「普通とは?」というタイトルに惹かれて
「普通とは?」
とある本屋さんでこのタイトルの雑誌を見かけた。
表紙は小松菜奈でどこかサブカルチャーくさい雰囲気を出している雑誌だ。
メイビーの「普通とは?」とという特集を読んだのは、去年の11月だった。
その頃、私はライティングの魅力に気づき、記事を書いては書きまくって、自分の才能のなさに憂いている時だった。
本当に面白い文章を書いている人は、その人の個性が文章にも滲み出っているものだ。
たくさんのバズを起こす人気のライターさんなどを間近で見ていると自分の才能のなさを感じ、憂いた気持ちになっていた。
空っぽの私が書いた文章など面白いはずがない……
そう思っていたのだ。
そんな時、ふとメイビーという雑誌と出会った。
タイトルと表紙からくるインパクトに私は一気に惹きこまれた。
「普通とは?」
それは私を含めた、ゆとり世代の多くが抱える悩みの一つかもしれない。
普通でいたくない。
人と違った自分でいたい。
どの人も心のそこでは「普通でありたくない」と思ったことがあると思う。
他者との比較する上で、グループから外れたくないという思いがあると同時に、普通でいたくないという生理的な欲求が人間にはあるのかもしれない。
私もそんな普通であることに後ろめたさを感じ、常に自分の承認欲求に振り回されてきた一人だった。
人と違うことがしたい。
何者かになりたい。
そう思っては、学生時代には映画を作り、一人でインドに飛び込んだりと、
常に刺激を追い求めてさまよい歩いていたと思う。
今思えば、ただ私は「普通であること」が異常なほどコンプレックスだったのだ。
「普通の顔だね」
「君の名前って普通だね」
と言われるのが何よりも嫌いだったのだ。
だからかもしれない。
この雑誌のタイトル「普通とは?」に妙に惹かれてしまったのだ。
私は記事ネタのインプットのためにもと思い、早速その雑誌を購入し、読んでみることにした。
それはミステリアスな雰囲気を漂わせる小松菜奈や水曜日のカンパネラ、根本宗子など普通じゃないトップクリエイターが「普通とは?」について語る特集記事だった。
私は電車でその雑誌を読んでいくに連れて、
普通っていったい何だろう? と考えてしまっていた。
この雑誌に登場するクリエイターの方々はどう考えても普通じゃない人たちだ。
そんな人たちが普通について語るのはどこか面白く、斬新な切り口だなと思ってしまった。
私は雑誌を読んでいくうちにあるページがとても気になってしまった。
あ!!!!
と思った。
知り合いの方の特集ページがあったのだ。
彼女はここまで大きくなってしまったのか……
私はそう思ってしまった。
彼女の隣のページには小松菜奈の写真がドンとあるのだ。
普通の初恋、普通じゃない恋……
という特集記事を見て、私はその彼女と出会った日のことを思い出していた。
その時、私は大学1年生の頃だった。
大学に入ったら好きなことをやろうと意気込み、自主映画サークルに入って映画ばかりを作っていた。
映画を作るのは面白かった。
多くの人と関わりながら一つの作品を作るのは、刺激的だ。
自分の頭の中にある世界観を目の前で形にしていくのがとても楽しかったのだ。
映画を作っては、TSUTAYAで映画を借りて、人を惹きつけるコンテンツについて研究していった。図書館にこもっては脚本を書いて、一介の映画人になったふりをしていたのだ。
大学時代に何かで頭角を出すと意気込んで、自分の殻に閉じこもっていただけなのだと思う。
そんな時、ある映画祭に自分の作品を出展することになった。
その打ち合わせを兼ねて、映画祭のミーティングに行くことになったのだ。
当日、そこには都内の大学の映画サークルが集まっていた。
みんな自分の作品を意気込みながら解説していた。
私はそんなクリエイターぶっている人たちを見て、
ここはもっとこうするべきじゃないか……
自分の世界観に良い浸っているだけじゃん……
などと、上から目線で見ていた。
自分はこの人たちとは違う。
人とは違ってた感性を持っていると思い込んでいたのだ。
(今思うと、だいぶ上から目線でウザいやつだ……)
そんな時、会場に去年の特別審査員賞をもらった、とある大学の女性が前に立っていた。
どうやら今度、自主的に映画館で上映をするので、その宣伝にミーティングを訪れていたという。
その女性が作った映画の予告編がスクリーンに流れてきた。
私はその予告編を見た瞬間、度肝抜かれた。
なんだこれ!!!!
そこには彼女しか作れない世界観があったのだ。
痛々しいほどに青春を輝かせる独特の世界観がそこにはあったのだ。
斬新な映像美、センスのあるセリフ回し、どれを見ても才能の塊のような人が撮った映像だった。
私はその映像を見た瞬間、
この人には勝てない……と思った。
私は呆然としたまま、ミーティングが終わった後にその映画を監督した彼女に話しかけてみることにした。
彼女はとある大学で哲学を学んできたらしい。
(どうりでセリフに哲学的な表現が多いなと思った)
本気で哲学者になろうと思ったが、大学3年生の時、ふと
「言葉だけはな表現しきれないものがある。映像なら言葉では捉えきれないものを表現できるのではないか?」
と思い立ち、自ら仲間を集めて自主映画を作っていったらしい。
驚くことに彼女の大学には自主映画サークルはなかったという。
すべて自分で一からサークルを作り上げ、映画を作っていってくれる仲間を集めて行ったのだ。
彼女の映画作りの背景を聞いていくうちに、この人はトンデモナイものを持っていると直感的に思ってしまった。
話をして10秒ほどで、彼女の背景にある痛々しいほどむき出しの感受性を感じ取ってしまった。
本当に才能の塊のような人だなと思った。
どう見ても彼女は「普通じゃない」人だったのだ。
私はその日から、なおさら映画作りにのめり込んでいった。
70分近くの自主映画を4ヶ月以上かけて作った。
大量にDVD をレンタルして、映画を見まくった。
自分の世界を表現しなきゃと思い込んでいたのかもしれない。
彼女が審査員特別賞を取った映画を真似て脚本を書いてみた。
脚本の評判は上々だった。しかし、実際に映像にしてみると、とてもじゃないが人に見せられる出来ではなかったのだ。
映画祭に応募してもどれも予選を突破することはなかった。
なぜだ!
なんで自分が作った映画は評価されないんだ。
そう思った。
私はずっと普通じゃない人に憧れていた。
自分なら何者かになれると思っていたのだ。
しかし、結局、何者にもなれなかった。
時が経ち、就職活動の時期が来て、周囲に流されるように就活をしていった。
大学入りたての頃は「就活なんてしない〜」と嘆いていたが、
結局、時が来て、社会の荒波に飲まれていくように就活していったのだ。
自分は一体何がしたいんだろ?
そうずっと思い悩んで不安だった。
映画祭で知り合った彼女は、どんどんプロの世界を駆け上がっていった。
ある雑誌では、彗星の如く現れた天才と称させていた。
私は結局、何者にもなれなかった。
そう思い、他人の眩しいまでに輝く才能を見て、後ろめたさを感じていた。
2年近くの時が経った今でも、メイビーの「普通とは?」という特集を見ている時に、同じな思いを感じてしまった。
もはや彼女は小松菜奈を主演にした商業映画を撮っていたのだ。
彼女は27歳のデビューだった。早すぎる。
新卒で入った会社を辞め、フリーターのプー太郎をしていた私は、
わずか数年でこんなにも差がついてしまったのか……
と思い、後ろめたい気分になっていた。
眩しいまでに輝く才能を見て、自分には無理だと思った。
そんな時だった。
ライティングの師匠のような人にこう言われた。
「書くようになるには書くしかない。今までの倍以上書くようにしてください」
私はもともと書くことは好きだった。大学も自主映画を撮っていた関係で、
脚本などものを書くということはしていた。
特にやりたいことも見つからず、世の中をさまよい歩いている時に、
ふと、とあるライティング教室に辿り着き、私はライティングにのめり込んでいった。
もう自分にはこれしかないと思ったのだ。
ある程度文章を書くことには慣れてはいたものの、上には上がいるものだ。
自分よりも大量のバズを発生させるような人がゴロゴロいた。
そんな人たちを見て私はまたしても、自分の才能のなさに憂いていた。
私はやっぱり何をやってもダメだ。
そう思っていた。
そんな時、ライティングの師匠に
「書くようになるには倍の量を書かなきゃいけない」
と言われたのだ。
「つべこべ言う前に手を動かせ! 何でもいいから毎日かけ!」
ひたすら「書け! 書け! 書け! 書け!」である。
私は何か書くことができない自分に聞く特効薬のようなものがあると思っていた。
しかし、出てきた答えは「とにかく書け!」である。
ああだこうだ言っても仕方がないので、私は仕方なく今までの倍の量を書くことにしてみた。
こうして無料ブログを立ち上げ、毎日きちんとコンテンツを作ることを日常にしていった。
初めの頃は、書くネタを探すのに苦労していた。
毎朝、記事を更新するために四六時中、記事のネタを探して世の中にアンテナを張っていかなければならないのだ。
すぐにネタが品切れてくる。
毎日悪戦苦闘しながら、なんとか2ヶ月以上続けてみた。
そして、私はあることに気がついた。
それは……
以前より他人の才能に憂いていない自分に気がついたのだ。
毎日、目の前にあることに無我夢中で自分の才能のなさに憂いている余裕がなくなったのだ。
私はずっと「普通じゃない」人に憧れていた。
「普通じゃない」才能を持っている人を見ては、自分の才能のなさを痛感し、憂いていたと思う。
同世代の人がテレビに出てきても、劣等感を感じて私はテレビを見ることができなかった。
なんで自分はこうで、同じ時期に生まれたあの人たちはテレビに出て注目されているのか? そう思うと、後ろめたい気持ちになってしまうのだ。
しかし、そんな風にして他人の才能を憂いているのは、ただ自分が努力してこなかっただけなのかもしれない。目の前のことに無我夢中になっている人は、他人の才能など気にしている余裕などないのだと思う。
才能のない私は、彗星の如く現れた才能の塊のような彼女にかなわないかもしれない。
大量のバズを起こす、ライターさんには勝てないかもしれない。
しかし、そんな人を目の前に見ても努力し続けることが大切なのだと思う。
「普通じゃない」人たちを見ても、とにかく今は書き続けよう。
そんなことを思うのだった。