ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

2年半ぶりにインドを歩いて、ふと湧いてきたあの感覚  

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大学4年の時、インドに一人旅に行ったことがあった。

 

学生生活最後の休みとなると、人生の有給休暇と称される日本の大学生は、

「今しか学生を謳歌できない」

「今しか長期に海外旅行に行けない」

と思って、欧米だったり、アメリカだったりと友達と一緒に卒業旅行に行くものだ。

 

自分もなんだかんだ荒れるに荒れていた就職活動も終わり、最後の休みにどこか旅行に行こうと友達に誘われたりしていた。

 

だけど、そんなときは決まってこう答えていた。

「いや、俺は一人でインドに行くことにしたから、ちょっと無理だ」

 

周囲の人にキョトンとされた。

「え? なんでインドに行くの。しかも一人で!」

 

自分でも不思議なのだが、その当時の自分はなぜか

「インドに行かなければいけない!」と強迫観念的に思っていて、

就活が終わって、時間があくと、図書館にこもってインドについて調べていたりした。

インドのバックパッカー本とか伝説の旅行記「深夜特急」などを読んで、

「よしインドに行こう」と心に決め、海外旅行なんてほぼしたことがないのに、

インド行きの飛行機を買ってしまったのだ。

 

インドはカースト制度や宗教が根深くある不思議な国である。

特に自分は宗教や神秘的なものに興味がある方ではないが、

なぜかインドの奥深くにあるものに惹かれていた。

 

インドについて調べれば、調べるほど、なんかいろいろ悪い噂が見つかってくる。

女性が毎日のようにレイプ被害にあっているらしい……

街がめちゃくちゃ汚いらしい……

インドに行く観光客のほとんどが下痢をして、自国に戻っても一生治らない得体の知らない病原菌に感染するらしい……

普通に道の真中におじさんの遺体が転がっているらしい……

 

などなど、日本で検索していると

「この国に行っても大丈夫なのか?」

と思うような情報ばかり目に入ってくる。

 

「もうどうにでもなれ!」

そう思って、大学生だった自分は一人インドに飛び込むことにした。

 

初めてインドに行った時、自分はまだ社会人でもなく、22歳の世の中を知らない小僧だったこともあり、インドの街で見た光景があまりのも強烈すぎた。

 

バラナシの路地裏を歩いてゲストハウスに戻ろうとしても、

道の真中に牛がたむろっているわ、オレンジ色のお坊さんが大量に現れるわ、

野犬がいるわ、遅い夜道をバイクが爆走しているわ、牛の糞が転がっているわで、

日本の常識が一切通用しない環境にたじろいでしまった。

 

強烈なカルチャーショックにインドの旅に疲れを感じていた頃、とある日本人の尼さんと出会った。

 

そこは観光地である聖地バラナシから少し離れたサルナートという場所だった。

悟りを開いた仏陀が、教えを弟子たちに説いた場所と言われており、仏教発祥の地とされている。

 

朝から晩までクラクションが鳴り響く、騒がしいインドの街の外れに、その日本寺があった。

お寺の正門を入った瞬間、はっとするような感覚というか、一気に静寂に包まれる感じがしたのを今でも覚えている。

 

強烈なインド体験で旅疲れしていた私は、なんの縁かでそのお寺にたどり着き、

そこのお寺の尼さんにとてもお世話になった。

 

その方は日本とインドを行き来している、日本寺の住職さんだという。

少しの間だが、お話をさせて頂いたのだが、その人柄というか、とても優しい方で、私は夢中になっていろんなことをお話させて頂いた。

 

インドの旅から2年半近く経つが、そのサルナートに住む日本寺の住職さんのことがどうしても忘れられなかった。

 

社会に出て、いろんなことを経験する中で、もう一度インドに行ったらどんなことを感じるのだろう。そして、もう一度、住職さんにお会いしたいと思い、お盆休みを利用して、再びインドに飛び込むことにした。

 

二度目のインドである。

同じ国、同じ場所に2回来るのだから、相当私はインドが馴染んでいるのか……

 

空港から出た瞬間、鼻に感じるインド独特の匂いに懐かしさを感じつつ、

ヒンドゥー教の聖地バラナシに再び向かうことにした。

 

学生の頃はデリーからバラナシまで24時間近くかけて電車で移動していたが、

(そのうち8時間近くは荒野のど真ん中で停車する謎の遅延だった……)

今回は社会人ということもあり、短期間しか時間がなかったため、飛行機で移動することにした。

電車だと尋常じゃないくらい長く感じたデリー〜バラナシ間だが、飛行機だと1時間ほどであっという間に着いてしまう。

 

バラナシのゲストハウスで何泊かした後、思い出深いサルナートに向かうことにした。

人混みと牛で溢れかえっているバラナシからリキシャーで1時間半ほどで、その場所にたどり着いた。

リキシャーのおっちゃんに「日本寺」に行きたいというと、親切にもお寺の真ん前で降ろしてくれた。

 

2年半ぶりに見た日本寺は、やはりその場所では周囲の騒がしさから外れ、静寂に包まれていた。

 

以前に来た時は小さかったお寺の管理人の子どもたちは、すっかり大きくなっていた。

「こんにちは」

と日本の管理人の方に挨拶をし、住職さんはいらっしゃらないかと伺ったところ、今はちょうど日本に帰国してしまっているという。

聞いたところによると住職さんは最近、猛烈に忙しく、インドと日本を行ったり、来たりしているという。

 

「せっかくこんなところまで来ていただいたのに、申し訳ない」

 

私は残念に思いつつも

「ま、いつかまた会えるときに会えるか」と思うことにした。

 

せっかく来たことだし、参拝しようと思い、祀られている神様に参拝することにした。

お賽銭を入れて、手を合わせた。

頭の中では何も考えなかった。

だけど、自然と「旅で出会った人たちが無事、幸せでありますように」

と心の声でつぶやいていた。

 

自分でも驚いた。

日本でお参りするときなどは、決まって自分のことばかりをお祈りしたりしていたのだが、なぜかこの時は、自分の周りで出会った人たちのことを思って、

祈りしていたのだ。

 

相手のことを思って、何かを思いやるということは初めてだったのかもしれない。

自然とそんな声が心のそこから湧いて出た。

 

その時は、住職さんとお会いすることが出来なかったが、インドでいろんな人に助けられ、バラナシのゲストハウスの方から日本にいる住職さんの連絡先を伺うことが奇跡的に出来た。

本当に奇跡的だ。

 

日本に帰ってからも、あの時、ふと感じた、人を思いやる感覚……

それがどうしても忘れられない。

 

よく考えてみたら、日本にいるときの私はいつも自分のことばかり考えていたような気がする。

営業成績を伸ばしたいだとか、自分は忙しく仕事しているのだから、

電車の中で座りたい人がいても、自分が座っていても文句ないだろうとか、

いつもいつも、自分、自分と考えていた。

 

インドでふと感じた、人のことを思う気持ち……

その時、感じた清々しさというか、新鮮な心の感覚、

それってとても大切なことなのだと思う。

 

日本に戻ったら、街の中に牛とかはいない。

ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗って会社に通って、もとの日常に戻っていく。

 

だけど、インドの奥深くにあるお寺で、

あの時に感じた、あの感覚は忘れては行けない気がする。

 

クリント・イーストウッド監督の映画「15時17分パリ行き」を観て、極限までにシンプルな禅の境地を感じた  

 

 

 

クリント・イーストウッドの最新作」

3月頃に予告を観て、驚いた。

 

正直、まだ映画撮ってん?

と思ってしまった。

 

映画ファンなら誰もが知っているクリント・イーストウッド

「荒野の用心棒」などマカロニウエスタンシリーズを夢中になって観ていて人も多いかもしれない。

 

最近だとハリウッドの巨匠みたいな扱いになって映画監督としても有名になっている。

今年で88歳だという。

 

88歳でまだバリバリ映画を撮っているのか……

クリント・イーストウッドのエネルギーに驚くと同時に

正直、もう限界なんじゃないかとも思っていた。

 

映画監督はたいてい若さとともに感性も死んでいく感じがしていた。

大御所になったハリウッドの監督はたいてい、ベテランになってから自分が撮りたいと思う映画を撮るようになる。

 

若いときは大衆向けの面白い映画を作っていたので、業界で名前が知られて、自分の力で映画を仕切ることが出来るようになると、どこか自分の作家性重視の映画を作るようになる印象があった。

 

それはそれで面白いのだが、ファンとしてなんだかもったいない気もしていた。

黒沢明も正直、晩年は作家職が強くて、どうしても「七人の侍」や「羅生門」を手がけていた時代が個人的には一番、好きである。

 

スピルバーグも今の映画も充分好きだが「ジュラシックパーク」などの大衆娯楽映画を手がけていた時代が一番好きだ。

 

今頃になってクリント・イーストウッドの映画?

正直、88歳になったハイウッドきっての大御所監督の作品なんて、自分と感性が違っていて、あまり心に響きないと思っていた。

年齢も60歳以上違っている。

 

流石にあまり共感が持てる部分がないだろう。

そんなことを思って映画を観るのを躊躇している自分がいた。

 

15時17分、パリ行き」が公開された時も気にはなっていたが、あまり期待していなかった。

 

機会があったら観に行こうと思い、結局映画館に行かないまま、公開が終わってしまった。

 

予告編を見る限り、面白いだろうと思っていが、

わざわざ1800円もかけて映画館に行くのもな……

と思い、結局映画館に行かないまま時が経ってしまった。

 

先日、三連休の手前でTSUTAYAに訪問して、いつものように棚をぶらぶら歩いて週末に見る映画を探していた時、この映画のパッケージがふと目に入った。

 

あ、この映画結局観れてなかった。

せっかくの機会だし、観てみるか。

 

そんな軽い気持ちでパッケージを手に取り、家に帰って映画を観てみることにした。

 

オープニングショットからして、すごいなと思った。

 

さすが88歳のベテラン中のベテラン監督である。

ものすごい早撮りで有名な人である。

 

普通の現場なら平均8テイクは撮るところをこの監督はわずかワンテイクで撮ってしまうということは聞いていた。

 

その道60年以上の経験と、自身が俳優をやっていたことから、撮影現場の全てをコントロールできるのだという。

ものすごい早撮りだ。

 

映画を観ていうちに、「この監督はやっぱりすごいな」

と思ってしまった。

 

ワンカット、ワンカットがとにかく重厚なのだ。

光の撮り方からして、明らかに普通の監督が撮る絵と違っている。

 

何十年のベテランであり、職人である監督だからこそ撮れる絵がそこにはあった。

 

私は無我夢中になって物語の世界に惹き込まれていった。

 

そして、驚いた。

 

ずっと、ずっと映画を観ているうちに薄々気がついていたが、まさかと思った。

 

映画の登場人物が皆、実際の事件の現場に遭遇した方々だったのだ。

パリ行きの電車の中に偶然居合わせ、偶然乱射事件に遭遇した若者たちのヨーロッパ旅行が後半描かれていく。

 

正直、ストーリーの内容なんてなかった。

アメリカの田舎にいるごく普通の青年たちが旅行をする描写が続くだけである。

しかも、演じているのは役者ではなく本人である。

 

だけど、惹き込まれるのだ。

面白いのだ。

 

とくに物語性があるわけではないが、画面から伝わってくる職人技というか、スタッフたちの熱量に圧倒され、気がついたら夢中になって観てしまう。

 

なんで、こんなに物語に内容がないのに惹き込まれてしまうのだろう。

 

物語の最後には乱射事件から乗客を救ったことで、フランス政府から表彰される映像が流れてくる。

 

実際にテレビで流れていた映像に、今まで映画の中で写っていた本人たちが出てくる。

なんだかデジャブな感じがしてしまった。

しかも、乱射事件で、撃たれてしまった被害者の一人も、再び映画の中で同じシーンを再現されている。

 

イーストウッド監督のチャレンジ精神というかフロンティア精神に驚いてしまった。こんな映画普通撮らないだろう。

 

明らかに照明も使わず、自然光だけ撮っている。

役者もすべて素人を使っている。

 

物語も中盤は若者たちがヨーロッパ旅行で遊び呆けている描写が続くだけである。

 

だけど、観れてしまう。

 

どこか枯山水というか禅の境地に立たされるかのような、シンプルな映像が続くだけである。それでも観れてしまう。

 

私はこの映画を観ているうちに、昔京都の寺の住職さんから聞いた話を思い出していた。

 

大学生の頃、なぜかよくわからないが一時、禅について学ぼうと思い、

京都の寺で座禅修行したことがあった。

 

その時寺の住職さんはこんなことを言っていた。

「雑音を取り除いて、物事の本質を見抜く。それが禅というものです」

 

どんな分野でも長年その道を突く進めていくと、無意識のうちに本質が見抜けるようになるという。

無駄な部分を省いて、物事の本質が研ぎ澄まされていく。

 

禅に傾倒していたスティーブ・ジョブズはこの禅の精神に魅了され、

物事の本質的な部分に絞ったアップス製品を数多く作った。

 

iPhoneもそうだし、Macbookもそうである。

白い貝殻のようなかたちをしていても、とてもシンプルにまとまっていて、子供が触っても、無意識に動かせるようになっている。

 

そんな奥深く、深い禅の精神をこの映画を観ていくうちに感じてしまった。

 

その道60年以上の経験から、無駄なカットを極限まで削ぎ落とし、シンプルにまとめ上げていく。

本質的な部分を見抜き、しっかりと作品に仕上げていくクリント・イーストウッド監督の職人技を、映画を観ていくうちに感じてしまった。

 

何はともあれ、映画「15時17分パリ行き」。

改めてイーストウッド監督の凄さを感じされる映画だった。

 

「社会規範を守って!」というタイトルに惹かれて。

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先日、実にまずい映画を観た。

期待して観に行ったのに、何だこれはと正直舌打ちをしたくなった。

 

ま、有名な作品のリメイク版だから仕方ないよな。

だけど、あれだけ期待していったのに、なんでこんな作品になってしまったんだろう。

 

なぜ、こんなストーリー展開の映画が100億円もかけて作られたのか。

今の商業主義的な映画づくりに虫唾が走るのに加えて、実にまずいと思ってしまった。

あまりにも映画のストーリーが微妙すぎて、自分の感情も気分が悪くなってしまったのだ。

 

私は昔から自他ともに認める映画好きだ。

学生時代はアホみたいに映画を観ていて、年間350本以上観ていた。

一日6本くらい映画を観ても飽きないから不思議である。

 

社会人になって映画を観る時間は減ってしまったが、週に最低一本以上は映画を観るようにしている。

映画館に行くときは貴重な休日を無駄にしたくないと、映画の中のストーリーやコンテンツをすべて吸い尽くすかのようにして、無我夢中になって映画を観ている。

 

昔から面白い映画と出会うと壊れてしまう時がある。

最近だと、「この世界の片隅に」を観て、泣きすぎて、なぜかよくわからないが深夜の新宿を5時間ほど徘徊してしまった。

 

スター・ウォーズのスピンオフ作品「ローグ・ワン」を観たときは、エンディングの名もなき英雄たちが散っていく様を観て、号泣しすぎてしまい、新宿紀伊国屋を1階から8階まで、階段で5往復くらいしてしまった。

 

映画の世界にどっぷり浸かりきってしまい、観終わったら体が感化されすぎて、自家中毒症状みたいになることがたまにある。

 

面白い映画と出会えたときは幸福だ。

常に消えていってしまう感受性が潤っていくような感じ。

忘れてはいけない何かを感じる心。

 

子供の頃には持っていた懐かしい感じを思い出すかのようにして、夢中になって映画にかじりつきながら観ていた。

 

逆につまらない映画と出会うと最悪である。

映画の世界観にどっぷり浸かりきってしまう性格のため、つまらないコンテンツに影響されすぎてしまい、体調が悪くなる。

 

週の終わりにつまらない映画と出会ってしまうと、翌週の仕事のパフォーマンスにも影響が出てしまう。

 

先週は、期待はずれの映画を日曜日に観てしまった。

本当に期待していたのに、なんでこうなってしまったのかと思えるくらいだった。

まずい。

このままでは月曜日からの仕事に支障が出る。

そう思い、なんでもいいからいい映画を観なきゃと思い、TSUTAYAに飛び込むことにした。

 

今までだったら、自分がこれまで感銘を受けた映画を観れば済む話だった。

だけど、なぜか不思議と手にとってしまった映画があった。

 

なぜ、このタイミングで自分がこの映画を観ることになったのかよくわからないが、なぜか、気がついたらこの映画のパッケージが自分の手の中にあったのだ。

 

それはある実在するロックンローラーをモデルにした物語だ。

 

正直って、その歌手の名前は知らなかった。

アメリカだと誰もが知っている有名な歌手らしいが、音楽に疎い私は知らなかったのだ。

 

ま、今日は時間があるし、この映画でも観てみるか。

 

昼過ぎに観たつまらない映画の代用品として私はその映画を観た。

 

正直言って、何も期待していなかった。

ただの休日の暇つぶし感覚で観始めただけだった。

 

だけど、映画の物語が進むに連れて、その歌手がたどることになった数奇な運命に夢中になってしまった。

 

こ、この映画すごくないか?

オープニングからして驚いた。

 

あの有名な歌手が刑務所の受刑者の前にしてロックを歌うシーン。

 

なんだ、この映画は。

誰なんだ、この主人公は。

 

冴えない人生を送っていた彼は、ある人物との出会いを通じて、音楽の道に進むことになる。

その人物は後にエルビス・プレスリーを輩出するような名音楽プロデユーサーになる方だ。

 

初めは否定された。

流行に乗って、ゴスペラを歌っても名プロデユーサーの耳には届かない。

 

「トラックにはねられ 死ぬ前に1曲だけ歌う時間がある。
この世で君が感じたことを神に伝える曲。
それを聞けば君という人間がすべて分かる歌を歌え」

 

初めはただの暇つぶし感覚で観始めて映画だった。

だけど、観ていくうちに涙がこぼれてしまった。

 

それは家族が苦手で、不器用ながらも自分が理想とする家族を追い求める男の話だった。

運命の女性を射止めようと何度も不器用ながらもプロポーズを続ける男の話だった。

周囲の人を傷つけ、それでも懸命に生きていく。

そんな姿に私は感動してしまった。

 

 

私は映画を観終わったタイミングで、実在する彼のことを調べていった。

あのエルビス・プレスリービートルズボブ・ディランがロックの神として崇め、今なお多くのファンが根強くいるミュージシャン。

 

正直言って、私はそのミュージシャンのことをこの映画を通じて初めて知った。

だけど、彼の生い立ちや不器用な生き方などを、映画を通じて知って、どこか他人事のように思えなくなってしまった。

 

どんなにどん底に落ちようとも、かすかな光や周囲の人に支えられ、懸命に生きていく姿勢に涙なくして観れなかった。

 

人を傷つけ、自分を傷つけてまでも、彼は歌うことは辞めなかった。

 

「それを聞けば君という人間がすべて分かる歌を歌え」

若い時にとある人物にそう言われたことが彼の人生を大きく変えたのかもしれない。

 

家族が苦手で、不器用にしか生きられない人が観るのもいい。

人を傷つけることでしか自分を認められない人が観るでもいい。

 

きっと、50年台のカントリーミュージックの黄金時代を駆け上がっていったジョニー・キャッシュの自伝的映画「ウォーク・ザ・ライン」を観れば、きっと明日に生きる勇気をもらえるはずだ。

 

 

映画「わたしに会うまでの1600キロ」を観て、何かを変える人の本質に気がついた

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「なぜ、こんなに荷物が多いんだ」

私はとにかく荷物整理が苦手だ。

 

これもいる、あれもいると余計なものを詰め込んでしまい、バックがぎゅうぎゅう詰めになる。

 

自分は普段、営業の仕事をしており、外に出る機会が多いのだが、その時持っていくバックがやたらと重い。

 

自分ではこれくらいの資料を持ち運ぶのは普通だと思っていたが、周囲の先輩を見てみると、意外と案外スマートである。

自分なんてバックパックを背負っていく感覚でいつも外出している。

 

「なんでそんなに荷物が多いんだよ。詰め込みすぎだろ」

とよく言われる。

 

必要なものといらないものを整理できず、心配性なこともあり、

「クライアントの前でさっと資料を取り出さないとまずい。念の為この資料も持っていかなきゃ。あの資料も持っていかなきゃ」と思っているうちに、気がついたらとんでもない量になっている。

 

必要なものと必要でないもの。

それが整理整頓することが昔から苦手だった。

 

頭の中がだいぶぐちゃぐちゃなのかもしれないが、あれもこれもと考えていくうちに、いつもパンクしてしまい、やたらとノイローゼ状態になることが多い。

 

こないだも軽く頭がパンクしてしまったことがあった。

あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと消化しきれない仕事にあれやこれやと

忙しない一週間を送っていくうちに、だいぶ寝不足だったのか、その日はだいぶ疲れていた。

今日は飲みに行こうよと会社の上司に言われ、夜遅くまで飲んでいた。

飲むと言っても自分は昔から全く飲めない。

ビール一杯を飲んだだけで、だいぶ疲れていたのか帰りの電車の中で気持ち悪くなり、盛大に電車の中で吐いてしまった。

(近くにいた人、大変すいません)

 

普段はビール一杯ぐだいだったらなんともないが、その日はだいぶ寝不足だった。

いつも以上に電車の人混みに耐えられなくなり、気持ち悪くなってしまった。

その場に会社の上司がいたので、

「すいません」とひたすら誤りながら、後片付けをして家に帰った。

 

あ、だいぶ頭の中がパンクしているな。

毎日の仕事の量に没頭しているうちに、私の頭の中はだいぶぐちゃぐちゃになっていたのかもしれない。

 

ちょっと休まなきゃだめだ。

一旦、仕事や自分と距離を置かなきゃ。

やつれた顔をしながら何か映画を見ようと思い、TSUTAYAをぶらぶらしていると、とある映画が目に入った。

 

それはずっと観ようと思っていた映画だった。

だけど、観るきっかけが持てず、ずっと放置していた映画だった。

 

 

初めてこの映画のパッケージを見たときからずっと気になっていた。

バックパックを背負って、広大な大地を一人歩く女性の写真に、とても感化され、一度ちゃんと観てみたいと思っていた映画だった。

 

だけど、なぜだろうか。

旅の魅力を描いたこの映画はどこか麻薬のような気がしていて、社会人になりたての当時の私は、「まだこの映画は観るべきじゃない」ととっさに思い、観るのを躊躇していたのだ。

 

だけど、そのときは直感的にいま観ないといけない。

そう思った。

私はそのまま、レジにブルーレイを持っていき映画を観てみることにしてみた。

家に帰り、すぐにデッキにブルーレイを突っ込み、映画を観始めた。

 

映画が始まった瞬間、「あ、これは観なきゃいけない映画だ」

そう思った。

最初のオープニングショットからして、私は映画の世界に一気に惹き込まれてしまった。

 

バックパックを背負って、広大な砂漠の丘を駆け上がり、血だらけになった靴を脱げ捨てる女性。

足の爪先は充血していて、爪を剥がす動作は痛々しかった。

 

それでも傷だらけになった体を一歩一歩動かし、懸命に歩いていく。

一歩ずつ、一歩ずつ歩いていく。

その映画はパシフィック・クレスト・トレイルと呼ばれるメキシコ国境からカナダ国境まで、アメリカ西海岸の1500キロ以上のコースが舞台になっている。

 

誰にも知られることもなく、一人ずっと孤独に歩いていく女性。

母親を亡くし、精神的にやつれて、すべてを捨ててまで、ひたすら歩く彼女。

旅に出るまでのエピソードを交えながら物語は進んでいった。

 

私は映画を観ているうちに、自分も昔こんな旅をしたことがあったので、少し懐かしくなってしまった。

 

 

人生が行き詰まり、約1500キロ以上のコースをひたすら歩くことを選ぶ彼女。

最初は自分の人生を見つめ直すきっかけが欲しかったのかもしれない。

だけど、過酷な旅を続けていくうちに、彼女の考えは変わっていく。

 

何が何でも目的地にたどり着く。

その決意が一歩、一歩と歩く中で生まれていったのかもしれない。

 

途中、雪山に阻まれても、諦めずに山を登っていく。

どこまでも続く荒野をひたすら歩く。

 

いつしか道中で旅人と出会うと励ましの声をもらうようになる。

 

「いろんな人からあなたのことを聞いたんです。あなたが残したノートが私の励みになりました」

 

旅の途中で人とふれあいながらもゴールを目指していく。

そんな姿を観ているうちに私は映画の世界にどっぷりと浸かってしまい、時間を忘れてじっと観てしまった。

 

最終的に約3ヶ月間の旅を終えて、彼女は目的にたどり着く。

 

私はこの映画を観ているうちにふと感じたことがあった。

 

何かを変えたいと思って彼女は旅に出ていた。

だけど、道中でいろんな人と出会い、いろんな人から尊敬されるようになったのは自分自身を変えたからだと思う。

 

自分が変われば、自然と周りに集まる人も変わってくるのだ。

自分が発する磁場に惹きつけられるかのようにして、ぐるぐると自分の人生を変えてくれるような人が現れる。

そんな人生の教訓をこの映画からなんとかく感じてしまった。

 

結局、この映画の主人公の女性はゴール地点で、新生活を始めることになる。

今では結婚して、子供にも恵まれ、あの旅で感じたことをエッセイとして発表し、今や売れっ子のライターだという。

 

旅を通じて、いらない荷物を一つ一つ整理していった彼女。

そんな姿勢にすごく感動してしまった。

 

私はだいぶ今、頭の中がぐちゃぐちゃだったのかもしれない。

いらないものを整理できず、忙しない日々に没頭するうちに、何がなんだかわからなくなってしまった。

 

何か自分を変えたいと思って、本や映画の世界に逃げ場を求めていた。

だけど、何かを本気で変えたいと思ったら、外に頼るのではなく、まずは自分自身を変えないといけないのかもしれない。

 

よく考えれば、今までで出会った人の中で、

常に世の中に発信していて、影響力がある人って、外に刺激を求めるのではなく、

まずは徹底的に自分を追い込んでいる人が多い気がする。

 

何がなんでもこれをやるんだ。

その決意が周囲に伝わっていって、自然と集まってくる人も変わってきたのだと思う。

 

自分を変えれば、周囲に見える景色が変わってくる。

そんなことをこの映画を観ているうちに感じてしまった。

 

映画「わたしに会うまでの1600キロ」

原題は「Wild」という。

 

何かを変えたいと思っている人にとって、とても励ましの映画になるのだと思う。

 

負の感情はエネルギー    

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「あ、また負のオーラが出てる」

毎日、満員電車に揺られながら仕事に向かっていると、必ずと行っていいほど、

負のオーラを周囲に放っている人を見かけることがある。

 

電車がガタンゴトンと揺れる度に、その気が電車内に蔓延するかのように散らばっていく感覚。

 

私は毎朝、人でギュウギュウ詰め状態の電車内でこんな光景を見る度に、なんだか変な雰囲気になる。

自分も昔からとにかくマイナス思考な方だった。

 

プラスでポジティブな考え方をしようと思っていても、なぜか不思議とマイナス思考な方に向かってしまう。

 

ポジティブな考え方でもし失敗したら、つらい。

だから、最初からマイナスなことを考えといたら、

良くないことが起こっても自分への精神ダメージが少ない……

 

たぶん、心の奥底でそんな思考回路が出来ているのだろう。

最初からマイナス思考なことを考えていたら、なんとかうまくやりきれる。

 

ポジティブな人の方が魅力的なのはわかる。

だけど、どうしてもポジティブに考えられない自分がいる。

 

どうしたらいいのだろうか。

そんなことを私も負のオーラを発しながら考えているのかもしれない。

 

毎朝、周囲の人に押し込まれながら電車に乗ってしまうと、どうしても耐えられない時がある。

ある種のパニック障害なのか。

胸が苦しくなって、落ち着くために駅に降りたり。

 

この負の感情を何処かにぶつけたい。

人とうまく関われない自分を変えたい。

 

そんな感情が大学時代には爆発してしまい、自主映画ばかり撮って、海外旅行ばかり行っていた。

 

今思うと、よくあんなにエネルギーを発散していたなと思う。

ゾンビ映画を作りたいと思い、30人以上の人を集めて撮影したりもした。

とにかく人に認められたかったのかもしれない。

自分の中でプツンと湧き上がってくる負の感情をどこかにぶつけたかったのかもしれない。

 

私はとにかく有り余るエネルギーをぶつける先を探し求めていた。

 

社会人になって、そのエネルギーをぶつける先が仕事になった気がする。

とにかく早く結果を出さなきゃと思い、外を走り回る毎日である。

自分がしている仕事は営業なので、結果が全ての部分がある。

 

とにかく早く結果を出さなきゃと思い、飛び回っている。

毎朝、夜遅くまで仕事をしていたのだが、ある日

「あれ、自分で仕事しているフリをしているだけじゃん」

そんなことを思った。

 

とにかく結果を出したくて、誰よりも早く会社に来て、誰よりも遅く会社に残っていた。

もっと仕事をしたい。そう思ってがむしゃらに仕事をしていた。

だけど、なかなか成果は出てこない。

眼の前の業務にばかりに夢中になって、肝心の成績が全く出てこない。

日本の会社って結構残業が激しいが、ものすごく生産性が悪いと聞いたことがある。

自分が働いていた一日を計算してみると、無駄な時間があまりにも多いことに気がついて、改めて自分の働き方を見直すようになった。

 

すると、少しずつだが、早く帰れるようになったのだ。

早く帰ったで、また有り余ったエネルギーをどこにぶつけていいのかわからなくなった。

 

帰宅ラッシュの電車の中でも、他者から自分を守るため、私の心はどんどん硬くなっていった気がする。

 

自分の感情を他者からさらされないように、ぎゅっと薄い膜を自分の周囲に貼るようになった。

この膜を作ることによって、自分が傷つかない。

そんなことを考えるようになった。

 

どんどん負の感情が膨れ上がり、いつしか人と喋るのが怖くなってしまった。

他者からの感情を感じるのが怖い。

自分の感情を人に伝えるのが極端に怖くなってしまったのだ。

 

 

負の感情がぐるぐると周り、土日になっても気分が晴れなかった。

このままでは駄目だ。

 

ちょっときつい。

そんな日は公園などで自然を見て、なんとか気分を落ち着かれる。

負の感情に一度包まれると、人間って不思議で世の中の負の部分ばかりに目を向けてしまうことになる。

 

世界中の負のエネルギーを自分で集めている感じ。

周囲に異常に敏感になって、ちょっとした些細なマイナスな出来事も、ものすごく辛く感じる。

 

 

ある日、自分が尊敬してやまないライターさんが書いた本をふと読み直した。

 

なぜかこの本とは縁があって、気がつくといつも自分の手のもとにあったりする。それは就活でパニック障害になったことのある著者が社会に向けた思いをぶつけた本であった。

 

その本の一説に整体師にある言葉を投げかけられたという。

「イライラしたり、悲しかったり、不安だったりする感情は、余ったエネルギーを消費しようとして生まれたもの。うつ病だったリストカットする人の体は実はエネルギーで満ち溢れている。ものすごくタフな体を持っているの。

その巨大なエネルギーを発散する方法がわからないから心の病というかたちで表に出てきてしまう」

 

その本の著者は怒りや悲しみなどの負の感情は別のなにかを芽吹かせるエネルギーなのだと書いてあった。

 

その本を読み直してみてなんだか考えさせられてしまった。

 

自分はとにかくマイナス思考な部分がある。

また、そんな風にマイナスに考えてしまう自分が嫌いで仕方なかった。

もっとポジティブに考えたほうがいい。

そうは思っても、なかなか自分の思考回路や性格を変えられず、有り余るエネルギーをどこにぶつけたらいいのかわからなかった。

 

だけど、負の感情も自分が何かを変えていくエネルギーになるかもしれないと考えると気分が良くなった。

 

 

 

ネガティブは悪いことじゃない。

病気になったり、落ち込んだり、悩んだり、一見マイナスに見える人こそ、実はとんでもないエネルギーを持っている。

 

 

自分もマイナス思考な人間だが、負の感情で包まれてしまい、自分を傷つけるようにななるのは、有り余るエネルギーをどこにぶつけたらいいのかわからない人が多いのかもしれないなと思った。

 

フリーターやニート、会社を辞めてしまう人、

世の中には有り余るエネルギーを発散する術がわからないまま彷徨い歩いている人が多いのだと思う。

 

社会から逃げているのではなく、エネルギーをどこにぶつけたらいいのかわからない。

自分も未だに何処に向かってエネルギーをぶつけたらいいのかわからない。

だけど、少しずつ世の中を明るい目で見れるようになった気がする。

 

毎朝電車の中で見かける負の感情に包まれている人を見ても、なんだか優しい目を持って見れるようになってきた。

 

 

いまが消えていく  

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今から自分が後悔していることを書こうと思う。

ずっと、心の奥底で抑えていた感情。

とにかく今、この時に何か書かないと再び闇に消えていってしまいそうな気がする。

そう思いながら、自分は手を動かしながら書いている。

 

なぜ、あの時、そうしなかったのか。

ずっと、頭の片隅に後悔の念があった。

 

私はもともと映画監督を目指していた。

「学生時代に頭角を現す」

そう思い、破水の陣を敷くようにして、映画に夢中になって、自主映画作りに取り組んでいた。

アホみたいに映画を作っては、アホみたいに映画を見まくっていた。

 

「自分なら何か持っているはずだ」

そう思い、大学の授業をサボっては、映画ばかり観る生活を送っていた。

 

自分が住んでいる調布市はあまり知られていないけど、昔は「東洋のハリウッド」と呼ばれるような映画産業が盛んな地域だった。

 

家から自転車で数分後のところに、大映撮影所、日活撮影所、東宝撮影所などの日本に4つ現存している撮影所の中で、3つが調布市近辺にあるのだ。

 

「ここで働きたい。映画の世界で仕事をしたい」

 

とにかく当時、自分はものを作る仕事に就きたかった。

なにか自分の中で膨れ上がってくる感情を伝える手段……

それが自分にとって映像であったり、文章を書くことであったり、写真を撮ることであったりいろいろある中で、とにかく何かを作って、人に伝えるという手段が欲しかったのだ。

 

 

撮影所では結構、泥臭く働いていた。

映画やCM撮影の現場はどこかクリエイティブで格好いいと思っていたが、実際に見てみたその世界はどこか泥臭く、一つの映像を撮るのに何十時間もかけて撮影するような職人技の世界だった。

 

そんな世界に憧れていた。

憧れていたはしたが、どこか心の奥底で違和感があったのを覚えている。

 

自分は少しでもいいからクリエイティブな世界に行きたい。

肥大化した私の自己が抑えきれなくなり、就活で苦労しながら倍率1000倍のマスコミ就活に挑むことになる。

 

結局、テレビ制作というクリエイティブな世界に進むことになる。

もちろん、初めはものを作る最前線には立てなかった。

毎日、ディレクターの無茶振りを聞き、走り回る毎日である。

 

毎日、毎日怒鳴られ、疾走しているうちに自分は何をやっているのかと思ってしまった。

当時は、私は毎晩3時まで仕事しながら、隙間時間を見つけては、文章を書くことをしていた。

知り合いの方から書評を書いてくれと簡単なアルバイトの仕事をくれていて、そこでものを書く魅力に気がついたのだ。

 

私は来る日も来る日も怒鳴られ続ける日々に滅入ってしまい、その際に溜まった感情を吐き出すかのように、書いて書いて書きまくっていた。

今思うと、何であんな生活が出来たのか不思議でならない。

 

結局、当時していたテレビ制作の仕事は辞めてしまう。

だけど、その後もどうしても何か自分の中にある感情を吐き出す手段を探していた。

 

何か表現したい。

自分の中に膨れ上がってくる感情を抑えきれず、吐き出す手段を探していたのだ。

そんな時に出会ったのが、とある本屋が主催していたライティング講座である。

どこで見かけたのかわからないが、私はなぜか導かれる家のようにしてその本屋にたどり着いた。

 

今思うととても不思議である。

そこでいろんなプロの方と出会った。

「とにかく書くしかない。書け」

とひたすら書け! 書け! と講師の方から言われ、とにかく無我夢中で書きまくっていた。

 

たぶん、毎日1万字以上は書いていたと思う。

ずっとずっと自分の中に膨れ上がってくる感情を吐き出す手段を探していた。

その手段がようやく見つかったような気がして、自分の中にまた書きたいという感情が抑えきれなくなった。

 

そんな中、ある日突然書けなくなってしまったのだ。

むしろ、書く理由がなくなってしまったと言ってもいいかもしれない。

 

長いフリーター生活に耐えられなくなり、転職をし、再び社会の荒波に入っていくに連れ、「今は仕事に集中しなければならない」と思い、何も書けなくなってしまったのだ。

むしろ、書くことから逃げてしまった。

 

何も書くことがない。

そういう言い訳をして、書くということから逃げていた。

 

すると、不思議と今まで鮮やかに見えていた世界が少しずつ色あせてくる様になった。

 

大好きで仕方ない映画もまったく見れなくなった。

土日になっても映画館に行く気すらしなくなったのだ。

こんなことは初めてだった。

 

毎日、夜遅くまで仕事を行い、土日も書類を作ったりと仕事をしていた。

わりと仕事に不満はなかったけども、自分の中に芽生えていたモヤモヤがどんどん消えていってしまう感触があった。

 

 

あれ、もともと自分って何がやりたいんだっけと感じ始めた。

 

「あ、自分がやりたいことって永遠に続くと思っていたけども、そうではないんだ」

そう思った。

これが好きだ。これがやりたいと思っていても、時が過ぎていくと自然と自分の中から消えていってしまうものなのだ。

 

明日になったらやる気がでるかもしれない。

どこか人生の中で突拍子のない出来事が起こって、誰かが自分を導いてくれるかもしれない。

そんなことを思い描いていても、実際の現実の中ではまずそんな人と巡り合うことはない。

 

やりたいことや欲しいもの。それをその時感じていても、今この瞬間で感じていた思いをキープすることは本当に難しい。

 

自分の中で「書く理由がなくなった」という言い訳を作って、書くことから逃げていた自分が恥ずかしくなった。

書いて、書いて書きまくっていくうちに何か見えてくるものがあるはずなのだ。

 

書くということは今を生きることに似ている。

今、この瞬間で感じたことを文章に落とし込むことで、自分を再確認する作業。

その作業を放棄した私は生きるのを放棄したのと同じだったのかもしれない。

 

その時に感じたものや思いは時とともに消えていく。

絶対に消えていく。

 

そのことに気がついた私は再び書かずにはいられなくなった。

もっときちんと生きたいと恥ずかしながらも思った。

 

どんなに回り道したっていい。

書いて書いて書きまくっているうちに、何かが見えてくるはず。

そう思うことにした。

魂の速度は人それぞれ    

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「あ、もうこんな時間だ」

忙しない毎日の中、朝の時間は貴重である。

会社に向かって家を出る前に、朝ごはんを食べて、スーツを着て、最寄りの駅までに向かうまでの時間。

 

東京の満員電車はどこもかしこも、ぎゅうぎゅうづめ状態で、どうしても満員電車というものが苦手な私は、時間に少し余裕を持って、家を出るようにしている。

いつも、なんだかんだ朝は大忙しである。

 

毎朝、同じ時間に家を出て、同じ時間の電車に乗る。

その間にきっと、いろんな光景を出くわす。

 

毎朝、同じ時間に出ていても、家から伸びる影や、太陽の光の位置は変わっているはずだ。

私は普段、どこにいくにもカメラを持ち歩いている。

そのため、ちょっとした毎日の変化や人の動きが気になってしまい、気になる光景を目にするたびにシャッターを切るようにしていた。

 

「世の中ってこんなにも色鮮やかなのか」

そんなことを思ったりしていた。

 

だけど、最近はどうなのか。

あまりにも仕事が忙しすぎて、気がついたら毎日見る光景に嫌気が指してきてしまった。

 

満員電車の中で揺られながら会社に向かっていても、目の前に映る忙しない風景に翻弄されてしまい、何か感じる心が削ぎ落とされていく感じ。

 

明らかに昔は持っていた感受性というセンサーが曇っている感じがしていた。

 

何でだろう。

自分の中でなにか折り合いをつけられる時間を持てないからかな。

土日のたびになると、何か写真を撮ろうと思い、街なかに出てみることにした。

 

しかし、写真が撮れないのだ。

何も感じないのだ。

 

どんどん自分の中から感受性というものが消え始めていっていることが身にしみて感じていた。

 

毎朝、時間に追われているために、歩く時間も短縮され、身の回りの風景を見る余裕がなくなっていったのか。

 

何か自分の中から大切な部分が消えていく感触がずっとあった。

旅に出なければいけない。

どこか無理やりまだ見たところもない風景を見に行って、写真を撮らなければならない。

 

しかし、旅に出てみても、旅先で新鮮な光景を切り取ることが出来なかった。

毎朝の満員電車って相当、自分の心にも影響を与えているようで、何か感じる部分が明らかに消えていっている。

そんなことを感じ始めた時、あるツイッターのタイムラインで流れてくる文章に目をやった。

 

村上春樹の遠い太鼓で描かれていた距離感、それにインスピレーションを受けて旅先の写真を撮っている」

その方はどこか旅先で出会う人々と自分と間にあいまいな距離感で写真を撮っているプロのカメラマンの方だった。

 

自分がその土地に溶け込んでいく感じ。

 

どこか自分の目線は持っているはずなのに、現地の人々の中に溶け込んでいく感触がそのカメラマンの目線にはあった。

濱田英明というSNSで活躍するプロカメラマンの方だ。

 

最近、なぜかこの方の写真が好きで、よく眺めてしまう。

どっちつかずな距離感というか、染まり過ぎもせず、離れ過ぎもしない、あいまいな距離感。

愛おしく、世の中を見つめている視線に憧れを抱いていた。

 

こんな写真を撮りたいなと思っていた。

 

そんなときにふとツイッターでインスピレーションを受けたという本について書かれてあったのだ。

 

「遠い太鼓」

世界的なベストセラー作家の村上春樹氏が1986年〜1989年まで、

ギリシャやイタリア、ヨーロッパ各地を旅しながら、走り、当時感じたことをエッセイとしてまとめた本だった。

 

私はとくに村上春樹ファンというわけではないと思っているけども、ほぼすべての本は読破していた。

 

「世界の終わりのハードボイルド・ワンダーランド」

ノルウェイの森

「IQ84」

 

その他、もろもろ、ほぼすべての本は読んでいる。

ま、自分では思っていないけど、世の中的にはだいぶ村上春樹ファンである。

 

旅をまとめたエッセイを書かれてあったのは知っていた。

だけど、ブックオフで見かけた時にものすごい分厚い単行本で読む気が起きななったのだ。

 

ま、これも何かの縁だと思って読んでみるか。

早速、ブックオフに向かい、分厚い単行本を買って、読み始めてみることにした。

 

読んでみると、著者の文体に吸い込まれていった。

どこか優しい口調、読んでみると脳の中でリズムが刻まれていく感覚。

この本の著者がもともと体内で持っているある種の言葉のリズム感がこのエッセイの中にどこかしら滲みこまれていた。

 

それが読んでいて心地いいのだ。

 

 

なんでこんなに心地よい文章を書けるのか。

そんなことを感じながら、少しずつ読み進めていった。

 

それはファンにはたまらない内容の本だった。

名作「ノルウェイの森」の制作秘話や執筆中の創作背景、

毎日徒然なるままにスケッチを取っていく過程で、この本の著者が日々感じている些細な出来事をどれも美しい光景に切り取っていく姿勢が感じられるのだ。

 

 

苦しい長編小説の制作過程でも、毎日走ることを忘れず、時たま自分の立ち位置を確認するかのようにスケッチを書いていく。

 

なんで、こんなに世の中を切り取るのがうまいのだろう。

 

そんなことを感じながら、夢中になって読みふけってしまった。

毎朝の満員電車の中で、この分厚い単行本を読んでいったのだが、

東京の地下にいても、気分はヨーロッパを旅しているような感じになった。

 

そして、ある一説が胸にひっかかった。

それは著者が毎日の日課にしているランニングについて書かれた本だった。

「旅に出て、その街を走るのは楽しい。時速数十キロ前後というのは風景を見るのに理想的な速度だと僕は思う。車では速すぎて、小さな物を見落としたりする。歩きでは時間がかかりすぎる。それぞれの街にはそれぞれの空気があり、それぞれの走り心地がある」

 

毎日、忙しなく通り過ぎていく風景の数々の中で、きちんとした目で世の中を見つめている姿勢を感じてしまった。

 

世界に行けば、広いと感じるだろうけども、文京区だって、渋谷区だって、見つめ方を変えたら、それぞれの広がりに気がつける。

そんなことが本を読んでいて感じた。

 

人それぞれ、何かを感じる適度な速度というものがあるのだろう。

村上春樹氏はたまたま、走っている時が一番、ちょうどいい魂の速度だったのだと思う。

 

毎日、忙しない日々に翻弄されていくうちに、私はきっと多くの景色を見逃していったのかもしれない。

目が苦しいほどの速度で情報が流れている今の世の中でも、

きちんと自分の距離感と速度でもって、ありふれた日常を見つめていきたい。

 

少し、日常と距離を取って、日常を大切にすること。

そんなことをこのエッセイを読んでいくうちに感じた。