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世の中に蔓延している椅子取りゲームの外側で生きていくこと

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「人生勝ち組になりたかったら東大に行け!」

私が高校生だった頃、大ブームになっていたとある漫画の決まり文句だった。

 

その頃は、なぜか東大ブームがあって「東大生のノート」「現役で東大に受かる子供の教育法」など、やたらと東大! 東大! というキーワードが本屋に溢れていたと思う。

 

私もそんな東大ブームに乗って、東大生に憧れた一人だった。

 

もちろん東大なんて受かる偏差値もなければ、知能もない。

 

しかし、高校受験の時に、偶然にも都内では有数の進学高に受かってしまい、周囲が高学歴な大学を目指すエリート集団だったため、自分もレベルの高い大学に行けるんじゃないかと舞い上がってしまったのだ。

 

 

完全に自分の実力を自惚れていたのだ。

私のクラスメイトには、親戚に東大生がいる人や、早慶出身の親を持つ生徒がたくさんいた。

やはり、親が高学歴だと子供も自然と高学歴な大学を目指すものだ。

そういった人たちはたいてい幼少期から英才教育をきちんと受けて育った人が多いので、小学校の頃から基礎学力ができている。

 

 

私の一家というと、全くの無名の大学を卒業した父親とパートの母親の家庭だった。

受験に関しては全くの無関心だった。

 

しかし、祖父がやたらと「学問にだけは借金をしてでもきちんと金を出せ!」という方針だったので、その影響か、学歴には無頓着にもかかわらず、息子の教育費にはきちんと金をかけてくれる両親だった。

 

 

「別にレベルの高い学校に行けとは言わないが、私立に行きたいなら金を出す」

そう言ってくれたおかげで私はなんとか、学費が高い私立高校と私立大学で過ごすことになる。

 

 

私立の進学校の3年間は今思うと大変貴重な経験だったと思う。

人生の早い段階で、宇宙人クラスに頭がいい人たちと出会えたのは貴重な体験だった気がするのだ。

模試を受けると偏差値が全国5位以内の人たちがクラスの中にゴロゴロいたのだ。

 

しかし、そんな頭のいい人たちに囲まれて3年間過ごしてしまったため、私は自分の頭の出来の悪さを痛感し、ひねくれてしまっていた。

 

どうもがいてもこいつらには敵わない……

テスト前に自分は約10時間勉強していっても、クラスの中には30分程度教科書を見直すだけで、あっという間に満点を取れるような生徒がゴロゴロいたのだ。

 

私はそんな環境で過ごしていく中で、意地でもこいつらと同じ大学に入ってやろうと思い、東大やら早慶を目指していくことにした。

 

MARCHなんて受けない!

早慶以外は入っても損!

そんなことを思っていたのだ。

 

 

自分の偏差値もわきまえずにそういったハイレベルの大学だけを受験しまくり、結果的にどうなったか……

 

全落ちしたのだ。

 

「学歴が全てだ!」

「大学受験に失敗すると、のちの就活にも響いてきて人生損する」

 

「大学受験で人生が決まる!」

 

周囲からそう言われ、私自身もそう信じていた。

 

 

大学に行くなら早慶以上行かなきゃと自惚れていた私は結局、一年間浪人生活を過ごし、なんとかそこそこのレベルの大学に入れた。

自分は大学受験競争に敗れてしまった……

もうエリートの道は進めないんだ……

 

学歴という看板が全てだと思っていた私は、就活でリベンジを果たすことにした。

民放キー局や電通博報堂といった会社に入って、現役で東大やら早慶に入った人たちを見下すんだ。

 

ブランドのある会社名を手に入れて、人よりも上に立つ人生を歩むんだ。

そんなことを思っていた。

 

自分が作りあげた学歴という名の競争社会に縛られ、私はどんどん身動きが取れなくなってきた。

何が何でもいい会社に入らないと死ぬ。

大学でも会社名でも、きちんとした肩書きを持って人よりも上に立ちたい。

 

そう思い、もがき苦しんでいた。

 

社会の中で蔓延している競争社会に縛られ、私は身動きが取れなくなっていたのだ。

人よりも上に立ちたい。

何者かになりたい。

 

きっとどこかのクリエイティブな誰かが

「君は人よりも感受性が豊かだね」と言ってくれるのを待っていたのだ。

 

何とか内定が出た会社も数ヶ月で辞めてしまった。

仕事がハードすぎて辛かったという部分もあるが、それ以上に競争社会に疲れ果てたのだ。

 

社会というものは不思議で入った会社によって年収も待遇もガランと違ってくる。

就活の時には、何だかよくわからない質問が面接に飛んできて、面接官に「何となくこいつは使えそう」「何となく社風がうちにあっている」というなんとなくで合否が決まっていき、なんとなくで就活生の人生が決まっていく。

 

 

 

企業にとってはなんとなくで採用していても、その就活生にとっては人生をかけた大勝負なのだ。

自分のこれからのキャリアが決まる就活が、ほとんどなんとなくで決まっていく日本の就活はどんなものかと思ったが、社会がそうなっているのだから仕方ない。

 

就活戦争に敗れ、某テレビ局の下請け会社で働いているうちに社会の厳しさをとても目に見える形でわかった。

 

入った会社によってこうも身分が違うのか……

面接で同じだった人が、とある局の正社員として働き、年収1000万で9時には家に帰れるのに、自分は明け方まで働いて、彼らの3分の1の給料である。

 

社会はそういうものだから仕方ないが、

就活の時の面接で選ばれるか? 選ばれないか? 

でこうも後の人生が変わるものなのかと驚いてしまった。

 

社会は椅子取りゲームだ。

どれだけいい椅子に座れるかによってその人の人生が決まってくる。

みんないい椅子に座るために必死こいてセンター試験を受けて、いい大学を目指していく。

 

私もそんな椅子取りゲームに参戦した一人だった。

そして、そのゲームに敗北した。

 

世の中は競争社会で溢れている。

その競争に敗れた自分はもう生きている価値がないと思ってしまった。

 

会社を辞め、世の中をさまよっているうちに、なんとか雇ってくれる中小企業を見つけられはした。

それでも自分には生きて行く価値はあるのか?

中小企業なんて小さな会社で働く意味はあるのか?

と正直思ってしまったのだ。

 

そんな時、ある人と出会った。

その人はライターもやっている方で、20代の時には小説家になろうと毎日1万6千字の文章を書いていた人だ。

 

1万6千字って異常な量だろ!

 

誰に読まれるかわからないが、約10年間小説を書き続けたという。

 

そして、今現在、ありとあらゆるプロの肩書きを持ち、テレビや取材などに引っ張りだこだ。

私はそんな人たちを見ていると、自分が歩んできて競争社会がバカバカしく思えてくるのだ。

 

 

特に有名な大学を出ていなくても、こうしてきちんと世の中に名前を出していく人がいる。

 

「いい人生を歩みたかったらいい大学に行け」

「勝ち組になりたければいい会社に入れ」

そう周囲から言われ、自分でもそう思っていたが、その社会に蔓延している競争社会は実は自分が作り上げたものにすぎないのではないかと思う。

 

 

 

実際、今私は名前も知られていない中小企業で働いているが、仕事自体は結構楽しいのだ。小さな会社なので割と自分の裁量で仕事を決められ、自由に動き回り、自分の営業範囲を獲得していけるのだ。

 

大企業だとまず間違いなく、上から流れてきた仕事をさばいていくことになる。

どこかの部署の上司が言った内容どおり、仕事をこなし、7時には家に帰る。

その繰り返しが多い。

 

 

いい大学に入りたかったのも、いい会社に入りたいと思っていたのも、自分が築き上げた幻想だったのかもしれないと最近は思う。

 

就活では全体の3パーセントしかない大企業にほぼすべての学生が殺到していくという。

その少ない大企業という椅子に座るために、みんな死に物狂いでエントリーシートを書き、面接をしていく。

 

実際に社会に出てみると、そんな椅子取りゲームに参戦しなくても、全然面白い仕事なんて死ぬほどあるのだ。

世の中の97パーセントの中小企業に入ってもきちんと活躍している人はいっぱいいるのだ。

 

「大学受験で人生が決まる」

それはある程度は確かなのかもしれない。

学歴によって就ける職業もある程度限られてくるのは事実だ。

 

だけど、人生はそれだけでは決して決まらない。

高卒だろうと中卒だろうと、きちんと仕事をこなし社会の中で頭角を出してきている人はいっぱいいるのだ。

社会に蔓延している競争社会の外側で生きているそんな人たちの目はいつも輝いている。

自分がやりたい仕事を死に物狂いでやっている人たちは、みんな楽しそうに仕事をしている。

私はそんな風な人になりたいと最近は思うようになった。

競争社会の内側で生き、疲れ果ててしまった私は、ようやく外側にある景色を見れるようになった。

 

どう生きるかはすべて自分次第だと思う。

競争社会の外側でもきちんと一生懸命生きている人たちがいる。

 

学歴でコテコテに塗りこまれた人たちよりもそう言った人たちと話している方が、案外楽しかったりするのだ。