ライティング・ハイ

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彼らがなぜ歯科医でありGReeeeNなのか? そのことを知ったとき、私は……

 

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「何でここで坂本龍馬が……?」

私は先日GReeeeNの映画「キセキ あの日のソビト」のラストシーンを見ている時に、スクリーンを見ながらそう思っていた。

 

ラストシーンでGReeeeNのCDが並んである棚のそばに「竜馬がゆく」が並べてあったのだ。明らかに意図して配置されたショットだった。

よく考えれば映画全体もどこか坂本龍馬を暗示されるシーンがちりばめられていた。

 

GReeeeNのリーダーであるHIDEがCDショップで買うCDもなぜか、坂本金八を演じた武田鉄矢が歌う海援隊だった。

 

私は坂本龍馬が大好きだった。

高校時代に幕末の受験勉強のために読んだが、止まらなくなり、勉強をそっちのけで「竜馬がゆく」を全巻読んだのを覚えがある。だから、浪人したのかもしれない。

 

波乱に満ちた幕末を変えるべく、全国を走り回った坂本龍馬の姿に私は涙してしまった。彼のような幕末の英雄がいることで、今の日本があるのだということを痛感した。

本当に受験の近代史対策に軽く読み始めただけだった。

しかし、読み始めたら止まらないのだ。

龍馬が脱藩して、日本全国を走り回るあたりから、超絶面白いのだ。

私は当時、本当に夢中になって読んでいたと思う。

 

 

GReeeeNの映画を見ている時も、やたらと坂本龍馬が出てきて、私は懐かしくなっていた。そして、何でこんなに坂本龍馬が出てくるのだろうと不思議に思っていた。

 

私は本来、音楽には疎い人間だったがGReeeeNぐらいは知っていた。

歯科医を続けながら、今でも覆面アーティストをしているグループだ。

私はこの映画を見てからGReeeeNの音楽、いや彼らの生き方に興味を持ち始めていた。

 

なぜ、彼らは歯科医を続けながらGReeeeNをやっているのか?

それが気になって仕方がなかった。

映画だと、どうしても大衆向けに少し脚色している部分があったと思う。

 

映画を見ただけではわからなかった彼らの本当の物語を知りたかったのだ。

 

 

私はGReeeeNの4人がたどったキセキの物語が描かれたノンフィクション本を手に取った。ノンフィクション作家が5年の歳月をかけて4人の近辺を取材し、彼らの青春物語を約500ページ近くにまとめたものがそこにはあった。

 

 

読んでいて驚いた。

本当にこんなキセキが起こったんだ。

こんなことが起こるんだ……

 

平凡な歯科医大生の歌声が全国に響き渡るまでの物語がそこにはあったのだ。

私は驚くと同時に彼らがたどった青春物語を夢中になって読んでいった。

 

そうか、映画でもやたらと坂本龍馬が出てくるのはそういうわけだったのか。

 

GReeeeNのボーカルであるHIDEは大の坂本金八坂本龍馬ファンだったのだ。

どれくらい好きだったかというと、坂本龍馬が好きだという理由で高知の寮生の学校に

親元を離れて中学と高校時代を過ごすほど坂本龍馬が好きだったのだ。

 

彼の太陽のような歌声は全て10代の大半を過ごした高知の人々から影響を受けているという。

 

GReeeeeNの源流はほとんどHIDEが過ごした高知での坂本義塾のバンド時代の影響が大きいのだ。好きな音楽に夢中になり、好きな音楽を歌っていた日々が相当色濃く反映されているらしい。

 

坂本龍馬の影響を受けたGReeeeNのボーカルHIDEの物語を読んでいるうちに、私は自分自身の大学時代を思い出していた。

私も好きなものと向き合い、坂本龍馬に憧れた一人だったのだ。

 

 

 

 

「大学に入ったら映画を作る!」

私はそう意気込んで大学に入学したと思う。1年間の浪人の末、私はエネルギーがあり余っていた。何かを作りたいという熱意が溢れかえり、意気込んで大学の入学式を迎えたと思う。

大学に入ってすぐに映画サークルに入った。

映画サークルと言っても作りたい人が自分で仲間を集めて、映画を自由に作っていくというスタイルだった。

 

私は先輩の撮影などに参加し、ある程度の撮影のノウハウを学んだら、カメラも使ったことがないのに、いきなり映画を撮ってみることにしてみた。

最初はピントの合わせ方すらわからなかった。

しかし、勢いと若さの至りに任せてカメラを持って走り回っていた。

 

自主映画作るのにも多くの人の協力が欠かせない。

カメラ、照明、音声など5分の短編でも5人以上のスタッフやキャストの協力が必要なのだ。

私は図書館で勢いに任せて脚本を書いて、人に声をかけて、撮影チームを集めていった。大学時代には7本の映画を撮った。

ヒーロースーツを着て子供がいる公園を走り回ったこともあった。

4ヶ月以上かけて1時間の映画を作ったこともあった。

10リットルの血糊をばらまいて、事務室から3回も呼び出しをくらうこともあった。

 

そんな風に映画漬けの日々を送っていた。

私はただ多くの人と関わりながら一つのものを作り上げていく過程がたまらなく好きだったのだ。映画作りはどこか坂本龍馬がしてきたことに似ているのかもしれない。

 

いろんなところに走り回り、ロケ地の交渉やキャストの出演依頼をして、仲間を集めて映画を作り上げていく……

龍馬も全国を走り回り、薩摩と長州を結びつけ、幕府を倒していったように、

私もいろんな場所に走り回り、多くの人の協力のもと映画を作っていった。

 

映画作りを通じて、いろんな出会いがあった。

公園で撮影していたら田植えのおっさんたちの仲良くなり、夜まで飲み明かしたこともあった。なぜかドイツ人がひょっこり現れて、仲良く家までついていき、ドイツ映画と日本映画の違いについて熱く語った時もあった。

 

いろんな人と出会い、協力しながら一つの映画を作るのは本当に楽しかったのだ。

自分の生きがいはこれだなとも思えた。

 

知り合いに映像業界に進んだ人が何人かいたので、飲みに連れて行ってもらい、自分もそういった世界に進みたいと打ち明けてみた。

 

すると……

「映像業界だけはやめておけ」という返答が来た。

なぜだ? と思った。実際にその方は映像の世界で10年以上生きていた。

きっと映画が好きだったのだろう。それなのに映像の世界はやめておけという。

 

聞くところによると日本における映像業界は完全な下働きとしか見られておらず、少ない給料で短い時間で仕上げてくれる制作会社に仕事が回るような仕組みになっているという。無茶な要求と過酷な制作環境で多くの人が体調を壊し、挫折していくのだ。

 

ハリウッドはきちんとした労働組合が存在し1日の撮影は11時間までというルールがあるが、日本の場合は組合すらない。

そのため、1日30時間に及ぶ過酷な撮影をすることもあるという。

 

日本のクリエイティブ産業は、好きでやってるんだから、死に物狂いで働け! と言ってクリエイターをこき使う風潮があるようなのだ。

 

「映画監督なんてなりたくなてなるもんじゃない。いくらヒット映画を作っても食っていけない」

世界的に評価されている是枝監督もそんなことを言っていた。

 

私は現実の過酷さを知り、どんな道を進むべきか迷っていた。

普通の企業に勤めるか、制作会社に入り、自分の夢を追いかけるべきか。

結局、私は数ある企業の中から内定が出た制作会社に勤めることにした。

 

好きでもない仕事を嫌々するよりかは、好きなことを仕事にしたほうがいいと考えたのだ。

私は普通のサラリーマン家庭で生まれ育った。その反発からか普通のサラリーマンだけにはなりたくないと思っていたのだ。

 

大学を卒業して私は制作会社で働きだした。

 

想像を超える過酷な環境だった。

1日30分しか寝れない日々が続いていた。

同期で入社した人は次々と辞めていった。

辞めた人の分の仕事も自分のところに回ってきた。

 

私はどんどん精神的に追い詰められていった。

こんなはずじゃなかった。

 

そう思っていた。

好きなことを仕事にするのは本当に難しいということがわかった。

好きだからこそ、つらいのだ。自分の理想と現実のギャップを知り、苦しくなるのだ。

 

 

私は数ヶ月の間に8キロも体重が減ってしまい、結局会社を辞めてしまう。

家で動けなくなってしまった。

 

このままではまずいと思い、東南アジアを放浪してみたりもした。

ラオスの山奥まで行って、寺にこもって瞑想してみたりもした。

しかし、結局答えは見つからなかった。

 

日本に帰ってから、ふとしかきっかけでライティングの魅力に気づき、こうして文章を書くようになっていたが、書いている時もどうしても迷っている自分がいた。

 

書くということは、その人自身の生き方が反映されてくる。

生き方が面白い人が書いた文章は、自然と人を惹きつける面白い文章になるのだと思う。

 

平凡で中身が空っぽな自分が書いた文章なんて面白くないと思えたのだ。

ものすごいバズを発生させているような記事を書く人は、その人自身が面白いのだ。

そして何より、仕事を懸命にやっていて、貴重な時間を使って全力で記事を書いているのが身にしみてわかる。

私のようなフリーターのプー太郎が書いた記事と明らかに重みが違うのだ。

 

社会に出ても挫折した自分は、ようやくライティングの魅力に気づけた。

しかし、自分が書いた記事に自信が持てなかったのだ。

 

そんな時にGReeeeNの映画と出会った。

GReeeeNの物語と出会ったのだ。

 

私は同じく坂本龍馬好きということもあり、HIDEの人生観や太陽のような才能に憧れを抱いた。とにかく彼は人を惹きつける人らしいのだ。

 

ノンフィクション本を読んでいる時に、ある一節がとても気になった。

それは「竜馬がゆく」から引用された箇所だった。

 

 

「人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある」

その箇所を読んで私は思わず泣きそうになった。

 

GReeeeNのほとんどのメンバーが医大に入るため3年近くの浪人生活を送っていた。

遠回りしてようやく見つけたのが、歯医者という道だったのだ。

親にも大変な苦労をかけたので、曲が売れてレコード会社10社以上からオファーが来ても「自分たちは歯医者になる」という決意は曲げなかったという。

 

 

今の時代はマルチクリエイターの時代だという。

消費社会に疲れ果てた人々は、良いコンテンツさえあれば自然とSNSでバズを広げていってくれる。今の人々は頭が良いため、下手な広告やPRが通用しなくなったのだ。

 

そんなマルチクリエイターの時代の先駆けを作っていったのはGReeeeNだったと思う。

歯科医とミュージシャンという二足のわらじは、忙しい合間を縫って曲と向き合うため、一瞬の集中力が試されるため、音楽にきちんと向き合えるのかもしれない。

ミュージシャンだけをやっている人だと集中力がどうも途切れてしまうのだと思う。

 

歯科医をしているため顔を出せなかった。そのためロゴとメンバーのイニシャルだけを作り、曲というコンテンツの力だけで、自分たちの音楽を広めていったのだ。

 

 

いつの時代も世の中を変えていくような人は業界の外からやってくる。

君の名は。」の新海誠監督も元々サラリーマンをしていた人だった。

アニメーター出身の方ではないのだ。

 

坂本龍馬も幕府の人ではなく土佐藩を脱藩した浪人だった。

当時の日本では、浪人は武士でもないただの除け者のような存在だったのだ。

しかし、そんな浪人である龍馬が多くの人々を結びつけ、日本を変えていったのは事実なのだ。

 

GReeeeNは日本の音楽シーンを外から変えていった。

20代の大半を遠回りして、ようやく見つけた歯医者という道を進んで行く傍らで、日本の音楽業界を変えていったのだ。

 

彼らの姿を見ていると回り道も悪くないと思えてきた。

もし、彼らが歯医者を目指してなかったら、ここまで人々の心を動かすような名曲の数々を作れただろうか?

 

回り道をしてきたからこそGReeeeNの名曲が生まれてきたのだと思う。

 

私は社会に出ていろんな挫折を味わった。

大学をストレートで卒業して、社会人として頑張っている同級生の姿をSNSで見れなくなった時もあった。

 

社会人を懸命にやっている人たちを見ると自分の情けなさに気づき、後ろめたい気持ちになることもある。

 

しかし、そんな回り道もいいのかもしれない。

回り道をしてきた私だからこそ書ける文章があるのかもしれない。

 

私は4月になったらまた社会人として働き出すことになるが、忙しい合間を縫って、きちんと書くことだけは向き合おうと思う。

 

きっと忙しいからこそ、集中力が研ぎ澄まされ、今の自分には書けないような記事が書けるかもしれない。

GReeeeNが忙しい合間を縫って、音楽と向き合ってきたように私もきちんと書くということに向き合わなければ。

 

そんなことを思うのだ。

 

 

 

 

紹介したい本

「それってキセキ GREEEENの物語」 小松成美

 

 

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