映画「3月のライオン 後編」を見て、今も人々から熱狂的な人気がある岡本太郎の絵を思い出した
「後編はどんなだろう?」
私は「3月のライオン 後編」の映画を楽しみに待っていた。
3月に公開された前編があまりにも良かったため、1ヶ月も焦らさないで早く見せろ〜と心の中で思っていたのだ。
前編を見たときは、驚いた。
「なんだこの格闘シーンのように描かれる将棋バトルは……」
そこには汗を流しながら、全身の体力を使って対局するプロの棋士たちの姿があったのだ。
将棋はマイナーで、座布団に座っておじいちゃんたちがやっているイメージがあったが、こんなに体力を使うものだとは思わなかった。
何十時間にも及ぶ対局が終了した時には、プロの棋士たちは動けなくなるという。
羽生棋士のような名人級の対局になると、一回の対局で2、3キロ体重が減るらしいのだ。
それほどまでに、体力と精神力を削ってまで、対局に挑むのが将棋という競技だったののだ。
私は映画「3月のライオン」を見るまで、これほどまで将棋の世界が厳しいものだとは知らなかった。
こんなにも熱いバトルが千駄ヶ谷にある将棋会館で繰り広げられているとは……
後編があるなら見に行くしかない。
そう思って私は後編が公開されるやいなや、さっそく映画館に飛び込んでいった。
新宿の映画館は、案の定、満席だった。
さすが根強いファンが多い羽海野チカ原作の漫画だ。
周囲はカップルやら、漫画が好きそうな女の子でいっぱいだった。
カップルだらけの映画館に妙な居心地悪さを感じながらも、私は席について映画が始まるのを待っていた。
最近、漫画原作の映画がやたらと多い気がしていた。
確かにプロデューサー陣からすると、ある程度ファンが獲得できている漫画を原作にしたほうが映画がヒットしやすいということもあるだろう。
ゼロから映画のストーリーを自主的に作るよりも、漫画原作を脚本にしたほうがヒットが見込まれる。
だけど、どうしても東宝の漫画原作の映画に満足しきれないでいる自分がいた。
ほとんどの東宝映画は見ているのだが、前編だけがやたらとストーリー展開が面白くて、後編がグタグタなものが多かった気がするのだ。
映画全体のクオリティーの話でなく、後編を見ると無理やりストーリーを終わらせた感がして、なんかパッとしない印象が多かったのだ。
それもそのはずである。
ほとんどの漫画を原作にした映画は、原作の漫画が完結していないのだ。
原作が終了していないため、前編は原作の漫画通りの展開ができるが、後編になると、自分たちでストーリーを作らなくてはならなくなるのだ。
そのためだろうか……
原作にないストーリー展開になった途端、映画全体がグダグタになりだすのだ。
たいていは後編の方からグダグダになりだす。
映画「3月のライオン 後編」も同じ感じだろうと思っていた。
漫画の原作にない部分になると一気につまらなくなると思ったのだ。
私はそんな前提を胸に秘めながら映画を見ることにした。
映画が始まった途端、私は思った通りだと思った。
やはり原作にない部分を描こうとしたらこうなるよな……
ちなみに私は原作の漫画は読んでない。
読んでから後編をみようと思ったが、あまりにも仕事が忙しすぎて読む暇がなかった。
だけど、映画を見れば、これ原作にある部分だな、これ東宝の人が創作した部分だなとある程度、想像はできた。
やっぱり全12巻もある漫画を2時間の映画にまとめるとこうなるよな。
ファンに傾倒しすぎて、シーンを盛り込みまくりストーリーに破綻が出てくるのだ。
私はあまりにも前編が面白かったので、後編はがっかりするだろうと思っていた。
そう思っていたが結果から言うと超良かった。
なんだこの将棋の対局シーンは!!!!
前編もそうだったが、後編も対局のシーンが素晴らしいのだ。
何なんだ、この面白さは。
自分をあえて追い込むことで、将棋に全精力をかけていくプロの棋士たちの物語がそこにはあったのだ。
私は映画の後半部分から前のめりになりながらも映画に夢中になっていた。
冷や汗が出るくらい緊張感がある対局シーンがそこにはあるのだ。
私は映画を見ているうちにどこか岡本太郎のある言葉を思い出していた。
「つねに死の予感に戦慄する。だが死に対面した時にこそ、生の歓喜がぞくぞくっと湧き上がるのだ。血を流しながらニッコリ笑おう」
あえて断崖絶壁に片足で立ち、自分を追い込んでいくような生き方をしていた岡本太郎は自分で自分を傷つけながらもそこから発せられるある種の狂った熱量が「太陽の塔」などの作品に込められているのだと思う。
自らを断崖絶壁に立たせるような生き方ができる人間がこの世にどれほどいるだろうか?
絶体絶命のピンチに追い込まれれば、追い込まれるほどそこから湧き上がるエネルギーが作品に込め始めるのだ。
多くの人が、死後20年経っても岡本太郎の絵に魅せられるのはそこが理由だと思う。
自らを断崖絶壁にあえて追い込み、血で染まりながらも作品に狂ったような熱量を込めていった岡本太郎のような生き方にみんな憧れるのだ。
普通の人にはそんな生き方できないであろう。
映画「3月のライオン 後編」の中盤以降で繰り広げられる対局シーンにもそんなことが描かれていた。
「将棋しかないんだよ!!!!」
生き残るために将棋をやってきた桐山零は、決戦の舞台に向け、全てを投げ捨ててまで将棋に打ち込んでいく。
対戦相手の後藤も、全てを捨ててまで将棋に集中していくのだ。
自らを断崖絶壁に追い込み、片足で立ちながら、狂ったエネルギーが全身から湧き出しているのだ。
一局、一局に血の傷跡を残すような、ほとばしるエネルギーがその対局シーンにはあった。
私は「3月のライオン」を見て、なんだか生きるエネルギーをもらえたような気がした。
自らを断崖絶壁に追い込んでいく生き方ができるのがプロの条件なのかもしれない。
全てを投げ捨ててまでも、目の前の好きなことに打ち込める人……
それがプロなのだ。
金銭面の問題や社会的な面で普通の人はそこまで好きなことに打ち込めないだろう。
だから、皆そんな人に憧れるのだと思う。
よく考えたらライティングも同じだ。
世の中には村上春樹よりも面白い文章を書ける主婦がいるかもしれない。
直木賞クラスの小説を書ける若者がいるかもしれない。
しかし、いくらプロ級のライターでも、アマチュアであって、プロではないのだ。
そこには自らを断崖絶壁に立たせてまでも好きなことに向き合える「決意表明」の差があるのだと思う。
私も自分の好きなことに向き合いたい。
しかし、岡本太郎やプロの棋士たちのように全てを投げ捨ててまで、そのことに打ち込める熱量があるのだろうか?
それでも好きなライティングに向き合いたい。
そんなことを映画「3月のライオン 後編」を見ながら思った。