いつも「生きづらさ」を抱えていた私が見つけた、ファインダー越しに見える世界
「どこへ向かっているんですか?」
私はカンボジアのゲストハウスで出会った日本人の方にこう尋ねられた。
どこへって……
その時の私は本当に精神的にヘトヘトだった。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞めてしまい、精神どん底のままひとまず日本を離れようと海外に旅に出たのだった。
外国に行けば自分を変えられる。
そう思っていた。
日本にいた頃の私はとにかく常にマイナス思考で、いつも心の奥底で生きづらさを抱えて過ごしていた。
なんだ、この違和感は。
どこにいても自分はここには存在しないような空気に包まれ、友達との会話にも全く入ることができずにいた。
飲み会の席にいても友人たちの会話についていけず、いつもぐったりとしてしまう自分がいたのだ。
自分の居場所はどこなのだろうか。
自分の居場所は日本にはない。
そんな後ろめたさを常に抱えながら生きていた。
「もうどうにでもなれ」
新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、いきなり暇になってしまった私は、海外に飛び込んでみることにした。
学生時代には何度か海外旅行をした経験はあるが、一ヶ月以上の旅をする経験は初めてだった。
海外に行けば自分を変えられる。
きっと自分の居場所が海外にはあるはずだ。
24歳にもなって私はようやく自分探しの旅に出る決心をしたのだった。
ひとまず物価が安い東南アジアに行こう。
そう思い、私はタイ行きのチケットを買って、東南アジアに向けて旅立つことにした。
約一ヶ月近くかけて東南アジアをぐるっと回って、いろんな人たちと出会った。
タイのゲストハウスに一ヶ月以上こもっている人。
日本を離れ、2年近く外国を放浪している人。
みんなどこか日本に居心地の悪さを感じ外国に旅に出てきた人ばかりだった。
そんな人たちと会話をしながらも、心の奥底で思ってはいけないようなことを感じていた。
この人たちは日本から逃げてきた人たちだ。
外国に放浪の旅に出ている人たちはみんな独特で面白い人たちばかりだ。
だが、どうしても外に刺激を追い求めているばかりで、本人の中身はどうなのかといったら空っぽな気がしてならなかった。
この人たちは日本から逃げてきただけだ。
そう感じていた自分も日本から逃げてきただけだった。
いつも人のことをバカにしていて、自分はなんてカッコ悪いんだろう。
海外に行けば自分を変えられると思っていた。
しかし、日本で居心地の悪さを感じていても、世界中どこに行っても、自分の中の価値観は変えられずにいた。
この人を見下す視線をなくしたい。
人よりも上に立って、いつか何者かになれると考えている自分をなくしたい。
そう思っていたものの、実際の自分はただの弱虫で、意気地なしだった。
どこに行っても自分の性格は変えられない。
自分の居場所は一体どこなのだろう。
そんなことを思っていた時、とあるカメラマンと出会った。
その人はいつもフィルムカメラを抱えていて、いい景色を見た瞬間、いつもファインダー越しに世界を眺めているような人だった。
その人は私にこう言った。
「カメラを持てば、世界が変わって見える」
どういうことだ?
私は正直そう思ってしまった。
学生時代には映画漬けの日々を送っていたので、私はもともとカメラには興味は持っていた。
あの独特のフィルムカメラ特有の空気感といい、身の回りの景色を切り取っていくカメラマンの視線というものにとても憧れは抱いていた。
しかし、カメラとなるとレンズ代も含めて結構な値段になるので、どうしても手を出すことを躊躇してしまう自分がいたのだ。
その人は何度もこう言った。
「君はカメラを始めたほうがいい。カメラを持てば人生が変わる。世の中の見方が変わってくるよ」
本当かな。
私は半分疑いの目を持ちながらもファインダー越しに見える世界に憧れを抱きながら日本に帰ることにした。
日本に帰ってからは大変だった。
海外ではバックパッカーという謎の肩書きだけで、世間的にはなんだかかっこいい人みたいなポジションにいれたが、日本に帰ると、ただのプー太郎のフリーターである。
すぐに職など見つかることはなかった。
それでもなんとか転職活動を繰り返し、内定をもらえた会社を見つけた。
その会社はカメラを扱う会社だった。
なんだかバックパッカーをやっていた時に出会ったカメラマンの人の言葉が脳裏にこびりついていたため、気がついたらカメラ関係の会社に辿りついたのだった。
「カメラを持てば世界が変わって見えるよ」
その言葉がずっと脳裏にこびりついていた。
結局、お金を貯めるのに8ヶ月以上かかったが私は念願の一眼カメラを手に入れた。総額16万以上に出費である。
カメラを買った日から、早速私は写真を撮るばかりの生活が始まった。
どこに行くにもカメラを持っていく。
仕事中も上司にバレないようにシャッターを切る。
そんなカメラ漬けの毎日だ。
今になって、あのカメラマンが入っていた言葉の意味が分かり始めていた。
カメラを使うようになって気が付き始めたこと。
それは世界の切り取り方だった。
カメラはライティングにとても似ている。
自分の身の回りの風景を切り取ってコンテンツに昇華していく作業だ。
身の回りの風景をどう切り取るかは自分次第なのだ。
私は日本にいた頃、いつも居心地の悪さを感じていた。
どこに行っても自分の居場所はここじゃない。
きっともっと自分を認めてくれる場所があるはずだ。
そんなことを思い描き、常に宙に浮いて浮足立っていた気がする。
なんでこの社会はこうも生きづらいのだろうか?
そんなことを常に感じていた。
しかし、社会は生きづらいと思っている人にとって、社会がそう見えるだけなのだ。
自分のファンダー越しに見える世界をどう見つめるかは、常に自分次第なのだ。
この社会をどう切り取ってみるかは自分次第。
そのことを、カメラを手に取るようになってから、ひしひしと感じ始めた。
やはりあのカメラマンが言っていたことは正しかった。
「カメラを持てば、世界が変わって見えるよ」
実体験をもとにしたほぼフィクションです。
少し前まで、〇〇にならなきゃいけないもんだと思っていた
「少し映画のことから外れようか」
私の目の前に座っている就活アドバイザーの人にそう言われた。
その時、私は行き詰っていた就活に嫌気がさし、友人の紹介もあって、とある就活マネージメントをしている会社を訪れていた。
その会社はイケイケのベンチャー企業で、あたかも就活のエージェントって感じのバリバリの営業マンがいっぱいいた。
私は基本的にのほほんとしている性格なので、そう言ったバリバリの仕事人っていう感じの人はあまり得意ではない。
だけど、二進も三進もいかない就活を誰かに話して、自分のダメな部分を掘り起こさなきゃと思い、意を決して、就活エージェントと呼ばれる就活のプロの人を訪ねたのだ。
エージェントの人とは、30分以上面談していたと思う。
自分がこれまで何をしてきたのか。
これから自分が何をやりたいのか。
そう言ったことを事細かに話していった。
「ひとまず、映画から外れようか」
そうエージェントの人に言われてしまったのだ。
私は大学では自主映画を作ってきた。
これからもマスコミなどの会社に入って、ものづくりに携わりたい。
人と違った生き方をしたい。
そう言った内容のことを、映画を作りたいという軸を持ってエージェントの人に話していったのである。
その一方で、大学時代に経営やブランディングに興味を持っていた関係で、マーケティングを一から学べる会社のことを調べていたのだ。
自分の軸があやふやなことはわかっていた。
映画が大好きだが、本当に自分が何をやりたいのかはさっぱりわからなかったのである。
そんな軸があやふやな状態で、「自分はあれもやりたい、これもやりたい」と話していたので、エージェントの人も頭を抱えていたのだと思う。
「もっと自分の棚卸しをしていった方がいい」
その時はそんなことをアドバイスされた。
私はその後も、自分のやりたいことがよくわからないまま就活というゲームを続けていった。
自分は〇〇になりたい。
せっかくの人生だから、自分の好きなように生きよう。
そう思い、自分がやりたいことを必死に探して行ったのだ。
〇〇にならなきゃいけない。
人と違う生き方をしなければいけない。
そんな思いにかられて、身動きが取れなくなってしまった。
自分がやりたいことって一体何なんだ?
自分探しを続けても私は全く自分のやりたいことなんてさっぱりわからなかった。
映画を作りたいという思いは、ずっとあったが、その世界に飛び込んでいく勇気はなかった。
結局、就活では挫折し、社会に出てから数ヶ月間ニート生活というよくわからない期間を得て、晴れて私は4月からサラリーマンとして社会人の一歩を踏み出していった。
私はもともとサラリーマンという類の仕事が一番嫌いだった。
好きでもないのに仕事をしている。
いやいやオフィスに閉じこもって、なんだか誰のためになるのかわからない書類整備に追われている。
そんなイメージがあったのだ。
せっかくの人生だ。
社会の枠組みにはまる生き方なんてしたくない。
そう思っていた大学生の頃の私は、サラリーマンという人生を歩むことを躊躇していた。
で、実際にサラリーマンとして働くようになって、どう思ったのか。
仕事が案外、楽しいのである。
営業なんてしたくないと思っていたが、毎日のようにおびただしい書類整備や営業のデモをしていると、どんな些細な仕事でもきちんとこなしていくのは、どこか奥深いなと思えるのだ。
私の勤めている企業は、都内にある中小企業だが、社員数もそれほどなく、小さな会社であるため、案外、自分の裁量で仕事ができる面もある。
その一方で、一人当たりの負担が大きく、結構大変だったりするが……
自分なりに今の仕事に満足して、結構充実した毎日を送っているつもりだったが、
どうしても毎日のように仕事に追われているうちに、このままでいいのかと思ってしまう自分がまだいた。
自分が本来、やりたかったことはこれだったのか?
ほとんどの新卒の社会人が思うように、自分の仕事がこれでいいのか不安で仕方がない。
だけど、その一方で、くそ売りにくものを売る営業って奥深くて面白いじゃん。
と思ってしまう自分がいるのだ。
社会人をやるようになって楽しさとこんなサラリーマン人生でいいのか?
という不安で板挟みになっていた頃、私はふと思うようになった。
自分は〇〇になりたいという思いに雁字搦めになっていただけではなかろうか?
夢を追いかけている人はかっこいい。
そんな感情にかられて、叶えるつもりのない夢を追いかけて、雁字搦めになっていただけではなかろうか。
今の若い人には自己実現という呪いがはびこっているという。
ツイッターやフェイスブックを使って、自分はこれだけいいライフスタイルを歩んでいる。〇〇な自分ってかっこいいと周囲に自慢したい人で溢れかえっている気がするのだ。
そういう自分も自己実現という名の呪いに雁字搦めになり、
「どうせ入った会社も3年以内でやめるし」とか調子いいこと言って、いつも自分の理想の仕事場を探し回っていた。
自己実現しなきゃいけない。
そんな思いに駆られていた私は、意味もなく〇〇にならなきゃいけないと思い込んで、空回りしていただけな気がするのだ。
〇〇な自分は周囲に伝えたい。
いい文章をかける自分を自慢したい。
小説家になりたい。
映画監督になりたい。
漫画家になりたい。
ミュージシャンになりたい。
俳優になりたい。
そう人は〇〇になりたいと夢を大きく語る。
夢を語るのは本当に美しいことだし、全然素晴らしいことだと思う。
だけど、叶えるつもりもないのに、〇〇な夢を追いかけている自分ってかっこいいと思っている人が案外大半だったりするのではなかろうか。
夢を追いかけるって本当に難しいなと思う。
10年の下積みに耐えて、俳優になった人と、俳優の道を諦めてラーメン屋になった人ではどっちが優れているのか。
やはり、10年の下積みを耐えてきた人の方がかっこいいのか。
私はどうしてもそうは思えない。
たとえ、どんなに過酷でも下積みを耐えてきている人が優秀だなんて思えないのだ。
自分の夢を叶えられること。
それは〇〇になりたいという感情以上に、どうしても好きで続けていってしまったものがその人にとって実りあるものになっただけな気がするのだ。
どうしても好きで続けてしまうこと。
それは小説でも漫画でも音楽でもなんでもいい。
〇〇になりたいという感情以上に、どうしても好きで続けていったものが、何10年か蓄積されていって、実りあるものになる気がするのだ。
〇〇にならなきゃいけない。
そう私は思っていたが、その〇〇というものよりも、どうしても自分が好きでこれまで続けてきたものを大切にしていけばいいのではないかと最近は思うようになってきた。
小説家になりたいと思って毎日苦しみながら小説を書いても、プロの世界に入ると苦しくなるだけだと思う。
どうしても自分はこれがしたいと続けていったものが、いつしかその人に小説家や俳優といった〇〇という職業を与えられるのだと思う。
自分がこれまで好きで続けてきたものはなんだろう。
25歳になっても今だに、その答えはわからない。
だけど、好きで続けているものってなんだろうと考えたら、真っ先に出てきた答えが、書くということだった。ものを作るということだった。
〇〇にならなきゃいけないと焦らなくても、少しずつ自分が好きでやっていることを大切にしていったら、いつか実りあるものになるのではないか。〇〇にならなきゃいけないもんだと思い、雁字搦めになっていた私は最近、ようやくそのことに気がつけたのである。
いい記事を書くために生き方を変えようとするならば、まずは「服装」を変えればいいと気がついた
「いい文章を書けるようになるにはどうすればいいですか?」
私は一度、ハイパーバズを起こしているライターさんにこう問いかけたことがあった。
その人は、毎週のように1万字以上に記事を書いていき、あっという間に何万pvも達成できるような凄腕のライターさんだ。
私のような凡人には勝てるわけがなかった。
どうすればこんなに面白い記事を書けるのだろうか。
やはり才能なんだろうな。
そう思っていた。
「やっぱりあなたはすごいです。自分には逆立ちしてもかないません」
そう問いかけたところ、意外な言葉が返ってきた。
「あの……私とあなたとの差は特にありません」
え? である。
明らかに自分よりも才能があって、大量のバズを発生できるそのライターさんの言葉に驚愕受けた。
正直、差があってほしい。
才能という差があるから、自分は言い訳できると思ってしまった。
天才肌の人がいるから、自分のような凡人は、
「自分にはやっぱり才能がないんだ」
と言い訳できるのだ。
「いい文章を書くのに、もし差が出るとしたら……それは生き方ですかね」
生き方?
私は衝撃的だった。
生き方が文章に滲み出るのか。
確かにそんな気はずいぶん前からしていた。
私の周りにいるハイパーバズを起こせる人たちは皆、生き方が面白い人たちばかりだ。
誰よりも個性的で、その個性が文章にも滲み出ている気がする。
自分も個性的であらなきゃ。
そう思い、自分なりに行動はしているものの、面白い記事ってなんなんだ?
人を惹きつけるネタってなんだ?
と思ってしまう毎日だ。
生き方が面白い人が書く文章は確かに面白いと思う。
ブログなどをやっていると身にしみてわかるのだが、やはり生き方が面白い人が書くブロウが毎回面白い。
キングコングの西野さんなんてその代表例だろう。
生き方を変えよう。
面白い記事を書くためには生き方が重要だ。
そう思っていた。
しかし、生き方を変えようにもそう簡単にはいかない。
25年間生きていく中で、染み込んできた私の性格を変えようにも、そう変えられるものではないと思う。
生き方?
それって考えてみると、とても奥深くて難しい。
「お前が考えていることはいつも意味がわからない。自分なりの生き方を考え続けても意味ないじゃん!」
そう大学時代の友人に言われたことがあった。
私はその頃、本当に自分の生き方っていうものがわからなかったのだと思う。
なんだかよく分からないが、自分なりの生きがいを追い求めて、
「就活なんてしない」と豪語していたものの、あっという間に就活の時期が近づいて、周囲の荒波に巻き込まれるかのように就活というものをしていった。
就活は自分にとってとてつもないトラウマだ。
今までは、自分が世界の中心だと思っていた節もあったのだろう。
自分はいつか何者かになれる。
人よりも上に立ち、年収のいい人生を歩める。
そうどこか心のそこで思っていたのだ。
自分みたいなちょこっとクリエイティブな人間は、電通やら博報堂のクリエイターの人が拾ってくれる。
「君の考え方は独特で面白い」
と誰かが言ってくれるのを待っていたのだ。
自分の生き方ってなんだろう?
自分の生きがいってなんだろう?
そうずっと思い悩んでいた。
就活を通じて、自分は世界の中心ではないとわかった私は、それから少しずつ、変わってきたつもりだが、今でも自分なりの生き方ってなんだ? と思い悩む節がある。
自分の仕事が今だによくわかならない。
「仕事に生きがいなんて求めても無駄だ」
そう、大人はよく言うが、確かにその通りなのかもしれない。
仕事は仕事。
趣味は趣味と振り分けた方が上手くいく人が多いと思う。
だけど、私は今だに自分が夢中になれる仕事ってなんなのだろうか?
自分なりの生き方ってなんなのだろうか?
そう思ってしまうのだった。
だから、そのハイパーなライターさんから言われた言葉が妙に頭にこびりついた。
「いい記事を書けるようになりたかったら重要なのは、生き方ですかね」
確かにその通りだ。
だけど、生き方なんて今更変えられるのか?
そう思ってしまうのだ。
そんな時、いつものようにネットで記事のネタを探している時に、ふと、服装についての記事を見かけた。
「人は見た目が9割」
そうよく言われている。
話す内容よりも見た目からくる印象の方が人の記憶には残りやすいのだ。
そのため、トップエリートの人ほど、自分の見た目を重視しているという。
服装が重要なことは私もわかっていた。
だけど、服と飯には全く昔から興味がわかないのだ。
服なんて別になんだっていいだろうと昔から思ってしまうのだ。
その記事はこう書いてあった。
「その人の服こそ、その人自身の生き方が反映されている」
私はハッとしてしまった。
確かにその通りだ。
なんの服を選んだか?
その選択の一つ一つがその人自身の個性を表しているという。
そして、その服からこそ、その人自身の生き方が滲み出ているのだ。
貧しくても生き生きと毎日を全力で生きている人は、服装にもそれが滲み出てくる。
お金をかければいいってもんじゃないが、古着でもキチンとした明るい色の服を着ているのだ。
会社を起こして、これから軌道に乗り始めている人が着るリクルートスーツもキチンとしたものを着ている。
会社に毎日いやいや通っている人が着るスーツは、どこかヨレヨレだったりする。
服こそ、その人自身の生き方が最も反映されるものだ。
私はこれまで、いい記事を書くために人よりも個性的なことをしなきゃいけないもんだと思っていた。
お金をかけて趣味に投じる。
もっと人よりも個性的な生き方をしなきゃいけない。
そう思っていた。
しかし、無理して自分の生き方を変えようとすればするほど、苦しくなるものだ。
生き方を変えるのではなく、まずは服から変えればいいんじゃないか?
その人自身の生き方が最も反映してくる服をまず変えていけば、ちょっとずつだが、何かが変わってくるような感じがするのだ。
今だに全く服には興味が持てないのだが、服選びってとても重要だなと最近は思うようになった。
今度の休みの日には、どこか服を買いにでも行くか。
そう考えた週明けだった。
特別になりたいが消えたら、大切なものが見えてくる
特別になりたい。
そんなこと考えてはいけないと思っても、私の心からその感情だけは拭いきれなかった。
人よりも上に立ちたい。
周囲に自慢できる職業に就きたい。
そう思い、就活の時は意味もなく大手企業ばかり受けて、落とされまくっていた。
自分は特別な何かを持っている。
人と違ってクリエイティブな素質があるはずだ。
そう思い、信じて行動してきたと思う。
私が熱中していたのは、自主映画だった。
とにかく昔から映画狂(フランス人的に言うとシネフィル)で、浴びるように映画を見ては、アホみたいに自主映画を作ってりしていた。
特別になりたい。
その感情が私の映画作りを後押ししていたのだと思う。
私は大学の映画サークルに所属していたが、その環境では自分から「こんな映画撮りたいです!」と周囲に宣言すると、「お! あいつまた何か面白そうなことはじめたぞ」
「何か自主映画作りって楽しそうだね」といつも暇している大学生が好んで私のところに集まってきた。
私は何10人という人を会議室に呼んで、
こんな映画が作りたい。
こんな世界観を表現したい! と鼻高々に説明していたと思う。
今思うと、だいぶ痛い意識高い系の大学生だった。
映画を作っている時だけは自分らしくいられる。
そう思い、信じていた私は映画作りにのめり込んでいった。
作れば作るほど、「なんだか経済学部に変わったことやっている奴がいるぞ」
と評判が立ち、自分の周りには人が集まってきた。
今度はこんな映画を作りたい。
こんな世界を描きたい。
私は大学の図書館に一日中こもって、一介の映画監督になったつもりで、脚本執筆にとりかかっていた。
自分の夢は映画監督になること。
そう思っては、そう信じていた。
だけど、どうしてもプロの世界には行く自信がなかった。
家の近所に映画撮影所があり、アルバイトの関係で、よくCM撮影には出入りしていたが、実際の映像の世界は、かなり過酷でブラックであることは身にしみてわかっていた。
アルバイトの身分にもかかわらず、30時間労働なんてざらにあった。
まだ、撮影所のアルバイトなら給料はしっかりとしているが、フリーランスの人の現場に行くと、丸3日拘束された上で給料は3000円だったりすることはよくあった。
(フリーランスの世界では当たり前のことらしい)
特に役に立たず、照明をいじれるだけの私のような身分で3000円もらえるだけでもありがたいとは思ったが、この世界で生きていくのは正直厳しいなと思っていた。
しかし、どうしても自分の夢は諦めきれなかった。
自分の夢は映画監督になること。
そう思い、私はなおさら大学での自主映画作りに熱中していった。
自主映画なら、自分が出した企画で自分の好きなように撮影ができる。
プロの世界では、隅っこの方でただ30時間じっと突っ立っているだけの役立たずだったが、大学の自主映画サークルでは、私は好きなように自由に映画を作れたのだ。
自分がしたいように作れて、多分私は鼻高々だったのだろう。
そのまま映画の世界に飛び込もうかな。
そう思い、行動していたが、挫折してしまう。
新卒で入った番組制作会社があまりにも過酷で、ぶっ倒れてしまったのだ。
会社を辞めてから大好きだった映画も見れなくなってしまった。
あれだけ過酷だとわかっていたのに、何でそんな世界に飛び込んでしまったのか。
私は今ならわかる。
叶うつもりもない夢に翻弄され、空回りしていたのだ。
本気で映画監督になりたいと思っていたわけではなかったのだと思う。
私はただ、人よりも上に立ち、特別な人間でありたかったのだ。
映画監督というちょっぴりクリエイティブで何者かになれる職業に憧れて、空回りしていたのだ。
数ヶ月ニートを続けて、なんとか転職先を見つけ、社会復帰できたが、今でも思ってはいけないとわかってても、どうしても考えてしまう。
特別になりたい。
人と違った自分でありたい。
そんなこと考えてはいけないと思っていても、どうしても考えてしまうのだ。
そんな時、とあるきっかけで、本当の現場で活躍するプロの映画監督にちょっとお会いする機会があった。その方は、綾瀬はるか主演の映画と撮っていたりと、わりと業界では有名な方だ。
私が憧れていた本物のプロの映画監督である。
長年、私が憧れていた職業である。
実際にお会いすると、聞きたいことが山ほど出てくるだろう。
やっぱりそっちの世界に行きたいと考えてしまうだろう。
そう思っていた。
しかし、実際に会ってみると、全く違っていた。
私は何も感じなかったのだ。
あれだけ憧れていた職業なのに、実際にその世界で活躍する人と会っても何も感じなかったのだ。
私はふと、その時思った。
映画監督になりたいと思っていたのは、幻だったのかもしれない。
やはり、私はただ、特別になりたかっただけなのだ。
そのことに気がついたら、少しづつ自分がやるべきことも見えてきた気がする。
特別になりたいという感情に邪魔されて、本来自分がやりたいと思っていたことが見えなかったのだ。
今でも私は心のそこから、これがしたい。
あれがしたいと自信を持って言えるものはあまりない。
それでも、叶えるつもりのない夢に惑わされて、社会の枠組みにはまることを拒み、他人を侮辱していたあの頃の自分より、だいぶ生きるのは楽になった気がする。
特別になりたいという感情が消えると、自分にとっての大切なことが見えてくる。
私がやりたかったこと。
それはものを書くことだったのかもしれないと最近は思うようになった。
頭の中にあるイメージを形にしていく作業が死ぬほど好きなのだ。
今でも、たまに特別になりたいと思ってしまう時はあるかもしれない。
だけど、あの頃に比べると、だいぶ自分がやりたいことが見えてきた気がする。
普段Netflixで観る人でも、この映画だけは絶対に映画館で観た方がいいと思う理由
「映画は映画館で見るものだ!」
多くの映画通の人はそう語る。
確かにその通りだと思う。
私も映画は大好きだ。
できるなら映画館で観たい。
しかし、社会人をやっているとどうしても映画館に行く時間を作れない人も多い……
レイトショーで見ようとしても、翌日に仕事が入っていたら寝不足覚悟で映画館に駆け込むことになる。
それに加え、日本の映画館は一本1800円と娯楽にしては結構な値段がする。
金銭面も気にして、私は普段あまり映画館で映画を見る方ではなかった。
映画は昔から大好きだったが、もっぱらTSUTAYAのレンタルで済ましていた。
新作が公開されても
「あと、少ししたらレンタルは始まるし、わざわざ映画館行かなくてもいいか」
と思い、たいていの映画をレンタルDVDで見ていた。
生まれた時からビデオデッキやDVDがあった私たちの世代にとって、
映画は家のテレビで見るものという印象が強いと思う。
映画が大好きで学生時代には年間350本以上見ていた私でも、
ほとんどの映画をレンタルDVDで借りて、家のテレビで見ていたのだ。
それに、今の時代はもはやテレビを通り越して、スマホやパソコンで映画やドラマを見る時代だ。
朝の満員電車に乗っていると、スマホの小さな画面で映画を見ているサラリーマンを多く見かける。
みんな映画館に行くのではなく、Netflixなどを通じて映画を見るのだ。
私も何度かパソコンで海外ドラマや映画を見ることがあるが、やはり映画好きとして、なんだか腑に落ちないでいる自分がいた。
「映画はやはり映画館で見るものなんじゃないかな……」
そんな思いが心のそこにあったのだ。
そんな時、いつものように尊敬してやまない映画評論家の町山智浩さんのラジオを聴いている時、こんなことを耳にした。
「この映画だけは映画館で見なきゃいけない!」
やたらと町山さんが太鼓判を押す映画があったのだ。
なんだろう、この映画……
それは1962年に公開され、アカデミー賞7部門を総なめにした映画史に残る名作と言われている映画だった。
あの「ジュラシックパーク」を撮った映画監督スティーブン・スピルバーグも、幼少期にこの映画を見て、映画監督になる決意をしたという。
町山さんのラジオを聞いてから数週間後、私はその映画がリバイバル上映されている映画館を見つけた。
これは見に行くしかない!
そう思い、私は早速休日にその映画を見に行ってみることにした。
映画館の中はお年寄りで溢れかえっていた。
きっと若い頃に見た映画なのだろう。
1962年に公開されたにもかかわらず、今でもこんなにも多くの人を惹きつけるなんて……素直に凄いと思った。
館内が暗くなり、映画が始まった。
オープニングでは壮大なテーマ曲が流れていた。
昔の映画は、始まる前に5分ほど、テーマ曲が流れていたのだ。
私はその壮大なテーマ曲を聴きながら、これから始まる物語に胸をときめかせていた。
どんな物語が始まるのか……
テーマ曲が流れ終わり、映画本編が始まる。
私の目の前には壮大な砂漠が広がっていた。
なんだ、この映画は……
そうか……
町山さんが「この映画は映画館で見なきゃいけない」と言っていた理由はそういうことだったのか。
その映画は、まるで壮大な砂漠の中に観客を放り込むような演出が施されているのだ。
目の前に広がる壮大な砂漠を前に、私は圧倒されてしまった。
スクリーンいっぱいに砂漠が広がるのだ。
その砂漠の真ん中にぽつん、ぽつんと人らしき姿が見える。
これは凄い……
私はスクリーンいっぱいに広がる壮大な物語に夢中になっていた。
それは第一次世界大戦の時に、アラブの民のために立ち上がったとあるイギリス陸軍将校の物語だった。
民族の対立で荒れるアラブの民を団結させ、砂漠を走り回り、人々をつなげていったある偉人の物語なのだ。
私はこの映画を見ている時に、坂本龍馬の姿を思い出していた。
彼は鎖国していた日本をあるべき姿に変えるため、日本中を走り回り、人と人とをつなげて日本を変えていった。
この映画の主人公も龍馬のように国中を走り回り、対立する民族をつなげ、アラブの民のために立ち上がっていったのだ。
3時間30分もある映画だが、私は時間を忘れて見てしまった。
映画が終わる頃には、物語のスケールに圧倒され、館内が明るくなっても立ち上がることができなかった。
こんな凄い映画を作った人がいたなんて……
今の時代に見ても全く古さを感じさせない映画なのだ。
砂漠を走り回り、人と人とをつなげ国を変えていくその壮大な物語は、今でも多くのクリエイターたちに影響を与えているという。
スティーブン・スピルバーグはこの映画を見て映画監督を目指すようになり、
ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」はこの映画からかなり着想を得ているという。
「ダークナイト」や「インセプション」で有名なクリストファーノーラン監督も
この映画から影響を受けて、70ミリの横長のIMAXカメラで撮影するようになったらしいのだ。
今でも、この映画はハリウッドのトップクリエイター達に影響を与え続けているのだ。
それに歴史的にもこの映画はとても意義のある映画だと言われている。
主人公のイギリス陸軍将校は、祖国のイギリスとトルコ、アラブの三枚舌外交の板挟みになり、アラブ人達を騙す形になったため精神的に追い込まれていく。
彼が問題視していた外交条約……
それが後にイスラエル建国につながるのだ。
アラブの民のため、彼が砂漠を走り回ったその土地は、後にイスラエルになる場所だったのだ。
今、中東で起きている紛争の原因がこの映画の中でも描かれている。
歴史の間に挟まれ、翻弄されつつもアラブの民のために立ち上がったロレンス将校の物語は、ぜひ映画館で観てみて欲しいと思う。
スクリーンいっぱいに広がる壮大な砂漠を前に、きっとあなたは感服するだろう。
きっと、その感動は小さなテレビ画面で見てしまうと半減してしまう。
映画「アラビアのロレンス」だけは、絶対に映画館で見るべき映画だと思う。
旅という名の読書
「次はカンボジアに向かおう」
バンコクの安宿街、カオサン・ロードの宿で朝起きる時に、私はふとそう思った。
何も考えずに飛び込んだ東南アジア旅行。
特に行き先も何も全く決まっていなかった。
「とにかく一旦、日本を離れたい」
その一心で、私は飛行機のチケットを買い、バンコクに向かって飛び立ったのだ。
特に行き先も決めずに飛び込んでしまったため、案外、旅の間、暇な時間が多かった。
その頃はほぼバックパッカー初心者のため、旅に出たものの何をしたらいいのかさっぱりわからなかったのだ。
ひとまず、バンコクに飛び込んで、カオサンロードという安宿街に辿り着いてしまった感じだ。
「ひとまず、カンボジアを目指そう」
早朝、ゴキブリだらけの一室で目を覚ました私が決めた唯一のことだった。
このままタイ・バンコクでダラダラ過ごしていてはもったいない。
せっかく来たのだから、もっといろんな場所を巡らなきゃ。
そう思ったのだ。
決定してからは早かった。
早朝というか夜中の3時に目を覚まし、私はバンコク中心にある駅へと向かうことにした。
カオサンロードは真夜中でも騒がしかった。
世界中からバックパッカーが集まるカオサンロード。
毎晩、お祭り騒ぎだ。
欧米人が休暇でやってきては、朝までいろんな国の人との会話に明け暮れていた。
「よくもこんなにバカ騒ぎできるよな……」
私はそう思っていた。
トゥクトゥクという小型タクシーに乗って、深夜のバンコクを走り回っていると、気がついたらバンコク市内になる駅にたどり着いていた。
トゥクトゥクのおじさんにお金を払い終え、駅に降りたくと、周囲から変な異臭が鼻についた。
なんだこの臭い……
それはどこか生ゴミ臭い、悪臭だった。
駅のホームの入り口に向かうと、私は驚いてしまった。
そこには大量のホームレスが群れをなして、地面にビニールを敷いて寝ているのだ。
なんだこの光景は……
どうやらホームレスの中には、私のように早朝発の列車を待つ人もいるようだが、ほとんどの人が駅のクーラーの涼しさを目当てに集まってきているように見えた。
こんなにも格差があるのか……
急速な勢いで経済成長を遂げているタイだが、都心部では富裕層と貧困層との格差が著しく問題になっている。
富むものが出ると、自然と貧しくなる人が生まれてくるのだ。
私は世の中の不浄な原理を知って、どうしても後ろめたく感じてしまった。
よく考えれば、バンコクを歩き回っている間、常に不思議に思っていたが、綺麗な高層ビルの間に、やたらとプレハブのスラム街が横たわっているのだ。
数ブロックは綺麗な建物が並んでいるが、ちょっと裏通りに入ると、一気にスラム街になるのだ。
その光景が不思議だった。
まず、日本では見られない光景だ。
私はバンコクのホームレスと混じって、駅で寝ていると、気がついたら駅の改札口が開く時間になっていた。
どっとなだれ込むようにホームレスの人たちは、駅の中に入っていった。
駅構内はクーラーがガンガン効いていた。
涼しい……いや、寒い。
これでもかというくらいガンガン、クーラーが効いているので、逆に寒いのだ。
しかし、年寄りの人たちなどは、蒸し暑いバンコクの夜にうんざりしていたせいか、とても涼しそうにクーラーの風に当たっていた。
私が乗る予定の列車が発車する時刻になった。
タイとカンボジアの国境に向かう列車はガタガタだ。
明らか別の国から車両をもらってきただろ、と思うほど車両の種類がそれぞれバラバラなのだ。
私は硬い椅子に耐えながらも、列車に揺れて、約6時間の鉄道の旅を満喫していった。
終着駅間近で後ろにいた、チリ人に話しかけられた。
「お前、カンボジアとの国境目指すつもりか?」
「そうだよ」と答えると、よしっという感じの顔になった。
「自分も国境を目指すつもりだが、一緒にトゥクトゥクに乗ってくれないか? 国境までの距離を割り勘したら安いだろう」
私は二つ返事でオーケーした。
トゥクトゥク代を安く済ませられるとはラッキーだ。
基本的に一泊300円の安宿に泊まり歩く貧乏旅行をしてきていた。
残りの旅の資金を考えるとここは割り勘で国境まで向かう方が得策である。
列車から降りた瞬間、大量のトゥクトゥクの客引きに囲まれた。
私たちは客引きたちを払いのけ、最も安く値切れたトゥクトゥクのおじさんについて行って、国境を目指すことにした。
国境を前にすると、一気に緊張が走ってきた。
私にとって初めての国境越えである。
日本という島国で生まれ育った私には国境という考え方がよくわからなかった。
ある地点を越えたら国も文化も変わるのだ。
一体どんな感じなんだろうか。
軽く緊張している私を見て、隣にいたチリのバックパッカーの人が話しかけてきた。
「お前、国境を越えるの初めてか?」
「そうだ」と答えると、
「とにかく何も考えずにまっすぐ進め。そうしたら、自然と境界線に着く」
私は大混雑しているタイ側の国境で立ち往生していると、そう話しかけてくれたのだ。
とにかく、まっすぐ進めばいいのか。
税関でパスポートを見せ、私は国境に向かって歩いて行った。
どんな景色が広がっているのか。
私はタイ側とカンボジア側にある、境界に位置する大きなアーチ側の門をくぐり、カンボジア側に入った。
カンボジアに入った途端、すべての景色が変わって見えた。
なんだこれ!
そこはタイの文化とはまったく違う光景だった。土もどこか赤黒く、泥まみれのタクシーが国境付近に沢山停車してあったのだ。
話す言葉もどうやら違うようだ。
カンボジア人が話すクメール語は日本人の私にとって未知の言語だ。
何を言っているのかさっぱりわからない。
つい5メートル先まで見慣れたタイの光景だったのに、一旦国境の外に出ると、こうも価値観が変わるなんて……
私は国境がない日本では体験することができない国境越えをして、何だかカルチャーショックを受けてしまった。
カンボジア側の税関でパスポートにスタンプを押してもらい、私はアンコールワットを拠点とするシェムリアップという街を目指していくことにした。
チリ人のバックパッカーとはその頃になって、別れた。
「いい旅を! それじゃまたね」
お互い二度と会うことはないのはわかっているが、どうしても「また会おう」と言ってしまうものだ。
これからカンボジアではどんな旅が待っているのだろうか。
胸をときめかせながら私はシェムリアップ行きのバスに乗ることにした。
旅することは本を読むことと似ているかもしれない。
自分の価値観と一旦距離をとる行為。
いろんな価値観と触れ合って、自分自身の価値観から一旦離れるのだ。
そこには自分の人生をも変えるような刺激的な出会いもあるだろう。
その人の価値観が形成されていく読書という行為も、カンボジアで国境を越えていった感覚と似ているのかもしれない。
自分が今までに触れてこなかった価値観と出会うこと。
それは人生にとって、とてもとても貴重な経験なのだと思う。
だから、私は読書と旅だけはやめられない。
社会人をやるようになって、忙しい毎日を過ごすようになったが、暇さえ見つければ旅に出たいと思う。
今年はどんな旅に出会えるのか?
そんなことをふと思ってしまうのだ。
人生は極論すると相対性理論
「21歳を過ぎてからの20代はあっという間だよ」
大学一年の頃に、サークルの先輩にそう言われたことがあった。
その時、私は確か、大学を入学したての19歳だ。
20代はあっという間なのか……とぼんやりとイメージしていたと思う。
そして、あっという間に20歳の成人式が過ぎて、21歳になった。
21歳を過ぎてから、薄々と感づいていた。
時の流れ、早い……
自分の感覚的な部分もあるだろうが、20代は21歳を過ぎた途端、猛烈な勢いで、過ぎていくような気がする。
21歳になると、大学に行った人は就活を始めるようになり、ほとんどの人が社会人になっていく。
その頃になると、自分の可能性にも気付き始め、目の前に横たわる社会の荒波の中に飲み込まれていくことになる。
多くの人が社会の枠組みの中に、うまく染まっていくことになるだろう。
そして、フリーランスや自由を追い求めて、ノマドワーカーっぽい遊牧民になる人も出てくる。
私はと言うと、自分が選べる選択肢の狭さにうんざりして、身動きが取れなくなってしまった。
自分にはもっと何かすごい素質がある。
何かクリエイティブな才能があるはず。
自分は何者かになれるはずだ。
そう思い、就活という人生の選択肢の場面で動けなくなってしまった。
21歳にもなると、自分が選べる職業の選択肢も狭まってきてしまうものだ。
フィギアスケート選手やら宇宙飛行士やら、小学生の頃は自分の可能性や夢を道徳の授業で発表させられていた。
あの頃は目の前に横たわる未来に胸をときめかせていたと思う。
だけど、21歳にもなると、さすがにそこから野球選手になるのは厳しくなる。
文系に進んだ人は、理系の職業に就くのは難しくなる。
ちょっとずつ、自分の可能性を棚卸ししていった先に、就職という選択肢が横たわるのだ。
私は全く自分がやりたいことが何なのかわからなかった。
大学時代には自主映画を撮ったりしていた時期があったが、そういった映像の世界は厳しくて、飛び込んでいく勇気がなかったのだ。
何気なく歩んできた人生の選択肢の棚卸しを全くしてこなかった私は、21歳を過ぎてから全く身動きが取れなくなってしまったのだ。
どこに向かって歩けばいいんですか……
そう思い、悩み苦しんでいた。
そうこうしていくうちに、あっという間に24歳になった。
あと1日で25歳にもなる。
今となって、猛烈に大学時代に言われた先輩の声を思い出す。
「21歳を過ぎてからの20代はあっという間だよ」
本当にあっという間なのだ。
21歳を過ぎてから、猛烈に人生の体感時間が加速していった気がする。
よく考えらば、人生において20代はめちゃくちゃ重要だと思う。
自分のこれからの人生をどう歩んでいくか、20代の10年間でほぼ決定してしまう。
あるものはミュージシャンになりたくて、そういった世界に飛び込んでいく人もいるだろう。
あるものは就職をしてサラリーマンをやる人もいるだろう。
結婚などもほとんどの人が20代でしてしまう。
私は何の縁か一番やりたくなかったサラリーマンを今しているが、ずっと心の中でもやもやを抱えていた。
会社や仕事に不満があるわけではない。
だけど、このままでいいのか……
とどうしても考えてしまうのだ。
自分の人生の選択は良かったのか。
社会人になり、毎日の仕事に埋没していくと、どうしても自分が本来やりたかったことを見失ってしまうものだ。
月曜日から金曜日まで、仕事で忙しくしているとあっという間に時間が過ぎていく。
就職してから気がついたが、こんなにも社会人の体感時間は短いものだとは思わなかった。
本当にあっという間に時間が過ぎていく。
このままではあっという間に30歳になってしまうぞ……
そう思えてきて、仕方がない。
人生の体感時間の速さを猛烈に痛感し始めたこの頃になって、私はあることを思った。
人生をどれだけ楽しめるかは、自分が使った時間の濃さに比例するのではないのか?
人の体感時間にもアインシュタインが定義した相対性理論が当てはまると思う。
光速で移動する物体は、時間の進みが遅くなるということを定義した相対性理論によって、私たちの生活は支えられているという。
カーナビやスマホの電波を飛ばしている衛星は地球の周りをものすごい速さで回っているが、相対性理論によって時間のズレを計算できるのだ。
光速で移動するほど、時間の流れがゆっくりになる。
それは人にも当てはまると思うのだ。
光速と言わずとも、ものすごい速さで動き回り、自分が熱中していることに取りくんでいる人は、感じている時間も濃厚でゆっくりと流れていると思う。
私にも感じる節があった。
多くの人が大学時代はあっという間だというが、私にはとても長い時間だった。
私はその時、アホみたいに自主映画を作っていた。
大学に10リットルの血糊をばらまいてゾンビ映画を作ったりと、ヘロヘロになりながらも自分がやりたいことをやりたいだけ取り組んでいた。
その時に、感じる時間はとてもゆったりだった。
毎日、目の前の撮影に無我夢中になり、キャパオーバーしながらも、手探りでやっていったのだ。
人間は好きなことに熱中していると感じる時間もゆっくりになる。
どれだけ有限の時間をより濃く使えるかが大切な気がするのだ。
自分が使える時間には限りがある。
そのことを忘れてはいけないのだと思う。
私は社会人となって、いろんな挫折を味わう中で、今ライティングにはまっている。
わりと本気でプロのライターとして生きていきたい。
プロのクリエイターとしてやっていきたい。
そう思うようになり、この頃は毎日なんやかのものを書く習慣をつけていった。
本1冊をかけるスキルを身につけようと、5000字以上をかけるようになりたいと思っている。
書いている時は、目の前のことに無我夢中になって、時間が過ぎていくことも忘れてしまうのだ。
書くということだけが、今の私にできることだと思う。