もしかしたら「普通」こそ、一番の天才なのかもしれない
「どうやったら面白いものが書けるのか?」
大学生だった頃の私は、図書館に立てこもり、ひたすら面白いコンテンツを探しまくっていた。
その頃は、本気で映画の世界に入りたくて、貪り尽くすように脚本や有名な本をインプットしては、大学のパソコンの前でひたすら誰が読むかもわからないストーリーを書きまくっていたのだ。
大学時代に頭角を現す!
そんな自意識過剰でイタイ大学生だった。
自分なら何者かになれる。
自分ならクリエイティブな素質がある。
そう思っては、ひたすら映画を見たり、大量の脚本を読みあさったりしていた。
邦画を観てもダメだ。
エンターテイメントの最前線を行く、ハリウッドを研究しなくては!
洋画を見るだけでなく、スクリーンプレイのサイトから英語を読めもしないのに、ハリウッドで出回っていた英語のシナリオを読んだりしていた。
自分なりに映画を研究しては、毎日ちょっとずつ脚本を書いていった。
だけど、書けば書くほど、書くのがつらくなる自分がいた。
どうすれば人を動かせるような脚本をかけるのだ。
そう頭を抱えて、インスピレーションが湧いてくるのを待つふりをして、家の近所を歩き回ったりしていた。
(今思うとだいぶ大物作家気どりである)
どうすればいいコンテンツが作れるのか?
それは私が抱えていた最大の悩みだったりする。
若くして頭角を出してくるようなクリエイターの方々は、どこか人と違う感覚を持っていて、特殊な才能があるんだ。
何も持っていない自分には努力で、天才を上回るしかない。
そう思って、アホみたいに映画を見まくって、アホみたいに脚本を書きまくっていた。
そして、大学4年生になり、就活の時期が来てしまった。
結局、自分は何者にもなれなかった。
ひたすら人を感動させられるようなクリエイティブな何かを作りたいと思い、ただ闇雲に努力らしきものをしてきたが、何の役にも立たなかった。
結局、普通のサラリーマンをやるようになったが、どこかでモヤモヤを抱えているのだろう。
こうして毎日文章を書く癖をつけてきたが、まだ、人を魅了するコンテンツって何だろうという思いがずっとあった。
やはり、天才肌の人には自分は勝てないんだ。
だったら、天才肌の人たちの倍の努力をしなければいけない。
そう思って、毎日書いてきたが、やはり自分のような才能がない人間が、すごいバズを起こせるようなライターさんの人に勝てる気がどうもしない。
特に意識して気合いを入れてなくてもあっという間に10万PVを超える文章を書ける人が世の中にいるものだ。
私の周りにもそんな人を惹きつける文章を書ける人が何人かいるが、そういった人たちを見るたびに自分の才能のなさを痛感し、苦しくなってくる。
自分のような才能のない人間が書く意味があるのか……
そんなことを思ってしまうのだ。
「ああすればこうなる」
「こんな書く方をすれば面白い脚本が書ける」
そんなことを求めて、私はシナリオライターの本を読みあさったりしていた。
今でもたまに面白い文章が書けるようになる本を読んだりすることがある。
「ああすればこうなれる」
そんなことを追い求めても結局、クリエイティブなインスピレーションは湧いてくることはなかった。
やはり、自分には才能がないんだ。
面白い記事を書けるような人たちは、何か特別な個性を持っていて、凡人には到達できない領域にいるんだ。
そう思っていた。
よく考えれば自分を突き動かしていたエネルギーになっているものは、この「特別になりたい」という承認欲求だったような気がする。
人と違う自分を表現したい。
人と違って特徴ある人間でいたい。
もっと人と違うことをしなきゃいけない。
そう思って、なぜか一人インドに行ったりとぶっ飛んだことをして、人と違って個性的な自分をアピールできるようにしていただけなのだ。
無理に個性的であろうとするほど、私の中にある心は悲鳴をあげてきた。
もっと他人から承認されたい。
もっと人に認められたい。
その思いに突き動かされて、私はずっと空回りしていただけのような気がする。
書いていく中でも、どうしても苦しいと思うこともある。
そんな時、ふとこの言葉と出会った。
世界の歌姫、宇多田ヒカルが語っていた言葉だ。
15歳でデビューしてあっという間に大物歌手になっていった宇多田ヒカルは、世間から天才とよく言われていた。
周囲から天才だからすごいねと言われて10代を過ごし、休養期間を得て、しっかりと自分の芯を確立できたのだろうか……
何かこの言葉にすごい人生の集約があるような気がしていた。
宇多田ヒカルが語っていた言葉。
それは‥……
「天才とか凡人とか……そんな分けるものじゃない。すごい頭がいいとか、すごい才能がある人こそ、その自分の中に万人の共感するものをわかっていたり……すごい普通の人間の感覚があると思う」
いつも何者かになりたいと承認欲求に振り回されていた私は、この言葉にとてもズカーんときた。
天才肌と世の中で称されている人は、特別な個性があるわけではないのだ。
万人に共感できるものをつかめるアンテナの張り方が上手いのだ。
よく考えたら、何十万PVというバズを起こしていくライターさんは、恐ろしく普通の感覚を持った人たちだ。
特に個性というものを押し付けているわけでなく、いたって普通の感覚を大切にしながら文章を書いているような気がする。
私はずっと、「ああすればこうなれる」というものを探して求めていた。
他人に承認されたいという思いに、突き動かされ、空回りしていた。
一番大切なのは「普通」の感覚なのかもしれない。
特別な出来事を探さなくてもいいのだ。
そう思えたらなんだか生きるのか楽になってきた気がする。
ありふれた日常を切り取って、そこに埋まっていた普通の感覚を一つ一つ大切にしていく人たちが人を惹きつけるコンテンツを作っていく。
その普通の感覚こそ、一番大切なのだと思う。