ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

社会の歯車に自分を合わせるということ

 

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「あ……これで自分も社会の歯車の一部分になるのか」

就活を終えた大学4年生の時、周囲にこんなことをいう人が多くいた。

 

よく考えると日本の大学生って人生で一番自由が効く期間だと思う。

映画館や美術館に行っても学生料金で入場できるし、休みは異常に長いし、

勉強の方は、理系は大変だけども、文系なら期末試験前にちょろっと勉強すれば留年することはまずない。

 

大学生ほど自由な人種はいないんじゃないか? 

と思うくらい自由である。

自分の知り合いは

「日本の大学生って人生の有給休暇だよね」と言っていたが、その通りだと思う。

自分もその4年間というぬるま湯に浸かり、のほほんと過ごしていた。

 

日本の大学は入学するのは大変だが、卒業するのは簡単だという。

 

その一方で海外の大学は入学が簡単で、卒業するのが大変らしい。

アメリカの大学生となると、卒業するために必死こいて勉強するという。

 

日本の大学生というぬるま湯にどっぷりと浸かっていた私は自由気ままな大学生活を楽しんでいたと思う。

 

授業がない日は一日中アルバイトをしていたり、映画ばかり見て過ごしたり、

社会人になった今考えると自由な時間がありすぎて、信じられないくらい暮らしをしていたと思う。

 

 

このぬるま湯にどっぷりと浸かっているせいか、いざ社会に出る四年生の時期になると「一生大学生をやっていたい」と思う人も出てくるのかもしれない。

 

自分も実はそうだった。

自由が効く時間が愛おしすぎて、社会に出ることが嫌で仕方がなかった。

 

「学歴があればいい就職先にたどり着ける」という誰が決めたのかわからない社会のレールに乗っかり、ずっとレールの上を歩いていただけなので、いざ自分の進路を決める段階になると何をすればいいのかわからなくなってしまった。

 

今思うと、どのレールに乗っかるのも、どんな選択をするもの全て自分の責任である。

 

だけど、当時の自分はとにかく社会のせいにして逃げ回っていた。

今まで自由気ままに過ごしていたけど、大学4年生という時期になるといきなり進路を決めろという。

一体、どうすればいいのか?

 

そんなことを思い、「こんな社会を作った大人たちが悪い」と思い、社会人になることから逃げていた。

 

フリーランスノマドワーカーという今はやりの自由な時間を使える仕事に就く勇気もなく、周囲に流されるように就活をして、自分もしっかりと社会の枠組みにはまるように努めていった。

 

大学を卒業して、就職先に選んだテレビ製作会社は、本当に申し訳ないけど、ただなんとなくで決めた。

昔から映画が大好きで、ちょっとでも映像に関われることに携わればいいと思い、選んだ場所だ。

「社会人になるのは嫌だけど、自分が好きなことだったら続けられるだろう」

そう思って決めたことだった。

 

本当に考え方が甘かった。

 

5日寝ずに働いて、ぶっ倒れてしまった。

辞表を提出した記憶がないほど、当時はノイローゼ状態になってしまい、気が付いたら会社を辞めてしまっていた。

 

一日中家で寝込み、社会との接点を一切無くした時期が続いていた。

当時は本当に死にたいと思っていた。

 

新卒で入った会社を数ヶ月で辞めてしまったという後ろめたさで、人と会うことですら怖くなってしまった。

 

なぜ、自分は社会とうまく折り合いがつけられないのか?

そう自問自答して、ずっと世の中を彷徨い歩いていた。

 

自分にふさわしい場所はどこなんだろうか?

 

当時そう感じていたこともあり、今ついている職場では、当時の恨みを晴らすべく死ぬほど働いていたりする。

 

「お前、いくらなんでも働きすぎじゃねぇか?」

と上司の人に何度も言われる。

 

「自分の居場所はどこなのか?」

 

1年前にそう悩み、ずっと世の中を彷徨い歩いていた自分を思い出したくなくて、今は仕事に没頭しているのかもしれない。

一年以上かけて、ちょっとずつ社会と折り合いがつけられるようになってきたが、今でもよく当時のことを思い出してしまう。

 

本当に今の世の中は価値観が多様すぎて、選択肢が多すぎて、自分というものをうまく周囲に合わせるのが難しくなってきている気がする。

 

SNSを開けば、同級生たちの幸福な姿が映し出され、他人と自分とを簡単に比較できてしまうので、強烈な嫉妬心を抱いたりしてしまう。

 

なんか便利にはなったんだけど、生きづらい世の中にもなった気もする。

 

そんな中で、ふとこの本と出会った。

暮しの手帖で編集長をやっていた松浦弥太郎さん著の「即答力」である。

本屋でふと見かけて、最初の一行がとても気に入ってしまい、即決で買ってしまった本だった。

 

「成功の反対は失敗ではなく、何もしないことだ」

 

著者の松浦弥太郎さんは若い時にアメリカを旅していたが、その時に強烈にこの言葉の意味を考えたという。

アメリカという社会は日本以上にコミニティーに入るのに、自己主張が必要となる。自分と社会と折り合いをつけるために、嫌でも自分の意思を周りに伝えていくことが必要になったという。

 

とにかく自分の殻を破って、コミニティーに入ったら世界が一気に広がった。

と著書には書かれてあった。

 

社会のニーズに合わせることは困難かもしれない。

それでも、少しずつ社会の歯車と自分の歯車を合わせて行った著者の努力がこの本の中には書かれてあった。

 

一週間ぐらいかけてこの本を少しずつ大切に読んでいったのだが、電車で読んでいると心が揺れ動く言葉がたくさん出てきた。

今でも自分がきちんと社会の歯車になって、きちんと動けているのかはわからない。

だけど、この本を読んでからどこか心の奥底がすっきりとした気がする。

昔の自分のように居場所を探し求めている人が読むのもいい。

社会と自分の歯車がうまく合わせられずにもがき苦しむ人が読むのもいい。

 

きっと自分と社会との接点について多くのことを考えさせるはずだ。

 

 

 

 

 

紹介したい本

「即答力」 松浦弥太郎

 

伝えたいときに伝えたい言葉が出てこないもの哀しさ

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「この人には会わなきゃ」

直感的にそう思った。

 

どこだったかよく覚えていないけど、駅の掲示板に貼られていて今話題のドラマの広告用写真を見て、衝撃が走ったのを覚えている。

 

なんだこの写真は。

世の中に絶望していた少女の眼差し。

 

なぜだかわからないけど、自分が心の奥底で抱いていたもの全てを目の前で表現されている気がした。

 

この写真を撮った人は誰なんだろう。

そんなことを思いながら、日々を過ごしていると、人間の思考回路って不思議なもので、注意がいっているものには自然と目に入るようにできているらしい。

 

普段はフェイスブックのタイムラインはあまり見ないのだけど、

終電近くの電車の中で、仕事で疲れ切ってクタクタのまま、ふとタイムラインを眺めていると、その写真のことが書かれた記事があった。

 

この写真を撮った人は一体誰なのだろうか?

ただ、興味本位でその記事を読んでいった。

 

 

その方はもちろんのことプロのカメラマンである。

それもプロ中のプロのカメラマンである。

多分、日本でいるカメラマンの中だと本当にトップ10に入る凄い人なのだろうと思う。

 

自分みたいな写真のど素人が見ても「この人が撮る写真、凄い!」

と衝撃が走ってしまった。

 

何かの縁で、つい先日この写真を撮ったカメラマンさんとイベントでお会いする機会があった。

 

「とにかく、この写真を撮った人に会いたい」

ただ、その一心だった。

 

昔から、何も考えずに「とにかく飛び込んでみよ」精神で育ってきたこともあり、

ひとまずイベントに飛び込んで見ることにした。

正直、本人と会うまでは緊張しすぎて、近くのコンビニのトイレに数分こもっていたりしたが、カメラマンさん本人を目の前にすると、なぜだか緊張の糸がほぐれてす〜と会話ができてしまった。

 

やっぱりプロのカメラマンさんだから、人を惹きつける不思議な魅力があるのか?

周りに集まってくる人も独特で、普段だと出会えないような刺激的な人ばかりだった。

 

不思議な空気の中、会話が進んでいった。

普段、私は全く人と話すのが苦手である。

 

人がいっぱいいる場所、特に飲み会などにいると会話の流れについていけず、

疲れ切ってしまう。

ちょっと対人恐怖症みたいな部分がある。

 

だけど、そのカメラマンさんを目の前にするとなぜかよく分からないが、普段頭の中で考えていることがどっと溢れてきて、止まらなくなってしまった。

 

 

言葉が溢れてきてしまうのだ。

だけど、きちんとした文脈になっていない。

 

頭の中にある思いとか考えをきちんと目の前の相手に伝えたいのに、

整理しきれていないことが自分でもわかった。

 

モヤモヤのまま、とにかく日頃自分が考え、感じていることを相手に向けて喋って行く感じ。

 

自分でも伝えたいが湧いてくるのに、きちんとした文脈で伝えきれず、目の前で言葉が滑り落ちていくのがわかった。

 

あまり、きちんと物事を考えきれてないんだな。

そんなことを感じている時、「君の写真見せて」と言われた。

 

恥ずかしながら、パニックになりとっさにスマホに保存してあった自分が撮った写真を数枚見せた。

 

反応は案の定薄かった気がする。

そうだよな。

プロ中のプロカメラマンの方に自分の拙い写真を見てもらっただけ幸運と思った方がいい。

自分の才能のなさを痛感するとともに、「とにかく人を撮る方がいい」と伝えてくれたそのカメラマンさんはこんなことを言っていた。

 

「自分が相手をどう見て、相手とどんな関係であるのか?」

 

日本だと、可愛い女の子を背景が真っ白でボケが決まっている、

可愛らしい写真を撮ることが好まれたりする。

それはそれで一つの正解なのだけども、同じような写真が大量に溢れかえっている。

 なんか正しいような違うような感覚が前からあった。

 

「自分が相手をどう見て、どんな風に相手を見ているのか?

相手の奥底まできちんと理解していないといい写真は撮れない」

そんなことをカメラマンさんは言っていた。

 

 

自分が今まで、どれだけ浅はかな写真を撮っていたのかを痛感してしまった。

普通に可愛い子が目の前にいたら、85mmの単焦点を解放にして、背景をぼかして撮影すれば、それっぽい可愛い写真は撮れる。

 

だけど、可愛いだけで、ただ目の前に広がるSNSの洪水に消費されていくだけの写真になってしまう。

 

 

「自分が相手をどう見て、相手とどんな関係なのか?」

それは写真に自然と現れてくるのだという。

 

なんだかんだ6時間以上お話しさせていただいた。

ヘロヘロになりながら家に着く前に、紹介していただいたアニー・リーボヴィッツドキュメンタリー映画TSUTAYAでレンタルした。

 

お恥ずかしながら現代写真家のアニー・リーボヴィッツを知らなかった。

完全に勉強不足だ。

 

夜中に偉大な写真家のドキュメンタリー映画を観ていると、アニー・リーボヴィッツという伝説の写真家のエネルギーに圧倒されてしまった。

とにかく写真が死ぬほど好きなことが画面から伝わってくるのだ。

 

「あ、自分ってこんなに写真を好きになれるのだろうか?」

 

そんなことを感じながら映画を見ていくと、カメラに向かってこんなコメントを述べている箇所が印象に残ってしまった。

いい写真を撮る秘訣に関して、アニー・リーボヴィッツはこう述べていた。

 

「私は相手の懐深くまで潜り込んで、写真を撮る」

とにかく、相手のことを深く深く理解しようとするのだという。

 

昨日、衝撃を受けたプロカメラマンさんにお会いしたのだが、その時言われた言葉を思い出した。

「相手のことをきちんと理解しているのか?」

 

 

まだ、頭の中が多分整理しきれていない気もするが、とにかくその時感じたことを言葉に残そうと今必死になって文章を書いている。

私がプロ中のプロカメラマンさんと実際にお会いして学んだのは、いい写真の構図でもなく、プロのカメラマンになる方法でもなかった。

 

「人ときちんと目を見てコミュニケーションをしているのか?」

そんなことを学んだ気がする。

 

 

普段人と話をしていても、

「この人はこういう職業についているから、こういう人だ」

「この人は一瞬、目を離したからきっと自分の話に興味がないんだろう」

と勝手に第一印象や相手のしぐさが気になってしまい、自分の思い込みによって相手を判断してしまう。

 

物事を自分の目線だけで勝手に決め付ける癖って自然と写真とかにも現れてくるのだろう。

 

相手のことをきちんと理解しているのか?

自分がどれだけ人ときちんと向き合っているのか?

そのことってとても大切なのだと思う。

 

 

この人を見て、こう感じた。

こういうことを周りの人に伝えたい。

伝えたいことがあるのに伝えたい言葉が出てこなくて、悔しい思いをしたことが何度もある。

何か人に伝えたいことがあるのに、それが何なのかわからずにモヤモヤとした気持ちがずっとあった。

 

だけど、そのカメラマンさんと会ってから少しその霧も晴れた気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生き方は水の流れのように

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「選択肢が多すぎて、価値観が多様で、自分というものを保てない」

ブログを書き始めて、一年ちょっと経つが、細々と書き続けているうちに、

本当にありがたいことにコメントをいただけるようになった。

 

 

最近は、あまりの仕事の忙しさに書くことをサボり気味であるが(反省しています)、結構前に書いた記事についてコメントをもらえることがある。

 

そのコメントを読むうちに、

「あ、このころはこんなことを感じてこの記事を書いていたんだな」

「この記事を読んで、こんなことを感じた人がいたのか……」

と感慨にふけったりしながら、涙が出そうになったりする。

 

そんな中、いつものようにように終電近くの満員電車に乗っていると、

ブログのコメント欄に書かれてあったこの言葉がす〜と脳裏に焼き付いてしまった。

 

「選択肢が多すぎて、価値観が多様で、自分というものを保てないんです」

 

なんかとてもズシンと心の奥底にくるものがあった。

自分が大学生の頃に感じていたこと、社会人になるようになり常日頃から感じていたことがこの一文に書かれていたのだ。

 

 

「選択肢が多すぎる」

多分、このコメントを書かれた方は自分と同世代なのだろう。

SNSの台頭で、人とのつながりも変化して、いろんな情報が殺到している現代社会でやっぱり自分と同じことを感じている人もいるんだと正直、思ってしまった。

 

選択肢の多様化……

 

 

特にこのことを強烈に感じたのは就職活動の時だった。

 

サイトにアップされている会社情報を見て、何をどう選んだらいいのかさっぱりわからなかった。

 

何でこんなに選択肢があるのだろうか……

 

 

今思えば、どの会社に就職するのか?

どんな生き方をするのか?

 

それを選ぶのは自分自身の問題なのに、当時の私は

「こんなルールを作った社会が悪い」と社会を罵っては、投げやりになりながら就職活動を続けていたのだと思う。

 

一体自分はどんな方向に進めばいいのか?

あまりにも膨大な選択肢の中から身動きが取れないでいる自分がいた。

 

結局、最初についてテレビの仕事はそそくさと辞めてしまい、

海外を放浪するふりをして、逃げてばかりいた。

 

「自分は絶対にサラリーマンなんて向いてない」

「社会人なんて向いてない」

そう思い、できるだけ遠くに逃げたい一心だった。

 

 

逃げるだけ逃げた。

だけど、結局答えなんて見つからなかった。

 

「どの方向に向かって歩けばいいのか」

ずっとその答えを捜し歩き、もがき苦しんでいたのだと思う。

 

数ヶ月ぶりに日本に帰ってきて、さすがにずっとニート生活をするのも嫌だなと思い、転職活動をしたのだが、完全に流されるままになんとか今の会社にたどり着いた感じだ。

 

「あ、再び社会人になるのか。会社勤めなんて絶対に向いてない。

営業の仕事なんて向いてない」

そう思っていたが、案外働き始めてみると、営業の仕事が自分にしっくりときていることに驚いた。

 

毎日、朝から晩まで働きづめだが、思った以上に仕事を苦痛とは感じていない自分がいるのだ。

むしろ営業の仕事にしっくりときている自分がいる。

 

「あれ、ものを売るってこんなにも楽しいことなのか?」

自分は元々、映画が大好きで、できるならそっちの映像業界で働きたいと思っていたが、業務用カメラを業界の人に売るという今の仕事が案外合っていたのかもしれない。

 

仕事をしながら、いろんな人と出会い、価値観と出会い、刺激をもらっていく感じが自分には合っていた。

 

 

生き方なんて考えだけ無駄だと思う人がいるかもしれないが、やはり人生の岐路に立たされる20代くらいの時には、自分の進路というものを嫌という程考えてしまうものだ。

 

自分はどう生きたらいいのか?

どんな仕事に就いたらいいのか?

 

25年しか生きていない自分がこんなことを言うのも恐縮だが、就職に一度失敗し、人生のどん底を見てきた経験を通じて、なんとなくだが見えてきたこともあった。

 

「悩んだら、流されてみる」

 

そのことが案外、一番大切な答えなのかもしれない。

自分が求めていることと社会から求められていることってほぼ100%違っているのだと思う。

 

「自分はこうなりたい」と思っても、周囲からは

「こっちの方が向いているんじゃないか?」と思われていたりする。

 

その自分がやりたいことと周囲が求めているものとのバランス感覚の均衡を保つことって、とてもとても難しい。

 

自分は転職活動の時、何になりたいのかさっぱりわからずにもがき苦しんで、

結局、流されるままに今の営業の仕事にたどり着いた。

 

 

喋りが下手な自分はずっと「営業なんて向いてない」と思っていたが、

元来、どこへでも飛び込んでしまう性格がある自分にはしっくりときている職種だった。

 

自分はこうなりたい。

こんな仕事に就きたい。

そう言った願望とか夢ってとても大切だと思う。

 

だけど、「夢を持って生きよう」「ありのままに生きよう」

というゆとりの教育方針を受けてきて、それにしっくりときている人もいれば、

多様化した生き方に生きづらさを抱えている人もいるのだと思う。

 

生き方って案外、水の流れのようで、流れてたどり着いた環境が自分にしっくりとくる場所だったりする。

 

ひとまず、ありのままに生きようとか関係なく、

たどり着いた環境で自分なりに頑張ってみる。

 

それが多様化した現代社会で一番大切な答えなのかもしれないなと最近は思うようになった。

 

 

書く上で一番大切なことって実はこのことじゃないのか

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「ある程度PV数が増えてくるとアンチが飛んできます」

一年前に私がブログを始めた時、知り合いのライターさんに言われた言葉だった。

 

その時、私は書くということを始めたばかりで、そのアンチが飛んでくるという言葉にピンとこなかった。

正直、アンチが飛んできてもいいじゃんとも思っていたのかもしれない。

 

自分が好き勝手に書いている文章だ。

否定的な言葉が飛んでくるのは当たり前じゃんと思っていたのだ。

 

去年の今頃はフリーターのプー太郎をしていたので、ただひたすら書く時間だけはあった。

その頃は家とアルバイトを往復した生活を送っており、家に帰っても家族から白い目が飛んできていた。

はじめに就いたテレビ局の仕事があまりにもハードすぎて、精神的に壊れてしまい、

気が付いた時にはアルバイトですら怖くて仕事が出来ない有様だった。 

大学生の頃は飲食店などの割とハードな仕事も何度か経験していたが、スーパーのレジ打ちですら怖くなってしまったのだ。

 

このままじゃ、いけない。

社会と接点を持つことを始めなきゃ。

 

そう思って、私が始めたのが書くということだった。

 

「とにかく書いて下さい。書けば人生が変わります。答えは書けです!」

 

なんの縁かでたどり着いたライティング教室で、ハイパーフルスロットルで働きまくっている店主さん兼ライターさんにそう言われ、私は書くということを始めた。

 

その頃は精神的に相当病んでいたらしく、今思うと、

とてもじゃないが恥ずかしくて読めない。

 

よくこんなこと書いていたなと読み返してみると恥ずかしくなる。

 

それでも書き続けていた。

 

書くのが面白いと思った。

 

自分の中に芽生えていた感情を相手に伝える。

そんなライティングという手段を身につけられたことは本当に幸運だったと思う。

気が付いたら自分の周りにはポジティブな人が集まってきていた。

プロのカメラマンとして生きていくと決めた人。

書くことで生きていこうと決めて、ブックライターをやっている人。

ニューヨークで日本人シェフとして活躍し、日本中を飛び回っている人。

 

書くことを始めた去年にかけて、本当に心から尊敬できる人たちと幸運にも出会えた。

 

ポジティブなことを書き続けると、自然とポジティブな人が集まってくるんだ。

そんなことを書いているうちに思ったりした。

 

本当に書くということは不思議で、ちょっとでも気分が乗らず、マイナスなことを書いてしまうと、どっとマイナスの発言をする人が集まってきたり、

ポジティブな発言をすると、今度は不思議な縁で社会でも活躍しているようなポジティブな人たちが集まってくる。

 

私は気がついたら書くのが面白くて、書いて書いて書きまくっていった。

 

 

そして、PV数もちょっとずつだけど伸びてきて、気が付いたらはじめて知り合う方にも「いつもブログ読んでますよ〜」と声をかけられるようにもなった。

 

 

その頃からだろうか。

書くのが辛くなったのは。

はじめは本当に些細なことがきっかけだった。

 

どうしてもPV数が伸びてくるとアンチなコメントが飛んできたりするが、

さすがにメールやらメッセージで直接アンチコメントを飛ばしてくるのは精神的にキツかった。

 

 

「感性が豊かで何者かになったかのように振舞っていて、読んでいて虫唾が走る」

 

周囲にトゲを発してくる人に、トゲのある言葉を返すと余計に炎上するだけだとライティングを通じて私は嫌という程痛感していたので、何も返信しなかった。

 

基本的にスルーするのが一番だが、さすがに直接メッセージやらメールを飛ばされるのは精神的にきつかった。

 

自分が書いた文章やら写真を通じて、少なからず不愉快な気持ちになる人がいるのか。

ちょっとずつPV数が増えていくにつれて徐々にそんなことを感じるようになった。

気が付いたら、人に好かれるようなことしか書けなくなっていた。

そして、書くのが辛くなってしまった。

 

SNS時代になるとほっといても人と自分を見比べる手段が多く出てきてしまう。

 

あ、あの人この上場会社で働いているのか……

この人もう結婚したのか……

 

ひと昔に比べて、自分と他人を比べる手段が増えてしまったので、いやでも承認欲求というものが膨大になってくる。

 

 

自分も毎日書いていたから、承認欲求の塊に見えていたのかな。

何者かになったように振舞っている痛いやつと思われていたのか。

 

そんなことを思うようになり、書くのがきつくなった。

人からアンチ的なコメントが飛んでくるのが怖くなり、身動きが取れなくなってしまった。

 

ちょうど同じタイミングで仕事が猛烈に忙しくなり、目の前にある大量の仕事に没頭しているうちに、気が付いたら書くということを忘れて行っていた。

 

忘れたというよりかは、書くことから逃げていたのだ。

フリーターを長くやっていたせいか、少ない給料ながらも今ついている営業の仕事が楽しくて仕方がなく、毎日誰よりも早く会社に出社し、夜遅くまで働きづめの毎日を送っている。

 

終電近くに疲れて目が死んでいる状態でも、いろいろポツポツと感情が芽生えてきている。

洪水のように溢れ出てくる感情を何かに残したい。

人に伝えたい。

そう思うが、人から批判的なコメントが飛んでくるのが怖くて、身動きが取れなかった。

 

ただ好き勝手に書くだけはもう終わりなんだな。

自分が書くことによって、少なからず、不愉快を感じる人がいるんだ。

 

書くのが怖くなり、何も書かない日が続いていった。

するとある時、こう思った。

 

 

あれ、元々自分って何のために書いていたんだっけ。

 

書くことによって、プロのカメラマンやライターさん、ベストセラー作家さんと出会うことができた。

会社経営をしていて、自分が好きなことを好きなだけやっている人たちと出会った。

好きなことを熱中して取組んで生きている人たちは、本当に目がキラキラしていた。

 

自分もそういった人たちに猛烈に憧れたのだ。

別にクリエイティブな何者かになりたいというわけではない。

 

だけど、生き生きと仕事に楽しんで取り組んでいて、周囲の人たちにパワーを与えていくような人たち。

そんな人になりたい、周囲の人たちに何か心に残るものを残したい。

そんなことを思い、私は書くことに没頭して行ったのだ。

 

 

 

書くということは鏡の前に立つことに似ている。

人前に自分の感情を見せびらかすと、人は自分をどう見ているのか?

自分は人にどう見られたいのか?

 

そんなことを嫌でも考えさせられてしまう。

 

だけど、もう人にどう見られるかよりも、自分自信を見失わないことが大切なのかもしれないと最近は思うようになった。

人に好かれる文章を書こうとしても、万人に受け入れられるものを書くことは不可能なのだと思う。

自分が書いた文章を読むことによって、少なからず不愉快を感じる人がいるかもしれない。

だけど、やっぱり自分の中に芽生えた感情を出すということ、

自分は些細な日常の中でこんなことを思って、生きていますよと人に伝えることだけはやめたくないと思う。大切にしたいと思う。

申し訳ないけどもそう思ってしまう自分がいる。

 

以前にとある人からこんな諺をもらったことがある。

この諺が好きで、よくたまに読み返したりする。

 

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」

 

英語にすると、

「One must draw the line somewhere」

 

 

君子は誰とでも調和するが、道理や信念を忘れてまでも人に合わせることは決してしないという意味だ。

 

この英語にした時の音と言葉の響きが好きで、私は昔からよく読み返すことがある。

最近になってすごくその意味がわかってきた。

 

 

 

 

 

 

松岡茉優主演の映画「勝手にふるえてろ」を観て、才能の本質=リズム感だと気付かされた

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「なんか松岡茉優がとてつもない演技していたよ」

普段、仲良くさせていただいている映画好きの方がSNSでこんなコメントを書かれていた。

 

松岡茉優

あの「桐島、部活やめるってよ」の人か?

 

私は普段、ほとんどテレビを見ないせいか、日本の芸能界で活躍している人の名前をほとんど知らない。

 

アイドルのグループとかスマップくらいしかわからない。

女優さんの名前も映画で見かけたことがある人なら、なんとなく顔がわかるくらいで、あまり自分から名前をググったりしない。

 

 

映画は大好きだけど、作品や監督自体に興味はあっても、俳優や女優さんにあまり関心が向かなかった。

 

「とにかく松岡茉優が凄かった」

やたらと自分の周りにいる映画好きの人たちが声をあげてそう語っていた。

 

話題になっていた映画は去年の年末に公開された「勝手にふるえてろ」である。

原作は最年少で芥川賞を受賞した綿矢りさの小説である。

 

正直、予告編を見る限り、あまり期待はしていなかった。

また、邦画特有の青春映画だろとしか思っていなかったのだ。

 

私は学生時代にはアホみたいに映画を見まくっていたが(年間350本)……

そのほとんどが洋画である。

なんか邦画特有の陰気臭さというか、内面をむき出して、客先に届けるというか、監督の個性と内面がスクリーンに出されている映画があまりにも多すぎて、どうも邦画は肌には合わなかった。

 

基本的に話題になっている映画は劇場に飛び込んで見るようにしていたが、

昔から「バックトゥザフューチャー」をはじめとした洋画を見て育ってきた影響か、邦画というものにどうしても抵抗があった。

 

 

勝手にふるえてろ?」

また、陰気臭い邦画特有の青春映画だろ。

そんなことを思い、全く期待していなかった。

 

しかし、自分の周りにいる人にはやたらと評判がいい。

普段、あまりそんなことをしないのだが、ネット上でググってみると、

映画を見た人の評価も圧倒的に高評価が多いという。

 

一度見ただけで満足せず、何回も繰り返してみるリピーター客が増加中だという。

 

なんだ、このリピーター客で溢れかえっている映画は……

気になって仕方がなく、休みの日に見に行ってみることにした。

 

映画館は満員だった。

公開されて二週間以上経っているのに、満員ってすごいな。

 

しかも、超低予算映画のため、東宝シネマズなどの大型シネコンでは公開されていないにも関わらず、SNSで話題になり、映画館に駆け込んでいる人が増えているという。

 

 

人でごった返している渋谷の映画館の座席に座る。

時間になると本編が始まった。

 

周囲は若いカップルと映画好きのおじさんでごった返していたが、私は目の前のスクリーンに集中した。

 

 

とにかく面白いのである。

笑えるのである。

 

主演を演じる松岡茉優の演技といい、会話のテンポが凄すぎて、一瞬も見ていて飽きないのだ。

 

明らかに監督とディスカッションをしながら、楽しく、おかしく、撮影して行ったのだろう。

 

ところどころで笑いが散りばめられていて、会場は爆笑の嵐である。

自分も正直、映画館の中でここまで爆笑したのは初めてだった。

 

 

ものすごいセリフ量をものすごいスピードで話しまくる主人公の女の子の姿を見ていると、ずっと会話のテンポに追いつくことに必死で、見ていて一瞬も飽きない。

 

内面に生きづらさを抱えて、必死に生きている拗らせキャラの主人公を見ていると、自分と重なって見えてきてしまい、なんだか応援したくなるのだ。

涙が出てくるのだ。

 

ところどころに笑いがはさまれ、それに加えてシリアスなトーンに切り替わる。

 

私は終始、この映画を見ていてこう思った。

 

「よく、この映画ちゃんとした形になっているな」

 

コミカルなシーンと妄想なシーンがテンポつながっていて、普通だったらとても見づらいはずなのに、とにかく次の展開が気になって仕方がないのだ。

 

テンポがあまりにも良くて、見ていて心地よくなってくるのだ。

 

しかも、前半のコミカルなシーンを残しつつ、後半はきちんとシリアスな雰囲気になってくる。

24歳で都会の孤独に疲れ、妄想の世界に逃げ込んでいた女性が必死にもがきながら、懸命に生きて行く姿に涙が溢れてくるのだ。

 

 

映画が終わった瞬間、こう思ってしまった。

「もう一回見たい!」

とにかくあまりにも映画が面白すぎて、再び見たくなってしまうのだ。

リピーターが多いと聞いていたが、それも納得である。

 

自分のようにSNS時代に生きづらさを抱えている人にとって、共感できるシーンが多いと思う。

 

私は映画を見終わった後、帰りの電車の中でふと思った。

あれ? なんであんなに見やすかったのだろう。

 

とにかくテンポが早くて、スピード感がある映画なのにとてつもなく見やすいのだ。見ていて心地よいのだ。

 

 

あれ、これってもしかして松岡茉優の独特なセリフ回しのおかげじゃない。

 

あまりバラエティ番組は見る方ではないが、何度か主演の松岡茉優がバラエティで出ているところを見かけたことがあった。

 

やたらと独特なテンポで喋る人だなと思っていたが、このテンポ感が明らかに映画全体を支えている感じがあったのだ。

 

よく考えれば、ビートたけし明石家さんまもしゃべりで一番大切なのは「間」だと言っていた。

 

独特なリズム感が笑いの出来を左右すると。

このリズム感って自分から生み出すものではなく、本人がもともと持っている才能の一つなのかもしれない。ダウンタウン松本人志もとにかく独特な「間」がすごいと思う。

 

この映画を撮った監督もこのことを意識していたのだろうか。

バラエティ番組で普段見せている松岡茉優の独特なしゃべり方とテンポ感が画面全体に澄み渡り、しかも、監督が意図的にリズム感をなくさないようにシーンをつなぎ合わせていたりする。

 

とにかくテンポ良く次々と話が進んでいくので、見ていて心地よいのだ。

 

 

よく考えたら全てのコンテンツの質を左右するのはこのリズム感なのかもしれない。

私は普段、カメラで写真を撮ったりしているが、ある女性プロカメラマンに

「写真を撮る時はリズムというものを大切にしてくだいさい!」

と言われたことがあった。

 

最初は、なんで写真なのにリズムが大切なのだろうと思っていた。

 

しかし、毎日写真を撮るようになってから、いかに自分の中にあるリズム感というものが写真に影響を与えるのかがなんとなくだけどわかってきた気がする。

 

ポートレートなどを撮っていると身にしみて感じるのだが、

自分の中に持っているリズム感と、被写体が持つテンポ感が重なった時、異様にいい写真が撮れたりするのだ。

 

なんか相手のリズム感にあわせて写真を撮っている感じ……

この感じがたまらなく好きで、自分は写真を撮ることが好きなのかもしれない。

 

この誰しもが持っているはずのテンポ感、リズム感。

才能がない私が言うのも恐縮なのだが、リズム感こそその人の才能を左右するし、出来上がったコンテンツの質を大きく左右するのだと思う。

 

 

 

勝手にふるえてろ」の主演を演じきった時に出てきた松岡茉優の独特のテンポ感は正直、努力で培うものではないと思う。

もはや才能なんだなと見ていて思ってしまった。

 

とにかく「勝手にふるえてろ」。

半端なく面白かった。

 

こんなに面白い映画久々に見た感じだ。

 

 

 

 

 

 

私たちはもっと日本古来のものから学ぶことがある気がする    

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「これはスティーブ・ジョブズが生前愛読していた本です」

大学時代、とある授業で先生がそう語っていた本をよく思い出す。

 

私は学生時代、基本的に授業中寝てばかりいたが、その先生の授業だけは真剣に聞いていた。

 

私が通っていた大学はギリギリなんとかMARCHという肩書きにすがりついているような大学で、自分が言うのもなんだが、授業を真剣に聞いている人もあまりいない大学だった。

 

私も学生時代は授業をサボって図書館にこもり、映画ばかり見ていて、

今思うと相当堕落した生活を送っていたと思う。

 

 

あまり真剣に勉強をする学生ではなかったが、とある授業だけは面白くて真面目に受けていた。

 

それは日本文化論の授業である。

文化論を担当していた先生は、数年前に芥川賞を受賞した作家さんだった。

(なぜ芥川賞作家の先生が、大学で教授をやっていたのかは今でも謎……)

 

芥川賞作家であり、しかも楽に単位をくれる(通称で楽単)の先生だったため、授業は全体で100人くらいの大人数が収容できる大教室で行われていた。

 

人数は多いが基本的に出席点さえカバーできれば単位が取れるので、ほぼ9割の人は寝ていた。

 

 

私も学期の前半は寝ていることが多かった。

しかし、先生が語る日本文化の根底にある、ある要素の話を聞いていると、

とても面白くなり、学期の後半は真剣にノートをとって勉強していた。

 

先生が授業中に語っていたとあるもの……

 

それは「禅」である。

 

私が授業を受けていた先生は、作家になる前は本気でお坊さんになろうと思い、

寺に入門しようと考えたことがあったという。

 

 

しかし、その後、何の縁かで小説を書くようになり、芥川賞にノミネートされたという。(その辺の経緯はあまり真面目に聞いてなかった)

 

授業中に語っていた「禅」という概念……

先生が小説家でもあることから、話は大抵クリエイティブな要素に展開されることが多かったが、とにかく日本のクリエイティブな部分と「禅」が密接に絡み合っているという話がとんでもなく面白かったのだ。

 

「禅」というとお坊さんが修行していたり、瞑想しているイメージが多いかもしれない。

私も先生の授業を受けるまで「禅」などに興味が全くなかった。

しかし、話を聞いていると日本古来から伝わる「禅」という直感的な思考法が、アップルやグーグルなどの世界トップクラスのクリエイター集団に少なからず影響を与えていることを知り、面白くて真剣に授業を聞いてしまった。

 

 

特に影響を受けてきたのはスティーブ・ジョブズだという。

ジョブズは若い時から「禅」というものに魅了され、一時期本気で京都の禅僧のもとに出家しようと考えるくらい「禅」に傾倒していたらしいのだ。

 

禅の根幹にある「雑音を捨てて、物事の本質を見抜く」という考えに相当影響されたのか、彼が作り上げたiphoneMacbookはとにかく直感的に触れて、デザインの本質的な部分を極限まで洗練されて作られている。

 

「自分の心の声を聞く」

ジョブズの人生観に多大なる影響を与えたと言われる「禅」……

 

作家でもあるその先生は、小説家などをはじめとしたクリエイティブな世界でも、いかにこの「直感力」というものが大切なのかをこと細かく生徒に語っていた。

(授業中ほとんどの生徒は寝ていたが)

 

私は「禅」を熱く語っている先生に影響を受けて、日本古来から伝わる「禅」とは何か? と興味を持ち、京都の寺に修行に行ってみることにした。

今思うと謎の行動力だ。

 

朝の5時に起き、夜の24時までぶっ通しで座禅をする生活を一週間ほど続けた。

座禅に集中しようとしても、スマホやメールなどで毎日情報に踊らされている現代人には頭の中を空っぽにすることは案外難しい。

 

 

なんとなく「禅」というものの感覚が分かり始めてきた時に、修行を終えて東京に戻ることになった。

 

今でも「禅」って何なのか?

とこと細かく語れるほど詳しくはない。

 

だけど、写真を撮るようになってから、この「禅」の本質的な部分と写真というものが思いの外つながっていると思うようになってきた。

 

 

写真も「禅」も本質的なことは「捨てる」ことだと思う。

 

目の前に見えている360度の景色のどこを切り取り、どこを捨てるのか? 

写真はファインダー越しに見える世界の切り取り方のセンスがとても問われるものな気がするのだ。

 

そして、頭の中で「この時はこういう構図で、この時はこれぐらいの光量で……」

などと理屈で物事を考えるよりも、

 

「あ! この景色いい」

と思った瞬間、直感でシャッターを切った方が案外いい写真が撮れたりする。

 

この直感的に物事を切り取っていく感覚が「禅」に似ている気がする。

 

 

 

この直感を大切にする「禅」の本質的な部分が、論理的な思考を大切にしている欧米人にとっては相当新鮮のようで、今でも京都の禅寺に通い詰めている外国人観光客が大勢いるという。

 

 

よく考えれば歴史に名を残す写真家も「禅」に傾倒している人が多かった。

 

アンリ・カルティエブレッソン、ソールライターなども、「禅」に傾倒し、浮世絵などの日本画をコレクションしていた。

 

19世紀の画家も「禅」の根本的な部分が詰まった浮世絵に相当影響されていたという。

 

アップルやグーグルのハイパークリエイティブな人たちも、

「直感的に物事を見て、余計な雑音は捨てる」

という「禅」に影響され、昼休みは瞑想に励んでいる社員も多くいるという。

 

 

世界に影響を与えている「禅」。

 

私たちは古くからある日本古来の文化や概念からもっと学ぶことがあるのかもしれない。

 

私は写真を通じて、「禅」の奥深さにちょっとずつ気が付いた。

 

 

 

 

 

 

ちなみにスティーブ・ジョブズが生前愛読していたと言われるのは

オイゲン・ヘリゲル著の「日本の弓術」。

論理的な思考を持ったドイツ人の博士と、日本古来の弓術の師範との交流を描いたこの本は、世界中で出版されるほどの名著。 

 

 

レンズ沼にはまる私が、貴重な週末をビックカメラで過ごしている本当の理由

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「あ! いつもありがとうございます」

笑顔で店員さんにこう言われ、つい照れ笑いをしてしまった。

 

「さすがに通いすぎたか……」

 

社会人になってから、念願の一眼カメラを手にするようになり、約半年以上経った。

 

カメラにどハマりしてしまい、最初は標準ズームレンズを買って写真を撮っていたが、

「次はちょっと広角よりの単焦点レンズが欲しい……」

「今度は望遠レンズが欲しい……」

「あっ、もっと解像度が高いGマスターレンズが欲しい……」

 

などと、カメラにハマり、レンズの特性によってファインダー越しに見えてくる景色も違ってくることに気がつくと、ついついレンズが欲しくなってしまった。

世に言うレンズ沼というやつだ。

 

あっ、もっと広角のレンズが欲しい……

写真が好きになればなるほど、このレンズの沼にどっぷりと浸かってしまうことになる。

 

昔からカメラには興味はあった。

映画が好きで仕方なく、映画用のカメラやレンズを扱う会社に入るほど、

カメラや映画が大好きである。

 

結局、担当になったのはハイスピードカメラの部署で、映画の人とあまり関わりないが、まぁ、大好きなカメラに毎日触れられる今の環境は割と自分にはしっくりきているとは思う。

 

カメラが好きで、毎週ビックカメラに通い、レンズを眺めているが

いかんせんレンズは高い。

 

安いレンズでも5万は平気で超えてくる。

最高級のGマスターレンズとなると20万は余裕に超える。

 

あ、いいな、このレンズ。

とレンズをビックカメラで眺めはするものの、到底手が出る値段ではなく、

普段は眺めるだけで終わってしまう。

 

何も買う予定がないなら、別にビックカメラに行かなくても、知り合いの人にレンズを借りたりすればいいかもしれない。

 

しかし、私には毎週ビックカメラに行くのが自分にとって、プラスになることがある。

 

それは……

営業の勉強になるからだ。

 

とにかくビックカメラに行くと営業の勉強になるのだ。

 

私は普段、業務用のカメラを売っていることもあり、少しはカメラには馴染みが深い方だとは思う。

しかし、今の一眼カメラはどこのメーカーの高性能であり、他社と比較してもあまり違いが見当たらない。

 

キヤノンオリンパスソニーニコンFUJIFILMなど多くのメーカーがあるが、あまりカメラに興味がない人が店に行っても、どこのメーカーがどんな特性を持っているのか何が何だかわからないと思う。

 

そんなほとんど競合他社と違いがなくなってしまった現代のカメラ業界で、店員さんたちが凌ぎを削って、自分が担当している部門のカメラをお客さんに売り込む姿を見ていると、とても営業の勉強になるのだ。

 

スペックの違いがない時、どうやってものを売り込むのか?

ある営業マンは大きさの点でソニーのカメラが優れているというかもしれない。

しかし、昔からレンズが豊富なニコンの方が使い勝手がいいことをアピールするかもしれない。

 

自分も普段、業務用のハイスピードカメラを扱い、売り込んだりしているので、

ほとんど解像度で違いがなく、価格の面で競合と負けている時、どうやって売ればいいのかと頭を抱えている。

 

実際に営業の仕事を行い、売り込みに行っているからこそ、ビックカメラの店員さんの営業トークがとても自分の仕事の参考になるのだ。

 

私は普段、ソニーのα7Ⅱというカメラを使っていることもあり、ソニーのレンズを眺めることが多い。

 

 

多分、会社の方針でソニー担当の人は店頭で数秒立っている人には声をかけるようにしているのだろう。

普通にレンズを眺めているだけでも「何かお探しですか?」と声をかけてくる。

 

もちろん、自分の財布事情でレンズなんてすぐに買えるわけではないのだが……

 

うまい営業マンに捕まった時と、下手な営業マンに捕まった時の、

接客時間の満足度が天と地ほどの差があることに最近気がついた。

 

 

とにかく優秀な営業マンに捕まると、レンズを買うことが自分の運命だったと錯誤してしまいそうになる。

 

最近だと、

「このレンズは本当にどこの店舗も品切れ状態だったのですが、ついさっきキャンセルがあったんですよ。今ならすぐにお出しできます」

とマネージャークラスの店員さんに言われてしまい

(多分、相当優秀な営業マン)、

ついつい興味があったGレンズを買ってしまった。

 

 

(冬のボーナスは吹き飛んだが、最高級のレンズなので大満足ではある)

 

つい冬のボーナスを吹き飛ばすほどのGレンズを買ってしまったが、

なぜあの時、営業トークに惹きつけられてレンズを買ってしまったのか考えてみたら、レンズを買うことが運命だと自分で思ってしまったからだと思う。

 

 

 

あの時、心のそこでは「レンズが欲しい。自分の財布事情もあるが誰かに背中を押して欲しい」と思っていた。

そんな時にマネージャークラスの営業マンに理性ではなく、感性に訴えかけられ、ついついレンズに手を出してしまったのだ。

 

結局、人がものを買う時は理性ではなく感性に訴えかけられると「買う」という行動に移ってしまうのかもしれない。

 

 

自分が普段、営業の仕事をしていることもあり、最近はやたらと「買う」ということに興味がある。

 

自分の主観かもしれないが、世の中にある仕事の大半が

「何かの価値を相手に売る」または「価値あるものを相手に提供する」ことだと思う。

 

接客業の人も、商品を相手に売っている。

バスの運転手も乗客を目的まで運ぶ価値を相手に売っている。

エンジニアの人も、時間と人件費をかけて、プログラムを構築することで価値ある情報を相手に売っている。

 

ほぼすべての仕事が結局のところ「売る」ということにたどり着くのかもしれない。

 

小説家やカメラマンなどのクリエイティブな世界の人たちも、

価値ある小説を読者に売り、価値ある写真を編集者に売っているのだ。

 

 

結婚も就活も、結局のところ自分の価値を相手に売るということに結びつくので、この「何かを売る」ということも相当大きな意味を持っている気がする。

 

もともとサラリーマンなんて死んでもやりたくないと私は思っていた。

喋りが下手くそな自分は営業職なんて向いていない。

そう思っていた。

 

だけど、すべての仕事は、結局のところ「売る」ということに結びつく……

そのことに気がついてから、「営業」の仕事が面白くなってきた気がする。