ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

肩書きに縛られている人がいたら、ぜひ東大生と社会的な弱者との心の交流を描いたこの本を読んでみてほしい

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私はずっとコンプレックスを抱えていた。

運動神経があまり良くない自分。

何をやってもうまくいかない自分。

 

私は何をやるにしても人の倍は時間がかかるような子供だったと思う。

中学の頃などもクラスメイトとうまくコミュニケーションが取れなかった。

いつもクラスの隅っこにいて、じっとうずくまっているような生徒だったのだ。

 

クラスの中心的な人物で華のある人を見ては憧れを抱くと同時に、

「自分はこいつらとは違う」……と思って見下している自分がいた。

 

自分は何か持っているはずだ。

こんな公立の中学にいる場合じゃない。

そんなことを思っていたのだと思う。

 

どこか心の底でずっと人を見下す視線を持っていた。

人を見下すことで自分という存在を保っている自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

運動神経もあまり良くなく、クラスでもうまく馴染めないような陰キャラの生徒はどういった末路を辿るのか……

それは勉強に逃げるのだ。

 

私は中学3年の時、猛烈に勉強をしていた。

 

中学2年の終わりまで全く勉強というものをしてこなかった。

しかし、高校受験を前にこれではダメだと思って、塾に通い始めると勉強の楽しさに気づき、私は猛烈に勉強していった。

中学生にして小学3年生レベルの漢字がわからないという無知の状態なので、吸収率は早かったのだと思う。

知らない状態から物事を知るという楽しさを知っていったのだ。

 

何の取り柄もなく、今までずっとクラスの隅っこにいるようなパッとしない生徒だった私は「進学校に入った優秀な生徒」という肩書き欲しさに、死ぬほど勉強していった。

 

1日9時間以上は勉強していたと思う。

私の成績は急上昇していった。

成績が上がるとともに、また私の心の中で人を見下す視線が芽生えてきた。

塾にいても「自分はこいつらよりもできる人間だ」

と心のそこでそんな目線を持っていたのだと思う。

 

なんとか進学校に合格できた。

しかし、心のそこではモヤモヤがずっと大きくなっていた。

 

 

 

なんで自分は勉強してきたんだろう?

 

何の取り柄もなかった自分……

そんな自分が嫌で優秀な生徒という肩書き欲しさに頑張ってきたが、目標が達成されても何だか腑に落ちない気がしていたのだ。

 

一体自分は何をやりたかったのか……

 

私は高校3年間で、都内でもそこそこ有名な進学校に通っていた。

公立中学校では、簡単に上位の成績をキープできたが、都内から英才教育を受けた生徒が集まる進学校ではそうはいかなかった。

周りには宇宙人レベルに勉強ができる生徒がいたのだ。

 

自分はこいつらには勝てない……

そんな後ろめたさを感じ、身動きが取れなくなってしまった。

何をやっても人よりも劣っていた自分。

勉強というツールを使って、何とか人を見下すことで自分を保っていた私は、劣等感の塊のような存在になっていった。

 

 

大学に入るも私の心の中で芽生えていた学歴コンプレックスは大きくなっていた。

浪人してそこそこの大学に入れはしたものの、上には早稲田、慶応といった高学歴集団がいるものだ。

 

他大学の人と交流する場でも、どこか心のそこで学歴で人を判断している自分がいるのが後ろめたかった。

 

この人は早慶の人だから勉強ができるはずだ。

そんな先入観を持って人と接していた気がする。

 

 

 

学歴って一体なんなのだろうか?

 

社会人からしたら、学歴は一つの指標になるのもわかる。

偏差値50の大学生よりも偏差値70を超えた東大生を自分の会社に入れたほうが、誰だってしっかりと働いてくれる気がするだろう。

 

 

何万通というエントリーシートの中から短期間で、本当に優秀な生徒を選び取るのは不可能に近い。

大手企業は、学歴フィルターがないとはいうが……

 

学歴で面接する人を判別していくのもしかないと思う。

短期間で、何万人という人を面接するのは不可能だ。

高学歴な人ほど、大手企業に入社できる可能性があるのはそのためだ。

 

あの地獄に満ちた大学受験競争に勝った人たちだ。

高学歴というプレミアチケットを持った人が、いい会社、いい人生を歩むのもなんだかわかる気がする。

 

しかし、学歴だけでその人を判断してしまう社会があるのは、なんだか腑に落ちない気がしていた。

 

学歴って一体何なのだろう?

私の心で肥大化した学歴コンプレックスを後ろめたく感じている時に、ふとこの本と出会った。

 

 

「障害者のリアル✖️東大生のリアル」

フェイスブックのページでとあるライターさんが書いた書評に私はクギ付けになリ、すぐに本屋に駆け込んで行った。

 

東大生というレッテルを貼られた人たちと、障害者というレッテルを貼られた人たち。

社会的な勝ち組と弱者との交流を描いた本だった。

 

私は本を読んでいくうちに、東大生という肩書きに苦しむ学生たちが、心を素っ裸にして障害を持っても懸命に生きている人たちとの交流を描いた文章に夢中になってしまった。

 

「障害者のリアル」という東大のゼミに参加した東大生による感想文形式の文章が綴られてあった。

どの東大生が書いた文章も、今まで悩んでいた肩書きや障害を持った人たちと出会った時に感じたことが赤裸々に書かれてあり、私は無我夢中になってこの本を読んでいった。

 

私はもちろん、東大に入る頭脳もなければ、高学歴という肩書きも持っていない。

それでも、東大生が持っているコンプレックスにどこか共感出来るものがあった。

東大生は世間的に見たら勝ち組だ。

これまでほとんど挫折など経験したことがないかもしれない。

 

しかし、

「弱くてもいいことを認めたくないがために、肩書きを求めて必死に努力していた。

そして、どんどん孤独になっていった」

という東大生の声は、どこか一般の人にも共感出来る部分があるのだと思う。

 

勉強ができる奴というレッテルを貼られるとともに勉強しかできない奴というレッテルが貼られるのだ。

そんな周囲の目線に苦しんでいる東大生の苦悩が赤裸々に綴られてあった。

 

「どうしても生きる意味が見出せないんです……」

とある東大生は、ゼミに来ていた盲ろうの福島先生にこう尋ねたという。

 

福島先生は幼い頃に両目の視力を失い、18歳の時に耳の聴力を失った。

目も見えない、耳も聞こえないという状態なので、常に真っ暗闇に宇宙の中を漂っているようなものだ。他者とのつながりを把握できるのは手から来る触覚だけだ。

それでも必死に点字を勉強して大学教授にもなった人だった。

 

福島先生の方はこう言ったという。

「まぁ、どうしてもあなたが死にたいという私は止めません。でも、他の人には迷惑にならないように死んでくださいね」

 

たぶん、冗談半分で言った言葉だと思う。

だけど、盲ろうの福島先生が言うその言葉はどこか重みが違う。

 

視力を失い、聴力を失なって失望の中でも必死に生きてきた福島先生だからこそ言える言葉だったと思う。

ただの健全者が「死にたいなら、勝手に死んでくれ!」というのとはわけが違う。

永遠の孤独という真っ暗闇の中をひたすら走り続けた福島先生だからこそ、言える言葉だったのだ。

 

福島先生からその言葉をもらった東大生は

「生きるのをなめるなよ」と言われた気がしたと本の中で綴ってあった。

 

私はずっと肩書き欲しさに、いい大学に入るために勉強し、人に自慢したいがために、大手企業やマスコミを受けてはもがいていたと思う。

 

今までずっと、人よりも一歩上に立つための肩書きを追い求め、肩書きを持った人に憧れていた。

肩書きで人を判断する目線もあったと思う。

 

しかし、そんな肩書きは一体何の役に立つのか? 

 

東大生というレッテル、障害者というレッテル。

人は相手を判断するためにやたらとレッテルを貼りたがる。

しかし、福島先生のように絶望の中でも必死にもがきながら生きてきた人たちはそんなレッテル気にしてさえもいないのだと思う。

 

「生きるのをなめるなよ」

私はこの本を通じて、猛烈にこの言葉が深く心の奥底に突き刺さった。