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ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

進路に迷っていた中学時代の私は、近所の町医者から人生における大切なことを学んだのかもしれない

 

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「ガシャン」

私は自転車から転げ落ち、顔面から地面に叩きつけられていた。

 

自分の中にあった視界が、一瞬凍結していた。

ぐるっと視界が回ったかと思うと、目の前には地面があったのだ。

一旦停止した脳の思考回路が再び動きを始めた。

 

顔の辺りから痛みを感じる。

どうやら血が吹き出しているようだ。

 

私は自転車に乗って坂を下りている時に、道路の溝にタイヤを乗り上げてしまい、アクロバットにも盛大なスキージャンプを決めてしまったようだった。

 

くるっと一回転して頭から地面に叩きつけられたのだ。

気づいたら私の周囲には、血が溢れ出していた。

 

やばい。

私の脳は軽く脳震盪を起こし、意識が朦朧としていたが、これだけはわかった。

この血の量はやばい。

 

私は何が起こったのか状況を把握できなかった。

それでも一旦家に帰り、頭を整理しようと思った。

 

家に帰ると母親が顔面蒼白していた。

「あんた一体何をやったの?」

後から聞いた話だと、顔面血だらけの男が、家の玄関の前で立っていたのだという。

 

母親は急いで病院に掛け合ってくれた。

しかし、時刻は午後8時過ぎだ。

この時間だと、ほとんどの病院がやっていない。

しかも、その日は木曜日だった。

 

木曜日は病院は学会のため、全国的に休みのところが多い。

 

「ダメだ。どこもやってない」

私は血だらけの顔を抱えたまま途方に暮れていた。

さすがにこのまま塾に行くのはまずいな……

救急車呼ぶしかないのかな。

そんなことを思っていた。

 

「あ、あった」

母親が近所にある、とある小さな病院を見つけた。

そこは内科から外科まで全て揃っていた。

 

電話してみると診察時間は過ぎているのに

「今すぐ来てください」と掛け合ってくれたのだ。

 

私は母親に連れられ、その近所にあった小さな病院に向かうことにした。

車に乗って向かった。助手席は血だらけになっていた。

 

後で拭かなきゃな……

 

そんなことを思っていると、気づいたら病院の前についていた。

そこは自転車でも家から数分の距離にある小さな病院だった。

 

「こんな辺鄙なところに病院があったんだ」

そう思いながら、病院に駆け込んだ。

 

室内に入ると理事長の方が待ち構えていたらしく、すぐに治療室に案内された。

ベッドに横たわり、私の視界にはガーゼが敷かれた。

 

「チクっとするけど、我慢してね」

 

そう言われると、どうやら細長い管が、カパっと開いた顎の皮膚のところに挿入されていった。

 

たぶん麻酔を注射しているのだろう。

私の頬の神経がどんどん麻痺していくのがわかった。

痛みも感じなくなった。

「傷口が開いているから、これから縫っていくね」

理事長は細長い糸を手に持って、私の顎にあててきた。

 

え? 縫うの……

私はまさか顔面を縫うほどの怪我をする羽目になるとは思わなかった。

 

なんであの時、立ち漕ぎをしながら坂を駆け下りたのだろうか……

安全運転を心がけていればこんなことにはならなかったのだ。

 

あ〜これで私の顔面も縫われて、ブラックジャックみたいになるのか。

そんな後悔の念に駆られていると、チクっとする痛みを感じた。

 

麻酔が効いていても、自分の皮膚が縫われていっているのがわかるのだ。

私は視界に敷かれたガーゼ越しから、理事長の真剣な眼差しを見ていた。

理事長はものすごい勢いでさっと縫っていく。

 

まるで職人のようだった。

「オーケー。終わったよ」

理事長は私の声をかけた。

 

「2、3日の間は痛みが続くと思うけど、7日もすればガーゼは外れるでしょう。傷口が大きかったので5針縫いました」

 

 

5針も縫ったのか……

私はショックだった。

 

中学生の段階で顔に傷だらけになる重傷を負ったのだ。

たぶん、ずっとこの傷を人に見られながら人生を歩んでいくことになるんだなと思い、悲しくなってきた。

 

「なるべく、傷が残らないように縫っておきました。一週間後、ガーゼを外して確認しますね」

 

私は麻酔がまだ効いていて、頭がボケっとしながら、家路に着いた。

「5針も縫ったんじゃ、傷跡は残るね」

母親はそう言っていた。

 

あ〜、中学生にしてブラックジャックみたいになるのか……

 

 

次の日、顔面に包帯を巻かれながらも私は学校に登校した。

念のため担任に報告すると

「5針も縫ったのか? じゃ、一生分の傷が残るな……かわいそうに」

そんなことを言っていた。

 

やはり、深い傷跡が残るのか。

なんであの時、自転車でスキージャンプなんてしてしまったんだろう。

そう悲嘆していた。

顔面に包帯を巻かれながら、一週間が過ぎた。

さすがに傷口が痒くなってきたので、早く包帯が外れないかと心待ちにしていた。

 

私は今度は歩いて近所にある病院に行くことにした。

来るのは二回目だが、本当に小さな病院だなと思った。

しかし、小さい病院なのに、午前中にもかかわらず患者の数は多かった。

 

なんでこんなに人が多いんだろう。

大学病院に行けばいいのに……

そんなことを思っていた。

 

私は看護師さんに呼ばれて診察室に入っていった。

そこには白衣姿の理事長が椅子に座っていた。

 

「やあ、痛みは引いたかい?」

理事長は私の顔面に巻かれた包帯を外して行った。

傷口に覆いかぶさっていたガーゼを外す。

 

「うん。綺麗に治ったね」

私は鏡を見た瞬間、驚いた。

 

全くの無傷だったのだ。

え? なんで傷跡が残ってないの……

私は驚いた。

5針も縫ったのに、傷跡が残らないなんて奇跡としか思えなかったのだ。

 

理事長曰く、どうやら傷跡が残らないようにうまく縫い合わせてくれたらしい。

普通、顔や皮膚の傷は糸を上から覆い被せるように縫っていくが、

理事長は皮膚の内側で、皮膚が重なるように縫ってくれていたのだ。

 

縫っている場所が皮膚の内側のため、顔の表面に傷の後が残らなかったのだ。

 

なんだこの職人技は!

この理事長いったい何者なんだ。

 

ニコッと笑う理事長を見ながら、私はそう思った。

 

 

帰りに治療費を払うため、待合室で待っている時に、ふと棚に置かれている雑誌が気になった。

 

真ん中のページには付箋が貼ってあるのだ。

そのページには理事長の姿があった。

 

「離島の診療所で活躍する外科医」

 

その雑誌には、この小さな病院を支える理事長の経歴がこと細かく載ってあった。

 

理事長は名門の早稲田大学に通うも、3年の時に中退。

そこから猛勉強の末に医科大に入学したという。

医科大を卒業して救急救命の最前線で活躍したのちに、とある離島の診療所で救命設備が不足している中、懸命に島民のために走り回っている姿がそこにあった。

まるで、本物のDr.コトー診療所である。

 

離島の診療所の後は、都内の救命救急で患者のために懸命に治療し、

都内の病院は設備が充実しているが、患者一人ひとりに十分な医療環境が行き届いてない……島のように患者と一対一で治療にあたりたいと思い、小さな町の病院を作ったという。

 

小さな病院にもかかわらず、内科から外科、皮膚科、眼科まで全て揃っていたのは理事長の経歴が関係していたのだ。

都内の救命救急や離島の診療所の経験から、ほぼ全ての体の不具合を把握できる経験値があったのだ。

 

 

私はなんだかすごい人に治療してもらっていたんだなと思った。

 

次の日に学校に行っても、包帯が巻かれていたところがあまりにも無傷のため、

「今まで仮病使ってただろう!」と言われるほど傷口が綺麗に整っていたのだ。

 

その町に密着している小さな病院の理事長は、早稲田に通うもこのままでいいのか……と自問し、結局大学を中退してまでも医者の道を進んでいったという。

医科大を卒業したのちも、すぐに大学病院に配属されるわけではなく、島の離島や救命救急の最前線を走り回っていたのだ。

普通のエリートコースの医者なら、卒業したのちに大学病院に配属されるのが普通だ。

しかし、理事長は何度も遠回りしながら今の町に密着した最先端の医療を提供できる病院を作り上げていった。

 

 

小さな小さな病院だが、治療のうまさが評判を呼んでか、都内中からわざわざ時間をかけてその理事長がいるクリニックに通う人も多いという。

 

人の何倍も回り道をしていったから、理事長は町に密着した最先端の医療現場を作り上げることができたのだと思う。

木曜日も空いているクリニックは全国的にも珍しい。

少しでも患者を救いたいという理事長の思いがすごく伝わってくる。

 

 

私は同世代の人に比べてだいぶ遠回りしている。

ストレートに学校を出て、働き出していたら、社会人歴が2年目以上になっていてもおかしくない。

しかし、私は遠回りに遠回りを重ね、4月からようやくちゃんとした社会人としてスタートすることになる。

 

働いている同世代の人を見ると、後ろめたい気持ちになることはあった。

なんで私は未だにフリーターのプー太郎なのか。

きちんと働けないのだろうか。

 

一回、就職したものの、午前4時まで続く労働と、度重なる睡眠不足で頭がおかしくなり、結局辞めてしまったのだ。

精神的にも疲れた私は、なぜかよくわからないがラオスの山奥まで飛んでいった。

 

人よりも何倍も遠回りして、なんとか日本に帰ってきて、記事を書いたりしている。 

遠回りを重ねて、ライティングの魅力にも気づけたのだ。

 

近所にあるクリニックの理事長も人の倍以上遠回りしていって、本当のやりたいことを見つけていった。遠回りして行った分、技術を磨いていき、人の何倍もの経験値を積み重ねていったのだと思う。

 

 

私は正直いうと、今だに自分が何になりたいのかよくわかっていない。

しかし、それでもいいのではないかと最近は思う。

 

人の何倍も遠回りしてもいいのではないか?

 

遠回りした分が、その人の財産になる。

そんな気がするのだ。

 

 

 

 

カンボジアで50人近くの現地人に囲まれて乗ったバス移動が、私にライティングの楽しさを教えてくれたのかもしれない

バックパッカー

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ホーチミン行きのバスのチケットをお願いします」

私は滞在しているカンボジアシェムリアップのゲストハウスで、ベトナム行きのバスのチケットを購入していた。

 

旅を始めてからまだ一週間ほどだった。

これから一月ほどかけて、カンボジアベトナムラオス、タイのゴールデンルートを一周する予定だ。

 

あまりのもアンコール・ワットを拠点とするシェムリアップという街が居心地よくて、

始めの予定よりも多くの日数を滞在してしまった。

 

アンコール・ワットも通算二日かけて、すべてのルートを回った。

旅行代理店でマウンテンバイクをレンタルし、遺跡を回るのはまるでインディー・ジョーンズの世界だった。

 

あまりにも居心地が良すぎて、このままではカンボジアから抜け出せなくなる!

そう思い、私は意を決して、次の国ベトナムを目指すことにした。

 

ベトナムホーチミン行きのバスは安くて19ドル、VIPバスだと30ドルぐらいになりますが、どうしますか?」

 

ゲストハウスの方にそう聞かれ、私は迷わずに一番安いベトナム行きのバスのチケットを買うことにした。

後の旅のことを考えると本当にお金がなかったのだ。

全財産8万円ほどだ。これであと1ヶ月暮らさなければならない。

東南アジアは物価が安いというが、食費や宿代を含めたら否が応でも1日2000円はかかってしまう。

私はずっと一泊3ドルほどの安宿に泊まってきたが、それでも節約をしなければ、お金がもたない。

 

VIPバスだとエアコン付きで、快適と聞いていたが、貧乏旅行を続けているので仕方ない。

私は一番安い国際バスに乗ることにした。

 

東南アジアはバックパッカー初心者にやさしい国だと言われている。

旅のルートが確立されていて、旅人は同じような街をまわり、同じように安宿が集まる場所で宿を探すことになる。

宿に泊まっていると世界中のバックパッカーが集まっているので、旅の情報交換が可能だ。その上、どの国も国際バスが通っているので、ルートや道で困ることはほとんどない。

 

 

私は翌日、朝の5時に起き、バスが停車しているポイントに向かうことにした。

ピックアップのトゥクトゥクに乗って、シェムリアップの郊外に向かうと、

そこには一台のボロボロのバスが停車してあった。

 

まさかこのバスじゃないだろ……

私はそう思った。

 

しかし、案の定トゥクトゥクのおじさんは

「このバスだよ!」

と言って、ボロボロのバスを指さしてきた。

 

このバスでベトナムまで向かうのか……

私は不安と期待に苛まれながら、言われた通り、バックパックを荷台に乗せ、バスに乗ることにした。

バスの中はいたって快適だった。

外から見ると、泥だらけで汚いバスだなと思ったら、中は広々としていて快適なのだ。

 

私は発車まで30分ほど暇をつぶしていた。

他の旅人が乗ってきたら行き先が自分と同じだとわかって安心なのだが……

誰一人として旅人が乗ってこない。

 

乗ってくるのはみんなカンボジア人だ。

しかも、虫のつまったビニール袋や竹の棒を持って乗車してくる。

30人以上カンボジア人が乗っているバスの中、外国人は私一人だった。

 

なんだこの状況は!

なんで30人以上のカンボジア人に囲まれながら、バスに乗っているんだ!

 

私たちが乗ったバスは時間が過ぎてからゆっくりと発進した。

ギコギコ言いながら道中を進む。

カンボジアの道路は毎朝大量に降るスコールの影響で、泥だらけだ。

交通もほとんど整備されていない。

 

ガタンゴトンと揺れながらバスは進んでいった。

 

本当にこのバス目的地に着くのかな?

そう思いながらも、今更どうしようもないので、バスの中でじっと揺れに耐えることにした。

 

バスが発進しだして数分後、突然、道の真ん中で停車しだした。

なんだ? と思ったら現地のカンボジア人はどんどん乗車してくるのだ。

 

なんでバス停で乗らないんだ!

と私は思ったが、バス停だろうが道の真ん中だろうが、バスが来たら手を上げて呼び止めるのがカンボジア流のバスの乗り方らしい。

 

20分に一回はこんな感じの途中停車が続いていた。

何人途中から乗ってくるんだ……

 

気づいたら私は50人近くのカンボジア人に取り囲まれていた。

もちろん旅人は私一人だ。

 

みんな世間話で大騒ぎだった。

バスの中はカンボジアの歌謡曲がずっと流れていた。

 

頼むからカンボジア語の歌謡曲だけは止めてくれ……

眠れないじゃないか……

私は耳をふさぎながらそう思っていた。

 

約3時間ほど経っても一向に目的地に着く気配がない。

国境に向かっているのかさえ不明だった。

本当に大丈夫かな。

私は不安になってきた。

 

バスの窓から道路標識を眺めていると、この先プノンペンと書かれた標識を見つけた。

あ! このままいけば首都のプノンペンか……

 

そう思った矢先、バスはその矢印とは反対に右折し始めた。

 

おいおい……どこに向かっていくんだ。

 

私は意を決して、バスの運転手に行き先を聞いてみた。

持っていたチケットを見せて、「本当にホーチミンまでこのバスは行くの?」

と聞いたのだ。

どう考えても私の身の回りにいるカンボジア人はベトナムまで行くつもりはなさそうだった。

 

バスの運転手はニコッとしながら

「ノープロブレム」と答えていた。

 

本当にノープロブレムなのかよ!

そう思ったが、バスの中でひしめき合うカンボジア人の熱気に圧倒され、私は席につくことにした。

 

バスはそれから何度も途中停車して、現地のカンボジア人を乗せて行った。

バスが停車すると売り子が寄ってたかってくる。

みんなバスの窓から昼食を買って行った。

私も昼食を買うことにした。

 

なんかよくわからんライスが入った弁当だった。

明らかにライスの横にはコオロギらしき虫がセットで付いてきている。

なんでライスの横に虫があるんだ!

私には衝撃的だったが、カンボジアの奥さん方は美味しそうに虫を食べていた。

 

結局バスはそれから2時間ほどかけて、何もない荒野を進んでいき、ようやくプノンペンにたどり着いた。

 

「おい! 君ここだよ」

私はバスの運転手に声をかけられた。

え? まだベトナムに入ってないよ。

そう思ったがバスから出てみると、旅行代理店が目の前にあった。

 

どうやら私が持っているベトナム行きのチケットはプノンペンでバスの乗り換えがあったらしい。

どうりであのバスは現地のカンボジア人で賑わっていたのか……

 

私はやっと理解できた。

プノンペンの旅行代理店の前でベトナム行きのバスに乗り、私はカンボジアを後にすることにした。

 

 

約50人近くのカンボジア人に囲まれ、蒸し暑い車内でカンボジアの歌謡曲を聞きながらバスの揺れに耐えた経験は笑えるほど過酷だった……

しかし、今思うといい思い出かもしれない。

 

私は最近、毎朝ライティングをするようになった。

「書けるようになるには書くしかない」

そう言われ、毎朝コンテンツを書くようにしているのだが、

ライティングって、あの不安で苛まれたカンボジアのバス移動に似ているなと思う時が度々あった。

ライティングもある程度、着地点を決めてから書き始めているが、道中どこに転がって、どのような展開になるのか自分でも把握しきれないのだ。

ほとんど即興任せで書いているのだ。

 

私だけでなく、すべてのブロガーや記事を書いているライターさんも同じだと思う。

ある程度、着地点は決まっていたも道中どのような展開になるのかは把握できない。

自分でも思ってもみなかった展開になる時もある。

 

旅も同じなのだ。

目的地はある程度決まっていても、道中どのようなルートをたどり、どんな人と出会いながら旅が進んでいくのかその場でしかわからないのだ。

ほとんど即興任せだ。

 

だから、旅もライティングも面白いのかもしれない。

すべて即興的な出会いと出来事が蓄積されていって面白いものが出来上がっていくのだ。

 

私は毎朝のライティングを通じて、あの刺激と出会いに満ちた東南アジアの旅を思い出しているのかもしれない。

 

旅もライティングも自分でも予想しなかった出来事や出会いを大切にしたい。

そんなことを思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「普通とは?」というタイトルに惹かれて

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「普通とは?」

とある本屋さんでこのタイトルの雑誌を見かけた。

表紙は小松菜奈でどこかサブカルチャーくさい雰囲気を出している雑誌だ。

 

メイビーの「普通とは?」とという特集を読んだのは、去年の11月だった。

その頃、私はライティングの魅力に気づき、記事を書いては書きまくって、自分の才能のなさに憂いている時だった。

 

本当に面白い文章を書いている人は、その人の個性が文章にも滲み出っているものだ。

たくさんのバズを起こす人気のライターさんなどを間近で見ていると自分の才能のなさを感じ、憂いた気持ちになっていた。

 

空っぽの私が書いた文章など面白いはずがない……

そう思っていたのだ。

 

そんな時、ふとメイビーという雑誌と出会った。

タイトルと表紙からくるインパクトに私は一気に惹きこまれた。

 

「普通とは?」

 

それは私を含めた、ゆとり世代の多くが抱える悩みの一つかもしれない。

 

普通でいたくない。

人と違った自分でいたい。

 

どの人も心のそこでは「普通でありたくない」と思ったことがあると思う。

他者との比較する上で、グループから外れたくないという思いがあると同時に、普通でいたくないという生理的な欲求が人間にはあるのかもしれない。

 

私もそんな普通であることに後ろめたさを感じ、常に自分の承認欲求に振り回されてきた一人だった。

 

人と違うことがしたい。

何者かになりたい。

 

そう思っては、学生時代には映画を作り、一人でインドに飛び込んだりと、

常に刺激を追い求めてさまよい歩いていたと思う。

今思えば、ただ私は「普通であること」が異常なほどコンプレックスだったのだ。

 

「普通の顔だね」

「君の名前って普通だね」

と言われるのが何よりも嫌いだったのだ。

 

だからかもしれない。

この雑誌のタイトル「普通とは?」に妙に惹かれてしまったのだ。

私は記事ネタのインプットのためにもと思い、早速その雑誌を購入し、読んでみることにした。

 

それはミステリアスな雰囲気を漂わせる小松菜奈や水曜日のカンパネラ、根本宗子など普通じゃないトップクリエイターが「普通とは?」について語る特集記事だった。

 

私は電車でその雑誌を読んでいくに連れて、

普通っていったい何だろう? と考えてしまっていた。

 

この雑誌に登場するクリエイターの方々はどう考えても普通じゃない人たちだ。

そんな人たちが普通について語るのはどこか面白く、斬新な切り口だなと思ってしまった。

 

私は雑誌を読んでいくうちにあるページがとても気になってしまった。

あ!!!!

と思った。

 

知り合いの方の特集ページがあったのだ。

 

彼女はここまで大きくなってしまったのか……

私はそう思ってしまった。

 

彼女の隣のページには小松菜奈の写真がドンとあるのだ。

 

普通の初恋、普通じゃない恋……

という特集記事を見て、私はその彼女と出会った日のことを思い出していた。

 

 

その時、私は大学1年生の頃だった。

大学に入ったら好きなことをやろうと意気込み、自主映画サークルに入って映画ばかりを作っていた。

映画を作るのは面白かった。

多くの人と関わりながら一つの作品を作るのは、刺激的だ。

自分の頭の中にある世界観を目の前で形にしていくのがとても楽しかったのだ。

 

映画を作っては、TSUTAYAで映画を借りて、人を惹きつけるコンテンツについて研究していった。図書館にこもっては脚本を書いて、一介の映画人になったふりをしていたのだ。

大学時代に何かで頭角を出すと意気込んで、自分の殻に閉じこもっていただけなのだと思う。

 

そんな時、ある映画祭に自分の作品を出展することになった。

その打ち合わせを兼ねて、映画祭のミーティングに行くことになったのだ。

当日、そこには都内の大学の映画サークルが集まっていた。

みんな自分の作品を意気込みながら解説していた。

 

私はそんなクリエイターぶっている人たちを見て、

 

ここはもっとこうするべきじゃないか……

自分の世界観に良い浸っているだけじゃん……

などと、上から目線で見ていた。

 

自分はこの人たちとは違う。

人とは違ってた感性を持っていると思い込んでいたのだ。

(今思うと、だいぶ上から目線でウザいやつだ……)

 

そんな時、会場に去年の特別審査員賞をもらった、とある大学の女性が前に立っていた。

どうやら今度、自主的に映画館で上映をするので、その宣伝にミーティングを訪れていたという。

その女性が作った映画の予告編がスクリーンに流れてきた。

 

私はその予告編を見た瞬間、度肝抜かれた。

 

 

なんだこれ!!!!

 

 

そこには彼女しか作れない世界観があったのだ。

痛々しいほどに青春を輝かせる独特の世界観がそこにはあったのだ。

 

斬新な映像美、センスのあるセリフ回し、どれを見ても才能の塊のような人が撮った映像だった。

私はその映像を見た瞬間、

この人には勝てない……と思った。

 

 

私は呆然としたまま、ミーティングが終わった後にその映画を監督した彼女に話しかけてみることにした。

 

彼女はとある大学で哲学を学んできたらしい。

(どうりでセリフに哲学的な表現が多いなと思った)

 

本気で哲学者になろうと思ったが、大学3年生の時、ふと

「言葉だけはな表現しきれないものがある。映像なら言葉では捉えきれないものを表現できるのではないか?」

と思い立ち、自ら仲間を集めて自主映画を作っていったらしい。

驚くことに彼女の大学には自主映画サークルはなかったという。

すべて自分で一からサークルを作り上げ、映画を作っていってくれる仲間を集めて行ったのだ。

 

彼女の映画作りの背景を聞いていくうちに、この人はトンデモナイものを持っていると直感的に思ってしまった。

 

話をして10秒ほどで、彼女の背景にある痛々しいほどむき出しの感受性を感じ取ってしまった。

本当に才能の塊のような人だなと思った。

どう見ても彼女は「普通じゃない」人だったのだ。

 

私はその日から、なおさら映画作りにのめり込んでいった。

70分近くの自主映画を4ヶ月以上かけて作った。

大量にDVD をレンタルして、映画を見まくった。

自分の世界を表現しなきゃと思い込んでいたのかもしれない。

 

 

彼女が審査員特別賞を取った映画を真似て脚本を書いてみた。

脚本の評判は上々だった。しかし、実際に映像にしてみると、とてもじゃないが人に見せられる出来ではなかったのだ。

映画祭に応募してもどれも予選を突破することはなかった。

 

なぜだ!

なんで自分が作った映画は評価されないんだ。

そう思った。

 

私はずっと普通じゃない人に憧れていた。

自分なら何者かになれると思っていたのだ。

しかし、結局、何者にもなれなかった。

 

 

時が経ち、就職活動の時期が来て、周囲に流されるように就活をしていった。

大学入りたての頃は「就活なんてしない〜」と嘆いていたが、

結局、時が来て、社会の荒波に飲まれていくように就活していったのだ。

 

自分は一体何がしたいんだろ?

そうずっと思い悩んで不安だった。

 

映画祭で知り合った彼女は、どんどんプロの世界を駆け上がっていった。

ある雑誌では、彗星の如く現れた天才と称させていた。

 

私は結局、何者にもなれなかった。

そう思い、他人の眩しいまでに輝く才能を見て、後ろめたさを感じていた。

 

2年近くの時が経った今でも、メイビーの「普通とは?」という特集を見ている時に、同じな思いを感じてしまった。

もはや彼女は小松菜奈を主演にした商業映画を撮っていたのだ。

彼女は27歳のデビューだった。早すぎる。

 

新卒で入った会社を辞め、フリーターのプー太郎をしていた私は、

わずか数年でこんなにも差がついてしまったのか……

と思い、後ろめたい気分になっていた。

眩しいまでに輝く才能を見て、自分には無理だと思った。

 

 

 

そんな時だった。

ライティングの師匠のような人にこう言われた。

「書くようになるには書くしかない。今までの倍以上書くようにしてください」

 

 

私はもともと書くことは好きだった。大学も自主映画を撮っていた関係で、

脚本などものを書くということはしていた。

特にやりたいことも見つからず、世の中をさまよい歩いている時に、

ふと、とあるライティング教室に辿り着き、私はライティングにのめり込んでいった。

 

もう自分にはこれしかないと思ったのだ。

ある程度文章を書くことには慣れてはいたものの、上には上がいるものだ。

自分よりも大量のバズを発生させるような人がゴロゴロいた。

 

そんな人たちを見て私はまたしても、自分の才能のなさに憂いていた。

私はやっぱり何をやってもダメだ。

そう思っていた。

 

 

そんな時、ライティングの師匠に

「書くようになるには倍の量を書かなきゃいけない」

と言われたのだ。

「つべこべ言う前に手を動かせ! 何でもいいから毎日かけ!」

 

ひたすら「書け! 書け! 書け! 書け!」である。

私は何か書くことができない自分に聞く特効薬のようなものがあると思っていた。

しかし、出てきた答えは「とにかく書け!」である。

 

ああだこうだ言っても仕方がないので、私は仕方なく今までの倍の量を書くことにしてみた。

こうして無料ブログを立ち上げ、毎日きちんとコンテンツを作ることを日常にしていった。

初めの頃は、書くネタを探すのに苦労していた。

毎朝、記事を更新するために四六時中、記事のネタを探して世の中にアンテナを張っていかなければならないのだ。

 

すぐにネタが品切れてくる。

毎日悪戦苦闘しながら、なんとか2ヶ月以上続けてみた。

そして、私はあることに気がついた。

 

それは……

 

以前より他人の才能に憂いていない自分に気がついたのだ。

 

毎日、目の前にあることに無我夢中で自分の才能のなさに憂いている余裕がなくなったのだ。

 

私はずっと「普通じゃない」人に憧れていた。

「普通じゃない」才能を持っている人を見ては、自分の才能のなさを痛感し、憂いていたと思う。

 

同世代の人がテレビに出てきても、劣等感を感じて私はテレビを見ることができなかった。

なんで自分はこうで、同じ時期に生まれたあの人たちはテレビに出て注目されているのか? そう思うと、後ろめたい気持ちになってしまうのだ。

 

しかし、そんな風にして他人の才能を憂いているのは、ただ自分が努力してこなかっただけなのかもしれない。目の前のことに無我夢中になっている人は、他人の才能など気にしている余裕などないのだと思う。

 

才能のない私は、彗星の如く現れた才能の塊のような彼女にかなわないかもしれない。

大量のバズを起こす、ライターさんには勝てないかもしれない。

 

しかし、そんな人を目の前に見ても努力し続けることが大切なのだと思う。

「普通じゃない」人たちを見ても、とにかく今は書き続けよう。

そんなことを思うのだった。

 

 

 

 

忘れ去られたゴミの92年生まれの私が見つけた、個性という名の呪いに効く薬

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ゴミの92年生まれを知っているだろうか?

ネット上でも、度々話題になった92年生まれの悲惨さ……

私は92年に生まれたゆとり世代だが、確かに92年は他の年に比べて、有名人の数も少ない気がする。

92年生まれが悲惨といわれる所以は、その年に生まれた人達が歩んできた道筋が、

どうも他の年に比べて悲惨なことが多かったからだ。

 

 

まず、小学校に入学すると同時にゆとり教育が本格的に開始された。

私も覚えているのだが、突然、土曜日の授業がなくなったのだ。

教科書も明らかに上の先輩のものと比べて薄くなっている。

授業時間が伸びるかと思ったら「総合の時間」というよくわからない時間割ができて、みんな遊び呆けていた。

 

私はその時、小学生ながらも、こんなんでいいのかな?

と思っていた。

 

ゆとり教育が始まり、のびのびと子供の個性を伸ばそうという教育方針になっていった。

そんな小学校教育では週に2時間「総合の時間」というものが始まった。

今思うと、その時間で私は一体何をしていたのかさえ覚えていない。

算数も国語も理科もほっといて「総合の時間」という道徳の教科書をただ広げて暗唱するような時間を過ごしていたのだ。

 

92年生まれの私と同じ世代の人たちは、大人のいいなりになりながらも、その個性を尊ぶゆとり教育にどっぷりつかっていったと思う。

個性的なのがいい。

人と違う自分がいい。

自分らしく生きることがいい。

そんなことを思っていた。

 

しかし、個性を尊ぶゆとり教育も、92年生まれが高校生になることには考えが改められてきたのだ。

ゆとり教育を受けてきた世代の学力偏差値があまりにも下降傾向にあるので、

「脱ゆとり」が叫ばれるようになってきた。

 

私は「ゆとりだ!」「詰め込み教育反対だ!」などと大人は言っておきながら、

今度は「脱ゆとりだ!」と方向展開され、社会に翻弄されてきたように少し感じた。

 

そして、どっぷりゆとり教育の影響を受けた92年生まれが高校を卒業するとともに、教科書が一新され、完全に「脱ゆとり」の流れになった。

92年生まれは社会からつまはじきにされてしまったのかもしれない。

円周率がこれまで「3」と言われていたのに、「脱ゆとり」になってから「3.14」ときちんと子どもたちに教えるようになったのだ。

 

 

大人たちは「ゆとりだ!」と言っておきながら、失敗したから92年生まれが消えた途端に、次の世代は「脱ゆとり」の流れできちんと教育するという。

 

なんだか腑に落ちない気がしていた。

 

私たち92年生まれ前後の世代はやたらと、

個性を尊重しよう。

自分らしくあろう。

あるがままに生きようと言われ続けてきたと思う。

 

私もそんな個性的でありたいと思っていたゆとり世代の一人だった。

 

人と違うことがしたい。

上のいいなりになるなんて嫌だ。

そう思ったゆとり世代の多くが、ベンチャー企業などを立ち上げていった。

しかし、活躍しているゆとり世代はほんの一部だ。

 

ほとんどの人が私も含め、一般の企業に就職していくことになる。

個性を尊ぶことを学んできた私たちゆとり世代が社会に出るとどうなるのか……

 

今まで言われてきたことと社会が求めていることの違いに気づき、ギャップにもがき苦しむのだ。

私はそのギャップを始めて痛感したのは就職活動の時だった。

 

あれだけ、自分らしくあろう。

ありのままで生きようと言われていたのに、社会が求めているものは結局、自分たちのいいなりになって、つべこべ言わずに働いてくれる若者なのかもしれない。

 

体育会系の人が就活に強いと言われるのはそこなのだと思う。

先輩のいいなりになって、動くことに慣れているのだ。

上下関係を厳しく叩き込まれている。

 

私はというと全く体育会系の部活に入れなかった。

団体競技が苦手という意味もあったが、上下関係の息苦しさを常に感じていた。

個性的でありたい。

自分一人の力でのびのびとしたい。

そう思っていた私は、結局陸上部に入部することにした。

陸上は自分一人の成績と能力で順位が決定してくる。

私にはどうもそれが合っていたようだ。

 

社会に出るとどうも個性というよりも組織の中で動くことが求めれられてくる。

個性を尊ぶとあれだけ言われてきたのに、社会に出るときには個性を捨てることが求められるのだ。

 

個性っていったいなんだ?

私はずっとそう悩んでいた。

 

自分らしさっていったい何なのだろうか?

ありのままの自分っていったい何なのだろうか?

 

私は人と違うことがしたい。

個性的でありたいと思って、なるべく個性的な行動をするようになっていたのかもしれない。大学生になる頃には、一人でインドに行ったり、約10リットルの血糊をばら撒きながらゾンビ映画を作ったりしていた。

「君は個性的だね」

「あなたは人と違った何かを持っている」

と誰かから言われたかったのかもしれない。

 

しかし、個性的であろうとしても、そんな自分を誰も見てくれはしなかった。

約4ヶ月以上かけて作った自主映画も賞を取れなかった。

マスコミ中心に30社以上エントリーしても、ほぼ全て落ちた。

 

 

私は結局、個性的でありたいという呪いに振り回されていただけなのかもしれない。

自分はゆとり教育や社会のせいにして、逃げていただけなのだ。

 

自分を何かで表現したい。

自己表現しなきゃと思い込んでは、空っぽな自分に気づき、苦しんでいた。

 

社会に出て、いろんな挫折を経験して、何とかこうしてライティングの面白さに気づいて書くようになってからも、その個性という呪いに振り回されてきたのかもしれない。

 

個性的で独特の文章の方がバズる。

人に面白いと言ってもらえるのだとずっと思っていた。

 

だから、私はあえて人と違った行動をとって、個性的な文章を書けるようにしてきたのだと思う。

もっと個性を磨かなきゃ!

個性的であらなきゃ。

そう思っていたのだ。

 

しかし、ものすごいバズを発生させるようなライターさんや小説を書いている人と直接会ってみると、そんな風にして個性というものを気にしている人はあまりいなかった。

自分の身の回りのささいな出来事をコンテンツにし、自分がこれまで生きてきたなかで蓄積された感情を文章に流し込んでいるのだ。

 

あえて個性的であろうと振舞っていないのだ。

私はいろんな人と出会い、ライティングをするようになって薄々感じ始めていた。

 

「個性って自分から作るものではなくて、自然と身についてくるものなのではないか?」

 

確かに個性的でぶっ飛んだ行動をする人が書いた文章は面白い。

しかし、自分がこれまで経験してきたことや蓄積された感情が積もるに積もって、その人でしかない個性が生まれてくるのだと思う。

 

自分から個性的でなきゃいけないと思って、行動しているわけではないのだ。

会社に入って、悪戦苦闘し、失恋やいろんな挫折を経験していく中で、否が応でもその人だけの個性が生まれてくるのだと思う。

自然と身についてくるのだ。

 

私はこれまで個性的であらなきゃと思って、人と違った行動をなるたけ取るようにしてきて苦しんでいたのだと思う。

 

ありのままの自分でいたい。

自分の個性を磨きたい

そんなことを思っていた。

 

しかし、そんな無理して個性的であろうとする必要もないのではないかと最近は思うようになってきた。個性を気にして、SNSに投稿するネタや写真を探している暇があったら、目の前のことに向き合った方がいいのではないか? そう思うようになったのだ。

 

 

私を含めた92年生まれ前後の世代は、個性というものが呪いのように体に染み込んでいると思う。

個性的でありたい。

人と違う自分でいたい。

そう思って皆、SNSInstagramに写真をアップするのだ。

 

バブルが崩壊したのちに生まれた世代は、市場にものが溢れ、消費社会が行き詰まり、

「ライフスタイル」というものが最後の商品になったと聞いたことがある。

 

確かに成功している会社は「ライフスタイル」というものを商品にしている。

 

個性的な写真を撮れるInstagramフェイスブックが人気なのはそのためだ。

 

みんな「ライフスタイル」を手に入れたいのだ。

自分の個性を表現できるツールが商品になっているのだ。

アップル製品やスターバックスが人気なのも、会社と自宅の間にある、

豊かな「ライフスタイル」を手に入れることができるからだと思う。

 

世の中はどんどん自分の個性を表現できるツールで溢れてきている。

そんな世の中で生きている人にとって個性というものが呪いのように蔓延っている。

 

 

これから自分より若い世代がどんどん世の中に出てくるのだろう。

自己表現というものが呪いのように蔓延っている世の中と、社会が求めているもののギャップにもがき苦しむ昔の自分のような人は案外多いのだと思う。

 

そんな個性というものに、もがき苦しむ人に言いたい。

個性は自分から作るものではなく、自然と生まれてくるものなのだと思う。

自分から個性的であろうとする必要はないのだ。

 

普通だっていいではないか?

と私は最近、思うようになった。

普通の中から人を惹きつける文章を生み出している人もいるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイルランドの少女の恋物語である映画「ブルックリン」を見て、今のアメリカが抱える問題について考えさせられた

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「あの橋の向こうには何があるんだ」

私はブルックリン橋を見ながら、そう思っていた。

 

大学生の頃、私は世界の中心を見てみたいと思い立ち、アルバイト代で金を貯めて、

一週間ほどニューヨークに行ったことがある。

 

マンハッタン島は驚きの連続だった。

本当に人種のるつぼなのだ。

3ブロックほど歩いたら、ガラッと建物から道路から聴こえてくる言葉も変わってくるのだ。

イタリア系からドイツ系、ユダヤ系、エジプト系、インド系、中国系、アフリカ系……

世界中すべての移民で構成されている街がマンハッタン島だったのだ。

 

本当にマンハッタン島を歩くのは刺激的だった。

私は約9時間ほどかけてマンハッタン島を南から北まで歩いてみたが、その島を一周することは、世界を一周することになるのだ。

ちょっと歩いたらドイツ系の移民が集まる街になり、また少し歩いたらイタリア系の移民が集まる街になる。

 

街の風景がコロコロ変わり、普通に歩いているだけで面白い。

世界中の人々を見ることができるのだ。

 

そんな中、休憩のために川沿いで休んでいると、マンハッタン島から見渡せるブルックリン橋が見えてきた。

あの向こうにはどんな移民の街になっているのだろう……

私はそんな思いに耽っていた。

 

私は結局、時間がないのでブルックリンには行けなかった。

それに夜は治安が悪いという噂を聞いていたので、近づきずらかったのだ。

 

ニューヨーク旅行から2年以上経っても、

あの時、ブルックリンを見ていればな……という思いはずっとあった。

古い煉瓦が並び、とても雰囲気がある街だと聞いていた。

 

アメリカ映画を見ていると、よくブルックリンの街並みが登場する。

アン・ハサウェイなど有名な俳優や女優はブルックリン出身の人が案外多いのだ。

スパイダーマンが暮らす街も原作ではブルックリンだ。

 

映画を通じてブルックリンを見ているうちに、私はやはり後悔をしてしまっていた。

あの時、時間がなくてもブルックリンを見ておけば……

やはり、どこかブルックリンに憧れる自分がいたのだ。

 

 

そんな時、いつものようにTSUTAYAを徘徊していると「ブルックリン」というタイトルの映画を見かけた。アカデミー作品賞を取った映画なので、私もタイトルだけは知っていた。

しかし、どんな内容の映画なのかは知らなかった。

私はいつも前情報を固めてから映画を見る癖があるのだが、今回だけは全くの知識なし状態で映画を見てみることにした。

 

ただ、ブルックリンが舞台の映画なのだということ以外に知識がなかったのだ。

 

映画を再生し、本編が始まった。

 

とにかく映像が綺麗だ。

1950年代のブルックリンの姿がそこにはあった。

 

マフィア映画などでよくブルックリンが登場するので、その街並みの美しさはだいたい知っていたが、ここまで綺麗な煉瓦が並ぶ街だとは思わなかった。

 

そして、私は本編を見ていくうちにずっと気になっていたことがあった。

それは、なぜ製作者はこの映画を撮ったのか? ということだった。

 

アイルランド系移民の少女がニューヨークのブルックリンにやってきて、悪戦苦闘する物語なのだが、どうも背景に凄い深いことが描かれている気がしてならなかった。

 

ただ移民の少女が成長していく物語には思えなかったのだ。

私は映画の中盤、ブルックリンにやってきた少女が教会でホームレスたちに炊き出しをしているシーンがとても脳裏にこびりついていた。

 

教会の神父さんは

「この人たちが今のアメリカを作ったんだ」

そう語っていた。

 

なぜ、純粋な少女がブルックリンで成長する物語にそんな描写を入れるのだと思ってしまった。

そして、アメリカ全土にいるアイルランド系の移民にはどんな歴史があるのか気になってしまったのだ。

 

私は正直いうと、世界史には疎い、

大学受験も日本史で乗り切ったため、世界史についてはどうも苦手意識を持っていた。

そして、何よりイギリスの領土問題のことをよく知らなかった。

アメリカ映画やイギリス映画を見ていると、アイルランドスコットランドの抱える問題がちらほら描かれている。

 

映画「タイタニック」でもセリフの中で、

「この船を作ったのはスコットランド人さ」など比喩する言葉があるのだ。

映画「トレインスポッティング」でもスコットランド出身のショーン・コネリーをやたら尊敬している描写があったりする。

 

アイルランド系とスコットランド系の移民が抱える問題がよく映画に出てくるのだ。

私は久々に世界史の教科書を開き、ネットなども使って色々調べてみた。

高校の時、きちんと世界史を勉強していればと思った……

 

そして、映画「ブルックリン」がアカデミー賞でもやたらと評価されている理由も見えてきた。

 

これはアメリカ社会が抱えている公共事業の問題を描いた作品だったのだ。

イギリス本土から外されたアイルランドの人々の多くが、自由を求めてアメリカに渡って行ったという。アメリカに渡った彼らは、元からいた白人達がしているホワイトカラーの仕事にはつけなかったため、仕方なく土木工事の仕事についていたのだ。

 

しかし、アメリカの高度経済成長が進むにつれ、工事も終わっていき、雇われ労働者だったアイルランド系の移民は職を失ってしまうことになる。

 

教会の神父さんが言っていた言葉の意味はそれにあるのだ。

アイルランド系の移民がアメリカを作ったのに、事業が終わるにつれ、職を失ってしまったのだ。

 

去年公開されたこの映画がやたらと評価される理由もそこにあるのだと思う。

アメリカ大統領選でトランプを支持している人たちの多くが、このアイルランド系の移民たちなのだ。

自由を追い求めてアメリカにやってきたのに、公共事業の問題から職に就けず、アメリカの隅っこに追いやられたアイルランドをはじめとした移民たちがトランプ支持に回ってきたのだ。

 

 ブルックリンという街はそんな移民たちが暮らす街も象徴しているのだ。

おしゃれなカフェなどで賑わっているが、今も貧しいアイルランド系移民の多くがブルックリンという地で暮らしているという。

 

映画「ブルックリン」は、アイルランド系の少女が恋を通じて成長していく物語だと思って見ていたら、アメリカが抱えている移民や公共事業の問題を描いた傑作映画でもあったのだと気づいた。

 

この映画を見て私は、もっと世界のことを知らなければいけないなと痛感したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成生まれのゆとり世代はみんな、実は「岡本太郎」を目指しているんじゃないの?

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「また、こいつか……」

ツイッターをやっていると、週に2、3回はある職業の人からフォローを受け取ることがあると思う。

それは、ゆとり世代が生み出した新しい職業かもしれない。

自由を謳歌し、自分らしい生き方を常に模索する平成生まれのゆとり世代は、究極のところ、あるジャンルの職業にたどり着いた。

それは……

 

ノマドワーカーだ。

 

ツイッターをやっている人なら、皆一度は自称ノマドワーカーからフォローを受けたことがあるはずだ。

 

スマホ一台で簡単にできる。

時間も場所も気にせず、自由に仕事ができる。

就活なんて時間の無駄。僕は海外を旅しながら仕事しています。

 

など、本当にそれで食べていけているのかわからないが、プロフィール欄にはよく、こんなことが書かれてある。

 

ノマドとは、いわば「遊牧民」のことを意味する。

インターネットの技術の発展により、オフィスで働く必要がなくなった現代を象徴する職業なのかもしれない。

 

しかし、全員が本当にノマド遊牧民」となって自由気ままに生活できているのかは疑問である。

本物のノマドワーカーと自称ノマドワーカーが絶対いるのだ。

 

好きでもない仕事に時間を費やすのは、もったいない。

自由気ままに生きよう!

という風潮がどうもゆとり世代を中心に覆っているのだ。

(そういう私も、そんな自由気ままな仕事に憧れる一人だが……)

 

しかし、実際のところ世の中そんなにあまくない。

ノマドワーカーと言っても、毎回仕事がその人に入ってくるのは稀だ。

インターネットを駆使して、しっかりとその人しかできない仕事を確立していないと、あっという間に自称ノマドワーカーというフリーターとほぼ変わらない生き方になってしまうと思う。

 

ツイッターを使ってやたらとフォロワーばかりを増やしている人はどうもそんな自称ノマドワーカーを気取っている様な気がしてならない。

 

なんで、自分も含めゆとり世代は、自由気ままな生き方に憧れるのか?

私はずっと疑問に思っていた。

 

ありのままに生きよう。

自分らしくあろう。 

と平成の教育で先生から言われ続けてきた果てがノマドワーカーなのだと私は思う。

 

インターネットが発達した現代なので、そう言った生き方も全然アリなのかもしれない。

しかし、なんだか私は違和感があった。

 

自由気ままに生きているだけでいいのか?

それ相応のものを背負う羽目になるのではないか?

 

 

私はそんなノマドという遊牧民を見ているといつもあの芸術家の姿を思い出していた。

 

それは岡本太郎だ。

 

 

芸術は爆発だ

このフレーズで有名な岡本太郎が亡くなって、もう20年以上経つ。

私は岡本太郎を知ったのは、渋谷駅にある「明日の神話」という絵がきっかけだった。

子供の頃から度々、渋谷駅にいくことがあったが、井の頭線のホームを出たところにある大きな壁画が、実は岡本太郎が描いたものだと知ったのは、中学に入ってからだった。

 

なんだこの胸にくるエネルギーは……

渋谷駅を利用するサラリーマンは毎朝こんなものを目にしながら通勤しているのか……

私はそう思っていた。

 

とにかく彼が残した絵から発せられるエネルギーが凄まじい。

血が飛び散るかのように、渋谷駅の壁に巨大な絵が飾られているのだ。

 

私は今だに多くの人を魅了する岡本太郎とは一体何者なのだろうかと思って、彼のアトリエや記念館を回ったことがあった。

 

岡本太郎記念館は、案外家の近所にある。

自転車で45分くらだ。

東京と神奈川の県境を越え、川崎の山を登ったところに岡本太郎記念館はあった。

私は初めて、その記念館を訪れた時は、衝撃的だった。

 

彼が残した絵に圧倒されてしまったのだ。

言語を超越した私の感性に、彼の絵がダイレクトに突き刺さった。

 

なんだこの世界観は……

私は彼の絵を見ながら気付いたら3時間以上、記念館の中に居座ってしまった。

記念館の隅に設置してある椅子に座り、私はずっと岡本太郎の世界観を堪能していた。

 

このエネルギーは一体……

血が飛び散るかのように、とてつもないエネルギーの塊が私の目の前にはあった。

 

私は記念館の中には、美大系の人だけでなく、一般のサラリーマンや主婦、子供達から様々な人がいることに驚いた。

10代から20代の人も多く見かけた。

 

ありとあらゆる人を魅了し続ける岡本太郎

なぜ、多くの人は亡くなって20年以上経つのに、今だに彼の絵や生き方に感化されるのだろうか?

 

私はそんなことを思いながら、記念館を一人回っていた。

 

私は通路を渡ったところの柱に書かれてあった、ある文章がとても気になった。

どこかの作家が書いた文章かもしれない。

岡本太郎を表す一言が書かれてあったのだ。

 

岡本太郎は金太郎飴のような存在だ。どこをどう切り取っても岡本太郎になるのだ」

 

私はなるほどなと思った。

実は、ゆとり世代のはじめ、多くの人を今でも岡本太郎の生き方に憧れる所以はそこにあるのかもなと思ったのだ。

 

彼はよく言っていた。

「絵描きやら現代芸術家と言ってその人の職業を区別するなんてくだらない。

私の職業をあえて言うなら……それは人間です」

 

 

社会の枠組みにはまり、職業を区別することに異議を唱えていた岡本太郎は本当に自由に自分の時間を使っていたのかもしれない。

 

ある時は、絵を描き……あと時は縄文土器を分析し、学会に発表し、ある時はカメラマンとなって写真を撮る。また、ある時はテレビのバラエティ番組に出演し、お茶の間の人気者になる。

 

職業の枠組みにはまらず、彼が溢れ持っていたエネルギーをありとあらゆる場所に向けて放っていたのだ。

 

社会の枠組みの中で毎日をすごす生き方に不満を覚える人が彼の生き方に憧れを抱くのはそこなのだと思う。

 

職業の枠にとらわれず、自分のエネルギーを自分が使いたい場所で使う。

そんな生き方に憧れるのだ。

実はノマドワーカーの原型は、50年くらい前に岡本太郎が実践していたのかもしれない。

 

 

岡本太郎は自由気ままに生きていたからと言っても、遊んでいたわけではない。

自分の肉体を削り取るほどの、自分の血肉を使って溢れ出るエネルギーを作品に注いでいたのだ。

 

あれほどのエネルギーを注がないと多くの人を惹きつける作品は作れないのだと思う。

 

平成生まれのゆとり世代の多くが、職業の枠にはまることなく、自由気ままに、自分らしく生きたいと望んでいる。

そんな社会の枠組みの中でもがき苦しむゆとり世代こそ、岡本太郎から学べることがあるのかもしれない。

 

自由に生きたいと言っても、岡本太郎ほどの覚悟とエネルギーがないといけないのだと思う。

 

彼は死に直面した時のゾクゾクと湧き上がる生の歓喜がたまらなく好きだと言っていた。

自分の血肉を削るまで、エネルギーを注げるものがあることが自由気ままに生きていい人間の証なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来に先回りする思考を考えていたら、坂本龍馬が明治維新を達成できた理由がわかった

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「この本は読んでおいた方がいい」

とあるベンチャー企業を立ち上げた友人にこう言われた。

私は最近、文章を書くようになって、嫌でもインプットが足らず、本をなるべく読むようにはしていたが、ビジネス書だけはどうも苦手だった。

 

まず、ビジネスをやっていないため、自分には何の得にもならないんじゃないかと思っていたのだ。

それに自己啓発本というものに苦手意識を持っていた。

人生の教訓を学んでも、本を読んだことだけで満足仕切ってしまう気がしていたのだ。

だから、私は普段ハウツー本というものはあまり読まなかった。

 

「この本は面白い。自分はものすごく考えさせられた」

彼は本に書かれてあった内容を生き生きと語っていた。

実際にビジネスという名の戦場で戦っている彼には、とても痛感できることがあったのだろう。

 

論理的に、しかも的確に本に書かれてあった内容を教えてくれた。

「ビジネスにおいても人生においても、すべてはタイミングなんだ。

未来を予測してここぞというタイミングを掴む感覚の大切さが書かれてあるんだ」

 

あまりにも生き生きと彼が話すので、私はこの本に興味を持ち始めていた。

 

タイミングについての本なのか?

どんな内容なのだろうか?

 

私は早速、本屋に問い合わせてこの本を買って読んでみることにしてみた。

それは21歳の若さで起業し、ものすごい勢いで急成長したベンチャー企業の社長が書いた本だった。フォーブスの「未来を救う起業家ベスト10」にも選ばれた人だ。

 

本のページを開いていった。

電車の中で読み始めたと思う。

 

難しい……

難しすぎる。

 

もし、自分がビジネスをやっていれば読み方も変わっていたのかもしれない。

しかし、ただいまフリーターのプー太郎である自分には、この本はちょっと難しすぎるような気がしていた。

普段も頻繁にブログなどを更新し、文章を書くことが好きな社長本人が明らかに本を書いている。ライターを使っていないのだ。

だからかもしれないが、難しい用語が頻発してきて私は頭を悩まされていた。

 

言いたいことはわかるんだけど、もっとわかりやすく説明してくれないかな……

正直、そう思いながら私は本を読んでいった。

 

明らかIQ200を超えている人が書いた文章なんだ。

自分のようなポンクラにはどうも難しかった。

 

しかし、私は読み続けた。

内容が面白かったからだ。

ものすごく考えさせられたからだ。

 

私はずっと若くして成功するような起業家はコミュニケーション能力も突き抜けていて、人を惹きつける魅力がある人だと思っていた。

 

就活を通じて嫌というほど痛感したのだが、世の中は学歴や経歴はもちろん必要だが、喋りがうまい人が一番強いのだと思っていた。

人生でのし上がっていくような人は頭の回転が早いのはもちろんだが、とにかく喋れるのだ。人を魅了する喋り方を熟知している。

 

能力が高い東大生のすべてが起業して上手くいくとは限らないのはそのためだと思う。

何よりも喋りが上手く、人を惹きつけられる人だけが生き残るような気がしていたのだ。

 

フリーランスの世界などもそうである。

そのひと自身の能力や魅力に応じて「もう一度、この人と仕事したいな」と仕事が振り分けられるのだ。

喋っていて「この人面白い」と思われるかが結構大切なのだと思う。

 

私は昔からどうも喋りが苦手だった。

人とのコミュニケーションが苦手なのだ。

だから、喋りが上手く、世渡り上手な人を見ると、いつもうらやましく思っていた。

自分には到底できないと思っていたのだ。

 

 

しかし、この本では自分の価値観を大きく変えるようなことが書かれていた。

 

「短期間で大きな企業を作り上げた経営者の中でコミュニケーションが高く、人望が厚い人であることは意外と稀。その代わり、共通して持っているものが世の中の流れを汲み取り、今どの場所にいるのが最も有利なのかを適切に察知する能力だ」

 

とにかく成功する人は世の中の流れを汲み取り、タイミングを掴むのが絶妙にうまいのだという。

早すぎても技術が追いつかず失敗し、遅すぎてもライバル企業に追い抜かれてしまう。絶妙に絡み合ったタイミングでビジネスを展開させていくのだ。

 

スマホタブレットのコンセプトは随分昔からあったが、コストが高く、重すぎるなど様々な理由で普及していなかった。端末製造のコストが下がり、ネットの回線が十分に速くなったタイミングで登場したからこそ、iphoneは成功したのだ。

アップル社はタイミングを捉えるのが他の企業よりも圧倒的にうまかったのだという。

 

すべてを決めるのはタイミングである。

その重要性が社長の実体験とともに細かく書かれてあった。

私は夢中になりながらこの本を読んでいった。

 

なるほど。そういうことか。

そうだったのか……

ものすごくIQが高い人が書いた文章のため、考えていることについていくのが大変だったが、私はとても考えさせられてしまった。

 

そして、タイミングの話を読んでいるうちに尊敬してやまない坂本龍馬を思い出していた。

私が「竜馬がゆく」を始めて読んだのは高校3年生の時だった。

受験勉強の一貫として、苦手だった近代史を勉強しようと思い、本を手に取ったのだ。

 

私は号泣したのを覚えている。

この人がいたおかげで今の日本があるのか……

もはや受験勉強をそっちのけで「竜馬がゆく」を読んでいた。

龍馬は日本中を走り回り、敵対していた薩摩と長州を結びつき、日本をあるべき姿に変えていった。私はそんな龍馬の姿に憧れを抱いていたのだ。

 

しかし、坂本龍馬は昔からスーパーマンのように日本中を走り回っていたわけではないのだ。26歳の頃まで、ほぼプー太郎状態である。

グータラ昼寝をしているときに、千葉道場の人から

「何で龍馬さんはいつもグータラしてるのですか?」

と尋ねられ、

「時を見計らっているのだ。まだ、動き出す時期じゃない」

と言って、時期を見計らっていたのだ。

周囲の人間は馬鹿にしていたという。

あのプー太郎が何を言ってんだ? そうヤジを飛ばしていた。

 

しかし、坂本龍馬はペリー来航や安政の大獄で激動していた幕末の日本の情勢を読み取り、人々の動きを察していたのだ。

今は動くべき時じゃない。

自分がすべきことはこのタイミングではない。まだ、時を待とう。

 

そして、ここぞというタイミングで脱藩し、ものすごい勢いで日本を変えていったのだ。司馬遼太郎は、流星の如く現れ散っていった坂本龍馬の姿を

これでもか! というくらい情熱をかけて小説で書いていった。

 

もし、龍馬が激動する幕末の日本で、あのタイミング、あの時期に薩摩と長州にコンタクトを取らなかったら、日本を変えていくことはできなかったのかもしれない。

 

薩英戦争ののちに、欧米諸国の強さを痛いほど感じたため、武士道の精神が強く頑固者が集まる薩摩と長州を動かせたのだ。

 

世の中を変えていくような人は皆、タイミングを捉えるのがうまいのだと思う。

早すぎてもダメだし、遅すぎてもダメなのだ。

 

私はそんなタイミングを計ることができるのだろうか?

しかし、ここぞという時のタイミングに向けて、今はせっせと情報を集めるしかないのかもしれない。

私はまだ、自分がやりたいことが何なのかわからない。

しかし、目の前にあることと向き合って、常に世の中にアンテナを張っていたら見えてくるものもあるのではないか?

 

 

 

普段、ビジネス書をあまり読まない私でもこの本はいろんなことを考えさせられた。

「未来に先回りする思考法」

株式会社メタップスの社長が考える未来の姿は本当に凄かった。

いつの時代も世の中を変えていく人々は常に未来の姿を予測してるのだ。