カメラを持つと「死」に怯えた日々を思い出す
こんなことを書いてもいいのか正直今も迷っている。
普段、ブログを書くときはどこの誰かが読んでいるのかもわからないため、自由に自分の気持ちを素直に書いてしまっているが、もしかしたらこの文章はどこかの誰かを傷つけることになるかもしれない。
身近な人が亡くなった時、人は何を思うのか。
私にとって、初めて訪れた身近な人の「死」は小学生の時だった。
学校から帰ってくると、母親が興ざめた表情で私に語ってきたのだ。
「おじいちゃんが亡くなった」
その時、私は何が何だかわからなかった。
体調が悪いとは聞いていたが、夏休みまで元気に過ごしていたおじいちゃんが亡くなるなんて信じられなかったのだ。
確かに末期の癌だとは聞いていた。
夏休みにあった時は、顔色が真っ白で体調が悪そうだったが、
孫である私には元気いっぱいの笑顔を見せてくれた。
思い返せば、祖父の体調の変化に初めて気がついたのは春休みの頃だった気がする。
その頃はまだ癌も発症していなく、普段通りに孫の私を可愛がってくれ、
いろんな場所へ連れて行ってくれた。
その頃から祖父はあることを訴えていた。
「足が痛い」
やたらと足が痛いと訴えていて、湿布を貼っていたのだ。
捻挫でもしたのかな?
私はそんなことを考えて、あまり大きな問題として捉えていなかった。
まさか、その足の痛みが癌の転移だったとは思わなかったのだ。
結局、夏に癌が発覚してからはもう手遅れだった。
気がついた時には全身に癌が転移していて、余命わずかだった。
命を削ってまで、癌の痛みに耐えていた祖父はベッドの上で何を思い描いていたのだろうか。
命を燃え尽くした祖父の表情はとても凛としていて、清々しい笑顔を浮かべながら眠っていた。
私にとってそれが初めて見た人の「死」だった。
つい最近まで普通通りに生きていた人が突然動かなくなったのだ。
祖父の顔に触れてみると、びっくりするくらい冷たかった。
顔だけを見ていると、「おお、来たか! 東京から遠かっただろ」とひょこっと飛び起きそうな感じがするが、もう二度と起き上がることはない。
葬式を済まして、火葬場から出てくる煙を眺めていると、私は何だか不思議な思いがした。
骨と灰になった祖父の姿を見ていると、自分の中にあった何かが壊れていく感触があった。
小学生だった私は、骨と灰と化した変わり果てた祖父の姿を見て、
「あっ、人って死ぬんだな」
と強烈に思ったことを今でも覚えている。
人はどうもがこうが、いつかは死ぬのだ。
それは明日かもしれない。
もしかしたら100年後かもしれない。
だけど、絶対いつか人は消えて無くなる。
そんなことを強烈に思ったのだ。
そこから不思議と小学生ながらも「死」というものを、どうしても身近な存在にしか思えなくなった。
人はいつか消えて無くなる。
そんなことを強烈に感じるようになったのだ。
叔父が亡くなったのも唐突だった。
ある日、眠っている時に心臓発作になり、そのまま亡くなったのだ。
42歳の若さだった。
普段通り会社に通い、日々の生活を過ごしていたという。
しかし、ある時突然、魂が抜け落ち方のように動かなくなった。
小学生の頃に立て続けに身近な人の「死」を体験した私は、何かに取り憑かれたかのように「死」について考えてしまうようになった。
明日死ぬのは自分かもしれない。
もともと眠りが浅かったが、寝付けない日々が長らく続いていた。
眠ってしまうと二度と起きることはないのかもしれない。
そんなことを強烈に感じるようになったのだ。
普段、何気なく過ごしている日々も、もう二度と見ることができないのかもしれない。
そんなことを頭の片隅にずっと思い描いていた。
中学や高校の頃か、地平線の彼方に沈んでいく夕日の光を眺めるために、わざわざ自転車で多摩川を爆走し、夕日を眺めに行っていた。
地平線の彼方に沈んでいく光の筋を見つめているうちに、
もうこの光は二度と見えないかもしれない。
哀愁深く、黄金色に澄み渡っている和泉多摩川駅から眺める景色を見ながら、
私は強烈にそんなことを感じていた。
いつも私の心を動くきっかけになる景色は何だったのか?
そのことを考えるとどうしても「死」というものを考えてしまう。
自分は明日死ぬのかもしれない。
日頃、怠惰な心で過ごしてしまう自分の戒めを込めて、なぜか哀愁漂う夕日を眺めていると、どうしてもそんなことを思ってしまう。
この美しくも、儚い光はもう見ることができないかもしれない。
そんなことを子供の頃から頭の片隅にずっと思い描いていたのだろう。
大人になり、カメラを手にしてからも猛烈に子供の頃に描いていたこの感情を思い出してしまう。
この美しくも儚い光はもう見ることができないかもしれない。
見ることが出来るうちに切り取って、形に残したい。
そんなことを強烈に思うのか、仕事をしていようが、会社に出社していようが、カメラのファインダー越しに世界を眺めたくなってしまう。
この景色をもう二度と見ることができないのかもしれない。
とにかく儚く消えていく、ありふれた日常にある時間というものを切り取りたくて仕方がない。
つい、最近も親戚がまた一人亡くなった。
癌が発覚して、3ヶ月も経たないうちにこの世を去ってしまった。
本当にあっという間だったという。
残された私にできること。
それは、ひたすら毎日を真剣に生きることだと思う。
普段、会社に出社して忙しい日々を過ごしていると、どうしてもそのことを忘れてしまう自分がいる。
本当に自分は毎日を大切に生きているのか。
そんな自戒の念を込めて、私はありふれた日常を大切にするためにも、ファインダー越しに見える世界を大切にしたいだと思う。
自分は真剣に生きているのか。
ありふれた日常を切り取っていく時、私の頭の片隅には、どうしても身近な人の「死」というものがちらついて見えてくる。