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年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

「なぜカメラを始めたんですか?」という質問に対し、いちよ答えは出た

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「なんでカメラを始めたんですか」

会社に行くときもカメラを持ち歩いて、飲み会の時もカメラを持ち歩いて、

ちょっとコンビニに行く時も自分は基本的にカメラを持ち歩いている。

 

写真を撮るためということも確かにあるが、なぜかカメラを持っていると心が落ち着くのだ。

なぜかはわからないけども。

 

いつもカメラを持っているせいか、よくこんなことを聞かれる。

「なぜ、カメラを始めたんですか?」

なぜと言われても具体的な理由が正直思いつかなかった。

 

子供の頃から映画が大好きで、物心着いた時からカメラに憧れを抱いていた。

 

初めてカメラを買ったのは大学一年の時だった。

当時は映画サークルに所属していて、映画を撮るために一眼カメラを買ったのだ。

気がついたら映画やら写真の世界にどハマリしていた。

就職活動も自然とそういった分野に向かっていった。

 

結局、映画や産業用の特殊カメラを扱う会社に入社することになり、

毎日会社の中ではレンズに囲まれて、わりと好きな仕事にありつけた気はする。

 

毎日、カメラを触れたりしていると、「なんで自分はカメラを始めたんだっけ?」

とふと思ったりする。

 

電車の中にいる時も、妙に車窓からの景色がキレイだったりすると、

ついついスマホで写真を撮ってしまう。

どこに行ってもカメラで写真を撮ってしまう。

近くにカメラがないと本当に落ち着かないのだ。

 

最近だと、どうしても人が撮りたいと思い、知り合い伝いなどから、人を撮らせていただく機会も徐々に増えてきた。

 

もともと自分は尋常じゃないほどの人見知りである。

人と関わるのが本当に嫌で、学生の頃などはずっと自分の世界に閉じこもっているような子供だった。

 

人と話をしていると、どうしても周囲の目線が気になってしまい、

身動きが取れなくなってしまうのだ。

 

そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

どうしたら人と関わりを持てるようになるのか。

そうずっと思い悩んでいた。

 

そんなある日、ある人からこんなことを言われた。

「カメラを持てば、コミュニケーションがうまくなるよ」

 

カメラを持って、女の子だったり、男性を撮る場合、どうしてもコミュニケーションが必要になる。

やはり、いい顔を撮れる写真家は妙にコミュニケーションを大切にしているし、うまいと思う。

 

自分も人とうまく話せるようになりたい。

今思え返せば、その一心だったのかもしれない。

正直、よく考えてみたら、いい写真が撮りたいという思いもあったが、自分がカメラを手に持つようになったきっかけって、

ただ単純に「人とつながりたい」と思ったからだと思う。

 

大学時代には安い一眼カメラを買ったが、社会人になって、本格的な一眼カメラを買いたいと思い、ボーナスをすべてつぎ込んで、数十万円するソニーのカメラを買った。

購入してから一年以上経つが、今でもほぼ毎日持ち歩いている。

 

「カメラを持てば世界の見方が変わる」

「カメラを持ってから、こんなに世界が美しいということに気がついた」

などそんな大層なことは自分には言えない。

 

カメラを持ち歩けば、些細な日常の出来事も美しく感じることが出来たりするのは確かだと思う。

 

プロのカメラマンのように大きなことは言えないけども、

カメラを持つようになって、特に人を撮るようになってから、

すごく感じたことがあった。

 

自分がカメラから学んだことって、実は「人を好きになる努力」なんじゃないのか。

 

写真家の方に何度かお会いしたことがあるのだが、

どんな写真家やカメラマンの人に共通して言えるのが、

とにかく人が好きな人が多いことだと思う。

 

妙に人懐っこいというか、妙になれ親しく、近くにいると落ち着くのだ。

 

なぜだかプロのカメラマンさんには異常に「人が好き」な人が多い気がする。

 

自分もちょこちょことだが、人を撮る機会をもらえるようになって、

つくづく写真って、

「自分が相手をどう見ているのか」

「どんなふうに社会を見つめているのか」

そんなことが現れてくる媒体だなと思う。

 

カメラは本当に、ルビンの壺に似ている。

 

眼の前にいるひとを「優しい人だな」と思えば、自然と優しそうな人の写真になるし、

「怖そうな人だな」と思えば、写真では自然と怖そうな人に映る。

 

自分が相手をどう見ているのかによって出来上がる写真も変わってくる。

 

写真を撮るようになってから、人とのコミュニケーションもこんな風に

ルビンの壺に似ているのかもしれないなと感じるようになった。

 

「人が嫌いだ」と思っている人には、常に他人がそのように見えて、

人に愛情を注いでいる人にとっては、社会も他人も優しい目線で物事が見えてくる。

 

カメラを持つようになってから、そのことを痛感するようになった。

 

自分が相手をどう見ているのか、どう思っているのか。

それは自然と写真に現れてくる。

 

自分はひねくれ者で、人とのコミュニケーションが大の苦手ではあるが、

ファインダー越しの世界を通じて、ちょっとずつだけど、人と関われるようになってきた気はする。

 

「大人になってしまった自分」に、言い聞かせるように……  

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「大人になってしまったな」

最近、つくづくこんなことをよく考えるようになった。

社会人になって、毎日会社に通勤していると、ある日突然

「あれ、俺って結構社会人きちんとやっているじゃん」

そんなことを思うようになった。

 

学生時代はあれだけ、

「自分は社会人に向いてない」と大きな声で喚いて、人とちょっと違った職種

(クリエイターやらノマドワーカー)に憧れていたりした。

 

朝の満員電車の中では疲れた表情のサラリーマンがひしめき合っているのを高校生の頃から見ていて、「死んでもサラリーマンなんかやりたくない」と思っていた。

 

しかし、そんなことを言っていられるのもせいぜい学生の頃までで、気が付いたら、社会の枠にしっかりとはまらなきゃいけない時期が近づいてくるものだ。

あれだけ「サラリーマンなんてやりたくない」と思っていたが、一人で社会に立ち向かう勇気も持てず、周りに流されるかのようにして、会社員になることを選んだ。

 

結構、長い間フリーターのプー太郎をしていたせいか、仕事を始めてみると、

「案外、仕事って面白いんだな」と思った。

見積もり一つ作るにも、最初の頃はだいぶ苦戦していたが、徐々に回数をこなすうちに慣れてきた。

 

悪戦苦闘しながら二年近く会社員生活を過ごしているうちにある日、突然ふと思った。

「あれ、案外自分っ社会人できているな……」と。

まだまだ、未熟だと思うが、少しだけ大人になった自分に驚いたりする。

 

そして、「大人になってしまったんだな」と物悲しくなる。

 

学生の頃は無我夢中になって、何かに取り組んだり、

無駄な時間を過ごしては、映画を見て号泣したり、日常の些細な出来事にも妙に感動してしまい、胸をときめかせていたことが多かった気がする。

 

しかし、大人になっていくに連れて、そういった感性がどうしても擦り切れていく。

 

毎日、通学の際に見えていた夕焼けに昔は妙に感動していた。

今では毎日、営業先から夕焼けを見ても、「あ、もう夕方だ。会社に戻ってから見積を作らなきゃ」と焦るだけの時間になっている。

 

「大人になるってこういうことなのか……」

自分の中では少し成長したと思う反面、何か大切なものを失っていく感覚がずっとあった。

 

昔は明け方まで友達と馬鹿騒ぎをしたり、アホみたいな自主映画を作ってはどんちゃん騒ぎをしたりしていたのに、あの頃の無我夢中になっていたものってなんだっけ。

 

自立しなきゃ。

自分でお金を稼がなきゃ。

 

社会の枠に染まっていくうちに何かを失っていく感覚がどうしてもあった。

 

そうだ、旅に出よう。

そう、ふと思った。

 

思い立ったら早かった。

昔から旅が好きで、割と社会人になってからも海外にふらっといったりすることがあったが、久々に国内を一人旅しようと思った。

 

正直、少しの間だけでも自分のいる身の回りの世界から離れられればどこでも良かった。

 

自分が選んだ場所は伊豆大島だった。

東京から船で二時間ほど。

 

都心から100キロしか離れていない離島だ。

以前から離島に興味があり、正月休みを利用して、久々に一人旅に出ることにした。

 

東京から2時間ちょっと。

竹芝フェリー乗り場からあっという間に大島に着いた。

 

着いた途端、「あ、本当に離島だ」

と思った。周囲360度海で囲まれている。

 

それに島で一番大きな街である元町港付近も、お土産屋やお食事処がちょこっとあるだけで、コンビニ一つなかった。

 

バスも1時間に一本くらいしかなく、レンタカーもレンタサイクルも予約せず、何も計画を立てずにひとまず島に来てしまったため、到着した瞬間、困ってしまった。

 

スマホで予約した宿までの距離を見ると徒歩1時間ほどの距離だ。

これはもう歩いてしまえ。

そう思いたち、12月末の海風で凍えるような寒さに耐えながら大島を一人歩くことにした。

一時間ほど歩いて宿に辿り着いた。

 

夕方の5時過ぎだったため、宿の近くにあった港町でごはんでも食べようと思い、街を探索するが

「飯屋がねぇ」

お腹がなる中、寒さに耐えて必死にご飯が食べられる処を探したが、全く空いていなかった。

あとから知ったのだが、大島では5時過ぎになるとほぼすべての食堂が閉まってしまうらしいのだ。

コンビニは島に一見もなく、小さめのスーパーが島に3,4件あるだけである。

 

旅行者はみな東京にいる間にカップラーメンを買って、宿に持ち込んでいるのだ。

 

初日は完全に乞食状態になってしまい、宿の人に頼んで、おでんをご自走になった。

泊まった宿は、ドミトリーのゲストハウスだった。

乞食状態でおでんを食べていると、となりに小さめのドローンを持った青年が座ってきた。

話を聞いてみると、自分より5歳年下の21歳で、三原山山頂からドローンで初日の出を撮影しに、大島にやってきたという。

 

今日は本番に向けて、ドローンを海辺で飛ばしたという。

ドローンの映像を見せてもらったが、まぁキレイなのだ。

こんなにドローンってキレイな映像が撮れるのか。

 

手のひらに載るくらいのドローンを見て、テクノロジーの進歩に驚くと同時に、

2019年の元旦から三原山の山頂からドローンを飛ばしに大島に来る無茶苦茶な若者になんだか昔の自分を思い出しているようで懐かしくなってしまった。

 

また、宿には島中を自転車で旅している高校生3人組と出会った。

この高校生も元旦の初日の出を三原山の山頂で見ようとしているらしい。

 

そして、己のプライドもあり、三原山火口までチャリで行こうとしているという。

 

無茶苦茶で個性豊かな人たちと宿をともにしているうちに、あっと言う間に時間が経った。

 

朝の4時に起床して、三原山山頂を目指した、自分とドローン小僧は山頂の入り口までレンタカーで行った。

自転車高校生は己のプライドもあり、チャリで山頂近くまで登っていった。

 

車で登れるのは山頂口までであり、そこから山頂まで徒歩で1時間ほど登ることになる。

朝5時の凍えるような山風に耐えながら、山頂を目指した。

途中、空を見上げて見ると満点の星空が見えた。

そして、目の前を見ていると、昨日まで自分がいたはずの東京が見えた。

 やはり、明け方の5時でも東京には多くの灯火が見えた。

普段、あの場所で自分は走り回っているんだなと考え深くなっていると、

気がついたら山頂に到着していた。

 

山頂で30分ほど待機していると、朝日が登ってきた。

カメラを持って待機していると人が集まってきた。

 

やはり山頂から初日の出を見ようとする人は多いらしい。

30年前に噴火した三原山だが、今でも火口からは湯気が出ていた。

 

山頂から日の出を眺め、ドローン小僧は張り切って、ドローンを飛ばしていた。

(いちよ法律上は問題ないとのこと)

 

日の出を眺め、無我夢中になって山を登っていくと頭が空っぽになってしまった。ただただ呆然としながら初日の出を見ていた。

 

思えば、普段自分はいろんな重荷を背負い過ぎていたのかもしれない。

給料が欲しい。もっと自由に働きたい。毎日残業だ。

などなど社会に染まっていくうちに何かを忘れていく。

 

無我夢中になって、三原山の山頂まで登っているうちに、何か心が少し晴れた気がした。

 

山頂から下山し、宿に戻って、風呂に入った。

風呂から出て、ちょっと遅い朝ごはんを食べていると、チャリバカ高校生軍団と宿に宿泊していた50代過ぎのおっちゃんが人生相談をしていた。

 

高校生軍団はひとまず大学に行こうと思うが、将来何の仕事に付きたいか判らないという。

「俺も30過ぎまで、自分が何に向いているかなんてわからなかったぞ」

そう自慢げにおっちゃん達は言っていた。

 

そういえば自分も高校生ぐらいのときは何がやりたいかなんて一ミリもわからなかったな……

というか26歳になっても未だに心の奥底から何がやりたいのかなんて、わからないよな。

 

眼の前に可能性が開かれている高校生たちを見ているうちに、なんだか羨ましくも思えてくるうちに、なんだか妙な感覚になった。

自分はずっと学生時代が過ぎて、大人になってしまったら、どこか人生が終わった感覚があった気がする。

ある程度の歳になったら、社会のレールに乗っていかなければならない。

学生の時のように無茶苦茶なことはしてはいけない。

可能性が開けているのは学生のうちだけ。

そんなことを思っていた。

 

だけど、それって自分の思い過ごしなのかもしれない。

実はそんなレールは存在してないのかもしれない。

眼の前に壁なんてないのかもしれない。

 

ふと、そんなことを思った。

 

一人旅に出ることは年末の大掃除に似ている。

余計なものを捨てて行って、最後に自分にとって必要なものだけを残していく作業。

 

少しずつ、少しずつ自分の心の中に溜まっていった膿を今回の旅で少しだけ落とせた気がする。

 

可能性が開けた高校生を見ているうちに、自分も負けてられないなと思った。

何かを本気でやりたい時に、目の前に壁が存在するなんてありえない。

 

自分の思い込みに過ぎない。

そんなことを強く感じた。

「君の名は。」は本編では泣けなかったが、ノベライズ本で号泣した理由  

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「直感を信じて」

そんな言葉をとある有名な起業家が投げかけていた。

 

「世の中の雑音に惑わされるな。自分の心の声に従え」

自分もそこまで信仰深い性格ではないと思うが、わりと昔から直感を大切にするタイプだった気がする。

 

高校受験もそうだし、大学受験のときも、テストの問題を解いているときに直感的に降ってくるのだ。

「あ、この大学受かった」と。

 

テストの相性というのもあるだろうが、なぜか受かる大学は、

キャンパスに入った瞬間、直感的にわかった。

 

なぜかはよくわからない。

就活の時も転職の時も最終的に会社を決めたのは完全に直感だった。

昔から思い悩んだら感覚的なものに突き動かされて物事を決めていた気がする。

 

あの嫌で嫌で仕方なかった就活も時が経つほど懐かしく思えてきた。

いろいろあったが今は社会人として社会の歯車に必死になって、働いている。

 

毎日、夜遅いが、なんとか仕事にしがみついている毎日だ。

営業先の大企業に行くと、よく就活生の顔を見かける。

そういえば、10月情報解禁だから、説明会とかはこの時期からあるのか。

 

というか、自分が就活してから3年近くの歳月が経つのか。

そんな時間の速さに驚きつつ、その日はわりと朝に時間があったため、営業先の最寄り駅から就活生の姿を眺めていた。

 

スーツを着ていても、就活生とわかるものだ。

社会にまだ出ていなく、どこか大人と子供の香りを漂わせている感じ。

生き生きとしつつも、将来の不安を感じているのだろうか。

 

スマホで説明会の詳細を確認しながらエントリーシートをチェックしている人がたくさんいた。

そんな就活生の人混みを見ているとなんだが懐かしくなってしまった。

 

就活の時を思い出すと、本当に苦痛しかなかった気がする。

とにかく自分の人生がわからなかった。

どっちに向かっていいのか本当にわからなかったのだ。

 

大量のエントリーシートを書いては、自己分析と称して、自分の掘り下げを行ったりしていった。

じぶんをいくらほっても空っぽな存在に気がつくだけd。

 

自分っていったい何なのか。

自己実現しなきゃ。

自分の承認欲求を満たせるような、やりがいのある職業につかなきゃ。

そう思って、ずっとずっと空回りばかりしていた気がする。

 

大企業を受ける人なら、たぶん受かる人が入る分、落ちる人がいる。

内定をもらえるしっかりとした理由もなく、落ちる理由もない。

 

一度、就活を経験すると、なんで日本の就活はこんな意味わかめな感じなのだ

と誰しもが思うだろう。

ま、社会の仕組みというか就活のルールがそうだから仕方ない。

 

悪戦苦闘しつつ、なんとか今の会社に入ることが出来、忙しない毎日を送っている。

 

もう、本当に就活で苦しんでいる事自体を忘れてしまうくらい、笑えるくらい死ぬほど働いている。

 

就活していたころは、

社会にでることは負けだ。

社会の歯車になることは恥ずかしい。

サラリーマンなんてかっこ悪い。

 

とそんな呑気なことを思っていたが、実際に自分がサラリーマンをやってみると、社会に出るってこんなにも大変なことなのかと驚いてしまった。

 

毎日、スーツという戦闘服を来て、営業先を飛び回り、競合先と戦う毎日。

「ビジネスって銃なき戦場だ」と聞いたことがあるが、本当にそのとおりだった。

 

社会の仕組みに翻弄しつつ、悪戦苦闘しつつ、仕事に熱中している毎日である。

気がついたら就活の時に悩んでいた自分も忘れてしまった。

 

なんであのとき、自分は将来についてあれほど悩んでいたのだろうか。

毎日の仕事に没頭していると、何かそれはそれで大切な何かを忘れていっている自分に気がついた。

 

どこか自分が何者になるのかわからずにモヤモヤしていた時期が懐かしくも思えてきた。

今思えば、その時期ってとても大切で愛おしいものだったんだな。

当時は自分が一体何をやりたいのかわからずにモヤモヤしていて、生きづらさを抱えていたが、そんなことも今となっては懐かしい。

 

 

そんなとき、ふとこの本を開いた。

なぜか自分の本棚の奥底にしまってあったノベライズ本だった。

 

映画「君の名は。」を見た人も多いと思う。

 

二年ほど前にメガヒットした新海誠監督のアニメ映画だ。

正直、当時はなんでこんなにヒットするの? と思っていた。

映画館の中では号泣する人でごった返していたが、自分はどうしても映画で泣くことが出来なかった。

 

 

だけど、帰り道によった本屋で、このノベライズ本と出会って、この本で号泣する事になった。

 

このノベライズ本は映画「君の名は。」のサイドストーリーを集約したものだ。

多分、映画本編から弾かれてしまったストーリーを出版したものなのだろう。

 

気ままに本を買って、読んでみた。

映画の余韻に浸っていたせいか、面白く読めた。

そして、最後の章を読んで、涙が止まらなくなってしまった。

 

それは、主人公の三葉のお父さんの物語だった。

三葉のお母さんになる人とどのように出会ったのか。

 

そして、なぜ町内会の議員になったのか。

なぜ、大惨事が起きるあの日、あの場所に彼は立っていたのか。

彗星のように流れ去っていくかのように何かに導かれるまま、あの時、あの場所に立っていたのだ。

 

その理由を知った時、たぶん映画で感動した以上の思いが、湧き出てくるかもしれない。

 

「物事はあるべき場所におさまる」

本の中にはその言葉が繰り返し書かれてある。

 

自分はずっとその言葉が脳裏に焼き付いて、ずっと離れなかった。

 

仕事をしながら就活生を見ていると、昔の自分を思い出しているようで懐かしくなる。

たぶん、暗闇の中をもがきながら走り回っているうちに何か見えてくるものもあるのだろう。

 

自分の決断で、人生を突き進むのもありだし、何かに漂って、どこかにたどり着くこともあるだろう。

 

仕事をしていて、辛いことなんで死ぬほどあるが、そんな時もいつも心の奥底でこの言葉を拠り所にしている自分にふと気がついた。

 

2年半ぶりにインドを歩いて、ふと湧いてきたあの感覚  

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大学4年の時、インドに一人旅に行ったことがあった。

 

学生生活最後の休みとなると、人生の有給休暇と称される日本の大学生は、

「今しか学生を謳歌できない」

「今しか長期に海外旅行に行けない」

と思って、欧米だったり、アメリカだったりと友達と一緒に卒業旅行に行くものだ。

 

自分もなんだかんだ荒れるに荒れていた就職活動も終わり、最後の休みにどこか旅行に行こうと友達に誘われたりしていた。

 

だけど、そんなときは決まってこう答えていた。

「いや、俺は一人でインドに行くことにしたから、ちょっと無理だ」

 

周囲の人にキョトンとされた。

「え? なんでインドに行くの。しかも一人で!」

 

自分でも不思議なのだが、その当時の自分はなぜか

「インドに行かなければいけない!」と強迫観念的に思っていて、

就活が終わって、時間があくと、図書館にこもってインドについて調べていたりした。

インドのバックパッカー本とか伝説の旅行記「深夜特急」などを読んで、

「よしインドに行こう」と心に決め、海外旅行なんてほぼしたことがないのに、

インド行きの飛行機を買ってしまったのだ。

 

インドはカースト制度や宗教が根深くある不思議な国である。

特に自分は宗教や神秘的なものに興味がある方ではないが、

なぜかインドの奥深くにあるものに惹かれていた。

 

インドについて調べれば、調べるほど、なんかいろいろ悪い噂が見つかってくる。

女性が毎日のようにレイプ被害にあっているらしい……

街がめちゃくちゃ汚いらしい……

インドに行く観光客のほとんどが下痢をして、自国に戻っても一生治らない得体の知らない病原菌に感染するらしい……

普通に道の真中におじさんの遺体が転がっているらしい……

 

などなど、日本で検索していると

「この国に行っても大丈夫なのか?」

と思うような情報ばかり目に入ってくる。

 

「もうどうにでもなれ!」

そう思って、大学生だった自分は一人インドに飛び込むことにした。

 

初めてインドに行った時、自分はまだ社会人でもなく、22歳の世の中を知らない小僧だったこともあり、インドの街で見た光景があまりのも強烈すぎた。

 

バラナシの路地裏を歩いてゲストハウスに戻ろうとしても、

道の真中に牛がたむろっているわ、オレンジ色のお坊さんが大量に現れるわ、

野犬がいるわ、遅い夜道をバイクが爆走しているわ、牛の糞が転がっているわで、

日本の常識が一切通用しない環境にたじろいでしまった。

 

強烈なカルチャーショックにインドの旅に疲れを感じていた頃、とある日本人の尼さんと出会った。

 

そこは観光地である聖地バラナシから少し離れたサルナートという場所だった。

悟りを開いた仏陀が、教えを弟子たちに説いた場所と言われており、仏教発祥の地とされている。

 

朝から晩までクラクションが鳴り響く、騒がしいインドの街の外れに、その日本寺があった。

お寺の正門を入った瞬間、はっとするような感覚というか、一気に静寂に包まれる感じがしたのを今でも覚えている。

 

強烈なインド体験で旅疲れしていた私は、なんの縁かでそのお寺にたどり着き、

そこのお寺の尼さんにとてもお世話になった。

 

その方は日本とインドを行き来している、日本寺の住職さんだという。

少しの間だが、お話をさせて頂いたのだが、その人柄というか、とても優しい方で、私は夢中になっていろんなことをお話させて頂いた。

 

インドの旅から2年半近く経つが、そのサルナートに住む日本寺の住職さんのことがどうしても忘れられなかった。

 

社会に出て、いろんなことを経験する中で、もう一度インドに行ったらどんなことを感じるのだろう。そして、もう一度、住職さんにお会いしたいと思い、お盆休みを利用して、再びインドに飛び込むことにした。

 

二度目のインドである。

同じ国、同じ場所に2回来るのだから、相当私はインドが馴染んでいるのか……

 

空港から出た瞬間、鼻に感じるインド独特の匂いに懐かしさを感じつつ、

ヒンドゥー教の聖地バラナシに再び向かうことにした。

 

学生の頃はデリーからバラナシまで24時間近くかけて電車で移動していたが、

(そのうち8時間近くは荒野のど真ん中で停車する謎の遅延だった……)

今回は社会人ということもあり、短期間しか時間がなかったため、飛行機で移動することにした。

電車だと尋常じゃないくらい長く感じたデリー〜バラナシ間だが、飛行機だと1時間ほどであっという間に着いてしまう。

 

バラナシのゲストハウスで何泊かした後、思い出深いサルナートに向かうことにした。

人混みと牛で溢れかえっているバラナシからリキシャーで1時間半ほどで、その場所にたどり着いた。

リキシャーのおっちゃんに「日本寺」に行きたいというと、親切にもお寺の真ん前で降ろしてくれた。

 

2年半ぶりに見た日本寺は、やはりその場所では周囲の騒がしさから外れ、静寂に包まれていた。

 

以前に来た時は小さかったお寺の管理人の子どもたちは、すっかり大きくなっていた。

「こんにちは」

と日本の管理人の方に挨拶をし、住職さんはいらっしゃらないかと伺ったところ、今はちょうど日本に帰国してしまっているという。

聞いたところによると住職さんは最近、猛烈に忙しく、インドと日本を行ったり、来たりしているという。

 

「せっかくこんなところまで来ていただいたのに、申し訳ない」

 

私は残念に思いつつも

「ま、いつかまた会えるときに会えるか」と思うことにした。

 

せっかく来たことだし、参拝しようと思い、祀られている神様に参拝することにした。

お賽銭を入れて、手を合わせた。

頭の中では何も考えなかった。

だけど、自然と「旅で出会った人たちが無事、幸せでありますように」

と心の声でつぶやいていた。

 

自分でも驚いた。

日本でお参りするときなどは、決まって自分のことばかりをお祈りしたりしていたのだが、なぜかこの時は、自分の周りで出会った人たちのことを思って、

祈りしていたのだ。

 

相手のことを思って、何かを思いやるということは初めてだったのかもしれない。

自然とそんな声が心のそこから湧いて出た。

 

その時は、住職さんとお会いすることが出来なかったが、インドでいろんな人に助けられ、バラナシのゲストハウスの方から日本にいる住職さんの連絡先を伺うことが奇跡的に出来た。

本当に奇跡的だ。

 

日本に帰ってからも、あの時、ふと感じた、人を思いやる感覚……

それがどうしても忘れられない。

 

よく考えてみたら、日本にいるときの私はいつも自分のことばかり考えていたような気がする。

営業成績を伸ばしたいだとか、自分は忙しく仕事しているのだから、

電車の中で座りたい人がいても、自分が座っていても文句ないだろうとか、

いつもいつも、自分、自分と考えていた。

 

インドでふと感じた、人のことを思う気持ち……

その時、感じた清々しさというか、新鮮な心の感覚、

それってとても大切なことなのだと思う。

 

日本に戻ったら、街の中に牛とかはいない。

ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗って会社に通って、もとの日常に戻っていく。

 

だけど、インドの奥深くにあるお寺で、

あの時に感じた、あの感覚は忘れては行けない気がする。

 

クリント・イーストウッド監督の映画「15時17分パリ行き」を観て、極限までにシンプルな禅の境地を感じた  

 

 

 

クリント・イーストウッドの最新作」

3月頃に予告を観て、驚いた。

 

正直、まだ映画撮ってん?

と思ってしまった。

 

映画ファンなら誰もが知っているクリント・イーストウッド

「荒野の用心棒」などマカロニウエスタンシリーズを夢中になって観ていて人も多いかもしれない。

 

最近だとハリウッドの巨匠みたいな扱いになって映画監督としても有名になっている。

今年で88歳だという。

 

88歳でまだバリバリ映画を撮っているのか……

クリント・イーストウッドのエネルギーに驚くと同時に

正直、もう限界なんじゃないかとも思っていた。

 

映画監督はたいてい若さとともに感性も死んでいく感じがしていた。

大御所になったハリウッドの監督はたいてい、ベテランになってから自分が撮りたいと思う映画を撮るようになる。

 

若いときは大衆向けの面白い映画を作っていたので、業界で名前が知られて、自分の力で映画を仕切ることが出来るようになると、どこか自分の作家性重視の映画を作るようになる印象があった。

 

それはそれで面白いのだが、ファンとしてなんだかもったいない気もしていた。

黒沢明も正直、晩年は作家職が強くて、どうしても「七人の侍」や「羅生門」を手がけていた時代が個人的には一番、好きである。

 

スピルバーグも今の映画も充分好きだが「ジュラシックパーク」などの大衆娯楽映画を手がけていた時代が一番好きだ。

 

今頃になってクリント・イーストウッドの映画?

正直、88歳になったハイウッドきっての大御所監督の作品なんて、自分と感性が違っていて、あまり心に響きないと思っていた。

年齢も60歳以上違っている。

 

流石にあまり共感が持てる部分がないだろう。

そんなことを思って映画を観るのを躊躇している自分がいた。

 

15時17分、パリ行き」が公開された時も気にはなっていたが、あまり期待していなかった。

 

機会があったら観に行こうと思い、結局映画館に行かないまま、公開が終わってしまった。

 

予告編を見る限り、面白いだろうと思っていが、

わざわざ1800円もかけて映画館に行くのもな……

と思い、結局映画館に行かないまま時が経ってしまった。

 

先日、三連休の手前でTSUTAYAに訪問して、いつものように棚をぶらぶら歩いて週末に見る映画を探していた時、この映画のパッケージがふと目に入った。

 

あ、この映画結局観れてなかった。

せっかくの機会だし、観てみるか。

 

そんな軽い気持ちでパッケージを手に取り、家に帰って映画を観てみることにした。

 

オープニングショットからして、すごいなと思った。

 

さすが88歳のベテラン中のベテラン監督である。

ものすごい早撮りで有名な人である。

 

普通の現場なら平均8テイクは撮るところをこの監督はわずかワンテイクで撮ってしまうということは聞いていた。

 

その道60年以上の経験と、自身が俳優をやっていたことから、撮影現場の全てをコントロールできるのだという。

ものすごい早撮りだ。

 

映画を観ていうちに、「この監督はやっぱりすごいな」

と思ってしまった。

 

ワンカット、ワンカットがとにかく重厚なのだ。

光の撮り方からして、明らかに普通の監督が撮る絵と違っている。

 

何十年のベテランであり、職人である監督だからこそ撮れる絵がそこにはあった。

 

私は無我夢中になって物語の世界に惹き込まれていった。

 

そして、驚いた。

 

ずっと、ずっと映画を観ているうちに薄々気がついていたが、まさかと思った。

 

映画の登場人物が皆、実際の事件の現場に遭遇した方々だったのだ。

パリ行きの電車の中に偶然居合わせ、偶然乱射事件に遭遇した若者たちのヨーロッパ旅行が後半描かれていく。

 

正直、ストーリーの内容なんてなかった。

アメリカの田舎にいるごく普通の青年たちが旅行をする描写が続くだけである。

しかも、演じているのは役者ではなく本人である。

 

だけど、惹き込まれるのだ。

面白いのだ。

 

とくに物語性があるわけではないが、画面から伝わってくる職人技というか、スタッフたちの熱量に圧倒され、気がついたら夢中になって観てしまう。

 

なんで、こんなに物語に内容がないのに惹き込まれてしまうのだろう。

 

物語の最後には乱射事件から乗客を救ったことで、フランス政府から表彰される映像が流れてくる。

 

実際にテレビで流れていた映像に、今まで映画の中で写っていた本人たちが出てくる。

なんだかデジャブな感じがしてしまった。

しかも、乱射事件で、撃たれてしまった被害者の一人も、再び映画の中で同じシーンを再現されている。

 

イーストウッド監督のチャレンジ精神というかフロンティア精神に驚いてしまった。こんな映画普通撮らないだろう。

 

明らかに照明も使わず、自然光だけ撮っている。

役者もすべて素人を使っている。

 

物語も中盤は若者たちがヨーロッパ旅行で遊び呆けている描写が続くだけである。

 

だけど、観れてしまう。

 

どこか枯山水というか禅の境地に立たされるかのような、シンプルな映像が続くだけである。それでも観れてしまう。

 

私はこの映画を観ているうちに、昔京都の寺の住職さんから聞いた話を思い出していた。

 

大学生の頃、なぜかよくわからないが一時、禅について学ぼうと思い、

京都の寺で座禅修行したことがあった。

 

その時寺の住職さんはこんなことを言っていた。

「雑音を取り除いて、物事の本質を見抜く。それが禅というものです」

 

どんな分野でも長年その道を突く進めていくと、無意識のうちに本質が見抜けるようになるという。

無駄な部分を省いて、物事の本質が研ぎ澄まされていく。

 

禅に傾倒していたスティーブ・ジョブズはこの禅の精神に魅了され、

物事の本質的な部分に絞ったアップス製品を数多く作った。

 

iPhoneもそうだし、Macbookもそうである。

白い貝殻のようなかたちをしていても、とてもシンプルにまとまっていて、子供が触っても、無意識に動かせるようになっている。

 

そんな奥深く、深い禅の精神をこの映画を観ていくうちに感じてしまった。

 

その道60年以上の経験から、無駄なカットを極限まで削ぎ落とし、シンプルにまとめ上げていく。

本質的な部分を見抜き、しっかりと作品に仕上げていくクリント・イーストウッド監督の職人技を、映画を観ていくうちに感じてしまった。

 

何はともあれ、映画「15時17分パリ行き」。

改めてイーストウッド監督の凄さを感じされる映画だった。

 

「社会規範を守って!」というタイトルに惹かれて。

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先日、実にまずい映画を観た。

期待して観に行ったのに、何だこれはと正直舌打ちをしたくなった。

 

ま、有名な作品のリメイク版だから仕方ないよな。

だけど、あれだけ期待していったのに、なんでこんな作品になってしまったんだろう。

 

なぜ、こんなストーリー展開の映画が100億円もかけて作られたのか。

今の商業主義的な映画づくりに虫唾が走るのに加えて、実にまずいと思ってしまった。

あまりにも映画のストーリーが微妙すぎて、自分の感情も気分が悪くなってしまったのだ。

 

私は昔から自他ともに認める映画好きだ。

学生時代はアホみたいに映画を観ていて、年間350本以上観ていた。

一日6本くらい映画を観ても飽きないから不思議である。

 

社会人になって映画を観る時間は減ってしまったが、週に最低一本以上は映画を観るようにしている。

映画館に行くときは貴重な休日を無駄にしたくないと、映画の中のストーリーやコンテンツをすべて吸い尽くすかのようにして、無我夢中になって映画を観ている。

 

昔から面白い映画と出会うと壊れてしまう時がある。

最近だと、「この世界の片隅に」を観て、泣きすぎて、なぜかよくわからないが深夜の新宿を5時間ほど徘徊してしまった。

 

スター・ウォーズのスピンオフ作品「ローグ・ワン」を観たときは、エンディングの名もなき英雄たちが散っていく様を観て、号泣しすぎてしまい、新宿紀伊国屋を1階から8階まで、階段で5往復くらいしてしまった。

 

映画の世界にどっぷり浸かりきってしまい、観終わったら体が感化されすぎて、自家中毒症状みたいになることがたまにある。

 

面白い映画と出会えたときは幸福だ。

常に消えていってしまう感受性が潤っていくような感じ。

忘れてはいけない何かを感じる心。

 

子供の頃には持っていた懐かしい感じを思い出すかのようにして、夢中になって映画にかじりつきながら観ていた。

 

逆につまらない映画と出会うと最悪である。

映画の世界観にどっぷり浸かりきってしまう性格のため、つまらないコンテンツに影響されすぎてしまい、体調が悪くなる。

 

週の終わりにつまらない映画と出会ってしまうと、翌週の仕事のパフォーマンスにも影響が出てしまう。

 

先週は、期待はずれの映画を日曜日に観てしまった。

本当に期待していたのに、なんでこうなってしまったのかと思えるくらいだった。

まずい。

このままでは月曜日からの仕事に支障が出る。

そう思い、なんでもいいからいい映画を観なきゃと思い、TSUTAYAに飛び込むことにした。

 

今までだったら、自分がこれまで感銘を受けた映画を観れば済む話だった。

だけど、なぜか不思議と手にとってしまった映画があった。

 

なぜ、このタイミングで自分がこの映画を観ることになったのかよくわからないが、なぜか、気がついたらこの映画のパッケージが自分の手の中にあったのだ。

 

それはある実在するロックンローラーをモデルにした物語だ。

 

正直って、その歌手の名前は知らなかった。

アメリカだと誰もが知っている有名な歌手らしいが、音楽に疎い私は知らなかったのだ。

 

ま、今日は時間があるし、この映画でも観てみるか。

 

昼過ぎに観たつまらない映画の代用品として私はその映画を観た。

 

正直言って、何も期待していなかった。

ただの休日の暇つぶし感覚で観始めただけだった。

 

だけど、映画の物語が進むに連れて、その歌手がたどることになった数奇な運命に夢中になってしまった。

 

こ、この映画すごくないか?

オープニングからして驚いた。

 

あの有名な歌手が刑務所の受刑者の前にしてロックを歌うシーン。

 

なんだ、この映画は。

誰なんだ、この主人公は。

 

冴えない人生を送っていた彼は、ある人物との出会いを通じて、音楽の道に進むことになる。

その人物は後にエルビス・プレスリーを輩出するような名音楽プロデユーサーになる方だ。

 

初めは否定された。

流行に乗って、ゴスペラを歌っても名プロデユーサーの耳には届かない。

 

「トラックにはねられ 死ぬ前に1曲だけ歌う時間がある。
この世で君が感じたことを神に伝える曲。
それを聞けば君という人間がすべて分かる歌を歌え」

 

初めはただの暇つぶし感覚で観始めて映画だった。

だけど、観ていくうちに涙がこぼれてしまった。

 

それは家族が苦手で、不器用ながらも自分が理想とする家族を追い求める男の話だった。

運命の女性を射止めようと何度も不器用ながらもプロポーズを続ける男の話だった。

周囲の人を傷つけ、それでも懸命に生きていく。

そんな姿に私は感動してしまった。

 

 

私は映画を観終わったタイミングで、実在する彼のことを調べていった。

あのエルビス・プレスリービートルズボブ・ディランがロックの神として崇め、今なお多くのファンが根強くいるミュージシャン。

 

正直言って、私はそのミュージシャンのことをこの映画を通じて初めて知った。

だけど、彼の生い立ちや不器用な生き方などを、映画を通じて知って、どこか他人事のように思えなくなってしまった。

 

どんなにどん底に落ちようとも、かすかな光や周囲の人に支えられ、懸命に生きていく姿勢に涙なくして観れなかった。

 

人を傷つけ、自分を傷つけてまでも、彼は歌うことは辞めなかった。

 

「それを聞けば君という人間がすべて分かる歌を歌え」

若い時にとある人物にそう言われたことが彼の人生を大きく変えたのかもしれない。

 

家族が苦手で、不器用にしか生きられない人が観るのもいい。

人を傷つけることでしか自分を認められない人が観るでもいい。

 

きっと、50年台のカントリーミュージックの黄金時代を駆け上がっていったジョニー・キャッシュの自伝的映画「ウォーク・ザ・ライン」を観れば、きっと明日に生きる勇気をもらえるはずだ。

 

 

映画「わたしに会うまでの1600キロ」を観て、何かを変える人の本質に気がついた

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「なぜ、こんなに荷物が多いんだ」

私はとにかく荷物整理が苦手だ。

 

これもいる、あれもいると余計なものを詰め込んでしまい、バックがぎゅうぎゅう詰めになる。

 

自分は普段、営業の仕事をしており、外に出る機会が多いのだが、その時持っていくバックがやたらと重い。

 

自分ではこれくらいの資料を持ち運ぶのは普通だと思っていたが、周囲の先輩を見てみると、意外と案外スマートである。

自分なんてバックパックを背負っていく感覚でいつも外出している。

 

「なんでそんなに荷物が多いんだよ。詰め込みすぎだろ」

とよく言われる。

 

必要なものといらないものを整理できず、心配性なこともあり、

「クライアントの前でさっと資料を取り出さないとまずい。念の為この資料も持っていかなきゃ。あの資料も持っていかなきゃ」と思っているうちに、気がついたらとんでもない量になっている。

 

必要なものと必要でないもの。

それが整理整頓することが昔から苦手だった。

 

頭の中がだいぶぐちゃぐちゃなのかもしれないが、あれもこれもと考えていくうちに、いつもパンクしてしまい、やたらとノイローゼ状態になることが多い。

 

こないだも軽く頭がパンクしてしまったことがあった。

あれもやらなきゃ、これもやらなきゃと消化しきれない仕事にあれやこれやと

忙しない一週間を送っていくうちに、だいぶ寝不足だったのか、その日はだいぶ疲れていた。

今日は飲みに行こうよと会社の上司に言われ、夜遅くまで飲んでいた。

飲むと言っても自分は昔から全く飲めない。

ビール一杯を飲んだだけで、だいぶ疲れていたのか帰りの電車の中で気持ち悪くなり、盛大に電車の中で吐いてしまった。

(近くにいた人、大変すいません)

 

普段はビール一杯ぐだいだったらなんともないが、その日はだいぶ寝不足だった。

いつも以上に電車の人混みに耐えられなくなり、気持ち悪くなってしまった。

その場に会社の上司がいたので、

「すいません」とひたすら誤りながら、後片付けをして家に帰った。

 

あ、だいぶ頭の中がパンクしているな。

毎日の仕事の量に没頭しているうちに、私の頭の中はだいぶぐちゃぐちゃになっていたのかもしれない。

 

ちょっと休まなきゃだめだ。

一旦、仕事や自分と距離を置かなきゃ。

やつれた顔をしながら何か映画を見ようと思い、TSUTAYAをぶらぶらしていると、とある映画が目に入った。

 

それはずっと観ようと思っていた映画だった。

だけど、観るきっかけが持てず、ずっと放置していた映画だった。

 

 

初めてこの映画のパッケージを見たときからずっと気になっていた。

バックパックを背負って、広大な大地を一人歩く女性の写真に、とても感化され、一度ちゃんと観てみたいと思っていた映画だった。

 

だけど、なぜだろうか。

旅の魅力を描いたこの映画はどこか麻薬のような気がしていて、社会人になりたての当時の私は、「まだこの映画は観るべきじゃない」ととっさに思い、観るのを躊躇していたのだ。

 

だけど、そのときは直感的にいま観ないといけない。

そう思った。

私はそのまま、レジにブルーレイを持っていき映画を観てみることにしてみた。

家に帰り、すぐにデッキにブルーレイを突っ込み、映画を観始めた。

 

映画が始まった瞬間、「あ、これは観なきゃいけない映画だ」

そう思った。

最初のオープニングショットからして、私は映画の世界に一気に惹き込まれてしまった。

 

バックパックを背負って、広大な砂漠の丘を駆け上がり、血だらけになった靴を脱げ捨てる女性。

足の爪先は充血していて、爪を剥がす動作は痛々しかった。

 

それでも傷だらけになった体を一歩一歩動かし、懸命に歩いていく。

一歩ずつ、一歩ずつ歩いていく。

その映画はパシフィック・クレスト・トレイルと呼ばれるメキシコ国境からカナダ国境まで、アメリカ西海岸の1500キロ以上のコースが舞台になっている。

 

誰にも知られることもなく、一人ずっと孤独に歩いていく女性。

母親を亡くし、精神的にやつれて、すべてを捨ててまで、ひたすら歩く彼女。

旅に出るまでのエピソードを交えながら物語は進んでいった。

 

私は映画を観ているうちに、自分も昔こんな旅をしたことがあったので、少し懐かしくなってしまった。

 

 

人生が行き詰まり、約1500キロ以上のコースをひたすら歩くことを選ぶ彼女。

最初は自分の人生を見つめ直すきっかけが欲しかったのかもしれない。

だけど、過酷な旅を続けていくうちに、彼女の考えは変わっていく。

 

何が何でも目的地にたどり着く。

その決意が一歩、一歩と歩く中で生まれていったのかもしれない。

 

途中、雪山に阻まれても、諦めずに山を登っていく。

どこまでも続く荒野をひたすら歩く。

 

いつしか道中で旅人と出会うと励ましの声をもらうようになる。

 

「いろんな人からあなたのことを聞いたんです。あなたが残したノートが私の励みになりました」

 

旅の途中で人とふれあいながらもゴールを目指していく。

そんな姿を観ているうちに私は映画の世界にどっぷりと浸かってしまい、時間を忘れてじっと観てしまった。

 

最終的に約3ヶ月間の旅を終えて、彼女は目的にたどり着く。

 

私はこの映画を観ているうちにふと感じたことがあった。

 

何かを変えたいと思って彼女は旅に出ていた。

だけど、道中でいろんな人と出会い、いろんな人から尊敬されるようになったのは自分自身を変えたからだと思う。

 

自分が変われば、自然と周りに集まる人も変わってくるのだ。

自分が発する磁場に惹きつけられるかのようにして、ぐるぐると自分の人生を変えてくれるような人が現れる。

そんな人生の教訓をこの映画からなんとかく感じてしまった。

 

結局、この映画の主人公の女性はゴール地点で、新生活を始めることになる。

今では結婚して、子供にも恵まれ、あの旅で感じたことをエッセイとして発表し、今や売れっ子のライターだという。

 

旅を通じて、いらない荷物を一つ一つ整理していった彼女。

そんな姿勢にすごく感動してしまった。

 

私はだいぶ今、頭の中がぐちゃぐちゃだったのかもしれない。

いらないものを整理できず、忙しない日々に没頭するうちに、何がなんだかわからなくなってしまった。

 

何か自分を変えたいと思って、本や映画の世界に逃げ場を求めていた。

だけど、何かを本気で変えたいと思ったら、外に頼るのではなく、まずは自分自身を変えないといけないのかもしれない。

 

よく考えれば、今までで出会った人の中で、

常に世の中に発信していて、影響力がある人って、外に刺激を求めるのではなく、

まずは徹底的に自分を追い込んでいる人が多い気がする。

 

何がなんでもこれをやるんだ。

その決意が周囲に伝わっていって、自然と集まってくる人も変わってきたのだと思う。

 

自分を変えれば、周囲に見える景色が変わってくる。

そんなことをこの映画を観ているうちに感じてしまった。

 

映画「わたしに会うまでの1600キロ」

原題は「Wild」という。

 

何かを変えたいと思っている人にとって、とても励ましの映画になるのだと思う。