ライティング・ハイ

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【ゆとり世代に告ぐ】私は、ありのままで生きたいと思っていたけども……

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「ありのままの君たちの姿を映画で描いてください」

とある学生映画祭で審査員を務める映画監督の人がそう言っていた。

 

「学生映画なんだから技術はどうでもいい。それよりも君たちが何を感じ、何を考えているのかをぶつけてくるような熱い映画を見たい!」

そんなことを言っていた。

 

その時、私は客席からそんな審査員同士のディスカッションを聞いていた。

 

ありのままを表現してください。

ありのままの自分でいてください。

 

ゆとり世代である私のような人間には常に「ありのまま」というキーワードがついて回っていたと思う。

 

ありのままに生きよう。

自分らしくあろう。

 

そんな平成のゆとり教育を受けてきた影響か、今の若い世代にはノマドワーカーやフリーランスという生き方に憧れを抱く人が多い。

(自分も似たようなもんだが……)

 

学生時代に私が自主映画を作っていた時も、この「ありのまま」というのがネックになっていた。

「もっと自分を吐き出せ!」

「あるがままに自分というものを表現しろ!」

 

どこの学生映画祭を回っても、そんな風潮が良しとされていた。

自分が学生だった頃は、園子温監督の映画がブームだったので、彼のように人間の中に眠るドロドロの気持ちを吐き出すような作品が多かったのだ。

 

私もそんな学生映画祭に流れる自主映画を見ていて、ありのままの自分を表現すれば評価されるんだなと思っていた。

その頃は死ぬほど自主映画作りに熱中していたため、何が何でも学生映画祭で賞をとって、大学生のうちに頭角を出す! と私は張り切っていたのだ。

 

家にこもっては自分を掘り下げていって、自分のありのままというものを脚本に込めてみた。

自分を深掘りしていって、頭を抱えながら書いた脚本は、友達に見せたら割と評判は良かった。

 

これならいける!

この脚本なら賞を狙えるぞ。

 

そう思い、急いで役者をやってくれる子を探して、約四ヶ月以上かけて映画を作っていった。今回だけは生半可な気持ちでやりたくない。自主映画だからといって馬鹿にされたくない。そう思い、少ないバイト代を使って、本物の大学病院でロケをしたりした。

病院ロケは大変だった。

学生の自主映画といっても、いろんな手続きを踏まなければならないのだ。

診察室を使える時間も限られていた。照明など細かくチェックする暇もなかった。

普通に考えて、このカット数をわずか3時間で撮りきるのは無理があった。

 

しかし、どうしてもこの映画だけは撮り切りたかったのだ。

自分のありのままが詰まった映画なので、私は異様な熱意を込めてその映画を作っていたと思う。

カット割りを極端に減らす方法を考え、撮影2週間前から早撮りできる方法を考えていった。

その甲斐あって当日はスムーズにテキパキ撮影できたと思う。

 

撮影していた時は、2月の真冬の季節だったので、凍える寒さに耐えながら私はカメラを持って走り回っていた。何週間も前からロケ地である聖蹟桜ケ丘の坂道を走り回ってはいい絵が撮れる場所を探していた。

 

私は毎日カメラを持って、映画を撮り続けた。

こればかりはきちんとした形にしたい。

あるがままの自分を見て欲しい。

そんなことを思っていたのだ。

 

 

完成した映画を上映会で流してみた。

私が四ヶ月も走り回り、死に物狂いで撮った映画だ。

見る人はどんな反応をするのか楽しみだった。

映画は約60分だった。自主映画にしたら長編の部類になる。

 

 

上映が始まった。

お客さんはちらほら入っていた。

少ない人でもいい。

自分のありのままが人に届けばいい。

 

中盤から異変に気付いた。

なんだかお客さんたちが寝だしたのだ。

 

体を揺らして明らかに映画に飽きていたのだ。

そしてほとんどお客さんが寝てしまっていた。

 

私はショックだった。死に物狂いで真冬の聖蹟桜ケ丘を走り回り、自分のありのままが詰まった自主映画は誰の心にも届かなかったのだ。

 

今ならわかる。それは自分の独りよがりに過ぎなかったのだと。

カメラも全て自分でやり、脚本も全て自分が作り、編集も自分で全てやった。

捨てるべきシーンもここは自分にとって大切にしたい場所だからと言って、あえて詰め込んだのだ。

見直してみると無駄なシーンばかりで退屈されるような映画になっていた。

 

私は当時、結構落ち込んでいたと思う。

自分のありのままを表現しても誰も見向きもしてくれない。

どうしたら自分をもっと吐き出せるんだ。

 

そんなことを思っていた。

 

就活の時も、ありのままということがネックになっていた。

自分と企業との相性でほぼ決まる就活は、よく恋愛に似ていると言われている。

ほとんど相性がいい企業とめぐり合えるかどうかなのだ。

 

面接官も数多くの就活生を見ているため、能力や学歴以上にその人の体から発せられる雰囲気や言葉遣いで内定を出すか出さないかを決めている。

 

なんとなくこの人は仕事できそう。なんとなくこの人は会社の社風に合わなそう。

など、日本の就活は全てがなんとなくで決まって、よくわからない物になっている。

 

就活アドバイザーの人はよくこう言っていた。

「面接の場では話を盛らないでください。ありのままに喋って、相性がいい企業に入れた方が入社してからのミスマッチが減ります!」

 

私もありのままの気持ちで面接に挑んでみることにした。

「私は自主映画を作っていました。多くの人と関わりながら映画を作ることは〜」

などとありのままに自分がしてきたこと、自分が考えていることを企業の面接官にぶつけていった。

自分を演じずに、ありのままを話していった。

 

すると結果は……

 

 

ほぼ全て落ちた。

 

ありのままの気持ちをぶつけた方がいいって言ったじゃん。

素直な気持ちで、面接官に話した方がいいって言ったじゃん。

 

私は社会から必要とされてないような気がして相当就活には苦しんでいたと思う。

日本社会に蔓延る「ありのままでいよう」「ありのままの自分でいよう」という風潮に私はうんざりし始めていた。

 

しかし、ありのままで生きるためにフリーランスノマドワーカーといった自由を謳歌できる仕事に就く自信はなかった。社会人経験が極端になく、空っぽな自分には、そう言った世界に飛び込んでいく勇気がなかったのだ

 

私はずっとありのままの自分とは何なのか?

ありのままで生きるって何なのか? と考えていたと思う。

 

ライティングの魅力に気づき、こうして文章を書くようになっても常にありのままということが意識にあった。

ありのままの自分がこもった記事の方がバズるのか?

あるがままの記事の方が人に思いが伝わるのか?

そんなことを気にして書いていたと思う。

 

しかし、ある時気付いた。

ありのままでなく、ある程度自分を演じるということは相手への優しさになっているのかもしれないのだと……

 

私は2017年はとにかく書くということを大切にしようと、毎日記事をワードにまとめて書いていた。人に見せるのは恥ずかしいので、パソコンのフォルダに書いた記事を保存していったのだ。

しかし、人に見せることを前提に書いていないので、どんどん自分の殻にこもったものを書くようになり、書くのが苦しくなった時期もあった。

 

自分を掘り下げていったも空っぽな自分に気づき、虚しくなるだけだ。

私は書くこと自体が苦しくなってきた。

 

このままではダメだと思い、こうしてブログに書いて無理やり人前に見せるようにしていったのだが……

 

人に見せることを前提にして記事を書いていくと、不思議と書くことが楽になったのだ。書くのが楽しくなったのだ。

 

ここはこうした方が読みやすいかな?

このタイトルはインパクトあるかな?

 

など常に読む人の目線に立って、書くようにしたら楽しくなったのだ。

 

あるがままに生きられず生きづらさを感じていた自分は、常に自分のことしか考えていなかったのかもしれない。

ありのままの自分で居られる場所を求めていたのだ。

 

しかし、世の中自分の思い通りになることなんてほとんど無い。

 

あるがままに生きようとするのではなく、相手のことを思って何をするか?

ということが一番大切なのだと思う。

 

常に相手をどう楽しませたいかを考える。

相手の視線に立って考えていくと、自分が抱えていた生きづらさがなくなるのだ。

 

私はライティングを通じて、ようやくそのことに気づけた。

 

 

あるがままで生きようとするから、自分を傷つけてしまうのだ。

自分を傷つけないようにするためにも、他者への思いやりというものが大切なのかもしれない。

それが、私たちゆとり世代の人間が最も大切にすべきことなんじゃないかと最近は思うのだ。