個性を追い求めていた私が、最年少で直木賞を取った朝井リョウが描く「個性」を知った時……
「あなたお名前は何でしたっけ?」
私は昔から、一度あったことある人にもよくそう聞かれる。
二ヶ月前にあったじゃん!
フェイスブックも友達申請してあるじゃん!
そう心の中で唱えるも再び名刺交換に応じる。
私は本当に昔から人に名前と顔を覚えてもらえることが少なかった。
それだけ自分は印象薄い人間なのか……
何で自分はこんなにも印象に残らない人間なのか?
私は昔からずっと思っていた。
小学校の頃から、クラスのみんなと馴染めず、常に隅っこでうずくまっているような子供だったので、いつもクラスの中心的人物に憧れを抱いていた。
私もあんな風に個性を出して、華のある人になりたいと思っていたのだ。
一度、私は勇気を出してクラスの中心的な人に声をかけてみたことがあった。
「ねぇ、今度、ディエルマスターズカードの交換しない?」
確かその頃、爆発的にはやっていたカードゲームを話題にして、友達の輪に入れてもらおうとしていたのだと思う。
クラスの中心的な人物はぼけっとした顔をして
「あれ? お前誰だっけ?」
そう言われた。
え? 二年間も同じクラスにいたじゃん。
何で名前すら覚えてないの!
私は相当ショックだった。
そんなにも私は印象薄い人間なのか……
2年も同じクラスにいて名前すら覚えてくれないのか……
そう思って私はショックを受けたのを覚えている。
何で自分には個性がないのか……
人の記憶にも残らないような印象薄い人間なのか……
私は小学生の頃からそのことをずっと悩んでいた。
クラスの中でも個性的で、人を惹きつけていくような人にずっと憧れを抱いていた。
私もあんな風な個性を身に付けたい。
ずっとそう思っていた。
そんな思いが爆発してか、大学生になった頃には個性を追い求めて、
私はとにかく人と違うことをやりたがっていた。
個性的でありたい。
人と違う人間でありたい。
そう思い、一人でインドに行ったり、京都の寺にこもってお坊さんになる修行をしたりしていた。(なんでお坊さんになろうと思ったのかは話せば長く成るので割愛する)
私はずっと個性というものを追い求めていたと思う。
そのためか、映画「桐島、部活やめるってよ」を見て私はやたらと感化してしまったのだ。
映画の中に登場する人たちみたいにゾンビ映画を作ってみたい。
映画の中に登場する神木隆之介くんみたいに「こいつらみんな喰い殺せ!」
というセリフを言ってみたい。
そう思った私は、夜な夜な大学に忍び込んでは血糊をばら撒き、ゾンビ映画を作っていった。
いろんなところに声をかけ、いろんな人に迷惑をかけた。
総勢40人以上の人にお世話になったと思う。
ゾンビエキストラだけで20人以上だ。
毎日、血まみれになりながらも撮影していった。
個性的なことをしたい。
人と違うことがしたいと思った私は、とにかく人と違う行動を取ることだけを考えて大学生活を過ごしていたのかもしれない。
「自分は就活なんかしないっしょ!」
そんな生意気なことを言っていたのだと思う。
しかし、時が経ち、就活の時期が来た。
周りは突然、黒いスーツを着るようになり、個性を消滅させて、自分を着飾りながら
就活に挑んでいた。
私もなんだかんだ言いながらフリーランスという生き方もノウハウもなかったので、周りに流されるように就活の荒波に巻き込まれていったと思う。
こんなんでいいのかな?
私はずっとそう思っていた。
自分の行く道はこのままでいいのか?
そう悩みながら、自分の軸をしっかり持たず、浮足立つようにして就活を続けていた。
そんな時、とあるマスコミ関係の就活イベントで若手のテレビプロデューサーたちが
一堂に集まるイベントに参加する機会があった。
私は基本的に人見知りのため、イベント会場に隅っこでうずくまっていた。
すると、とある若い女性が私に話しかけてきた。
「マスコミ関係を目指しているんですか?」
その人はテレビ業界にこんな綺麗な人がいるのか? というくらい綺麗な女性だった。
どうやらまだ20代でテレビ関係のプロデュース職をしているらしい。
「どんな番組をプロデュースしてきたんですか?」
私はそう聞いてみることにした。
すると、驚いた。
その綺麗な女性は映画「桐島、部活やめるってよ」のプロデューサーだったのだ。
え? 桐島のプロデューサー?
てか、若すぎないか!
そう思った私は質問攻めにしてしまったと思う。
どうやらその女性は26歳の時に、死に物狂いで書いた「桐島、部活やめるってよ」の企画書が会議で通り、若くして映画のプロデューサーになったという。
超スピード出世だ。
なんだこの人、めちゃくちゃ凄い人じゃん。
私はそう思って、やたらと映画のことを質問攻めにしてしまった。
「あのラストシーンの意味は何なんですか?」
「優等生のヒロキくんは何を悩んでいたんですか?」
その女性はいろいろ答えてくれた。
よく考えたらそのプロデューサーの女性自体が普通じゃない人だった。
「桐島、部活やめるってよ」は学校の中心的人物である桐島が突然、部活をやめることでスクールカーストが崩壊していく青春映画だったが、その女性自体、桐島のような存在に思えてきてしまったのだ。
26歳の若さにしてスピード出世し、世の中で話題になるような映画を作り上げたその女性はまるで映画の中の桐島である。
私のようなスクールカーストの最下層にいた人間にとっては雲の上にいるような存在だった。
私もこんな風にして、人にきちんと認められるようなものを作り上げたい。
そんなことを思った。
その日から私は何が何でもマスコミに受かろうと悪戦苦闘していた。
若くして「桐島、部活やめるってよ」のプロデューサーになったあの女性のようになりたいと思ったのか、アホみたいにテレビ局やら電通やら、華やかな世界を受けまくっていた。
夜中までエントリーシートを書き、採用担当者は読んでくれているのかわからないが、応募しまくっていた。
そして、案の定落ちまくった。
なぜだ。
なぜ、自分は選ばれないんだ。
そう思った私は自暴自棄になっていた。
今思うと、私は当時、自分は何か持っている。
人と違ってクリエイティブな何かを持っていると思い込んで、周囲の就活生を上から見下ろし、傍観者の目線で就活に挑んでいたのだと思う。
そんな上から目線で生意気な就活生と一緒に仕事したいと思う企業があるはずがない。
私は容赦なく落とされた。
何で自分は選ばれないのか?
そのことで自暴自棄になった時もあった。
私は昔から、人に名前を全く覚えてもらえなかった。
普通の顔、普通の容姿、普通の考えを持っている自分に嫌気がさし、個性的であろうと努力してきた。
就活の面接でも、他の人とは違うことを言おうと思い、一生懸命考えて、印象に残るような自己PRを考えていった。
面接官の印象に残るようにすればどうすればいいのか?
そう悩んでは就活本を読みあさり、考えていった。
それでも自分の努力もむなしく、ほぼ全ての企業に落っこちた。
やはり、私は何も持ってない人間なんだ。
特に面接官の印象にも残らないつまらない人間なんだ。
私は社会から自分が必要とされてないかのように思えてきて、ノイローゼ状態になっていた。
なんとか滑り込むかのように入ったテレビ関係の制作会社でも何度も上司に同じことを言われた。
「キャラが立ってない」
マスコミの世界では個性的な人が生き残っていくらしい。
みんなキャラが立つ人ばかりだった。
それに比べ、私は全く個性のかけらもない役立たずの人間だったのだと思う。
「キャラを持て!」
何度も上司にそう言われ続けていた。
今思うと、それは上司なりの愛情だった。
会社内で私のキャラをもたせてあげて、馴染ませてあげたかったのだ。
しかし、度重なる徹夜でノイローゼ状態の私には「キャラがない!」というのはただの精神的な圧迫だったのだ。
何で自分はキャラがないのか?
何で個性というものがないのか?
そう思って仕方がなかった。
ずっとずっと個性というものを追い求めて、華やかなマスコミの世界にも入っていった私だが、そんなマスコミの世界でも個性というものを探し求めて、疲れ果てていた。
結局、私はテレビの世界を諦めてしまう。
さすがに二ヶ月ほどで8キロも痩せ、人身事故を起こしそうになるくらい精神的に滅入っていて、このままでは死ぬと思ったのだ。
家で動けなくなり、世の中をさまよい歩いているうちに、私は個性というものにすがりついていた自分に嫌気がさしてきた。
派遣のアルバイトなどをして、食いつないでいるうちに、個性的であろうとしていた自分も忘れていった。
日々の生活費を稼ぐだけで一生懸命になり生きている人たちを間近で見ているうちに、
私は個性という呪いにすがりついて自分が情けなくなってきたのだ。
この人たちは毎日の暮らしを必死に生きている。
それに比べ、私は訳も分からない個性というものを追いかけて、個性的であろうと空回りしてきた。
そんな自分が嫌になってきてしまった。
このまま派遣ばかりしていてはダメだと思い、必死に転職活動をするようになった。
もちろん新卒で入った会社を数ヶ月で辞めた奴を雇ってくれる会社はほとんどゼロだった。
それでも生きていくために私は何度も転職活動を繰り返していった。
なんとか奇跡的に雇ってくれる会社を見つけることができた。
4月からその会社で働くことになったのだが、ふと先日とある一冊の本を電車の中で読んだ。
その本はずっと家に放置されていたが、なぜか今の拍子で読もうと思ったのだ。
それは私にゾンビ映画を作るきっかけにもなった「桐島、部活やめるってよ」の作者
朝井リョウが書いた小説だった。
「もういちど生まれる」というタイトルだった。
私は何気なく読んでいったと思う。
本当に何気なく読んだのだ。
しかし、小説の中の主人公が自分のように思えてきて、満員電車の中で涙が溢れそうになってきた。
それは5人の男女が繰り広げる青春群像劇だった。
20歳を目の前にした19歳の若者の日常を鋭く描いた作品だ。
誰もが一度は経験したことがある若さ特有のイタイ部分をついた傑作だった。
10代の頃は、可能性の広がりを感じ、無邪気に目の前のことに飛び込むことができていたが、20代を目の前にして、どんどん現実の世界を知るようになり、自分の持つ可能性の範囲も限定されてくる。
その無邪気に物事を見ることができた世界から、大人の世界に入り込む若者たちの悲痛な叫び声のようなものが作品の中に散らばっていた。
私は読んでいくうちに自分に言い聞かせられているような気分になってきた。
無邪気にその瞬間を楽しめる時代はもう終わったのだ。
もう大人の世界に入ってきて、自分の可能性というものの現実を知らなきゃいけない時期なのだ。
悪戦苦闘する主人公たちの物語を読んでいるうちにある一節が脳裏にこびりついた。
それは高校時代に才能あふれる画家だった兄に向けたとある妹が語った言葉だった。
「高校時代は他の人とは違うことをすごいと思っていた。だけど、同じことの繰り返しの日々の中に楽しさを見出したり、日常に根ざしている才能をすごいと感じられるのはもっともっと後のことなんだ」
私はずっと個性的であろうとしていた。
しかし、こうして社会に出て、いろいろ社会に厳しさを痛感するようになってきて、日々の日常を生きているだけでも相当すごいということをとても痛感した。
普通に家賃払って生きていくだけでもこんなにも大変だとは……
普通のサラリーマンをやりつつ、給料をもらって日々暮らしていくだけでもこんなにも大変だとは思わなかったのだ。
世の中の9割以上が平凡なサラリーマンだ。
そんな中でも日々の仕事を楽しそうにイキイキとしている人たちこそ、本当に尊敬すべき人なんだなと思う。
テレビに出てくるような何か特別なものを持っている人よりも、日々のありふれた暮らしの中を懸命に楽しく生きている人の方がそほど尊い存在なのではないか?
そんな風に感じるようになったのだ。
あえて個性的であるよりも、平凡な出来事でも目の前のことをいかに楽しでできるか? そのことの方がよほど大切だったのだと思う。
個性というものを追いかけて、雁字搦めになっていた私はようやくそのことに気づけた。
痛々しい青春の輝きを放つこの短編小説は多くの人の心にも響き渡ると思う。
何か個性というものにすがりつき、雁字搦めになっている人こそ読んでみてほしい小説だ。
紹介したい本