何かを選ぶことにまだ慣れていない人たちに……
「あ、あぶない」
私は自転車のブレーキを握りしめた。
「ふう、何でこんな場所に猫の死体があるんだ」
道のど真ん中に猫の死体が転がっていたのだ。
しかも、この通りは大通りに面していて、車の行き来も多い。
私は躊躇してしまった。
周囲の人は猫の存在に気がついているが、見て見ぬふりをしている。
猫の死骸からは赤い液体が飛び出ており、内臓が出ている。
道を走る車も、次から次へと猫の死体の手前を走っているが、遺体を避けて走っている。
多くの人が何か見てはならないものを見てしまったというばかりに、
見て見ぬふりをすることを決めていた。
私も正直、心の奥底でこう思ってしまった。
「あ、めんどくさいものを見てしまった……」
正直、そのときは早く帰らなきゃいけない用事があったのだ。
だから、猫のことにかまっている暇がない。
すぐに私は多くの人と同様に猫の遺体を見て見ぬふりをして、家に向かって再び自転車を漕ぎ始めていた。
ま、どこかの誰かが交番に届けてくれるだろう。
自分がわざわざ時間を使って、猫の遺体を回収しなくてもいいや。
そう思って、見て見ぬふりをして、家に向かって進んでいった
しばらくして、自分の中にある自尊心がくすぶり始めた。
このまま、見て見ぬふりをしていいのか。
誰かがきっと交番に届けてくれるだろう。
だけど、自分は見て見ぬふりをしたままでいいのか。
そんなことを急に心の奥底で感じてしまったのだ。
気がついたら私は元の道を戻り始めていた。
猫の遺体が転がっている場所には相変わらず、多くの人が行き来しているのに、皆が見て見ぬふりをしていた。
道の真中には内臓が飛び散り、行き交う車も猫の遺体を避けるようにして通っている。
私は近くにあった交番に駆け込むことにした。
自転車を止めて、中に入ろうとすると、ある一人の女声が交番の中に設置されている電話機を使って、電話しているところだった。
「道の真中に猫の遺体があるんです。来て頂けますか?」
私の少し前に交番にかけこんで、警察に連絡してくれた人がいたのだ。
あ、これなら大丈夫だろう。
きっと数分後には交番に警察が来て、猫の遺体を撤去してくれるはずだ。
私は自分の任務を終えた感じがして、その後の様子を見届けることなく、家に帰ることにした。
私達は毎日、多くの選択をしている。
家から会社に向かうことを選択していたり、
何を昼ごはんに食べるのかを選択したりする。
ましてや、自分にとって面倒になるであろうことを避ける選択も多くする。
毎朝、電車に乗って会社に向かうようになってから痛烈に感じたことがある。
異常なまでの人身事故の多さである。
中央線など、毎日のように人身事故で電車が停まっているのではないかと思うほど、
いつも遅れている。
「あ、また人身事故だ」
二時間以上電車が停まっている場合、確実に何処かの誰かの命が奪われたことになっていると思う。
駅のホームに飛び込んでくる電車。
そこに人が引き込まれるかのようにしてホームに飛び込んでいく姿を想像するとぞっとする。
その方は無意識かもしれないが、自分の命を経つということを選択してしまったのだ。
「人身事故かよ。仕事に遅れるじゃないか!」
口には出さないが、電車に閉じこまれた多くの乗客の顔からこんな声が聞こえてくる。
私はそんな状況に出くわすたびに、感情が抑えきれなくなって、俯いてしまう。
社会の不甲斐なさや無機質までに他人に無関心な人のあり方にどこか憤りを感じてしまう。
あまり深く考えない方がいいのだろうか。
どうしてもどこか心の奥底で、人の不幸を目にしたら、無責任な立場ではいられない自分がいる。
そんなとき、この本と出会った。
ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏が書いた「あなたがいる場所」である。
重い社会の現実を描くノンフィクション作家が書いた小説である。
正直、驚いてしまった。
この著者が書いた「深夜特急」やその他のノンフィクション本は読んだことがあった。どこか社会の根底の闇をむき出しにするノンフィクションを書いているイメージが合ったため、小説を書くイメージがなかったのだ。
私はどんな小説なのか気になってしまい、本を開いて読みふけってしまった。
そこには9つの短編小説が書かれていた。
まだ自分の将来を決めかねている女子高生、
ありふれた日常を生きる30代のサラリーマン、
子供を失った妻の物語、
刑務所に入った息子に手紙を書く父親などなど……
この作家がよく描いていたノンフィクションのような特別な世界に生きている人ではなく、ごく普通の世界に生きている普通の人達の物語がそこにはあった。
ありふれた日常のようで、少しだけ違う。
この小説の中にごく普通の主人公たちは、ある選択をする場面を描いている。
その選択は人生を大きく帰るようなたいそうなものではない。
だけど、「向こう側にはいかない」という選択をしている。
より簡単な方向にはいかない。人の不幸を目にしても、見て見ぬふりをする大人にだけはならない。
ある高校生はカラスにいじめられている鳩を見て、バスを無理やり止めて駆けつけていく。
ある中年の男性は娘を死なせた保育園にある遊具を壊しに行く。
どこか世の中に眠る悲しい出来事に遭遇しても、見て見ぬふりをしないという決意を選択している。
この本を読んでから、自分は道の真中に横たわっていた猫の死体を見て見ぬふりしなくてよかったなと思った。
一度、面倒なことを放棄してしまうと、どうしても人は見て見ぬふりをしてしまう大人になってしまうと思う。
だけど、少しでもいいから世の中の悲しみを感じる心の余裕は持っておきたい。そんなことをふと思ってしまった。
最後のあとがきに小説家の角田光代氏の言葉が書かれてあった。
「より簡単な方向に向かうか向かわないか。どっちにいくか。
その分岐点は、私達の人生に溢れかえるほど存在している。
その選択をし続けることが、つまり自分を生きることではないのか」
東京という社会は思いかけないくらい冷酷な部分がある。
他人の不幸が毎日のように目にすることがあっても、見て見ぬふりだけはしたくない。そんなことを感じた。