がいっぱいいた。

 

ホームとその改札周辺には約400人ぐらいの人で溢れかえっていたが、誰一人としてある人の悲しみを受け止めていない現実に彼女は毎回うんざりしていた。

 

新潟から上京してきた当時、まず驚いたのが、東京の人たちの他者への無関心さだった。電車に乗っていても誰一人として周囲と喋らず、黙々とスマホをいじっている。

事故が起こって、誰かが亡くなっても、ごく当たり前のように日常が流れていく。

 

彼女は他人に無関心なコンクリートジャングルの中、かれこれ3年は過ごしてきたが、今、目の前で広がる悲しみ一つ一つにどうしても無関心ではいられない自分がいた。

 

今、この瞬間誰かが亡くなったんだよ。

なんでみんなスマホをいじってられるの。

 

東京で毎日のように起こる悲劇に無関心を装う人にはなりたくない。

そうな思いが彼女の小さな胸の中にはあった。

 

復旧作業が終わり、ようやく電車が動き出す頃には、ホームにいた人はバスやタクシーで会社に向かっていったようで、あまり人がいなかった。

 

彼女はゆっくり電車のシートに座り、今日の仕事で送らなければいけないメールを考えていた。

まず、出社したらこのメールを送信して、部長にこれを報告して……

 

ふと、彼女は思った。

私、何しているんだっけ?

 

なんで、こんなに今日やらなきゃいけない仕事について考えているのだろう。

 

目の前には同じように人身事故に巻き込まれた関係で出社が遅れてしまったOLやサラリーマンがいた。

彼らもまたスマホをいじってメールを書いていたりしている。

出社が遅くなり、少し仕事をサボれることを嬉しがっている人もいるだろう。

朝仕事ができなくなり、残業確定になった人もいるだろう。

 

彼女はそんな人混みで溢れかえる電車内の中で、ふと全てがどうでもよくなってしまった。

私、いったい何しに東京に来たんだっけ?

 

5月になると5月病というものが流行るとは聞いていたけど、まさか私がかかるなんて。

何をしても全くやる気が起きない。

やたらと朝眠い。

そんな状態が5月になってからずっと続いていた。

東京で今の仕事を見つけて早3年が経つ。

どうしても正社員になれなかったという現実に嫌気がさしてきているのは事実だ。

しかし、少ない給料ながらもひっそりと暮らしていける分の貯金はしてある。

 

とくにやりたいこともなかった。

ただ、周囲に流されて就職し、なんとなく憧れの東京に来ただけだった。

ごく平凡な人生なのはわかっている。

それなのに、なぜか今の現状に満足できないでいる自分がいる。

 

彼女はふと、めまいがしてきた。

あっ、会社に遅れるという連絡をしていない。

 

そう思い立った瞬間、彼女はある考えを思いついた。

 

このまま、会社サボってしまおう……

 

大丈夫、3年間無欠席だから、一回ぐらい大丈夫でしょ。

 

気がついたら、彼女は会社の上司に体調が悪いので休ませていただくという連絡を済ませていた。

 

このまま家に帰ろうかな。

そう思っていたが、せっかくできた臨時の休みだ。

どこかに行こうと思い、新宿で乗り換えもせず、そのまま電車の中に乗っていった。

 

たどり着いたのは清澄白河駅という場所だった。

とくにこの地に思い入れがあるわけではない。

電車の案内板を見たときに、ふと清澄白河という地名に親しみを感じ、気がついたらホームに降り立ってしまっただけだった。

 

駅の改札口を抜け、地上に出てみると、そこには昔ながらの町が広がっていた。

あれ、この街どこかで見たことある。

彼女は記憶を探ってみた。

昔、テレビで見たことがあるのかな。

よく考えてみたら、この昔ながらの町並みの風景は彼女の生まれ故郷の新潟に似ていたのだった。

 

落ち着いた雰囲気がある町並みを歩いていくうちに、彼女は故郷に降り立った気分になっていた。都会の騒音から一時隔離されたその街を歩いていくうちに、ふと彼女の目に銭湯の看板が見えた。

それは、昭和の香りが漂う銭湯だった。

 

煙突からはもくもくと煙が漂い、営業中であることを伝えていた。

彼女はゆっくりと中に入っていった。

 

女湯の前に、スーツを着たまま銭湯に来てしまった自分がおかしくなってきた。

まさか会社に出社せず、そのまま銭湯に来るなんて。

 

いつも上司の言われた通りにきちんと働いていた彼女にとっては初めての体験だった。

 

服を脱ぎ、銭湯の中に入る。

さすがに朝の銭湯にはそれほどまで人がいなかった。

おばあちゃんから昨日始発で帰ったであろう大学生の女の子がちらほらいた。

 

湯船につかり、ゆっくりと体を伸ばす。

彼女はボ〜としながら湯船に浸かっていると、銭湯で見られる毎日の営みに思いを馳せてきた。

 

そうか、みんなここを軸にして生活しているんだ。

 

毎日、家と会社の往復でしかなかった自分の人生に、この銭湯にいる時のような空白の時間が必要なのかもしれないと、彼女はふと思った。

銭湯にいると、なぜか不思議なことに知らない人も他者とは思えない自分がいたのだ。

 

いつも自分の殻の中に閉じこもっていた自分。

会社と家との往復でしか築きあげられなかった自分の中の価値観。

そんな価値観が銭湯にいるときだけは、少しずつ崩れていく。

 

そうだ、この銭湯を基準にしてもう一度自分の生活のリズムを作っていこう。

毎日、忙しい毎日に翻弄されて、身動きが取れなくなってしまっていたんだ。

 

ゆっくりと湯船の中に浸かっていると、ふと気持ちが楽になってきた。

 

 

5月になると毎年、電車の遅れが多くなる。

そんな時、いつも彼女は悲しみに暮れていた。

多くの人と同様、無関心であればいいのに、無関心でいる自分が嫌で仕方がなかった。

 

東京は無機質で、他人を押しのけるかのように満員電車に詰め込まれていく。

他者とのつながりなんて、あるようで全くない。

 

そんな毎日に嫌気がさしたら銭湯に行こう。

もう一度、他者とのつながりを再確認でき、その空白の時間から自分の生活を組み立て直すのだ。

 

明日から、また仕事だ。

だけど、今度は頑張って仕事を乗り切れそうな気がしてきた。

 

 

 

(すべてフィクションです)