社会人になってずっと「空虚感」を抱えている人がいたら……
「なんでこんなに頑張っているんだろう」
ふと満員電車の中で思い立った。
終電近くの満員電車の中は、いつも人でごった返している。
大抵は疲れた顔をしたサラリーマンで埋めつくされている。
仕事のイライラが溜まっているのだろうか。
何か仕事上の話をボソボソと呟いているスーツ姿のおじさんたちもいる。
終電近くの電車に乗るとき、私はいつも本を読んで周囲の光景をシャットアウトするようにしている。
そうしないと負のオーラを出しきっている疲れた表情の人たちが気になってしまい、自分も影響され精神的に疲れてしまうのだ。
別に仕事に不満があるわけではない。
入社して半年以上たち、徐々に仕事の大変さもわかるようになって、ちょっとずつだが社会人としての第一歩を踏み出してきている気はする。
残業が多くても、以前にやっていたテレビ局のADの仕事よりかは苦ではない。
フリーターの時代が長かったせいか、仕事があるだけでありがたく思えてきて、仕事を楽しんでやれている。
だけど、時々思ってしまう。
「どうして自分はこんなに頑張っているのだろうか」
社会人をやって初めて気がついたことなのだが、
一つの会社の中でもこまめに働いている人もいれば、
適当に言われたことだけをやって定時に帰ってしまう人もいる。
そのことにだいぶ驚いた。
会社の中でもこんなにも働き方の違いがあるのか……
部署によってもだいぶ違ってくる。
忙しい部署に配属になると、死ぬほど忙しく残業の嵐になる。
その一方、暇な部署に配属されると、周囲の上司もみんな定時に帰っていくので、夕方過ぎになるとみんな消えていく。
サラリーマンとなると基本的に残業しようが定時に帰ろうが給料は一緒だ。
費用対効果を考えると言われたことだけをやって定時にさっと帰ってしまう方が楽だ。
だけど、どうしも自分は……
もっと働きたい。
もっと一人前になって、きちんと働けるようになりたい。
そう思って、毎日夜遅くまで残業して、自分のペースで仕事してしまう。
別に仕事や残業に不満があるわけではないが、どうしても心の奥でモヤモヤとした黒いものがあった。
なんだろう。
この違和感は。
仕事に夢中になってがむしゃらに営業先を走り回っても、どうしても違和感を抱いてしまうのだった。
高校生の頃はみんな開かれた将来に向けて、胸をときめかせていた気がする。
「ミュージシャンになりたい」
「アーティストになりたい」
そんな夢を周囲に語り、大学に進むなり、専門学校に進むなりして自分の進路に向かって飛び出していった。
だけど、大人になり、徐々に社会の現実というものに気がつき始めると、
夢を語る人も周囲から消えていった。
「あいつ写真家になるって言っていたのに今何やってんだろう?」
「役者になるって言って学校を辞めたあいつ、まだアルバイト生活らしいよ」
そんな声をちらほらと聞く。
そういえば大風呂敷を広げてそんなこと言っていた人がいたな……
と傍観者の目線になっている自分に気がつき、自分に対して嫌気がさしてくる。
自分も一度は将来に対し夢を抱いていた時期があった。
映像に関わる仕事がしたいと思い、実際に撮影現場を訪れたりして自分の夢の仕事に近付こうとしていた。
だけど、やっぱり実際の現実は厳しい。
いつしか高校時代に思い描いていた職業から遠ざかり、今は会社員になって働く日々を送っている。
別に仕事に不満があるわけではない。
だけど、どうしても高校時代の自分が今の自分を見るとどう思うのか?
そんなことを思ってしまう。
どこかずっと「空虚感」というものを抱えながら生きている感じ。
その「空虚感」を忘れるためにも今は仕事に熱中している感じがするのだ。
そんな時にこの本と出会った。
今の自分じゃなきゃ出会えなかった本かもしれない。
「光と写真について書かれた最高の小説があります。読んでみてください」
数回しか直接お会いする機会がなかったが、その人の仕事への考え方や生き方に共感してしまい、何度かやりとりさせていただいている方が自分にはいる。
その方はいろいろ苦労されて今は起業して会社の社長をされている。
多分、行動すれば人生が開かれることを知っているのだろう。
今は海外で起業することを目標に人生の階段を猛スピードで駆け上がっているみたいだ。
「光と写真について書かれた小説?」
一体どんな本なのだろうかと思った。
ひとまず本屋に駆け込むその本を手に取ってみた。
鮮やかな装丁にタイトルが書かれていた。
「砂に泳ぐ」
本の装丁を見た瞬間、直感的にこの本は読まなきゃと思った。
どうしても読んでみたい。
そう思ったのだ。
すぐにこの小説を買い、毎日の通勤時間の隙間に読み始めていった。
読み始めると止まらなくなってしまった。
なぜか気がついたら涙が出てきてしまうのだ。
この小説の主人公が会社経営をしている知り合いの方にも見えてくるし、自分にも重なって見えてきてしまうのだ。
何でこんなに感情移入してしまうのだろうか。
その小説の中にはやりがいを見つけられず生きづらさを抱えていたある女性が、写真を撮ることと出会い、一人の女性として成長し、自立するまでの物語が描かれてあった。
少しずつ少しずつ、迷いながらも自分の道を切り開いていき、
最終的にはフォトグラファーになる主人公は力強くこんなことを言っていた。
「心が動いた時、その時の風景や空気、その向こうにあるかもしれない物語を切り取りたい」
仕事に対し、空虚感を抱えながらも力強く自分の道を見つけていった主人公の女性を見ているうちに涙が溢れてきてしまった。
遠回りしてきても、少しずつ自分の道を見つけていけばいい。
そんなことを感じるのだ。
忙しい毎日を送る中でも、目の前のことに無我夢中になっていたら、きっといつか道は開かれるのではないか。
そんなことをこの小説を読んでいくうちに感じた。
きっと、これからも「空虚感」に思い悩む時、この小説のページを自分は開いているのだと思う。
読む時期によって感じ方も違ってくるのだろう。
今だに自分が本当に何がしたいのか、さっぱりわからない。
だけど目の前のことに真剣に取り組んでいれば、きっと数年後には何か見えてくる景色があるのだろうと思う。
生きている実感を感じられない人にとって、映画「ブレードランナー2049」は、特別な薬になるのかもしれない
「人が生きている意味なんてありません。ただ生まれて死ぬだけです」
今でも予備校講師に言われた言葉をたまに思い出す。
私が通っていた予備校には名物とされている英語の先生がおり、とにかくその先生から授業中ボロクソに私はヤジを飛ばされていた。
「大学受験に失敗するなんて情けない」
「あなたたちはタコですね」
現役の時は志望校をほぼ全て落ちた私はその先生の授業を受けて、結構腹がたつことも多かった。
だけど、とにかくその先生の授業は人気があった。
英語に関してはどの先生よりも力になるのだ。
構文やら英作文までびっしりと鍛えられ、その先生の授業を一年間ボロクソになりながらも通っていた生徒はみんな浪人の末、志望大学に受かっていた。
自分も当時は泣きながら、その先生の授業についていったと思う。
本当に泣きながらだ。
英作文を見せに行っては、「あなたはタコですね」と馬鹿にされ、
なにくそと思ったものだ。
それでも私は必死になってその先生の授業を受けて行っていた。
なぜか直感的にこの授業は受けなきゃいけない。そんなことを思っていた。
約一年間、ボロクソに言われたおかげで私の壊滅的だった英語の偏差値も徐々に上がっていき、なんとか志望大学に合格することができた。
その先生の最後の授業。
いつも生徒をボロクソに言い、厳しいことで有名な先生だったが、最後の授業ではとても感動的な言葉を言っていた。
「今の若い人はよく生きている意味がわかりませんって言います。
生きている意味なんてありませんよ! あなたがこの世に生まれてきたということはどれだけの確率なのか知っていますか? せっかく生まれてきた命なんですから途中で投げ出さないでください。
生きている意味なんてありません。それは誰にも否定できない事実です」
いつもボロクソになって生徒を罵っていた先生だったが、最後は愛情のある
言葉を生徒に語ってくれていた。
最後の授業では泣いている生徒も多かった。
私はその時、泣きながら先生の話を聞いていたのだと思う。
そして、今でもその時に言われた言葉をたまに思い出す。
「人が生きている意味なんてありません。生きがいを追い求めても無駄です」
SNSが主流になった今、どうしても私たちはフェイスブックの「いいね」などで他者から承認を得られることを求めてしまう気がする。
私もよくあるのだが、SNSで投稿するためだけに無駄に外出したり、
あたかも休日を満喫しているアピールをして、生き生きとした毎日を過ごしていることを周囲にアピールしようとしてしまうのだ。
別に好きでSNSを通じて、周囲に自分のことをアピールしたいのではないのだと思う。
SNSを通じてしか、人とのつながりを確認できないのだ。
生きている実感が持てないのだ。
「人が生きている意味なんてありません。ただ生まれて死ぬだけです」
忙しい毎日を過ごし、終電近くの電車の中でSNSをいじっていると、たまにこの言葉を思い出してしまう。
自分が生きている価値って何なのか?
きっと、あの先生が言ったように生きている意味を追い求めるだけ時間の無駄なのだろう。生きがいを追い求めるよりも毎日の仕事に熱中している方がいいと思う。
だけど、どうしても考えてしまう。
自分が生まれてきた理由は何なのか?
他者とのつながりって一体何なのか?
そんな時にこの映画と出会った。
82年に公開された一作目は大学生の時に見た。
雨の中、ネオンが光る大都会をハリソン・フォードが駆け抜ける。
どこか見た人の脳裏からこびりついて離れないような映像美がそこにはあった。
私は正直いうと、一作目を見た時、あまりにも難解な内容のため、途中で寝てしまったのだ。
世界観はとにかくいい。
雨の中の大都会……その崩壊した未来像のビジュアルセンスは多くのSF映画に影響を与え続けているという。
「AKIRA」も「攻殻機動隊」も「マトリックス」もほぼすべて「ブレードランナー」の影響を多大に受けている。
ビジュアル的な絵はいいが、とにかく哲学的でストーリーが難解なのだ。
私はどうしても一回目はあまり真剣に見ることができなかった。
しかし、時が経つにつれて、ジワジワと雨の中の未来都市の映像美を思い出してしまうのだ。
なぜだろう。
どうして、一度見ただけなのに、映像が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
気がついたら私は3回以上「ブレードランナー」を見直していた。
見れば見るほど奥深いストーリーに惹きつけられた。
人は何のために生きるのか?
そんな哲学的な問いに心を惹きつけられた。
なぜか映画のシーンが脳裏にこびりついて離れないのだ。
これが多くの人を魅了し続けているカルト映画ってやつか……
大学を卒業して、社会人をやるようになって忙しい毎日を送る中でも、
たまに「ブレードランナー」だけは見直していた。
最近ではカメラを買い、写真を始めたことも影響され、とにかく雨の中に浮かび上がるネオンの光の映像美に酔い浸っていた。
そんな「ブレードランナー」だが、30年ぶりに2作目が公開されるという。
私は早速、映画館に駆け込むことにした。
映画館の中には評判を聞いてか、一作目を見てきたコアなファン層から20代の人までいろんな層の人が集まっていた。
こんなに人気なんだ。
改めてカルト映画となっている「ブレードランナー」の凄さを痛感するとともに、正直怖くなった。
「ブレードランナー」は見た感じ、万人ウケするような映画ではない。
「スターウォーズ」などのSF映画を想定してきた人にとってはかなりイメージと違う内容だ。
とにかく複雑なのだ。哲学的なのだ。
こんなに幅広い層が映画館に集まっていていいのかな。
そんなことを思っていると映画が始まった。
映画が始まって20分くらいすると私はスクリーンに広がる未来都市にクギ付けになっていた。
全く見ていて飽きないのだ。
主人公が置かれている状況……
AIのガールフレンドにしか心を開かない主人公の姿が、SNSに自分の居場所を追い求めている今の人たちの姿と重なって見えてしまった。
なぜだろう。
どうしてこんなにも涙が出てきてしまうのだろう。
私は映画の中の世界観に酔い浸っていた。
「ブレードランナー」は確かにカルト的な人気を誇る古典的名作の一つだと思う。カルト映画のため、どうしても見る人を選んでしまう節もある。
映画の上映中も何人も途中でトイレに立ち上がっていた。
周囲からザワザワとした音も聞こえてきた。
映画自体も2時間40分もあるため、多くの人にとっては集中力を維持して
見るのは正直きつい部分もある。
だけど、私はこの映画が問いかけている深い内容を感じずにはいられなかった。
2時間40分が経ち、エンドロールが終わっても私は席から立ち上がることができなかった。映画の世界観から抜け出せなくなっていた。
なんで、こんなにも胸が苦しいのか。
なんで、こんなに心に響いてしまうのか。
この映画は2時間以上の時間を使って、
「人はなぜ生きるのか?」ということを問いかけてくる。
「人が人らしくある部分は何なのか? 人間性とは何なのか?」
そんな哲学的な問いを観客に問いかけてくるのだ。
生きている実感を得られず、孤独の中で過ごしていた主人公は最後に自分が生まれてきた意味を見出していく。
そんな主人公の姿を見ているうちに私は涙が溢れてきてしまうのだ。
彼が出した結論……
それは、「誰かのために戦って死ぬ」ことだった。
どこかの誰かのために戦って死ぬことで、初めて生きる意味を知るのだ。
私は今でも予備校時代に言われた言葉をたまに思い出す時がある。
確かに予備校の先生が言っていたように、人が生まれてきた理由なんてないのかもしれない。
だけど、どうしても考えてしまうのだ。
自分が生まれてきた意味は一体何なのか?
どこかの誰かのために戦って死ぬことで、生きる意味を見出した映画の主人公のように、力強く生きて、生きる意味を見出したい。
仕事でも、趣味でも何でもいい。
力強く、毎日を生きて行く中で、何か見えてくるものがあるのではないのか。
そんなことを私は強く感じた。
「自分の母親だけは死なないものだ」……そう感じている人にとってこの本は。
「この漫画読んでみてください。そして、是非感想を聞かせてください」
いつもお世話になっているプロのフォトグラファーの方からこんなメッセージが届いた。
その人は自分にとって写真の師匠のような存在で、月に数回写真のことを学ばせていただいている方だ。
感受性がとても強い人で、その方が撮る写真にはどんな人にも何かを感じるような不思議な魅力が込められている。
「写真の構図なんてどうでもいい。その時、その場で自分が何を感じたのか?
それを写真に残したいし、伝えたい」
ありふれた日常に潜むスペシャルな瞬間を撮るそのフォトグラファーの人は、そんなことを口癖のように言っていた。
そんな方からある日、私宛にこんなメッセージが届いたのだ。
「この漫画は是非読んでみてください。漫画でこんなにも泣くのかって言うくらい泣けました。是非、感想を聞かせてください」
私はそのメッセージを開いた時、夜11時過ぎまで仕事をしていて正直クタクタだった。
スマホの画面を見ながら、何かウトウトしたながそのメッセージを読んでいたと思う。
ひとまず添付されたURLに無料立ち読みできる電子書籍版があったので、無料分を読んでみることにしてみた。
電子書籍の無料版といったら、せいぜい全体の一話分くらいである。
その電子書籍にはいろんなコメントが飛び交っていた。
「泣けました!」
「こんなに泣ける漫画は初めてです」
そんな漫画ごときで泣けるわけがない。
私はそう思っていた。
しかも、毎日続く残業の嵐でその時、自分の心は結構ゆがんでいたのだと思う。
「こんなに忙しい毎日に漫画なんて読んでいる暇ないよ……」
正直、そう思っていた。
疲れた表情で座っているサラリーマンに挟まれながら、ひとまず電車の中でも暇つぶしにスマホを開き、その漫画の無料ページを読んでいくことにした。
なんだろう? この独特なタイトルは……
なんだ、このタッチは……
私は普段、ほとんど漫画を読まないし、絵にはとても疎い。
絵に疎い自分でも正直、この漫画家の絵はうまいとは思えなかった。
だけど、なぜか心に染みてくるのだ。
なんでこんなに心に響くのだろうか。
疲れた表情でクラクラしながらも私は無料ページを読み進めていった。
それはある30過ぎの男が亡くなった母親についての思い出を綴ったエッセイのような漫画だった。
とても心に響くのだ。
とても涙が出てきてしまうのだ。
これは大切に読まなきゃいけない。
平日のクソ忙しい時に、心がゆがんでいる時に、読んでいいものじゃない。
直感的にそう思い、時間が取れる休日を使って読み進めることにした。
私にとって電子書籍は初めての体験だった。
電子書籍だとどこかデジタルな分、作り手の感情が伝わらず、機械的に感じてしまうのだ。
だけど、この漫画だけはす〜と読める。
しかも涙が溢れてくる。
この漫画には、最愛なる母を亡くした時に芽生えた感情と母との思い出を綴るとともに、後悔の念が込められている。
全体としては一巻しかない短い短編集だ。
絵も正直言ってうまくはないと思う。
だけど、5話目くらいから涙が止まらなくなった。
母に親孝行ができなかったその中年の漫画家が、どこか自分に重なって見えてしまうのだ。
人はいつか消えて無くなる。
普段生きている中で、つい忘れてしまうこの事実を思い出させてくれるのだ。
この漫画を読んでいるうちに私は自分自身の両親のことを思い出していた。
いつも夜遅くに帰っても晩御飯を残してくれる母親。
自分は両親にきちんと親孝行ができているのか?
よほどのことがない限り、自分より先に両親が亡くなることになる。
その時に私はきちんと親孝行をしてきたと胸を張って言えるのか?
そんなことを猛烈に感じてしまった。
この漫画では18話にわたり、漫画家の母への思いと後悔が綴られている。
その思いは両親がいる多くの人に共感ができるはずだ。
自分はきちんと親孝行ができているのか?
ありふれた日常を大切に生きているのか。
失って初めて気がつくのでは遅い。
そんなことを考えさせられるのだ。
私は気がついたら大粒の涙を流していた。
こんなに感情が揺れるなんて。
なぜだかとても、泣けるのだ。
ありふれた日常を大切に生きよう。
そんなことを感じさせてくれるのだ。
人はいつか消えて無くなる。
この漫画は、誰もが共通して持っている「死」というものを思い出させてくれる。
大切な人が亡くなった時、あなたは後悔することになるのか?
胸を張って、きちんと見送ることができるのか?
そんなメッセージが込められていた。
私はこの漫画を読み終わり、すぐにそのフォトグラファーの方にメッセージを飛ばした。
「ありふれた日常がとても愛おしく思える。そんな素敵な漫画でした!」
今、大切にしたい方がいる人が読むのもいい。
あるいはまた、特別な人への後悔に苛まれている人が読むのもいい。
きっとその時々に別の感じ方もあるのだと思う。
「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った」
この漫画は自分にとって、何か忘れてはいけない感情を思い出させてくれる……
そんな大切な漫画になった。
映画「硫黄島からの手紙」を見て、日本人の「働き方改革」について深く考えさせられた
「今日は映画を見なきゃまずい」
私は飛び込むようにしてレンタルビデオ屋に駆け込んで行った。
大学を卒業して1年以上経つが、転職するなり、海外を放浪するなり、ストレートで卒業した人よりから少し遠回りをしてきた。
何かの縁で入れた今の会社だけはしっかりと頑張らなきゃ。
そう思い、毎日夜遅くまで仕事をしている。
夜遅くまで仕事をして、誰よりも早く会社に来て仕事をする。
そんな毎日だ。
はじめの就職に失敗した影響か、世の中の厳しさが身にしみてわかってきたのか、
いろいろ遠回りしてきたこともあり、仕事の楽しさが最近ようやくわかってきた。
私がついた仕事は営業職だが、物を売るということはこれほどまでに難しく、奥深いものだとは正直思わなかった。
学生の頃までの22年間の人生では、人に何かをサービスするということはあまりやってこなかった。
お店に行って何かを買うときでも、当たり前のようにお金を出し、ものを買っていた。
アルバイトをしても、適当に済まして、時給分の働きだけをすればいいと思っていた。
しかし、実際に社会に出るようになって、人にものを売ることをするようになると、
私の中の価値観が少しずつ変わっていったのだと思う。
ものを買うのは簡単だけど、ものを売るってこんなにも難しいのか……
普通に「この商品のここが魅力で〜、値引きしますよ〜」
とか話していても全く売れない。
どうすればいいのか?
ああすればいいのか?
そんなことを考えながら仕事をしている。
ここは踏ん張りどころだ。
そう思いながらも自分なりに毎晩遅くまで働いている。
割と残業の嵐である。
私の知り合いに仕事の話をすると、まず間違いなく言われることがあった。
「それってブラックじゃん」
「残業してもお金にならないなら意味ないじゃん。定時で帰ったほうがいいよ」
私の会社の中でも定時でふらっと帰る人もいれば、毎晩遅くまでがむしゃらに仕事をしている人の2パターンがあるのだ。
新入社員の中でもはっきりと仕事を早めに済まして定時に帰る人と、
次から次へと自分の仕事を作っていき、夜遅くまで働いている人の2パターンの人種にくっきり分かれる。
10月ごろになると「早く帰る組」と「遅くまで残っている組」が生まれてくるのだ。
「早く帰る組」の人は周りも「この人はこういう人だから仕方ない」と思っているのか、誰も咎めたりしない。
会社の中でも働き方にこんな違いがあるんだな。
そんなことを最近、感じ始めていた。
長時間残業や過労死の事件の影響で、「働き方」改革が求められているこの頃。
会社の中でも定時になったら強制的に家に帰るように注意させる企業が増えてきたという。
昔の頃のように「会社のために汗水垂らして働け!」という風潮はタブー視されているみたいだ。
確かに、体が壊れるくらいに働くのはどうかと思う。
私も一度、5日間ほぼ無休で働きぶっ倒れたことがあるので、明らかに過労気味の人を電車で見かけるとどうしもほっておけない。
だけど、「6時になったんで帰ります」
「残業して何の意味があるの?」
「会社のために働いても意味ないじゃん」
などなど行って、定時にパッと帰っていく人を見ると何だかやるせない気持ちになる。
何だろう、この違和感。
そんなことを思いながら、金曜日も夜遅くまで働いていると、どうしても心がもやもやしてきてしまった。
何だろう、この気持ち。
とにかく、明日休日だから映画でもみよっか。
そう思い、レンタルビデオ屋に駆け込んで映画をレンタルすることにした。
私がふと手に取ったのは「硫黄島からの手紙」という映画だ。
クリント・イーストウッド監督で主演は渡辺謙や嵐の二宮君など、日本の俳優が多く出演しているハリウッド映画だ。
学生時代にアホみたいに大量の映画を見てきた私だが、なぜかこの映画はまだ見たことがなかった。
パッケージの絵からして何だか重そうな映画に見えたのだ。
戦争映画は基本好きではあるが、この映画だけはなぜか
重たい人間ドラマのように思えて、見る機会がなかった。
金曜日の夜、一週間の疲れがどっと押し寄せてきた私は、クラクラの状態のまま、
「硫黄島からの手紙」のDVDを手に持っていた。
なぜか、この映画が見たい!
と強烈に思ったのだ。
本当になぜかはわからないが、今このタイミングで見なきゃいけない。
そう思ったのだ。
私は早速、家に帰り、自宅で映画を見ることにした。
ハリウッドを代表する名俳優であり名監督のクリント・イーストウッド。
プロデューサーにヒットメーカーのスティーブン・スピルバーグが関わっていることから、もうハズレではないなとは思っていた。
だけど、私の予想以上にすごい映画だった。
私は前半15分あたりから映画にクギ付けになっていた。
なんだ、この濃厚な人間ドラマは……
家族のため、国のため、硫黄島で命を捧げた日本人の姿がそこにはあったのだ。
2時間20分という少し長い映画だが、私は時間を忘れて映画に夢中になっていた。
気がついたら涙が止まらなくなっていた。
きっと、硫黄島にいた日本兵の多くが生きて帰ってこれないことがわかっていただろう。
それでも、家族を救うため、自分の「信念」を最後まで貫き通した人々の姿がそこにはあった。
ハーバード大学に留学していた渡辺謙演じる栗林は、アメリカ人の友人たちのことも深く知っていた。心のそこでは戦争などやりたくないと思っていた。
だけど、国という大きな組織の中で、自分の「信念」に従ったのだ。
「我々の子供らが、日本で1日でも長く安泰にくれせるなら、我々がこの島を守る1日には意味があるんです!」
大きな国という組織の中で、理不尽な命令だとわかっていても、己の「信念」を最後まで貫き通し、散っていった人々を涙無くして見れなかった。
決して戦争賛美の映画ではない。
反戦的な映画である。
戦争なんて何の意味があるんだというメッセージが深く深く込められているのだろう。
だけど、最後まで心の中で「信念」を貫き通し、死んでいった司令官の姿は凛々しかった。
司令官の最後を見送る、二宮君の姿も凛々しかった。
アメリカの友人たちと戦争などやりたくない。
だけど、国のため忠実にならなければならない。
組織の中でも己の「信念」を貫き通した司令官が最後を迎える時、
二宮くん演じる西郷の瞳にぽろっと涙が溢れてくる。
古くいえば大和魂なのかもしれない。
だけど、これが日本人が一番強い部分なのかもしれないと思った。
日本人はとにかく組織に忠実なのだ。
時には「個」を捨てなければいけない時があるかもしれない。
だけど、組織の中で「信念」を貫き通して、がむしゃらに働くのだ。
これは自分を第一に考えてしまう欧米人には持てない価値観なのだと思う。
日本人の働き方はよくないと海外から言われる。
「働き過ぎで人生を無駄にしている」
「仕事よりも大切なものがあるはず」
確かに欧米に比べたら日本人は圧倒的によく働く。
自分らしく生きよう。
あるがままの自分でいよう。
自分の好きなことを仕事にしよう。
そんな働き改革の風潮か、ノマドワーカーやベンチャー企業の台頭など、働き方に変革が起きているこの頃。
だけど、日本人が世界に通じるパワーを見せられるのは、ベンチャー企業などの自由な働き方ではなく、大きな組織の中で忠実に「信念」を持って働く姿なのかもしれない。
自分の「信念」を持ってがむしゃらに働くということは欧米人には難しいのだと思う。
私はずっと「日本の働き方はよくない」
「みんな定時に帰って、自由気ままに好きなように働くのがいい」
そう思っていた。
だけど、「硫黄島からの手紙」に描かれていたように、組織の中でも「信念」を貫き通して働く大人はかっこいいと思う。
ベンチャー企業を創立していった人よりも、表には名前が出ないかもしれない。
だけど、家族のため、会社のために「信念」を持ってがむしゃらに働く人はとてもかっこいいと思う。
私も何かに「信念」を持って働ける大人になりたい。
そんなことをこの映画を通じて思った。
今をときめくサイバーエージェントの藤田社長が、「麻雀からビジネスを学んだ」と語る理由
「この本は買わなきゃ!」
私は直感的にそう思った。
本屋で通勤の時間に読む本を選ぶとき、私は基本的に表紙を見て、ピンときた本を直感的に選んで買うようにしている。
なんだかんだ自分の価値観を変えてくれるような本と出会うときは、たいてい直感的に「この本いい!」と感じた本なのだ。
アマゾンなどを見て、本を買うときも同じだ。
レビューがたくさん書かれているとか星マークが多いとかはあまり見ないで、表紙とタイトルを見て、直感的に「いい」と感じたらクリックする。
いいものと出会うときはいつも直感が一番正しい気がする。
私は普段生きていても直感というものをわりと信じる方だ。
「あ! この道に進んでいったらなんか面白いことがありそう」
道を歩いていても、直感的にこっち行ったらいいことありそうだと感じたら、なるべく直感を信じてそっちに進むようにしている。
何も考えずに直感に信じて進んでいった先に、中学の同級生とばったり遭遇したり、有名人と出会えたりすることが自分の経験上、何度かあった。
迷ったら自分の直感を信じたほうがいい。
私は結構、そう感じるのだ。
世間の流れに沿って、型にはまった道に進んでもろくなことがなかった。
内定がないからという理由で、特に行きたいとも感じなかった会社に就職することにしたのだが、あまりにも仕事がハードすぎて数ヶ月で辞めてしまった。
会社に入った瞬間、「あ! この会社やばいな」と感じたのにだ。
内定が出ないのはやばい。
同級生たちに会わせる顔がないと焦るあまり、選択を間違えてしまった。
結局会社を辞め、辛い転職活動を続けているうちに、直感的に「ここがいい!」と思えるような会社と出会えた。
まだ、働き出して半年ぐらいだが、なんとか続けられている。
やはり、就活などの人生の岐路に立たされた時、理性的な決断よりも己の心から感じるような直感が一番正しい気がするのだ。
なんであの時、こんな決断をしてしまっただろう?
そんな後悔をする時は決まって、周りの空気に合わせて焦った状態で決断してしまった時だった。
就活でそんな経験をしたため、決断を下す瞬間というものにやたらと興味を持ってしまった。
就活や結婚といった人生の岐路に立たされる時、運というか縁というものが大きな要素だったりするだろう。
だけど、今自分にはいい流れがきている……
いい方向に運命が進んでいる。
そう感じ、後悔のない選択ができるかどうかは己の直感に頼る部分が多い気がするのだ。
私のような平凡な人生でなく、大企業を立ち上げ、ビジネスという名の戦場で戦い抜いた著名人たちは、一体どういった決断を下し、勝負の時にどのような選択をしているのか?
そんなことが気になって仕方がなかった。
その時、この本と出会った。
まず、タイトルに惹かれてしまった。
「運を支配する」
著者はプロ雀士である桜井章一氏とネット業界の風雲児と言われるサイバーエージェント社長の藤田晋氏である。
なんでサイバーエージェントの社長が麻雀のプロ雀士と一緒に本を出してんだ?
最初、私はそう思ってしまった。
サイバーエージェントと言ったら、日本でトップクラスのベンチャー企業である。
あまりネットの世界に疎い私でも、その社名ぐらいは知っていた。
藤田社長は、最年少で上場を果たし、アメーバブログを成功に導いた今も活躍するベンチャー起業家だ。
新書のビジネス本なので、表紙が黄色で覆われただけで、カバーもなく、
どんな本なのか、パッと見わからなかった。
だけど、直感的にこの本はきっと面白い。
今をときめくベンチャー起業家が、なんで麻雀のことを語っているのか気になってしかたがなかったのだ。
それにタイトルに惹きつけられた。
「運を支配する」
一体どういうことなんだろう?
私は早速、本を購入し、読んでみることにした。
読んでみて驚いた。
え? 藤田社長って「麻雀最強位」タイトル持ってんの!
麻雀を全く知らない私だが、とにかく藤田社長の麻雀愛に驚いてしまった。
本を読んでいくと、藤田社長の麻雀への情熱が異常なことがわかるのだ。
大学時代に麻雀と出会い、雀荘に居座っている時に伝説のプロ雀士である桜井章一氏と出会ったらしいのだ。
この本の中には何度もこう書かれていた。
「僕は麻雀からビジネスのことを多く学んでいたかもしれないって最近、気がついたんです」
ビジネスとは銃がない戦場と言われている。
私は起業した経験もなく、何も大きなことが言えないが、
20代でベンチャーを起業した私の同級生も同じようなことを言っていた。
起業するということは、見た目はかっこいいが、とにかく大変らしいのだ。
銀行から融資してもらい、何時間も、何日間も真っ暗闇の中を突き進む。
起業すると休日なんてあってないようなものだ。
1日15時間ぐらい働いて、何年も耐えて、ようやく黒字になっていくという。
藤田社長は最年少で上場を果たした後、3年間赤字経営を続けていたという。
ずっと孤独に耐えてしのぎ、ようやく会社が軌道に乗ったらしいのだ。
藤田社長はネットバブルの時に、成功していった経営者と消えていった経営者を見ていくうちに、ビジネスは麻雀の勝負に似ているなと感じたらしい。
「勝負の時に運を引き寄せられるかがビジネスの世界では必要」
東大を出てようが、どんな有名な大企業に勤めていようが、ビジネスの世界では経歴など何の役にも立たない。
有名な大学を出ている優秀な人がみんな事業に成功するかといったら、そうはならない。
そうはならない理由が、「勝負の時に運を引き寄せられるかどうか」だという。
リスクと恐れず、勝負に出るか? 出ないべきか?
赤字を出している事業を見切るべきか。
一つ一つの問題を正しく選択し、運を引き寄せていける能力がある人、ない人がビジネスの世界でも麻雀の世界でも、勝敗を左右する。
勉強ができて、MBAを持っているビジネスマンが全員優秀であるわけではないのだ。
自分の前に現れた運をきちんと引き寄せられる人、一つ一つの選択をきちんと間違えずにできる人が、ビジネスでもアスリートの世界でも生き残る。
サイバーエージェントの藤田社長は世間的に言ったら成功者と言われる人だ。
最年少で上場を果たし、サイバーエージェントは今では3000人の社員を抱える大企業へと成長していっている。
多くの人が藤田社長のことを「運のいい人だ」と評するが、この本の中で藤田社長はこんなことを言っていた。
「別に幸運がたまたまやって来たわけではありません。自分のタイミングで勝負せず、その時を見極め、運に合わせているだけなんです」
この本の中では藤田社長が尊敬してやまないプロ雀士の桜井章一氏と麻雀やビジネス、アスリート達が経験する勝負どころについて詳しく書かれている。
麻雀やビジネスに興味がない人でもきっと、人生の岐路に立たされ、選択を迫られた経験があるだろう。
そんな選択を迫られた時に、正しい選択をするにはどうすればいいのか?
そんなことがこの本の中には書かれてあるのだ。
起業した人が読むのもいい。
あるいは、転職をしようか迷っている人が読むのもいい。
きっと、自分の選択について、改めて考えさせられる本なのだと思う。
自分はこれから雑音に満ちた社会で生きて残っていくためにも、この本は何度も読み潰していくつもりだ。
紹介したい本
【SNSで人生を変える】承認欲求に苦しんでいる人にとって、この本は……
「承認欲求なんて消えてなくなれ!」
私はずっとそう思っていた。
どうしてもツイートしたくない。
それなのにツイッターにつぶやいてしまう。
フェイスブックにシェアしたくない。
それなのに「いいね」欲しさに記事をシェアしてしまう。
自分が書いた文章をフェイスブックにシェアして
「あ、またこいつこんな記事書いているよ」と他人に思われるのがたまらなく怖かった。
だけど、どうしても私の中にある承認欲求が抑えきれず、SNSに些細な出来事や記事を投稿してしまう自分がいた。
なんでだろう……
どうしてSNSをやめられないのだろう?
誰かに自分の気持ちを見て欲しかったのかもしれない。
自分の中にある承認欲求を抑えられなかったのかもしれない。
他人に馬鹿にされているのが嫌で、怖くてSNSを一旦止めようとも思っていた。
それでも私はフェイスブックに自分が書いた記事をシェアすることを止めれなかった。
仕事中もいつもスマホ画面に現れるフェイスブックのアイコンばかり気にしていた。
今日はどれくらい「いいね」がついたんだろうか?
そんなことを気にしてばかりいて、「いいね」の数が極端に少ない時があると、自分の気持ちが割れるくらい苦しかった。
だんだん、記事を投稿すればするほど、自分の中にジレンマが生まれてきた。
SNSで他人に承認されたい気持ちとSNSを使いたくないという気持ちが芽生えてきて、苦しくなってきたのだ。
いっそ、SNSなんてやめてしまえばいい。
そんなことを思っていた。
私は平成4年生まれの人間だ。
今現在、自分と同じように20代なかばの人たちにとっては、SNSはものすごく身近な存在だった気がする。
中学から高校の頃にスマホが普及し、大学時代にLINEが生まれた。
今や、ツイッター、フェイスブック、LINE、Instagramがないと生きていけないんじゃないかと思うくらい10代~20代にとってSNSというものは欠かせないものになってきている。
自分もそうなのだが、今の10代~20代の多くはニュースをテレビではなくツイッターやフェイスブックで知ることになるのだ。
サッカーのワールドカップ予選のニュースなども、ほとんどの人がツイッター上で知ったりしている。
テレビをつけてニュースを見るよりも、パッとスマホを開いて、タイムライン上に流れてくるニュース記事を読んだ方が、案外早く情報を手に入れたりするのだ。
その一方、自分が知りたい情報だけ頭の中に入ってくることになるので、土日に台風が接近していることも知らずに過ごしている人もいたりしている。
そんなSNS時代に生まれた私たちゆとり世代にとって、ツイッターやフェイスブック、LINEをやっていないということは生活に支障が出るくらい大問題になってくる。
LINEやツイッターなどをやっていないとまず今の時代、友達を作ることも難しくなってくる。
友人たちが昨日のツイッターのつぶやきを見ていることを前提にして、会話を進めていくため、常にタイムラインを眺めていないと会話についていけなくなるのだ。
SNSに投稿して、他人にどう思われるのだろう?
こんな記事を投稿したら他人にどう見られるのか?
そんなことを気にしながら、SNSをやっている。
自分の考えをもっと人に知ってもらいたい。
自分は実はすごい人間だぞと人に知ってもらいたい。
肥大化する承認欲求を抑えられなくなり、みんなSNSに投稿してしまうのだ。私も同じだった。
何者かになりたい。
人とは違う生き方をしたい。
そんなモヤモヤした気持ちを晴らすため、人から承認されることだけを考えてSNSを使っていた。
他人に認められたい。
何者かになりたい。
そんな気持ちが頭の中でぐるぐる回って、スマホを開くことを止めれなかった。
止めれないと同時に怖かった。
「こいつうざいな」
「何考えてるんだ? こいつ」
そんなことを思われるのが嫌だった。
「なんでこの人はSNSの使い方が上手いんだろう?」
そんなことを思う人が私のフェイスブックのタイムライン上に数人いる。
一度記事を投稿すると、あっという間に「100いいね」を突破するような人がいるのだ。
なんで、こんなに「いいね」をもらえるんだろう?
人から好かれるセルフブランディングが確立した人って一体何をやってきたのか?
テレビタレントだったら、あっという間にフォロワー数が数万人を超えるのはわかる。
だけど、無名のブロガーや経営者の人が何万いいねをもらえたりする理由がよくわからなかった。
何でセルフブランディングができるんだろう?
そんなことを考えながも、自分の中の承認欲求を消すことができず、SNSを止めれなかった。
誰も自分のことなんて見てくれてない。
そう思っていた。
そんな時、ある本と出会った。
いつものようにフェイスブックをいじっていると、ふと本が紹介されている記事が目に入ったのだ。
それは9月の中旬に出版されたばかりの新刊だという。
女の子たちには有名なインスタグラマーが書いた本だった。
本のタイトルにとても惹かれてしまった。
「SNSで夢を叶える ニートだった私の人生を変えた発信力の育て方」
元HKT48のアイドルが、脱退後、ニートになりながらも、SNSの力で自分の人生を変えていった物語だという。
私は本のあらすじを読んだ瞬間、即クリックし、アマゾンで発注してしまった。
家に届いた瞬間、読んで行った。
本を開くたびに涙が出そうになった。
とにかく著者が抱いていた苦しみがわかるのだ。
SNSを開きたくなくても、開いてしまうジレンマ……
自分の承認欲求を抑えられない気持ち……
結局、彼女は自分の力でSNSの使い方を発掘し、人生を切り開いていった。
そのストーリーがとにかく泣けるのだ。
何度でも読み直したくなるのだ。
この本の中には何度も書かれてあった。
「人はポジティブなものに惹かれる」と。
ネガティブなことを発する人にはネガティブな人しか集まってこない。
人はワクワクする人のところについていくのだ。
よく考えれば、SNSで「100いいね」をもらえるようなセルフブランディングを確立できている人は、みんな人一倍、行動をしている人たちのような気がする。
ただ、SNSで夢を語るのではなく、実際の行動に移して、夢を現実にしているのだ。
そんな人たちのつぶやきはなんだかワクワクするものだ。
次はどんなことをしてくれるんだろう?
どんな面白いものを見せてくれるんだろう?
会社を作るなり、本を出すなり、とにかく行動するのだ。
頭の中で理想を語るのではなく、実行しているのだ。
中途半端な夢を語るのではなく、明確な夢を語って、行動に移している。
全くブレていない。
承認欲求に苦しんでいる人……
それは行動に移す勇気が持てない人なのかもしれない。
なりたい自分がいるのに、他人の目を気にして行動に移せない人。
勇気を持って行動に移せた人がこの本の著者のように人から憧れる存在になれる気がするのだ。
どんな業界にもプロとアマチュアがいる。
ライターの世界だって、アマチュアでブログを書いている人から、プロのライターとして書いている人がいる。
カメラマンの世界だって、アマチュアでやっているフォトグラファーから、
プロのフォトグラファーまで大勢いる。
そのプロとアマチュアの差……
それはただ、行動に移せたかどうかな気がするのだ。
なりたい自分がいるのに、勇気が持てず、心の中にある承認欲求だけが肥大化していった人。あるいは、行動に移してプロになった人。
その両者を隔てているのはただ単に「覚悟」と「行動力」の問題に過ぎない気がする。
この本の著者は、自分が「モテたい」という気持ちを抑えきれず、自分が大好きなモテメイクをいろんな女の子に伝えたいと思い、情報を発信し続けていた。
YOUTUBEにアップする動画を作ったことがなかったが、
「やれる!」と信じて行動に移していったのだ。
この本を読んでから承認欲求に打ち勝つには、ただ行動するしかないのではないかと思うようになった。
行動していくうちに承認欲求を忘れていくのだ。
承認欲求自体を消すことは基本的に無理なのだと思う。
この本は発売して一週間も経っていないが、いろんなメディアで注目されている。
カリスマブロガーの「はあちゅう」も自身のブログでコメントを書いていた。
人生のどん底を経験し、ニートから自身の力で人生を駆け上がっていった
「モテクリエイター ゆうこす」の言葉は、SNS世代に響く言葉で溢れかえっていると思う。
自分のやりたいことが見つからない。
人の目を気にしてばかりいて、生きている心地がしない。
そんな風にSNS時代において「生きづらさ」を感じている人にとって、この本は特別な処方箋になるのかもしれない。
少なくとも自分はこの本を読んでから、どこか心の底にあったモヤモヤが消えていった気がする。
普段、私は本を繰り返し読む方ではないが、もうすでに2周読んでしまった。
これからも3周、4周と繰り返し読んでいく本なのだと思う。
自分にとって、人生を変えるくらいの影響力がある本な気がするのだ。
紹介したい本
「SNSで夢を叶える ニートだった私の人生を変えた発信力の育て方」
著者 ゆうこす
社会の歯車になった果てにあるもの……「三度目の殺人 」
「え? こんな機械的に裁かれていくの」
私は初めて裁判というものを見て、妙な居心地の悪さを感じていた。
大学時代に私は一度、裁判を傍聴したことがある。
特に傍聴席に行った理由などなかった。
一度は裁判を見てみたいという好奇心があったのかもしれない。
裁判と言ったら海外ドラマのようにスリリングな展開があって、ハラハラドキドキするんじゃないか?
そんな淡い期待を抱きながら、東京の都心にある地方裁判所に向かったのを覚えている。
重いゲートを通り過ぎると、警備の人に荷物をチェックされた。
さすがに裁判の傍聴でも、荷物検査には厳しいようだ。
一回のロビーで本日の裁判のスケジュールを確認していると、後ろから次々とおじさんたちがスケジュール帳を開き、自分のノートにメモを取っていく。
こんなに傍聴マニアな人って多いんだな……
平日の昼間でも傍聴席に来る人は案外多かった。
目の前で人が裁かれるということに妙なスリリングがあるのか、寄ってたかって裁判の傍聴に群がっているのだ。
人気の裁判となると早朝から整理券が配られる。
私が裁判所に着いたのは11時過ぎだったため、人気の裁判は案の定売り切れていた。
私は初めての傍聴だったため、ひとまず目に入った法廷に足を踏み入れることにしてみた。
生まれて初めて見る法廷は、とても澄み切っていて神聖な雰囲気が漂う場所だった。
私が席に座ると、横に明らか傍聴慣れしてるおじさんたちが座っていく。
「起立」
裁判官が法廷に入ってくると、補佐官が声をあげた。
今まで噂話をしていたおじさんたちも静まり返った。
「裁判官、弁護側がただいま遅刻しているようでして」
え? 弁護士が遅刻?
私は驚いてしまった。
弁護士が遅刻なんてするのか? と思ったのだ。
いくつか裁判を傍聴している中で薄々感じたことなのだが、裁判官と検察官は国の公務員に当たるので、とても時間厳守で働いている印象だった。
その一方、弁護士は営利目的で動いている。
国に仕える身分ではないので、何かというか自営業者みたいな印象の人が多かった。
私が裁判の傍聴席に座っていると、何度も時間に遅れてくる弁護士を見かけた。
遅れてくると言っても2分ほどではあるが。
「次の裁判があるので、これで失礼します」
分刻みで裁判のスケジュールが埋まっているため、弁護士の人たちも大忙しのようだった。
裁判自体も判決を言い渡すだけで、5分くらいで終わってしまうものもあった。
そのわずか5分の時間でも、法廷の仕組み上、一人の裁判官と検察、弁護人が一人一人いなければならないのだろう。
「こんな機械的に人って裁かれていくんだな」
私は目の前で初めて見る法廷というものに驚いてしまった。
本当に次から次へと人が裁かれていくのだ。
そうしなければ、スケジュール的に何時までたっても裁判が終わらないのだろう。
私は初めて傍聴席に座ってみたが、人の不幸を目の前で見て、なんだか居心地の悪さを感じてしまった。
傍聴にハマる人がいるのはわかる。
日常では味わえないドラマチックな展開の話が聞けるからだ。
不倫訴訟、刑事事件、耳を覆いたくなるような殺人事件の裁判が毎日何十件と展開されているのだ。
平日の昼間なのに、何百人という人が傍聴席に集まっていた。
私はというと他人の不幸を目の前で見て、とても辛くなってきてしまったせいか、数時間くらいで退出してしまった。
大学時代に一度行ったきり、それ以来、傍聴には行っていない。
「あんなに分単位でスケジュールが埋まっているなんて……弁護士も検察官も大変なんだろうな……」
生まれて初めて見る裁判というものはそんな印象だった。
それから数年が経ち、私は大学を卒業して社会人となった。
社会に出てまだ数年も経っていないが、学生の頃のように親に甘えているわけにはいかない。
社会に出て自分のお金を稼ぐようになっているうちに、こうも世の中、自分が食っていくだけのお金を稼ぐということが大変だとは思わなかった。
会社に雇われている身だが、それでも自分の給料を稼ぐというだけでもとても大変だ。
こんなことを世の中のお父さん方はやっているのか……
今まで育ててくれた親のありがたみが嫌という程わかった。
わかると同時にどうしても違和感を拭えない自分がいたのだ。
毎日のように満員電車のドアから吐き出され、会社に向かっている中、周りを見回してみると、自分と同じ方向に、自分と同じような服装を着て、自分と同じような顔の人が、駅を歩いているのだ。
没個性……
きっと自分も何も感じない方がいいのかもしれない。
だけど、毎日満員電車から吐き出されてくる人を見ていると、こんなにも世の中機械的に分単位で動いていって、何事もなかったかのように人身事故が片付けられていくことにどうしても違和感を忘れられなかった。
テキパキとスケジュール通りに動いて、分単位で電車がホームにやってくる。
機械的に動いていく世の中にとても居心地の悪さを感じてしまう自分がいた。
そんな時だった。
是枝監督の最新作「三度目の殺人」を見たのは。
是枝監督の作品は昔から知っていた。
文句なしの日本一の映画監督だと思う。
「そして、父になる」もみたし、「誰も知らない」も傑作だ。
こんなに日常の些細な部分まで丁寧に描けるなんてすごい……
ずっと憧れの映像作家だった。
そんな是枝監督の最新作の「三度目の殺人」のトレーラーを見た瞬間、これはやばいなと思った。
普段は家族の日常などを丁寧に描く作風だが、最新作は法廷ミステリーだという。
このトレーラーを見た瞬間、これは絶対に傑作だと正直思った。
学生時代に350本以上映画を見てきたので、ある程度いい映画と、ダメな映画の区別がつくようになっているとは自分では思っている。
死ぬほど映画を見ては、映画を撮りまくっていたので、ある種の直感でこのトレーラーはやばい。絶対名作だと思った。
私は早速映画館に駆け込んで「三度目の殺人」を見てみることにした。
映画館は案の定、福山雅治目当ての女性客が多かった。
さすが福山雅治だな……と思っているうちに映画が始まった。
見ていて、私は驚きを隠せなかった。
なんだ、この法廷劇は。
なんだ、この面会シーンは。
私は最初の5分のうちに「三度目の殺人」で描かれている世界観に夢中になってしまった。
なんだこれ。
初めて見る法廷劇だ……
何回も続く面会のシーンに私は夢中になってスクリーンに食い入った。
なぜだか胸がチクチクと痛んでしまうのだ。
なんでこんなに胸が苦しんだろう。
なんでこんなに胸が重たいんだろう。
その映画の中で描かれていたのは、誰もが心のそこでは感じている口には出せない感情なのかもしれない。
罪を犯したものと、弁護する側のものが面会を続けていくうちに、両者ともに何一つ変わらない普通の人間であることに気がついていく。
罪を犯すものと、犯さないものの間には大きなガラスがあるはずなのに、物語が進むにつれて、そのガラスの板が崩れていくのだ。
映画館の中では誰一人、席を立つ者もいなかった。
ポップコーンを食べる音もしなかった。
皆、スクリーンで繰り広げられる役所広司の怪演と福山雅治の演技に、
そして、広瀬すずの凍てつくような表情に夢中になっていたのだ。
こんな映画が……
映画が終わった後、私はしばらく放心状態だった。
結局、結論が出ないまま映画は終わってしまうのだが、自分の中ではなんとか結論は出したいと思ったのだ。
結局、犯人は罪を犯したのか?
犯さなかったのか?
普段はあまり映画のパンフレットを買わない方なのだが、「三度目の殺人」のパンフレットは欲しいと思い、買うことにした。
結局、この映画の結論は一体なんなのか?
何が言いたかったのか?
帰りの電車の中でもじっと呆然としながら、パンフレットを開いていった。
そこには福山雅治がコメントした言葉が書かれていた。
「わからないことをわかろうとする心はあるのか? 真実がわからないからといって、見て見ぬふりをするのか? という社会への問いかけなのかもしれません」
私はこのコメントのことをとても考えてしまった。
「わからないことをわかろうとする心はあるのか?」
毎日、忙しい時間を過ごしていると、どうしても見えてきたものでも、見て見ぬ振りをした方が好都合なことが多い。
路上で貧しい人がホームレスの人がいても、醜いものを見るような目線で、見ない振りをした方が楽である。
毎日、機械的に動いていく社会の歯車の一員になって、余計なことを見ず、考えない方が楽である。
だけど、そんなに機械的に動いている社会の中で何か大切なものを見過ごしていることもあるのかもしれない。
この映画は裁判を舞台にした法廷劇だが、それ以上に世の中に対する思いが強烈に描かれているのだと思う。
確かに見て見ぬ振りをする方が楽だろう。
だけど、もう少し余裕を持って見なければいけないことも世の中にはあるのではないのか。
私は人身事故が起きた駅構内でも、スマホをいじって復旧を待つだけの大人にはなりたくなかった。
社会に隅にうずくまっている人も、見てみる振りをして、通り過ぎたくなかった。
きっと、もっと見なければいけないことがこの世の中にはあるのだろうと思う。
この映画を見終わった後、数時間考えさせられてしまった。
自分にとって、世の中に対する価値観が変わるくらいの印象深い映画だった。