ライティング・ハイ

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進路に迷っていた中学時代の私は、近所の町医者から人生における大切なことを学んだのかもしれない

 

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「ガシャン」

私は自転車から転げ落ち、顔面から地面に叩きつけられていた。

 

自分の中にあった視界が、一瞬凍結していた。

ぐるっと視界が回ったかと思うと、目の前には地面があったのだ。

一旦停止した脳の思考回路が再び動きを始めた。

 

顔の辺りから痛みを感じる。

どうやら血が吹き出しているようだ。

 

私は自転車に乗って坂を下りている時に、道路の溝にタイヤを乗り上げてしまい、アクロバットにも盛大なスキージャンプを決めてしまったようだった。

 

くるっと一回転して頭から地面に叩きつけられたのだ。

気づいたら私の周囲には、血が溢れ出していた。

 

やばい。

私の脳は軽く脳震盪を起こし、意識が朦朧としていたが、これだけはわかった。

この血の量はやばい。

 

私は何が起こったのか状況を把握できなかった。

それでも一旦家に帰り、頭を整理しようと思った。

 

家に帰ると母親が顔面蒼白していた。

「あんた一体何をやったの?」

後から聞いた話だと、顔面血だらけの男が、家の玄関の前で立っていたのだという。

 

母親は急いで病院に掛け合ってくれた。

しかし、時刻は午後8時過ぎだ。

この時間だと、ほとんどの病院がやっていない。

しかも、その日は木曜日だった。

 

木曜日は病院は学会のため、全国的に休みのところが多い。

 

「ダメだ。どこもやってない」

私は血だらけの顔を抱えたまま途方に暮れていた。

さすがにこのまま塾に行くのはまずいな……

救急車呼ぶしかないのかな。

そんなことを思っていた。

 

「あ、あった」

母親が近所にある、とある小さな病院を見つけた。

そこは内科から外科まで全て揃っていた。

 

電話してみると診察時間は過ぎているのに

「今すぐ来てください」と掛け合ってくれたのだ。

 

私は母親に連れられ、その近所にあった小さな病院に向かうことにした。

車に乗って向かった。助手席は血だらけになっていた。

 

後で拭かなきゃな……

 

そんなことを思っていると、気づいたら病院の前についていた。

そこは自転車でも家から数分の距離にある小さな病院だった。

 

「こんな辺鄙なところに病院があったんだ」

そう思いながら、病院に駆け込んだ。

 

室内に入ると理事長の方が待ち構えていたらしく、すぐに治療室に案内された。

ベッドに横たわり、私の視界にはガーゼが敷かれた。

 

「チクっとするけど、我慢してね」

 

そう言われると、どうやら細長い管が、カパっと開いた顎の皮膚のところに挿入されていった。

 

たぶん麻酔を注射しているのだろう。

私の頬の神経がどんどん麻痺していくのがわかった。

痛みも感じなくなった。

「傷口が開いているから、これから縫っていくね」

理事長は細長い糸を手に持って、私の顎にあててきた。

 

え? 縫うの……

私はまさか顔面を縫うほどの怪我をする羽目になるとは思わなかった。

 

なんであの時、立ち漕ぎをしながら坂を駆け下りたのだろうか……

安全運転を心がけていればこんなことにはならなかったのだ。

 

あ〜これで私の顔面も縫われて、ブラックジャックみたいになるのか。

そんな後悔の念に駆られていると、チクっとする痛みを感じた。

 

麻酔が効いていても、自分の皮膚が縫われていっているのがわかるのだ。

私は視界に敷かれたガーゼ越しから、理事長の真剣な眼差しを見ていた。

理事長はものすごい勢いでさっと縫っていく。

 

まるで職人のようだった。

「オーケー。終わったよ」

理事長は私の声をかけた。

 

「2、3日の間は痛みが続くと思うけど、7日もすればガーゼは外れるでしょう。傷口が大きかったので5針縫いました」

 

 

5針も縫ったのか……

私はショックだった。

 

中学生の段階で顔に傷だらけになる重傷を負ったのだ。

たぶん、ずっとこの傷を人に見られながら人生を歩んでいくことになるんだなと思い、悲しくなってきた。

 

「なるべく、傷が残らないように縫っておきました。一週間後、ガーゼを外して確認しますね」

 

私は麻酔がまだ効いていて、頭がボケっとしながら、家路に着いた。

「5針も縫ったんじゃ、傷跡は残るね」

母親はそう言っていた。

 

あ〜、中学生にしてブラックジャックみたいになるのか……

 

 

次の日、顔面に包帯を巻かれながらも私は学校に登校した。

念のため担任に報告すると

「5針も縫ったのか? じゃ、一生分の傷が残るな……かわいそうに」

そんなことを言っていた。

 

やはり、深い傷跡が残るのか。

なんであの時、自転車でスキージャンプなんてしてしまったんだろう。

そう悲嘆していた。

顔面に包帯を巻かれながら、一週間が過ぎた。

さすがに傷口が痒くなってきたので、早く包帯が外れないかと心待ちにしていた。

 

私は今度は歩いて近所にある病院に行くことにした。

来るのは二回目だが、本当に小さな病院だなと思った。

しかし、小さい病院なのに、午前中にもかかわらず患者の数は多かった。

 

なんでこんなに人が多いんだろう。

大学病院に行けばいいのに……

そんなことを思っていた。

 

私は看護師さんに呼ばれて診察室に入っていった。

そこには白衣姿の理事長が椅子に座っていた。

 

「やあ、痛みは引いたかい?」

理事長は私の顔面に巻かれた包帯を外して行った。

傷口に覆いかぶさっていたガーゼを外す。

 

「うん。綺麗に治ったね」

私は鏡を見た瞬間、驚いた。

 

全くの無傷だったのだ。

え? なんで傷跡が残ってないの……

私は驚いた。

5針も縫ったのに、傷跡が残らないなんて奇跡としか思えなかったのだ。

 

理事長曰く、どうやら傷跡が残らないようにうまく縫い合わせてくれたらしい。

普通、顔や皮膚の傷は糸を上から覆い被せるように縫っていくが、

理事長は皮膚の内側で、皮膚が重なるように縫ってくれていたのだ。

 

縫っている場所が皮膚の内側のため、顔の表面に傷の後が残らなかったのだ。

 

なんだこの職人技は!

この理事長いったい何者なんだ。

 

ニコッと笑う理事長を見ながら、私はそう思った。

 

 

帰りに治療費を払うため、待合室で待っている時に、ふと棚に置かれている雑誌が気になった。

 

真ん中のページには付箋が貼ってあるのだ。

そのページには理事長の姿があった。

 

「離島の診療所で活躍する外科医」

 

その雑誌には、この小さな病院を支える理事長の経歴がこと細かく載ってあった。

 

理事長は名門の早稲田大学に通うも、3年の時に中退。

そこから猛勉強の末に医科大に入学したという。

医科大を卒業して救急救命の最前線で活躍したのちに、とある離島の診療所で救命設備が不足している中、懸命に島民のために走り回っている姿がそこにあった。

まるで、本物のDr.コトー診療所である。

 

離島の診療所の後は、都内の救命救急で患者のために懸命に治療し、

都内の病院は設備が充実しているが、患者一人ひとりに十分な医療環境が行き届いてない……島のように患者と一対一で治療にあたりたいと思い、小さな町の病院を作ったという。

 

小さな病院にもかかわらず、内科から外科、皮膚科、眼科まで全て揃っていたのは理事長の経歴が関係していたのだ。

都内の救命救急や離島の診療所の経験から、ほぼ全ての体の不具合を把握できる経験値があったのだ。

 

 

私はなんだかすごい人に治療してもらっていたんだなと思った。

 

次の日に学校に行っても、包帯が巻かれていたところがあまりにも無傷のため、

「今まで仮病使ってただろう!」と言われるほど傷口が綺麗に整っていたのだ。

 

その町に密着している小さな病院の理事長は、早稲田に通うもこのままでいいのか……と自問し、結局大学を中退してまでも医者の道を進んでいったという。

医科大を卒業したのちも、すぐに大学病院に配属されるわけではなく、島の離島や救命救急の最前線を走り回っていたのだ。

普通のエリートコースの医者なら、卒業したのちに大学病院に配属されるのが普通だ。

しかし、理事長は何度も遠回りしながら今の町に密着した最先端の医療を提供できる病院を作り上げていった。

 

 

小さな小さな病院だが、治療のうまさが評判を呼んでか、都内中からわざわざ時間をかけてその理事長がいるクリニックに通う人も多いという。

 

人の何倍も回り道をしていったから、理事長は町に密着した最先端の医療現場を作り上げることができたのだと思う。

木曜日も空いているクリニックは全国的にも珍しい。

少しでも患者を救いたいという理事長の思いがすごく伝わってくる。

 

 

私は同世代の人に比べてだいぶ遠回りしている。

ストレートに学校を出て、働き出していたら、社会人歴が2年目以上になっていてもおかしくない。

しかし、私は遠回りに遠回りを重ね、4月からようやくちゃんとした社会人としてスタートすることになる。

 

働いている同世代の人を見ると、後ろめたい気持ちになることはあった。

なんで私は未だにフリーターのプー太郎なのか。

きちんと働けないのだろうか。

 

一回、就職したものの、午前4時まで続く労働と、度重なる睡眠不足で頭がおかしくなり、結局辞めてしまったのだ。

精神的にも疲れた私は、なぜかよくわからないがラオスの山奥まで飛んでいった。

 

人よりも何倍も遠回りして、なんとか日本に帰ってきて、記事を書いたりしている。 

遠回りを重ねて、ライティングの魅力にも気づけたのだ。

 

近所にあるクリニックの理事長も人の倍以上遠回りしていって、本当のやりたいことを見つけていった。遠回りして行った分、技術を磨いていき、人の何倍もの経験値を積み重ねていったのだと思う。

 

 

私は正直いうと、今だに自分が何になりたいのかよくわかっていない。

しかし、それでもいいのではないかと最近は思う。

 

人の何倍も遠回りしてもいいのではないか?

 

遠回りした分が、その人の財産になる。

そんな気がするのだ。