「特別でありたい」と思っていた私が、アニメ界の巨匠から学んだこと
「特別な人間になりたい」
10代の私を突き動かしていた感情は主にこれだったと思う。
人と違う人間でありたい。
特別な人間でありたい。
他人と一緒の行動をするなんてたえられない……
その一心で空回りばかりしていた。
他人と違うことがしたいというだけで、インドに一人飛び込んで、あたかも世界を股にかける旅人になったふりをしていたのだ。
自分の居場所は日本じゃない。海外に行けばもっと自分らしく生きられる。
そう思った私は英語もろくにできないのに、一人海外に飛び込み、悪戦苦闘しながらも旅を続けていた。
バンコクなどに行ったら、自分と同じような悩みを抱えている人をたくさん見た。
「日本だとちょっと馴染めない」
「海外の方が生きやすい」
とある人は10代の頃に足に刺青をした関係で
「日本だと銭湯すら入れない。海外の方が居心地がいい」と言っていた。
「日本だと見た目だけで判断される。外国だと見た目なんて関係ない。みんな自分の目を見て話してくれるんだ」
そのように刺青を入れたお兄さんは微笑みながら語っていた。
日本からバンコクにやってきたバックパッカーはみんな、自分が生まれ育った環境に違和感を覚え、刺激を追い求め海外に逃げてきた人たちが多かった気がする。
「海外の方が居心地が良いと感じる」
そのようにみんな言っていた。
私というと、そう笑顔で語る旅人を見かけるたびになんだか違和感を感じていた。
みんな日本から逃げてるだけじゃん……
自分も日本から逃げてきただけなのに、なぜだかそんな感情が芽生えてきたのだ。
みんなかっこいい自分でありたくて、海外を旅しているだけなんだ……
そんなことを思ってしまったのだ。
そういう自分もバックパッカーをしている自分ってかっこいい。
日本に馴染めないと言っている自分ってかっこいい。
心の底で特別な人間でありたいと思って、海外を旅しに来ただけだったのだと思う。
傍観者の目線で、バンコクに来たバックパッカーを侮辱している自分が一番カッコ悪いと思った。
「特別でありたい」という感情は一体なんなのだろうか?
人と違ったクリエイティブな仕事に就きたいと思って人は小説家やアニメ作家を目指したりするのだろうか?
自分も「特別な人間でありたい」と思って、映画ばかり撮っていた時期があった。
特別でありたい。
人と違うことがしたい。
肥大化する承認欲求を誰が読むかわからない脚本にぶつけ、映画を撮りまくっていたのだ。
そんな承認欲求を満たすだけに作られた映画は誰も見なかった。
映画祭に応募してもどこも受からなかった。
とある世界的な作家は言っていた。
「この世の中を不幸にしているのは、自己表現しなきゃという思いが蔓延しているからです。自己表現なんてそう簡単にできるはずないですよ。砂漠で塩水を飲むようなものです」
まさしく特別でありたいと願って、脚本ばかり書いていた私は、砂漠で塩水を飲むような状況に陥っていたのだ。
特に旅が好きでもないのに、海外に言って、無理にバックパッカーの仲間入りをしていたのも、海外旅行好きの自分をアピールしたいという自己表現欲求だったのかもしれない。
社会に出るようになり、現実の厳しさを知るようになって、どこかしら特別でありたいという感情は薄れていったと思う。
それでもまだ、自己表現しなきゃという感情が芽生えてきて苦しくなる時もあった。
自己表現したい。
特別な人間でありたい。
その感情に突き動かされ、社会の枠組みにはまって身動きが取れなくなってしまった私はいつしか他人を侮辱するようになっていたのだと思う。
特別でありたいと願う人に限って、他人を侮辱する。
普通にサラリーマンをやっているなんてカッコ悪い。
演劇やら小説家になって自己表現している人の方がかっこいいという。
特別でありたい。特別でありたい。
その感情に振り回され、普通に働いている人を侮辱していたのだ。
この感情をどこかに追いやりたい。
自己表現しなきゃという砂漠で塩水を飲むような感情を追いやりたい。
そう思っても、特別でありたい……
人と違う自分でありたい……
と願う自分を押し込むことができなかった。
そんな時、アニメ界の巨匠のこの言葉に出会った。
「若い人に何か贈る言葉はありますか?」
そうインタビュアーに聞かれたアニメ界の巨匠宮崎駿をこう答えていた。
「ゴミ拾いでもすればいいんじゃないですかね。その小さな穴から見えてくる世界がありますよ」
アニメ界の巨匠宮崎駿は毎朝、ゴミ拾いをしてからスタジオジブリに通っているという。
ゴミ拾いを通じて、何か感じるものがあったのか……
よく考えれば、著名な方ほど、特別になりたい、有名人になりたいという感情を持っていない気がする。
新海誠だって有名になりたくて、サラリーマンをしながらアニメを作っていたわけではないと思う。
村上春樹だって有名な小説家になりたくて小説を書いているわけではないと思う。
「有名になりたいなんて論外だ」
そう語るアニメ界の巨匠はどこか現代の若者像を鋭く捉えている気がする。
人を感動させる美しいアニメを作りたいという思いはあっても、自分が特別でありたいと思ってアニメを作ってきたわけではないのだ。
近所の公園をゴミ拾いをしているうちに、そこから見えてきた小さな世界を大切にして、アニメを作っていったのだと思う。
その小さな穴から世界に通じるアニメが生まれていったのかもしれない。
ライティングを始めてからも、もっと個性的なことをしなきゃ。
もっと人と違う面白いことをやらなかきゃと雁字搦めになっていた自分は少し救われた気がした。
特別なことをしなくていい。
世界に通じるコンテンツは身の回りに転がっている。
大切なことはありふれた日常をどう切り取るかだ。
特別でありたいという感情に振り回されていた私は、そのことに気がついたら少し、気持ちが楽になった気がするのだ。