人間関係に悩んでいた私が、ポートレート写真を通じて見えてきた世界
「人間関係のストライクゾーンが狭すぎる」
大学時代から仲良くしていた友人からこんなことを言われたことがある。
私はただ呆然としながら、友人の話を聞いていた。
「周囲の人の可能性を捨てないほうがいいよ。あまり気が合わないなと思うような人でもきちんと話をすれば、きっと自分と共感するようなところが一つや二つ出てくる」
その友人はどうも人脈の作り方を本能的に心得ているらしく、いつも周囲には人が集まってきていた。
彼の周りにいるといつもわくわくする上、笑いが絶えないのだ。
「どんな人間関係でもいい具合に壁を作らない方がいい」
そんなことを面と向かって飲み会の時に言われた。
私は彼の言い分がごもっともすぎて何も言い返せなかったのを覚えている。
確かに……その通りだ。
私は昔からハイパーネガティブな性格のためか、人と話しているとぐったりと疲れてしまうことがある。
ちょっとした目線の動きを気にして
「あ! この人言葉ではこう言っているけど、本心ではこう思っているな」
「目線を今外したから、この人自分にあまり興味ないな」
特に考えなくてもいいことを頭の中でぐるぐる考えてしまう性格からか、
飲み会の席ではいつもぐったりとしてしまっていた。
人がいっぱい集まり、話をしている飲み会がどうも苦手なのだ。
飲み会は楽しい場のはずなのに、昔から終わった後には異常な後悔と焦燥感に見舞われる。
「あの時、こんな話題を振られたのに、何も答えられなかった」
人とコミュニケーションを取るのが、昔から大の苦手なため、
どうしても飲み会というものに苦手意識があり、あまり参加をする方ではなかった。
いっそ、自分の殻に閉じこもってしまえ。
そう思い、家にこもっていた時期もあった。
ちょっと話をしただけで、目線の動きを見ただけで、この人はきっとこう言う人なんだと決めつける癖があり、身動きが取れなくなってしまったのだ。
今思うと、自分のプライドが高すぎるため、他人を侮辱してなんとか自分を保っていたのだと思う。
高すぎるプライドと自尊心が邪魔をし、私の心はズタズタになっていた。
大学時代の友人で、いつも周囲に笑いが絶えない彼は、とにかく人間が好きだったのだと思う。
人が好きでたまらなく、どんな人でもコミュニケーションが取れるのだ。
そんな彼を羨ましく思うと同時に、大の人間嫌いだった私にはどんな人ともコミュニケーションを取るのは無理なんだと諦める気持ちもあった。
どうしたら人を好きになれるのだろう。
どうしたら人とうまくコミュニケーションを取れるようになるのだろう。
そう悩んでいる時、ふとある人からこんなことを言われた。
「カメラを始めたらコミュ力を鍛えられますよ。とにかくモテますよ」
え? そうなの。カメラってコミュ力を鍛えられるの。
私は不思議だった。
カメラ=コミュニケーション能力がどうも結びつかなかったのだ。
プロのカメラマンであるその人はこう言っていた。
「モデルさんを目の前にして、いい表情を引き出そうと思ったら、一番必要な能力はコミュ力です。毎日、モデルさんのいい表情を引き出そうと悪戦苦闘していると自然とコミュニケーション能力がつきますよ」
私は驚いてしまった。
昔から大の映画好きで、カメラには昔から興味があった。
カメラは好きだったが、モデルさんを撮影するようなことはあまり触れる機会がなかった。
社会に出て、いろんな挫折を味わっていく中で、気がついたら写真を始めたくて、始めたくて仕方がなくなってしまった。
「カメラを始めれば世の中の景色が変わってくる」
そんな言葉を信じて、約8ヶ月かけてお金を貯めて、念願の一眼カメラを買った。
カメラを始めてから、カメラなしの生活ができなくなってしまった。
毎日通勤のために駅に向かっていると、朝日が差し込むこぼれ日があまりにも美しく、シャッターを切らずにはいられなくなった。
世の中にはこんなに光が溢れているのか。
ありふれた日常がとても愛おしく思えてくるのだ。
カメラを持ち始めて、数ヶ月が経った頃、周囲に「カメラが好きだ、好きだ」と叫んでいたおかげて、土日の時にモデルさんを撮る簡単なアルバイトをするようになった。
大の人間嫌いだった私が、モデルさんを撮るようになるとは自分でも驚きである。
とにかくカメラが好きで、写真が好きで、撮りまくっていると気がついたら自分の周りにはカメラ好きの人が集まってきた。
どうしたらいい表情を引き出せるのか?
どうすれば人の心に響く写真が撮れるのか?
そんなことを思い、悪戦苦闘しながら写真を撮っているとある時、こんなことに気がついた。
「これって自分が相手をどう見ているのかによって、出来上がる写真も違ってくるんじゃないか?」
初対面であった人に「この人は優しそうだな」と思ったら、気がついたら優しそうな写真になっているのだ。
印象が「ちょっと暗そうな人だな」と思ったら、気がついたら写真も暗い印象のものになるのだ。
自分が相手をどう見ているのかが出来上がった写真にも影響されてくる。
よく考えれば、自分が今までに出会ったプロのフォトグラファーさんは皆、とにかく心が純粋で綺麗な人が多かった。
きっと、初めて会うような人でも、人の悪い部分ではなく、良い部分を見つめようとして、良い部分だけを切り取るのだ。
とにかくポジティブな部分を切り取って、写真という形にしていくのだ。
所詮、人とのコミュニケーションって自分が相手をどう見るかの問題なのだと思う。
相手を「きっと陰で悪口を言う人だ」とマイナスの面を見れば、その相手はそう見えてしまうだけなのだ。
「きっとこの人はこんな素晴らしい一面を持っている」
とポジティブな部分を見つけようとする人は、素晴らしい表情を写真に切り取っていくし、世の中も社会もプラスの部分を切り取っていくのだ。
写真を始めてからそのことにようやく気がつけた。
私は今まで人と話していても悪い部分を気にしてしまい、うまく人とコミュニケーションを取ることができなかった。
だけど、やっぱり人を惹きつけるような人は、一生懸命人の良い部分を見つけようとするのだ。
どんな人でも良い部分を持っていることを知っているのだ。
満員電車に乗っていて、目の前には疲れた表情のサラリーマンが座っていても、
最近は「このサラリーマン、辛そうに仕事しているな」と愚痴るのではなく、
「家族のために毎晩遅くまで仕事しているんだな」と良い面を見つけるようになってきた。
世の中も切り取り方次第で、どうにでも変わるのかもしれない。
どんな人でも物事をどう見るかによって、見方も生き方も変わってくるのだ。
社会はつまらないと思っている人にとって、社会はそういうものでしかないのだと思う。
たとえ汚い掃除の仕事でも、「人のためになる仕事だ」と思っている人にとって、その仕事はやりがいのある立派な仕事になるのだ。
悪戦苦闘しながらもポートレート写真を撮っているうちに、私は多くのことを学んでいたのかもしれない。