ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

もし、書くことに悩む人がいたら、あるいは写真家ソール・ライター展が効くかもしれない

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「人と違うことをしなきゃ」

大学生の頃の私はそう雁字搦めになっていた。

 

個性的な自分でありたい。

人と違うことがしたい。

そんな思いが私を突き動かしていたのだ。

 

小学校からずっと、クラスでは馴染めなく、常に落ちこぼれだった私は、大学に入ってからずっと個性というものを追い求めていたと思う。

 

個性的をもっと探さなきゃ。

人と違ってクリエイティブな人間でありたい。

そう思っていたのだ。

 

とあるライティングゼミに通い始め、こうして毎日何かしら書くという習慣をつけてきたのだが、どうしてもライティングにおいても、その個性で悩んでいる自分がいた。

 

やはりものすごい面白い記事を書く人は、個性の塊みたいな人だ。

個性的でなおかつ生き方がものすごく面白い。

 

そんな人を見ていると、個性もなく、会った人から顔すら覚えられない私は、強烈な劣等感を感じるようになってしまった。

 

何も持っていない自分が書く意味なんてあるのか?

 

よく考えれば、個性というものは私が長年、抱えていた問題の一つだ。

人と違うことがしたい一心で、10リットルの血糊をばら撒きながら自主映画を作ったり、京都の山奥でなぜかお坊さんになる修行をしてきたり……

 

人と違うことをしたいという一心で空回りしてきたと思う。

 

もっと個性的な自分でありたい。

そんな思いが私を突き動かし、そして、ずっと個性という呪縛に囚われてしまったのだ。

 

「どうしてそんなに面白い文章を書けるんですか?」

 

いつもハイパーバズを引き起こせているWebライターさんに私はそうたずねてみたことがあった。

人一倍書いていたつもりだが、どうしたら人を魅了するようなコンテンツが書けるようになるのか? そう私は悩んでいたのだ。

 

その人はこう答えた。

「それは、生き方じゃないですかね」

 

 

私はハッとした。

やはり、生き方が面白い人の書く文章は面白いのだ。

私のように生き方がつまらない人間が書く文章はつまらないのだ。

 

 

私は平凡な自分に嫌気がさし、一時期やたらと海外を放浪していた時期があった。

就活が終わり、学生生活最後の休みを利用して、同級生は皆ヨーロッパやニューヨークに卒業旅行に出ている傍ら、私はなぜか刺激を追い求め、一人でインドに飛び立っていた。

 

人と違うことがしたい一心で、会社も全てやめて、バックパック一つで東南アジアをぐるっと一周したりしていた。

 

常に人と違った生き方というものを追い求めていたのだと思う。

 

しかし、私のような凡人が外にばかり刺激を追い求めても、得られるものは大して多くはなかった。

「君、何しに海外に行っていたの?」

仕事を辞め、ノイローゼ状態の時、アルバイト先の店長にそう言われたこともあった。

 

一体自分は何をしていたのか……

 

面白い生き方って一体何なのか?

個性って一体何なのか?

どうしたら面白いコンテンツが作れるようになるのか?

 

そんな悩みを私は常に抱えていた。

やはり、生き方が平凡な私が書く文章なんてつまらないんだ。

もっと外に刺激を求めたなきゃと思い、個性という名の呪縛に囚われ、苦しんでいた。

 

そんな時、同僚にとある写真家の展示会に誘われた。

 

 

ソール・ライター……

 

ニューヨークが生んだ伝説のカメラマンの写真展だった。

名前は特に聞いたことがなかったが、雨の中パラソルをさし、立っている女性の有名な写真は知っていた。

 

写真好きの人には、名前ぐらいは知っているようなマニアックな写真家だ。

50年代から60年代にかけて、ファッション業界のカメラマンとして活躍し、その後、隠遁生活に入るも、毎日のように写真を撮り続け、アトリエで絵を描き続けた偉大な芸術家の一人だ。

亡くなった後に、アトリエに保管されてあった大量の未現像のフィルムなども展示される大々的な写真展だという。

 

 

私はカメラ好きの会社の同僚に誘われ、そのソール・ライター展に行ってみることにした。

展示会の中はカメラ好きの人で溢れかえっていた。

やはり、伝説の写真家だ。

ありとあらゆる年代層の人がソール・ライター展に集まっていた。

 

私は展示会に飾られている写真を見ていくうちに、度肝抜かれてしまった。

なんでこんなに平凡な日常をきっちりとカメラに収められるのだろう……

 

そこで展示されていたのは、ほとんど彼の自宅周辺で撮られた写真だった。

ソール・ライターは23歳の時にニョーヨークに出てきて、セントラル・パーク横のイースト・ヴィレッジに約60年間過ごしていたという。

 

ほとんどの生涯をイースト・ヴィレッジで過ごしていたのだ。

彼の作品のほとんどが、自宅周辺で撮られた写真だ。

 

どれも雨の中で傘をさす人や、タクシーの中でタバコを吸う人など、ありふれた平凡なシーンを端的に捉え、カメラのシャッターを押していた。

 

私はその写真展を回っているうちに、感化されている自分に気がついた。

この人のように、ありふれた日常をしっかりと捉え、形にできるようになりたい。

そんなことを思ったのだ。

 

展示会の壁にはソール・ライター自身が書いた言葉が書かれてあった。

やはり、写真を撮る人は文章を書くのもうまい。

 

ありふれた日常を切り取り、写真に捉えるということは、ライティングに似ていると思う。誰もが見逃すような場面も、きちんと感受性のアンテナを張って、切り取り、コンテンツとしてまとめていく。

写真を撮ることも文章を書くことも似ているような気がする。

 

私はソール・ライターが書いた文章の一節を読んで、とても心動かされてしまった。

 

私がずっと、書くことで悩んでいたことの答えがそこには書かれたあったのだ。

 

 

「美しいものを見出すには、遠い夢の国に行く必要はない。それは身近な日常にある」

 

 

 

私はずっと刺激を追い求め、海外に飛んだり、人と違うことを常に追い求めていたと思う。

面白い文章を書くようになるには、人と違った個性的なことをしなきゃと思っていた。

 

しかし、面白いものを身近な日常に転がっているのかもしれない。

 

生涯、写真を撮り続けたソール・ライターはひたすら普通の人たちが見過ごしてしまうような、日常の中に眠る美しい瞬間を捉え続けていた。

身近に眠る些細な幸せを捉え続けていたからこそ、彼の写真は今なお、多くの人の心に届くのだと思う。

 

私はソール・ライターの写真展を回っているうちに、個性という名の呪いに縛られていた自分が少し楽になった気がした。

 

個性を追い求め、外に刺激を求めるのではなく、ありふれた日常をもっと大切にしたい。

ソール・ライターのように、ありふれた日常を切り取り、コンテンツを作るようになりたい。

そんなことを思った。