ADをやりながら狂ったように書評を書いていると、「かくかくしかじか」の東村アキコが漫画家として売れた理由もわかった
「村上隆から記事がシェアされているよ」
つい最近、このような連絡が私のところに来た。
私は驚いた。
村上隆? あの世界的なアーティストの人か?
どうやら私が昔書いた村上隆さんの本についての書評記事が本人の目に留まり、記事をシェアしてくれていたようだ。
世界的なアーティストが記事をシェアしたので、PV数は急速に伸びていた。
村上隆さん曰く、記事に載っている美女の姿に惚れて、シェアしてくれていたようだが……
私はそれでも嬉しかった。少しでも世界的なアーティストの目に私が書いた記事が目に留まってくれただけで嬉しかったのだ。
記事には村上隆さんの本を持った美女が写っているが、本人はその写真を見て
「モテキが来た!!!!」と喜んでいるようだった。
私は笑ってしまったが、それでも嬉しかったのだ。
あの頃、暗闇の中でもがいていた自分が救われたかのように思えたのだ。
度重なる残業の中、貴重な睡眠時間を削ってまで書いていた記事が巡るにめぐって
私はその記事を書いていた頃のことを思い出していた。
ADをやりながら死に物狂いで記事を書いていたあの頃を……
私が新卒で入った会社はとあるテレビ番組制作会社だった。
子供の頃から映画が好きで、大学時代は映画ばかりを見て、自主映画を作りまくっていた。
7本の自主映画を作った。その中には約4ヶ月以上かけた70分の長編映画もあった。
映画を作るのは自主映画制作でもとても大変だった。
撮影スタッフだけで、カメラ、照明、音声、編集と少なくとも5人以上集めなければならない。それに加え、役者やエキストラの数を含めたらどんなに短い映画でも10人以上の協力が欠かせない。
私は映画作りがたまらなく好きだったのだと思う。
多くの人と関わりながら自分の頭の中にあるイメージを形にしていくのがたまらなく
好きだったのだ。
人とのコミュニケーションが苦手だった私だが、映画を作っている時だけはきちんと人と接せられた。映画を作らないと溺れて死んでしまうんじゃないかというくらい、映画の世界にのめり込んでいったのだ。
大学時代、授業をサボっては図書館にこもって映画ばかりを見ていた。
年間350本以上の映画を見ていたと思う。
今思うと、だいぶ気持ち悪い。
一介の映画人になったかのように映画を見て、人々を魅了するコンテンツについて研究していったのだ。図書館にこもり、脚本についての本を読み漁っては、破綻した脚本ばかりを書いて、友達に反応をうかがっていたのだ。
ものを作る人でいたい。
私はその思うようになっていた。
しかし、就職活動の時期になると、私は社会の荒波に巻き込まれ、何がしたいのかわからなくなってしまった。
今までずっと飲んで遊んでばかりいた人たちが、いきなりスーツを着て敬語を喋りだすようになるのだ。日本の就活に嫌悪感を抱くとともに、私は流れに巻き込まれるかのようにして就活をすることにした。
ノマドワーカーやフリーランスといった自由に働ける仕事に就こう! という風潮があったが、何も持ってない私がフリーランスとして食っていける自信がなかったのだ。
どこに向かえばいいのかわからず、仕方なく就活していたと思う。
学生時代に死ぬほど映像制作をしていたので、そっちの分野の会社も受けてみた。
テレビ局から広告代理店、映画会社までマスコミ関連の企業を30社以上受けまくった。
ほぼ全て落ちた。
なぜだ! なんで自分は落ちるんだ。
大学時代は誰よりも努力していたつもりだった。
誰よりも映画を見て、人を魅了する脚本構造やコンテンツについて勉強していたつもりだった。
しかし、そんな知識は大手の映画会社は求めていなかった。
大学の同級生は次々と大手企業に就職していった。
なんであいつらは受かって、私は落ちるのか?
そのことで随分悩んだ。
選ばれる人と選ばれない人との違いは何なのだろうか?
私は結局、たまたま受けたテレビ制作会社に内定をいただき、就活を終えることはできた。
しかし、釈然としない自分がいた。
このままでいいのかと思い悩んだ。
結局、社会のレールに乗っかり、私は就職することにした。
自分が入ったテレビ業界は思った以上に過酷な世界だった。
度重なる残業、深夜まで続くテープの編集作業に私の精神はおかしくなっていた。
こんなはずじゃなかった。そう思えて仕方がなかった。
会社の窓から見える六本木ヒルズを眺めては、あそこで働いている人たちのことを想像していた。ヒルズで働いている人は選ばれた人たちなのだ。
きっと彼らの年収は1000万を超えているだろう。
それに比べ、選ばれなかった私はこうして深夜まで続く残業に耐えながら、
地べたに寝そべっているのだ。床で寝るしかないのだ。
私は深夜、光り輝く六本木ヒルズを見ているうちに悲しくなってしまった。
なぜ、自分は選ばれなかったのか……
あの時、面接官に「君面白いね!」と気に入られれば、テレビ局やら映画会社に入って、楽しくバリバリ仕事をしていたのかもしれない。そういう人生が待っていたのかもしれない。
そう思い、やりきれない気持ちでいっぱいだった。
その頃、私は一寸の光を求めるかのように書評記事を書いていた。
大学時代からインタビュー記事の執筆などを友人に頼まれ、書いたことはあった。
書評メディアを新しく作るからライターとしてものを書いてくれと頼まれたのだ。
私は学生時代にも書いてはいたが、社会人になってからも「本の書評記事を書きたい」と編集長に頼んで書かせてもらうことにしたのだ。
書くといっても時間は本当になかった。
平均睡眠時間は30分くらいの時もあった。4日家に帰れなかった。
人間しっかりと睡眠時間が取れないと頭がおかしくなるものだ。
常に立ちくらみがして、私の体重は2ヶ月で8キロも減少していた。
それでも私は貴重な睡眠時間を削り、毎日寝る前の10分を使って記事を書いていった。
本は始発の電車の中で読んでいた。眠気に耐えながら本をかじるように読んでいたのを覚えている。
書かなきゃ!
そう思っていたのだ。
ほとんど寝ながら書いていたかもしれない。
それでも書かなきゃ! と思ったのだ。
何かにとりつかれたかのように私は記事を書いていたのだと思う。
気が狂うようにしてものを書いていた。
その時書いていたのが、村上隆の本についての書評記事だった。
切羽詰った状況の中、名もなきADが書いた文章が世界的なアーティストの目に触れた。私はそのことがとても嬉しかった。
それと同時に私はなぜ、あの時書いた記事が本人の目まで届いたのか不思議だった。
私は結局、会社を辞める決断をしてしまった。今になってADをやっていた頃に寝る間を惜しんで書いていた記事を見直すと、なぜこれがバズったのかよくわからなかった。
当時はライティングの勉強もしていなく、文の構成も無茶苦茶なのだ。
なぜ、あの時書いた記事はバズって本人のところに届いたのだろう?
その答えが最近「かくかくしかじか」という漫画を読んでわかった。
「とにかく書け!」
と私のライティングの師匠のような人からこう言われた。
毎日2000字の記事は書こうと決めて、2017年になってから毎日書き続けていたのだが、どうしてもネタのストックが足りず、書き続けるのがつらくなってしまった
時期があった。
書けないという悩みを師匠に相談してみたら
「書く量が足りてないから書けないんだ。倍の量を書け! 自分は20代の時、1日に1万6千字を書いていたよ」
と言われた。
1万6千字……
原稿用紙40枚分だ……
師匠の凄さに圧倒されると同時にもっと書かなきゃと私は思ったのだった。
その頃に東村アキコの「かくかくしかじか」という漫画を私は読んだ。
東村アキコの漫画はよくドラマや映画にもなっている。
売れっ子作家の一人だ。
そんな東村アキコが10代の頃に出会った絵の師匠の「先生」との交流を描いたのが
「かくかくしかじか」という漫画だった。
先生はジャージを着て、竹刀片手に絵画教室にくる生徒をビシバシ叩いていたという。
東村アキコ曰く、全くの実話だという。
絵の先生なのにジャージ着て竹刀を持って特訓されたという。
絵が描ける人間を育てるという先生の熱意が届いたのか、弟子の東村アキコはあっという間に売れっ子漫画家の一人になった。
しかし、すぐにデビューできたわけではなかった。
24歳までずっとOLをしていたのだ。
毎日、会社にかかってくる電話を取っていると
「なんで私はこんなところにいるんだ! 漫画家になるんじゃなかったのか!」
と思うようになり、深夜まで一人家で黙々と漫画を描くようになったのだ。
「パッションで描け!!!!」
と定規も引かずに漫画を書きまくったらしい。
それが編集者の目に留まり、漫画家としてデビューすることになったのだ。
私もテレビ制作会社で働いていた時はパッションで書いたのかもしれない。
人間切羽詰った状況に追い込まれると異様な「熱意」が発生するものだ。
私はあの頃「熱意」を込めて記事を書いていたのか……
それが巡るにめぐって村上隆本人の元に届いたのだ。
東村アキコも、もし美術大学を卒業して、普通のOLをやらなかったら漫画家になることもなかったのかもしれない。極限状態に追い込まれず、何も行動をしなかったのかもしれない。
極限状態に追い込まれて初めて漫画を描くようになったのだ。
私もADをやりながら狂ったように記事を書いていた頃の感じを忘れてはいけないのだと思う。
あの頃はただの地獄だった。暗闇の中をもがき苦しみながら歩いていた。
だけど、今思い返すとその時の経験が今の自分を作っているのだ。
私はこれからも書き続けるつもりだ。
「かくかくしかじか」のような物語を作れるようになるまで。