もし、あなたが「生きづらさ」を抱え、いつも自分の殻にこもりがちなら、クリストファー・ノーラン監督の「インセプション」だけは観た方がいいのかもしれない
「なんで人と同じ行動ができないんだろう」
子供の頃からこのような悩みを持っていた。
私はとにかく団体行動が苦手な子供だったのだ。
クラスの中でも常に浮いた存在だったと思う。
友達も割と少なかった。
昔からしゃべることが苦手で、人と面と向かって話すと、いつもどもる癖があった。
それが嫌で嫌で、学校の教室の中では、なるべく人と話さないで済むようなポジションを常に探していたと思う。
しゃべることが苦手だったこともあり、私は自分の世界に閉じこもりがちになった。
友達も少なかったこともあり、家では映画ばかり見て過ごしていたと思う。
なんで自分は人と同じに喋れないのだろう。
人と同じ行動が取れないのだろう。
そんな悩みを持ちながら、小学生時代は過ごしていた。
中学や高校に進んでもその悩みは続いた。
部活動に入れなかったのだ。
人とコミュニケーションを取ることが苦手なこともあり、とにかく団体行動のスポーツができなかった。団体で行動していると、どこか束縛されている感じがして、辛くなってきてしまうのだ。
だから、私はチームワークが必要だったバレーボールやサッカー、野球は辛くて出来なかった。
中学の時は、単体競技の陸上部に所属していた。
陸上は自分には合っていたのかもしれない。
練習は団体で行うが、競技は自分一人の力ですべて決まるため、団体行動が苦手な自分には居心地が良かったと思う。
日本のゆとり教育では「個性を尊ぶ」ということを大切にしていたが、人とうまくコミュニケーションを取れなかった私のような人間には、その教育方針は辛かったのかもしれない。
一人一人の個性を尊ぶと行っても、日本は集団行動を良しとするムラ社会が根幹的にある。集団で行動できない私のような人は異物のようにつまはじきになってしまうのだ。
私はそんな日本社会に生きづらさを抱えながら、ずっと生きてきたと思う。
心のそこで、どこか違和感を感じ、生きづらさを抱えていたのだ。
大学生や社会人になっても同じような生きづらさを常に抱えていた。
飲み会の場でも、私は周囲の話題にそってしゃべるということがとにかく出来なかった。
なんで今この話題なんだ?
この時、どういった反応返せばいいんだ?
人とのトークの流れがまったくつかめないのだ。
私は楽しいはずの飲み会が終わると同時に、毎回、後悔の念に苛まれていた。
なんで、あの時喋れなかったのだろう……
そんなことを考え、悩んでしまうのだ。
私はどんどん自分の世界にこもるようになっていった。
人と話しても、会話がギクシャクして、変な目で見るだけだ。
それなら初めから話さないで済む方がいい。
そうやって、大好きだった映画ばかり見て、自分の世界にどんどん酔っていった。
常に日本社会に違和感を感じていたと思う。
なんで自分は団体行動が取れないのか?
人とうまくコミュニケーションを取れないのか?
留学した帰国子女の意気揚々とした姿を見て、私は海外に行けば、自分を変えられるのかもしれないと思った。自由気ままに生きている外国人の中なら、自分の居場所を見つけられるのかもしれない。そう思ったのだ。
アメリカやインド、東南アジアなどを旅してみた。
欧米の人は皆、自由気ままに生きていた。
日本人のように、毎日嫌々会社に通っているわけではなく、自分の好きな仕事を好きなだけやっている人が多かった。
東南アジアなどを旅していると、インターネット関係の仕事をしながら、自由気ままに旅を続けている若い同世代の人を多く見かけた。
彼らは本当に毎日楽しそうだった。
自由気ままでいいなと思っていた。
しかし、私はそんな外国でも人とのコミュニケーションをとることに違和感を感じ、引きこもりがちだったのだ。ゲストハウスの中でも、なるべく人と話さないで済むようにベットの中でずっとひきこもっていたのだ。
なんで海外に来ても自分はこうなのだ?
どこに行ってもどうして自分の世界に入り込んでしまうのだ。
他者との世界の中に入っていけなかった。
日本に帰ってきてからも、人との輪に入れない自分に嫌気がさし、私はどんどんノイローゼ状態になってきた。
いっそのこと、人としゃべらずに済む、山奥にでも引きこもろうかと思ったくらい精神的におかしくなっていたのかもしれない。
そんな時だった。
公開当時から「インセプション」は日本でも話題になっていた。
世界の渡辺謙がレオナルド・ディカプリオと共演している本作は、ハリウッド中でも評価はめちゃくちゃ高かった。
どうやら人間の深層心理の深くまで潜り込んでいくストーリーらしいのだ。
私は大の映画好きだったが、劇場では「インセプション」は見ていなかった。
毎週のように通っていたTSUTAYAのDVD棚に「インセプション」を見かけ、
そういえばまだ見てないやと思って、借りてみることにした。
クリストファー・ノーラン監督の映画は大好きだった。
「ダークナイト」も夢中になって見ていた。
めちゃくちゃ面白かった。濃厚な人間ドラマ、犯罪心理学などを駆使した奥深い物語に私は痺れてしまった。
しかし、この監督の映画はどれも濃厚で小難しい物語が多く、見るのに少し躊躇している自分がいた。
「インセプション」も心理学の専門用語が連発してくるような難しい映画のように思っていたのだ。
それでもきっと、そこそこ面白いんだろうなと思って「インセプション」をレンタルして私は見てみることにした。
デッキにDVDを入れ、再生を始めた。
オープニングから驚いた。
なんだこの映像美は!
どうなってるんだこの世界観は!!!!
それは明らかに世界でもトップクラスのIQを持っているクリストファー・ノーラン監督だから描ける世界観がそこにはあった。
明らかに普通の人間が描けるものじゃないのだ。
ものすごく複雑で濃厚で、時間軸もバラバラなのにうまく絡み合い、絶妙にまとまっているのだ。
無重力状態を走りまわるジョセフ・ゴードン=レヴィットのシーンなど必見である。
こんな映像表現があるのかと驚いてしまった。
私はどんどん自分の深層心理の奥深くに入っていく主人公に私は感情移入してみてしまったと思う。自分の世界に引きこもり、心理状態の奥深くに逃げ込む主人公が見たものは、荒涼とした世界だった。
そして、目の前で見たものは夢か現実なのかわからないまま映画は終わる。
なんだこの余韻を残すラストシーンは!
私は「インセプション」を見終わった後、数日間あのラストシーンについて自分なりに考えてみてみた。
なんであんなラストになったのだろうか?
監督は何が言いたかったのだろうか?
映画を見て、数年経った今でも「インセプション」のあのラストシーンが私の脳裏にこびりついていた。
クリストファー・ノーラン監督はその後も「インターステラー」という傑作SF映画と撮っていた。私は大のSF好きということもあって、この映画は映画館のスクリーンで見た。
大興奮しながら、惑星間を旅するこのSF映画を見ていたと思う。
私は映画を見終わった後、映画評論家の町山智浩さんのラジオを聞いてみた。
クリストファー・ノーラン監督に直接インタビューしたことがある町山さんだからこそ言える解説がそこにはあった。
そして「インセプション」のラストの意味もわかったのだ。
クリストファー・ノーラン監督はどの映画でも
「心の内側に入ってばかりいては人間は前には進めない」
というメッセージを暗示させているという。
「インセプション」でも、自分の深層心理の奥深くに逃げ込む主人公が見た景色は荒涼としたものだった。
「自分の世界に引きこもってもつらいだけだよ」ということを暗示させているのだ。
「インターステラー」もスマホをいじり、下ばかり見るようになった人類に、
「もっと上を見上げれば壮大な宇宙が広がっているじゃないか。上を見て進まないと人類は進化しないぞ!」というメッセージが込められているのだ。
私は人とのコミュニケーションが苦手だということもあり、昔から自分の世界に引きこもりがちだったと思う。団体行動も本当に苦手で、いつも自分の殻に閉じこもっていた。
しかし、それではいけないのだ。
自分の殻に閉じこもってばかりではいけない。
前を向いて進んでいかなきゃいけない。
そんなことをクリストファー・ノーラン監督の映画から私は学んだと思う。
私は今でも「インセプション」と「インターステラー」だけは、よく見直している。
自分にとって生きる指針にもなっている映画なのだ。
自分の殻にこもってばかりではいけない。
そう思って、私はこうして文章を書くようになった。
もし、昔の自分のようにどこか「生きづらさ」を抱え、自分の世界に引きこもりがちな人がいたら、ぜひ「インセプション」だけは観た方がいいのかもしれない。
自分の心の内側に引きこもっていった主人公の成れの果ての姿が見えてくる。
自分の世界に引きこもってばかりではいけない。
そんなことを教えてくれるのだ。