10代の頃に映画「シンドラーのリスト」を観てから、どうしてもこの感情が拭いきれないでいる
「長いこと生きていると、その時、出会うべき人に出会える瞬間がある」
そんなことを昔、ある人に言われた
出会うのが早すぎてもダメ。
社会に出て、いろんな経験をしていく中で、少しずつバケツの水が溜まっていくかのようにして、自分の価値観も変わっていき、出会うべき人に出会う瞬間がある。
出会うべきものが人でも、物でもいい。
今まで積み上げてきたものが凝縮され、出会うべき時に出会えるものがある。
その時にはわからなくても、時間が経てば、きっと気づくこともある。
そんなことをある人に言われた。
自分の人生観を変えるような出会い?
それって一体なんなのだろうか。
大学を卒業して、まだ数年しか経っていなく、未だにそんな出会いがあるのかどうかもわからない。
だけど、自分の脳裏にずっと焼き付いて離れず、きっと無意識のうちに影響され続けている映画がある。
それは「シンドラーのリスト」という一本の映画だった。
始めて観たときは確か高校生だったと思う。
なぜかTSUTAYAに置かれていた映画のパッケージに惹かれ、手に取っていたのだ。
「シンドラーのリスト」を観たときのことを今でも覚えている。
3時間以上もある長い長い映画だったが、一瞬たりとも目を背けず、
じっと見続けてしまった。
全編モノクロの世界で表現されているこの映画に当時の私は相当感化されてしまったのだと思う。
とにかく見ていくうちに、画面から目が離せなかった。
目を離してしまうことが自分に許せなかった。
モノクロで表現されているこの映画は、人類史上唯を見ない大虐殺が起きた事実をこと細かく丁寧に描いていく。
ただ広い荒野の真ん中、静寂に包まれている時、一本の銃声が響きわたり、人が機械的に処理されていく様を見て、とても恐怖を感じた。
映画を見ているから怖くなったというよりも、この映画で見た景色が実際に起きたことに恐怖を感じたのだ。
当時のホロコーストを生き残った生存者たちの証言をもとに作り上げていったこの映画は、まるで記録映画のようにただ刻々と事実を捉えていく。
高校生だった私は、ただ目の前に広がっていたモノクロの世界を呆然としながら眺めていたのだと思う。
そこに描かれているのは、人間の恐ろしさであり、美しさでもあった気がする。
監督のスピルバーグと撮影監督を務めたヤヌス・カミンスキーが作り上げたモノクロの映像はどこか悲しみを奏でるように美しい響きが広がっている。
モノクロの世界に響き渡る悲しみの色合いと、大量虐殺が起きていく中でもユダヤ人を救うため、立ち上がったドイツ人の正義感が全編で美しいハーモニーを奏でているのだ。
モノクロの世界に広がる雪景色はとにかく美しい。
当時の真冬のドイツには、夜空から毎日のように雪が降ってきたという。
だけど、この雪は収容所の煙突から舞い上がっていた大量の灰だとわかった瞬間、なんとも言えない悲しみが心の奥底で湧き上がってくる。
未だにどうしてもこの映画だけは年に一回は見てしまう。
何度でも見てしまう。
全編モノクロの世界で表現されているこの記録映画のような物語に私は相当
かんかされてしまったのだろうか。
普段、街中で写真を撮ることが多いが、どうしてもこの映画を思い出してモノクロ写真を撮ってしまうのだ。
世の中に蔓延している違和感というものを、どうしてもモノクロの映像で切り取りたくなるのだ。
毎日のように忙しい日々を送っていると、日常に潜んでいる他人の悲しみなどを見ている暇などない。
人身事故が起きても、見て見ぬ振りをしてしまった方が楽である。
だけど、どうしても見て見ぬ振りができないでいる自分もいる。
何も感じずにいてもいいのか……
そんなことを、社会人をやっていてもふと思ってしまう。
10代の頃に出会ったこの映画は私の脳裏にとても焼き付いてしまったらしい。
全編モノクロで描かれたこの記録映画のような美しい物語は、大量虐殺が起こった悲しみと人間の怖さを伝えている。
当時のドイツの役人達がいかにして機械的にユダヤ人を処理していったのか。
そのことをしっかりと歴史に残している。
この映画は本当に人として一回は見なきゃいけない映画だと思う。
10代でこの映画と出会った私はその後も社会に潜む違和感というものに目を背けられなくなってしまった。
戦争が終わり、どんな世の中になっても、悲しみを抱えてモノクロの世界でしか社会を見られない人たちがいる。
そんなモノクロの世界でも、些細な一瞬でも色あざやかなカラーに見える光景があるのだと思う。
この映画を観てから私はずっと、オスカー・シンドラーの心を変えた、赤い服の少女の面影を探しているのかもしれない。