やりたいことが見つからず30歳になった男が、即興芝居から学んだこと
「何も考えるな! その場その場で感じろ」
芝居の先生は何度も彼に怒鳴りつけていた。
舞台という名のステージの上に立つと、四方八方から照明が当てられ汗が吹き飛ぶくらいにどっと溢れ出るものだ。
彼は汗だくのまま、芝居の稽古をつける先生に何度も怒鳴られていた。
大学は卒業したものの彼は就職をしなかった。
今まで一緒に遊び呆けていた同級生たちは、みんな黒いスーツを身にまとい、就活という名のゲームに飲み込まれていく中、彼だけは就活をしなかったのだ。
大学ではみんな個性を出し切っていたのに、企業に入社するためにその個性を脱ぎ捨て、社会の構図にはまっていく様を横目で見ていて、彼はずっと心のそこで違和感を感じていた。
自分が進むべき道はこっちではない。
そう思った彼は大学4年のはじめの頃に就活を拒否し、夢だった役者の道に進むことを決意した。
親は大反対だった。
「役者など食っていけるわけがない。今すぐ就職しろ!」
日頃は温厚な父親だったが、役者の道に進むため就職しない息子を前に、怒鳴り散らしていた。
そんな父親を見て、一瞬うろたえるも、彼は必死に父親を説得していった。
没個性の塊になり、再び就活をするくらいなら、食えない道でも自分の好きなことに向き合いたい。その一心で彼は父親を説得した。
「もうどうでもいい。金の面で援助はしない。好きにしろ!」
父親は結局、息子の真剣な眼差しに圧倒され、役者の道に進むことを許してしまった。
彼は結局、家を出ることにした。
親に迷惑をかけるわけにはいかない。
これからは自分一人で生きて行く。
そう決意した彼は、夜は警備員の仕事、昼はスーパーのアルバイトをして、生活費を工面しながら、夕方には劇団の稽古に出るというハードな日々を送ることにした。
劇団には彼と似た境遇の若者がたくさんいた。
夢をあきらめきれず、大学を中退して役者の道に進んだ者。
高校を卒業したのちに、フリーターをしながら役者を目指す者。
ありとあらゆる夢追い人が集まっていた。
芝居の稽古は過酷だった。
毎日3時間以上、ぶっ通しで舞台の上に立ち、芝居をしていかなければならない。
稽古の先生もスパルタだ。
ちょっとでもセリフを噛むと容赦なく怒鳴り散らしてくる。
「セリフを考えるな! ちょっとでも気持ちが揺らぐと観客まで伝わる」
彼は何度も怒鳴られた。
彼は芝居をしている瞬間がとにかく好きだった。
舞台の上に立って、観客の注目を一身に浴びていると、精神と肉体が腹の底から共鳴し、その一瞬一瞬に全力で芝居している瞬間だけが彼が生きていい証のような気がしていたのだ。
気がついたら大学を卒業して4年が経っていた。
同級生たちは次々と結婚していった。
彼はというと、今だに駒場東大前にある小さな劇団に一人立ち続けていた。
この4年間という間に次々と仲間たちは辞めていった。
時間というものは、夢追い人に現実を突きつけてくるのだ。
この4年間という間に、周囲は着々と社会人として成長して行っている。
その一方で、彼はいまだに時給900円のアルバイトで生計を立てているのだ。
月給18万が限界だった。
このままでいいのかという焦りが彼につきまとう。
このまま自分は何者にもなれず、終わってしまうのではないのか?
そんな焦りが彼に襲いかかってきたのだ。
大学の同級生とはもう会えなくなっていた。
役者の道に進んだ自分とは違って、きちんとした収入もあり、社会的な責任を全うしている同級生たちに会うと、強烈な劣等感を感じてしまうのだ。
自分は一体4年間何をやっていたんだ?
そう罪悪感を感じた彼は結局、役者の道を諦めることにした。
夢を語るのは簡単だ。しかし、夢を現実にするのは難しい。
現実という過酷なものを身にしみて感じた彼は、普通の一般企業に何とか就職することにした。
4年間も遠回りしていたため、月給は少なかった。派遣の仕事でしか雇ってくれる会社がなかったのだ。
その派遣会社で働きながら、気付いたら彼は30歳になっていた。
人生は21歳を過ぎたあたりから、ものすごい速さで進んでいく。
10代の頃は可能性に満ちていて、新鮮な光景に胸をときめかせていたが、現実というものを日々感じるようになり、周囲の人々と同様、社会の枠にはまっていくのだ。
そんなことに後ろめたさを感じるも、気がついたらあっという間に30歳になっていた。
自分の人生はこんなでいいのか?
自分は一体何がやりたかったのだろうか?
全く面白みもない単純作業が続く仕事に飽き飽きしていた彼は、何かに導かれるようにして駒場東大前にあった小さな劇場に足を運んでいた。
自分が劇団に所属していた頃の仲間はもう誰もいなかった。
しかし、劇団の先生だけはまだ残っていた。
彼は先生に挨拶するも、自分が夢半ばに役者の道を諦め、サラリーマンになったことを悔いていた。
「ま、今日は芝居を楽しんでいけ。観客席から芝居を見るのもいい勉強になる」
先生はそんな夢を諦めた昔の生徒に向かって暖かく微笑んでいた。
舞台の上には昔の自分のような夢を諦めきれない若者たちで溢れかえっていた。
皆、その場の空気感というものを全身に浴び、舞台上で自分というものを真剣に表現しているのだった。
彼はそんな夢を諦めきれない役者たちを見ているうちに、稽古の先生に言われた言葉を思い出していた。
「何も考えるな! この瞬間だけを感じろ!」
即興芝居中に先生に何度も注意されたことだった。
台本がない中で、舞台に立った役者たちは強制的に即興で芝居をすることになる。
それでもあの時、自分は即興で芝居を組み立ってていたのだ。
頭を空っぽにして、この瞬間、この舞台で感じていたことを全身で表現していたのだ。
人生も即興の連続かもしれない。
どんな人にもあらかじめ台本など配られていないのだ。
即興即興で自分の人生を歩んでいくしかないのだ。
先生が言っていたように、何も考えないずにその一瞬を全力で楽しめばいいのだ。
今まで、自分が何がやりたいのかわからずに30歳になってしまった彼は、
即興芝居を見ているうちに救われるような気持ちになっていた。
何をするべきかあまり考えない方がいいかもしれない。
人生に台本などないのだから……
今この時、この一瞬を楽しんでいこう。
もう10年経ったら自分はどんな場所に辿り着いているのか?
そんなことを思ったら彼はワクワクしてきた。
人生も即興芝居の連続だ。
どんなことになろうともその一瞬を楽しめばいい。
そう思った彼は、どこか微笑みながら舞台を後にしたのだった。
✳︎すべてフィクションです