自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ
「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」
フェイスブック上に流れてきた、とある詩を読んで衝撃が走った。
なんだこれ。
なんでこんなにぐさっと心に突き刺さるのか。
詩を見て、衝撃を受けたのは初めてだった。
きっと詩を読んだのも小学校の授業以来だ。
この詩を書いた作者は一体誰なのだろうか?
SNSで書き込みがあったのは、この詩を読んで衝撃を受けた誰かなのだろう。
フェイスブック上のページにはこの詩を読んだ衝撃や、自分の人生観が変えられた出来事などが詳細に書かれてあった。
私はこの詩を読んで、ただ心に重く突き刺さってしまった。
本当に今、自分が感じていたことがこの詩の中に入っていたのだ。
「自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」
社会人になってから早くも二年くらいが経つ。
正確に言うと一年ちょっと前はラオスの山奥を放浪していたりしていたから、社会人歴は履歴書上では一年だ。
学生という特権階級的なポジションから外れて二年があっという間に立ってしまったが、毎日忙しない満員電車の中に揺られていると何か感じるべきものも消えていっている自分に気がつく。
以前は感じていたはずの何かが、何も感じなくなっているのだ。
朝の通勤ラッシュ時に人身事故などが起こって電車が止まっていると
「なんで、事故が起こるんだろよ。お客さんとの打ち合わせに遅刻しちゃうよ」とイライラして、思わずそう呟いている自分に驚くことがある。
あれ……昔の自分だったらこんなこと思わなかったんじゃないか?
割と昔から人の目線や挙動にとても敏感な節があって、些細な言動や表情で、「この人はきっと今はこう考えているんだろうな?」
と考えなくてもいいことをぐるぐる考えてしまい、無駄に精神エネルギーを使っていた。
過剰に周囲の反応に敏感だったのかもしれない。
飲み会などがあると昔からとてもグッタリとしていた。
自分の家の近所に事故などが発生すると、他人事には思えなくて、なぜか悲しくなってきて、泣いてしまうような子供だった。
きっと、人身事故が起こって、誰かがきっと悲しんでいるに違いない。
そんなことをいちいち感じてしまう子供だった。
だけど、最近は人身事故や社会の隅に追いやられた人を街の中で見かけても、申し訳ないのだが、何も感じないのだ。
あれ、何で何も感じなくなってしまったのだろう。
昔だったら、どこかで事故があっただけで、自分に起こったことのように悲しくなっていたのに……
今は目の前にある仕事を効率良くこなすことに必死で、悲しい出来事と遭遇しても本当に何も感じなくなってきたのだ。
あ、これがもしかしたら大人になるってことなのかもしれない。
社会的に責任がある立場になると、他人の悲しみにいちいち触れている時間もなくなってくる。
目の前の仕事に追われていると、どうしても視野が狭くなってきている自分に気がつくのだ。
きっと、このままではダメだな。
直感的にそう思い、土日が来るたびに映画館に駆け込んで、ひとまず一旦仕事スイッチをオフにするようにしている。
映画館に飛び込んで、映画を見て、無理やりでも心を動かす経験をしていないと、休みの日もぐるぐると「見積もりを書かなきゃ、仕事のスケジュールを立てなきゃ」とずっと仕事のことを考えてしまうのだ。
感受性って、本当にどんどん磨り減っていくんだな。
そんなことを最近はとても痛感していた。
もともと持っていた感じるという心がすり減っていく感覚がとにかく嫌で仕方がなかった。
そんな時にこの詩とふと出会ったのだ。
詩を見た瞬間、自分が今、ちょうど感じていることはこれじゃないか!
そう思った。
「自分の感受性くらい、自分で守れ! ばかものよ」
作者は茨木のり子という。
この作者の名前は正直言って知らなかった。
誰なんだろう。こんなにぐさっと心に突き刺さる詩を書く人は……
そう思ってしまった。
「自分の感受性くらい、自分で守れ……」
最近は、文章も書けてないと思っていた。
忙しい毎日ということを言い訳にして、書くことから逃げていたのだ。
フリーターをやっていた時は嫌というほど時間があり、なおかつ社会で生きていく中で不満に感じることも多かったのだろう。
ライティングというものにはまって、アホみたいに書きまくっていた気がする。
しかし、今はどうなのか。
社会人になったから時間が持てない。
だから仕方ない。
何も感じることもなくなったから書かなくてもいい。
そう思って書くことから逃げていた。
「自分の感受性くらい、自分で守れ! ばかものよ」
40年以上前に書かれた詩だが、今の自分にはとても突き刺さる言葉だった。
忙しさを理由にして、書くことから逃げていたのではないか?
書くということはやっぱり生きていくことに直結しているのかもしれない。
生きていたら、自然と人に伝えたいことが出てくる。
何かを感じて、書かずにはいられない状況が出てくる。
「自分の感受性くらい、自分で守れ! ばかものよ」
満員電車の中、スマホでこの詩を見かけたとき、自分に投げかけられているようで、思わず身震いがしてしまった。
「 自分の感受性くらい」 茨木のり子著