旅という名の読書
「次はカンボジアに向かおう」
バンコクの安宿街、カオサン・ロードの宿で朝起きる時に、私はふとそう思った。
何も考えずに飛び込んだ東南アジア旅行。
特に行き先も何も全く決まっていなかった。
「とにかく一旦、日本を離れたい」
その一心で、私は飛行機のチケットを買い、バンコクに向かって飛び立ったのだ。
特に行き先も決めずに飛び込んでしまったため、案外、旅の間、暇な時間が多かった。
その頃はほぼバックパッカー初心者のため、旅に出たものの何をしたらいいのかさっぱりわからなかったのだ。
ひとまず、バンコクに飛び込んで、カオサンロードという安宿街に辿り着いてしまった感じだ。
「ひとまず、カンボジアを目指そう」
早朝、ゴキブリだらけの一室で目を覚ました私が決めた唯一のことだった。
このままタイ・バンコクでダラダラ過ごしていてはもったいない。
せっかく来たのだから、もっといろんな場所を巡らなきゃ。
そう思ったのだ。
決定してからは早かった。
早朝というか夜中の3時に目を覚まし、私はバンコク中心にある駅へと向かうことにした。
カオサンロードは真夜中でも騒がしかった。
世界中からバックパッカーが集まるカオサンロード。
毎晩、お祭り騒ぎだ。
欧米人が休暇でやってきては、朝までいろんな国の人との会話に明け暮れていた。
「よくもこんなにバカ騒ぎできるよな……」
私はそう思っていた。
トゥクトゥクという小型タクシーに乗って、深夜のバンコクを走り回っていると、気がついたらバンコク市内になる駅にたどり着いていた。
トゥクトゥクのおじさんにお金を払い終え、駅に降りたくと、周囲から変な異臭が鼻についた。
なんだこの臭い……
それはどこか生ゴミ臭い、悪臭だった。
駅のホームの入り口に向かうと、私は驚いてしまった。
そこには大量のホームレスが群れをなして、地面にビニールを敷いて寝ているのだ。
なんだこの光景は……
どうやらホームレスの中には、私のように早朝発の列車を待つ人もいるようだが、ほとんどの人が駅のクーラーの涼しさを目当てに集まってきているように見えた。
こんなにも格差があるのか……
急速な勢いで経済成長を遂げているタイだが、都心部では富裕層と貧困層との格差が著しく問題になっている。
富むものが出ると、自然と貧しくなる人が生まれてくるのだ。
私は世の中の不浄な原理を知って、どうしても後ろめたく感じてしまった。
よく考えれば、バンコクを歩き回っている間、常に不思議に思っていたが、綺麗な高層ビルの間に、やたらとプレハブのスラム街が横たわっているのだ。
数ブロックは綺麗な建物が並んでいるが、ちょっと裏通りに入ると、一気にスラム街になるのだ。
その光景が不思議だった。
まず、日本では見られない光景だ。
私はバンコクのホームレスと混じって、駅で寝ていると、気がついたら駅の改札口が開く時間になっていた。
どっとなだれ込むようにホームレスの人たちは、駅の中に入っていった。
駅構内はクーラーがガンガン効いていた。
涼しい……いや、寒い。
これでもかというくらいガンガン、クーラーが効いているので、逆に寒いのだ。
しかし、年寄りの人たちなどは、蒸し暑いバンコクの夜にうんざりしていたせいか、とても涼しそうにクーラーの風に当たっていた。
私が乗る予定の列車が発車する時刻になった。
タイとカンボジアの国境に向かう列車はガタガタだ。
明らか別の国から車両をもらってきただろ、と思うほど車両の種類がそれぞれバラバラなのだ。
私は硬い椅子に耐えながらも、列車に揺れて、約6時間の鉄道の旅を満喫していった。
終着駅間近で後ろにいた、チリ人に話しかけられた。
「お前、カンボジアとの国境目指すつもりか?」
「そうだよ」と答えると、よしっという感じの顔になった。
「自分も国境を目指すつもりだが、一緒にトゥクトゥクに乗ってくれないか? 国境までの距離を割り勘したら安いだろう」
私は二つ返事でオーケーした。
トゥクトゥク代を安く済ませられるとはラッキーだ。
基本的に一泊300円の安宿に泊まり歩く貧乏旅行をしてきていた。
残りの旅の資金を考えるとここは割り勘で国境まで向かう方が得策である。
列車から降りた瞬間、大量のトゥクトゥクの客引きに囲まれた。
私たちは客引きたちを払いのけ、最も安く値切れたトゥクトゥクのおじさんについて行って、国境を目指すことにした。
国境を前にすると、一気に緊張が走ってきた。
私にとって初めての国境越えである。
日本という島国で生まれ育った私には国境という考え方がよくわからなかった。
ある地点を越えたら国も文化も変わるのだ。
一体どんな感じなんだろうか。
軽く緊張している私を見て、隣にいたチリのバックパッカーの人が話しかけてきた。
「お前、国境を越えるの初めてか?」
「そうだ」と答えると、
「とにかく何も考えずにまっすぐ進め。そうしたら、自然と境界線に着く」
私は大混雑しているタイ側の国境で立ち往生していると、そう話しかけてくれたのだ。
とにかく、まっすぐ進めばいいのか。
税関でパスポートを見せ、私は国境に向かって歩いて行った。
どんな景色が広がっているのか。
私はタイ側とカンボジア側にある、境界に位置する大きなアーチ側の門をくぐり、カンボジア側に入った。
カンボジアに入った途端、すべての景色が変わって見えた。
なんだこれ!
そこはタイの文化とはまったく違う光景だった。土もどこか赤黒く、泥まみれのタクシーが国境付近に沢山停車してあったのだ。
話す言葉もどうやら違うようだ。
カンボジア人が話すクメール語は日本人の私にとって未知の言語だ。
何を言っているのかさっぱりわからない。
つい5メートル先まで見慣れたタイの光景だったのに、一旦国境の外に出ると、こうも価値観が変わるなんて……
私は国境がない日本では体験することができない国境越えをして、何だかカルチャーショックを受けてしまった。
カンボジア側の税関でパスポートにスタンプを押してもらい、私はアンコールワットを拠点とするシェムリアップという街を目指していくことにした。
チリ人のバックパッカーとはその頃になって、別れた。
「いい旅を! それじゃまたね」
お互い二度と会うことはないのはわかっているが、どうしても「また会おう」と言ってしまうものだ。
これからカンボジアではどんな旅が待っているのだろうか。
胸をときめかせながら私はシェムリアップ行きのバスに乗ることにした。
旅することは本を読むことと似ているかもしれない。
自分の価値観と一旦距離をとる行為。
いろんな価値観と触れ合って、自分自身の価値観から一旦離れるのだ。
そこには自分の人生をも変えるような刺激的な出会いもあるだろう。
その人の価値観が形成されていく読書という行為も、カンボジアで国境を越えていった感覚と似ているのかもしれない。
自分が今までに触れてこなかった価値観と出会うこと。
それは人生にとって、とてもとても貴重な経験なのだと思う。
だから、私は読書と旅だけはやめられない。
社会人をやるようになって、忙しい毎日を過ごすようになったが、暇さえ見つければ旅に出たいと思う。
今年はどんな旅に出会えるのか?
そんなことをふと思ってしまうのだ。