映画「ラ・ラ・ランド」を2回観て、野球選手のダルビッシュ投手の凄さを思い出した
私は音楽映画が苦手だった。
音楽にあまり興味がないということもあるが、映画の出来を曲でごまかしている感じがしていて、どうしても物語が頭の中に入ってこない。
ましてやミュージカル映画なんて、最も苦手なジャンルだ。
セリフを曲の中で表現するため、物語の展開についていけなくなるのだ。
ただでさえ、会話を聞き取る読解力が低い私にはミュージカル映画は苦痛の産物でしかなかった。
それなのに、私が大好きだった監督がミュージカルを撮るという。
「ミュージカルだけはやめてくれ!」
正直、そう思った。
監督の前作「セッション」は私が大好きな作品だった。
まるで格闘技のように展開されるこの音楽映画に私は興奮して見てしまったのだ。
ラスト14分間に奏でる教師と生徒の熱意がこもったドラムバトルを見て、呆然としたのを覚えている。
この映画を撮った監督は当時20代でハリウッド中では
「天才が出てきた!」と騒がれていたらしい。
そんな天才と称された監督が次はミュージカルに挑戦するという。
ミュージカルだけはまずいんじゃないか。
大丈夫なのか。
私はそう思っていた。
ハリウッド産のミュージカル映画に成功例がないのを私は知っていた。
今までに、天才級のクリエイターが幾度も挑戦しても、興行的に大失敗をしていたのがミュージカルというジャンルだったのだ。
「ゴッドファーザー」を撮ったフランシス・フォード・コッポラ監督もミュージカル映画を撮って大失敗し、多額の借金をして映画が撮れなくなってしまっていた。
日本では最近「沈黙」で話題になったマーティン・スコセッシ監督も「ニューヨーク・ニューヨーク」というミュージカル映画を撮って大コケした過去を持っている。
興行的に大失敗する可能性が高いのがミュージカル映画なのだ。
そんな最も難しいとされているミュージカル映画に若き31歳の監督が挑戦するという。
アカデミー賞最有力候補になっているため、日本では早くから話題になっていた。
私は「セッション」の監督が撮った映画だということで、ミュージカル映画に苦手意識を持ちつつ、映画館に足を運んだ。
館内に入ると周囲が女性だらけだということに気づいた。
なんだかレディース・デイに「ゴーンガール」を見てしまった時のような居心地の悪さを感じつつ、私は予約した席についた。
映画が始まる。
オープニングからぶったまげた。
初っ端から全力で歌い出すのだ。
これ何人のエキストラを使ってんだ……
スクリーンの中ではハリウッドのクリエイター達が全力投球でぶつけてくる熱いものがあった。
映画全体もスクリーンに奥行きがあるなと思ったら、昔のハリウッド映画のフィルムサイズにわざわざ合わせて撮っているのだという。
だから通常の映画館より、スクリーンが幅広かった。
私は監督の映画への情熱を感じつつ、カラフルで彩られた「ラ・ラ・ランド」の世界を堪能していた。
それは夢を追いかけている人たちの物語だった。
「LA LA LAND」とはロサンゼルスに集まってくる「夢見がちな人」のことを指す用語だ。
ハリウッドに夢を見て、そして去っていった人たちの物語がそこにはあった。
私も夢見がちなところがあるので、この物語の主人公の境遇に共感してしまった部分があった。
私は映画の世界に夢中になってしまっていた。
ミュージカル映画が最も苦手な私がである。
もう物語の登場人物に感情移入してしまって、ミュージカルが苦手なことまで忘れてしまったのだ。
カラフルで彩られたこの世界から抜け出したくない。
そう思っていた。
そんな時ふと、あれ?
と思ったシーンがあった。
なんでここだけ色が変わってんだ。
それは丘の上で二人がタップダンスをしているシーンだった。
夕焼けに彩られたロサンゼルスの夜景を背後に3分近くの長回しの中、タップダンスをするシーンがあるのだが、次のカットに変わる時、辺りの風景の色が突然少し変わったことに違和感を感じたのだ。
服装から壁紙まで、カラフルに彩られ、とことん色にこだわって作られた映画なのにである。あのカットだけ前後の色調に妙な変化があったのだ。
監督のミスかな。そう思った。
いや、そうじゃなかったらもしや。
あのシーンはもしかして……
私は映画を最後まで見ていくときもロサンゼルスの夜景を背後にタップダンスを決めるシーンが気になって仕方がなかった。
映画は後半になり、シリアスな展開になっていく。
そして、最後に二人が奏でるハーモニーを見て、これぞ映画だ!
これが映画なんだ! と興奮しながら見てしまった。
映画評論家の町山智浩さんは「セッション」の時と同じくらいラストが凄いよと言っていたが、本当に凄かった。
なんという余韻が残る美しいラストシーンなんだろうか。
私はエンドロールを最後まで夢中になって見てしまった。
この世界から抜け出したくない。
そう思った。
結局、ミュージカル映画に苦手意識を持っていたのを忘れるくらい物語の展開が気になって見てしまったと思う。
映画館を出て、アドレナリンが落ち着いてくる頃になると、またあの疑問が浮かんできた。
あの丘のシーン……もしや。
あの夕暮れかかった夕焼けはもしかして。
あれだけ色彩にこだわった映画なのに、あるカットだけ前後に色に違和感があるのがどうしてもおかしかったのだ。
監督のミスとは思えなかったのだ。
私は数日後、もう一度映画を見てみることにした。
ワンカットワンカット濃厚で、クリエイター達の意地と熱意にあふれている映画を二回とも興奮しながら見ていた。
そして、私はやはりあの夕焼けに彩られたロサンゼルスの丘でタップダンスをするシーンがどうしても気になっていた。
これってもしかして。実写で撮ってない?
映画用語でマジックアワーという言葉がある。
太陽が地平線に沈む瞬間、地平線が鮮やかな夕焼け色で覆われるわずか10分間のことを言う。
この10分間を捉えるのは至難の技で、ほとんどの映画はCGなどでごまかしているという。
私は学生時代に自主映画を撮っていて、この夕焼け空で覆われた瞬間を撮るのに苦労した覚えがあった。
本当に10分間しかないのだ。
空全体が綺麗な夕焼け色で覆われるのは1日に10分しかない。
そのわずか10分間に向けて、カメラや照明のセッティング、役者さんの演技指導などを決めていかなければならない。
その夕焼け色のシーンを撮るだけで1日の大半を準備で使ってしまうほどだった。
もしや、この丘の上のタップダンスシーン……
すべて実写でロケをして撮ったのではないか?
そう思えて仕方がなかった。
そうじゃないと前後のカットに色彩が変化するのが説明できないのだ。
本物のマジックアワーの光を撮っているから、後のカットで同じ色の光を再現できなかったのだと思えた。
私は毎度のこと映画ならこの人にお任せの映画評論家の町山智浩さんのラジオを聞いてみることにした。
すると、やはりな。
やっぱりなと思った。
あの丘の上のシーン……すべて実写で撮っていたのだ。
二日にかけて5テイク録ったらしい。
夕焼け色に染まった地平線を背景にタップダンスをするシーンは3分近くの長回しだった。
わずか一日につき10分間のマジックアワーの時間に、3分の長回しを撮ったことになる。
とんでもなく集中力がいることだと思う。
その貴重なマジックアワーの10分間のために、背景には相当な計画と練習量があったのだと思う。
カメラや照明、衣装など、何もかも念密に計算された3分間の長回しだったのだ。
主演のエマ・ストーンとライアン・ゴスリングはこの貴重な10分間のために、死ぬほどタップダンスを練習して、二人の呼吸を合わせていったのだと思う。
たかが3分間の長回しだが、その3分間の背景には1000時間という血道な練習量と緻密な計画がないと、あんなシーンは撮れないと思う。
私はクリエイターの底力を感じてしまった。
それだけ濃厚な練習量とチームワークで、10分間の勝負の時間に向けて集中し、熱意を込めて撮られたシーンだったのだ。
すべてのエネルギーを向けて、異常なまでの執着心と集中力で撮られたシーンなのだ。
私はプロ野球で活躍するダルビッシュ有選手の投球への姿勢を思い出していた。
プロ野球の世界では、投手は普段は肩を壊さないために8割ほどの球を投げて、試合のここぞという時のために、肩を温めておく。
この一瞬に向けて普段の食生活から練習まで全てをコントロールしているという。
ダルビッシュ投手になると一日に何個もプロテインを飲み、普段の食事から神経を研ぎ澄ませて、ここぞという勝負の時に向けて、日常生活から準備をしている。
そこまでやらないとプロのレベルでは通用しないのだ。
一球を投げるために、その背景には血のにじむような努力と異常な執念が隠されている。
「ラ・ラ・ランド」もそんな異常な執念とクリエイターの熱意が何層にも積み重なった映画だったと思う。
その熱意が積み重なり、集積していって2時間という尺の映画になっているのだ。
たかが丘の上でタップダンスをする3分間のシーンだが、その背景にはここぞ!
という勝負に向けた異常なまでの執着心と熱意があったのだと思う。
私は最近、ライティングを始めるようになったが、そこまでの熱意を込めて自分は書いているのか? と思った。
たかが2000〜5000字の記事かもしれないが、3分間のために、全集中力を持って行き、貴重なマジックアワーのシーンを撮っていた監督のような熱意はあるのかと思ってしまった。
いつの時代も、作り手のプライドと熱意が積み重なった作品が人々の心を掴むのかもしれない。
そんなことを考えせられる映画でもあった。