生きている実感を感じられない人にとって、映画「ブレードランナー2049」は、特別な薬になるのかもしれない
「人が生きている意味なんてありません。ただ生まれて死ぬだけです」
今でも予備校講師に言われた言葉をたまに思い出す。
私が通っていた予備校には名物とされている英語の先生がおり、とにかくその先生から授業中ボロクソに私はヤジを飛ばされていた。
「大学受験に失敗するなんて情けない」
「あなたたちはタコですね」
現役の時は志望校をほぼ全て落ちた私はその先生の授業を受けて、結構腹がたつことも多かった。
だけど、とにかくその先生の授業は人気があった。
英語に関してはどの先生よりも力になるのだ。
構文やら英作文までびっしりと鍛えられ、その先生の授業を一年間ボロクソになりながらも通っていた生徒はみんな浪人の末、志望大学に受かっていた。
自分も当時は泣きながら、その先生の授業についていったと思う。
本当に泣きながらだ。
英作文を見せに行っては、「あなたはタコですね」と馬鹿にされ、
なにくそと思ったものだ。
それでも私は必死になってその先生の授業を受けて行っていた。
なぜか直感的にこの授業は受けなきゃいけない。そんなことを思っていた。
約一年間、ボロクソに言われたおかげで私の壊滅的だった英語の偏差値も徐々に上がっていき、なんとか志望大学に合格することができた。
その先生の最後の授業。
いつも生徒をボロクソに言い、厳しいことで有名な先生だったが、最後の授業ではとても感動的な言葉を言っていた。
「今の若い人はよく生きている意味がわかりませんって言います。
生きている意味なんてありませんよ! あなたがこの世に生まれてきたということはどれだけの確率なのか知っていますか? せっかく生まれてきた命なんですから途中で投げ出さないでください。
生きている意味なんてありません。それは誰にも否定できない事実です」
いつもボロクソになって生徒を罵っていた先生だったが、最後は愛情のある
言葉を生徒に語ってくれていた。
最後の授業では泣いている生徒も多かった。
私はその時、泣きながら先生の話を聞いていたのだと思う。
そして、今でもその時に言われた言葉をたまに思い出す。
「人が生きている意味なんてありません。生きがいを追い求めても無駄です」
SNSが主流になった今、どうしても私たちはフェイスブックの「いいね」などで他者から承認を得られることを求めてしまう気がする。
私もよくあるのだが、SNSで投稿するためだけに無駄に外出したり、
あたかも休日を満喫しているアピールをして、生き生きとした毎日を過ごしていることを周囲にアピールしようとしてしまうのだ。
別に好きでSNSを通じて、周囲に自分のことをアピールしたいのではないのだと思う。
SNSを通じてしか、人とのつながりを確認できないのだ。
生きている実感が持てないのだ。
「人が生きている意味なんてありません。ただ生まれて死ぬだけです」
忙しい毎日を過ごし、終電近くの電車の中でSNSをいじっていると、たまにこの言葉を思い出してしまう。
自分が生きている価値って何なのか?
きっと、あの先生が言ったように生きている意味を追い求めるだけ時間の無駄なのだろう。生きがいを追い求めるよりも毎日の仕事に熱中している方がいいと思う。
だけど、どうしても考えてしまう。
自分が生まれてきた理由は何なのか?
他者とのつながりって一体何なのか?
そんな時にこの映画と出会った。
82年に公開された一作目は大学生の時に見た。
雨の中、ネオンが光る大都会をハリソン・フォードが駆け抜ける。
どこか見た人の脳裏からこびりついて離れないような映像美がそこにはあった。
私は正直いうと、一作目を見た時、あまりにも難解な内容のため、途中で寝てしまったのだ。
世界観はとにかくいい。
雨の中の大都会……その崩壊した未来像のビジュアルセンスは多くのSF映画に影響を与え続けているという。
「AKIRA」も「攻殻機動隊」も「マトリックス」もほぼすべて「ブレードランナー」の影響を多大に受けている。
ビジュアル的な絵はいいが、とにかく哲学的でストーリーが難解なのだ。
私はどうしても一回目はあまり真剣に見ることができなかった。
しかし、時が経つにつれて、ジワジワと雨の中の未来都市の映像美を思い出してしまうのだ。
なぜだろう。
どうして、一度見ただけなのに、映像が脳裏に焼き付いて離れないのだ。
気がついたら私は3回以上「ブレードランナー」を見直していた。
見れば見るほど奥深いストーリーに惹きつけられた。
人は何のために生きるのか?
そんな哲学的な問いに心を惹きつけられた。
なぜか映画のシーンが脳裏にこびりついて離れないのだ。
これが多くの人を魅了し続けているカルト映画ってやつか……
大学を卒業して、社会人をやるようになって忙しい毎日を送る中でも、
たまに「ブレードランナー」だけは見直していた。
最近ではカメラを買い、写真を始めたことも影響され、とにかく雨の中に浮かび上がるネオンの光の映像美に酔い浸っていた。
そんな「ブレードランナー」だが、30年ぶりに2作目が公開されるという。
私は早速、映画館に駆け込むことにした。
映画館の中には評判を聞いてか、一作目を見てきたコアなファン層から20代の人までいろんな層の人が集まっていた。
こんなに人気なんだ。
改めてカルト映画となっている「ブレードランナー」の凄さを痛感するとともに、正直怖くなった。
「ブレードランナー」は見た感じ、万人ウケするような映画ではない。
「スターウォーズ」などのSF映画を想定してきた人にとってはかなりイメージと違う内容だ。
とにかく複雑なのだ。哲学的なのだ。
こんなに幅広い層が映画館に集まっていていいのかな。
そんなことを思っていると映画が始まった。
映画が始まって20分くらいすると私はスクリーンに広がる未来都市にクギ付けになっていた。
全く見ていて飽きないのだ。
主人公が置かれている状況……
AIのガールフレンドにしか心を開かない主人公の姿が、SNSに自分の居場所を追い求めている今の人たちの姿と重なって見えてしまった。
なぜだろう。
どうしてこんなにも涙が出てきてしまうのだろう。
私は映画の中の世界観に酔い浸っていた。
「ブレードランナー」は確かにカルト的な人気を誇る古典的名作の一つだと思う。カルト映画のため、どうしても見る人を選んでしまう節もある。
映画の上映中も何人も途中でトイレに立ち上がっていた。
周囲からザワザワとした音も聞こえてきた。
映画自体も2時間40分もあるため、多くの人にとっては集中力を維持して
見るのは正直きつい部分もある。
だけど、私はこの映画が問いかけている深い内容を感じずにはいられなかった。
2時間40分が経ち、エンドロールが終わっても私は席から立ち上がることができなかった。映画の世界観から抜け出せなくなっていた。
なんで、こんなにも胸が苦しいのか。
なんで、こんなに心に響いてしまうのか。
この映画は2時間以上の時間を使って、
「人はなぜ生きるのか?」ということを問いかけてくる。
「人が人らしくある部分は何なのか? 人間性とは何なのか?」
そんな哲学的な問いを観客に問いかけてくるのだ。
生きている実感を得られず、孤独の中で過ごしていた主人公は最後に自分が生まれてきた意味を見出していく。
そんな主人公の姿を見ているうちに私は涙が溢れてきてしまうのだ。
彼が出した結論……
それは、「誰かのために戦って死ぬ」ことだった。
どこかの誰かのために戦って死ぬことで、初めて生きる意味を知るのだ。
私は今でも予備校時代に言われた言葉をたまに思い出す時がある。
確かに予備校の先生が言っていたように、人が生まれてきた理由なんてないのかもしれない。
だけど、どうしても考えてしまうのだ。
自分が生まれてきた意味は一体何なのか?
どこかの誰かのために戦って死ぬことで、生きる意味を見出した映画の主人公のように、力強く生きて、生きる意味を見出したい。
仕事でも、趣味でも何でもいい。
力強く、毎日を生きて行く中で、何か見えてくるものがあるのではないのか。
そんなことを私は強く感じた。