ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

一本のポルノ映画が、ハリウッドの歴史を変えたのを知っているだろうか?

 

「俺はハリウッドで成功してみせる」

そう母親に宣言して当時18歳だった青年は家を飛び出した。

 

「あんたは落ちこぼれよ。どこにいったてクズよ。出て行け!」

そう彼の母親は言った。

 

彼は泣いていた。

 

悔しくて、悔しくて。

 

彼に残された道はロサンゼルスのハリウッドに行くしかなかった。

父親は業界でも有名な映画評論家だった。

結局、父親のつてでクイズ番組の下働きのスタッフという食い扶持を見つける。

 

 

連日、徹夜でこき使われた。

興味もないクイズ番組のスタッフとして、かんぺを用意したり、出演していた10歳

年下の小学生に馬鹿にされたりした。

 

悔しかった。

 

しかし、彼は夜、家に閉じこもってシナリオを書き続けていた。

ずっとあるものを題材にしたシナリオを書き続けていたのだ。

 

それは一本のポルノ映画だった。

 

 

彼が生まれ育ったのはハリウッドのサンフェルナンドと言う町の近くで、そこは昔からポルノ映画の撮影が合法化され、ポルノ産業が盛んな街だったのだ。

 

家の近所でポルノ映画を撮影している環境で育ったため、子供の頃からポルノには興味を持っていた。年頃になると、密かに映画館で上映されていたポルノ映画を見に行っていた。

 

そこで彼は度肝抜かれた。

 

人間の性や欲望、とても深い愛と言う表現していた70年代のポルノ映画は、

スターウォーズよりも彼を熱狂させたのだ。

 

ポルノと言ったら下劣なイメージが大きいが、70年代当時のポルノ映画の監督は

「人間の性を描ききる!」と意気込み、大衆向きの映画よりも芸術的で、感動的な映画が多かったのだ。

 

彼はそんなポルノ映画に興奮しては、情熱を感じていた。

ポルノで人間の欲望や愛を描ききるポルノ監督たちに尊敬の念を抱いていた。

 

いつか、自分もこんなポルノ映画を撮りたいと思っていた。

 

高校生になり、ポルノ映画ばかり見ていた彼は、自分で映画を作ってみることにした。

「ダーク・ディグラーストーリー」という、伝説の巨根ポルノ俳優を追いかけるというドキュメンタリー映画だ。

 

高校生にしてポルノ映画を撮ろうとするとは中々変わっている。

彼は熱中してそのポルノ映画を撮っていった。

ポルノ映画を撮っては、ポルノ映画を見て、研究していった。

 

しかし、両親はそんな彼の姿を認めなかった。

学校では落ちこれていて、勉強もろくにできず、家ではポルノ映画ばかり見ている息子を認めたくなかったのだ。

 

両親は彼を罵った。

父親は暴力もふるってきた。

 

結局、彼は居場所をなくし、ハリウッドにやって来た。

 

「いつか有名になってみせる!」

という誇大妄想を広げ、90年代のハリウッドにやってきたのだ。

 

そんな彼だったが24歳の時に転機を迎えた。

仕事が休みの日に作り上げた一本の短編映画が賞にノミネートされ、長編として

映画化されることになったのだ。

 

ラスベガスのカジノを舞台にした男と女のロマンを描いた映画だった。

なんとか撮影を終え、試写会を迎えた。

 

評判はイマイチだった。

 

登場人物の設定に失敗したのだ。

観客はストーリーの展開についていけず、とてもじゃないが2時間も見ていられない

映画になってしまった。

 

ハリウッドは一度でも映画がこけると、二度と監督をすることができないと言われている。

とても厳しい世界なのだ。

 

彼は落ち込んだ。

もう二度と映画が撮れないことを悟ったのだ。

 

しかし、彼にはどうしても撮りたい映画があった。

それは高校生の時に作った「ダーク・ディグラーストーリー」だった。

ポルノ映画の栄光と衰退を描ききった作品を作り上げたかったのだ。

 

彼は映画になるのかわからないまま、シナリオを書いていった。

 

彼が本当に撮りたかったのはポルノ映画だったのだ。

70年代にポルノ業界を通じて、人間の欲望と性を描いていた映像作家たちを描きたかったのだ。

 

テレビの仕事で食い扶持を確保しながら、とりつかれたようにシナリオを書いていった。ポルノの撮影現場に行って、実際のポルノ女優にインタビューもした。

ポルノ監督に会い、撮影技法について学んだ。

 

現場の人たちは「君は普段何をしている?」と聞かれたら

「映画監督をしていて、ポルノについての題材を映画化しようとしている」

と嘘を答えていた。

 

「映画監督だって! ならあのポルノ女優も紹介してやる」

と次々と、ポルノの世界で人脈ができてきた。

 

半年かけて一本のシナリオが完成した。

70年代から80年代にかけてのポルノ業界の栄光と衰退を描いた長編大作だ。

 

業界の人にシナリオを見せて回った。

とある映画会社の社長に会った時は彼はこう言われた。

「君はいくつだね?」

 

「27です」

 

「その歳でこんなシナリオを書いたのか!」

 

彼が書いたシナリオは最高傑作だった。

10人以上出てくる登場人物を全てコントロールし、70年代のポップカルチャーをつぎ込んだ完璧なシナリオだったのだ。

 

すぐに映画会社の人から監督の依頼が来た。

 

ニューラインシネマという老舗の映画会社だった。

プロデューサーは「若いやつだが、こいつに監督させたい。あまりにもポルノについて調べ尽くされている。完璧なシナリオだ!」と言って周囲を説得していった。

 

しかし、主演俳優を決めるのは大変だった。

ポルノを舞台にした映画に出演するとイメージが崩れると危惧されたのだ。

彼は必死になって、自分のポルノ映画に出演してくれる役者を探した。

 

そんな中、ある青年に白羽の矢が刺さった。

当時、でっかい船が沈没する映画の撮影中だったレオナルド・ディカプリオだった。

 

ディカプリオはシナリオを読んだ段階で、

「こんな面白いシナリオは読んだことない! ぜひ、俺に巨根ポルノ俳優の役をやらせてくれ」

と映画会社に頼んできた。

 

彼は驚いた。

当時、20代そこそこだったレオナルド・ディカプリのハングリー精神に驚いたのだ。

 

しかし、ディカプリオを主演にして映画は撮影されることはなかった。

でっかい船が沈没する映画の撮影が難航して、スケジュールが合わなかったのだ。

 

そんな時に、マーク・ウォールバーグという当時、下着モデルをしていた青年と出会った。

 

彼はマークを見た瞬間、「ダーク・ディグラーはこいつだ!」と直感した。

伝説の巨根ポルノ俳優の役ができるのはこいつだと。

 

マークはシナリオを読み、大変気に入り、出演をオーケーしてもらえた。

 

その頃になると、彼が書いたシナリオが業界を出回り、噂が立っていた。

とんでもなく面白いシナリオがあると。

 

ポルノ映画に出演するというリスクがあるにもかかわらず、彼の元には次々と人が集まってきた。

 

ジュリア・ムーアやウィリアム・H・メイシードン・チードルフィリップ・シーモア・ホフマンといった、その後、アカデミー賞にノミネートされるクラスの俳優が次々と集まっていった。

 

彼は必死になって映画を監督していった。

ポルノについての題材なので、施設の撮影許可を取ることは難しかった。

しかし、めげずに映画を撮影し続けた。

 

リスクを背負ってまで、自分が撮りたいポルノ映画に出演してもらえた役者たちの熱意に応えたかったのだ。

 

映画が完成し、試写会をひらくと、周囲はざわついた。

 

とんでもなく面白かったのだ。

 

明らかに最高傑作だった。

 

ニューラインシネマの社長は、

「ユニバーサルのジュラシック・パークにはこのポルノ映画で対抗する!」

とまで言い始め、公開時期をユニバーサルと被らせようとした。

 

「勝てるわかないだろ!」

と彼は思ったが、鼻高々だった。

周囲がやっと自分のことを認めてくれたのだ。

 

落ちこぼれと呼ばれていた青年が、ポルノの世界に入り込み、スターになっていく

ダーク・ディグラーの物語は彼自身のことを反映させていたのかもしれない。

 

彼は父親と長い間疎遠だった。

しかし、この映画を通じて両親と仲直りしたかったのかもしれない。

 

97年に映画が公開され、業界人たちを中心に話題をさらった。

 

「ハリウッドに天才児が現れたぞ」と。

 

当時27歳だった彼にハリウッドは度肝を抜かれたのだ。

 

彼が作り上げたのは「ブギーナイツ」という映画は90年代のハリウッドを変えたと言われている。

そこから何人もアカデミー賞クラスの役者が出てきた。

 

たとえ、ポルノでも好きなものを貫き通した彼は、競争が激しいハリウッドに勝ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

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この物語は5%の創作と95%の実話である。